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2014/07/03

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 34 尾花沢 Ⅰ 涼しさを我宿にしてねまる也

本日二〇一四年七月 三日(陰暦では二〇一四年六月七日)

   元禄二年五月十七日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年七月 三日

である。この日、芭蕉は尾花沢に着き、土地の豪商で紅花問屋であった鈴木清風(島田屋)の饗応を受け、五月二十七日(グレゴリオ暦七月十三日)に山寺へ発つまで、十泊して英気を養った。

 

涼しさを我宿(わがやど)にしてねまる也

 

[やぶちゃん注:紅花の収穫期に当たったため、清風は芭蕉と曾良の宿所として村外れの閑静な天台宗の弘誓山(ぐせいざん)養泉寺をそれに当てた。句自体は五月二十一日と二十三日の両日の清風宅で行われた饗応の席の孰れかで巻かれた歌仙「すゞしさを」の巻の発句で、

 

すゞしさを我がやどにしてねまる也      芭蕉

   つねのかやりに草の葉を燒(たく)   淸風

 

なお、別に清風を発句とする歌仙「おきふしの」の巻も巻かれており、そこでは

 

おきふしの麻にあらはす小家かな       淸風

   狗ほえかゝるゆふたちの蓑       芭蕉

と芭蕉が脇を付けている。

 事実としては清風宅へ招待されて通されたまさに清風、涼風(すずかぜ)吹く座敷での寛ぎを詠じた事実に基づく挨拶句(「曾良随行日記」によれば初日の五月十七日とこの両日は清風宅に泊まってはいる)乍ら、寧ろ心尽くしで既に提供されてある養泉寺で、義経・西行所縁の一つの目標点であり、しかも最北到達点でもあった平泉の嘱目を終え、長く困難であった仙台以降の旅の疲れが、この静謐な尾花沢の山寺ですっかり癒されたことを言祝ぐ一種の祝祭の意を底に含む句のように私は詠む。ここに必要なのは立派な座敷ではなく、無人の板敷の寺の本堂であり、そこの「涼しさ」の中に独り心地よさそうに文字通り「ねまる」芭蕉の姿を見てこそ句の真意は知れるというものだ。私のこの句から受けるイメージは以下のような諸家の読み解く標準レンズの構図には一向に収まりきらない(以下のような解釈だけならば、解釈の必要がない。「奥の細道」の前書本文がそう述べてしまっているではないか)のである。

「ねまる」寛いで休む。無論、他にも寝る・臥すの意も持つ。安東次男や山本健吉はこれを訪問の折りに清風若しくはその家人が用いた芭蕉への労いの言葉であったと捉え(山本は「ねまる」を『うちくつろいで坐ることの出羽方言』とする)、それを『当意即妙に』(山本)『裁ち入れて返したところに俳諧がある』とする。

 以下に「尾花沢の段」を総て示しておく。

   *

尾花沢にて淸風と云ものを尋ぬ

かれは冨るものなれとも心さしさす

かにいやしからす都にも折々かよひて

旅の情をもしりたれは日比とゝめて

長途のいたはりさまさまともてなし侍る

  涼しさを我宿にしてねまる也

  這出よかひやか下のひきのこゑ

  まゆはきを俤にして紅粉の花

  子飼する人は古代のすかた哉  曾良

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇かれは冨るものなれども、心ざしさすがにいやしからず

 ↓

●かれは富るものなれども、志いやしからず

 

○都にも折々かよひて、旅の情をもしりたれば

 ↓

●都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば

[やぶちゃん注:個人的にこの「さすがに」の改稿はまさに文章の彫琢を知る者にのみに出来る推敲であるという気がする。

■やぶちゃんの呟き

 残りの句は以下、尾花沢滞在に合わせてゆるゆると分割して掲げようと思う。因みに「まゆはきを俤にして紅粉の花」は尾花沢ではなく、立石寺へ赴く途次の紅花に触発された艶なる吟である。ゆっくらと参ろう――「奥の細道」の旅は、急いては、孤高の詩人の心を、遂に見逃すこととなる――

「子飼する人は古代のすがた哉」この曾良の句はここでの嘱目吟ではない。「曾良俳諧書留」の高久宿の「時鳥」の句の後、須賀川の相楽等躬宅での歌仙「風流や」の前の部分に、

落くるやたかくの宿(しゆく)の時鳥   翁

木の間をのぞく短夜の雨   曾良

    元祿二年孟夏


蠶する姿に残る古代哉          曾良


  奥州岩瀨郡之内須か川

    相樂伊左衞門ニテ

風流の初やおくの田植歌         翁[やぶちゃん注:以下略。]

という酷似した句形で出るからで、実際には白河前後の嘱目吟と推定される。先の芭蕉の「這出よかひやか下のひきのこゑ」が「万葉集」の「巻十 秋相聞」にある作者未詳の第二二六五番歌、

 朝霞(あさがすみ)鹿火屋(かひや)が下に鳴く河蝦(かはづ)聲だに聞かばわれ戀ひめやも

や、同「巻十六 由縁ある雑歌」にある河村王(かわむらのおおきみ:伝未詳。)の第三八一八番歌、

 朝霞鹿火屋が下の鳴く川津(かはづ)偲ひつつありと告げむ兒(こ)もがも

に基づくもので(詳細は後掲)、そのインスパイアされた時代を遙かに遡った実景を、さらに読者の眼前に重ねさせるために、この時代詠染みた句が敢えてここに配されたものと見てよい。]

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