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2014/08/31

耳嚢 巻之八 不思議に失ひし子に逢ふ事

 不思議に失ひし子に逢ふ事

 

 文化四年八月十五日、深川八幡祭禮の節、人群集(ぐんじゆ)し大勢永代橋落(おち)て落入(おちいり)し事あり。或る町人の妻娘、並(ならび)に四五才の男の子を連れて祭見物に出(いで)しに、橋落て三人とも水中に落入り行衞不知(しれず)。夫(をつと)並(ならびに)親族どもも手を分(わけ)て所々尋(たづね)しに、妻娘の死骸は出て引取(ひきとり)しが、幼年の男子は死骸も不出(いでず)。海上へも流れ出けるやと、夫は大(おほい)に歎きけれど甲斐なし。然るにあくる五年の夏、右の男子存在にて廻(めぐ)り合(あひ)しとかや。其譯を尋(たづぬ)るに、右大變の折から、神奈川邊の押送(おしおく)り船(ぶね)にて、幼年者流れ來りしを見て取上(とりあげ)、いろいろ養生して息出けれど、いづ方のものにや父母の名もしらず。事靜りて永代最寄へ來りて、かくかくの事にて去年子供を水中より拾ひ上げしが、若(も)し尋る人もありやと、あちこち江戸へ出る度毎(たびごと)に尋しに、夫(それ)と差事(さすこと)もなければ知るべきやうなかりしに、四月のころ彼(かの)男買出し物に出て茶やに休(やす)らいし折柄、神奈川のおし送り船もつきて、かくかくの子を尋る人やなしと、又々居合(ゐあひ)し者へ尋しに、折節彼(かの)親居合て、我等忰(せがれ)其年頃にて去年永代落(おち)し時より行衞不知、もしや御咄しの男子、其(その)者にや、何卒對面致度(たし)と申けるゆゑ、神奈川へ右親まかりしや、又神奈川より連れ來りしや、右の子を見せけるに、まがふ所なければ、親はさらなり、神奈川の者も大きに悦びけるとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。

・「文化四年八月十五日、深川八幡祭禮の節」「卷之八」の執筆推定下限文化五(一八〇八)年夏の丁度一年前の事故から、執筆時の頃になって意外な展開を見せた出来たてほやほやの都市伝説、というか、これは事実ととってよかろう。「深川八幡」は東京都江東区富岡にある富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)の別名であるが、こちらの方が通りがよい。建久年間(一一九〇年~一一九八年)に源頼朝が現在の横浜市金沢区富岡に勧請した富岡八幡宮の直系分社。大相撲発祥の地として知られる。寛永4(一六二四)年に長盛法師が神託により砂州であった当地を干拓、永代島に八幡宮を建立したことが創建とされるが、横浜市の富岡八幡宮の明治二六(一八九三)年の八幡宮明細帳によれば、江戸初期に行なわれた深川の干拓が難航したため、波除八幡の異名をもつ富岡八幡宮を分霊したとの記録が残るという。創建当時は「永代八幡」と呼ばれ、砂州の埋め立てにより六万五百八坪に及ぶ広大な社有地があった。八幡大神を尊崇した徳川将軍家の比護を受け、庶民にも「深川の八幡さま」として親しまれた。広く美麗な庭園は人気の名所であったという。当社の周囲には門前町(現在の門前仲町)が形成され、干拓地が沖合いに延びるにつれて商業地としても重要視された(以上はウィキの「富岡八幡宮」に拠った)。なお、この日付は通常の深川八幡例祭日付としては正しいが、この年の例祭当日、即ち永代橋崩落の起った日付としては誤りである。岩波版長谷川氏注によれば、『この文化四年は雨天のため、十五日が十九日にのびた』とあるからである。現代語訳では正しい日付に訂した。

・「永代橋」深川八幡の西北西一・一キロメートルほどの位置にある隅田川に架かる橋。現在は東京都道・千葉県道十号東京浦安線(永代通り)が通る。西岸は中央区新川一丁目、東岸は江東区佐賀一丁目及び同区永代一丁目。参照したウィキの「永代橋」によると、『永代橋が架橋されたのは、元禄一一(一六九八)年八月で、第五代将軍徳川綱吉五十歳の賀慶として、現在位置よりも約百メートルほど上流の「大渡し」(深川の渡し)のあった所に、隅田川で四番目に架橋された。『「永代橋」という名称は当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたからという説と、徳川幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説(「永代島」は「永代橋」から採られたとする)がある』。『架橋を行ったのは関東郡代の伊奈忠順。上野寛永寺根本中堂造営の際の余材を使ったとされ』、長さ一一〇間(約二〇〇メートル)、幅三間余(約六メートル)で、ここは『隅田川で最も下流で、江戸湊の外港に近く船手番所が近くにあり、多数の廻船が通過するために橋脚は満潮時でも』三メートル以上残り、『当時としては最大規模の大橋であった。橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったと記録(『武江図説』)に残る』。元禄一五(一七〇二)年十二月の『赤穂浪士の吉良上野介屋敷(所在地は現墨田区両国)への討ち入りでは、討ち入り後に上野介の首を掲げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向ったという』。ところが、財政が窮地に立った享保四(一七一九)年、『幕府は永代橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に存続を許された。通行料を取り、また橋詰にて市場を開くなどして維持に務めたが』、文化四年八月十九日(グレゴリオ暦一八〇七年九月二十日)、深川富岡八幡宮の十二年ぶりの祭礼日(調べてみると現在の当社の例大祭も三年に一度で、恐らく当時は非常に金のかかる大祭はこれだけのスパンをおいて行われていたものらしい)に『詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、落橋事故を起こ』した。『橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち』(岩波版長谷川氏注には『真中より深川よりの所三間ほど崩れ落ち』とある。深川寄りは右岸、三間は、凡そ三メートル半)、『後ろから群衆が次々と押し寄せては転落し、死者・行方不明者は実に』千四百人を超え、『史上最悪の落橋事故と言われている。この事故について大田南畝が、下記の狂歌や「夢の憂橋」を著している』。

 永代と かけたる橋は 落ちにけり けふは祭禮 あすは葬禮

『なお古典落語の「永代橋」という噺も、この落橋事故を元にしている。南町奉行組同心の渡辺小佐衛門が、刀を振るって群集を制止させたという逸話も残っている。曲亭馬琴は「兎園小説」に「前に進みしものの、橋おちたりと叫ぶをもきかで、せんかたなかりしに、一個の武士あり、刀を引抜きてさし上げつつうち振りしかば、人みなおそれてやうやく後へ戻りしとぞ」と書いている』。『事故後、橋の維持の重要性に気づいた幕府により再架橋されるが、維新を迎えるころには相当痛んでいたようで』、明治三〇(一八九七)年に道路橋としては日本初の鉄橋として鋼鉄製トラス橋が現在の位置に架橋された。明治三十七年には『東京市電による路面電車も敷設された』が、『橋底には木材を使用していたため、関東大震災の時には多数の避難民とともに炎上し、多くの焼死者、溺死者を出した。その後』、大正一五(一九二六)年、『震災復興事業の第一号として現在の橋が再架橋された』。『「震災復興事業の華」と謳われた清洲橋に対して、「帝都東京の門」と言われたこの橋は』、ドイツの『ライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋をモデルにし、現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長』百メートルを超えた橋でもあった、とある。

・「押送り船」帆をあまり使わずに数人で櫓を漕いで進める船。特に獲れた魚類を魚市場に運んでいた沿岸や河川用の早船を指す。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 不思議に失踪した子に再会した事

 

 昨年、文化四年八月十九日――この年は大雨で十五日に行われるはずで御座った十二年ぶりの例大祭が十九日に延期となっておった――その深川八幡の祭礼の折り、祭りに集まったる人の、これ、驚くべき群集となって、深川周辺は身動きもままならぬほどに、ごった返し、その大勢が永代橋に乗り掛かったところが、重みに耐えかね、橋が崩落致いて、折から前日までの雨で増水しておった隅田川へと、人々悉く皆、落ち入る、という大惨事が御座った。

 この時、ある町人の妻が娘と四、五才になる小さな男の子を連れ、祭見物に出でて御座ったところが、この橋の崩落に巻き込まれて、三人ともに川中へと落ち入って、そのま行方知れずと相い成った。

 夫並びに親族の者ども、手分けして、所々を尋ねてみたところが、ほどのぅ、妻と娘の死骸は見出だされ、引き取って丁重に葬ったものの、幼年の男の子は、これ、一向に死骸も見出されなんだ。

 沖の方へでも流され出でてしもうたものかと、夫は大いに嘆いたけれども、これ最早、甲斐なく、そのままに時日が流れ過ぎた。

 然るに、惨事より一年も経った、あくる五年の夏、この男の子が、これ、五体満足、存命にて、遂に廻り逢(お)うことが出来たとか申すので御座る。

 その仔細を訊ねたところ――

――かの大災厄の折りから、神奈川辺りを生業(なりわい)と致いておる押し送り舟の水主(かこ)が、幼年の者が舟の近くへ流れ来ったを見出だし、即座に引き上げると、いろいろ介抱致いた。すると暫くして息を吹き返したによって、一体、どこの者なるか、父母の名を質いてみても、ただ、

「……おとったん……おっかたん……」

とたどたどしい口つきで、名もろくに言えぬ。

 この子(こお)が何とか平常を取り戻し、永代橋の崩落の始末も一(ひと)段落した頃を見計らって、旧永代橋の最寄へと参り、

「……かくかくの事のことにて……去年、子(こお)を水中より拾い上げたが、もし! 何方か子(こお)を訊ねておるお人は御座らぬか!?」

と、かの地を中心に、あちこちと、江戸へ出る度毎(たびごと)に訊ねて回って御座ったが、そもそもが、この子(こお)が誰某(だれそれ)と姓だけでもそれと名差して呉れればまだしも、半年近く経っても、未だに、

「……おとったん……おっかたん……」

としか言わねば、これ、知ろうにも知る術がないので御座った。

 ところが、今年元禄五年の四月頃のこと、かの町人、買い出しに出でて、河岸(かし)近くの茶屋に一服して休んで御座ったところ、例の神奈川の押し送り船が丁度、着き、かの水主が、

「……かくかくの子を訊ねておるお人は御座らぬか!?」

と何時もの通り、そこに居合わせた者どもへ訊ねて呼ばわる声が響いた。

 折りから居合わせ、茶屋の縁台にあったかの親の男、

「……我らが倅(せがれ)……今、仰せられたその年頃の者にて御座って……去年、永代橋が落ちた時より行方知れずとなっておりまする!……もしや!……お咄しのその子(こお)は……わ、私の息子では御座いますまいか?!……何卒! 対面致したく存じまするッ!……」

と枯れ声にまでなって叫んだによって――神奈川へまでその親が参ったものか、はたまた、神奈川より水主が男の元へと子(こお)を連れ参ったものかは聴きそびれたが――かの水から引き上げ救うた子(こお)を男に見せたところが――紛う方なく――かの男の倅で御座ったによって――親はもとより、神奈川の水主も、また大きに悦び合った、とのことで御座る。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 三艘浦

    ●三艘浦

三艘浦は。六浦(むつうら)の南三艘村に在り。永祿九年の春支那船(しなせん)三艘(さんそう)。此浦に著せしより名く。當時載せ來りし一切經及ひ靑磁の香爐花瓶等は。稱名等に所藏せるよし。鎌倉志に見えたり此浦の東村は即ち瀨崎(せさき)なり。

[やぶちゃん注:「三艘浦」は現在の京浜急行逗子線六浦駅の東北直近にあった。「新編鎌倉志卷之八」には以下のように出る。

   *

〇三艘浦〔附瀨ヶ崎〕 三艘浦(さんぞうがうら)は、六浦の南向ひの村なり。昔し唐船三艘此所に着く。故に名くとなり。其時に載せ來りしとて一切經・靑磁の花瓶・香爐等、稱名寺にあり。此東の村を瀨崎(せがさき)と云ふ。

   *

なお、この時、この船には猫が積まれており、それがこの地で繁殖、「金沢の唐猫」として名産となったという。「鎌倉攬勝考卷之十一附録」で「金澤」の「産物」の掉尾に、以下のように掲げる。

   *

唐猫 往古唐船、三艘が浦へ着岸せし時、船中に乘來り、其時の猫を此地に残し置たるより、種類蕃息し、家々にありといえども、形の異なるものも見へず。されど古くいひ傳え、【梅花無盡藏】にも、此事をかけり。里人に尋るに、本邦の猫は、背を撫る時は、自然と頭より始て、背を高くするものなるに、唐猫の種類は、撫るに隨ひて背を低くするなり。是のみ外に違ふ處なく、皆前足より跡足長く、其飛こと早く、毛色は虎文、または黑白の斑文なるもの多く、尾は唐猫は短きもの多しといふ。

   *

現在の哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目食肉(ネコ)目ネコ亜目ネコ科ネコ属ヤマネコ種イエネコ亜種イエネコ Felis silvestris catus はリビアヤマネコ Felis silvestris lybica を原種として五世紀頃に仏教の伝来とともにインドからシルクロードを経て中国に持ち込まれたとされる。本邦への伝来は仏教の伝来に伴い、多量に船舶で運ばれる経典の鼠による咬害の防止のために、一緒に船に乗せられて来たものが最初と一般には言われるが、恐らくそれ以前に、穀物を鼠害から守る目的で渡来しているものと思われる。ネコマニスト氏の個人ブログ「猫目堂」の「称名寺」によれば、この金沢の猫については、称名寺の建立された文永四(一二六七)年、寺に収蔵する経典を載せた三艘の唐船がやってきたのだが、その船に鼠害防止のための唐猫が乗っていたという伝説があるとし、その子孫が「金沢の唐猫」となったとある。更に、「物類称呼」巻二に猫の異名の一つとして、「かな」というのが挙がっているとある。以下、「物類称呼」の当該の「猫」を以下に全文引用しておく(底本には岡島昭浩先生の「うわずら文庫」にあるPDF版吉沢義則校訂越谷吾山『諸国方言/物類称呼』を用いたが、句読点を適宜変更・追加した)。
   *

猫  ねこ ○上總の國にて、山ねこと云(これは家に飼ざるねこなり)關西東武ともに、のらねことよぶ。東國にて、ぬすびとねこ、いたりねこともいふ。
夫木集
    まくす原下はひありくのら猫のなつけかたきは妹かこゝろか 仲正
この歌人家にやしなはざる猫を詠ぜるなり。又飼猫を東國にて、とらと云。こまといひ又、かなと名づく。
[やぶちゃん字注:以下は底本では全文一字下げ。]
今按に、猫を「とら」とよぶは其形虎ににたる故に「とら」となづくる成べし。【和名】ねこま、下略して「ねこ」といふ。又「こま」とは「ねこま」の上略なり。「かな」といふ事 はむかしむさしの國金澤の文庫に、唐より書籍(しよじやく)をとりよせて納めしに、船中の鼠ふせぎにねこを乘(のせ)て來る、其猫を金澤の唐

から)ねこと稱す。金澤を略して「かな」とぞ云ならはしける。【鎌倉志】に云、金澤文庫の舊跡は稱名寺の境内阿彌陀院のうしろの切通、その前の畠文庫の跡也。北條越後守平顯時このところに文庫を建て和漢の群書を納め、儒書(じゆしよ)には黑印(こくゐん)、佛書には朱印を押(をす)と有。又【鎌倉大草紙】に武州金澤の學校は北條九代繁昌のむかし學問ありし舊跡なり、と見へたり。今も藤澤の驛わたりにて猫兒(ねこのこ)を囉(もら)ふに、其人何所(どこ)猫にてござると問へば、猫のぬし是は金澤猫なり、と答るを常語とす。 花山院御製歌に、

夫木集

    敷しまややまとにはあらぬ唐猫を君か爲にと求め出たり

又尾のみじかきを土佐國にては、かぶねこと稱す。關西にては、牛(ごん)房と呼ふ。東國にては牛房尻(ごぼうじり)といふ。【東鑑】五分尻(ごぶじり)とあり。

   *

撫でるとその所作が普通の猫と逆という判別法の下りが、如何にも面白い。因みに、現在の千光寺(先行する「專光寺」)にはこれら渡来の唐猫の供養のための猫塚が今も伝わっている。

「六浦(むつうら)」はここではかくルビがふられてある。前段では古式の「むつら」と振ってある。

 最後に「江戸名所図会」に所載する地名の由来を描いた図を示す。

Sansou

右上には「三艘(さんさう)ヶ浦の故事」(「事」は略字)と書かれている。]

飯田蛇笏 山響集 昭和十二(一九三七)年 冬 Ⅲ 季節ある帝都

 季節ある帝都

 

千代田城げに太極の冬日かな

 

[やぶちゃん注:「太極」は「たいきよく(たいきょく)」で、古代中国の宇宙観を指し、万物を構成する陰陽二つの気に分かれる以前の根元の気の謂い。南宋の朱熹は太極は天地万物の根拠の理であると考えた。千代田城跡の虚空に輝く冬日の持つ気配にそのイメージを重ねたものであろう。]

 

   三越食堂

 

餓鬼むれて食曼荼羅に鬩(せめ)ぐ冬

 

[やぶちゃん注:諷喩的で鬼趣も孕んだ蛇笏にしてはアイロニィに富んだ諧謔句である。]

 

   教會に隣接する某喫茶房 二句

 

茶房晝餐祈禱歌冬のこだませり

 

古風なる茶房の爐竈聖燭す

 

[やぶちゃん注:「爐竈」はこれで「かまど」と読ませるか。若しくは蛇笏好みの詰屈聱牙調ならば音読みして「ロサウ(ロソウ)」と読んでいるとしてもよい。]

 

餓鬼盡きず夜を雅敍園のしぐれかな

 

[やぶちゃん注:「餓鬼むれて」と同工異曲。以下も同趣向乍ら、これだけ続くと、そうしたそれこそ「天邪鬼」な作者の批判的な視線に対し、逆に生理的な不快が生ずるように思われる。]

 

   或るレストランにて 二句

 

短日の紙幣をつまむ天邪鬼(あまのじやく)

 

レストラン淫翳爐火にひらめきぬ

   無慚なる閨房

 

絹布團死は熟睡(うまい)よりさめがたき

 

[やぶちゃん注:シークエンスの設定が今一つ不詳である。実景ではなく、江戸城深閨の佳人か将軍の死の床の想像句か? 識者の御教授を乞う。]

 

かにまたの輔弼めでたき朝賀かな

 

[やぶちゃん注:しばしば武士の歩き方は武道の心得から蟹股であると聴くが、それを言ったものであろう。但し、実際の武道家は常に右手を自由にしておき、移動する際には腰を動かさずに摺り足で能のような歩みをし、振り向くのにも首や体を捩じることなく身体ごと向き直ったり、角を曲がる場合も死角を生まぬように大回りすることから生じた誤認である。]

 

曲馬小屋極北の星見えわたる

 

十字街墓窖(はかぐら)ここに冬日影

 

[やぶちゃん注:「十字街」十字路。どこのロケーションであろうか。]

 

北風(ならひ)吹く葬儀社の花白妙に

 

[やぶちゃん注:ルビの「ならひ」(ならい)は冬の寒い風のこと。特に東日本の海沿いの地方での呼称。但し、風向きは地域によって異なる。冬の季語。]

 

百貨鋪の錦繡にまで北風吹く

 

[やぶちゃん注:「錦繡」は「きんしゆう(きんしゅう)」と読み、美しい衣裳の謂い。]

 

掏摸(すり)も出て閉づ百貨鋪に北風吹く

 

[やぶちゃん注:「北風」はやはり「ならひ」と訓じていよう。]

 

朝燒す震災跡の祈禱鐘

 

[やぶちゃん注:これは恐らく現在の東京都墨田区横網の横網町公園内にある大正一二(一九二三)年九月一日に起こった関東大震災の身元不明者の遺骨を納めて死者の霊を祀る東京都慰霊堂での嘱目吟と思われる。ウィキ東京都慰霊堂によれば、この横網町公園は元陸軍被服廠があった場所で、この地にあった被服廠は大正八年に赤羽に移転、その後は公園予定地として更地にされて被服廠跡と呼ばれていたが、『関東大震災が起きると、この場所は多くの罹災者の避難場所になった。多くの家財道具が持ち込まれ、立錐の余地もないほどであったが、周囲からの火災が家財道具に燃え移り、また火災旋風が起こったため、この地だけで(推定)東京市全体の死亡者の半数以上の』三万八千人程度がここで死亡したとされる。『震災後、死亡者を慰霊し、このような災害が二度と起こらないように祈念するための慰霊堂を建てることになり、官民協力のもと、広く浄財を求められた。東京震災記念事業協会によって』昭和五(一九三〇)年九月に「震災記念堂」として創建されて東京市に寄付された。身元不明の遺骨が納骨され、昭和六(一九三一)年には「震災復興記念館」が建てられた。因みに昭和二三(一九四八)年より『東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を合祀して』、昭和二六(一九五一)年に現在の姿となった。『東京都の施設であるが、仏教各宗により祭祀されている』とある。]

 

青山(あをやま)の落月にほふ塋の冬

 

[やぶちゃん注:「塋」は墓地の意。「はか」とも読めるが、私はここは「エイ」と音読みしたい。]

 

   上野の秋

 

月に濡れて美術の秋は椎がくり

 

秋の繪師ひもじからざる羽織着ぬ

 

美術院石階の秋月盈ちぬ

 

   銀座街

 

玻璃透いて羅紗廛(らしやみせ)の護謨冬眠す

 

[やぶちゃん注:「羅紗廛」毛皮店のことか。「護謨」は「ゴム」であるが、店の両開きのドアの間にある緩衝密閉用のゴムか。定休で店を閉めているさまか。総てが私のトンデモ解釈かも知れぬ。識者の御教授を乞うものである。]

 

銀座裏雪降れる夜の鶴吊れり

 

[やぶちゃん注:鶴は何かの店の看板か。]

 

靑霧の葬花をぬらす銀座裏

 

厨帽と骨牌(かるた)と卓に地階春

 

   淺草風景

 

灯海に天は昏らみて歳の市

 

水洟や喜劇の燈影頰をそむる

 

淺草は地の金泥に寒夜かな

 

[やぶちゃん注:「金泥」は浅草寺の荘厳のそれを指すか。]

 

眼患者シネマの冬燈浴び行けり

 

寒日和シネマの深空見て飽かず

 

冬飢ゑて呪詛の食品はなやぎぬ

 

[やぶちゃん注:「呪詛」はルンペンの意識になりきった謂いか。]

 

猪啖ふ夕餐の餓鬼に湯氣の冬

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「猪啖ふ」は「ししくらふ」と読む。前に続くルンペン俳句である。]

 

靑服の娘に極寒の昴(すばる)みゆ

 

淺草や朝けに彌陀の龕燈る

 

[やぶちゃん注:「龕」は「がん」で仏龕。本来は石窟や家屋の壁面に仏像・仏具を納めるために設けられた窪みや仏壇・厨子を指す。ここは浅草寺本堂を指している。]

 

   公園風景

 

寫眞師の生活(たつき)ひそかに花八つ手


[やぶちゃん注:本「季節ある帝都」句群には、甲府の山に隠棲していた蛇笏の、非常に強い都市嫌悪――それはひいては近代文明へのそれにダイレクトに繋がる――が濃厚である。]

 

杉田久女句集 269 花衣 ⅩⅩⅩⅦ 企玖の紫池にて 八句

  企玖の紫池にて 三句ならびに五句

   豐國の企玖の池なる菱の末を

   つむとや妹が御袖ぬれけむ

        萬葉集豐前國白水郎歌

 

菱摘みし水江やいづこ嫁菜摘む

 

[やぶちゃん注:「嫁菜」を久女は「万葉集」の古称に因んで、「うはぎ」と読んでいるものかとも思われる(少なくとも坂本宮尾氏の「杉田久女」で坂本氏はそう考えておられることが後に示す引用のルビによって明らかである)。所謂、野菊(実際に現在でもヨメナに似る近縁種のキク類を総称して「嫁菜」と呼んでいる)と呼ばれるキク亜綱キク目キク科キク亜科シオン属ヨメナ Aster yomena のこと。参照したウィキの「ヨメナ」によれば、『若芽を摘んで食べる。古くは万葉集の時代から使われていたようで、オハギ、あるいはウハギと呼ばれている。ヨメナご飯なども有名。名前の由来は嫁菜とも夜目菜とも言われ、はっきりしない。一説には、美しく優しげな花を咲かせるため「嫁」の名がつくといわれている。なお、のぎくをヨメナの別名とする記述が国語辞典関連ではよく見られるが、植物図鑑ではヨメナの別名としてノギクを挙げた例はない』とある。]

 

萬葉の池今狹し櫻影

 

  池の傳説

 

夕づゝに這ひ出し蛙みな啞と

 

摘み競ふ企玖の嫁菜は籠にみてり

 

嫁菜つみ夕づく馬車を待たせつゝ

 

里人の茅の輪くぐりに從はず

 

一人強し夜の茅の輪をくぐるわれ

 

萬葉の菱の咲きとづ江添ひかな

 

[やぶちゃん注:坂本宮尾氏の「杉田久女」(九六頁)によれば、これらの句(若しくは少なくとも「菱積みし」「摘み競ふ」「嫁菜摘み」の三句)は「企玖の紫池にて」として久女の主宰誌『花衣』第二号(昭和七(一九三二)年四月発行)に初出する(同前書の万葉歌は初出では万葉仮名表記の平仮名ルビ附)。句群は春に始まり最後の三句は夏であるから総てが同一時制の嘱目吟ではなく、吟自体は前年以前のものと考えてよかろう。

「企玖の紫池」企救(きく)は既に何度も出ているが、現在の福岡県北九州市小倉北区・小倉南区・門司区の広域を指す古地名。万葉時代の「企救の紫池」の所在地は不明とされている。久女が佇んでいるのはその比定地の一つと伝承されている現在の福岡県北九州市小倉南区蒲生にある曹洞宗鷲峰山(しゅうぶさん)大興善寺門前にある紫池である(宮尾氏の引用を参照。そこでは「禅寺」となっているが誤認であろう)。但し、ネット上で見る限り(ここの鷲峰(わしみね)公園の紹介記事中に窪地の画像がある)、少なくとも現在は水が全くなく、池跡となっている。当時はまだ狭いながらも沼のような状態であったものらしい(宮尾氏の引用によれば、道路建設工事で無惨にも埋め立てられたとある)。「北九州あれこれ」の「蒲生」 の地図を見ると、池跡の直近東に文字通りの現在は軽く蛇行する紫川が南北に流れ、その右岸が紫川河畔公園として整備されているのが分かる。恐らくはこの周辺一帯の原紫川の氾濫原に有意に広い沼沢地帯が紫川畔に存在し、そこに菱が植生していたものと考えてよかろう。ここの紫池というのは紫川の中下流域に広がったそうした沼沢地方の総各称であったものと考える。

「豊國」現在の福岡県東部と大分県を含む広域を指す地名と推定されている。

「豐國の企玖の池なる菱の末をつむとや妹が御袖ぬれけむ」「万葉集」巻第十六の三八七六番歌、

 

   豊前國(とよのみちのくちのくに)の白水郎(あま)の歌一首

豊國(とよくに)の企救(きく)の池なる菱(ひし)の末(うれ)を採(つ)むとや妹が御袖(みそで)濡れけむ

 

で、「豊前國」は企救郡、現在の北九州市。「白水郎(あま)」は漁師。海士(あま)で「白水」は元来は中国の地名で、この地方出身の者は水に潜ることが上手であったことに由来する。「妹」は講談社文庫版中西進訳注では『上層階級の女か』とする。

「池の傳説」大興善寺公式サイト内の「伝承」の頁に、最盛期であった律宗当時(同寺は執権北条時頼の命によって寛元三(一二四五)年に建立された奈良西大寺末寺で当時は十八大寺の一つとして崇敬された律宗であったが、慶長元(一五九六)年頃に現在の曹洞宗に改宗している)の延元三・建武五/暦応元(一三三八)年頃の伝承と伝える以下の話を指す。『住職の玄海律師は戒徳密行、人々に重んぜられ、寺を治めておられましたが、 ある日、一室に坐して阿字観を修しておられたとき、山林寂静の中、 修行の妨げにならないようにと、蛙が鳴き止んだそうです。このときより今にいたるまで寺の境内周囲に 蛙の鳴くことがありませんでした。紫の池に蛙鳴かずという 云い伝えが現在も残っています』。

 以下、坂本氏前掲書の「万葉の企救の紫池」から部分引用する。

   《引用開始》

企救(あるいは企玖)郡は現在の北九州市門司区と小倉区にあたる。古代の小倉の南部一帯は大きな湖水であったが、万葉の時代に入って次第に滴れて、「企救の池」と呼ばれるようになったという。『万葉集』に詠まれた企救の他の所在地については諸説あるが、久女が訪れたのは小倉郊外の蒲生(がもう)にある大興(だいこう)禅寺門前の紫池で、久女は〈万葉の池今狭し桜影〉と詠んだ。現在、この場所は、道路建設によって埋め立てられたが、紫池が小倉の中央を流れる紫川の名の起こりとされている。

 「花衣」の第三号に、佐藤普士枝が「蒲生吟行」として報告を載せている。それによると久女と小倉の「花衣」含月の十名が、縫野いく代邸で土筆を摘み、句を詠み、近くの大興禅寺に詣でて、紫池で嫁菜摘みに興じた。『万葉集』に造詣の深い久女は紫池や、嫁菜の説明をしたのであろうか。久女たちは、春の一日を心ゆくまで遊んだことがうかがわれる。

 ここに詠まれた嫁菜は古来食用にされてきた。柿本人麻呂の歌に「妻もあらば摘(つ)みて食(た)げまし沙弥(さみ)の山野の上(へ)のうはぎ過ぎにけらずや」(2-二二一)(妻が居合わせたら一緒に摘んで食べもしようものを、沙弥の山の野の上の嫁菜は盛りを過ぎたではないか)とあるように、早春の嫁菜の若葉は香りが高く、おひたしや、てんぷら、汁の実とされた。久女の時代にどれほどの人がこの嫁菜を食べていたかはわからないが、久女は野趣のある食べ物を好んだらしく、ご飯に炊き込み、〈炊き上げてうすき緑や嫁菜飯〉と句に残した。久女は春には嫁菜飯を炊いて客をもてなし、秋には菊枕を作るなど、季節の風雅をこまめに実行に移してみたくなる俳人だった。

   《引用終了》

私はこの最後に語られる久女の姿に誰よりも強く惹かれるのである……。

「里人の茅の輪くぐりに從はず」と「一人強し夜の茅の輪をくぐるわれ」の組写真は意志鞏固にして独立の人久女ならではのものこういう組み句というのは、知られた俳人のものでも、妙に説明調の印象を与えて上手くゆかぬものであるが、これは後の句に強靭な響きが収斂して素晴らしい希有の成功例である。

 最後に。最後の句のためにグーグル画像検索「菱の花」をリンクさせておく。]

橋本多佳子句集「海彦」 老いまでの日の

 老いまでの日の

 

  上京して

 

衣更前もうしろも風に満ち

 

衣更老いまでの日の永きかな

 

駅燈に照らされて巣の燕寝し

 

  武蔵野の三谷昭氏新居を訪ひて

 

旅のひざ仔猫三つの重さぬくさ

 

[やぶちゃん注:三谷昭(明治四四(一九一一)年~昭和五三(一九七八)年)は俳人。素人社や実業之日本社などで編集者を勤める傍ら、『走馬灯』『京大俳句』などに加わり、昭和一五(一九四〇)年の京大俳句事件で検挙された。戦後は『天狼』『面』同人。現代俳句協会初代会長。多佳子より十二歳年下である(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。句を掲げる。

 ある街の木瓜の肉色頭を去らず

 わが一生女はいつも野火に似て

 暗がりに檸檬泛かぶは死後の景]

 

単衣着て足に夕日のさしゐたり

 

蓮散華美しきものまた壊る

 

飛燕の下母牛に乳溜まりつゝ

 

嫗の身風に単衣のふくらみがち

 

[やぶちゃん注:順列と季語から見て、昭和二八(一九五三)年の夏の句。当時、多佳子五十四。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 モースの明治の帝都東京考現学(Ⅰ)うどん屋と糊屋の看板/植木屋/頭巾

M467_468

図―467[やぶちゃん注:上図。]

図―468[やぶちゃん注:下図。] 

 マカロニ〔西洋うどん〕の看板(図467)は、一枚の板の下に、房のように紙片がさがった物である。マカロニは軒評で出来ていて、汁と一緒に食うと非常にうまい。糊の看板は円盤で、その上に糊を表す字が書いてある(図468)。米国と同様、糊は売買されるが、日本人はより多い目的にこれを使用する。

[やぶちゃん注:「マカロニ」底本では直下に石川氏による『〔西洋うどん〕』という割注が入るが、これは初訳時のマカロニが一般家庭の食卓に上らなかったところの時代を感じさせ、そしかもここは、「マカロニ」で「饂飩(うどん)」を指しているのだから、石川氏に失礼乍ら、微苦笑を禁じ得ないところである。因みに、図の看板には「うんとん」とあるのは文字通り「饂飩」を音読みしたもので、ウィキの「うどん」(の注)には、『饂の字の右半分は温の字の正字。音はウンまたはオン(ヲン)である(新明解漢和辞典、三省堂)。饂は国字であるため字音はきめがたい。「ウンドン」または「ウドン」であることは日葡辞書にみえ、「Vndon (ウンドン)ただし、ウドンと発音される」とある』とあり、また(本文の)歴史パートには以下のようにある。

   《引用開始》

うどんの誕生には諸説があり、定かではない。

仁治2年(1241年)に中国から帰国した円爾(聖一国師)は製粉の技術を持ち帰り、「饂飩・蕎麦・饅頭」などの粉物食文化を広めたと云われている。また、その円爾が開いた福岡市の承天寺境内には「饂飩蕎麦発祥之地」と記された石碑が建っている。

奥村彪生によれば、うどんは中国から渡来した切り麦(今の冷や麦)が日本で独自に進化したものであるという。奥村によれば、麵を加熱して付け汁で食する(うどんの)食べ方は中国には無く、日本の平安時代の文献にあるコントンは肉のあんを小麦の皮で包んだもので、うどんとは別であり、うどんを表現する表記の文献初出は南北朝時代の「ウトム」であるという。

南北朝時代末期の庭訓往来や節用集などに「饂飩」「うとん」の語が現れる。江戸時代は「うどん」と「うんどん」の語が並存し、浮世絵に描かれた看板などに「うんとん」と書いてあることがよくあり、明治初期の辞書である「 言海」は、うどんはうんどんの略とする。

奈良時代に遣唐使によって中国から渡来した菓餅14種の中にある索餅(さくべい)が、平安時代に完成した『新撰字鏡』 では「牟義縄(むぎなわ)」と呼ばれて、「麦縄(むぎなわ)」が日本の麺類の起源とされる。ただし、麦縄は米と小麦粉を混ぜて作られていた。やがて鎌倉時代になると、円爾など入宋した禅僧らが小麦粉で作る素麺を博多経由で日本に持ち帰って「切麦(きりむぎ)」が誕生した。室町時代には一条兼良の著書『尺素往来』に、「索麺は熱蒸し、截麦は冷濯い」という記述があり、截麦(切麦)がうどんの前身と考える説もあるが、その太さがうどんより細く、冷やして食されていた事から、冷麦の原型とされている。切麦を温かくして食べる「温麦」と冷やして食べる「冷麦」は総じてうどんと呼ばれた。

奈良時代に遣唐使によって中国から渡来した小麦粉の餡入りの団子菓子「混飩(こんとん)」に起源を求める説もある。

平安時代に空海が唐から饂飩を四国に伝えて讃岐うどんが誕生したという伝説もある。

青木正児の「饂飩の歴史」によれば、ワンタンに相当する中国語は「餛飩」(コントン)と書き、またこれを「餫飩」(ウントン、コントン)とも書き、これが同じ読み方の「温飩」(ウントン)という表記になり、これが「饂飩」(ウドン)となったという。

   《引用終了》]

M469

図―469 

 昨今(十一月の終)は、木を動かす季節だと見えて、往来でよく木を動かす人々を見受ける。私はそれを扱うのに三十人も要する大きな木を見た。立木は何回もくりかえす移植に耐えるらしく、転々と売られては、図469に示すようにして、何マイルもはこばれて行く。

[やぶちゃん注:電子化しながらふと、梅崎春生の「植木屋」を再読したくなった。]

M470

図―470

M471

図―471 

 寒さが近づくにつれて、人々は厚い衣服をつけるが、下層階級の者はすべて脚と足とをむき出し、また家も見受ける所、みな前同様にあけっばなしである。地面には霜が強く、町に並ぶ溝は凍りついているのに、小さい店は依然あけっぱなしてあり、熱の唯一の源は小さな火の箱即ちヒバチで、人々はその周囲にくっつき合い、それに入れた灰の中で燃える炭に、手を翳(かざ)してあたためる。人力車夫が何マイルか走って、汗をポタポタたらしながら、軽い毛布を緩(ゆるや)かに背中にひっかけ、寒い風が吹く所に坐って、次のお客を待つ有様は、風変りである。人は誰でも頭を露出して歩く。彼等は帽子をかぶることに馴れていないので、学生も帽子をかぶって人を訪問し、帰る時にはそれを忘れて行く。そして一週間もたってから取り来るが、これによっても、彼等が如何に帽子の無いことを苦にしないかが判る。寒い時、男は、綿をうんと入れた、後に長い合羽のついた、布製の袋みたいなものをかぶる。見た所、それは袋に、顔を出す穴をあけたようである(図470)。我国でも男の子達は、梳毛糸(ウォーステッド)でつくった、同じような物をかぶる。温い衣服に着ふくれた子供達は、滑稽である。外衣には厚く綿が入れてあり、袖は手が完全にかくれる位長く、支那の衣服に似ている。婦人連は長さ一ヤード四分一の布の一片でつくった、非常に似合う帽子をかぶる。それは図471の如く畳み、Aで縫いつけてあるが後は開いており、内側のBの所にある長い環を耳に引っかけてそれを前方に引き下げ、顔はDにあらわれる。ニつの懸垂物EEは額の後に廻し、前で結ぶ。これは非常に容易に身につけられ、我国でも鑑賞される可き装置である。普通紫色の縮緬(ちりめん)で出来ていて、これをかぶっていると、十人並以下の女でさえ、美しく見える。図472はこの帽巾をかぶった婦人を示す。

M472

図―472

[やぶちゃん注:図470は口辺部を覆わずに下で括った刺子頭巾のように見受けられる(正式な被り方は火事場用であるから鼻も覆って目だけを出す)。図は御高祖(おこそ)頭巾で、辞書によれば、四角な一枚の布で製した被りもので、これには耳へ掛け顔を表す被り方と、目の周りだけを出して頭部全体を包むものとがあるとあり、モースが実に忠実にその二様を図解していることに驚く(実際にネット検索をかけてみても、この二様をちゃんと画像で示しているサイトは見当たらない)。多くは女性が防寒用に用いたもので、宝暦(一七五一年から一七六四年)頃から明治時代まで行われた。名称の御高祖は日蓮上人像が被るそれに似るからとされる。

「梳毛糸」原文“worsted”。「梳毛糸」は「そもうし」と読み、梳毛紡績で出来た糸のことをいう。比較的長めの上質の羊毛繊維を主体とした糸で繊度(糸の太さ)が均一で滑らか、撚りは強めで固く締まった感じを与え、糸の表面も滑らかで光沢を持つ。紡毛糸(ぼうもうし:通常の紡績にかからない五センチメートル以下の屑糸のこと。そのまま撚りをかけて織糸に用いる。「屑糸」と呼ぶものの、毛布・フェルト・フランネルなどの製織には上等な原料である)の対語。

「一ヤード四分一」凡そ九十七センチメートル。

「これをかぶっていると、十人並以下の女でさえ、美しく見える」ストイックなモース先生にしてはちょっと筆が滑ったね!]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 63 金沢 あかあかと日は難面もあきの風

本日二〇一四年八月三十一日(陰暦では二〇一四年八月七日)

   元禄二年七月 十七日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年八月三十一日

である。以下の句は「奥の細道」では途中吟として、七月二十四日の金沢を発って小松に向かった折りの嘱目吟として出るが、これは全くの虚構で、現在はこの金沢滞在(七月十五日到着で九泊した)の三日目、立花北枝亭で創られたとほぼ推定されてある(荻野清氏の説に拠る)。

 

あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風

 

[やぶちゃん注:「奥の細道」金沢の段。

 真蹟に、

 

  旅愁慰め兼て、もの憂き秋もやゝ至りぬれ

  ば、さすがに目に見えぬ風の音づれも、い

  とゞ悲しげなるに、殘暑猶(なほ)やまざ

  りければ

あかあかと日はつれなくもあきの風

 

と長い前書をするものが残り(曾良の「雪まろげ」もほぼ同文)、芭蕉自身会心の作と認識していたらしく、五種の真蹟が現存する。その内の二種の前書を以下に示しておく。

 

  北國行脚の時、いづれの野にや侍りけむ、

  暑さぞまさるまさる、とよみ侍りし撫子の

  花さへ盛過行比(さかりすぎゆくころ)、

  萩・薄に風のわたりしを力に、旅愁を慰め

  侍るとて

 

  北海の磯傳ひ、眞砂(まさご)は焦れて火

  のごとく、水は沸(わき)て湯よりも熱し。

  旅懷心をいたましむ。秋の空幾日(いくか)

  に成(あなる)ぬとおぼえず

 

 この「奥の細道」の「難面」という用字は新在家文字(しんざいけもじ)といって、「迚(とて)」「社(こそ)」「梔(もみじ)」「不知黒白(あやめもしらず)」など、室町以降、連歌に多く用いられた特殊な用字である(新在家という呼称は連歌師などが多く住んでいた京の地名に由来する)。

 この句は、謂わば芭蕉の俳諧の季詞(きのことば)に対する根源的な疑義と、その皮肉として私には響く。

 

――暦の上では秋である……しかし炎熱の陽光はそれを一向知らぬげに私(我が面(つら)をとしてもよい)にあかあかとぎらつきながら射刺して来る……だが……同時にその季も知らぬ顔の厳しい陽射しを裏切るように……夕暮れのこの今――ふっと――秋草の広がる野の彼方からもの侘しい秋の風が――さっと――私の頰を過ぎった――

 

 山本健吉氏は「芭蕉全句」の評釈で、『季感の上の齟齬(そご)に想を発した古歌として藤原敏行の』(「古今和歌集」第一六九番歌)、

 

 秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる

 

『があり、芭蕉のこの句の想においてつながっている』と述べておられる。山本氏の謂いに水を差すわけではないが、これは実は別な芭蕉の真蹟の前書で、

 

  めにはさやかにとといひけむ秋立つけしき、

  薄かるかやの葉末にうごきて、聊昨日に替

  る空のながめ哀なりければ

 

と、インスパイアを芭蕉自身が明らかにしている事実である。

 なお、思うところあれば、「奥の細道」原文は次の「秋涼し手毎にむけや瓜茄子」そのまた次の「塚も動け我泣声は秋の風」に出だすこととする。]

2014/08/30

昇天山九覽亭之記 改稿

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 九覽亭及び昇天山九覽亭之記

の訓読と注を教え子の見解に基づき、ほぼ全面的に改稿した。

アイルランド文学研究会

マイミクの青年の研究家から慫慂され、本日、アイルランド文学研究会に出席するため、これより久々の渋谷の下界へと降ることとした。――

2014/08/29

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 九覽亭及び昇天山九覽亭之記(後者はネット上初公開)

    ●九覽亭

九覽亭は。金澤灣の西岸。即ち金龍院庭隅(にはすみ)の山上にあり。径路迂餘。半腹に碑文あり。登れは則ち小亭翼然(よくぜん)海に臨む。董堂敬義書する九覽亭幷に梅堂散僊の筆に成れる。聚綠山龕の扁額を掲く。俯瞰すれは。八景指顧の間に在り。其の風光の美なる能見堂と匹敵すべし。客來れは。老媼寺より茶具を携へて到り。茶菓をすゝむ。亦風流なり。江戸名所圖會には。九覽亭跡とあり。然れは今の亭は其の後に建(たて)しものにや。山腹の碑文は左の如し。

    ●昇天山九覽亭之記

九覧亭在ㇾ於武藏國金澤昇天山。距江都十有餘里。歳丁未八月。余弄勝于是山。而山顚之亭曰九覽亭者。今唯存遺址耳。幷其所以名亦莫識者焉。乃班ㇾ荊以臨ㇾ之、時適煙雲開。佳麗之匿點綴連綿。如碁初布然。其尤著者爲洲崎晴嵐。爲瀨戸秋月。爲稱名晩鐘。爲小泉夜雨。爲乙鞆歸帆。爲平潟落雁。爲野島夕照。爲内川暮雪。若夫錯出其間神祠佛宇。島岫怪石舊蹟古樹者。亦盡皆使人應接之不一レ遑焉。是其所三以稱九覽也。歟土人乃加所ㇾ謂八景濃見堂以當ㇾ之。蓋駕説之誤耳。夫九者數夥之詞。九族九合之類。抑□齊桓盟會以史傳所一レ言。亦不ㇾ止九數。則是亭之命名果不ㇾ背古義矣。於ㇾ是呼ㇾ蔎引ㇾ酒又列海羹。一啜一呑或詩或歌。以ㇾ與古人所一レ樂以ㇾ與今人同歡。不ㇾ覺日之將ㇾ沈虞淵。而惟見鯨音之響ㇾ耳〔〕。而歸帆之向ㇾ洲而已。既又矚三月掛橋邊。其景也斯趣也。皥皥洋洋未ㇾ易具狀也。嗚呼金岡生之擲ㇾ筆抑非ㇾ是耶。東皐氏之所ㇾ賞抑非ㇾ是耶。因把ㇾ翰略記其勝槩以贈之曾觀一焉。

嘉永四年辛亥三月上潮

     江都田村愛資撰幷書    朝川麎額

       當山現住王田     窪世舛刻字

                  鬼熊加功

[やぶちゃん注:〔〕は脱落と判断して私が補ったもの。「江戸名所図会」によれば、この主に八景一望の観光目的で建てられたと思しい亭の創建は不詳である。現在は九覧亭跡に聖徳太子堂が建つが、想像以上にしょぼい。景観の方も周囲の木立が伸びていることによるよりも、金沢八景全体の景観が最早一変してしまって、本記載のような展望は全く望むべくもない状態にある(前段でも引いた「八景島旅行 クチコミガイド」の「金龍院(横浜市金沢区瀬戸)」と、「鎌倉遺稿探索」の「金龍禅院 九覧亭」の現況画像を参照した。但し、その両解説者は「九覧」とは(八景+富士山)のことを指すように書いておられる。それもまた一興ではある。なお、「江戸名所図会」の寺僧の言によれば、『この地の八景に能見堂を加へて見るこころにて、名づけたりとなり』ともある。後者のリンク先では「江戸名所図会」の絵図が見られ(但し、これは丘の頂上ではなく、半腹の平地の景である)、筆者によって判読が試みられているので必見)。

「翼然」翼のように左右に広がっているさま。

「董堂敬義」中井董堂(とうどう 宝暦八(一七五八)年~文政四(一八二一)年)は江戸後期の江戸生まれの書家で狂歌師、戯作者でもあった。名は敬義(たかよし)、狂号は腹唐秋人(はらからのあきんど)。戯作名は島田金谷(かなや)。書は明の董其昌(とうきしょう)に傾倒。大田南畝門下として狂詩集「本丁文酔」(ほんちょうもんずい)、狂歌は大屋裏住(おおやのうらずみ)門下として本町連に属した。洒落本には「狂訓彙軌本紀」(きょうくんいきほんぎ)がある(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「梅堂散僊」幕末明治の書画家で浦賀奉行を勤めたこともある浅野梅堂なる人物がいるが、彼の雅号に「散僊」は見出せない。取り敢えず注しておく。

「聚綠山龕」「じゆりよくさんがん(じゅりょくさんがん)」と読むと思われる。「龕」は仏龕(ぶつがん)で、本来は石窟や家屋の壁面に仏像・仏具を納めるために設けられた窪みや仏壇・厨子を指すが、ここはこの緑を集めた丘の懐ろにある金龍院を龕に喩えたものであろう。

「山腹の碑文」「昇天山九覽亭之記」この碑文は現存する。先の「八景島旅行 クチコミガイド」の「金龍院(横浜市金沢区瀬戸)」にあるこの写真がその碑である(拡大すると字も見えるが、私の疑義のある部分が草に覆われてしまっていたり、□の字も見えるには見えるものの、不学の私には判読出来ない。識者の御教授を是非とも乞うものである)。また、メタボン氏のブログ「メタボンのブログ」の江戸名所図会挿絵-K222 金龍院飛石」に何かの書籍のこの石碑の写真が載り、『この登り坂の途中に石碑が有る。「昇天山九覧亭記」とある。嘉永4年(1851年)の年号が刻んである。田村資愛の文で、九覧亭からの眺望をほめている』(改行を省略した)とある。ネット上にも情報は皆無、識者の御教授を乞うものであるが、この私のテクストは従って初めて電子化されるものと思われる。以下、我流で書く下してみる。なお、一部の漢字は判読がし難く、推測で字を当てたものもあることをお断りしておく。また、返り点の一部に従えない部分(訓読出来ない箇所)があり、その通りには訓読していないので悪しからず。読みも私の感覚で附してある。訓読に際しては、私の杜撰な最初の読みを、いつも世話になっている中国語に堪能な教え子T.S.君が白文で読み解いて呉れ、最終的にそれと突き合わせて決定稿とした。後の語釈では彼の解説して呉れたものを【T.S.君の解】『 』で示した。いつも乍ら、この場を借りてT.S.君に心から謝意を表するものである。

   *

    昇天山九覽亭の記

九覧亭は武藏國金澤昇天山に在り。江都を距(へだ)つこと十有餘里、歳丁未(きのとひつじ)の八月、余、是の山を弄勝(ろうしよう)す。而して山顚(さんてん)の亭を九覽亭と曰(い)ふも、今は唯だ、遺址(ゐし)を存するのみ。幷びに、其の名づくる所以は、亦、識る者、莫(な)し。乃ち、荊(うばら)を班(わ)け、以つて之に臨むに、時に適(かな)ひて、煙雲、開く。佳麗の匿(とく)、點綴(てんてつ)して連綿たり。如(まさ)に碁が初布然たり。其の尤(いう)にして著なる者(もの)は、洲崎晴爲嵐たり、瀨戸秋月たり、稱名晩鐘たり、小泉夜雨たり、乙鞆歸帆たり、平潟落雁たり、野島夕照たり、内川暮雪たり。若し夫(そ)れ、其の間(かん)に神祠・佛宇・島岫(たうしう)・怪石・舊蹟・古樹の錯出せば、亦た盡(ことごと)く皆、人をして應接の遑(いとま)なさしむるものなり。是れ其の九覽と稱する所以なり。土人、乃(すなは)ち所謂(いはゆる)八景に濃見堂を加へ、以て之に當(あ)つるは、蓋し、駕説(がせつ)の誤まれるのみ。夫れ、「九」は「數夥(あまた)」の詞、「九族」「九合」の類なり。抑(そ)も、齊桓公の盟會を□にするに、史傳の言ふ所を以つて九數に留まらずと。亦、九數に止まざるなり。則ち是れ、亭の命名、果して古義に背かず。是に於いて、蔎を呼び、酒を引き、海羹(かいかん)を列し、一啜(いつせつ)一呑(いつとん)、或(ある)は詩し、或は歌ひ、以つて古人の樂しむ所に與(くみ)し、以つて今人の同歡せるところに與(くみ)す。覺えず、日の將に虞淵(ぐえん)に沈まんとして、惟だ、鯨音の耳に響き、歸帆の洲に向へるに見(まみ)ゆるのみ。既にして又、月、橋邊に掛くるを矚(み)る。其の景や、斯くの趣きや、皥皥(かうかう)にして洋洋、未だ易(たやす)く狀(なり)を具(のぶ)ることあたはざるなり。嗚呼、金岡生の筆を擲(なげう)つや、抑(そも)、是れに非ずや。東皐氏の賞する所、抑も、是に非ずや。因つて翰(かん)を把(と)つて、其の勝槩(しようがい)を略記し、以つて未だ之を曾つて觀ざる者に贈る。

嘉永四年辛亥(かのとゐ)三月上潮(じやうちやう)

     江都 田村愛資 撰幷びに書

                朝川麎 額

        當山現住 王田

                         窪世舛 刻字

                鬼熊  加功

   *

「十有餘里」「十有餘里」は約三九・三キロメートル、江戸城から金沢八景までの陸路の概算は四十五キロメートルほど、江戸の南端である品川宿までは凡そ四十キロメートル。

「丁未」最後のクレジットが「嘉永四年辛亥」(西暦一八五一年)であるから、「丁未」は四年前の弘化四(一八四七)年である。

「弄勝」勝れた景色を遊び楽しむの謂いか。

「佳麗之匿點綴連綿」【T.S.君の解】『隠れた美景が散らばり且つ連なっている――「點」と「綴」の間には強い引力が働いており、一語を形成すると感じます。現代中国語では口語でもよく用いられる語です』。

「如碁初布然」【T.S.君の解】『囲碁の初局において、碁石が疎らに配置され、ただしそれぞれが遠く近く有機的に連関している様子に似ている』。「碁」の「初布」とは、囲碁の「布石」、序盤に全局的な構想に立って石を置くこと、また、その打ち方をいう。

「其尤著者」【T.S.君の解】『既にして「尤」の字自体に、絶美なるという意味が感じられます』。

「若夫錯出其間神祠佛宇島岫怪石舊蹟古樹者亦盡皆使人應接之不遑焉」【T.S.君の解】『「若夫」は、話題転換機能をもつ軽い接続句と理解し、「神祠」から「古樹」までの単語の羅列は、景点間に散在するものの列挙と理解しました』。

「錯出」は本来、異なった意見が代わる代わる出ることをいうが、ここはそれぞれの八景の美観の中に、神社仏閣がこれまた、それぞれにオリジナリティを持って、それぞれ異なった雰囲気で美しく立ち現われている、という意味であろう。

「島岫」島々や岬。

「使人應接之不遑焉」人がそれらを総て味わい尽くすには、ちょっとした時間ではとても無理である、見切れぬ、という意の使役形である。森鷗外の「舞姫」で最初に狭いベルリンの地に名所が凝集しているのに吃驚した太田豊太郎の台詞、『始めてこゝに來しものゝ應接に遑なきも宜なり』を想起されたい。

「是其所以稱九覽也歟」【T.S.君の解】『「也歟」はセットで強い感嘆の語気を表すものと思います。「是」は直前の文を指しており、人をして應接の遑(いとま)なさしむるほど数多い景勝があること、これこそが九覽の名の所以であるのだよ、と強く言い切っているように感じられます』。

「駕説」【T.S.君の解】『「駕説」は、一般に流布している説という意味かと思います。中国語古文にこの語の用例があるようです。土地の人々が八景に濃見堂を合わせて九つの景色と言っているのは、流布した説が誤っているに過ぎぬ、の謂いです』。

「抑□齊桓盟會以史傳所言亦不止九數」【T.S.君の解】『ここは「九」が数多くを指す例として、桓公が諸侯の会合を何度も開いて戦国の覇者になったという故事を持ち出したのだと思います。論語には『桓公九合諸侯、不以兵車、管仲之力也……』とありますが、実際会合は九回に留まらず、春秋の記載によれば計十六回もの会合を開いたとのことです』。その後、碑文画像を彼に送った後、以下の消息文が届いた。『碑文の写真の判読不能の文字は――上が「木」――右下の払いに相当する部分が部首(ヒトアシ)の右側に相当する形状――に見えます。手元に漢字字典がないので、中国語辞書で「木」の部を舐め、「木」が上に乗った字を捜してみましたが、これに近いものは見出せません。諦めかけた頃にふと思ったのですが、これは「木」偏の異体字ではないでしょうか? そこで「木」偏、且つ、最終画が(ヒトアシ)状の字を捜してみました。そこで目に留まったのが「概」です。確かにこじつけの感は否めません(「木」を下に持ってくる異体字はあっても、上に持ってくる例は見出せないこと、下半分が「既」にやや遠 いことなどが理由です)。しかし、ここを判読不能として放置するよりは、「概」(の異体字)として読んだ方が丁寧ではないかと思うのです。あくまでもその前の字が「抑」であると信じて読解してみます。

 抑も齊桓公の盟會を概(かへりみ)るに、史傳の言ふ所を以て九數に留まらずと。

如何でしょうか?』――私はこの彼の見解を現時点での最も肯んずるに足る本箇所の判読訓読と信ずるものである。大方の御批判を俟つ。

「於是呼蔎引酒又列海羹一啜一呑或詩或歌以與古人所樂以與今人同歡」【T.S.君の解】『そうして茶を淹れ、酒を出し、海産物を並べ、啜って、飲んで……或いは詩、或いは歌を口にする。これはまさに昔の人の楽しみと重なるものであり、また今の人の歓びにオーバーラップするものでもあるのだ、という謂いです』。

「蔎」茶の別称。

「海羹」海産物の羹。吸い物や味噌汁。

「虞淵」中国神話に於いて太陽が沈むとされた遙か西方の地にあるという崦山(えんじさん)の山裾にある蒙水という川の中の深い淵の名称。ここは単に西の意。

「鯨音」鐘の音。ここは特に称名寺のそれであろう。

「皥皥」白く明らかなさま。

「未易具狀也」【T.S.君の解】『その素晴らしさを形容することは実に難しいなあ、の謂いです』。

「金岡の生」能見堂の筆捨松伝承で出た巨勢金岡。既注。

「東皐」金沢八景を改めて世に知らしめた東皐心越。既注。

「翰」筆。

「勝槩」優れた趣き。優れた景色。勝致。

「上潮」月の満ちる大潮の謂いか。とすれば、嘉永四年三月十五日(新暦一八五一四月十六日)である。

「田村愛資」これは先に掲げたメタボン氏の記載や、以下に示す書誌から恐らく「田村資愛」の底本の錯字と思われる。如何なる人物分からないが、明らかに朝川麎(次注参照)と近しいことから江戸在住の儒者と考えてよい(朝川の著作「尚書古今文管窺」(しょうしょこきんぶんかんき)の校訂者にも「田中資愛」の名が見える。ここの書誌情報に拠った)。

「朝川麎」「あさかわしん」と読む。朝川同斎(どうさい 文化一一(一八一四)年~安政四(一八五七)年)のこと。儒者・書家。本姓は横江、麎は名。通称、晋四郎。別号に嘉遯(かとん)・眠雲山房など。加賀生まれ。江戸で市河米庵(べいあん)に書を、朝川善庵に漢学を学んで善庵の養子となった。後に肥前平戸藩に仕えた(講談社「日本人名大辞典」による(前注も参照のこと)。

「額」石碑などの上部に篆書で書かれた題字のこと。

「王田」金龍山の燈台の住持らしいが不詳。

「窪世舛」不詳。読みも不明。

「鬼熊」下の「加功」とは石碑の切り出し加工を言うか。その石工の名であるらしい。]

藪野唯至選 橋本多佳子句抄 (PDF版)

藪野唯至選「橋本多佳子句抄」のPDF版を「やぶちゃんの電子テクスト:俳句篇」に公開した。

杉田久女句集 268  花衣 ⅩⅩⅩⅥ  水郷遠賀 十一句

  水郷遠賀 十一句

 

萍の遠賀の水路は縱横に

 

菱の花咲き閉づ江沿ひ句帳手に

 

菱刈ると遠賀の乙女ら裳を濡すも

 

[やぶちゃん注:後掲される、

 

菱採ると遠賀の娘子(いらつこ)裳(すそ)濡(ひ)づも

 

の句の推敲形の一つ。そちらの注を参照されたい。]

 

菱の花引けば水垂る長根かな

 

水ぬるむ卷葉の紐の長かりし

 

水底に映れる影もぬるむなり

 

靑すゝき傘にかきわけゆけどゆけど

 

泳ぎ子に遠賀は潮を上げ來り

 

千々にちる蓮華の風に佇めり

 

藻鹽焚く遠賀の港の夕けむり

 

もてなしの蓮華飯などねもごろに

 

[やぶちゃん注:「蓮華飯」ハスの実はまだ青いうちは食用になる。ネット上では発案者を横浜三溪園園主であった原富太郎(慶応四(一八六八)年~昭和一四(一九三九)年)とし、また以下のようなレシピを見つけた。実の固い皮を剥いた後、さらにその下の薄皮も剥き取り、出汁でさっと煮ておく。器にご飯と蓮の実を入れて出汁をはり、千切りのしその葉を添えて供する。『蓮の実の仄かな香りとシャキっとした食感でとても美味しくいただけ』るとある(tokeiji 氏の個人ブログ「まつがおか日記」の蓮華飯に拠る)。但し、蓮華の実を食用とする習慣は汎アジア的に古くからあり、この久女の「蓮華飯」もそうした伝統に基づくものであって、原三溪のそれとは思われない。]

橋本多佳子句集「海彦」  片蔭

 片蔭

 

松蟬の中に帰り来(く)こゝよしと

 

[やぶちゃん注:「松蟬」半翅(カメムシ)目頸吻亜目セミ型下目セミ上科セミ科セミ亜科ホソヒグラシ族ハルゼミ Terpnosia vacua の別名。ヒグラシを小さく、黒くしたような外見で翅は透明だが、体はほぼ全身が黒色か黒褐色をしている。参照したウィキの「ハルゼミ」によれば、『ある程度の規模があるマツ林に生息するが、マツ林の外に出ることは少なく、生息域は局所的である』とあり、『日本では、セミの多くは夏に成虫が現れるが、ハルゼミは和名の』四月末から六月にかけて発生する(そこから季語としては晩春から初夏に相当する)。『オスの鳴き声は他のセミに比べるとゆっくりしている。人によって表現は異なり「ジーッ・ジーッ…」「ゲーキョ・ゲーキョ…」「ムゼー・ムゼー…」などと聞きなしされる。鳴き声はわりと大きいが生息地に入らないと聞くことができない。黒い小型のセミで高木の梢に多いため、発見も難しい』とある(pararira18 の「ハルゼミの声をリンクさせておく)。]

 

青蜥蜴吾ゆかねば墓乾きをらむ

 

帯ゆるく片蔭をゆくもの同士

 

[やぶちゃん注:「片蔭」は午後の日差しが建物や塀などに影をつくることをいう。大正以降によく使われるようになった晩夏の季語。]

 

洗ひ浴衣ひとりの膝を折りまげて

 

髪につく蟻緑蔭も憩はれず

 

青蚊帳の粗(あら)さつめたさ我家なる

 

真夜起きゐし吾を油虫が愕く

 

青蟷螂燈に来て隙間だらけの身

 

倒るるも傾くも向日葵ばかりの群

 

一粒を食べて欠きたる葡萄の房

 

額(がく)碧し聞きたる道をすぐ忘れ

 

  近くに住みながら右城暮石さんにいつも会へず

 

七月の螢ひと訪ふまたこの季(とき)

 

[やぶちゃん注:「右城暮石」(うしろぼせき 明治三二(一八九九)年~平成七(一九九五)年)は俳人。高知県長岡郡本山町字古田小字暮石の生まれ(俳号は出身地の小字の名)で本名は斎(いつき)。大正七(一九一八)年大阪電燈に入社、二年後の大正九年に大阪朝日新聞社俳句大会で松瀬青々を知り、青々の主宰誌『倦鳥』(けんちょう)に入会、昭和二一(一九四六)年に『風』『青垣』同人となり、後に『天狼』同人となった。多佳子の本句創作と同時期(本句群末尾クレジット参照)の昭和二七(一九五二)年『筐』(かたみ)を創刊、昭和三十一年にそれを『運河』と改名して主宰した。 昭和四六(一九七一)年に第五回蛇笏賞受賞。新興俳句の一翼をになった俳人として知られるが、晩年は天狼調の温厚な作風となった(以上はウィキ右城暮石に拠った)。句を引いておく。

 冬浜に生死不明の電線垂る   暮石

 裸に取り巻かれ溺死者運ばるる 暮石

 散歩圏伸ばして河鹿鳴くところ 暮石]

 

巣があれば素直に蜂を通はせる

 

仔鹿追ひきていつか野の湿地ふむ

 

踊りゆく踊りの指の指す方(かた)へ

           (二十七年)

 

[やぶちゃん注:多佳子はこの昭和二七(一九五二)年の四月(満五十三歳)には、心臓に変調をきたし、平畑静塔に往診して貰った結果、心臓ノイローゼ(心臓神経症)と診断されている。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 62 加賀入り 熊坂がゆかりやいつの玉祭

本日二〇一四年八月二十九日(陰暦では二〇一四年八月五日)

   元禄二年七月 十五日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年八月二十九日

である。芭蕉はこの日、高岡を発って倶利伽羅越えをし、金沢に到着した。本句はその途中吟。

 

  加賀の國を過(すぐる)とて

熊坂がゆかりやいつの玉まつり

 

  盆 同所

熊坂が其(その)名やいつの玉祭

 

  加賀の國にて

熊坂をとふ人もなし玉祭リ

 

[やぶちゃん注:第一句目は「笈日記」の、第二句目は「曾良書留」の、第三句目は「俳諧翁艸」(里圃編・元禄九年奥書)の句形。

 「熊坂」熊坂長範。芭蕉の好きな義経の伝承に登場する大盗賊。牛若丸が金売吉次に伴われて奥州の藤原秀衡のもとへ下る途中、吉次の荷物を狙った長範一行に襲われたが、牛若丸の活躍によって長範は討ちとられたとする。但し、長範が牛若丸を襲う場所は「幸若舞」の「烏帽子折」や謡曲「現在熊坂」では美濃国青墓(あおばか)、謡曲「烏帽子折」「熊坂」では同国赤坂とも伝える。「義経記」では盗賊の名は長範ではなく「藤澤入道」と「由利太郎」とし、場所は近江国鏡の宿とされている。生国についても加賀の熊坂(現在の石川県加賀市熊坂町)とも越後と信濃の境にある熊坂(現在の長野県上水内郡信濃町熊坂)とも伝える(ここまでは平凡社「世界大百科事典」に拠った)。ここで芭蕉は加賀出生説を採って、さらに加賀入りの盆に合わせて供養に纏わる謡曲「熊坂」(旅僧の前に長範の亡霊が現われて牛若丸に討たれた無念を語って自身の命日の回向を頼む夢幻能)を通わせたものである。

 「いつの玉まつり」とは「いつ」の疑問詞によって、かの稀代のピカレスクのその末裔が今もどこかで秘かにその御魂を鎮魂する魂祭りをしているのであろうか、と興じたのである。大悪漢なればこそ自身の大国入国の、ピカレスク・ロマン染みたとでも言い得る文芸的諧謔に相応しい祝祭句と考えた芭蕉の思いつきが面白い。別稿では謡曲の世界はいざ知らず、極悪人故に追善する者もなく、あったとしてもとうに絶えていよう、という暗示の寂寥が勝ってしまい、逆に俳諧味が薄まるように思われる。

 「玉まつり」この日は七月十五日で盂蘭盆の中日である。]

2014/08/28

デング熱感染の件――和製ワトソンの意見――

デング熱感染の件だが――
代々木公園の殺虫でいいのかな?
三人が同一のダンス・サークルにいたとすれば、僕は彼らが練習の後に食事や飲みに行ったりした店――ビルの中の――がなかったかを調べるべきではなかろうかとさっきのニュースを見ながら思っている。
既に十数年前のNHKのドキュメンタリーでネッタイシマカ(Aedes aegypti)が東京のビルの貯水槽から死骸で見つかっている。
三人の人間を同時に刺すというのは、開放された公園よりも、閉鎖空間のビル内の個室の可能性の方を探るべきでは――というのが和製ワトソンの意見なんだがね。――

宮崎駿についての教え子との議論

先日2014年8月24日附の僕の『「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」「見えない雲」』の映画評記事はフェイスブックにも転載したのであるが、それに対して古い教え子(元、僕の教師最初の担任学年の生徒であった)から疑義が届き、それについてここ数日、タイムライン上で以下のやり取りをした。
教え子の意見はアニメーション・ファンならば、当たり前田の(つい使いたくなる言い回しだが、これも既に死語であり、私より若い人には通じんな)正論と感じられるものであろうし、やり取りで述べたが、アニメーションの苦手な(正直に言おう。僕は映画は無論、漫画も大好きだが、アニメーションは実はどうも未だに好きになれないのである。何故かは、そのうち、自己分析してみようとは思う)反論された当事者である僕でさえも、実はすこぶる論理的に納得出来る内容であった。

そもそもが僕の評言の根底には宮崎駿に対する強い私怨が働いていることをここに自白する。
そうして恐らく若い宮崎ファンは、彼に対する僕の強い生理的嫌悪感の理由が、もしかすると全く呑み込めないかも知れない(この教え子はその理由に薄々気づいていたことが以下のやり取りで判明する)。
僕はそれをここで語らねばならない義務と同時に権利も持つと考える。
そこで相手の教え子本人の許諾も得た上で、以下に関連するやりとりを再現、ほぼ引用しておく。対話者である本人の氏名は伏せたが、その他は原則、手を加えていない。
 
 
   *   *   *
 
 
● 僕 :
「エヴァ」の画像は驚くべきものである。大嫌いな宮崎駿が映画と同じ手法を安易にアニメションに適応して、非常に汚い画像となっている(例えば「もののけ姫」の冒頭近くの森の右から左へのパン・カットなど)のに対し、庵野の処理は特に光学的処理に於いて神憑っていて、アニメ―ションの疑似実写化ともいうべき、非常に美しいものである。但し、ストーリーはTV版の方が遙かに優れている(僕は劇場版三部作は未見)。[やぶちゃん注:これが2014年8月24日附の僕の『「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」「見えない雲」』記事の前半。]
 
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○教え子:
う〜ん、「宮崎駿が映画と同じ手法を安易にアニメションに適応して」は、反論せざるを得ないかなぁ。
美醜の判断は主観かもしれませんが、少なくとも安易な点など、どこにも見いだせない。ストーリーはちっとも面白くないけれど「もののけ姫」は終末期の手描きアニメとして恥ずべき点の全くない作画レベルにあると思いますが…。
新作エヴァは見てないので直接論評できませんが、CG導入後の(ご存知の通り2000年代にアニメ制作は手描きからコンピューター処理に徐々に移行しました)作品群を手描き時代と一律には比較できません。
「もののけ姫」や「魔女の宅急便」の時代の鉛筆や絵筆のタッチが残った映像は、まさに動く絵画として最高峰と思うのですが、いかがでしょう。
 
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● 僕 :
CGの描画法の進歩による限界値の引き上げが行われていることは確かだが、当時の表現法、特にパースペクティヴを疑似的にしか描けない欠点を知りながら、旧来の映画と同様のスピードでパンやティルトを行ってしまうと、あの森は森に見得ず、汚い緑のベタの如く見えるという印象を私は当時、ロードショウで見た際に思った。
私はあの場面に関しては、映画の急速なカメラ移動と同じことを映画の技法を無批判に用いてやっている――アニメションとしてのオリジナルな全く新しいセオリーを追及せずに――と感じた。それが冒頭であったが故に強く印象されてしまったとは言える。
 
因みに「宮崎のために」褒め言葉を追言しておくと、逆にそれからすぐ後の馬上の武士が襲撃され血しぶきが出る、パースのかかったシーンは、映画で言えば、高速度撮影の技法を使いつつ、アニメーション独自の優れた画面構成を成功させているとも実は感じた。
 
また、間違っては困るが、私はあの作品自体を「面白い」とは感じている。
恐らくハンセン病患者を始めとした被差別階級の存在をアニメーションで積極的な「生」として登場させ、最早、世界に於いて隠すことが常識となっている「常民」の「死」や「差別」を、「アニメ」というオブラート性の比較的強いものにあって、余すところなく描こうとした点でも、非常に優れた作品であり、謂わば、
 
「この監督は恐らく今までアニメーションがやれなかった/やることを憚ったもの/やってはならないとされてきたことを遂にやりたいだけやろうとしているのであろう」
 
と思ったのも事実であり、そしてそれを宮崎という男は成し遂げるであろう、とも思った。
因みに私は「天空の島ラピュタ」が彼の作品群の中では一番と思う。
 
しかし、私は彼の作品の持つメッセージ性への有意な不同調をも同時に感じた。何か、私は彼の作品の本質に、曰く言い難い独断的なものを感じ、生理的に違和感を持つのである(実はその理由は私には分かっているが、敢えて最後に書くことにする)。
 
その不同意を「ものの」見事に宮崎にぶつけたのが庵野の「ヱヴァ」であった(当時、TVで宮崎のもとを離れた庵野が久し振りに彼に逢って対談するシーンでも、師への敬意と同時に、自身のアニメーション哲学を譲らぬ印象に強く共感した(序でに言えば、その共感の理由は恐らく庵野が私と同じ特撮オタクであることと深層で繋がっているものと感じる)。
 
また、TV版の「ヱヴァ」は(当時、教え子に薦められて三日間、家で缶詰になって見たのだが)、庵野の持つ一つの「生」の一面である(と私が信ずる)不道徳的背徳的強迫神経症属性(特に後半部の)が私と共感覚を齎したと言ってもよいであろう(但し、映画版に色気を出してやらかした楽屋落ちの最終回は「おもしれえ」を通り越して星一徹状態になってTVを壊したくなったことは告白しておく。また、庵野の作品は見るもの自身の精神状態が比較的強健でないと厳しい――ややアブない――とも言えるかもしれぬ)。
最後に。
私は客観的に宮崎駿を不世出の映像作家の一人であると認めている。しかし――初期のジブリの多くが彼から離れていった彼の偏屈な人格(それ自体は天才の属性であり、問題はない)の中で、一つだけ私は生涯、絶対に許せない部分があるのである。
極めて分かり易いことだ。
 
彼は――私の愛する手塚治虫先生が亡くなった折りの手塚治虫追悼号の「朝日ジャーナル」で、只一人、追悼集の短文の中で手塚先生がアニメーションの世界でやったことは間違いだったと言い切ったからである。
 
それは恐らく、今に至るまで製作者の経済を脅かすことになるセル画の異常な安価さや、安易な同一画面の遣い回し、リフレインなど製作上技法上の指弾としては7、8割方、実は正しい内容ではあると思う。
 
問題は、それを追悼文で言い放って、何等、恥じないという点にある。だったら追悼文など書かぬがよかろう。私の記憶する限り、あの追悼集の中で只一人、批判を口にし、アニメ作家としての手塚をほぼ全否定した彼を私は絶対に許せないのである――
 

 
 
……○○君。
……記憶して下さい。私はこんな風にして生きて来たのです。
……私は「鉄腕アトム」(但し、漫画で。動画ではない)で育った人間です。手塚治虫氏は私が「先生」と呼びたくなる数少ない人物なのです。
……私が宮崎駿という人格を認めないという訳が、あなたには明らかに呑み込めないかもそれませんが、もし左右だとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。或いは個人のもって生れた性格の相違と云った方が確かかも知れません。……
 
   2014年8月26日 早朝 心朽窩主人藪野直史 記
 
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○教え子:
なるほど、やっぱり手塚治虫への追悼文の件があったんですね。そうかも、とも思っていました。
宮崎駿は、元々偏屈なところへ挫折と成功が重なって、ますます偏屈になったというか、まあ、普通あの場にああいうことは書かないだろうな、っていうものだと思います。
ぼく自身は、先生とは逆で、もののけ姫の表現技法は高く評価するけれども、映画そのものはまったく面白くなかった。
なんというか、爽快感というものが全くない!
「汚い緑のベタ」の感じ、もしかしたら「もののけ姫」の美術は、それまでの作品がヨーロッパ的な乾いた空気感だったのと正反対に、日本の湿った景色を表現しようとして狙った部分もあるのかな、と思います。
今一度、冒頭部分を見直してみたけれど、うーん、技法的に新しいか、挑戦的か、と言われれば、別に凡庸なのかもしれませんが、ともあれ、何かと「遠くまで見通せない感じ」、これが「もののけ姫」の美術の特徴、狙いなんだろうな、と思います。
脇にそれますが、息子の宮崎吾郎が監督した「ゲド戦記」は見ましたか?
まず冒頭、「父親を殺すシーン」から始まるという、なかなかの屈折ぶりです。親子で屈折しているのです、あの人たちは。(^^;
 
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● 僕 :
貴君の意見にすこぶる納得した。
 
「もののけ姫」は日本の古典的美的概念を、当時の技術の限界を越境しながら、技法だけでなく、話柄の展開にも浸潤(時にしっとりと)浸食(時にびしょ濡れに)させた作品なのであろう。汚物と血と膿の臭い、見捨てられ裏切られ排除された者たちの怨念の湿り気がしてくるようなものとして。
 
まさにそれは貴君の言う「爽快感」とは無縁なものであった。
 
そしてそこに、寧ろ、彼のように「偏屈な」私は逆に旧来のアニメーションにない実験/挑戦の「面白さ」を感じたとも言える。
 
私の嫌悪の対象は実はまさにそこか?
 
恐らくは私は宮崎駿の「偏屈さ」の部分に実は自分自身を見てしまうからこそ嫌いなのかも知れない。 
 

 
あなたとのやりとりは、久しぶりに私の苦手なアニメーションについて、真剣に考えさせてくれました。
 
ありがとう。
 
因みに「ゲド戦記」はまさに君たちを教えていた頃に、親しい英語の城村先生とユングの話をするうちに勧められて原作を読み、いたく感動したこ作品で、それだけに映画を見るのは二の足を踏んでいます。そのうち、見てみようと思います。
 
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○教え子:
「ゲド戦記」の方は、原作とは切り離してみるのがいいだろうと思います。世間の評価は悪いですが、ぼくはまあまあの出来だと思います。
 
 
   *   *   *
 
 
僕はひさびさにこの教え子のお蔭で知的な刺激を受けた。
最後に彼に謝意を表したい。

「ありがとう、〇〇君。」

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 61 越中國分 早稻の香や分け入る右は有磯海

本日二〇一四年八月二十八日(陰暦では二〇一四年八月四日)
   元禄二年七月 十四日
はグレゴリオ暦では
  一六八九年八月二十八日

である。芭蕉は十三日に市振を発し、滑川で泊り、十四日に滑川から高岡に出て、その周辺を巡って、三時過ぎに高岡に戻って泊まり、翌十五日、倶利伽羅峠を越えて金沢へ午後二時頃に着いている。諸本はこの句を十五日の作と比定するが、ロケーションは断然、十四日である。

 

わせの香や分入(わけいる)右は有磯海

 

  猶(なほ)越中をへてかゞに入(いる)

稻の香や分入右は有曾海 

 

早稻の香や分入(わけいる)道はありそ海 

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の句形。「卯辰集」(楚常編・元禄四年)には、

  越中に入りて

と前書する。私はこの前書が本句の景には最も相応しいと考えている。「有磯海」(浪化編・元禄八年)の注記、

  此句ハ元祿二年奥羽の行脚に春夏を送り、
  秌(あき)立たつ頃三越ぢにかゝり、處
  處(ところどころ)の吟ありけるなかに、
  當所のほ句と申つたへける

というのも、「秌」(秋の異体字)「立たつ頃三越ぢにかゝり」が七月十四五日に越後と越中を過ぎて、倶利伽羅越えを経て越前加賀入りをした、その直前の、という意味に於いて支持出来る文章である。「曾良俳諧書留」には、

  かゞ入

と前書するが、山本健吉氏によれば、『当時は加越能、三国にわたって前田百万石の領内であるから、ここでは三国を一つながりに見て三国と言ったのである。ことに越中の呉羽山を境にして呉東・呉西と言い、呉東は加賀藩の支藩、呉西は加賀藩の直轄であり、有磯海は呉西であるから加賀の国と言ってもおかしくはない』と解説されておられる。眼から鱗であった。

 第二句目は真蹟詠草の、第三句は「類柑子」(其角著・宝永四(一七〇七)年跋)の句形。

 以下、「曾良随行日記」を見る(〔 〕は右傍注。□は判読不能字)。

○十四日 快晴。暑甚シ。冨山カヽラズシテ〔滑川一リ程來。渡テトヤマヘ別。〕、三リ、東石瀨野〔渡シ有。大川。〕。四リ半、ハウ生子(しやうづ)。〔渡有。甚大川也。半里計。〕。氷見ヘ欲ㇾ行、不ㇾ往。高岡ヘ出ル。二リ也。ナゴ・二上山・イハセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻、着テ宿。翁、氣色不ㇾ勝。暑極テ甚。少□同然。

一 十五日 快晴。高岡ヲ立。埴生八幡ヲ拜ス。源氏山、卯ノ花山也。クリカラヲ見テ、未ノ中刻、金澤ニ着。京や吉兵衞ニ宿かり、竹雀・一笑ヘ通ズ。艮刻、竹雀・牧童同道ニテ來テ談。一笑、去十二月六日死去ノ由。

「艮刻」は「とらのこく」ではなく、「即刻」の誤字(岩波文庫萩原恭男校注版「おくのほそ道」に拠る)。

 「有磯海」は本来は波の荒い嶮しい岩礁性海岸を指す一般名詞であるが、富山では新湊から氷見にかけての沿岸海域を広汎に指す万葉の香を湛えた固有名詞となった。

 曾良の日記を見る限り、「分け入る右は有磯海」に最も相応しいロケ地は、現在の新湊市にある放生津潟(ほうしょうづがた:「ひなたGPS」。干拓でひどく変わってしまったのでこちらで示した。以下相当の「新湊町」「伏木町」も見えるようにした)周辺、若しくは「ナゴ」則ち奈呉の浦で現在の新湊市の海岸、さらに現在の高岡市伏木の「二上山」麓の国分(こくぶ)浜辺りである。しかも、その前に「氷見ヘ欲ㇾ行、不ㇾ往」とある点、即ち、後掲する「奥の細道」本文でも歌枕「担籠(たご)の藤波(ふじなみ)」(現在の富山県氷見市下田子(しもたご:グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)に行くことを強く望んだ点に着目すれば、この時、芭蕉と曾良が途中まで辿り着きながら、土地の者に、「是より五里、いそ傳ひして、むかふの山陰に入り、蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿かすものあるまじ」(ここは通用本から引用)と、嚇されて断念したとするロケーションに最も合致するのはただ一つ、伏木の国分浜しかあり得ない(「五里」は十九キロメートル弱であるが、これは丁度、国分浜辺から氷見へと向かい、そこから十二町潟などの万葉の名跡を訪ねて、「担籠の藤波」のある田子浦藤波神社へ向かう距離にほぼ等しい。何より、「いそ傳ひして、むかふの山陰に入り」はここから氷見へ向かうルートを美事に述べているからである)。現在、芭蕉の本句碑の立つ「奈呉の浦」からだと、「五里」の距離はストレート・コースならよく一致するものの、庄川と小矢部川を挟んでおり、不自然である。私は本句は高岡市伏木の国分浜で詠まれたと信ずるものである。――私は実は、中学・高校時代をこの高岡市伏木の二上山麓で過ごした。国分浜の直上の古名「如意が丘」には私の出身である県立伏木高等学校がある。そうして何より私の忘れ難い青春の思い出の地こそが、この国分浜であったのである。……これはしかし、単なる個人的ロマンティシズムによる牽強付会ばかりではないのである。この「如意が丘」という地名は非常に古い。丘の東の麓から新湊に渡るための小矢部川の渡しを古く「如意の渡し」と呼んだ。そうして――その「如意の渡し」こそが――芭蕉の偏愛する義経の「勧進帳」の話の元であるところの「義経記」に載る本当の舞台なのである!――芭蕉がそれを知らなかったはずは、絶対に、ない。とすれば、万葉の「担籠の藤波」に少しでも近づき、爽やかな幽かな早稲の香に加えて義経の残り香をもかぐわせるためにも――「いそ傳ひして、むかふの山陰に入」った雨晴(あまはらし)には義経が雨宿りをするために弁慶が磯の岩を持ち挙げたという伝承が残る岩も残る――芭蕉が、ここ国分浜で本句を詠じたと考えるのが、文学的に最も相応しい――それ以外にはないと私は考えるのである。

 以下、「奥の細道」の越中路の段。

   *

くろへ四十八が瀨とかや數しらぬ川を

わたりて那古と云浦に出担籠の藤

波は春ならす共初秋のあはれ

とふへものをと人に尋れは是より

五里礒つたひしてむかふの山陰に入

蜑の芦ふきかすかなれば一夜の宿
         イ
かすものあるましと云おとされて

かゝの国に入

  わせの香や分入右は有ソ海

   *

■異同
(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇とふへものを → ●とふべきものを

[やぶちゃん字注:脱字であろう。]

○蜑の芦ぶきかすかなれば、一夜の宿かすものあるまじ
 ↓
●蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿かすものあるまじ]

2014/08/27

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 金龍院

    ●金龍院

金龍院は。瀨戸明神の前を過ぎ。南に折れて行けは左に標石あり。八景一見之地飛石と題せり。東行すれは門あり。昇天山〔成拙書〕の額を掲け。久良岐橘樹両郡八十八ケ所の靈地第五十九番金龍院と貼表(てうへう)せり。門内左に草葺の堂宇あり。此に金龍禪院と扁額す。弘化三丙午夏五月墨齋元鼎の書する所。當寺は建長寺に屬し。本尊は正観音(せうくわんおん)にして。開山を方崖元圭和尚とす。

○飛石 寺の東園に在り。もと山上に峙ちしが。地震の爲めに轉墜(てんすゐ)し。今は平地に臥(ぐわ)せり。常に葦索(しめ)を張り。上に小石祠を安す。高さ一丈餘(よ)。廣さ九尺餘。むかし伊豆の三島明神此石上に飛移り給ひしといひ傳ふ。金澤四石の一なり。四石は飛石、福石、美女石、姥石をいふ。

[やぶちゃん注:臨済宗建長寺派昇天山金龍禅院。永徳年間(一三八一年~一三八四年)の創建と伝え、山号は古えに本寺で硯の中から龍が昇天したことに由来するという。

「八景一見之地飛石」現存。「八景島旅行 クチコミガイド」の「金龍院(横浜市金沢区瀬戸)」で画像が見られる。

「成拙」不詳。

「久良岐」既注。旧武蔵国の郡。明治一一(一八七八)年に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の横浜市中区・南区・西区・磯子区・金沢区の全域、及び南区の大部分(六ツ川四丁目を除く)、港南区の一部(芹が谷・東芹が谷・上永谷・下永谷・東永谷・丸山台・日限山・上永谷町・野庭町の各町を除いた地域)に相当する(ウィキの「久良岐郡」に拠る)。

「橘樹」これで「たちばな」と読む。旧武蔵国の郡。前注と同じ期に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の横浜市鶴見区・神奈川区、西区の一部(同年に設置された横浜区に属した区域を除く)、保土ケ谷区の一部(上星川・川島町以北及び今井町を除く)、港北区の一部(新羽町・北新横浜・新吉田東・高田東・高田町以西を除く)、川崎市川崎区・幸区・中原区・高津区・宮前区・多摩区の全域、麻生区の一部(金程・高石・百合丘・東百合丘以東)に相当する(ウィキの「橘樹郡」に拠る)。

「金龍禪院と扁額す。弘化三丙午夏五月墨齋元鼎の書する所」「弘化三」年は西暦一八四六年。「墨齋元鼎」は不詳。同じく「八景島旅行 クチコミガイド」の「金龍院(横浜市金沢区瀬戸)」で画像が見られる。

「方崖元圭」建長寺第四十七世住持。

「飛石」本来の背後の山上にあった際の記述である「新編鎌倉志卷之八」では、

飛石 寺の後(うしろ)の山にあり。高さ一丈餘、廣さ九尺餘あり。三島の明神、此石上に飛び來りと云傳ふ。

とある。「一丈餘」四・五四メートル、「九尺餘」二・七三メートル。本記載通り、元は背後の山腹にあったが、文化九(一八一二)年十一月の関東地方に発生した大地震によって現在位置に落下したものと伝えられている。落下はしたものの、それ自体の大きな欠損はないことが分かる。現在はシダ類が繁茂し、石の正確な形状はよく見えない。

「金澤四石の一なり。四石は飛石、福石、美女石、姥石をいふ」「福石」は先の「瀨戸辨財天」に出た。「美女石」「姥石」は「称名寺」に後掲される(姥石はせず)。]

北京日記抄   芥川龍之介   附やぶちゃん注釈

芥川龍之介「北京日記抄」附やぶちゃん注釈に、教え子のT.S.君の探勝になる文天祥祠の写真その他を注に追加した。芥川龍之介の誤認(「楡」ではなく「棗」)が彼によって発見された。

耳囊 卷之八 鱣魚の怪の事

 

 鱣魚の怪の事

 

 音羽町(おとはちやう)とかに住(すめ)る町人、至(いたつ)て穴うなぎを釣(つる)事に妙を得、素より魚獵を好みけるが、右町人は水茶屋同樣のものにて、麥食(めし)又はなら茶などあきなひけるが、或日壹人の客來りて麥食を喰ひて、彼是(かれこれ)咄しの序(つひで)、漁もなす事ながら、穴にひそみて居(をり)候處を釣出すなぞは、其罪深し、御身も釣道具など多くあれば、釣もなし給はんが、穴釣などは無用の由、異見なしけるに、折節雨つよくふりければ、彼(かの)なら茶屋、例の好物の釣時節と、やがて支度してどんど橋とかへ行て釣せしに、いかにも大き成(なる)うなぎを得て悅び歸りて、例の通(とほり)調味しけるに、右うなぎの腹より麥食多く出けるとなりと、人の語りければ、又壹人の噺しけるは、夫(それ)に似たる事あり、昔虎の御門御堀浚(さらへ)とかありしに、右人足方引請(ひきうけ)たる親仁うたゝねなしたるに、夢ともなく壹人來り、浚のはなしなど致けるゆゑ、定めて仲ケ間も大勢の事ゆゑ其内ならんと起出(おきいで)て、四方山(よもやま)の事語りさて此度(このたび)の浚ひに付(つき)、うなぎ夥敷(おびただしく)出候はんが、そが中に長さ三四尺、丸みも右に順じ候うなぎ可出(いづべし)。年古く住(すむ)ものなれば殺し給ふな。其外うなぎを多く失ひ給ひそと賴ければ、心よくうけ合(あひ)て有合(ありあひ)の麥食などふるまひ、翌をやくして別れぬ。あけの日、右親仁さわる事ありて、漸く晝の頃、彼者の賴みし事思ひ出して早々浚場所へ至り、うなぎか何ぞ大きなる活物(いきもの)掘出(ほりいだ)し事なきや、何卒(なにとぞ)夫(それ)を貰ひたきと申(まうし)ければ、成程すさまじき鱣(うなぎ)を掘出しぬと申(まうす)ゆゑ、早々其所へ至り見れば、最早打殺(うちころ)しけるとぞ。さて腹をさきて見しに麥飯出(いで)しゆゑ、彌(いよいよ)きのふ來りてたのみしは此うなぎなるべしとて、其後はうなぎ喰ふ事を止(やま)りしと咄す。兩談同樣にて、何れか實、何れか虛なる事をしらず。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:亡魂帰還の怪異から鰻妖(まんよう)が人に化けるという異類変容の怪奇譚で直連関。本格怪談が珍しく続く。

 底本の鈴木氏注に、本話について以下のようにある(例外的に全文を引くがこれは最後の私の補注にどうしても必要であると判断したからである)。

   《引用開始》

 三村翁の注に曰く、「八丁堀なるさる鰻屋へ、誂へに遣りしに、片目の女出で来り、今日は休の由をいふ、使帰りて、其趣をいふ故、さる事ありしとも覚えず、今一度行きて見よとて遣りしに、休みにもあらず、さる片目の女もなしと、不審しけるに、生簀の中の大なる鰻の片目なるか居たりければ、此鰻の殺されん事をいとひて、しかはからひしかと、放ちしと、人の咄せしこともありき。」蒲生飛騨守秀行が只見川へ毒流しをした時、旅僧が山里に宿って、何卒明日の毒流しをお止めになるよう申し上てくれというが、亭主は我ら如き賤し者の言をお取り上げの筈もないと、せめてもの馳走にと栗飯を饗した。翌日の毒流しに一丈四五尺の大鰻が浮き上ったが、その腹から粟の飯が大量に出たと。老媼茶話という会津のことを記した書物を引いて、『想山著聞奇集』にある。麦飯粟飯といって米の飯といわぬのが哀れである。魚王行乞譚の例は多いが、鰻は虚空蔵菩薩の使わしめとして、絶対に口にせぬ土地もあって、そのような信仰ともつながるものであろう。

   《引用終了》

●「魚王行乞譚(ぎょおうぎょうこつたん)」は、平凡社の「世界大百科事典」によれば、魚が昔話や伝説の不可欠の構成要素とされているものに、助けた魚が女の姿となって女房になり幸運を与える(「魚女房」)、動物が尾で魚を釣ろうとして氷に閉じられしっぽを失う(「尻尾の釣り」)などがあり、魚を捕らえて帰る途中で怪しいことが起こり、復讐を受ける(「おとぼう淵」「よなたま」)といった「物言う魚」の伝説譚は、魚が水の霊の仮の姿であるという信仰があったことを物語っているとし、淵の魚をとりつくす毒流し漁を準備しているとき、それを戒める旅僧に食物を与えたところ、獲物の大魚の腹からその食物が現れ、漁に参加した者が祟りを受けたという話や、川魚どもの首領が人に姿を変えて現れて毒流しを準備する人々に中止を求めるも住民はそれを聴かず、食物を与えて帰す。いざ、毒流しで多くの魚を捕ってみると、その中の特に巨大な魚の腹から先に与えた食物が出てきたので、人々はこの行為を悔いたという話(毒のあることは知りながら、それを用いることを忌むために発生した説話と考えられる)などを特に「魚王行乞譚」と称し、以上のような水神=魚という古い信仰の流れの末に位置する説話である、とする。

●「一丈四五尺」は約四・二五~四・五五メートル。

●「老媼茶話」は三坂春編(みさかはるよし 宝永元・元禄十七(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した会津地方を中心とする奇譚を蒐集したとされる寛保二(一七四二)年の序を持つ怪談集。最も知られるのは「入定の執念」で、これは原文と私の注及び現代語訳をリンク先で読める。未見の方は是非。私がハマりにハマった大変面白い怪談である。【2018年3月21日追記:同「老媼茶話」全篇はカテゴリ「怪奇談集」で電子化注を2018年2月5日に完遂しているので、参照されたい。】

●「想山著聞奇集」(しょうざんちょもんじゅう)は江戸後期の名古屋藩士で書家・随筆家であった三好想山(生没年未詳)の作。想山は文政二(一八一九)年より江戸定府となって同地で没したが、本書は彼が聴いた尾張地方や江戸の奇談五十七話を集めたものである。【2018年3月21日追記:同「想山著聞奇集」全篇はカテゴリ「怪奇談集」で電子化注を2017年6月19日に完遂しているので、参照されたい。】

 幸い、私はこの「耳嚢」に前後する孰れの書も所持しているので、現代語訳の後に原文と簡単な注を附しておくこととする。

 以下、本文注を示す。

・「鱣魚」鰻。標題のここは「せんぎよ(せんぎょ)」と音読みしていよう。

・「音羽町」日本橋の音羽町と小石川の音羽町の二つがあった。日本橋の音羽町というのは東京都日本橋印刷工業組合日本橋支部の公式サイト内の「日本橋“町”物語」によれば、『当町域の東にあたる楓川に面する地域は、中世には海岸部でしたが、江戸開府直後に櫛の歯の様に何本かの深い入堀が造成された所で、江戸城の築城用材木や石材を陸揚げしたところで』あったが、寛永一〇(一六三三)年頃には幾つかが埋め立てられ、後の元禄三(一六九〇)年には、『残りの入堀もついに姿を消し、音羽町小松町という町が成立』したとあり、そこは現在の日本橋三丁目南の地域に当たる、とある。底本の鈴木氏及び岩波版の長谷川氏の注はそれを、現在の中央区日本橋(鈴木氏はここが「日本橋江戸橋」とするが、こんな住所はない)一丁目の一部分とするが、採らない。小石川の音羽町は現在の文京区音羽一丁目及び音羽二丁目。鈴木氏も長谷川氏も小石川の音羽町と推定しておられるのは、以下に出る「どんど橋」に近い方を選んだということであろう。

・「穴うなぎを釣事」これは鰻漁の方法の一つで、巣穴に竹の棒を挿し入れて鰻を釣る穴釣りと呼ばれるものである。一メートルほどの竹竿に並行して付けた道糸の先に釣針を附けたシンプルな漁具で、河岸や小川の土手のハングした部分にある鰻の巣穴を河畔から探し出し、竹竿の先の釣り針に餌(蚯蚓)をつけて、巣穴に挿し入れ、エサを喰わせ、間合いを糸で探りながらゆっくりと竹の棒を引き抜いて行き、十分に喰ったところで一気に引き抜く。私は小学校二年生の頃、家の裏山(藤沢市渡内)の溜め池から流れ出る小川でこの穴釣りをしているおじいさんにやり方を教えて貰った。……今はもう、溜め池も小川も田圃もタニシもモッゴもいなくなった。池は埋め立てれられて、アリス御用達の公園となり、周りは一面の住宅地と化して、小川は完全な暗渠になっている。……この間、アリスの散歩で公園で親しくなった少女に鰻釣りの話も含めて往昔のここの話をしたら、笑って「嘘でしょ?」と言われた……

・「麥食」のルビは底本のもの。

・「奈良茶」奈良茶飯。ウィキの「奈良茶飯」によれば、『炊き込みご飯の一種で、奈良県の各地の郷土料理』。『少量の米に炒った大豆や小豆、焼いた栗、粟など保存の利く穀物や季節の野菜を加え、塩や醤油で味付けした煎茶やほうじ茶で炊き込んだもので、しじみの味噌汁が付くこともある』。『元来は奈良の興福寺や東大寺などの僧坊において寺領から納められる、当時としては貴重な茶を用いて食べていたのが始まりとされる。本来は再煎(二番煎じ以降)の茶で炊いた飯を濃く出した初煎(一番煎じ)に浸したものだった。江戸時代初期の『料理物語』には、茶を袋に入れて小豆とともに煎じ、更に大豆と米を炒った物を混ぜて山椒や塩で味付けして炊いた飯を指すと記され、更に人によってはササゲ・クワイ・焼栗なども混ぜたという。現在も香川県の郷土料理となっている茶米飯は、米と大豆を炒ってものを少々の塩を入れた番茶で炊いて作られており、『料理物語』に記された奈良茶飯と同系統の料理であるとみられる』。『日本の外食文化は、江戸時代前期(明暦の大火以降)に江戸市中に現れた浅草金竜山の奈良茶飯の店から始まったと言われて』おり、『これは現在の定食の原形と言えるもので、奈良茶飯に汁と菜をつけて供され、菜には豆腐のあんかけがよく出された』『これにより、奈良茶飯は、関西よりもむしろ江戸の食として広まっていった』とある。

・「折節雨つよくふりければ、彼なら茶屋、例の好物の釣時節と、やがて支度してどんど橋とかへ行て釣せし」何故、雨が降ると鰻が釣れやすくなるのか、不詳。降雨と濁りで穴を探すのも難しいし、足場も悪く危険である。識者の御教授を乞うものである(ただ、もしかすると他の釣り人が引き上げるから逆に釣果が上がるということはあるのかも知れない。激しい降りでない限りは、鰻の釣果には影響がないという記載もネット上ににはある。雨が降ると鰻が釣れ易くなるという言説がまさにネット上にあったが、実際の釣り人によるとこれはやはり誤りのようである。なお基本、他の漁法では鰻は夜行性であるから夜の方がよく釣れるらしい)。

・「どんど橋」ASHY 氏のサイト「東京探訪」の「船河原橋(ふなかわらばし)」によれば、現在の文京区後楽と新宿区揚場町の間で外堀通りが神田川を渡る船河原橋の俗称である。『この橋の創架は定かではないが、神田川及び外濠の外周を走る「外堀通り」は、神田川が開削された頃よりあったようで、この『船河原橋』も、江戸の初期には架けられていたと推測される』とあり、『『ドンド橋』とも『ドンドン橋』とも呼ばれた『船河原橋』とその上流の「大洗堰」との間は、有名な紫鯉(紫がかった黒い鯉)が放流され、禁漁区となっていたことから、「おとめ川」とも呼ばれていたらしい。紫鯉はとても美味で、将軍の食膳にだけのせるものであったと伝えられる。それでも『ドンド橋』のすぐ下は江戸川の落ち口で深瀬となっており、ここに落ちた魚は漁猟することが出来たため、いつも多くの釣り人で賑わっていたと伝えられている』とあって、本話で釣好きの麦飯屋が来るのに確かに相応しい場所である。また、「どんど橋」「どんどん橋」(岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではこちら)の由来は、その橋下が江戸川の落ち口となっていたというから、その落水の音をオノマトペイアしたものではなかろうかと私は推測するが、如何?

・「三四尺」九十一センチメートルから一メートル二十センチメートル。

・「順じ」底本では「順」の右に『(準)』の補正注がある。

・「翌をやくして」底本では「やく」の右には『(約)』と傍注する。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 鰻の怪の事 

 

 ある折り、人々と話して御座ったところ、一人の御仁が次のような話をした。

   *

……小石川は音羽町とかに住んでおった町人は、川縁りの穴に潜んでおる鰻を釣ることに於いては至って妙技を持ちおり、当然のことながら、魚捕りが、これ、三度の飯よりも好きな男であったが、本職は水茶屋同様のぱっとしない店を営み、麦飯や奈良茶飯なんどを商っておった。

 ある日のこと、一人の客が参って麦飯を食うては、主人の男に声を掛け、あれやこれや世間話を致いておったところ、ふと、徐ろに、

「……漁もいろいろと御座れど……穴に静かに潜み暮らしておる鰻を……釣り出だすなんどと申すは……これ、その罪、まっこと、深いものじゃて。……お前さまも……見たところ、店内(みせうち)や外に釣道具の多きにあればこそ……釣りをなさるるので御座ろうが……のぅ……特に罪深きは穴釣り――これ、なさらぬが身のため――じゃて……」

と意見した。

 丁度その時、雨が強う降って参った。

 すると、かの釣り気違いの奈良茶屋主人、

「――好物の鰻! その穴釣りの恰好の時節到来じゃ!」

と叫ぶと、話しておった男には、

「早や、今日はもう、店じまいじゃ。また、お出でなせえ。」

と告ぐるや、慌ただしく店を仕舞うと、直ぐに支度致いて、どんど橋とかへと出かけて行き、得意の穴釣りを始めた。

 すると、これがまあ、驚くほど大きなる鰻を挿し捕ったによって、大喜びして店へと戻った。

 釣り立てを蒲焼きにせんものと、いつも通りに裂いて調理せんとしたところが……

……ぶっとい鰻の

……その肝の中から

……未だ形を残したままの

……麦飯が

……どっさりと

……出て参った……そうな…………

   *

 と、それを聴いて御座った、別の御仁が、

「……いや……まさにそれに似た話……これ、聴いたことが御座る。……」

と次のように語り出(いだ)いた。

   *

 昔、虎の門門前の外濠の浚(さら)いがあった時のこととか。

 この浚いの人足方の現場の差配を引き受けたある親仁、浚いの前日のこと、家にて転寝(うたたね)をしておるうち、何やらん、夢うつつに、誰かが人が一人、そばへやって参り、彼に向って明日の堀浚いの話なんどをし始めたによって、

『……こ奴、見知らねえ奴だけんど、まあ、大勢の仲間の内の、新参の一人でもあるんじゃろう。……』

と思って、ごろ寝のままというのも何かと思い、起き直って、話を聴いてやった。

 すると、あれこれと四方山話を致いておるうちに、その者、またしても明日の浚いの話しに戻って参った。

「……この度の親方の堀浚いにあっては……堀から鰻が夥しゅう捕れるものとは存じますが……その中に……長さ三、四尺……その胴周りもその長きに相応の……太き大物が見つかるはずで御座いまするが……それは年古きより……かの堀内に棲んで御座いまするものにてあれば……どうか……お殺しなさいまするな……また……どうか……その外の鰻も……これ……無駄に多くは……その命をお奪いなさらぬよう……どうか!……」

と何とも妙なることを頼んで御座った。

 この親方、しばしば泥鰌放ちや鰻放ち、亀放ちなんどを致すを好む男にてもあったれば、

「……唐突に妙な願いじゃが。あいよ! 請け負うたぜ!」

と気軽に受けがい、丁度、折から家人が作って用意して御座った、ありあわせの麦飯なんどまで振る舞(も)うた上、

「じゃあな。明日(あした)は浚い方、宜しく頼むぜ!」

「……へえ……儂(あっし)とのお約束も……どうか……宜しゅうに……」

と言い交して別れた。

 ところが翌朝のこと、この親仁、急な用の出来(しゅったい)致いて、午前中一杯は堀浚いの現場に赴くことが出来ず、浚いは差配した手下の者に任せおいた。

 やっと昼頃になって、

「おう? そうじゃ! 昨日の奴に頼まれておったを忘れとったわ。」

と男との鰻の約束を思い出(いだ)いて、早々に虎の門の外濠へと出向いて御座った。

 堀端へ立つと、

「おおぅい!――鰻か何か――何ぞ、ともかくも大きなる生き物――掘り出さなんだかぁ!?――もしあったらなぁ!――何卒、それを貰い受けたいんじゃがの!」

とあちこちに声を掛けて回ったところ、

「へえ! 如何にも! 凄まじく大きなる鰻を掘り出しやしたゼ!」

と申す者が御座ったによって、直ぐにそこへ降り下って見たところが、

「もう、かれこれ、昼前のことでげして。浚い一同の晩飯の蒲焼きに恰好じゃということで、へえ、既に皆して、棒で打ち殺して仕舞いました。……」

と申す。

 親仁は、

「……そうか……まあ……しゃあないな。……さても! もう仕事も上がりじゃ。大きさが大きさじゃけえの。運ぶより、一つ、ここでざっくっりと裂いちまいな。」

 と命じた。

「合点! 承知!」

と心得のある人足が、傍らに打ち上げてあった朽木の上で裂き始めた。

……と……

……その腹を裂いてみると

……そのぬらぬらとした肝の中から

……麦飯が

……出で……くる……

 親仁は、

「……そうか。……昨日、来って命乞い頼んだは……これ、実はこのうなぎで御座ったか。……」

と呟いて、深く悔悟致いたと申す。……

 その後は親仁は生涯、鰻を食わなんだと申すことじゃ。…………

   *

 この二つの話は全体の枠組みが非常によく似ておる。

 しかし、孰れが実話で、孰れが虚言なるかは、これ、分からぬ。

[やぶちゃん補注:先に注の冒頭で示した「老媼茶話」の巻之二にある「只見川毒流(ただみがわどくながし)」を、まず、参考引用する。底本は国書刊行会一九九二年刊の「叢書江戸文庫26 近世奇談集成[一]」を用いたが、恣意的に正字化し、読みも歴史的仮名遣に直した。読点・記号・読みの一部は私が追加した(カタカナは原文のルビ)。編者による漢字傍注(訂正を含む)は【 】で、編者による補綴字は《 》で示した。踊り字「〱」は正字化した。〔 〕内は原文ではポイント落ちの割注である。【2017年10月7日追記:二日前にブログ・カテゴリ「怪奇談集」「老媼茶話」電子化注で本篇「只見川毒流」を公開したが、以下は底本に概ね準拠した本文であるので、そのまま残すこととした。リンク先のそれは本文を読み易く改訂したもので、注も追加し、全体にブラッシュ・アップしてあるので、そちらも読まれんことを切に望む。】

   *

     只見川毒流(ただみがはどくながし) 

 慶長十六年辛亥(かのとゐ)七月、蒲生飛驒守秀行卿、只見川毒流をし玉へり。柹澁(かきしぶ)・蓼(たで)・山椒の皮、家々の民家にあてゝ舂(つき)はたく。此節ふじといふ山里旅行の僧、夕暮來り、宿をかり、あるし【主】を呼て此度の毒流の事を語り出し、「有性非性(うじやうひじやう)に及(およぶ)まて命を惜まさるものなし。承るに當大守明日(アス)此川へ毒流しをなし玉ふと也。是何の益そや。果して業報(ごふはう)得玉ふへし。何とそ貴殿其筋へ申上とゝめ玉へかし。莫太(ハクタイ)の善根なるへし。魚鼈(キヨベツ)の死骨を見玉ふとて大守の御なくさみにもなるまし。いらさることをなし給ふ事ぞかし」《と》深く歎(なげき)ける。あるしも旅僧の志(こころざし)をあわれみ申樣(まうすやう)、「御僧の善根至極斷(ことわり)にて候得共、最早毒流しも明日の事に候上、我々しきのいやしきもの、上樣へ申上候とて御取上も是あるまし。此事先達て御家老の人々御諫(イサメ)ありしかとも、御承引無御座(ござなし)と承り候」といふ。あるし、「我身隨分の貧者にて、まいらする物もなし。侘(わび)しくとも聞召(きこしめし)候へ」とて柏の葉に粟の飯をもりて、旅僧をもてなしける。夜明て僧深く愁(うれひ)たる風情にて、いづくともなく出(いで)されり。

 拂曉(フツキヤウ)に家々より件(くだん)の毒類持(もち)はこひ川上より流しける。異類(イルイ)の魚鼈(キヨヘツ)死(しに)もやらす、ふらふらとして浮出(うきいで)ける。さもすさましき毒蛇も浮出ける。其内に壹丈四五尺斗(ばかり)の鰻浮出けるに、その腹、大きにふとかりしかは、村人、腹をさき見るに、あわ【粟】の飯多く有。彼(かの)あるし是を見て夕べ宿せし旅僧の事を語りけるにそ、聞入(ききいれ)、「扨(さて)は、其坊主は、うなきの變化(へんげ)來りけるよ」と皆々あわれに思ひける。

 同年八月一日辰の刻、大地震山崩會津川の下(しも)の流(ながれ)をふさき、洪水、會津四郡を浸さんとす。秀行の長臣町野左近・岡野半兵衞、郡中の役夫を集め、是を堀【掘(ほり)】ひらく。此時山崎の胡水(コスイ)出來たり。柳津(やないづ)の舞臺も此地震に崩れ、川へ落(おち)、塔寺(とうでら)の觀音堂・新宮の拜殿も、たをれたり。其明(あく)る年五月十四日、秀行卿逝(セイ)し玉へり。人皆、「河伯・龍神の祟(タヽ)り也」と恐れあへり。秀行卿をは允殿館(じようどのがたて)に葬る。

 號弘眞院殿前拾遺覺山靜雲〔秀行卿御影石塚蓮臺寺にあり

 秀行卿御辭世、

  人ぞしる風もうこかすさはくとはまつとおもわぬ峯の嵐を

 

■やぶちゃん注

●「慶長十六年」西暦一六一一年。

●「蒲生飛驒守秀行」(天正一一(一五八三)年~慶長一七(一六一二)年)は安土桃山から江戸初期にかけての大名。陸奥会津藩主。蒲生賦秀(氏郷)嫡男。以下、ウィキの「蒲生秀行」によれば、文禄四(一五九五)年に父氏郷が急死したために家督を継いだ。この時、羽柴の名字を与えられた。遺領相続について太閤豊臣秀吉の下した裁定は、会津領を収公して、改めて近江に二万石を与えるというものであったが、関白秀次が会津領の相続を認めたことにより、一転して会津九十二万石の相続を許されている。『その後、秀吉の命で徳川家康の娘・振姫を正室に迎えることを条件に、改めて会津領の相続が許されたが、まだ若年の秀行は父に比べて器量に劣り、そのため家中を上手く統制できず、ついには重臣同士の対立を招いて御家騒動(蒲生騒動)が起こった』。慶長三(一五九八)年には秀吉の命で会津九十二万石から宇都宮十八万石に移封されたが、その理由としては、『先述の蒲生騒動の他に、秀行の母すなわち織田信長の娘の冬姫が美しかったため、氏郷没後に秀吉が側室にしようとしたが冬姫が尼になって貞節を守った事を不愉快に思った』からとする説、秀行が家康の娘(家康三女振姫(正清院))を『娶っていた親家康派のため石田三成が重臣間の諍いを口実に減封を実行したとする説』などもある。『秀行は武家屋敷を作り町人の住まいと明確に区分し、城下への入口を設けて番所を置くなどして城下の整備を行ない、蒲生氏の故郷である近江日野からやって来た商人を御用商人として城の北側を走る釜川べりに住まわせ、日野町と名づけて商業の発展を期した』。慶長五(一六〇〇)年の『関ヶ原の戦いで上杉景勝を討つため、徳川秀忠は宇都宮に入』り、『その後、秀忠も家康も西に軍を向けて出陣したため、秀行は本拠の宇都宮で上杉景勝(秀吉に旧蒲生領の会津を与えられた)の軍の牽制と城下の治安維持を命じられた』。『戦後、その軍功によって、没収された上杉領のうちから陸奥に』六十万石を与えられて会津に復帰、『秀行は家康の娘と結婚していたため、江戸幕府成立後も徳川氏の一門衆として重用された』。しかしその後の会津地震や家中騒動の再燃なども重なり、その心労などのために享年三十歳の若さで逝去している。『器量においては凡庸という評価がなされているが、父は氏郷、母は信長の娘、正室は家康の娘という英雄の血を受け継いだ貴公子であった。蒲生騒動の背景には、蒲生氏の減移封を目論んでいた秀吉及び石田三成らが騒動を裏で操って秀行を陥れたという説もあり、秀行の年齢・器量のみが原因と断定するには疑問が残る』とある。

●「大地震」俗に「慶長会津地震」又は「会津慶長地震」と呼ばれ、慶長一六年八月二十一日(一六一一年九月二十七日)午前九時頃、会津盆地西縁断層帯付近を震源として発生したもの。一説によれば震源は大沼郡三島町滝谷付近ともいわれるが、地震の規模マグニチュードは6・9程度と推定されており、震源が浅かったために局地的には震度6強から7に相当する激しい揺れがあったとされる。記録によれば、家屋の被害は会津一円に及び倒壊家屋は二万戸余り、死者は三千七百人に上った。鶴ヶ城の石垣が軒並み崩れ落ち、七層の天守閣が傾いたほか、『会津坂下町塔寺の恵隆寺(えりゅうじ・立木観音堂)や柳津町の円蔵寺、喜多方市慶徳町の新宮熊野神社、西会津町の如法寺にも大きな被害が出たという』。『また各地で地すべりや山崩れに見まわれ、特に喜多方市慶徳町山科付近では、大規模な土砂災害が発生して阿賀川(当時の会津川)が堰き止められたため』、東西約四~五キロメートル、南北約二~四キロメートル、面積にして一〇~十六平方キロメートルに及ぶ山崎新湖が誕生、二十三もの集落が浸水したともいう。『その後も山崎湖は水位が上がり続けたが、河道バイパスを設置する復旧工事(現在は治水工事により三日月湖化している部分に排水)に』よって、三日目あたりから徐々に水が引き始めた(ここが本文の「胡水」の叙述に相当すると思われる。「胡」は会津の「西方」を意味するものと思われる)。『しかしその後の大水害もあり山崎湖が完全に消滅するには』三十四年(一説では五十五年)もの歳月を要し、『そのため移転を余儀なくされた集落も数多』くあった。『さらに旧越後街道の一部がこの山崎湖に水没し、かつ勝負沢峠付近も土砂崩れにより不通となって、同街道は、現在の会津坂下町内-鐘撞堂峠経由に変更されたため、同町はその後繁栄することにな』ったとある(以上はウィキの「会津地震」に拠る)。

●「柳津の舞臺」「柳津」は現在の福島県河沼郡柳津町。やはり会津の西方にある。ここの只見川畔にある臨済宗妙心寺派の霊岩山円蔵寺(本尊は釈迦如来)の虚空蔵堂は「柳津虚空蔵(やないづこくぞう)」として知られ、その本堂の前は舞台になっている。

●「塔寺の觀音堂」現在の福島県河沼郡会津坂下町塔寺字松原にある真言宗豊山派金塔山恵隆寺。本尊は十一面千手観音菩薩で、寺自体を立木観音と通称する。この観音も会津地震で倒壊している。

●「新宮の拜殿」現在の福島県喜多方市慶徳町新宮にある新宮熊野神社。ウィキの「新宮熊野神社」によれば、天喜三(一〇五五)年の『前九年の役の際に源頼義が戦勝祈願のために熊野堂村(福島県会津若松市)に熊野神社を勧請したのが始まりであるといわれ、その後』の寛治三(一〇八九)年の『後三年の役の時に頼義の子・義家が現在の地に熊野新宮社を遷座・造営したという』源氏所縁の神社であったが、後、盛衰を繰り返した『慶長年間に入り蒲生秀行が会津領主の時』、本社は五十石を支給されたが、『会津地震で本殿以外の建物は全て倒壊してしまった』とある。

●「允殿館」現在の福島県会津若松市に所在した城館。中世に会津領主であった蘆名氏の有力家臣松本氏の居館の一つであった。宝徳三(一四五一)年に蘆名氏家臣松本右馬允通輔が築いたとされる。現在は公園化され、会津五薬師の一つである館薬師堂が建ち、敷地内には秀行の廟所がある。

●「石塚蓮臺寺」現在の福島県会津若松市城西町にある真言宗石塚山蓮臺寺。通称、石塚観音。キリシタンであった秀行の正妻で、家康三女の大のキリシタン嫌いであった振姫が厚く信仰した(秀行没後、振姫は他の藩主に嫁いでいる)。但し、戊申戦争の際に本寺は焼け落ちた。現存するものの、常住する僧もいないらしい(個人サイト「天上の青」の石塚観音に拠った)。

 以上見るように、蒲生秀行が毒流を強行した只見川周辺及び彼が助力した会津を守護するはずの神社仏閣が悉く倒壊、秀行もほどなく死したという紛れもない事実を殊更に並べ示すことによって、まさに典型的な祟り系の魚王行乞譚の様相を本話が美事に呈していることがはっきりと分かる、優れた構成を持つ伝承、怪奇譚であると思う。

   *

 次に「想山著聞集」の「イハナの坊主に化けたる事 幷、鰻同斷の事」から後半部の「鰻同斷の事」の部分を引用する。底本は本「耳嚢」の底本と同じ、三一書房一九七〇年刊の「日本庶民生活史料集成 第十六巻 奇談・紀聞」の正字正仮名版を用いた。記号は前に準ずる。引用文は「老媼茶話」とほぼ変化はないが、著者による貴重な書誌学的・博物学注記が附されてあるので、煩を厭わず全文出す。【2017年5月22日追記:「想山著聞奇集 卷の參」の「イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事」の全文電子化注をブログ公開したので、ここにリンクを張っておく。

 

 又、老媼茶話に曰。慶長十六年〔辛亥〕七月、蒲生飛驒守秀行卿、只見川毒流しをし給へり。柿澁、蓼、山椒の皮、家々の民家にあてゝ舂(つき)はたく。此節、フシと云山里へ、遊行の僧、夕暮に來り、宿をかり、主を呼て、此度の毒流しのことを語り出し、有情非情に及まで、命を惜まざるものなし。承るに、當大守、明日、此川へ毒流しをなし給ふと也。是、何の益ぞや。果して業報を得玉ふべし。何卒、貴殿、其筋へ申上、とゞめ玉へかし。莫大の善根なるべし。魚鼈の死骨を見給ふとて、大守の御慰みにも成まじ。いらざる事をなし給ふ事ぞかしと、深く歎きける。主も旅僧の志をあはれみ、申樣、御僧の善根、至極、理にて候得ども、最早、毒流も明日の事に候上、我々しきの賤きもの、上樣へ申上候とて、御取上も是有まじ。此事、先達て、御家老の人々、御諫め有しかども、御承引御座なく候と承り候ひしと云。扨、我身も隨分の貧者にて、參らする物もなし、侘しくとも聞し召候へとて、柏の葉に粟の飯をもりて、旅僧をもてなしける。夜明て、僧深く愁たる風情にて、いづくともなく出去れり。扨又、曉には、家々より件の毒類持運び、川上より流しける。異類の魚鼈、死もやらず。ぶらぶらとして、さしもすさまじき毒蛇ども浮出ける。其内に、壹丈四五尺計の鰻、浮出けるに、その腹、大きにふとかりしかは、村人、腹をさき見るに、粟の飯、多く有。彼あるじ、是を見て、夕べ宿せし旅僧水に會津四群を浸さんとす。秀行の長臣、町野左近・岡野半兵衞、郡中の役夫を集め是を掘開く。此時、山崎の湖水、出來たり。柳津の舞臺も、此地震に崩れ、川へ落ち、塔寺の觀音堂、新宮の拜殿も倒れたり。其明る年五月十四日、秀行卿逝し給へり。人皆、河伯龍神の祟りなりと恐れあへりと云々。〔此茶話と云は、今會津藩の三坂氏の人の先祖なる由、三坂越前守隆景の後、寛保年間にしるす書にて、元十六卷有て、會津の事を多く記したり、此本、今、零本と成て、漸七八卷を存せり、尤、其家にも全本なしと聞傳ふ、如何にや、多く慥成、怪談等を書す。〕全く同日の談也。依て、併せ記し置きぬ。鰻も數百歳を經ては、靈に通ずるもの歟。〔七の卷に記し置きたる大鰻の談と見合わすべし。〕扨又、毒流しの事は、古くより有事と見えたり。三代實錄に、元慶六年六月三日、僧正遍照、七ケ條を起請せし中に、流ㇾ毒捕ㇾ魚事を禁ぜらるゝ條有。又、東鑑に、文治四年六月十九日、二季彼岸放生會の間、於東國有ㇾ被ㇾ禁斷殺生、其上如燒狩毒流之類向後可停止之由、被ㇾ定訖云々。左すれば、上古は、毒流しは國禁なる事と知れたり。毒流しは、山椒の皮と薯蕷と石灰とを和して沈る所も有。又は、辛皮(からかは)〔山椒の皮也。〕胡桃の皮、唐辛しを石灰にて煮詰、或は多葉粉(たばこ)の莖、又は澁かきなど、國々にて色々の仕方有事と見えたり。大同小異なり。

   *

●「零本」は「れいほん」と読む。書物の大部分の巻数が失われ、極僅かに残っているもの。端本(はほん)。この三好想山の割注は原「老媼茶話」の非常に重要な書誌学的記載であるが、本話とは直接関係がないので、将来的に「想山著聞集」の電子化を手掛けた際に考証したい(何時になることやら)。

●「全く同日の談也。依て、併せ記し置きぬ」省略した前半の「イハナの坊主に化けたる事」と同様であるから、併置したという意。信濃と信州の境、御岳山山麓近くで若者が毒揉みをして川漁せんと立ち入り、まずはと腹ごしらえをしているとそこに僧が現われて、『毒流しはよからぬ事に候』と諫める。若者たちが団子や飯を饗応して僧は食った後に立ち去る。若者らは結局、毒揉みをし、「六尺程の」(約一八二センチメートル)の巨大岩魚を捕まえるが、食わんとして腹を裂いたところが、胆の中からは、先にかの僧に与えた団子や飯粒がぞろぞろと出できて、若者らは恐懼するという怪奇譚である(ここでも筆者三好想山の岩魚に関する博物学的注が炸裂して面白いのだが、涙を呑んで向後に譲る)。これに限らず、ここに始まる一連の魚妖譚は皆、複式夢幻能のパロディみたようで実に面白い。

●「元慶六年」西暦八八二年。

●「東鑑に、文治四年六月十九日、二季彼岸放生會の間、於東國有ㇾ被ㇾ禁斷殺生、其上如燒狩毒流之類向後可停止之由、被ㇾ定訖云々」文治四年は西暦一一八八年。以下に正式な原本に拠って書き下したものを示す(末が省略されている)。未だ頼朝のである。

十九日 癸未(みづのとひつじ) 二季彼岸放生會(はうじやうゑ)の間、東國に於いて殺生(せつしやう)を斷殺せらるべきの由、其の上、燒狩(やきがり)・毒流しの類のごときは、向後、停止(ちやうじ)すべきの由、定められ訖んぬ。奏聞(そうもん)を經(へ)らるべしと云々。

●「薯蕷」「しよよ(しょよ)/じよよ(じょよ)」と読む。ナガイモ又はヤマノイモの別名。]

2014/08/26

橋本多佳子句集「海彦」 青蘆原 Ⅲ

 

水底の明るさ目高みごもれり

 

吾に気づきてより翡翠の気鋒損じ

 

草深く落つ螢火の重さもて

 

滝道や小幅の水がいそぎゆく

 

螢火が過ぐとき掌中の螢もゆ

 

葭雀松をつかみて啼きつゞくる

 

[やぶちゃん注:「葭雀」は「よしすずめ」と読む。スズメ目スズメ亜目スズメ小目ウグイス上科ヨシキリ科 Acrocephalidae に属するヨシキリの仲間の総別称。夏の季語。miz8ra 氏の「よしきりのさえずり(2)」で鳴き声と映像が視聴出来る。]

 

髪乾かず遠くに蛇の衣懸る

 

[やぶちゃん注:多佳子には珍しいかなりはっきりとした鬼趣句である。「衣」は「え」で、蛇の抜け殻であろう。やや作為的確信犯だが嫌いじゃないね。]

 

日盛りの墓かげ濃しや吾を容れ

 

草静か刃をすゝめゐる草刈女(め)

 

人への愛憎午前の蟬午後の蟬

 

時計直り来たれり家を露とりまく

 (二十六年)

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 またしても「よいとまけ」/謎の禅語二種――漢詩の同定と判読のご協力を乞う!――

 鉄道軌道を歩いている内に我々は、日本の労働者が地ならしをするのに、シャベルや鉄棒の一振りごとに歌を歌うことを観察した。日本人はどんな仕事をするのにも歌うらしく見える。

[やぶちゃん注:前段の大森貝塚発掘の行きか帰りの嘱目であろう。モースはともかく、日本到着直後からこの手の「よいとまけ」系の仕事唄に異常に関心を示すのは既に見て来た通りである。]

M466

図―466

 

 我々は有名な料理屋へ昼飯を食いに行った。私の日本人の友人たちは、美しい庭園にある石碑の文句を訳すのに、思いまどった。矢田部教授はそれが大体に於て「梅の花の香は、書斎でインクの流走を起させる」という意味だといったらよかろうといった。つまり、花の香が詩人に詩を書かせるということである。このような日本、あるいは支那の古典から取った題句の多くが、家にかけてある額や、庭園の石に見られる。これ等を翻訳すると、我々には何だか大したものでないように思われるが、而も日本人は、それ等が書かれた漢字は、彼等には更に意味が深く、その精神は翻訳出来ないのだと固執する。私と一緒にいた学生達は、この題句を英語に訳そうと試みたが、非常に困難であることを発見した。彼等の一人は、次のようなものをつくり上げた――「梅の香は、人々が白い紙を仕舞っておく部屋でインクが流れるのに似ている」。矢田部夫人が私の書画帖に、支那の古典から取った趣情句を書いてくれた。これは非常によく出来ているとのことである。図466はそれ等の文字の引きうつしであって、「春、我々は花を愛して夙く起き、月を讃美して我々は夜遅く寝る」。

[やぶちゃん注:「梅の花の香は、書斎でインクの流走を起させる」「梅の香は、人々が白い紙を仕舞っておく部屋でインクが流れるのに似ている」原詩不詳。識者の御教授を乞う。

「春、我々は花を愛して夙く起き、月を讃美して我々は夜遅く寝る」この図466の詩句は、

 

惜花春

起早愛月

夜眠遲

  ■仙■史

 

と書かれてあるようだ。最後は書写をした人物の雅号か。判読不能。最初は「鋒」か「峰」か? 最後は「史」ではなく上と合わせた一字かも知れない。幾つかの検索を試みてみたところ、よくお世話になっている早稲田大学図書館の「古典籍総合データベース」の中に加藤清正陣鼓余材諸家画賛 / 立峰仙史 編撰]」(嘉永四(一八五一)年自筆筆写)というのがあり、この古田立峰なる人物の筆致は本図と似ていないとも言えない気がする。しかも「立峰仙史」の雅号が幾つか一致するのも気になるのである。識者の御教授を乞うものである。整序して示す。

 

惜花春起早

愛月夜眠遲

 

これ自体は南宋の詩人林希逸(一一九三年~一二七一年)の「客渓十一稿」の中にある詩の一節であるらしい(個人のサイトの武漢臣撰「李素蘭風月玉壺春雑劇」現代日本語訳の注160参照)。我流で書き下すと、

 

 花を惜しみて 春は起くるを早くし

 月を愛でて  夜は眠るを遲くす

 

か。現在でもこの詩句は茶席の禅語として好んで掲げられるものであるらしい。
【2014年8月29日追記:《
中間報告》中国語に堪能な古い教え子と書道に堪能な若い教え子の二人がほぼ同時に判読不能とした部分を「絳仙女史」と判読し呉れた。これで間違いないと言ってよいであろう。問題はこの文字列が何を意味するかであるが、一番自然なのはこれをモースの書画帖に揮毫した矢田部良吉夫人である矢田部順(彼女は柳田國男の妻孝の長姉である)の雅号と考えると腑に落ちる(一見、自らを「女史」と名乗るのは奇異に思われるがやはり古い教え子から上村松園も「松園女史」という雅号を持つことを教えられたので問題ない)。ともかくも教え子のネットワークの素晴らしさを実感した。あとは矢田部夫人順の雅号が分かれば解決しそうなのだが、ネット上の探索ではこれはどうも無理のようだ。】]

飯田蛇笏 山響集 昭和十二(一九三七)年 冬 Ⅱ

 

倦怠の眼に涙する圍爐裡かな

 

爐火愉し柴もて鍋の芋さしぬ

 

爐話しばし茶うけに賤がふくみごゑ

 

[やぶちゃん注:「賤」や山賤(やまがつ)、木樵りであろう。]

 

雪眼の子ねだれる錢をねぶりけり

 

杣の子が喰ひふくみて歳の暮

 

山地蕎麥掛け干す樹々に初しぐれ

 

瀧きほひ蘭の實枯れて時雨雲

 

[やぶちゃん注:「きほひ」は「気負ふ」で瀧水が雪崩うって下るさまを意気込むようにと擬人化したものであろう。また、「競(きほ)ふ」で先を争うようにという意も含めてよかろう。]

 

しばらくは霰ふりやむ楢林

 

寒の内まくらのにほひほのかなる

 

峯の木に鵯とびはずむ雪颪

 

淺草の寒晴るゝ夜の空あはれ

 

鼻さきに冬演劇の灯が噎ぶ

 

サーカスの娘が夜食攝る脂粉かな

 

肩蒲團ねむる容色おとろへぬ

 

河竹の身に韓紅の肩蒲團

 

[やぶちゃん注:「河竹の身」は「浮き河竹」で、定まりのない、つらいことの多い身の上を水に浮き沈みする川辺の竹に喩えて、「浮き」に「憂き」をも掛けた語。遊女の境遇を指す。「韓紅」は「からくれなゐ」と読む。唐紅。鮮やかな濃い紅色のことで、深紅の色を指す(「韓」は舶来の意であるが、ウィキの「唐紅」には、『通常舶来の意味を込めて呼んだものとされるが、色彩研究家の長崎盛輝は「赫らの紅」(赫らとは照り映えるような様子。色が鮮やかで明るいこと。赤みが強いこと)赤を強調する「あから」の略、又は転訛と言う説をとっている』とし、『唐・韓は当て字』とする。]

 

積雪に古典を愛し煖爐焚く

 

冬薔薇土の香たかくなりにけり

 

秋うつり寒去る阜の墳土かな

 

[やぶちゃん注:「寒去る」は古語で寒気が近づく。「阜」は「をか(おか)」と訓ずる。丘。]

 

寒中や柴の蟲繭あさみどり

 

[やぶちゃん注:これは天蚕(てんさん)とも呼ぶチョウ目ヤママユガ科ヤママユガ亜科ヤママユ(山繭) Antheraea yamamai の羽化(八、九月)してしまった後の繭の殻ではあるまいか。鮮やかな緑色をしている。「富山市科学文化センター」公式サイトの「天蚕」には『冬に、コナラなどの雑木林に行くと、葉を落とした枝にヤママユの羽化してしまったマユがぶら下がっているのがよく見つかります。その近くの枝を探してみると、たいていヤママユの卵が見つかります』とある。但し、私は昆虫が苦手なので、その殻が冬まで緑色を保持しているかどうかは分からぬ。識者の御教授を乞う。一応、グーグル画像検索「ヤママユ 繭」をリンクしておく。この幾つかの画像を見ると、秋若しくは初冬の頃と思しい画像が含まれており、その繭の色はまさに「あさみどり」のものがある。]

 

藪の樹に曉月しろみ木菟の冬

 

   「穢土寂光」版成る

 

さむうして水洟すゝるひとりかな

 

[やぶちゃん注:「穢土寂光」は昭和一一(一九三六)年刊の飯田蛇笏の随筆集。何故、この句が昭和十二年の冬に配されているかは不明。

 この句、私には遠く芥川龍之介の辞世、

 

 水洟や鼻の先だけ暮れ殘る

 

と響き合わせているとしか思われない。]

 

落葉なき合歡の下霜とけやらぬ

 

   山爐寒夜三昧

 

寒を盈つ月金剛のみどりかな

 

   師走八日、川上保宇長逝

 

初しぐれ保宇歸寂することのよし

 

[やぶちゃん注:「川上保宇」不詳。「歸寂」とあるから懇意の僧であることは分かる。]

野鶴飛翔の圖   杉田久女

野鶴飛翔の圖   杉田久女

 

[やぶちゃん注:昭和九(一九三四)年十二月二十三日のクレジットを持つ杉田久女の随筆である。年譜記載から見ると、発表誌は『俳句研究』か。これは私の「杉田久女句集」(現在ブログ・カテゴリ「杉田久女」で進行中「鶴の句」群のために電子化した。底本は一九八九年立風書房刊の「杉田久女全集」を用いたが、恣意的に正字化した。末尾に簡単な注を附した。]

 

 野鶴飛翔の圖

 

 山口縣八代村の一夜は月光と霧につゝまれ實に美しかつた。曉方(あけがた)田鶴の飛んで來るのをしきりにまつて私は夜中しばしば起きたのであるが、夜がしらじらあけそめた頃亭前の刈田に疳高い鶴の一と聲をきいた樣な氣がして私はとび起きた。

 障子をあけて露臺に出て見ると、向うの松山から今ねぐらをたつた三羽の鶴が高なきつゝこちらを向いて悠々と飛んで來るのであつた。

 三羽の田鶴は私の佇んでゐる眞上にきてまつ黑い翼をひろげつゝ繪に描いた鶴そのまゝの美しい姿で簷高く旋囘した。

 大空の月を中心に舞ひすみなきすむ三羽鶴をうち仰ぎつゝ佇ちつくす私の魂は恍としてをどつた。

 やがてあとからあとから幾むれかの田鶴が門前の刈田をさして舞ひ下り、四山の山容に谺してしきりになき交した。

 大地も稻城も霜白く、太陽は今東の山から朝霧を破つて日の征矢を盆地にそゝぎはじめ、田の面の稻城はくつきりと紫影を曳いて霜煙をあげてゐた。

 田鶴は尚幾むれも幾むれも舞ひ來り、飛翔しては遠近の刈田にまひ下り、或は日輪のまぶしい光芒の中でさかんに飛翔した。

 田鶴の舞ひ來る數は三羽或は四羽五羽以上、時に數十羽、むれをなしてじつに美しく、翅をかへして舞ひ下りる時その右左にまつ直にのべた翅の表がキラリクキラリと純白に輝き光る樣は誠に美事であつた。

 朝餉をすまして宿を出た私は鶴のむれを見るべく刈田を縱横にひろひ歩いた。

 天氣はよく晴れ渡つてゐた。

 刈田の畔は紅葉し、小川のそばには美事な一株のかれ薄が、純白の穗を風に梳られてゐた。それは丁度お帽子をぬがれた蘇峰翁のお白髮のやうに美しく輝いてゐた。

 私は稻城を出てそろそろと田鶴のむれに歩み近づいて行つた。

 雛鶴をつれて刈田を餌る群鶴は、私の歩み近づくに從つて、しづかに山の方へ山の方へと歩みを移しつゝあつた。

 鶴は山田の邊りに舞ひ下りては谺しつゝなき交す。殊に靑空高く翼をのべ脚をそろへて圓を描きつつ舞ひすむ時の群鶴の姿はたしかに聖代の瑞相であつた。

 まだそれら數十羽の鶴よりも群れを離れて、飛ぶ時も、稻城のかげに餌る時も必ずひとりの歩みの田鶴の姿のみが私の胸にやきつくやうに刻みつけられた。

 四山に谺して寂しげに泣く田鶴の姿を追ふ私の目には涙があつた。

 

 天氣は實に明朗で瑠璃色に透いてゐた。私は數枚のヱハガキを出すべく八代村の人家の方へ歩みを運んで行つた。

 どの家もどの家も數株の菊咲かぬ戸はなく南天は赤い實を房々つけて苔むした庇に茂り、私の歩いてゆく家の向うの刈田にも田鶴がのどかに啼きつゝ舞ひ下りるのを眺めて私のこゝろはいつかまたけふの天氣同樣明るくなつた。

 私は終日八代村の群鶴と親しみ刈田をせうやうとして瑞氣にみちた日の光りをあび暮した。

 中にもかはいゝ雛鶴の中にしきりに餌をあさつてゐる親子の田鶴、數羽の家族づれの睦しい鶴は殊に私の目をひいた。

 田鶴は大空に舞ひ刈田にあそび、稻城に影をおとしつゝ聖代をことほぎ奉るかの如くであつた。

 

■やぶちゃん注

・「山口縣八代村」旧山口県熊毛郡八代村。現在は周南市。ここの八代(やしろ)盆地はツル目ツル亜目ツル科ツル属ナベヅル Grus monacha の飛来地として知られる。ウィキナベヅルによれば、中華人民共和国東北部・ロシア東南部・モンゴル北西部などで繁殖し、冬季になると日本・朝鮮半島南部・長江下流域へ南下し越冬する。世界の生息数はおよそ一万羽と推定されており、全体の九十%近くが鹿児島県出水市で冬を越すとある。全長約九一センチメートルから一メートルで、翼開長は一・六~一・八メートルになる(以下引用では注記記号、改行を省略した)。『雌雄同色。成鳥は頭頂から眼先にかけて黒く細い毛状の羽毛に覆われ、頭頂の羽毛がなく裸出した部分は赤色である。頭部から頸部にかけての羽衣は白い。種小名 monacha はラテン語で「修道士の」の意で、頭部から頸部にかけての羽衣が修道士がかぶっていたフードのように見えることに由来する。体部の羽衣は灰黒色。和名は胴体の羽衣の色が鍋についた煤のように見えることに由来する。三列風切が長く房状であり、静止時には尾羽が三列風切で覆われる。風切羽は黒い。雨覆は灰黒色で、雨覆より風切羽のほうが暗色であるが、飛翔時においてその差は不明瞭である。虹彩は赤または赤褐色。くちばしは黄色みがあり、基部は灰褐色で、先端は淡黄褐色。足は黒か黒褐色または緑黄色』。『沼地、湿原、河口、干潟、農耕地などに生息する。食性は雑食で、植物の根、昆虫、両生類などを食べる。越冬地では、水田の刈跡でイネの二番穂を採食するほか、出水ツル渡来地においては小麦やイワシなども給餌される』。越冬地では、雌雄二羽若しくは家族群として三~四羽(内、幼鳥は一~二羽)でおり、『雌雄が跳ね上がったり、くちばしを上にして鳴き交わしたりする行動が見られたりもする。ときに数十羽を越える群れにもなる。鳴き声は「クールルン」や「クルルー」で、幼鳥は「ピィー」と鳴く。ディスプレイ時には雌雄が「コーワッカ」または「クーカッカッ」と鳴き交わす』。『幼鳥や若鳥は、頭頂に黒色や赤色の斑はなく、頭部から頸部が黄褐色みを帯びており、眼の周りは黒色で、体は成鳥より黒い』。『日本では、ナベヅルは「くろづる」という名前で鎌倉時代より知られており、江戸時代には全国各地に渡来し、『和漢三才図会』などの玄鶴(黒鶴)もナベヅルとされる。明治以降は鹿児島県、山口県などに限られ、現在では、越冬渡来地として鹿児島県出水市の出水平野 (荒崎地区)に集中している。ほかに山口県周南市(旧熊毛町)の八代(やしろ)盆地などが一般に知られている』。『山口県八代のナベヅルは、日本初の禁猟対象として』明治二〇(一八八七)年に『指定され、鹿児島県出水平野と山口県八代盆地のツルは』、大正一〇(一九二一)年に『国の天然記念物に指定された』。現在、「八代のツルおよびその渡来地」として国特別天然記念物。ナベヅルは山口県の県鳥でもある。なお、『主な越冬地である出水平野では他種も含め多数の個体が飛来し過密状態になっていることから、感染症による生息数の激減が懸念されている。そのことから複数の他の地域に、越冬するツル類を分散させることが課題となって』おり、『山口県周南市八代』その他では『デコイが設置されるなど、越冬地を分散させようとの試みも始まっている』とある。Kimura Yoshiki の「ナベヅル山口県周南市八代 2012/11/15動画がある。

・「田鶴」は「たづ(たず)」で一般的な鶴の総称。古くからの歌語でもある。

・「疳高い」底本では「疳」の右に編者によるママ注記があるが、「甲高い」は「疳高い」とも書く。

・「簷」「のき」と訓じていよう(「ひさし」は採らない)。軒。

・「舞ひすみなきすむ」老婆心乍ら、「舞ひ澄み、啼き澄む」で、優雅に落ち着いて舞い、冴えてよく響く声で啼くの謂い。

「稻城」「いなき/いなぎ」と読み、稲束を貯蔵する小屋のこと。ただ、私はこの折りの「鶴の句」の「並びたつ稻城の影や山の月」や「鶴の群屋根に稻城にかけ過ぐる」という句を眺めていると、これは稲城ではなくて稲木(いなぎ)、刈り取った稲を束にして掛け並べて干す柵や木組み(稲架(はさ)・稲掛(いねか)け)のことを指しているように思えてくる。そう読んだ方がロケーションとして遙かによい。

・「蘇峰翁」徳富蘇峰。富士見書房平成一五(二〇〇三)年刊の坂本宮尾「杉田久女」によれば、高浜虚子が蘇峰の『国民新聞』(明治二三(一八九〇)年二月創刊)の俳句欄の選者であったことから(明治四一(一九〇八)年には同新聞社に入社し、「国民文学欄」を担当するも、自身の俳誌『ホトトギス』に専念するために二年後に退社した)、蘇峰と親交があった。蘇峰も坪内逍遙・幸田露伴・夏目漱石・森鷗外らと交友して文学への造詣深く、与謝野晶子・吉屋信子などの才媛への援助を惜しまなかった(蘇峰の孫名和長昌氏の談)とあり、恐らくは杉田久女もそうした蘇峰のお眼鏡にかなった才女であったのである。久女は、虚子から一向に句集序文を得られず、『ホトトギス』で全く入選しなくなったことから、虚子に出版許諾の意志がないと知り、蘇峰に句集出版の打診と思われる依頼をしたらしい。その返事と推定される蘇峰の久女宛昭和一一(一九三六)年二月七日附書簡が平成七(一九九五)年に久女の長女石昌子氏によって発見されている(当該書一六三~一六四頁に全文掲載)。実際にその句集出版(この幻の杉田久女句集の当初の題は「磯菜」であった)は原稿も揃っており、蘇峰も出版に好意的であった。しかし、理由は不明ながら、遂に「磯菜」は出版されなかった。しかし、この虚子の与り知らぬところで行われた久女と蘇峰の関係が虚子の耳に入らぬはずはなく、恐らくそれが虚子の逆鱗に触れたであろうことも想像に難くない。この年の十月、突如、久女は『ホトトギス』から一方的に除籍されるのである。

杉田久女句集 267 花衣 ⅩⅩⅩⅤ 「鶴の句」(全六十一句一挙公開)

 鶴の句

 

[やぶちゃん注:全六十一句で「鶴を見にゆく」と「孤鶴群鶴」の二部からなる久女の大作。これらの長歌ともいうべき昭和九(一九三四)年十二月二十三日のクレジットを持つ随筆「野鶴飛翔の圖」を引き続いて電子化しておく。是非、併せてお読み戴きたい。吟行先である旧山口県熊毛郡八代村(現在の周南市)及びここに登場する鶴(ナベヅル)などについては「野鶴飛翔の圖」の方の私の後注を参照されたい。]

 

  一 鶴を見にゆく

 

月高し遠の稻城はうす霧らひ

 

[やぶちゃん注:「稻城」「いなき/いなぎ」と読み、稲束を貯蔵する小屋のこと。ただ、私は次の「並びたつ稻城の影や山の月」や、後の「二 孤鶴群鶴」の「鶴の群屋根に稻城にかけ過ぐる」を眺めていると、これは稲城ではなくて稲木(いなぎ)、刈り取った稲を束にして掛け並べて干す柵や木組み(稲架(はさ)・稲掛(いねか)け)のことを指しているように思えてくる。そう読んだ方がロケーションとして遙かによい。]

 

並びたつ稻城の影や山の月

 

鶴舞ふや日は金色の雲を得て

 

山冷にはや炬燵して鶴の宿

 

松葉焚くけふ始ごと煖爐かな

 

燃え上る松葉明りの初煖爐

 

ストーヴに椅子ひきよせて讀む書かな

 

横顏や煖爐明りに何思ふ

 

投げ入れし松葉けぶりて煖爐燃ゆ

 

菊白しピアノにうつる我起居

 

霜晴の松葉掃きよせ焚きにけり

 

向う山舞ひ翔つ鶴の聲すめり

 

舞ひ下りてこのもかのもの鶴啼けり

 

[やぶちゃん注:「このもかのも」此の面彼の面。連語で、あちらこちら・そこここの意。]

 

月光に舞ひすむ鶴を軒高く

 

 

  二 孤鶴群鶴

 

曉の田鶴啼きわたる軒端かな

 

寄り添ひて野鶴はくろし草紅葉

 

畔移る孤鶴はあはれ寄り添はず

 

雛鶴に親鶴何をついばめる

 

ふり仰ぐ空の靑さや鶴渡る

 

子を連れて落穗拾ひの鶴の群

 

鶴遊ぶこのもかのもの稻城かげ

 

遠くにも歩み現はれ田鶴の群

 

畔ぬくし靜かに移る鶴の群

 

一群の田鶴舞ひ下りる刈田かな

 

鶴の群屋根に稻城にかけ過ぐる

 

一群の田鶴舞ひすめる山田かな

 

親鶴に從ふ雛のやさしけれ

 

鶴の影ひらめく畔を我行けり

 

好晴や鶴の舞ひ澄む稻城かげ

 

[やぶちゃん注:「好晴」は「かうせい(こうせい)」で快晴のこと。]

 

群鶴の影舞ひ移る山田かな

 

鶴の影舞ひ下りる時大いなる

 

遠くにも群鶴うつる田の面かな

 

舞ひ下りる鶴の影あり稻城晴

 

枯草に舞ひたつ鶴の翅づくろひ

 

歩み寄るわれに群鶴舞ひたてり

 

大嶺にこだます鶴の聲すめり

 

近づけば野鶴も移る刈田かな

 

群鶴を驚かしたるわが歩み

 

翅ばたいて群鶴さつと舞ひたてり

 

大空に舞ひ別れたる鶴もあり

 

三羽鶴舞ひ澄む空を眺めけり

 

學童の會釋優しく草紅葉

 

冬晴の雲井はるかに田鶴まへり

 

旅籠屋(はたごや)の背戸にも下りぬ鶴の群

 

舞ひ下りて田の面の田鶴は啼きかはし

 

彼方より舞ひ來る田鶴の聲すめり

 

軒高く舞ひ過ぐ田鶴をふり仰ぎ

 

啼き過ぐる簷端の田鶴に月淡く

 

田鶴舞ふや稻城の霜のけさ白く

 

田鶴舞ふや日輪峰を登りくる

 

鶴なくと起き出しわれに露臺の旭

 

[やぶちゃん注:確信犯の字余りの多重露光が却って清冽なリアリズムを生んでいる。]

 

鶴舞ふや稻城があぐる霜けむり

 

鶴鳴いて郵便局も菊日和

 

家毎に咲いて明るし小菊むら

 

鶴の里菊咲かぬ戸はあらざりし

 

稻城かげ遊べる鶴に歩み寄り

 

好晴や田鶴啼きわたる小田のかげ

 

舞ひあがる翅ばたき強し田鶴百羽

 

鶴の群驚ろかさじと稻架かげに

 

近づけば舞ひたつ田鶴の羽音かな

 

この里の野鶴はくろし群れ遊ぶ

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 60 市振 一つ家に遊女もねたり萩と月

本日二〇一四年八月二十六日(陰暦では二〇一四年八月二日)

   元禄二年七月 十二日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年八月二十六日

である。この日、芭蕉は市振に着いた。

 

一つ家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月

 

一つ家に遊女も寢たり荻(おぎ)と月

 

一つ家に遊女も寢たり萩(はぎ)に鹿(しか)

 

[やぶちゃん注:前の項で述べた通り、諸資料から推すと、物語仕立ての異例の、話柄そのものの虚構性が喧しい「奥の細道」の当段本文は勿論のこと、本吟も実際のこの日の市振での即吟ではなく、旅を終えて「奥の細道」本文を書いた折りの作であろうと多くの研究者は指摘している。しかし、そんなことは何の意味もないことである。紀行だろうが随筆だろうが小説だろうが(そもそも当時、今のような虚実認識に立った近代文芸上の息苦しい画然とした区別は存在しない)総てそれは物語りである。芭蕉が実際に遊女らに逢ったかどうかという刑事染みた聴き込み捜査をする必要は文芸として味わうためには寧ろ、致命的な強毒として作用する。但し、私は事実ここに書かれたものに近い遊女との邂逅がこの旅の何処かで実際にあったと考えている。そう考えてこそ/のみこの話は我々の印象の中で忘れ難いリアリズムを持つからである。そう考えずにこの章段の虚構性を殊更に論う輩は、句を含めた本文を味わう資格を最早、永遠に喪失する者だと言わざるを得ない。敢えて言うならこのこのシークエンスは、以前に検証したようにここまでの芭蕉の越後路の実際は忘れてしまいたい不本意にして不快な現実体験(風体の乞食俳諧僧と胡散臭く思われて宿を断られ、後から芭蕉と知れれば手を返したようにすり寄ってくるといった凡俗の態度に接したこと)の多いものであったと考えられ、さればこそ、その事実を拭い去ってしまい、自身の思い出の、昇華された「奥の細道」の旅を、かくも濃厚に演出したのだと言い換えてもよい。

 

 第一句目は「奥の細道」の知られた句形。

 第二句目は「泊船集」の句形。但し、何人かの研究者はこれを異形句とせずに単なる「萩」を「荻」の誤字とする。底本の岩波文庫版中村俊定校注「芭蕉俳句集」には本文は勿論、脚注にも載せない。中村氏は完全に「泊船集」のそれを誤伝としているものと思われる。私は後述する理由からこれを異形句として掲げておく。私はこの句と「曾良俳諧書留」の市振の時間帯(無論、本句は載らない)のすぐ前に記されてある、前項で記した、高田での、

 

薬欄にいづれの花をくさ枕    翁

  荻のすだれをあげかける月 棟雪

 

の医師細川春庵棟雪)のつけた脇句が気になって仕方がないのである(これを指摘している方は管見する限り、誰もいないので、猶更気になるのである。私は気にしない方がおかしいと思うからである)。この荻は荻で出来た簾ではある、しかし芭蕉の意識の中にはこの棟雪の「荻」と「月」という取り合わせを生かしたい意識が沈殿したのではなかったとは言えない。私は敢えて言うなら寧ろ、カラーで撮る「市振の段」の「萩と月」よりも、もの寂びたモノクロームの「市振」の段を撮りたい。そうしてその時私の好みとしてはあからささまに艶なる色を感じさせる「萩と月」よりも「荻と月」の映像を選びたく思うのである。少なくともそうした私の「市振の段」のフィルムの印象の中では「荻と月」も十分に資格を持った句として認識されるのである。次の第三句の解説も参照されたい。

 第三句目は「芭蕉句選年考」(石河積翠著・寛政年間(一七八九年~一八〇一年)成立)に『或本に萩に鹿ともあり』と記されあるものから復元した。この第三句目は頴原退蔵・尾形仂訳注の角川文庫版「おくのほそ道」の発句評釈の注記データではこの句形を『疑問』として否定的であるのに対し(実はこの句の直後に示された出典その他の注記部分は尾形氏によって後から追加されたもので、頴原氏の研究を後継して本初を改訂した尾形氏はこの第三句目を明らかに存疑の句とし、捏造された可能性が強いと考えていることを示唆する謂いとしか読めない)、後掲するように恐らくは頴原氏の手になると思われる発句評釈中では当「萩に鹿」が初案であった可能性を強く示唆する叙述となっている(時間を置いて二人の研究者が携わったことによる齟齬で、これについては冒頭の凡例で尾形氏も別な箇所については断っているのであるが、読む者は頗る戸惑わざるを得ない強い違和感がある)。私は評釈本文の立場をとってこの句形を掲げておくこととする(底本の岩波文庫版には脚注に「句選年考」の記事を引用するのみで異形句としては本文採用をしていない)。評釈は遊女が「萩」に、芭蕉自身が「月」に象徴されるように思われたという通釈の後、以下のように続く。

   《引用開始》

 萩と月は実景であったろうが、この句の場合、それは実景としてよりも一種の比喩として重く見られねばならぬ。しかし単に遊女を芭蕉自身を月に喩(たと)えたというだけならば、談林風の見立てと相距(あいへだた)ること遠くはない。これは単純な、もしくは理知的な比喩や見立てとはちがう。萩と月とは、いわば遊女と芭蕉との「にほひ」である。楚々(そそ)として可憐(かれん)な萩の姿、清く世塵(せじん)を離れた月の光、それは眼前の景であると同時に、芭蕉の心には遊女と自分との相(そう)をそのま見ているのであった。萩と月とは実であり、また虚である。つまりこの句は、そうした芭蕉の心持からはいって味わうべきであろう。芭蕉自身を月の清光に擬したのはおかしいという考えもあろうが、この場合道徳的な反省などは加わっていない。ただ遊女の萩に対して、芭蕉は自分の世捨て人めいた境涯を、何となく素月の光に思いくらべたのであろう。

 この句をかように解すると、おそらく今日の人々からは好感をもたれまい。たとえ萩と月とが「にほひ」を表わしたものにせよ、それが比喩的に取扱われているかぎり一種の臭味がある。だから萩と月とをまったく眼前の景物として見ようとする解もある。しかしそれは、樋口氏もいわれている通り、芭蕉時代の句としては正しい鑑賞のしかたではあるまい。『句選年考』に「ある本に」というのは出所が明らかでないが、とにかく、「萩に鹿」と伝えたものさえあるというのである。芭蕉が「萩と月」と置いたのは、けっして単なる景物のあしらいではなかった。もとより「萩に鹿」のままではあまりに露骨な比喩に終わるので、さらに推敲(すいこう)をかさねた結果、この句を得たのではあるまいか。

   《引用終了》

因みに文中の「樋口氏」云々というのは昭五(一九三〇)年麻田書店刊「奥の細道評釈」とその著者樋口功氏のことである。私はこの解釈が支持されるとならば、寧ろ、第二句の「荻と月」は正当な句案の一つであった可能性がもっと支持されてよいと考えるものである。いや、例えば初案を「萩に鹿」とあからさまに見立ててその如何にもな『臭味』を避け、高田の棟雪の脇句で気に掛かっていた取り合わせの「荻と月」と改作してみたものの、その画像が如何にもな陰画なってしまい、艶が減衰するのを物足りなく思い、最初の印象を反芻して「萩と月」と決したとしても――そういう推敲過程があったと仮定しても何らおかしくない。

 

一つ家に遊女も寢たり萩に鹿

 ↓

一つ家に遊女も寢たりと月

 ↓

一つ家に遊女もねたり萩と月

 

いや、寧ろ、「市振の芭蕉」というショート・フィルムとしてはこの方が断然、面白いと私は思うのである――言っておくが私はアカデミズムの研究者ではない。だからこそ彼らが言いたくても言えない/本来言いたいはずの自由な愉しい夢想を飛ばすことが出来る。いや、本当の研究者というのはそういう文芸の享受の核心にあるはずのエクスタシーを失った時、最早、饐えた魂なき遺骸を掘る盗掘者に成り下がるのだと思う――。

 以下、「奥の細道」の市振の段。

   *

今日は親しらす子しらす犬もとり駒返し

なと云北國一の難所を越てつかれ

侍れは枕引よせて寢たるに一間隔て

面の方に若きをんなの聲二人計ときこゆ

年老たるおのこの聲も交て物語する

をきけは越後の國新潟と云處の

遊女成し伊勢に參宮するとて

此關まておのこの送りてあすは古里に

かへす文したゝめてはかなき言傳なと

しやる也白浪のよする汀に身をはふら

かしあまのこの世をあさましう下りて

定めなき契日々の業因いかにつた

なしと物云をきくきく寢入てあし

た旅たつに我々にむかひて

行末しらぬ旅路のうさあまり覺

束なう悲しく侍れは見えかくれに

も御跡をしたひ侍ん衣の上の御情

に大慈のめくみをたれて結緣せさ

せ給へとなみたを落す不便の

事には侍れ共我々は

所々にてとゝまる方おほし

唯人の行にまかせて行へし

神明の加護必つゝかなかるへ

しと云捨て出つゝあはれさ

しはらくやまさりけらし

  一家に遊女もねたり萩と月

曽良にかたれは書とゝめ侍る

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇伊勢に參宮する       → ●伊勢參宮する

○行末しらぬ旅路のうさ    → ●行衞しらぬ旅路のうさ

○不便の事には侍れとも    → ●不便(ふびん)の事には思ひ侍れども

■やぶちゃんの呟き

 まさに壮大な連句「奥の細道」の巻の、特異点としての恋と月の座である。

 本段は西行の江口(淀川と神崎川の交わる場所にあった川湊。現在の東淀川区内)の伝承を第一の本歌とする。「新古今和歌集」の「卷第十 羈旅歌」の第九七八・九七九番の問答歌がそれである(二首ともに多少の異同を含むが「西行法師家集」「山家集」にも所収する)。西行が天王寺詣の途次、にわか雨に遇ってこの江口の遊里で一夜の宿を望むも、女主人の舟遊女「江口の君」(妙(たへ))にすげなく断られるそこで西行は、

 

 世の中を厭(いと)ふまでこそ難(かた)からめ仮りの宿りを惜しむ君かな

 

と詠むと、江口の君は、

 

 世を厭ふ人とし聞けばかりの宿に心とむなと思ふばかりぞ

 

と返したという話である。

 これは後の「撰集抄」で厚艶な西行伝説に改作される。これが第二の本歌。

 遊女妙は和歌を返した後、宿内へと西行を迎え入れ、妙が遊女の苦界(くがい)を語り、出家を志す胸内を『しやくりもあへず泣』きつつ訴え、一夜懇ろに語り合って再会を約すも、客のあって訪れることが出来ず、互いに逢いたい思いを和歌で贈答するもそのまま時の経つうちに、遂に行方知れずとなって亡くなったと聴いた。『かの遊女の最期のありさま、いかゞ侍るべきと、かへすがへすゆかしく侍り』と終わる(引用は岩波文庫版一九七〇年刊西尾光一校注本を用いた)。

 そうしてさらに、この「撰集抄」を元に創作された夢幻能「江口」が第三の本歌となる。行脚の二僧(ワキ・ワキツレ)が都から江口の里に来て西行の古歌を口ずさんで懐かしむ。と、里の女(前シテ)が呼びかけつつ現われて、西行と遊女との問答歌の真意を説く。訝る僧らに自らを「江口の君」の霊と告げて消え失せる。里の男が旅僧に遊女が普賢菩薩となって現れる奇瑞を語って供養を勧めると、旅僧らが弔いをする。すると江口の君の霊(後ジテ)が二人の遊女を連れて舟に乗って現われ、遊女の悲惨な身と六道流転の歎きを述べた後、悟りの舞を舞って、執着を捨てたならば迷いはないとする大悟を示して、遊女は普賢菩薩に、舟は白象となって西の空へ消えて去ってゆく。

 冒頭のワキとワキツレの「次第」は、

 

月は昔の友ならば  月は昔の友ならば

 

に始まり、後ジテの「江口の君」の舟遊びの舞いの場面を中心に集中的(九回)に「月」が現れるが、この場合、この月が真如の月であることは言を俟たない。

 これらをインスパイアした芭蕉は俳諧の象徴性により、静謐さと同時に濃艶な暗示の匂わせを施した。ここでの遊女と僧形の俳諧師芭蕉は、第一本歌に立っている西行のような小洒落たストイッシズムや教養に富んだ高級娼婦のそれでもなく、第二本歌の過剰にウェットで互いに接して漏らしそうな濃密さを孕んだ何やらん隠微なエロティシズム(を私は強く感じる)でもなく、第三本歌の荘厳にして私には異様にしか見えない菩薩化する遊女とそれを崇める供養僧のそれでも、これ、さらさらない。

 萩と月――これはやはり、素直にそのままの自然の「萩と月」なのであり、萩に作為のない「女」という存在の匂いを、月にそれを照らす静かな芭蕉の「真如」ならぬ「女」を遂に忘却することの出来ぬ凡夫としての「男」としての芭蕉の「心」の影を、私は詠むのである。そういう象徴関係をここに感じてはいけないのだと殊更に禁忌の駄目出しをし続ける一部の諸家(結構いる)は俳諧の真の味わい方を寧ろ、御存じない方だと私は断ずるものである。少なくともその人の見ている萩と月は、私の見ている萩と月とは全く違う対象であり、彼我の世界は世界と反世界であり、全く断絶した永遠に理解し合えぬものである。

「曽良にかたれば書きとゞめ侍る」「随行日記」にも「俳諧書留」にも記載はない。参考までに「随行日記」の当日と翌日の記事を示して終わりとする。

 

○十二日 天氣快晴。能生ヲ立。早川ニテ翁ツマヅカレテ衣類濡、川原暫干ス。午ノ尅、糸魚川ニ着、荒ヤ町、左五左衞門ニ休ム。大聖寺ソセツ師言傳有。母義、無事ニ下着、此地平安ノ由。申ノ中尅、市振ニ着、宿。

○十三日 市振立。虹立。泊ニテ玉木村。市振ヨリ十四五丁有。中・後ノ堺、川有。渡テ越中方、堺村ト云。加賀ノ番所有。出手形入ノ由。泊ニ至テ越中ノ名所少ゝ覺者有。入善ニ至テ馬ナシ。人雇テ荷ヲ持せ、黑部川ヲ越。雨ツヾク時ハ山ノ方ヘ廻ベシ。橋有。壹リ半ノ廻リ坂有。晝過、雨聊降晴。

 申ノ下尅滑河ニ着、宿。暑氣甚シ。]

2014/08/25

橋本多佳子句集「海彦」 青蘆原 Ⅱ

  遠賀川を渡る 二句

 

咳しつゝ遠賀(をが)の蘆原旅ゆけり

 

青蘆原をんなの一生(よ)透きとほる

 

[やぶちゃん注:本「青蘆原」句群の標題句二句。これもやはり昭和二六(一九五一)年五月に博多で催された『天狼』三周年記念博多大会に出席した折り、遠賀川まで足を延ばした際の詠。特に二句目は嘗ての師久女を追懐して余りある。いや、寧ろ、そこに老いを迎えた(当時多佳子五十二)自身の影をもダブらせているように思われる。

 前書の久女の句は、昭和七(一九三二)年秋の句で、久女没(昭和二一(一九四六)年一月二十一日。満五十五歳)後、六年後に日の目を見た昭和二七(一九五二)年十月刊「杉田久女句集」では、まず「水郷遠賀 十一句」の二句目に「菱刈ると遠賀の乙女ら裳を濡すも」と載り、すぐ後に、「水郷遠賀 三句」の二句目にこの句形で出る。以下に後者を引用する。

 

   水郷遠賀 三句

 

 菱實る遠賀の水路は縱横に

 

 菱採ると遠賀の娘子(いらつこ)裳(すそ)濡(ひ)づも

 

 菱摘むとかゞめば沼は沸く匂ひ

 

「遠賀川」は福岡県南東部にある現在の嘉麻(かま)市(旧嘉穂(かほ)郡嘉穂町(まち))の馬見山(うまみやま)に源を発し、筑豊地方の平野部を流れて響灘(玄界灘)へと注ぐ川で、久女は好んでこの下流域(水巻町から河口近くの芦屋町辺り)を吟行した。富士見書房平成一五(二〇〇三)年刊の坂本宮尾氏の「杉田久女」によれば、この芦屋は『九州のいわば海の玄関で、京都と大宰府を結ぶ官道の重要な地点で』、『京都から来た役人たちは』、ここ旧地名で「塢舸(をか)の水門(みなと)」(これが「岡賀」「遠賀」と表記が変化して濁音化撥音化して「遠賀」となったとある)『から九州に上陸し、逆に京都へ帰る役人はここから船に乗った』とあり、「万葉集」にも(巻七の一二三一番歌)、

 天(あま)霧(き)らひ日方(ひかた)吹くらし水莖(みづくき)の岡の水門(みなと)に波立ちわたる

と詠まれている。「水莖の」は「岡」の枕詞。
 
――空一面に曇って、東の方から風が吹いているようだ……岡の湊に波が一面に立ち渡っているよ――
 
の意。

 坂本氏は杉田久女の本句について、

   《引用開始》

「濡づ」とは水につかる、濡れるの意。「裳(も)を濡(ひ)づも」あるいは「裳の裾ぬれに」は万葉時代に用いられた女性の官能的な美を詠う慣用表現である。久女はこの句を何度も推敲して「乙女は」「乙女ら」「娘子」の三種類の表現を試みている。「乙女は」の助詞「は」は説明的だ。「乙女ら」よりも「娘子」のほうが字面がいい。そのため久女は最終的に娘子を採用したのであろう。久女は「娘子」に「いらつこ」とルビをふっているが、辞書には「いらつこ」とは若い男のこと、若い女は「いらつめ」とある。そうなるとこの読みには無理がありそうだ。

   《引用終了》

とある。

 私は、菱を採る際に詠われ労働歌は、実は広くアジアに於ける歌垣(ラブ・ソング)であったのだと思う。日本初公開のベトナム映画「無人の野」(一九八〇年)の冒頭の、美しいそのベトナム語の歌声(男性から女性へ)を私は忘れることが出来ない(確証はないが、あれは菱採りであったように思う)。菱採りという設定自体が既にしてロマンスなのだと私は信じて疑わぬのである。

 何より、私は菱が大好きなのである。一年草の水草で池沼に生える双子葉植物綱フトモモ目ヒシ科ヒシTrapa japonica の実は澱粉が凡そ五十二%含まれており、茹でたり蒸したりして食すると栗のような味がする(以上はウィキの「ヒシ」に拠る)。私は私の年代では珍しいヒシに親しんだ経験のある人間である。鹿児島出身の母の実家は大隅半島中央の岩川というところにあったが、小学校二年生の時に初めて訪ねた折り、近くの山陰の池に平舟を浮かべて、鮮やかな緑色のヒシの実をいっぱい採って、茹でて食べた思い出がある。それから三十年の後、妻や友人とタイに旅行し、スコータイの王朝遺跡を訪れた際、路辺で婦人が黒焼きにしたヒシの実を小さな竹籠に入れて売っていた。それは棘が左右水平方向にほぼ完全に開いたもので実の湾曲が殆んどない如何にも美しいのフォルムであった(グーグル画像検索「ヒシの実」はこちら)。まだ二十歳の美しいガイドのチップチャン(タイ語で「蝶」の意)に「これは日本語ではヒシと言います」と教えると、「ヒシ」という名をノートに記し、何を思ったものか、そのヒシの実一籠を自分のお金で買い求め、私にプレゼントしてくれた。それからまた三十年近くが経つ。……そろそろヒシに出逢えそうな予感がする。……]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 大森貝塚出土の貝類と現生種の比較

 十一月二十二日。我々は再び大森の貝塚へ、それを構成する貝殻の各種を集めに行き、次に海岸に打上げられた生きた標本を集めに行った。両者を比較するためである。すでに私は貝殻の大きさのみならず、釣合にも相違のあることに気がついていた。二枚貝の三つの種( Arca granosalamarckianaponderosa )は、いずれも帆立貝みたいに、放射する脈を持っているのだが、それ等は貝塚に堆積された時よりも放射脈の数を増し、バイの類のある種( Eburna )の殻頂は、現在のものの方が尖っているし、他の種( Lunatia )は前より円味を帯びている【*】。

 

* これ等、及びその他の相違は私の大森貝墟に関する報告の中に発表してある。貝殻の変化に関する観察の部分はダーウィンに送ったが、それに対して彼は、「全有機世界は何という間断なき変化の状態にあるのだろう!」と返事をした。(『続チャールス・ダーウィン書簡集』第一巻三八三頁)

 

[やぶちゃん注:この明治一一(一八七八)年十一月二十二日の大森貝塚発掘と近隣の大森海岸での現生種の貝の貝殻を採集したビーチ・コーミングの記事は、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」本文や年譜にも載らないが、見逃すべきでない非常に重要な箇所であると私は思っている。以下に一九八三年岩波文庫刊の近藤芳郎・佐原真編訳「大森貝塚」の正式論文「大森貝塚」最終図版である「図版 18」を示す。キャプションは、

   《引用開始》

図版18 注意 この図版の図はすべて実大[やぶちゃん注:ここに当該引用所では図版の縮尺が約1/3であるという編訳者による注記が入るが、私の図はほぼ原寸大に戻してある。以下の冒頭の文は底本では全体が一字下げである。ピリオドとコンマは句読点に代えた。]

2つの図をならべた場合は,左が大森貝塚出土の昔の形態。右図は、大森海岸採集の現代の形態。輪郭線と点線とをともにしめした場合は、点線が昔の形態をあらわす。+記号をつけた図も、昔の形態であることをしめしている。

図1 オキシジミ

図2 アサリの類

図3 シオフキ

図4 オオノガイ

図5 アカガイ

図6 カガミガイ

図7 ハマグリ

図8 ツメタガイ

図9 バイ

   《引用終了》

Oomoriplate18

である。なお、上記画像については他者の図像作品を平面的に写しただけの写真には著作権は発生しないという文化庁の公式判断がある。キャプションなしには図の意味は分からぬから、上記も引用の許容範囲と判断する。論文「大森貝塚」では「大昔および現生の大森軟体動物相の比較」という一章が設けられて(底本五八~八五頁)、詳細な考察が行われている。是非、訳書を参照されたい。

 なお、モースは一八八〇年四月十二月号の『ネイチャー』に寄せた「大森貝塚 付 チャールズ・ダーウィン添え書き」の中で、彼の大森貝塚の正式な報告書“Shell Mounds of Omori”(英文の紀要“Memoirs of the Science Department, University of Tokio, Japan”(「日本・東京大学・理学部紀要」)の第一部第一巻。明治一二(一八七九)年七月(月は序文クレジットから推定)刊)の銅版刷最終図版(後掲する)で、同貝塚で発掘した貝類は『一部を除いてすべての種が、近くの海岸で入手できた同一種の形状と比較してある』とし、続けて『私は、貝塚の貝の形状を、新潟・神戸・長崎の同じ貝の形状と比較するのが妥当とは思わなかった。遠く離れた地方間で種が示す変異をいささかでも知っている人には、その理由は明白であろう』と述べている(「新潟・神戸・長崎の同じ貝の形状と比較する」とあるのは正式論文「大森貝塚」では実際にそれらとの比較対象の言及があることへの一種の自己弁護とも言える。以上の引用は岩波文庫版「大森貝塚」の中の「関連資料」に拠った)。ただ、モースがフネガイ科の放射肋は「貝塚に堆積された時よりも放射脈の数を増し、バイの類のある種( Eburna )の殻頂は、現在のものの方が尖っている」と断言している点には、やや疑問を感じる。モースは腕足類の専門家ではあるが、二枚貝についての種同定も万全であったとは必ずしも言えないと思うからである。アカガイやサルボウなど、フネガイ科の現生種でも多様な種がおり、それらの近縁別種では放射肋の数が異なる以外は、蝶番の形状などの微細部分の検証をしないと、非常によく似ている。モースが杜撰だったというのではなく、当時の貝類分類は未発達で(後注参照)、しかも前代の博物学の大まかな外見観察(放射肋の本数で断定する)に頼っていた傾向がここには感じられるからである(しかもモースはそれまで未見であった本邦産の種についての知識も当然ない)。即ち、モースが比較対照した個体は実は貝塚出土の種とは異なる近縁種であった可能性を排除出来ないと思うのである。これについては大方の御批判を俟つものではある。

Arca granosa」斧足綱翼形亜綱フネガイ目フネガイ科リュウキュウサルボウ亜科ハイガイであるが、現在の学名は Tegillarca granosa である。当時はフネガイ科 Arcidae より下位の属が細分化されていなかったためであろう(以下も同様に現在の学名と異なる)。因みにフネガイ科のタイプ属名 Arca はラテン語で「箱」の意で、タイプ種である一見忘れ難い学名を持つノアノハコブネガイ Arca noae の殻の形に由来している。

lamarckiana」不審。モースは「二枚貝の三つの種」(原文“Three species of a bivalve shell”)としているが、Arca lamarckiana という学名を有する二枚貝の種はいない(当時はこう学名を称したフネガイ科の二枚貝がいたのかも知れないが、検索では探し得なかった)。寧ろ、このラマルクの名を冠したものは「大森貝塚」の「大昔および現生の大森軟体動物相の比較」に、

 Natica Lamarckiana Duclos

として載る巻貝(先の図18の図8)、現在の腹足綱直腹足亜綱新生腹足上吸腔目高腹足亜目タマキビガイ下目タマガイ上科タマガイ科ツメタガイGlossaulax didyma ではなかろうか? しかしモースが誤記したとは到底思われないので、もう少し、調べて見たい。

ponderosa」これもやや不審。Arca ponderosa という種の二枚貝の種はいない。但し、当時、フネガイ目フネガイ科フクレサンカクサルボウNoetia ponderosa がかく呼ばれていたものとは思われる。なお、これは巻貝の現在の腹足綱前鰓亜綱盤足目ヤツシロガイ超科トウカムリ科レンジャクガイ(練鵲貝) Casmaria ponderosa nipponensis の種小名とも一致し、しかもモースが「大森貝塚」で、

 Eburna Japonica Lischke

として出し(これは腹足綱吸腔目バイ科バイの学名 )、図18の9に載せるそれの形状は、本種Casmaria ponderosa nipponensis とかなり近い一致を見せていることは述べおくに値するか(但し、種としてはバイ類とは全く近縁ではない)。取り敢えず二枚貝とあり「帆立貝みたいに、放射する脈を持っている」という点がよく一致する、フクレサンカクサルボウNoetia ponderosa ととっておく。

Eburna」前注に示した通り、腹足綱吸腔目バイ科バイ属 Eburna

Lunatia」これは現在の腹足綱直腹足亜綱新生腹足上吸腔目タマガイ上科タマガイ科タマツメタ属 Lunatia の属名であるが、モースは明らかに近縁のタマガイ科ツメタガイGlossaulax didyma を指すものとして記している(「大森貝塚」でも同様)。

「全有機世界は何という間断なき変化の状態にあるのだろう!」原文は“What a constant state of fluctuation the whole organic world seems to be in!”。モースとダーウィンの親交が窺える感嘆であるが(磯野先生によればダーウィンのモース宛書簡は四通が現存するという)、私はこれを読むとモースが逝去の年に発表した最後の論文「貝塚ならびに貝塚を構成する貝殻の変化」に引用した、このダーウィンからの手紙(一八七九(明治一二)年十月二十一日附。モース帰米の翌月である。“Shell Mounds of Omori”をモースが贈ったことへの礼状)の末尾の一文が響き合って聴こえるのである。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」から引用させて戴く(ダーウィンの手紙引用部は底本では全体が一字下げ)。

   《引用開始》

この年[やぶちゃん注:一九二五(大正一四)年。]モースは、「蜷川の著作に記載された五個のオリジナル」を『ボストン美術館館報』に記し、また「貝塚ならびに貝塚を構成する貝殻の変化」を『サイエンス・マンスリー』同年十月号に寄稿した。前者は陶器についての彼の恩師蟻川式胤の著作に触れたものであり、一方、彼の最後の論文となった後者は、貝類の進化という大森貝塚以来のテーマの総決算であった。その末尾にはダーウィンがモースに宛てた一八七九年十月二十一日付の手紙が全文引用されていた。その末尾の一文に、

「貴方がいま助力されている日本の進歩は、世界のあらゆる驚異のなかでもっとも驚くべき出来事のように私には思えます」とある。

 日本に関するこの二報文を書き、しかも往年のダーウィンの手紙をわざわざ引いたのは、モースが死を予感していたのではと感じさせる。不幸にも、その予感は現実となった。

   《引用終了》

「蜷川式胤」は「にながわのりたね」と読む。モースの陶器収集の師であった。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、天保六(一八三五)年に京都の名家に生まれ、明治二(一八六九)年に太政官として出仕、『民法編纂事業に参加してフランス民法を翻訳、同年四月外務省大録』(第十一等官)、『ついで五年から十年まで文部省博物局に在籍して社寺宝物調査に従事、正倉院や伊勢神宮を調査した。当時第一流の好古家で、陶磁器や古瓦などに造詣が深かった』。モースとは『明治十一年の晩秋までにはすでに交流があったと思われる』が、『両者の接触がいちじるしく緊密になるのは明治十二年に入ってからで、『蜷川日記』を見ると、一月から四月までにに約三〇回も会っている』とあり、彼の指導によって『モースの』陶器への『鑑別力はめきめき上達して、まもなく専門家を驚かせるまでになった』という。『こうして始まったモースの日本陶器コレクションの大半は、いまボストン美術館に納められており、現存点数は四七四六という。海外はもとより、国内にも単一のコレクションとしては並ぶものがほとんどない』とある。本書でも「第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし」(この陶器は考古学上の土器ではなく、本物の陶磁器のこと)など、おいおい語られてゆくこととなる。

……「全有機世界は何という間断なき変化の状態にあるのだろう!」……「貴方がいま助力されている日本の進歩は、世界のあらゆる驚異のなかでもっとも驚くべき出来事のように私には思えます」……モースがそしてダーウィンが驚嘆し、そうして少なくともモースがある種の漠然とした危惧を抱いたに相違ない「間断なき変化の状態にあ」った「全有機世界」としての「日本」という存在――モースが心から親愛し、「助力」した「日本」が――恐ろしい勢いでみるみる「進歩」肥大化し、「世界のあらゆる驚異のなかでもっとも驚くべき」存在へとのし上がって――その後も今も――数多のおぞましい悪鬼に憑りつかれている日本という存在がある――ということを、モースやダーウィンが知ったなら……どう感ずるであろうと、私は思うのである……] 

2014/08/24

僕の長女の28歳の誕生日

長女のMaia。1986年8月24日生(これは鎌倉の古美術商から僕の所へ養女に来た日である。独身の二十九歳の時にボーナスを殆んど総て遣い切った)。

シモン&ハルビックのビスクドール。ヘッドNo1909。金髪は人毛、横たえると目を閉じる。

Maria

「母 聖子テレジア 歌集」及び選歌集「たらちね抄」PDF版

「母 聖子テレジア 歌集」及び僕が選した選歌集「たらちね抄」のそれぞれのPDF版をサイト・トップに公開した。かあさん…………

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」「見えない雲」

2年前に買って放置していたDVD「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」(Qは教え子に招待されて公開時に鑑賞済)と、原発事故を描いたドイツ映画「見えない雲」(2006年)を見た。

「エヴァ」の画像は驚くべきものである。大嫌いな宮崎駿が映画と同じ手法を安易にアニメションに適応して、非常に汚い画像となっている(例えば「もののけ姫」の冒頭近くの森の右から左へのパン・カットなど)のに対し、庵野の処理は特に光学的処理に於いて神憑っていて、アニメ―ションの疑似実写化ともいうべき、非常に美しいものである。但し、ストーリーはTV版の方が遙かに優れている(僕は劇場版三部作は未見)。

「見えない雲」は妻の「通販生活」の附録としてあったものが「エヴァ」の間に挟まっていたので見た。前半の主人公の女子高校生ハンナと同級生エルマーのラブ・ストーリーの部分はやや冗長であるが、原発事故発生以降の展開は、実にリアルである(F・Oによる場面転換が小刻み過ぎてやや五月蠅い)。先ほど見たウィキの「見えない雲」によれば、主人公ハンナ役の『女優パウラ・カレンベルクはチェルノブイリ原発事故の時に胎児であった。健康な外観で生まれたが、幼児期に検査をしたところ、心臓に穴が開いていること、片方の肺がないことが判明した。しかし彼女は体に障害があるとは思わせることはなく、疾走する場面も問題なくこなした』とあるのを見て、何か非常に厳粛な気持ちになった。
因みに、原作者である女流作家グードルン・パウゼヴァング(原作は1987年作)は福島第一原子力発電所の事故を受けて『ドイツの週刊誌『デア・シュピーゲル』に、日本人が『みえない雲』に描かれたような惨事から免れることを望むという趣旨の文章を寄せている。その文章においてパウゼヴァングは、生き残ったヤンナ-ベルタ[やぶちゃん注:原作の主人公の名。]がいずれ高度障害をもつ子供を産むであろう未来を示している。また、原子力エネルギーを推進することを原因とするかその結果起きることによって子供達が苦しむことを憂い、推進する人々がその結果起こりうる事に責任を負うべきことを理解しているかを問い、自身が生きている間は警告を続ける旨を語っている』ともある。
ウィキを読むと公開当時、原子力推進派からしつこい批判を受けたようだが、こういう映画をちゃんと創れる国だからこそ、ドイツはいち早く原発廃止の方針を打ち出せたのだと思う。放射性物質を未だにばらまいている日本は稼働を推進し、諸外国に原発を売って恥じない人非人であるのとは大違いだ。
もう一つ――放射線障害で髪を失ったハンナの姿は、ナチに絶滅収容所に送られたユダヤ人少女や、戦後のフランスでナチ協力者として丸坊主にさせられた少女の映像が僕にはダブって見えた……

2014/08/23

これにて閉店

本日は、美術修復士を目指す教え子と呑む。これにて閉店――

橋本多佳子句集「海彦」 青蘆原 Ⅰ

 青蘆原

 

   博多天狼大会の為め自鳴鐘に招かれて、

   西東三鬼氏と西下す。恰もどんたく祭に

   当る

 

旅の歩みどんたくしやぎりに替へる

 

[やぶちゃん注:昭和二六(一九五一)年五月、博多で催された『天狼』三周年記念博多大会に出席した際の句。前句集「紅絲」の末尾の句群もその折りのもので、句集としての連関性を高める。年譜には日付がないが、この前書の博多どんたくの祭日であったという記載によって、少なくともこの句以下の三句は五月四日或いは五日の景であることが分かる。「自鳴鐘」は「じめいしょう」と読み、横山白虹主宰の俳誌。詳しくは先の句集絲」由布高原」の私の注を参照されたい。

「しやぎり」「しゃぎり」は、本来は歌舞伎の下座音楽の一つで、一幕が終わるごとに太鼓・大太鼓・能管で奏する(最終幕には奏さない)、ものを指すが、そこで使われる当たり鉦(がね)所謂、摺り鉦の意から、さらにそれを用いることが多い各種の祭りの邌物(ねりもの:祭の中で町中を練り歩く行列や山車(だし)など)の行列に奏する囃子(はやし)をも言うようになった。調べて見ると博多どんたくではそうした行列の中の囃子方の集団を「しゃぎり隊」と呼んでいるようである(他の資料では「余興隊」「通りもん」などともある)。また、ウィキの「博多どんたく」によれば、古来の博多どんたくの核心は実はまさにこの囃子にあるとあり、『博多どんたくの起源であり中核といえる選択無形民俗文化財の博多松囃子は、福神流、恵比須流、大黒流、稚児東流、稚児西流が「博多松ばやし振興会」を組織し、それぞれの当番をつとめる』とある。因みに「どんたく」は日本語ではない。ウィキの「く」によれば、『どんたくとはオランダ語で日曜日を意味するzondagの訛りである。ぞんたくとも。zonは太陽、dagは日を意味し英語のsunday同様、ラテン語名のひとつdies solisの直訳である。現代オランダ標準語での発音は[zɔndɑx]でゾンダッハに近い』。『オランダ語由来の外来語は多くが江戸時代に使われ出しているがこの語は比較的新しく、明治初期に使われ出した。まだ曜日自体が普及していなかったせいか、日曜日から転じて休日を意味するようにもなった』とあり、また、博多どんたくについては、『起源は平安時代末にまで遡ると言われ』、『名称は明治時代に松囃子が禁止されて』(理由はウィキの「博多どんたく」によれば「金銭を浪費し、かつ文明開化にそぐわない」というものであった)、後の明治一二(一八七九)年頃に『再開されたときに付けられたと言われる』とある。]

 

どんたくの仮面はづせし人の老い

 

[やぶちゃん注:「仮面」ウィキの「博多どんたく」の「どんたく関連用語」に「肩裏(すらせ)」という項があり、これは行列の中の多様な衣装演出の一つで、『羽織を裏返して着ることであり、粋な着こなしとしてどんたくで目にする。これにかるさん袴を合わせ、背に「預かり笹」を挿し、頭には頭巾あるいは博多にわかのにわか面を付けるのがポピュラーな出で立ち』とある。「かるさん袴」とは中世末に来日したポルトガル人が穿いていたものに似せて筒を太く、裾口を狭くした袴のこと。江戸時代の武士の旅装や大工などの仕事着として用いられた。「預かり笹」福岡商店街のブログ「あちこち聞きある記」の「「博多どんたく」”通りもん広場”で待っとーよ!(上川端商店街)」に、画像入りで、『この笹は「預かり」と言われ、長さ1メートルほどの笹枝に、赤で大きく『のし』と書いた半紙や紙風船、にわか面などを結んだもの。祝いに来て頂いた気持ちを預かるという意味です』。『昔はまんじゅう何個、酒一合、などと書いて自分の店のハンコを押し、自慢の芸をして帰るときに渡した、とあります。貰った人は指定のまんじゅう屋などへ行って現物と代えてもらったそうです』。『訪れてもらったご好意を確かに「お預かりした証拠の文書」というのが、その名の由来でしょう』と解説がある。博多商人の心意気の現われである、ともある。「博多にわかのにわか面」「博多にわか」は博多地方で行われる即興の寸劇を伴う話芸で(詳細は「郷土芸能 博多にわか 入門」の博多にわかとはを参照)、「にわか面」とはそこで用いられる顔の上半分に装着する半面(はんめん)のことを指す。同じく「郷土芸能 博多にわか 入門」の面」をご覧あれ。ああ、あれ! と合点され、同時にこの多佳子の句の意も俄然明瞭となるであろう。]

 

 

どんたく囃子玄海に燈を探せどなし

シオカラトンボは塩辛い――

昨日、アリスの散歩でシオカラトンボを見つけて、ふと、「何故、塩辛蜻蛉というんだろう?」という疑問が鬱勃として湧き起った。連鎖的神経症的に「オニヤンマのヤンマとは何だ?」と思った。
ウィキの「シオカラトンボ」を見ると、『雌雄で大きさはあまり変わらないが、老熟したものでは雄と雌とで体色が著しく異なっている。雄は老熟するにつれて体全体が黒色となり、胸部から腹部前方が灰白色の粉で覆われるようになってツートンカラーの色彩となる。この粉を塩に見立てたのが名前の由来である。塩辛との関係はない。雌や未成熟の雄では黄色に小さな黒い斑紋が散在するので、ムギワラトンボ(麦藁蜻蛉)とも呼ばれる。稀に雌でも粉に覆われて"シオカラ型"になるものもあるが、複眼は緑色で、複眼の青い雄と区別できる』とある。
「まことしやかな」説明だ。塩を吹いているいるように見えるのは確かに見える。しかし、塩辛蜻蛉の数多の写真とにらめっこしてみても、「塩を吹いたような感じ」には見えるものの、「塩辛」を連想は出来ない。だったら「シオフキトンボ」や「シオトンボ」「モシオ(藻塩)トンボ」の方がスマートでいいぞ――などと考えるうちに納得出来なくなった。
すると、個人サイト「NEMOTO's」の「秋津島はトンボの島」というページを見つけた。その最後に驚くべき叙述がある。
   《引用開始》
塩蔵法と発酵法を利用した食品はあまたあるが、シオカラトンボに色つやの似た塩からにはついぞお目にかかったことがない。
 となると、シオカラトンボの名前の由来は...勘の良い読者には答えが浮かんでいるかもしれない。トンボの名前の付け方は割合と素直。だとすると...シオカラトンボは塩蔵発酵食品の塩からとはおそらく関係がない。そうなんである。シオカラトンボは実際に「塩辛い」のだ。
 ヒヌマイトトンボの発見者の一人、廣瀬先生に教えられて、小学生の息子はおそるおそるシオカラトンボのお尻を嘗めてみた。多数居る参加者の中でそんな蛮勇を奮えるのは我が家の一員だけだろう。他の参加者は大人も子どもも尻込みした。シオカラトンボはしょっぱいのである。な~んだ、やっぱり単純明快な命名法。
 ちなみにオオシオカラトンボは嘗めると塩加減が丁度よろしいようで「美味しい」そうである。
   《引用終了》
僕は海洋生物に全免疫性であるにも拘わらず、昆虫は総じて苦手であるから、当分、シオカラトンボを食す気にはなれない(この僕の異様なまでの陸棲に限った昆虫類及び同節足動物群への広汎なフォビアは恐らく格好の精神分析の対象とはなろう)のだが、しかし、これは私には頗る納得がいったのである。
何故なら、私の大学自分の友人の友なる男は実際に蜻蛉を食べるという話を聴いたからである。死んだのは不味く、シオカラトンボが一番美味くて鮪のトロのような味がすると言って、実際に食べるのを見たそうである。この私の友人は実に真面目な人物であったから私はこれを信じる。
私の先代のアリスは今頃の時期、散歩途中に、弱って落ちた蟬を盛んに食べた(死にかけたものは食べなかった)。ぱりぱりと食べると、器用に羽だけ吐き出した(これは梅崎春生の「猫の話」の蟋蟀を食べて触角だけを吐き出す猫のカロに実によく似ていた)。
序でに、サイト主も分からないとおっしゃっている「ヤンマ」(蜻蜒。大形のトンボの総称)だが、「日本国語大辞典」などにには古名「ヱムバ」や「エバ」が転じた説、「山蜻蛉(ヤマヱンバ)」の義とする説などを上げ、ネットの「日本辞典」には、『「ヱムバ」の語源は、羽の美しい意で「笑羽(ヱバ)」からとする説、四枚ある羽が重なっていることから「八重羽(ヤヱバ)」が転じた説など、他にも諸説ある』とする。相当に古い大和言葉の類であろうとは思うが、これらの語源説は、やはり僕にはピンとこない。
 
ともかくも僕は――塩辛蜻蛉は本当に塩辛いからそういう――という説を支持するものである。
私の代わりに、何方か、塩辛蜻蛉を食べてみては、呉れまいか?……

生物學講話 丘淺次郎 第十一章 雌雄の別 三 局部の別 (4ー2)

Kumosiyuu

[「くも」の雌雄]

 

 精蟲を雌の體内に移し入れるための雄の交接器は、輸精管の末端に當る處がそのまゝ延びて圓筒狀の突起となつて居るのが最も普通であるが、廣く動物界を見渡すと、必ずしもそれのみとは限らず、中には思ひ掛けぬ體部が交接の器官として用ゐられる場合がある。例へば「くも類」の如きはその一つで、雄は體の前部にある短い足狀のものを交接器として用ゐる。「くも」の身體は通常瓢簞の如くに縊れて、前後兩半に分かれて居るが、前半は即ち頭と胸との合したもので、こゝからは四對の長い足の外になほ一對の短い足の如きものが生じ、後半は腹であつて、その下面には細い割れ目のやうな生殖器の開き口が見える。短い足の如きものは運動の器官ではなく、ただ物を探り觸れ感ずるの用をなすもの故、これを「觸足」と名づける。交接するに當つては、雄は決して自分の生殖器を直接に雌の體に觸れる如きことをせず、先づ精蟲を洩らして自身の觸足の先に受け入れ置き、機を見て雌に近づき、その生殖器の開口に觸足を插し入れて精蟲を移すのである。「くも」類では通常雌は雄よりも形も大きく力も強くて、動もすれば雄を捕へ殺すから、雄は交接を終れば急いで逃げて行く。雄の觸足は精蟲を容れるために先端が太く膨れて居るから、その部の形さへ見れば雄か雌かは直に知れる。

[やぶちゃん注:「觸足」現在は「触脚」と表記するようである。タランチュラの例であるが、こちらの秋山智隆氏のサイトの「Breeding Tarantulasを開き、「† 雌雄を調べる †」のバーをクリックして開くと、画像とともに非常に分かり易い解説が載る(但し、クモが生理的にダメな人は見ない方が無難)。]

生物學講話 丘淺次郎 第十一章 雌雄の別 三 局部の別 (4)

 普通の魚類は前にも述べた通り體外受精をするから、交接器を具へる必要はないが、「さめ」・「あかえひ」の類は例外で、これらはすべて雌雄交接し、卵は必ず雌の體内で受精する。多くは卵生であるが胎生する種類も決して少くない。雄の交接器は腹鰭の後邊にある左右一對の棒狀の器官で、交接のときには雄はこれを雌の輸卵管の末部に插し入れ、體を輪の如くに曲げて暫時雌の體に卷き附いて居る。されば同じ魚類でも、「こひ」や「ふな」の雌雄は一寸判斷しにくいが、「さめ」や「あかえひ」ならば、體の外面にある交接器の有無によつて、一目でその性を知ることが出來る。

[やぶちゃん注:個人サイト(解剖学が御専門の方らしい)「Good Anatomy of Shaks生殖器」のページが詳しい。恐らく、サメの学術的解剖の纏まったサイトはここしかあるまい。実に素晴らしい(当然、解剖画像も豊富に附されてあるので閲覧には注意されたい)。]

生物學講話 丘淺次郎 第十一章 雌雄の別 三 局部の別 (3)

Hiena

[ヒエナ]

[やぶちゃん注:底本では明度を上げ過ぎて白く飛んでしまって見難いので、国会図書館蔵原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、表情が見られ、且つ他の箇所が白く飛ばないぎりぎりのところまで補正をした(現在、著作権満了の画像に対しては国立国会図書館ではかつてのように使用許可申請(本テクスト化では総て許可申請を行ってきた)をせずに同図書館の画像であるを明らかにすれば、原則、自由に使用することが出来るようになった。以下、この丸括弧内の注は略す)。]

 

 生殖器が常に體外に現れて居る動物では、如何に他の體部が同じであつても、その局部さへ見れば雌雄の別は直にわかる。とくに多數の獸類の雄では、生殖腺なる睾丸は皮膚の袋に包まれて交接器の後に垂れて居るから、雌との相違が更に明瞭に知れる。尤も象の如くに睾丸が腹の内にあるもの、「いたち」・「かわうそ」の如く陰嚢の小さなものもあり、「ヒエナ〔ハイエナ〕」といふ狼に似た猛獸などは、動物園で生きたのを飼うて居ながら雌雄がなかなか分からぬやうなこともあるが、牛や山羊などの飼養畜類では陰嚢が頗る大きく垂れて居るから、遠方から見ても、雌雄を間違へる氣遣ひはない。また交接器自身にも隨分巨大なものがあつて、北氷洋に住する「セイウチ」などでは、その中軸の骨が人間の腿の骨よりも大きい。

[やぶちゃん注:「ヒエナ〔ハイエナ〕」哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目食肉目ネコ亜目ハイエナ科 Hyaenidae に属するハイエナ亜科ブチハイエナ Crocuta crocuta・カッショクハイエナ Parahyaena brunnea・シマハイエナ Hyaena hyaena、及びアードウルフ亜科アードウルフ Proteles cristatus (本種のみ昆虫食でシロアリを主食とする)の現生四種の総称。丘先生は「狼に似た」とされている。確かに一見、そう見えるが、間違っていけないのは、イヌに似ているものの、ハイエナ類はネコ目ジャコウネコ科 Viverridae に最も近縁な種群である点である。ここはウィキの「ハイエナ」に拠ったが、同ページのアフリカに広く分布するブチハイエナ Crocuta crocuta の解説の項には、『メスには高い血中濃度のアンドロゲン(雄性ホルモン物質)ホルモンが保たれており、そのため哺乳類としては珍しくメスは平均してオスより一回り大きく、オスのペニスと同等以上のサイズにもなるクリトリスやその根元にぶら下がる偽陰嚢(中には脂肪の塊が入っている)を持ち、順位も攻撃性もメスの方が高い。この特徴的な外性器の様子から、科学的研究が進む前には"雌雄同体の下等な生物”と考えられていた時期もあったようである』(十頭から十五頭程度の『クラン(clan)と呼ばれる母系の群れを形成し、共同の巣穴で生活する。群れのメンバーが協力して、ヌーやシマウマ、トムソンガゼルなどを狩る。同じサイズの動物中、最も強力な顎を持ち、驚異的なスピードで食物を平らげる』ともある)とある。近代に哺乳類で雌雄同体と誤認されていたというのは珍しい。

『「セイウチ」などでは、その中軸の骨が人間の腿の骨よりも大きい』前段の注で紹介した「え!カメのおちんちんってこんな形!? YouTube動画で学ぶ動物のペニスの不思議」でその異様な大きさが実感出来る。]

2014/08/22

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 烏/独楽/竹馬

 鳥、殊に烏が如何に馴れているかを示す事実が、もう一つある。私の車夫が人力車の後に灯をぶら下げておいた所が、人力車から三フィートとは離れていない所で私が外套を着ているのに、烏が一羽下りて釆て、車輪にとまり、紙の提灯に穴をあけてその内にある植物性の蠟燭を食って了った。私は烏にそれをさせておいた。このような経験をする為には、百個の提灯や百本の蠟燭の代価を払ってもよい。烏は実際街頭の掃除人で、屢々犬と骨を争ったり、子供から菓子の屑を盗んだりする。日本の画家は、行商人が頭に乗せた籠から魚をさらって行く烏を描いた。烏は不親切に取扱われることがないので、非常に馴れている。まったく、野獣もすべて馴れているし、家畜は我国のものよりもはるかに人に馴れている。

[やぶちゃん注:「三フィート」九十一センチメートル。]

M464

図―464 

 昨今(十一月)子供達は紙鳶(たこ)をあげ、毬(まり)あそびをし、独楽(こま)を廻している。彼等は我国の男の子達と同じ様に、木製独楽に戦いをさせるが、形は図464に示すように、我々のとは違っていて、そして他人の独楽を裂こうとする代りに、どの一つかが回転を止める迄、独楽同志を押しつけ合せる。毬遊びは、毬を地面にぶつけ、それを手の甲で受けて再び跳ねかえらせ、この事を最も多くやり得る者が勝つ。

[やぶちゃん注:「我々のとは違っていて」町田良夫氏のサイト「日本の独楽 & 世界の独楽 写真集」の「世界の独楽」で多様なそれらが見られる。必見。]

M465

図―465 

 男の子供は、我国のと同様、棍脚(たかあし)に乗って歩くことが好きである。棍脚はチクバと呼ばれるが、これは文字通りに訳すと「竹馬」である。子供の時からの友達のことを「チクバ ノ トモダチ」即ち「棍脚友」という。図465は棍脚の二つの型を示しているが、その一つは紐で二つの木片を竹に縛りつけたものである。足をのせる部分は、足に対して直角でなく、縦についているから、足の裏が全部それに乗る。もう一つは全部木で出来ていて、これは数がすくない。棍脚の高さは四、五フィートに達することもあり、子供達は屢々片方の梶脚でピョンピョンはねながら、他の棍脚で敵手を引き落そうとして、盛な競争をやる。

[やぶちゃん注:「四、五フィート」一・二~一・五メートル。

「足をのせる部分は、足に対して直角でなく、縦についているから、足の裏が全部それに乗る。」原文は“The rest for the foot, instead of being transverse to the foot, is lengthwise, so that the whole sole of the foot is supported.”この「縦」という訳が曲者で、昔ながらの竹馬の作り方を調べて見ると、これは竹馬が載った際に、足その体重で丁度、足に対して直角になるように、結んだところの反対側の端が上に向かって鋭角的になるように作ることを指している。即ち足台が直角でなく、「縦方向」に角度をもって付けられていることを指しているものと思われる(実際、収納する際に固定部分が可動式になっていて、足に足台が平行に収納出来る(一本の棒になる)古式の竹馬さえもあることが分かった)。因みに、私は竹馬をやったことがない救い難い文弱である。]

飯田蛇笏 山響集 昭和十二(一九三七)年 冬 Ⅰ

〈昭和十二年・冬〉


箆麻(たうごま)の實のねむるよりはつしぐれ

[やぶちゃん注:「箆麻」ヒマ(蓖麻)。種子から得られる下剤蓖麻子油(ひましゆ)及び種に含まれる猛毒のタンパク質リシン(ricin)、また広く観葉植物としても知られるトウダイグサ目トウダイグサ科トウゴマ(唐胡麻) Ricinus communis 。参照したウィキの「トウゴマ」には『学名の Ricinus はラテン語でダニを意味しており、その名のとおり果実は模様と出っ張りのためダニに似ている』とある。グーグル画像検索「Ricinus communisで納得。]

 

嶺(ね)を斜(はす)に日のどんよりと冬かすみ

 

八重山に遠嶺そびえて獵期來ぬ

 

雲を出靑鷹北に狩の場

 

大榾火けむらはで炎のあるきゐる

 

山雪に機織る箴のこだまかな

 

[やぶちゃん注:「箴」「はり」(針)と読んでいるか。この機織り機は古式のものでは、緯糸を手指を用いて経糸の間に実際の針で縫い入れていた。後には知られる、緯糸を織り込むための木犀器具である梭(杼。「ひ」又は「おさ」と読む。シャトル。)となったが、ここの「箴」は「こだま」からも古式のそれではなく、やはり梭である。]

 

寒來り雲とゞこほる杣の墓

 

甕埴瓮(みかはにべ)冬かすみして掘られけり

 

[やぶちゃん注:「甕埴瓮」この文字列では検索にヒットしないが、「埴」は肌理の細かな黄赤色の粘土。瓦・陶器の原料とする赤土のことで、「埴瓮」はまさにその「埴」で作った器を指す。一方、「大辞泉」によれば、「甕(みか)」(「み」は接頭語或いは水の意か。「か」は飲食物を盛る器の意)は昔、主に酒を醸造するのに用いた大きな甕(かめ)とあるから、私はこれは、弥生時代以降の有意に大きな水甕(そのために頭に「甕」をわざわざ配した)の遺物を発掘している景と読む(蛇笏には考古学的な遺物遺跡を詠んだ句が他にもある)。]

 

霜枯れの荏を搖る風に耕せり

 

[やぶちゃん注:「荏」はエゴマ。既注。ここは「エ」と音で読んでいるか。]

耳嚢 巻之八 思念故郷へ歸りし事

 思念故郷へ歸りし事

 

大番與力勤(つとめ)ける横田某かたりけるは、二條、大阪在番の留守は、組屋敷の惣門(そうもん)も嚴重にて、番人も猥(みだ)りの者は斷(ことわり)なくては不通(とほさず)。しかるに明和安永の頃、在番に登りし酒井小七と云へる同心、其時(そのとき)にあらずして暮過る頃、惣門へ來りて、通るべき由申ければ、番人も組内の者ゆゑ不疑(うたがはず)して通しけるに、其夜小七が妻も、夢うつゝとなく小七が歸り來りしに對面なせしが、何とやら色あしく衰へたる樣に覺へけるに、あけの日、上方より書狀來りて、右小七在番先にて病死せしとなり。文化五年にも、松山彌三郎といへる同心二條にて病死せるに、横田歸り聞(きけ)ば、彌三郎病死の砌(みぎり)、江戸惣門の門番、彌三郎が歸り來る事を留守宅ヘ告(つげ)しが、留守へ人魂(ひとだま)來りて屋(や)の棟(むね)を徘徊せるを見候者ありと語るを聞(きき)て、兩度まで右の事あれば、意念の歸り來る事もある事とかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:怪異譚三連発。亡魂の帰郷という本格幽魂物で、まさに都市伝説のプロトタイプともいうべきものである。

・「大番與力」「大番」は将軍を直接警護する現在のシークレット・サーヴィス相当職であった五番方(御番方・御番衆とも言う。小姓組・書院番・新番・大番・小十人組を指す)の中でも最も歴史が古い衛士職。「大番與力」は大番頭与力で、一組に附き、十騎(「騎」与力の数詞)配属された。

・「二條、大阪在番」上方在番と総称された二条在番と大坂在番。老中の支配下で、前者は将軍御留守の体(てい)を成すところの京都二条城の警護、後者は大坂城の警備に当たった。孰れも二組ずつの一年交替順番制であったらしい。二条在番は四月が、大坂在番は八月が交替時期であった。

・「明和安永」西暦一七六四から一七八一年。幅があり過ぎるのが嘘臭く、また「卷之八」の執筆推定下限が文化五(一八〇八)年夏であるから、噂話としての都市伝説としてはあまりに古過ぎるが、そこに今年「文化五年」二話目をカップリングする手法はなかなかの作話(であるとすれば)力である。孰れも同一の組屋敷で起きたとする点で、ある種、今流行の心霊スポットのルーツとも言えるのかも知れぬ。

・「同心」大番頭同心。一組に附き、二十人。与力に属して二の丸銅門の警備に当たった(以上の役職については主に北畠研究会のサイト「日本の歴史学講座」の江戸幕府役職事典」を参照させて戴いた)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 望郷の念抑えがたくして魂の故郷へ帰ったる事

 

 大番頭与力を勤めたことの御座る横田某(ぼう)殿の語った話で御座る。

 京二条城及び大阪在番に上っておる者の留守は、江戸組屋敷の総門の開け閉めも厳重にて、番人も濫(みだ)りに人を通さず、通常は、いちいち相応の訪問の訳を問い質さぬうちは中(なか)へ入れぬようになって御座った。

   *

 然るに、明和・安永の頃のこと、在番に上って御座った酒井小七と申す同心、在番中なれば、本来、ここに居らぬはずにも拘わらず、その日の暮過ぎた、大分もう、辺りも暗(くろ)うなっておった時分に、突然、ぬっと総門へ来たって、

「……罷り通る……」

と申したによって、番人も、確かに組内の酒井小七に間違いなきゆえ、何ぞ、余程の火急のこと御座って江戸へ立ち帰られたものと存じ、さしたる疑いも抱かず、早々に通して御座ったと申す。

 その夜のことで御座った。

 組屋敷内の小七が妻は、夢うつつとのぅ、小七が帰って参って、對面致いたと申す。……

……ところが夫は……

……何やらん、顔色も悪う……

……ひどく痩せ衰へた姿と見えた……

……と……

……気づけば、妻は……

……座敷に一人座って御座ったに心づいたと申す。…………

――翌日、上方より書状の来たって、

――右小七、在番先にて病死せり

とあった。…………

   *   *

 文化五年にも、松山弥三郎と申す番頭同心、二条在番方にて病死致いたところが、横田が交替となって江戸組屋敷にたち帰って聴いた話によれば……

――弥三郎病死の砌り、やはり同じき江戸組屋敷の総門の門番が、

「……先ほど、弥三郎殿がお帰りになられましたが……」

と在番中のこととて、やや不審げに留守宅の家人ヘ告げたと申す。

 家人は一向に弥三郎には対面して御座らなんだによって、不審を募らせて御座ったが、その夜のこと……

……弥三郎の留守宅の上へ……

……人魂が……一つ……

……ふぅわり……ゆらぁりと……

……空(くう)を舞いつつ……来たって……

……屋(や)の棟(むね)の辺りを……

……何度も……何度も……

……名残惜しげに……行き交(こ)うを……

……見た者のあった……と申す。…………

   *   *   *

「……かくも数十年を経て、両度に亙り、斯様(かよう)なるの事のあればこそ……死人(しびと)の意念、これ、かくも帰り来ったること、これ――ある――ということにて、御座ろう。……」

と、横田某殿、語って御座った。

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 59 高田 薬欄にいづれの花をくさ枕

本日二〇一四年八月二十二日(陰暦では二〇一四年七月二十七日)

   元禄二年七月  八日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年八月二十二日

である。この日、高田に着き、二日間滞在して十一日に能生(現在の新潟県糸魚川市大字能生。その翌十二日が市振となるのである)に発った。高田では医師細川春庵(俳号は棟雪)なる人物が何かと心遣いをしてくれ、本句を発句とした歌仙「薬欄を」一巻を二日で巻いている(実際の宿泊先は池田六左衛門方)。

 

  細川春庵亭ニテ

薬欄(やくらん)にいづれの花をくさ枕

 

  越後の國高田醫師何(なにが)しを宿として

藥園にいづれの花を草枕

 

[やぶちゃん注:第一句目は「曾良俳諧書留」の、第二句目は「泊船集」の句形。「曾良随行日記」に、

 

○八日 雨止。欲立、強テ止テ喜衞門饗ス。饗畢、立。未ノ下尅、至高田ニ。細川春庵ヨリ人遣シテ迎、連テ來ル。春庵ヘ不寄シテ、先、池田六左衞門ヲ尋。客有。寺ヲかリ、休ム。又、春庵ヨリ狀來ル。頓而尋。發句有。俳初ル。宿六左衞門、子甚左衞門ヲ遣ス。謁ス。

○九日 折ゝ小雨ス。俳、歌仙終。

○十日 折ゝ小雨。中桐甚四良ヘ被招、歌仙一折有。夜ニ入テ歸。夕立ヨリ晴。

○十一日 快晴。巳ノ下尅(暑甚シ。)、高田ヲ立。五智・居多ヲ拜。名立ヘ狀不屆。直ニ能生ヘ通、暮テ着。玉や五良兵衞方ニ宿。月晴。

 

とあるように、この春庵という人物、恐らくは芭蕉来訪の情報を事前に得ていて、事前に準備していたことがこの記載からも分かる。歌仙では、

 

薬欄(やくらん)にいづれの花をくさ枕  翁

  荻のすだれをあげかける月     棟雪

 

と亭主が脇を付けている。

 「藥欄」は薬草園のこと。医師の亭主に対して相応しい挨拶句である。そうしてそれまでの越後路でのおぞましい現実への芭蕉の憤りと憂鬱がやや落ち着きを取り戻したかのような寛ぎの感じも伝えているように私には思われる。

 さすればこそ遂に満を持して小説的章段「市振」の段がこの直後に生まれるのであるが(但し、諸本から推すと、本文は勿論、「一つ家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月」というかの吟も市振での即吟ではなく、旅を終えて本文を書いた折りの作かとも言われる)……既に気づかれた方もいるであろう……この棟雪の付けた脇……「荻のすだれをあげかける月」――「荻」と「月」である……妙に気になるのである……]

2014/08/21

「メタファーとしてのゴジラ」追記中

2014年8月刊の洋泉社「別冊映画秘宝 初代ゴジラ研究読本」は近年稀に見る優れた――1954ゴジラ――の研究本である。ここのところ、これによって僕の「メタファーとしてのゴジラ」に追記を施している。今日の追記は以下。

●ゴジラの白熱光による有刺鉄条網の溶解シーンの撮影法について概説する(飴製の高圧線ミニチュアにスタジオライトを直に当てる)。[2014年8月21日訂正追記:2014年8月刊の洋泉社「別冊映画秘宝 初代ゴジラ研究読本」の一五六頁にあるコラム記事によれば、特撮ファンの間でまことしやかに流されている『飴製』というのは都市伝説の類いであることが判明した。そこには『一部だけアルミを使い、自重で曲がるように作った。また熱で変形しやすいヒューズを使ったなど諸説ある』としつつも、特撮に限らず多くの『映画で多数の精巧な模型を作っていた石井清四郎(石井模型)の長男、石井良氏』(同氏のサイト「石井清四郎・特撮映画を支えた男 模型飛行機からウルトラQまでの軌跡」も是非参照されたい)『によれば、生前清四郎氏ご本人が、「鉄塔が溶けるシーンは自分がアルミで作り、石油ガスバーナーをあてて溶かした」と語っていたという』とあり、製作者を自分と断定されておられる点と、実際の映像の印象からもこれが真実だと考える。]

「アイス・バケツ・チャレンジ」なるもの――

「アイス・バケツ・チャレンジ」の大流行りをNHKも今日、報道していた……確かにALSが如何なる病いかを知らしめる効果はあろう……しかし「アイス・バケツ・チャレンジ」に「興じる」連中の能天気な騒がしさには、ALSで母を亡くした僕としてのは何か違和感を感じたと言っておく……そうして、NHKは報道していない今日の昼に見た記事を思い出していた……
『ビル・ゲイツやネイマール、レディー・ガガ、日本でも孫正義など、世界のセレブを巻き込んで大流行している、ソーシャルメディアを使った募金活動「アイス・バケツ・チャレンジ」の発案者の一人、コーリー・グリフィンさん(27)が8月16日、亡くなった。アメリカ・マサチューセッツ州のナンタケット島で深夜に海に飛び込み、溺れたという。ボストン・グローブなどが伝えた。』
 
いや、はっきり言おう。
正直、僕は「ダイ・イン」と同じ生理的嫌悪感を「アイス・バケツ・チャレンジ」に感じている。これは誰の説得によっても変わらないと言っておく。――
反論のある方は、何時でもお相手しよう。その代り、僕のブログ記事『筋萎縮性側索硬化症の母に「これで終わりです」という医師の直接告知は妥当であったと言えるか?』をまずは読んでからにして呉れたまえ――

……僕のトラウマなんかどうでもいいんだ……

……少なくともNHKは能天気な馬鹿騒ぎの報道の最後に発案者の逝去を添えるべきであった――それが「死」というものだ――「メメントモリ」を無限遠に遠ざけるこの日本というだれきったものの愚劣さ加減!……

橋本多佳子句集「海彦」 巻頭 夏一句 歎きゐて虹濃き刻を逸したり

句集「海彦」

[やぶちゃん注:昭和三二(一九五七)年二月二十五日角川書店刊。昭和二六(一九五一)年から同三十一年(多佳子五十二歳~五十七歳)までの作品四百九十六句を収録する。序文は山口誓子。誓子の序文は著作権存続中のため、省略する。因みに、この発行日は私が生まれて十日後の日附である。]

 

 

 

歎きゐて虹濃き刻(とき)を逸したり

 
 

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 日本婦人/野菜市場/玩具/綾取

M461

図―461

 先日日本人の教授夫妻が私の宅を訪問し、私は細君に頼んで写生することを許して貰った。この写生図の顏は、彼女の美貌を更に現していない(図461)。また私は日本の赤坊が熟睡しているところを写生することが出来た。

M462

図―462

 人は市場を何度も訪れて、そしてそれ迄に気のつかなかったことに気がつく。何から何まで芸術的に展示してあることと、すべてがこの上もなく清潔なことには、即座に印象づけられる。蕪や白い大根は、文字通り白くて、ごみは全然ついていなく、何でも優美に結ばれ、包まれている。隠元豆は、図462に示すように、藁でしばって小さく梱(か)らげる。

[やぶちゃん注:「白い大根」原文は“white radishes”であるが、後に「第二十三章 習慣と迷信」では“daikon, a kind of radish,”と記している(そこでは石川氏はただ「大根」と省略してしまっておられる)。

M463

図―463

 機械的の玩具は、常に興味を引く。構造はこの上もなく簡単で、その多くは弱々しく見えるが、而も永持ちすることは著しい。図463の鼠は、皿から物を喰い、同時に尻尾を下げる。横にある竹の発条(ばね)は、下の台から来ている糸によって、鼠に頭と尾とを持上げた姿をとらせているが、発条を押す瞬間に糸はゆるみ、頭と尾が下り、そして頭は皿を現す小さな竹の輪の中へ入る。鼠には色を塗らず、焦がした褐色で表面をつくってある。日本人はこの種類の玩具に対する、非常に多くの、面白い思いつきを持っている。それ等の多くは、棒についていて糸で動かし、又は我国の跳びはね人形のように動く。

[やぶちゃん注:「跳びはね人形」原文“jumpingjacks”。紙や木で出来た人形や動物で、下がった紐を引っ張ると手足をバタバタと動かすように細工された玩具。玩具販売サイトのここに『ドイツ語圏では「ハンペルマン」と呼ばれ、ヨーロッパでは古くから親しまれている木のおもちゃで』あるとして、オーストリアのザルツブルグにある Gschnitzer Manufactur (シュナイザー社製)のジャンピング・ジャックの商品写真がある。グーグル画像検索「umpingjack(この単語は元来が「挙手跳躍運動」の意であるのでそれ以外の)を見ると、構造や作り方を説明する英語サイトも多くあることが分かる。]

 

 玩具や遊戯の多くは、我国のに似ているが、多くの場合、もっとこみ入っている。一例として綾取(あやとり)をとれば、そのつくる形は、遠かに我々以上に進む。日本人は舵で種々なものをつくるが、それ等の多くは非常に工夫が上手である。普通につくられる物はキモノ、飛ぶ鷺、舟、提灯、花、台、箱であるが、箱は、我々が子供の時、捕えた蠅を入れるためにつくつた物とは、全く相違している。

[やぶちゃん注:「綾取」原文は“cat's-cradle”(猫の揺り籠)。私は五十七になる今日まで多分、遠い昔、母と一度だけやった微かな記憶がある。調べてみたら、何と、「国際あやとり協会」“International String Figure Associationという協会のもの凄いデータ量を持った公式サイトを見つけた。演などの紐の形など、詳しくはこちらを。さらにここにはまさに『モースの見た「綾取り」』(トピックスの123)がある!]

2014/08/20

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 瀨戸明神社

  ●瀨戸明神社

瀨戸明神は。瀨戸橋より西へ一町ばかり。海道の右側に在り。大山祇命を祀る。社傳には。賴朝公治承四年四月四日に。伊豆三島の明神を勧請し給ふといへり。然れとも公の鎌倉に入りしは。治承四年十月六日なりしよし。東鑑に見えたれは。建立はそれより後のことなるべし。社(やしろ)の西にもと神官(じんかん)千葉氏の家あり。鉋(かんな)を用ゐさる以前に營造せしものとて。名高かりしが。今は廢絶せり。

境内に蛇混柏(じやびやくしん)と稱する枯木あり。延寶の暴風に吹倒(ふきたほ)され。地上に横臥(わうぐわ)し。枝皮剝盡し。堅硬石の如く。木理亦輪困愛すベし。三本杉と稱するものありしが。今はなし。

[やぶちゃん注:「治承四年」西暦一一八四年。四月四日では、同月二十七日に叔父源行家が頼朝に以仁王の平氏誅罰の令旨を届ける前であり、これはどう考えてもあり得ない。「江戸名所図会」の「瀬戸明神社」の図を示しておく。

Setomyoujin

「公の鎌倉に入りしは。治承四年十月六日なり」正しい。

「千葉氏」千葉氏は本文にもある通り、代々瀬戸神社神職を務めた家系である。瀬戸神社に残る記録では文和三(一三五四)年に千葉胤義が神主に就いたとする(以上の記載は、主に個人サイト「小市民の散歩行こうぜ」の『ようこそ「金沢・時代の小波 六浦地区」へ』の「嶺松寺跡」を参照させて頂いた)。ただ「千葉胤義」と名乗る人物は鎌倉期から戦国期に複数存在し、私にはこの「胤義」がその中のどの流れを汲むものかは不詳である。気になるのは瀬戸神社の記載が南北朝までしか遡れないことである。鎌倉期に既に「千葉胤義」なる人物は存在する。「吾妻鏡」の正嘉二(一二五八)年三月一日の条の将軍宗尊親王二所詣先陣随兵の中に「葛西四郎太郎」という人物が登場するが、 サイト「千葉一族」の「千葉市の歴代」の記載の中に、この人物は『立沢四郎太郎胤義のことと』推測される、という記載がある。同ページの「千葉頼胤周辺系譜」の系図によれば、彼は祖父が頼朝挙兵以来の近臣であった千葉胤正(永治元(一一四一)年?~建仁三(一二〇三)年?)の孫に当たる(嫡流ではない)ことが分かる。この人物と、この文和三年に神主に就いた「千葉胤義」が確かな連関を持っていることを明らかにする資料が欲しい。幾つかの系図を辿ってみたが、よく分からない。識者の御教授を乞うものである。

「蛇混柏」「混柏」は現在、一般には「柏槇」と書く。裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属で、近在の建長寺にあるものと同種であるとすれば和名カイヅカイブキ(異名カイヅカビャクシン)Juniperus chinensis cv. Pyramidalis であろう。成長が遅いが高木となり、赤褐色の樹皮が縦に薄く裂けるように長く剥がれる特徴を持つ。これが自己認識を解き放つことを目指す禅宗の教義にマッチし、しばしば禅寺に植えられる。シーラカンスの標本みたような現在も残る残痕はグーグル画像検索「で。

「延寶の暴風」延宝八(一六八〇)年八月六日(「新編鎌倉志卷之八」)。高い確率で照手姫松を吹き倒したものと同じ台風であろう。

「枝皮剝盡し」「えだかははげつくし」と読むのであろう。

「堅硬石の如く」「けんこう、いしのごとく」と読むのであろう。

「木理亦輪困愛すベし」「きめ、また、わ、こんあいすべし」と読むか。それでも何だかおかしい。「亦」は「年」の誤植か。「困」が分からぬ。「甚」だ「愛」すべし、なら分かるが。どなたか読みと意味の御教授を願いたい。何だかここ、筆者、急に気張っちゃってるだけに、ヘン。

「三本杉」「新編鎌倉志卷之八」

   *

三本杉 蛇混柏(じやびやくしん)の南にあり。大木にて、根株相ひ連て三本幷(なら)び生ず。奇(あや)しき形なり。放下僧(はうかそう)、讎(あだ)を復(ふく)したる所なり。謠(うたひ)にも瀨戸の三島とうたふは此所なり。此三本の杉も延寶庚申の風に吹倒す。

   *

 この「謠」、能は「放下僧」のこと。下野国の住人牧野左衛門が相模国の利根信俊と些細なことから口論に及び、後日闇討ちされて果てる。その子牧野小次郎は仇討ちを志し、出家していた兄に助力を求めるべく禅院の学寮へ兄を訪ねるが、出家の身である兄はこれを躊躇する。小次郎は、親の敵を打たぬは不孝と言い、母を殺した虎を狙って百日の間というもの野に出で、果ては虎と見誤って大石を射るも一念が通じて矢は石に突き立って血を流した、という中国の故事を物語る。兄はこの弟小次郎の熱意に打たれて仇討に同意、仇敵利根に近づくため、当時流行していた僧形の芸能者放下僧(室町時代に、それまでの田楽から発生したもので、曲芸や手品を演じつつ小切子こきりこを打ち鳴らして小歌などを歌った大道芸人を言う)に身を窶して故郷を旅立つ(ここで中入)。どうにも夢見の悪い利根はここ瀬戸の三島神社に参詣を志し、その境内で二人の放下僧と道ずれになる。一人(小次郎兄)が己れの持つ団扇の由緒を、また今一人(小次郎)も携える弓矢のことなど面白く説き、更に禅問答を交わした上、曲舞(くせまい)・鞨鼓・小歌といった様々な芸を演じては利根を油断させ、遂に兄弟揃って躍り掛かり、美事本懐を果たすという仇討物である。この松も蛇混柏と一緒に同じ台風によって倒れたことが分かる。現在は無論、ない。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 瀨戸辨財天

    ●瀨戸辨財天

瀨戸辨財天は。瀨戸明神の前より。道を隔てゝ南、海中へ築出したる小島に在り。昔賴朝夫人平政子。近江國竹生島の神を鎮祀(ちんし)したりといふ。入口の岸に石あり。福石といふ。金澤四石の一なり。千代本の主婦の語る所に據(よ)れは。賴朝公瀨戸明神日參の際。此石に衣服をかけ。こりをとられたる故。御服の石と稱すといへり。

[やぶちゃん注:瀬戸神社の鳥居を出た正面の平潟湾に延びる突堤の先端に、赤橋で繋がる円形をした琵琶島(かつては琵琶の形をしていたとされるが、むしろ後掲するように元の神社が琵琶湖竹生島にあったことに由来するのではあるまいか)にあり、現在は琵琶嶋神社と呼称し、瀬戸神社摂社で現在は瀬戸神社の境内とされている。滋賀県長浜市の竹生島にある都久夫須麻(つくぶすま)神社にある神社。祭神宗像三女神の一柱市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)であるが、後に仏教の弁才天と習合、本地垂迹説において同神とされた。主に参照した瀬戸神社公式ページには瀬戸弁天は『通称』としている。立位の神像及び祭祀者政子の夫頼朝が流人から身を起こして征夷大将軍となったことに因んで立身弁財天、また港湾地区の海上安全の信仰から千客万来を意味する舟寄弁財天という別称も持つ。

「昔賴朝夫人平政子。近江國竹生島の神を鎮祀したりといふ」但し、そうした事実はおろか、「吾妻鏡」にはこの神社自体が載らない。

「福石」金沢四石の一つ。横浜金沢観光協会公式サイトの「琵琶島神社」によれば、現在は『参道入口の右側に』あるが、『もともと左側の海中にあった』が、昭和四一(一九六六)年の国道十六号線『拡幅工事の際に現在地へ移設され』たとある。写真はを。

「こり」垢離。懸けた服に潮水をかけて禊をして参拝したことを意味する。「江戸名所図会」の「瀬戸弁財天」の図を掲げておく。

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既に福石は海中に没している模様である。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 瀨戸幷に瀨戸橋〔照手天姫松〕

  ●瀨戸幷に瀨戸橋〔照手天姫松〕

瀨戸或は迫門に作る。海水湾曲の北に至りて窮まれる處。即ち洲崎(すさき)と引越村の間をいふ。

[やぶちゃん注:以下、「回国雑記」の和歌までの引用は底本では一字下げ(ポイントは本文と同じ)。]

囘國雜記云ふ。瀨戸金澤(かなさは)いへる勝地のはへるを尋行に。瀨戸の沖に。漁舟のあま見えけるを。

 よるへなき身(み)のたくひかな波あらき瀨戸の汐合法る舟人

此瀨戸の往還に架したるを。瀨戸橋といふ。中間に土臺を築き橋杭を用ゐず。長さ二間あまりの橋二つをわたし。舟の其の下を過き得るやうにせり。これより北君か崎に至るの問。むかしは入海にてあらしこと明かにて。其の後は湖の如く澤の如くなりしか。近年は大抵田地となりて。全く其の舊形を變せり。江戸名所圖會載する所の圖は。尚ほ舊觀を存しぬ。同所西の出崎に照天姫松といへるがありしが。延寶庚申の大風(おほかぜ)に折られ。僅かに根株を留めたるが。今はなし。

[やぶちゃん注:昔の内海への入口である瀬戸と洲崎の間に北条貞顕(これを北条実時とする資料もあるが採らない。採らない理由は以下の引用を参照されたい)が称名寺へ通ずる道路一環として徳治年間(一三〇六~一三〇八)に架橋したと推定される橋。西岡芳文「六浦瀬戸橋-中世鎌倉のベイブリッジ」(神奈川県立金沢文庫平成七(一九九五)年刊。但し、個人のHP「後深草院二条」のこのページからの孫引き)によれば、従来の北条実時造営説に対して、北条実時及びその子顕時は当時の六浦庄領主であったと考えられるが、彼らによる在地支配を直接的に示す史料はなく、金沢地区に於ける顕時の行った事業としては、念仏宗から律へと改宗した称名寺の伽藍造営や寺内式制の整備が知られている。しかし、弘安八(一二八五)年の霜月騒動で安達泰盛が滅亡すると顕時は姻族による連座で流罪とされ、凡そ十年の間、金沢の地に戻ることはなく、宥免された後も第八代執権北条貞時による得宗専制下にあって正安元(一三〇一)年に生涯を終えている(従って実時や顕時による瀬戸橋建立は考え難いというのが西岡氏の論旨であろう)。『金沢北条氏にとって逆風の強まったこの時期には、仮に実時の瀬戸橋造営の遺志があったとしても、とうてい事業を続行できる環境ではなかった。また確証はないが、六浦庄の支配権自体』も幕府の管理下にあった可能性も考えられる、とある。この六浦支配が本来の領主であった金沢北条氏によって活性化するのは顕時の子である貞顕の代で、彼と新たに『称名寺二世長老となった剱阿のコンビによる積極的な活動が見られるようになる。六渡羅探題として京都に滞在した貞顕は、和書・漢籍を問わず膨大な写本・版本を入手して金沢文庫を築きあげ、さらに称名寺梵鐘の銘文に名を残す「入宋沙弥」円種が活動するのも同じ時期であり、彼らの手によって宋版大蔵経や青磁などの「唐物」が盛んに六浦津を経て称名寺にもたらされたと考えられる』。『運上や交易のために鎌倉に運ばれる関東各地のさまざまな産物、あるいは北条氏のバックアップを受けた律宗のネットワークに乗って交流する人や文化、さらに九州から六浦までの海運の要所をおさえた金沢北条氏一族の交易活動など、六浦津が最も殷賑をきわめたのはまさにこの時期であったと思われる』。『こうした中で、嘉元年間(一三〇三~六)、瀬戸橋の造営事業を明確に伝える史料が現れる。すなわち、瀬戸橋の造営を京都から督促する貞顕の手紙と、全国各地の金沢称名寺領に橋の造営料を賦課した注文である』。『金沢文庫文書から知られるところでは、瀬戸橋の架橋事業は金沢貞顕の発願にかかり、称名寺が主体となって行われたようである。しかしこの架橋には謎が多い。そこでまず瀬戸橋をかけた目的について想像をめぐらしてみたい』(として論考は考証の核心に入る)。『金沢北条氏が本拠とした金沢村は、六浦庄のなかでも辺境に属し、交通の便の良いところではなかった。鎌倉からは、いわゆる白山道を経由して、釜利谷方面から山道をたどるか、六浦本郷より瀬戸明神の前から渡船によって対岸の洲崎を通るかのいずれかの方法しかなかったのである』。従って『称名寺への参道として、瀬戸海峡を橋で結ぶ必要性は確かに在する。以後二十年にわたって伽藍の造営事業が継続することを考えれば、これが第一の目的と考えることができよう』。『瀬戸橋が完成するまでの洲崎から金沢までの一帯は、さほど人口の集まる地城ではなかったと思われるが、架橋によって六浦の延長として市街地が形成されたようである。南北朝期に「町屋」という地名があらわれることがその一つの証拠である。瀬戸橋を渡ってから、洲崎から称名寺にいたるほぼ直線状の道路も、金沢北条氏による架橋事業の一環として整備された可能性が高い。称名寺の造営にたずさわる職人をはじめ、六浦津において交易をおこなっていた商人たちをここに集住させ、当時すでに過密の度をくわえていた鎌倉の都市機能を拡張することもねらっていたのではあるまいか。(なお不思議なことに、鎌倉の西縁にも洲崎・(上)町屋の組み合わせの地名がある。これを考えるに、鎌倉市中の過密化によって外縁部の水辺の荒蕪地が市街化し、本来名もないような所であったので「町屋」がそのまま地名となったのではないであろうか。)』(「西緣」は引用元「西緑」。訂した)。『三番目に考えられることは、軍事的な意味である。世戸提の造成が蒙古襲来の最中に完成していたという事実は、戦略物資輸送基地としての六浦津の機能拡充の意図をうかがわせる。さらにここに橋をかけることは、鎌倉から東京湾岸への到達を容易にする意味がある。東京湾の制海権を維持し、千葉氏をはじめとする東京湾岸の外様御家人の鎌倉侵入を抑制すること、あるいは万一侵略者たちが鎌倉へ侵攻してきた時に、海上の退路を確保する意図がなかったとは言えないであろう。これは後年の関東公方足利氏が、鎌倉内でも六浦寄りに御所を構え、やがて鎌倉を支えきれずに遁走して古河公方となった例を考えあわせれば、充分に可能性がある』。『いずれにせよ瀬戸橋は、一般の街道にかけられた橋とは異なり、未来の都市機能拡張への先行投資ないしは政治的・軍事的意図によってかけられたと想像される点で、日本の橋の歴史の中では特異な意味をもつのではなかろうか』と述べられておられる。たかが瀬戸橋、されど瀬戸橋、今は何の変哲もない一本の橋が、歴史の真実を語り出す美事な評論である。以下続く「五、瀬戸橋完成」では、西岡氏はこの橋に纏わる人柱伝承についての興味深い考察を行っているが、引用が長くなり過ぎるので涙を呑んで省略する。是非、リンク先でお読みあれ。なお、以下に『風俗画報』筆者も懐旧している「江戸名所図会」の「瀬戸橋」の図を示しておく(二図(四葉)からなる。瀬戸橋の構造と江戸後期の瀬戸橋周辺の活況が手に取るように伝わって来るではないか)。

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「囘國雜記」廻国雑記。道興准后が著した紀行文。道興は関白近衛房嗣の次男で、聖護院第二十四代門跡・新熊野検校などに任ぜられた。大僧正。後、職を辞して詩歌の道へ入り、足利義政・寛正六(一四六五)年、准三后に補任(准后は「じゅごう」と読み、公家(「后」とあるが女性に限らない)の最高称号の一つである)、それ以降、道興准后と呼ばれ、将軍足利義政の護持僧となり、義尚にも優遇された。。本書は文明一八(一四八六)年の六月から北陸道を経て越後に至り、関東から甲斐、さらに奥州の松島に至る凡そ十ヶ月に亙る旅について記したもの。漢詩・和歌・俳諧連歌を交えた紀行文は、その文学的価値もさることながら、当時の各地の修験者の動向を知る資料として貴重である(以上は主に平凡社「世界大百科事典」の記載に補足を施してある)。なお、「廻国雑記」では、引用の和歌の後、

 

磯山づたひ、殘(なごり)の紅葉、見所多かりければ、

  冬さればせとの浦わのみなと山、幾しほみちて殘る紅葉ぞ

 

と読み、称名寺訪問の下りに繋がっている。

「二間」約三・六四メートル。

「君か崎」君ヶ崎。既注であるが再掲しておく。現在の平潟湾奥の金沢八景駅附近から称名寺方向に向かった砂浜海岸。現在、横浜市金沢区谷津町、金沢文庫駅東北直近に君ケ崎稲荷神社がある。ここは現在の海岸線(海の公園)からは凡そ一・二キロメートルも離れているが、古く(江戸時代の泥亀新田の干拓事業以前。開拓後もしばしば洪水や台風によって海岸域は浸水した)はこの辺りが岬の突端であったものと思われる。本書の頃の海岸線も現在のそれよりも有意に西にあったものと考えてよいであろう。

「照天姫松」照手姫松。侍従川に入水した(別話では水刑に処せられた)照手姫は危ういところを六浦の漁師によって助けられるたが、嫉妬した漁師の女房に、松の木に縛り付けられて火で炙り殺されそうになったという松。照手姫・小栗判官伝説は既注aki12mari 氏のブログ横浜紹介(863)照手姫伝説の松」で、現在、伝承地とされる旧姫小島(現在は陸化)が見られる(現在のダイエー金沢八景店の近く)。但し、新編鎌倉志八」の注で考証したように、江戸中期の照手姫松と後期のそれとでは明らかに場所が違っているようにも見える(但し、これは陸繋島であったそれが島嶼化しただけなのかも知れない)。

「延寶庚申」延宝八(一六八〇)年。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 58 越後路 文月や六日も常の夜には似ず

本日二〇一四年八月二十日(陰暦では二〇一四年七月二十五日)

   元禄二年七月 六日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年八月二十日

である。この日、芭蕉は今町(現在の直江津)に到着、また弥三郎の紹介状を見せて当時の住職が眠鷗という俳人でもあった聴信寺という寺を訪ねたが、忌中につき宿泊を断られた。それを聴いた檀家の石井善次郎なる人物が呼び止めた。「曾良随行日記」には『○六日 雨晴。鉢崎ヲ晝時、黑井ヨリスグニ濱ヲ通テ、今町ヘ渡ス。聽信寺ヘ彌三狀屆。忌中ノ由ニテ強テ不ㇾ止、出。石井善次良聞テ人ヲ走ス。不ㇾ帰。 及再三、折節雨降ル故、幸ト歸ル。宿、古川市左衞門方ヲ云付ル。夜ニ至テ、各來ル。發句有』とあるように、まさに前日五日の柏崎の天屋(あまのや)の一軒のフラッシュ・バックであった。本句はその日の連句の発句であった。

 

  直江津にて

文月(ふみづき)や六日(むいか)も常の夜には似ず

 

文月の六日も常の夜には似ず

 

文月や六日も常の夜には似ぬ

 

[やぶちゃん注:第一句目は「曾良俳諧書留」の句形。「其袋」(嵐雪編・元禄三年自序)には、

 

  此國何トヤラいふ崎にとまりて、所の夷もおし入て、句をのぞみけるに

 

というやや穏やかでない(と私は思う)前書を附す。

 第二句目は「泊船集」の、第三句目へ「俳諧 柏原集」(かしわばらしゅう・江水編・元禄四年自序)句形。

 脇は石塚喜左衛門左栗なる人物(土地の有力な俳人か。亭主ではない)が、

 

文月や六日も常の夜には似ず  はせを

  露をのせたる桐の一葉    左栗

 

と脇を付けており、しかもこの連句には芭蕉の宿泊を断った眠鷗も参加している。ところがこの連句(おそらくは歌仙)、二十句で未完に終わっている。

――明日は牽牛織女の出逢う七夕という今日六日……夜空も祭前夜の町内もそうしてここにこうしている我らの心も……常には似ず何か艶めいた空気の中にいることだ――

というのであろう。

 「奥の細道」の越後路の段を示す。

   *

酒田の余波(ナコリ)日を重て北陸道の

雲に望遙々のおもひ胸をいた

ましめて加賀の苻まて百三十

里と聞鼠の關をこゆれは

越後の地に歩行を改て越中

の國一ふりの關に至る此間九日

暑濕の勞に神をなやまし病おこりて

事をしるさす

  文月や六日も常の夜には似ず

  荒海や佐渡によこたふ天河

   *

■やぶちゃんの呟き

「百三十里」約五百十一キロメートル弱。これは酒田からの距離であろう。但し、酒田から長めに推定計測しても加賀金沢までの距離は実際には四百五十キロメートルは越えるものの、五百は越えないようだ。

「此間九日」酒田の次の大山着が六月二十五日(グレゴリオ暦八月十日)で市振着は七月十二日(グレゴリオ暦八月二十六日)で実際には鼠が関越(現在の山形県の新潟県境に在る)が六月二十七日だから、北陸路の日数と限定しても、事実は十四日である。諸本がこの大きな齟齬を問題にし続けているが、頴原・尾形注は『俗に「越後路九日、越中路三日」という』と注する。しかし安東はこれについて、そういう俗諺があるというが、『当時既にそういう云方があったかどうか分からない』と留保する。私は寧ろ、ここを実際より短く言ったことと、この「荒海や」の作中第一とも目される名句を配しながらその通称、越後路と呼ぶ章段が如何にもそっけなく短いことと無関係ではないと感じる。見てきたように、実は象潟のしっとりとした感動を含む酒田の愉しい思い出以降、この越後路では急転直下、腸の煮えくり返る意想外の乞食俳諧師扱いを受けることになった。それはある意味、思い出したくない部類の出来事であった。さすれば、完成した「奥の細道」では「暑濕(しよしつ)の勞(らう)に神(しん)をなやまし病(やまひ)おこりて事をしるさず」と圧縮・省略・割愛したのではなかったか? その忌避意識が自ずと時制をも短縮させたのではあるまいか?

 そうして、そうした眇めでこの句を見ると「常」「には似ず」とするのは、何やらん、妖しい雰囲気とも読め、暗に不当なあしらいを受けた連中(前に述べた通り、その場には宿泊を拒んだ当の住職もいるのである!)への皮肉にもとれるのである。ここまでは大方の御批判を俟つものではある。

 いや、この日数の齟齬はよく見ると、私には齟齬でもなんでもない、正しいものに見えてくるのである!

 この段には「奥の細道」では数少ない、特定日を限定出来る日附が極めて例外的にある。それが本句の七月六日なのである。そうしてそれは次の「荒海や」の句がその翌日の七夕の句であると読めるように出来ている。とすれば、あくまで作品内の仮想事実(この場合、市振に着いた実際の日附が七月十二日であったことは実は全く意味をなさない。そもそも市振の段は日付の特定は出来ないのである)として、この句が七月六日の夜にようよう疲労や病いから解放されて、のびのびと創った句であるというのであれば、その直前までの文章は、一気に体調が回復するのは逆に不自然だから、少なくともその前日の七月五日か四日ぐらいに措定出来よう。そうするとそこから九日前というのは、先に示した実際の大山着である六月二十五日や鼠が関越の六月二十七日に限りなく一致するからである。「曾良随行日記」が発見されてこの方、多くの研究者はその実際的事実と「奥の細道」との齟齬とそれに基づく虚構の暴露に躍起となった余り、創作物としての「奥の細道」内の時間の中に身を穏やかに委ねるということに対して哀しいことに免疫を失ってしまったのだと私は思うのである。

 

 基。翻って、寧ろ、以上述べたような生臭い現実を完全に払拭して、七月六日の日附を持つこの一見凡庸にしか見えぬ句とそれに続く名吟「荒海や」を虚心に眺めたならば、この句がまさにこの操作によって創作順を崩して「荒海や」の前に持ってこられているという事実が、この二句を以ってもっと連句的な付け合いとして読み解くことを別に可能とする。

 即ち、本句が年に一度の彦星と織姫星を結ぶ妖しい艶なる天の川を引き出すならば、ここは一つ、荒海の彼方に妖しく蹲る悲劇の流人島とそこで流人らが恋い焦がれた本土との間に、一句の天の川を掛けてやろう、というのが「荒海や」をそこに配した芭蕉の感懐であったのである。

 「荒海や佐渡に横たふ天の川」が名句中の名句である所以は、その字背にある歴史の中の心傷(トラウマ)としての流人島に纏わる非常に深く痛いノスタルジアに基づくものなのだと私は今、感ずるのである。]

2014/08/19

残虐なのはイルカ漁じゃない! 普天間だよ!

キャロライン・ケネディ米駐日大使ツイッター「米国政府はイルカの追い込み漁に反対します。イルカが殺される追い込み漁の非人道性について深く懸念しています」
では言おう!
「エルザ自然保護の会」など国内の3つの動物保護団体は、そんなことより、目の前異に迫った、まず普天間の自然破壊に猛烈抗議をせよ! それが出来ないお前らは似非動物保護団体である!!
キャロライン・ケネディに鏡返しする!「日本国民はジュゴンの棲息地を追い込む普天間基地建設に反対しています。ジュゴンが殺される追い込み行為の非人道性について深く懸念しています」と!

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 日本語の指その他の身体部位の呼称

 指や趾(あしゆび)の名前を聞いて知ったことだが、日本には「足の指」という以外に、趾を現す言葉がない。拇指は「大指」又は「親指」、食指は「人を指す指」、中央指は「高い高い指」、指環指は「薬指」又は「無名指」と呼ばれる。そして小指は、我々と同じく「小さい指」という名を持っている。スペイン語でも第三指、即ち指環指は「薬の指」というが、これはこの指が他に比して柔かいので、目に薬を塗ったり、目をこすったりするのに、十中八、九、この指を使用するからである。私が調べた僅かなインディアン語彙によると、趾は「足の指」と呼ばれる。歯もまた名前を持っている。門歯が「糸切歯」と呼ばれることは、日本の婦人連が我国の婦人連と同じ悪習慣を持っていることを示している。犬歯の日本語は「牙」である。臼歯は「奥歯」といい、智慧歯を「親無し歯」というのは、これが大抵、両親の死後現れるからである。眉は「目の上の毛」、捷毛(まつげ)は「松の毛」という。頸は「頭の根」と呼ばれる。踝(くるぶし)と手頸とを区別する、明瞭な名は無く、脚と手との「クビ」で、踝の隆起点は「黒い隆起」〔クロブシ〕と呼ばれる。これは素足でいる日本人にとって、この場所が一番初めによごれが目立つからである。むかはぎは「ムコーズネ」と呼ばれ、日本人はここを撲られると、ベンケーでも泣き叫ぶという。弁慶は非常に強い男であって、彼の力に関する驚嘆すべき話がいくつもある。

[やぶちゃん注:『日本には「足の指」という以外に、趾を現す言葉がない』原文は“the Japanese have no name for toes except "foot fingers."”英語では足の指は“foot finger”ではなく(但し、本文にある通り、モースによれば、アメリカ・インディアンはそう呼ぶらしい)“toe”で、因みに手の指の“finger”は通常、親指 “thumb”を除く 四指の一つを指すのに用いる。以下、この段は英語の原文で読んだ方が、恐らく興味深い文化的相違点がより明瞭になると思われるので、まずは全文を引いておくことにする。

   *

   In inquiring about the names of fingers and toes I found the Japanese have no name for toes except "foot fingers." The thumb is called "great finger," or "parent finger"; the forefinger is named "man-pointing finger"; the mid-finger is known as "high, high finger"; the ring finger is designated as "medicine finger" or "no-name finger"; and the little finger bears the same name as with us, "little finger." In Spanish the third or ring finger is also known as "medicine finger," as when we apply ointment to the eyes, or when we rub them, we nearly always use the third finger, this finger being softer. In a few Indian vocabularies to which I have referred the toes are called "foot fingers." The teeth also have their names; the incisors, or front teeth, are called "thread-cutting teeth," showing that the Japanese ladies have the same bad habit that ours have. The Japanese word for "tusk" is the name for canine teeth; the molars are called "back teeth"; while the wisdom teeth are known as "no parent teeth," as they usually appear after one's parents are dead. The eyebrow is called "hair over the eye"; eyelashes are called "pine hairs." The neck is called " root of the head." There is no distinct name for the ankle and wrist, it is leg and hand kubi; the prominences on the ankle are called "black prominences," as in their barefoot habits these parts show the dirt first. The shin is called mukozune, and the Japanese say when this part is struck even Benkei would cry. Benkei was a very strong man and marvelous stories are told in regard to his strength.

   *

個人ブログ「Fragments」の「指の名前を英語で言ってみる」によれば、手の指の英語での呼称は、

  親指     thumb

  人差し指   index finger, forefinger, first finger

  中指     middle finger, second finger

  薬指     ring finger, third finger

  小指     little finger, pinkie, pinky, fourth finger

         (pinkie pinky はオランダ語由来とある)

であるのに対し、足の指は、

  足の親指   big toe, first toe

  足の人差し指 second toe

  足の中指   third toe

  足の薬指   fourth toe

  足の小指   little toe, fifth toe

で、『調べてみても big toe little toe 以外の指には、番号以外の呼び名はないようで』、『どこかにぶつけたりするのは、たいてい親指か小指のどちらかでしょうから、あまり話題に上ることもないのかもしれません』とある。なるほど。また、それ以外に日本語の指と同じく二十本全てを表す単語としては『 digit がありますが、これは医学用語で一般には使われないとのこと』ともある。面白い。

「親指」「人を差す指」和語では前者をお父さん指、後者をお母さん指とする呼称がある。

「高い高い指」中指は、和語では高高指(たかたかゆび:丈高指の転訛。)という呼称があり、他にお兄さん指とも呼ぶ(ウィキの「中指」に拠る)。

「薬指」ウィキの「薬指」によれば、『昔、薬を水に溶かす際や塗る際にこの指を使ったことに由来していると言われる説、薬師如来が右の第四指を曲げている事に由来するという説がある』とし、『和語ではお姉さん指、薬師(くすし)指、医者指といった、薬と関連する用例の他、用例としては新しい紅差し指(紅付け指)、用例としては最も古い名無し指(漢語では無名指との呼び方がある。)がある。方言の分布状況としては西日本で紅差し指系の用例が多く、東日本では薬指系の用例が多い』。『薬指の名称が薬師如来の印相に由来するという説では、第四指が薬指と呼ばれるようになった以降、呼び名からこの指で薬を塗るなどの俗習が広まったとする』とある。個人的には自分では未だかつて使ったことはないけれど、「紅差し指」がいいなぁ。

「小指」和語では赤ちゃん指。こんな言い方をすっかり忘れてしまっていた。……美しいなあ、和語は。

「親無し歯」底本では直下に石川氏の『〔親知らず〕』という割注が入る。本邦では他に「智歯」「知恵歯」等とも呼ぶ。所謂、第三大臼歯であるが、ウィキの「親知らず」の「語源」には、『赤ん坊の歯の生え始めとは違い、親がこの歯の生え始めを知ることはない。そのため親知らずという名が付いた』。『親知らずのことを英語では wisdom tooth とい』い、『これは物事の分別がつく年頃になってから生えてくる歯であることに由来する』とあるから、英語圏でも同様な語源であることが分かる。

「「目の上の毛」底本では直下に石川氏の『〔?〕』意味不明を指す割注が入るが、これはモースが「眉(毛)」の語源を聞いた相手が、「和訓栞」の「マウヘ」(目上)の約転説や「日本釈名」の「メウヘ」(目上)の説などを披歴したのによる叙述と思われる(「日本国語大辞典」に拠る)。

「頭の根」底本では同じく直下に石川氏の『〔?〕』意味不明を指す割注が入るが、これは「首根っこ」という語を英訳したものであろう。

「黒い隆起」底本では直下に石川氏の『〔クロブシ〕』という割注が入る。「クロブシ」は踝の転。ネット上の「日本語源辞典」のし」には、『古くは「つぶふし」と言い、「つぶ」は「粒」の意味、「ぶし」は「節」の意味で、「つぶなぎ(「なぎ」は不明)」という語も見られる』とあり、『「くるぶし」の語は室町時代から見られ、近世後期の江戸では庶民の口頭語として「くろぶし」「くろぼし」とも言われた』。『くるぶしは、その丸みが「粒」とは言い難いことから、「つぶぶし」の「つぶ」が「くる」に変わったと考えられ、くるぶしの「くる」は、物が軽やかに回るさまの「くるくる」や「くるま」などの「くる」と同じであろう』とある。「日本国語大辞典」には「和訓栞」に「クルフシ」(転節)の義、「大言海」に「クルルブシ」(枢節)の約と語源説を載せるが、同辞典の「つぶぶし」(踝)には古くは「つぶふし」とあり、「日本語源辞典」の説明は説得力がある。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 旅の終わり

 第十五章 日本の一と冬

 

 我々は夕方の七時頃東京へ着き、私は新しい人力車に乗って、屋敷へ向った。再び混雑した町々を通ることは、不思議に思われた。私は何かと衝突しそうな気がして、まったく神経質になったが、馴れる迄には数日かかった。私は十一日にわたって、ニューヨークからオハイオ州のコロンバスへ行く程の距離の、長い田舎路を旅行し、而もその半分以上は日本人の伴侶只一人と一緒にいた丈であるが、遙か北方の一寒村で、老婆が渋面をつくったのと、二人の男が私を狭い路から押し出そうとしたのとを除いて、旅行中、一度も不親切な示威運動に出喰わしたことがない。この後の方の経験は全く自然なもので、田舎の路を歩いている二人の紳士が、向うからやって来た支那人の洗濯屋に、溝の中へ押込まれることを許さぬというようなことは、我国でもよく起るであろう。私は同伴者より半マイルも前方で、山の輪郭を写生しながら、狭い路の真中に立っていた。二人の男は私を外国の蛮人と認め、私もまた争闘を避けるためには、私自身を蛮人とみなして、横へ避るべきであったかも知れぬ。だが、彼等が明かに私をやっつける気でいることが見えたので、私はがんばった。そして、今や私につき当ろうとする時になって、彼等は両方に別れ、私に触れさえもしなかったが、彼等が過ぎて行く時、私は多少心配をした。

[やぶちゃん注:矢田部日誌によれば、明治一一(一八七八)年八月二十七日朝五時に宇都宮から駅馬車に乗ったモースが浅草に着いたのは午後六時四十五分であった。

「十一日」函館を発って帰途に着いた日数であるが、函館発は八月十七日であるから十日が正しい。因みにこの北海道・東北旅行は七月十三日の横浜出航から延べ四十五日に及ぶ大旅行であった。

「ニューヨークからオハイオ州のコロンバスへ行く程の距離」直線で約八百十キロメートル。函館から東京は直線で凡そ六百九十キロメートル弱であるが、海路と東北での旅程、奥州街道のうねりを計算に入れれば、問題のない数値であろう。

「日本人の伴侶只一人」既に見てきた通り、松島で佐々木忠二郎と内山富太郎を残して採集を命じ、ここから東京までは矢田部良吉との二人旅であった。

「半マイル」約八百メートル。]

耳嚢 巻之八 深情自然に通じ蘇生せし事

 深情自然に通じ蘇生せし事

 

大阪にての事とや、輕き町家の者、はやうちかたといへる病ひにて俄(にはか)に身まかりぬ。五六歳の小兒妻斗(ばかり)ゆゑ、念佛講なかま或は店請(たなうけ)など寄(より)て、早桶(はやおけ)といへるものへ死骸を入れんと、沐浴(もくよく)し頭を僧形(そうぎやう)に剃りしに、剃(そり)落す髮、襟の廻りにこぼれちりしを、彼(かの)小兒見て、そり落し候髮のえりへ付(つき)候はゞ、さぞいたかるべし、とりて給はれと、己(おのれ)が月代(さかやき)の肌に付(つき)しを覺へてや、しきりに申けれど、死せし者、何かゆきことあらんと不用取(とりもちひざる)に、頻りに歎きけるゆゑ、心あるおのこ、かれがかくまで申(まうす)なればとりてやらんと、かみそりを以て襟の所を毛をとるとてあやまつて切込(きりこみ)ければ、黑血(くろち)沸出(わきいづ)るにしたがひ、死人(しびと)うんといふて息出ぬ。夫(それ)より養生なしけるに無程(ほどなく)全快して、元の如くたつきをもなしけるが、彼小兒は後々まで至孝にて、人も愛し、仕合(しあはせ)もよろしかりしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:死者の詠んだ和歌から死者蘇生の怪談で連関。事実譚として読める。

・「はやうちかた」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『はや打肩』とある。早打ち肩で、急に肩が充血して激痛を感じ、動悸が高まって人事不省になる病気。うちかた。はやかた。一種の循環器障害。岩波の長谷川氏注は『狭心症』と注する。

・「念佛講」浄土宗や浄土真宗の信者が集まって念仏をする集い。多くは親睦をかねて毎月当番の家に集まって念仏を勤める一方、掛金を積み立てておき、会食や葬式などの費用に当てた。

・「店請」借家人の身元保証人。

・「早桶」粗末な円筒形の棺桶。手早く作れることに由来。

・「月代」通常は成人男子が額から頭の中ほどにかけて髪を剃ること、また、その部分を言うが、ここは唐子(からこ)や芥子坊主のようなくりくりに剃る子供の髪型を作る際の剃り落ちた毛のことを指している。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 深き愛情が自然に通じて蘇生した事

 

 大阪にてのこととか。

 軽(かろ)き身分の町家の者が、「早や打ち肩」と申す病いにて、俄かに身罷ったと申す。

 残された者は、五、六歳の小児と妻ばかりのことゆえ、念仏講仲間や店請(たなう)けの者なんどが弔いに訪れ、早桶(はやおけ)と申すものを買い入れ、葬送の準備を致いた。

 さても死骸を早桶の中(うち)に入れようという仕儀となり、集った者どもが沐浴させ、頭も僧形に剃って御座った。

 その折り、剃り落しておる髪の毛が、あまた、死人(しびと)の襟の周りに零れ散ったを、かの遺児なる子(こお)が見、

「……剃り落しとる髪が……あんなに襟についとる。……あんなんやったら、さぞ、お父(とう)は、痛いに決まっておろう……ね……どうか、とってあげて……」

と、自分が父に頭を剃って貰ろうた折り、その髪の毛が肌にちくちくと刺さって痛かったことでも思い出したものか、頻りに乞うのであった。

 しかし、剃り役の者は、

「……坊(ぼん)……死んでもうた者(もん)じゃ。……何んで、痒いことの、あるかいな……」と一向に取り合わなんだ。

 それでも、何度も何度も、頻りに歎願したによって、傍らに御座った男が不憫に思い、

「……坊(ぼん)が、ああまで言うとるんや。一つ、とってやろうやないか。」

と、剃り終えた剃刀を手に執ると、襟の所に残りついた髪の毛を擦り取ろうとした。

 ところが、ふとした弾みで誤って、肩筋の堅い辺りに刃先を切り込んでしもうた。

――と

――どす黒い血(ちい)が

――パアーッ

――湧き出でた

……湧き出でたかと思うと

――死人(しびと)

「……ウ……ウンッツ!!!」

――と呻(おめ)いたかと思うと

――何と、息を吹き返して御座った……。

……それより養生して、ほどのぅ全快致し、元通りの生業(たつき)にも戻れたとのこと。

 かの小児は成人の後々までも親孝行を尽くし、父母ばかりではなく、誰にでも心から優しく接し、幸多き人生を暮した、とのことで御座った。

2014/08/18

「泥の河」の人物画群

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北條九代記 卷第六 北條義時死去

      ○北條義時死去

同月十二月、前陸奥守北條義時、心地殊の外に惱み給ふ。日比病氣の事ありしか共、差(さし)て殊なる色にも覺え給はざりし所に、俄に危急悶亂し、人事(にんじ)をも省(かへりみ)給はず、二位〔の〕禪尼を始めて、子息一族の人々手を握り、汗を流し、上に下に返し給ふ。陰陽師(おんやうじ)國道、泰貞を召して、御祈禱仰(おほせ)付けられ、天地災變の祭(まつり)、二座三萬六千の神祭、屬星、如法(じよくしやうによほふ)の太山府君の祭を行ふ。供物その式(しき)を守り、十二種の重寶、五種の身代(みがはり)、悉くその沙汰あり。そのほか、天曹(そう)、地府(ちふ)、八字文殊、訶利帝母(かりていも)、七佛藥師、金輪の法、各(おのおの)修(しゆ)せらるといへども、時移るに隨ひて、いよいよ危急に迫り給ふ。翌日十三日の巳刻に、遂にはかなくなり給ふ。行年(かうねん)六十二歳なり。同十八日、故右大將家の法華堂の、東の山上に葬(ほうむり)て、一堆(たい)の墳墓にぞ埋みける、人世の浮生(ふしやう)、水面の泡、石火電光、一夢中、總て無常の有樣、誰(たれ)かは當(まさ)に遁(のが)るべきなれ共、榮貴(えいき)、今、盛んなる時節に方(あたつ)て、家門、是(これ)、富(とみ)に至る。武威、輝(かゝや)く最中ぞかし、天下の事、如何(いかゞ)あらんと危む人も有りけり、式部大夫、駿河守、陸奥四郎、同五郎、同六郎、三浦駿河前司、その外、宿老、伺候の輩、各(おのおの)服衣(ふくい)を著(ちやく)せしめ、御家人等(ら)、參候(さんこう)して、忌(いみ)に籠り給ひしかば、鎌倉中打潛(うちひそみ)て、物哀にぞ見えにける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十六の貞応三(一二二四)年六月十二日・十三日・十八日の記事に基づく。

「日比病氣の事あり」死因は「吾妻鏡」では衝心脚気と急性消化器疾患とされるが(後掲)、ウィキの「北条義時」には、『偉大な幕府指導者の急死であったため憶測を呼び、近習の小侍に刺し殺されたとの異説(『保暦間記』)や、後妻の伊賀の方に毒殺されたとする風聞(『明月記』)もあった』と記す。

「人事をも省給はず」人事不省(昏睡状態)になられ。

「天地災變の祭」星宿信仰に関わる天変地異の修法。前段に見たような、ここのところの異常な旱魃や怪魚の大量死等を考慮したものか。

「二座三萬六千の神祭」これは道教に於ける神の全数であり、これら神は天宮のみでなく、この地上に来臨して山や洞窟、さらには個々人の身体内にも宿るとされた。義時の体内の神のみでなく、その総ての神に病気平癒を祈る修法であろう。

「屬星」属星祭(ぞくしょうさい)。前章で既注であるが、陰陽道で生年によって決まり、その人の運命を支配するとする星、生年の干支を北斗七星の各星に宛てたものに祈念する修法。

「如法の太山府君(ぶくん)の祭」正式な法式作法に則った泰山府君祭(前章に既注)。元来、この陰陽道の最奥義の修法は病気などの身体に関わる祈願を目的としたものである。

「その式」それぞれの修法の同じく決められた通りの供物に関わる法式、の意。

「十二種の重寶」恐らくは陰陽道の泰山府君及び天界及び冥界の十二の神(以下の注「天曹、地府」を参照のこと)をシンボライズした霊的祭祀物であろう。

「五種の身代」「吾妻鏡」の割注(後掲)によれば、馬・牛・男女の装束などとあり、これは所謂、修法の中で物の怪(病魔)を患者から移すための形代(かたしろ)・依代(よりしろ)の類いと思われる。この「馬・牛」というのも、「式」に厳密に従ったと二度も言っているところを見ると、本物の牛馬を用いたのではないかと思われる(人によっては以下に示すようなミニチュアとする)。「男女の装束」とは、人形(ひとがた)の依代で、古くは憑依させて物の怪に喋らせるために実際の処女の娘が用いられたが、憑依霊が邪悪な場合、生命の危険に晒されることから、こうした着衣やひいては人形(にんぎょう)や人を象って切りぬいた紙に代わっていった。

「天曹、地府」天曹地府祭又は天曺(てんちゅう)地府祭のこと。六道冥官祭(ろくどうめいかんさい)とも言う(陰陽道を掌る安倍氏においては、「曹」を用いずに代字として「曺」を用いた)。広義には天曹は天界・天宮、地府は地下の冥界を指す。参照したウィキの「六道冥官祭」によれば、泰山府君と天曹及び地府を中心とした十二座の神に『金幣・銀幣・素絹・鞍馬・撫物などを供えて無病息災・延命長寿を祈祷する儀式である。天皇や将軍の交替という国家の大事にも行われたために陰陽道でも最も重要な儀式として位置づけられた』。『院政期に中国の封禅思想や仏教の六道思想を取りこむ形で行われ、鎌倉時代に入ると、鎌倉幕府の将軍宣下の際に合わせて安倍氏の手によって行われる儀式となった他、天皇や貴族や武士の間で定期的あるいは災厄の発生や天変地異、補任などの臨時の祈祷として行われるようになった。土御門家が室町幕府の庇護下で安倍氏の宗家として確立されるようになると、将軍の御代始の儀式として同家が管掌するようになった。江戸時代に入ると、江戸幕府の将軍宣下では勿論のこと、天皇の即位式の際にも土御門家によって行われるようになり、明治天皇の時に政治的混乱で行われないまま陰陽寮の廃止に至るまで続けられた』。『陰陽道の儀式であるが、中国の封禅思想をはじめ、加持・燻香・打磐などの仏教様式や拍手・奉幣・中臣祓などの神道様式、法螺などの修験道様式が取り入れられた』。祭神とされた十二の神は「冥道十二神」と称されるもので、『泰山府君・天曹・地府・水官・北帝大王・五道大王・司命・司禄・六曹判官・南斗・北斗・家親丈人を指』すとある。

「八字文殊」以下の四種は仏式の修法で、これは息災調伏を祈る文殊菩薩を本尊とするもの。通常の文殊菩薩は頭髪を五髻に結っているが、八字文殊法のそれは八髻に結い、真言も八字で表わされることによる参考にしたMOA美術館公式サイト内のコレクションの「八字文殊菩薩及八大童子像」でこの修法のために描かれた図像が見られる。

「訶利帝母」鬼子母神を指し、破邪調伏をこととする仏教神である。

「七佛藥師」病気平癒の薬師如来を本尊とする修法。西方浄土には阿弥陀如来がいるが、東にも七つの浄土があって此岸に一番近いところから善名称吉祥王如来・宝月智厳光音自在王如来・金色宝光妙行成就王如来・無憂最勝吉祥王如来・法海雷音如来・法海勝慧遊戯神通如来が居り、その最も遠い東方の浄土に薬師琉璃光如来(薬師如来)が居る。その最果ての薬師如来の居る浄土は「浄瑠璃国」「浄瑠璃浄土」などと称せられる。東方の薬師如来に至る如来像七体を並べて祈る方法を七仏薬師法と称する。参照した Tobifudoson Shoboin 氏の「仏様の世界」の「七仏薬師」によれば、この修法は『天台宗の良源という僧侶が摂関家の安産祈願をしてから特に有名にな』ったとある。

「金輪の法」一字金輪法であろう。以前にも注したが、再掲しておく。「一字金輪」は一字頂輪王・金輪仏頂などとも呼ばれ、諸仏菩薩の功徳を代表する尊像を指す。真言密教では秘仏とされ、息災や長寿のためにこの仏を祈る一字金輪法は、古くは東寺長者以外は修することを禁じられた秘法であったと言われる(国立博物館の「e国寶」の「一字金輪像」の解説に拠る(リンク先に一字金輪像の画像あり)。

「巳刻」午前十時頃。

「故右大將家」源頼朝。

「法華堂」現在の島津家が勝手に作り上げた頼朝の墓と称するものの、怪談下の左側の公園付近にあった頼朝を祭った霊廟。元は頼朝の持仏堂であった。現存しない。

「東の山上に葬て、一堆の墳墓にぞ埋みける」「新編鎌倉志卷之二」に、

   *

平の義時が墓 今は亡(なし)、【東鑑】に、元仁元年六月十八日、前の奧州義時を葬送す。故右大將家の、法華堂の東の山の上を以て墳墓とす。號新法華堂(新法華堂と號す)とあり。

   *

と記すように、これも早くに消失して現存しない。岡戸事務所編の「鎌倉手帳(寺社散策・観光)」の「北条義時の法華堂跡」に、平成一七(二〇〇五)年に『源頼朝墓東隣の山の中腹から北条義時のものと考えられる法華堂跡が発掘され』、『調査の結果』、一辺が八・四メートルの『正方形の三間堂であったと推測されている』とあり、『近くに「よしときさん」と呼ばれ、義時の墓とされてきた「やぐら」も存在している』として、別ページに「北条義時やぐら」を立てておられる。私も三十年前、このやぐらを検証したことがあるが、規模から見ても義時の「墓」ではないし(そもそも実質上の最高権力者であった義時の、その時代、幕府の最高権力層をやぐらに葬った例はない)、供養のやぐらとしても小さ過ぎるように思われる(やぐらとしては羨道の掘り方が鎌倉期のそれらとは異なる印象を受けた。もっと後世のもののように私には見えた)。私が訪れた当時は八重葎に覆われており、保存状態も劣悪であったが、今はどうなっているのであろう。

「一夢中」ちょっと眠った中で見た儚い夢。

「式部大夫」義時次男の北条朝時(ともとき)。名越次郎朝時とも称した。泰時の異母弟(泰時は側室阿波の局。彼の母は義時の前妻(正室)「姫の前」)この時、満三十一歳。

「駿河守」義時三男の北条重時。朝時の同母弟。当時、満二十六歳。

「陸奥四郎」義時五男の北条政村。義時の後妻伊賀の方の子。後の第七代執権。当時、満十九歳。

「同五郎」義時四男の北条有時。但し、ウィキの「北条有時」によれば、側室の子で、『通称は六郎であり、義時の葬儀の際の序列は、正室所生の弟政村・実泰より下位の最後尾に位置づけられている』とある(後掲する「吾妻鏡」を参照のこと)。当時満二十四歳。

「同六郎」義時六男(推定)の北条実泰。北条政村の同母弟。当時、満十六歳。

「三浦駿河前司」三浦義村。

 

 以下、「吾妻鏡」を引く。まず、貞應三(一二二四)年六月十二日の条を出し、順に葬送まで残さず見る。

○原文

十二日戊寅。雨下。辰尅。前奥州義時病惱。日者御心神雖令違亂。又無殊事。而今度已及危急。仍招請陰陽師國道。知輔。親職。忠業。泰貞等也。有卜筮。不可有大事。戌尅。可令屬減氣給之由。一同占申。然而始行御祈祷。天地災變祭二座。〔國道。忠業〕三万六千神祭。〔知輔〕屬星祭。〔國道。〕如法泰山府君祭。〔親職〕此祭具物等。殊刷如法儀之上。十二種重寳。五種身代。〔馬牛男女裝束等也〕悉有其沙汰。此外。泰山府君。天曹地府祭等數座也。是存懇志之人面々所令修也。但隨移時彌危急云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十二日戊寅。雨下(ふ)る。辰の尅、前奥州義時、病惱す。日者(ひごろ)、御心神違亂せしむと雖も、又、殊なる事無し。而るに今度、已に危急に及ぶ。仍つて陰陽師國道・知輔・親職(ちかもと)・忠業(ただなり)・泰貞等を招請す。也。卜筮(ぼくぜい)有り。大事有るべからず。戌の尅、減氣(げんき)に属せしめ給ふべきの由、一同、占ひ申す。然れども、御祈禱を始行す。天地災變祭二座〔國道。忠業〕・三万六千神祭〔知輔〕・屬星祭〔國道〕・如法泰山府君祭〔親職〕。此の祭、具物(そなへもの)等、殊に如法儀の上に刷(さつ)す。十二種の重寳、五種の身代り。〔馬・牛・男女裝束等なり。〕悉く其の沙汰有り。此の外、泰山府君・天曹地府祭等、數座なり。是、懇志を存ずるの人、面々に修せしむ所なり。但し、時の移りに隨ひて彌々(いよいよ)危急と云々。

・「大事有るべからず」占いの結果は「大したことはない」であった。

・「戌の尅、減氣(げんき)に属せしめ給ふべき」占いの続き。「減氣」は病いの陰気が減ずることをいう。「午後八時頃には快方に向かわれるでしょう」と出たのであった。

・「懇志を存ずるの人」「懇志」は親切で行き届いた志し、懇ろな心、厚志の意で、ここは義時に特に心からの忠誠を誓っている人々(具体的には祈誓を修している陰陽師や神主・僧)の謂いであろう。

 

○原文

十三日己夘。雨降。前奥州病痾已及獲麟之間。以駿河守爲使。被申此由於若君御方。就恩許。今日寅尅。令落餝給。巳尅。〔若辰分歟〕遂以御卒去。〔御年六十二〕日者脚氣之上。霍乱計會云々。自昨朝。相續被唱彌陀寳號。迄終焉之期。更無緩。丹後律師爲善知識奉勸之。結外縛印。念佛數十反之後寂滅。誠是可謂順次往生歟云々。午尅。被遣飛脚於京都。又後室落餝。莊嚴房律師行勇爲戒師云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十三日己夘。雨降る。前奥州の病痾、已に獲麟(くわくりん)に及ぶの間、駿河守を以つて使いと爲(な)し、此の由を若君の御方に申さる。恩許に就きて、今日、寅の尅、落餝(らくしよく)せしめ給ふ。巳の尅〔若しくは辰の分か。〕、遂に以つて御卒去〔御年六十二。〕。日者(ひごろ)、脚氣の上、霍乱、計會(けいくわい)すと云々。

昨朝より、相ひ續きて彌陀の寳號を唱へられ、終焉の期(ご)に迄(およぶまで)、更に緩(おこた)り無し。丹後律師、善知識として之れを勸め奉る。外縛印(げばくいん)を結び、念佛數十反(へん)の後、寂滅(じやくめつ)す。誠に是れ、順次の往生と謂ひつべきかと云々。

午の尅、飛脚を京都へ遣はさる。又、後室も落餝す。莊嚴房律師行勇、戒師たりと云々。

・「若君」三寅。後の第四代将軍藤原頼経。

・「寅の尅」午前四時頃。

・「巳の尅」午前十時頃。

・「辰の分」午前八時前後。死亡時間に二時間以上の混乱があるのは何か怪しい感じはするが、それだけ義時の死が予期しない突発的で衝撃的な出来事であったことを物語るとも言えよう。

・「脚氣」ビタミンB1(チアミン)の欠乏によって心不全と末梢神経障害をきたす疾患である。心不全によって下肢のむくみが、神経障害によって下肢のしびれが起きることから脚気の名で呼ばれる。心臓機能の低下・不全、所謂、衝心を併発したときは、脚気衝心と呼ばれる。日本では平安時代以降、京都の皇族や貴族など上層階級を中心に脚気が発生している(ここまではウィキ脚気に拠る)。また、ウィキ日本脚気史」には、『日本で脚気がいつから発生していたのか、はっきりしていない』が、『『日本書紀』と『続日本紀』に脚気と同じ症状の脚の病が記載されており、平安時代以降、天皇や貴族など上層階級を中心に脚気が発生した。江戸時代に入ると、玄米にかわって白米を食べる習慣がひろまり、上層階級のほか、武士と町人にも脚気が流行した。とくに江戸では、元禄年間に一般の武士にも脚気が発生し、やがて地方にひろがり、また文化・文政に町人にも脚気が流行した。江戸をはなれると、快復にむかうこともあり、「江戸患い」とよばれた。経験的に蕎麦や麦飯や小豆を食べるとよいとされ、江戸の武家などでは脚気が発生しやすい夏に麦飯をふるまうこともあった』とある。

・「霍乱」平凡社の「世界大百科事典」によれば、嘔吐と下痢を起こし、腹痛や煩悶などをも伴う病気の総称で。、身体の冷熱の調和が乱れることによって起こると考えられていた病気。病状からみて、現在のコレラや細菌性食中毒などを含む急性消化器疾患と考えられる。

・「丹後律師」頼暁。

・「善知識」導師。禅宗では参禅の者が師匠をこう呼ぶ。

・「外縛印」合掌をした際に左右の指を根元まで深く差し込む手の組み方を、主に真言宗でこう称した(「高野山真言宗 総本山金剛峯寺」公式サイトのを参照した)。

・「後室」後妻(継室)の伊賀方(生没年未詳)。藤原秀郷流の関東の豪族伊賀朝光の娘。夫義時の急死直後の同年七月には兄である伊賀光宗とともに実子である政村を幕府執権に、娘婿の一条実雅を将軍に擁立しようと図ったが、北条政子が政村の異母兄泰時を義時の後継者としたことから失敗、伊賀の方と光宗・実雅は流罪となった(伊賀氏の変)。但し、子の政村はこの事件に連座せず、後に第七代執権(彼は得宗家ではないので本書のタイトルの「九代」には含まれないので注意)となっている。同年八月二十九日に彼女は政子の命によって伊豆北条へ配流となって幽閉の身となった。四ヶ月後の十二月二十四日には危篤となった知らせが鎌倉に届いており、その後、死去したものと推測される。なお、藤原定家の「明月記」によると、義時の死に関して、実雅の兄で承久の乱の京方首謀者の一人として逃亡していた尊長が、義時の死の三年後に捕らえられて六波羅探題で尋問を受けた際に、苦痛に耐えかねて「義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫んで、武士たちを驚かせている(義時謀殺説である)。以上はウィキの「伊賀方」に拠った。

・「午の尅」正午頃。

・「莊嚴房律師行勇」頼朝・政子の帰依が厚く、東勝寺や浄妙寺の開山ともなった臨済僧退耕行勇。栄西の弟子に当たる。

 

○原文

十五日辛丑。晴。恒例七瀨御秡依穢延引云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十五日辛丑。晴る。恒例の七瀨(ななせ)の御秡(おんはらへ)、穢(ゑ)に依つて延引すと云々。

・「靈所七瀨の御祓」既注であるが再注する。鎌倉御府内を守護する七箇所の霊地(由比ヶ浜・金洗沢・片瀬川・六浦・㹨川・杜戸・江島竜穴)で行われる大規模な鎌倉防衛のための霊的な陰陽道の大祭。無論、義時の忌中の穢れである。

 

○原文

十七日癸未。晴。午刻地震。

○やぶちゃんの書き下し文

十七日癸未。晴る。午の刻、地震。

 

○原文

十八日甲申。霽。戌尅。前奥州禪門葬送。以故右大將家法華堂東山上爲墳墓。葬礼事。被仰親職之處辞申。泰貞又稱不帶文書故障。仍知輔朝臣計申之。式部大夫。駿河守。陸奥四郎。同五郎。同六郎。幷三浦駿河二郎。及宿老祇候人。少々著服供奉。其外御家人等參會成群。各傷嗟溺涙云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十八日甲申。霽る。戌の尅、前奥州禪門の葬送。故右大將家法華堂東山上を以つて墳墓と爲す。葬礼の事、親職(ちかもと)に仰せらるの處、辞し申す。泰貞、又、文書を帶せずと稱して故障す。仍つて知輔朝臣、之れを計り申す。式部大夫・駿河守・陸奥四郎・同五郎・同六郎幷びに三浦駿河二郎、及び宿老の祇候人(しこうにん)少々、服を著し、供奉す。其の外、御家人等の參會群を成す。各々傷嗟(しやうさ)して涙に溺(おぼ)ると云々。

・「戌の尅」午後八時頃。

・「葬礼の事、親職に仰せらるの處、辞し申す。泰貞、又、文書を帶せずと稱して故障す」「文書を帶せず」とは葬送の儀を任せられたことを示す公的文書か。陰陽師の親職と泰貞がかくも辞退・固辞したのは不審であるが、もしかすると、十二日の義時病気平癒の卜筮が大外れしたことと関係があるのかも知れない(但し、その中には結果として請け負った知輔もいた)。

・「宿老の祇候人」古参の長老の代理人。

・「傷嗟」悼み嘆くこと。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 57 出雲崎 荒海や佐渡によこたふ天河

本日二〇一四年八月十八日(陰暦では二〇一四年七月二十三日)

   元禄二年七月 四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年八月十八日

である。この日、芭蕉は出雲崎に到達、かの「荒海や」の名吟が詠まれた。

 

荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがは)

 

[やぶちゃん注:「奥の細道」。「曾良俳諧書留」には、

 

  七夕

 

と前書する。因みにこの前書は記載位置から、ちゃんと実際の七夕が過ぎた八日以降に附された前書と思われるのが微笑ましい。曾良の「雪まろげ」にも、

 

  越後の國出雲崎といふ所より佐渡が島へ海上十八里となり。初秋の薄霧立(たち)もあへず、流石(さすが)に波も高からざれば、たゞ手の上の如く見渡さるゝ

 

と前書がある。

 本句に関わって芭蕉は別に複数の真蹟懐紙で俳文様の長い類似した前書を多くものしているが、それらと大同小異の「風俗文選」(許六編・宝永三(一七〇六)年跋)の「銀河の序」と称されるものが人口に膾炙するので、以下に句も含めて全文を示す(底本は岩波文庫一九二八年刊の伊藤松宇校訂「風俗文選」を用いたが、総て句点であるため、読み易さを考えて適宜読点に代え、一部に読みを歴史的仮名遣で追加した。踊り字「〱」「〲」は正字化した)。

 

         銀河       芭蕉

〇北陸道に行脚して、越後國出雲崎といふ所に泊る。彼(かの)佐渡が島は海の面十八里、滄波(さうは)を隔て、東西三十五里に、よこおりふしたり。みねの嶮難(けんなん)の隈隈(くまぐま)まで、さすがに手にとるばかり、あざやかに見わたさる。むべ此島は、こがねおほく出て、あまねく世の寶となれば、限りなき目出度島にて侍るを、大罪朝敵のたぐひ、遠流せらるゝによりて、たゞおそろしき名の聞こえあるも、本意なき事におもひて、窓(まど)押開きて、暫時の旅愁をいたはらんむとするほど、日既に海に沈(しづん)で、月ほのくらく、銀河半天にかかりて、星きらきらと冴(さへ)たるに、沖のかたより、波の音しばしばはこびて、たましひけづるがごとく、腸(はらわた)ちぎれて、そゞろにかなしひきたれば、草の枕も定らず、墨の袂なにゆゑとはなくて、しほるばかりになむ侍る。

    〽あら海や佐渡に横たふあまの川

 

 「曾良随行日記」を見ると、

 

○四日 快晴。風、三日同風(アイ)也。辰ノ上刻、弥彦を立。弘智法印像爲ㇾ拝。峠ヨリ右へ半道計行。谷ノ内、森有、堂有、像有。二三町行テ、最正寺ト云所ヲノヅミト云濱ヘ出テ、十四、五丁、寺泊ノ方ヘ來リテ左ノ谷間ヲ通リテ、國上ヘ行道有。荒井ト云、鹽濱ヨリ壱リ計有。寺泊ノ方ヨリハ、ワタベト云所ヘ出テ行也。寺泊リノ後也。壱リ有。同晩、申ノ上刻、出雲崎ニ着、宿ス。夜中、雨強降。

○五日 朝迄雨降ル。辰ノ上刻止。出雲崎ヲ立。間モナク雨降ル。至柏崎ニ、天ヤ彌惣兵衞ヘ彌三良狀屆、宿ナド云付ルトイヘドモ、不快シテ出ヅ。道迄兩度人走テ止、不止シテ出。小雨折々降ル。申ノ下尅、至鉢崎。宿タワラヤ六郎兵衞。

 

とあるから、この嘱目した眺望は四日の宵であったことが分かる(因みに句とは関係ないがこの五日の柏崎での予想外のトラブル・シーンは日記中、珍しく芭蕉と曾良の怒りがはっきりと感ぜられる珍しい箇所である)。

 本句を現代音で総てローマ字化して示してみる。

 

Araumi ya  Sado ni yokotau(yokotou) Amanogawa

 

十七音の内、母音の「a」音が九音(若しくは八音)、「o」音が四音(若しくは五音)で山本健吉氏が「芭蕉全句」で述べられているように、『ほとんど強音の a 音と o 音で組立てられ、雄渾な調べを』構成している。

 続いて山本氏は、『「横たふ」は元来他動詞であるべきものを自動詞として用いた文法的誤用だと言われている。だがこれは、たとえば他動詞「寄する」を、自分を寄せるという意味で自動詞「寄る」と同じように使った場合に準ずべきもので、反射動詞(再帰動詞)的用法として』(*)

(*)再帰動詞:ヨーロッパ言語に於いて意味上の動作主と被動者(形式的には主語及び目的語として現れることが多い)が同じであるような動詞をいう。目的語として再帰代名詞をとる動詞でフランス語“se lever”(起きる)やドイツ語の“sich freuen”(喜ぶ)などの類(ここは「大辞泉」に拠った)。ウィキの「再帰動詞」によれば、『意味的には、自分自身を対象として行う行為(再帰的)のほか、言語にもよるが、複数の人または物が互いにしあう行為(相互的:英語では each other などを使う)、他の明示されない動作主や現象によって受ける行為(受動的:英語では能格動詞などを使う)などにも用いられる。本質的再帰動詞は、他の言語ならば自動詞を使うような場面(他の動作主があるとは普通考えられない)に用いられる』とあり、また、日本語にはこうした『再帰動詞はないが、再帰代名詞に当たる「自分」「自ら」などがあり、また相互的動作を現す補助動詞的成分「あう」(「投げあう」「罵りあう」など)がある。また形式的には特殊な点はないが、「着る」「脱ぐ」のように自分のことについてのみ用いる他動詞を再帰動詞と呼ぶこともある。「顔を洗う」なども用法的にはこれに含められる』とある。

『日本語の自然法からはずれているわけではない。学者よりも詩人が、母国語の法則を直感的に把握している一例と見做してよいであろう』と、インキ臭い重箱の隅掘りの文学の分からぬ国語学者共を論破されている。実に小気味よいではないか。かの安東次男氏も「古典を読む おくのほそ道」で同様に、『一種の再帰動詞的絶対動詞の語法を兼ねているよう』で、織女の来迎を待ち望む牽牛、望郷の思いにかられている佐渡の流人たち(若しくはその魂魄)という、『(待ち侘びる者の許へ小舟を渡してやるために)天の川が自分自身を横たえる、と考えればよい。芭蕉はさしずめ脱出の共犯である』と述べておられる。流石は安東節、炸裂している。

 実は私には本句についての教師時代の教授に内心忸怩たるものがある。それは「天の川は佐渡には横たわらない」ということを強調したことである。それは無論、詩的真実の説明のためであったが、それによって芭蕉の操作性を鬼の首を捕ったように豪語していた(確かに豪語であったことを告白する。その点に於いては先に私自ら批判した国語学者連中と私は同列であった)自分が情けないのである。頴原・尾形評釈(角川文庫版「おくのほそ道」)ではこのことについて「横たふ」論に続けて以下のように述べてあるので含めて引用し、自戒としたい。

   《引用開始》

 なおこの句については、「横たふ」に関する文法上の論と、銀河は出雲崎から佐渡に横たわるようには見えないという地理上の実際説とがある。前者については、文法的に「横たはる」と自動詞を用いたのでは、語勢がゆるんでしまう。こうした場合まず貴むべきは、ことばからくる感じやリズムであるから、文法的な破格は当然許されねばならぬというのが定説となっているようだ。もちろんそれが正しいにちがいない。しかし芭蕉がそうした文法論や修辞論を考えた結果、「横たふ」としたのではない。これは自然に芭蕉の口に浮かんだことばだったのである。そうし文法的誤謬(ごびゅう)があろうがなかろうが、結局「横たふ」でなければならなかったのである。また地理の実際はなるほど句と異なっているかも知れぬ。しかし「銀河半天にかかりて」という景観は、たとえその方向が出雲崎の町そって流れていたろうとも、作者の心に「佐渡に横たふ」と思わせるに十分な感銘があったにちがいない。それは一個の詩境である。読者は作者とともにこの詩境を味わえば足りる。かならずしも銀河の実際の方向の如何(いかん)を問題とする必要はない。

   《引用終了》

 なお、本句が実際に披露されたのは「曾良随行日記」「曾良俳諧書留」からは、三日後の今町(直江津)での会吟の折りであったと考えられる。

 「奥の細道」の原文は次の「文月や六日も常の夜には似ず」の句で示すこととする。]

2014/08/17

生物學講話 丘淺次郎 第十一章 雌雄の別 三 局部の別 (2) 驚きのファルス群!

 蛇・「とかげ」の類も平常は雄の交接器が現れて居ぬから、雌雄の形が違わぬやうに見えるが、實は肛門内に立派な交接器を具へて居る。しかもそれが左右兩側に各々一つづつある。雄の蛇を捕へてその腹を強く締めると、肛門から一對の突起がでるが、これを見て足と思ひ誤り、蛇にも足があるとか、足のある蛇を發見したとかいふことが屢々ある。先年も或る新聞紙に奇蛇と題して、埼玉縣の或る村で一對の足を具へた蛇を捕へた。その足には各三十六本の爪が生えてあつたといふ記事が出て居たが、これは無論雄蛇の交接器で、爪といふのはその表面にある角質の尖つた突起に違ない。左右一對あつて位置も腰のところに當るから、素人がこれを足かと思ふのも無理ではないが、實は交接するとき雌の體内に插し入れる部分である。龜の類も雄には大きな交接器があつて、交接のときにはこれを長い間、雌の體内に插し入れているが、常には肛門内に收めて居る故、外からは少しも見えぬ。

[やぶちゃん注:ヘビやトカゲの仲間である有隣目の♂の生殖器は普通は尾の付け根にあって、哺乳類その他のペニスと異なり、左右一対であることから、特にヘミペニス(半陰茎)と呼ばれる特異なものであり、また、蛇の交尾は一般に非常に長いことでも知られる。私は蛇好きであるが、成体のヘミペニスは見たことがない。個人サイト「ニッポンの歩き方」の群馬県にある「ジャパンスネークセンター」訪問のページで、ハブのヘミペニスの液浸標本画像や分かり易くイラスト化したヘミペニスの構造が分かる。また、喪主ちん氏のサイト「ちん.com」内の「萌える民俗学」ではモノクローム写真ながら、二十六時間に及ぶ交尾行動の写真が見られる。特に♂♀が完璧に捻じり合った状態(ちん氏は『中尾彬のネジネジのようだ』とキャプションを附けておられ、まことに言い得て妙)が素晴らしい。特に『この交尾の姿を模して縄文土器やしめ縄がつくられたらしい』『模すことにより何をあやかるつもりなのかよくわか』らないながらも、『一説によれば、生命力を崇めている』とあり、注連繩もこれが元という説を示されてあって、実に目から正真正銘、鱗であった。

 亀のペニスはえ!カメのおちんちんってこんな形!? YouTube動画で学ぶ動物のペニスの不思議が絶品である。ここでは亀以外にも、先の蛇の他、犬・猫・海象(セイウチ)・針土竜(ハリモグラ)・蝙蝠・蝸牛・鯨といった生物のペニスの動画が見られる。亀のその巨大さにはちょっと驚いた。生理的嫌悪感を持たない方には必見である。]

環境省は東宝怪獣映画の科学者並である

外部からの移入種は見た目の環境を破壊しなくても、生態系全体の遺伝子プールに甚大な攪乱を引き起こすから、これは駆除しなくてはならぬ。しかし、その場合、人海戦術で慎重にマニュアルな駆除をしなければならぬ。温水流入を遮断して水温を一気に下げて駆除するという、この野蛮な非科学的方法(まるで東宝特撮映画で科学者が怪獣を撃退するのにやらかしそうなことだ)が立派な「環境破壊」であることに環境省は何故気づかないのか?! それによってカワニナやその他の微小生物が同時に絶滅する。――環境破壊を防ぐという名目で人為が加えられることによって、更なる致命的な環境破壊が連鎖的に生じてしまうという、人類の愚行の象徴がこの一件にはっきりと現われている。
朝日新聞デジタル記事
長野)上高地の外来ホタル駆除へ 環境省
http://digital.asahi.com/articles/ASG494W3NG49UOOB00P.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_ASG494W3NG49UOOB00P
 北アルプス・上高地(松本市)に生息する外来種のゲンジボタルについて、環境省が駆除に乗り出すことが9日、分かった。同省上高地自然保護官事務所は「本来そこに存在しないはずのホタルが、外部から持ち込まれたとみられる。放置すれば、生態系に悪影響を及ぼす可能性がある」と話している。
 安曇野市のNPO「野生生物資料情報室」(植松晃岳代表)によると、ゲンジボタルは上高地の河童(かっぱ)橋から梓川沿いに約1・2キロ下った池周辺に数百~数千匹生息。NPOは4年前に調査結果を発表し、同省に駆除を提案していた。
 上高地は中部山岳国立公園の特別保護地区で、国の特別名勝や特別天然記念物に指定されており、現状変更には許可が必要。同省は、温泉水が水路を通じて池に流れ込み、ゲンジボタルの生息に適した環境が出現していると判断。温かい水の流入を止め、池の水温が下げることで駆除する方法を検討中という。
 NPOによると、ゲンジボタルは2000年ごろ、確認された。6月末~7月は夜空に光るホタルが鑑賞できるため、10年ほど前から、宿泊施設がガイドツアーを企画している。

「アンソロジーの誘惑/奇形学の紋章」(俳諧篇・俳句篇・近現代詩篇)PDF各分割版

僕の好きな韻文のアンソロジーである「アンソロジーの誘惑/奇形学の紋章」(リンク先は既にある一括横書版)を、PDF分割版として、

俳諧篇

俳句篇

近現代詩篇

で「心朽窩新館」に公開した。

――特に「近現代詩篇」の冒頭の島崎藤村から藤森安和までは、かつて新米教師時代の二十三歳の僕が作った現代文用のオリジナル教材が原型であるから、私の近現代詩の授業(恐ろしく長く、且つ受験には何の関わりもなかったであろう)を不幸にして受けた教え子には懐かしいものと思われる。――

2014/08/16

Condition Red

Condition Red ――

危険なのは

危険なのは――実は世界ではなく――私である――

大和本草卷之十四 水蟲 介類 朗光(さるぼ)

【外】

朗光 似蛤蜊但形大而脣黑食沙故肉多砂王氏

彙苑又漳州府志作螂※八閩通志曰似魁蛤○

[やぶちゃん字注:「※」=「虫」+「晃」。]

今按サルホハアカヾヒニ似テ味ヲトレリ江戸ニ多シ又筑紫

ニ馬ノ爪ト云貝アリ朗光ノ類ナルヘシ

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

朗光(さるぼ) 蛤蜊〔(がふり)〕に似る。但し、形、大にして、脣〔(くちびる)〕、黑し。沙を食す。故に肉に、砂、多し。「王氏彙苑」、又、「漳州府志」は螂※に作る。「八閩通志〔(はちびんつうし)〕」に曰く、『魁蛤(くわいがふ)に似る。』と。今、按ずるに、「さるほ」は「あかゞひ」に似て、味、をとれり。江戸に多し。又、筑紫に「馬の爪」と云ふ貝あり。朗光の類いなるべし。

 

[やぶちゃん注:斧足綱翼形亜綱フネガイ目フネガイ上科フネガイ科アカガイ属サルボウ(ガイ) Anadara  kagoshimensis 。アカガイ属アカガイ Anadara broughtonii と見た目がよく似ているが、サルボウはアカガイ並みには大きくならないこと(サルボウは養殖で七~八センチメートル程、アカガイは時に十五センチメートルに達する)、放射肋の数が三十二条内外とアカガイの四十二条内外と有意に異なるので、アカガイと並べれば、普通に視認しても疎密から判別出来る。なお、本書のみならず、現代の諸本でもサルボウの味をアカガイより落ちるとするが、これは人の好みである。私は刺身の場合、柔らかさと臭みがアカガイに比すとやや気になるが、茹でたり煮貝にするとアカガイに引けを取らない。

「蛤蜊」先の「蛤蜊」の注の冒頭を参照されたい。

「王氏彙苑」原文の□は「王氏」の下及び「彙苑」の上は開放である。明,の鄒道元編になる辞書「彙書詳註」の別名。

「漳州府志」既であるが再掲する。清乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌。

「螂※」「※」の字は不詳。「ラウクワウ(ロウコウ)」と音読みするものと思われる。意味もお手上げ。

「八閩通志」明の黄仲昭の編纂になる福建地方の地誌。

「魁蛤」現代中国語でもアカガイを指す。

「馬ノ爪」現在でもサルボウの地方名として「ムマノツメ」というのが確認出来る。]

大和本草卷之十四 水蟲 介類 海扇

 

海扇 本草ニ出タリ車渠ト云本草ニノセタルハ大ナリ日

本ニアルハ方二三寸アリ其殻ノ文瓦屋ノ如ニシテ溝ア

リ貧民殻ヲ用テ柄ヲ加ヘ勺子トス故ニ勺子貝ト云

肉ノ味不美海人モ不食之其フタハ扇ノ形ノ如ク平直

ナリ海中ヲオヨク時其フタヲ立テユク舟ノ帆ノ如シ故ニ

ホタテ貝ト云霏雪錄曰海中有甲物如扇其文如

瓦壟名海扇又彙苑ニ出タリ玉ニモ車渠ト云物アリ西

域七寚ノ一也此蛤似之故ニ名ツク本草時珍カ説ニ見

エタリ丹鈆録曰車渠作盃注酒滿過一分不溢

○やぶちゃんの書き下し文

海扇(ほたてがい) 「本草」に出でたり。車渠〔(しやきよ)〕と云ふ。「本草」にのせたるは大なり。日本にあるは、方二、三寸あり。其殻の文〔(もん)〕、瓦屋〔(かはらやね)〕のごとくにして、溝あり。貧民、殻(から)を用ひて柄を加へ、勺子〔(しやくし)〕とす。故に勺子貝と云ふ。肉の味、美からず。海人も之れを食さず。其のふたは扇の形の如く、平直なり。海中をおよぐ時、其のふたを立てゆく、舟の帆のごとし。故にホタテ貝と云ふ。「霏雪錄〔(ひせつろく)〕」に曰はく、『海中に甲物〔(かふぶつ)〕有り、扇のごとく、其の文、瓦壟のごとし。海扇と名づく。』と。又、「彙苑」に出でたり。玉〔(ぎよく)〕にも車渠と云ふ物あり。西域七寚(しつはう)の一なり。此の蛤〔(がふ)〕、之れに似る。故に名づく。「本草」時珍が説に見えたり。「丹鈆錄」に曰はく、『車渠、盃と作〔(な)〕す。酒を注(い)れ、滿ちて、一分を過ぎれども、溢れず。』と。

[やぶちゃん注:現行では「ホタテガイ」は斧足綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ科 Mizuhopecten ホタテガMizuhopecten yessoensis であるが、同種の本邦での南限は、日本海側で能登半島、太平洋側が千葉県とされている北方種である。ここではしかし、「方二、三寸」と小振りで、「其殻の文〔(もん)〕、瓦屋〔(かはらやね)〕のごとくにして、溝あり」(ホタテガイの放射肋は実はそれほどくっきりとしていない)とあり、さらに「貧民、殻(から)を用ひて柄を加へ、勺子〔(しやくし)〕とす。故に勺子貝と云ふ。肉の味、美からず。海人も之れを食さず」とあることから、これはホタテガイではなく、寧ろ、より、帆のように見える、

イタヤガイ科イタヤガイ属イタヤガイ Pecten albicans

ととるべきである。因みに、国立国会図書館蔵の同本の一つには、頭書部分に旧蔵本者の手になると思われる手書きがあり、

貝の二三寸アルモヲ皿貝ト云ホタテ貝ハ五六寸其余モアリ格別物也形ノ大小ニチカイアレハ也

と記す。

「車渠」(現代音「しゃきょ」であるが、幾つかの文献では「しゃこ」や「しゃきょう」等とも訓読している。「しゃご」という読みも可能である)は現在はシャコガイ Tridacna gigas を指すが、ホタテガイやイタヤガイが、かく呼称されたことは、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」で項目名が「ほたてかひ/いたやかひ/車渠」とあることからも分かる。車渠とは本来は車輪の外周を包む箍(たが)をいう。「本草綱目」の「車渠」の原文を見る。

   *

車渠、大蛤也。大者長二三尺、闊尺許、濃二三寸。殼外溝壟如蚶殼而深大、皆縱紋如瓦溝、無橫紋也。殼白皙如玉。亦不甚貴云玉中亦有車渠、而此蛤似之故也。沈存中「筆談」以作器、致如白玉。楊慎「丹鉛錄」云車渠作杯、注酒滿過一分不溢。試之果然。

氣味

甘、鹹、大寒、無毒。

主治

安神鎭宅、解諸毒藥及蟲螫。同玳瑁等分、磨人乳服之、極驗。

   *

寺島良安はこれを以下のように訓読している。

車渠は、海中の大蛤なり。大なる者、長さ二~三尺、闊(ひろ)さ尺ばかり、厚さ二~三寸。殻の外溝壟(がいこうろう)、蚶の殻のごとくして、深く大なり。皆、文、縱(たて)にして瓦のごとく溝の横文無きなり。凡そ車輪の溝を渠と曰ひ、此の背の文、車溝に似る故に車渠と名づく。形、扇のごとくなる故に海扇と名づく。殻の内、白皙、玉(たま)のごとし。亦甚だ貴からずや。蛮人、以て器物に飾り、或は盃に作り、酒を注ぐに滿ち過して一分も溢(あふ)れず。之を試みるに果して然り。

殻〔甘鹹、大寒。〕 神を安んじ、諸の毒の藥を解し、蟲の螫(さ)したるを治す〔玳瑁同等分、磨し、人の乳にて之を服せば、極めて験あり。〕

   *

・「殻の外溝壟」の部分は、東洋文庫版現代語訳では「外の溝壟(みぞ)」と、「溝壟」二字を「みぞ」と訓じている。しかし「壟」は盛り上がった部分、うね・あぜを指す字であり、正確には殻の外側の凸凹=肋とその間の溝すべてを言う語である。

・「玳瑁」は、漢方薬剤としてのウミガメのタイマイ Eretmochelys imbricata の甲羅を指す。

 現代中国語(繁体字)ではシャコガイは「大硨磲」と書く。確かにこちらこそ美事な名(「車渠」の原義)にし負うものではあろうし、この「本草綱目」に載せるものも、大きさから見てシャコガイの類である。

「二、三寸」六・一~九・一センチメートル。

「平直」これは左殻の方を指していよう。ホタテガイやイタヤガイの貝殻は、膨らみが強い方が右殻で、それが盃にも柄杓にもなる。

「海中をおよぐ時、其のふたを立てゆく、舟の帆のごとし。故にホタテ貝と云ふ」良安も『一殻は舟のごとく、一殻は帆のごとくし、風に乗じて走る。故に帆立蛤と名づく』などと述べている。「風に乗じて走る」ことはないが、捕食者から逃れるために、閉殻筋を用いて左右の殻を連続的に開閉させて海水を吹き出しながら、海中をかなりの距離泳いで逃げることは、今や画像でもお馴染みである。本文はしかし、「海中をおよぐ時」と述べており、事実にやや近づきつつあるかのように見えるが、「海中」とはこの場合、海上を指す語であろう。やはり益軒もこの俗説を信じていたものらしい。

「霏雪錄」明の鎦績(劉績とも)の書いたと伝える随筆らしいが、内容はかなり怪しいものばかりである。

「瓦壟」瓦の列。

「彙苑」明の王世貞撰になる辞書。

「玉にも車渠と云ふ物あり。西域七寚の一なり。此の蛤、之れに似る。「本草」時珍が説に見えたり」「寚」は「寶(宝)」の古体字。しかしこれは誤認である。中文サイトで見ても、本邦のサイトで見ても、実はこれは正真正銘のシャコガイ(ホタテガイではないので注意。他の貝類の可能性もある)の殻を削り出して宝玉様の玉(たま)に加工したものを指す。「之れに似る」からではなくてその宝玉自体が車渠が原料なのである。しかも時珍が「本草綱目」名の由来をそう書いているというのも嘘八百。時珍は正しく、『背上壟紋如車輪之渠、故名。』(背の上の壟紋(ろうもん)、車輪の渠のごとし、故に名づく)と言っている。

「丹鈆錄」「鈆」は「鉛」の異体字であるから、「本草綱目」も引く明代の楊慎撰の「丹鉛録」(幾つかの作に分かれた博物書のようで、本編は正しくは「丹鉛総録」というらしい)のことかと思われる。

「一分」貝の縁の部分からさらに容量の十分の一の高さであろう。そこまで注いでも、形状の関係で表面張力が働き、溢れないというのである。

「滿たして」の「て」送り仮名の下に「ヽ」のようなものがあるが読めない。しかし、意味は分かる。]

「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 20 仙台から白河へ 白河提灯祭り」の提灯祭りの注を全面改稿

ところが不思議なことに豊富なデータが手に入ったにも拘わらず、ますます考証が藪の中へ入ってゆくのだ――いや不思議だな、こんなことってあるんだな……またそれが楽しいんだけど……

2014/08/15

「杉田久女句集やぶちゃん選」PDF版

「杉田久女句集やぶちゃん選」PDF版を「やぶちゃんの電子テクスト:俳句篇」に公開した。

藪野史「雪炎」PDF版

僕の若書きの小説「雪炎」PDF版をサイト・トップに公開した。如何にもな凡作乍ら、個人的には忘れ難い掌品ではある――

私の小説「こゝろ佚文」PDF版

私の小説「こゝろ佚文」PDF版をサイト・トップに公開した。例によって正字の一部(狀・噓・摑など)が横転するため、已む得ず新字に直した。悪しからず。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 23 東京帰還 ~ 第十四章 了

 晩の七時頃、我々は東京から六十七マイルの宇都宮へ着いた。ここは私が七月に東京を出てから、初めて見る馴染(なじみ)の場所なので、家へ帰ったような気がした。去年日光へ行く途中、我々はここで一晩泊ったが、今度も同じ宿屋に泊り、私は同じ部屋へ通された。最初にここを訪れてから今迄の短い期間に、米国へ往復し、蝦夷へ行き、陸路帰り、そして、日本食を単に賞味し得るのみならず、欲しい物は何でも日本語で命令することが出来る位日本料理に馴れ、おまけにあらゆる物が全然自然と思われる程、日本の事物や方法に馴れたということは、容易に理解出来なかった。

[やぶちゃん注:矢田部日誌では喜連川を経て、宇都宮に着いたのは八月二十六日午後六時であった。ここまで注釈してきた私としても、モースの感懐が心に沁みるものとして実に共感されるのである。

「六十七マイル」約百八キロメートル弱。流石に「馴染」みのところだけに正確である。]

M459

図―459 

 駅馬車は翌朝六時に出発した。乗客はすべて日本人で、その中には日光へ行き、今や東京の家へ帰りつつある二人の、もういい年をした婦人がいた。彼等は皆気持がよく、丁寧で、お互に菓子類をすすめ合い、屢々路傍の小舎からお茶をのせて持って来る盆に、交互に小銭若干を置いた。正午我々は一緒に食事をしたが、私は婦人連の為にお茶を注いで出すことを固執して、大いに彼女等を面白がらせた。また私は、いろいろ手を使ってする芸当を見せて、彼等をもてなし、一同大いに愉快であった。この旅館で私は婦人の一人が午後の喫煙――といった所で、静に三、四服する丈だが――をしている所を写生した(図459)。この図は床に坐る時の、右足の位置を示している。左足はそのすぐ内側にある。足の上外部が畳に接し、人は足の内側と、脚の下部との上に坐る。

[やぶちゃん注:明治一一(一八七八)年八月二十七日。矢田部日誌によれば馬車による宇都宮発は五時、浅草には午後六時十五分に着いている。なお、ここに出る図459の正座して煙草を吸う婦人のスケッチは後に、“Japanese Homes and Their Surroundings”の“CHAPTER III. INTERIORS.”の“MATS.”(畳)の“FIG. 102.  ATTITUD OF WOMAN IN SITTING.”でより綺麗にリライトされている。日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 7 行灯 附“Japanese Homes and Their Surroundings”より「畳」の原文・附図と私の注に原文と図を示してあるのでご覧になられたい。]

M460

図―460 

 図460は宇都宮の旅館の後の庭にあるイシドーロー、即ち石の燈籠である。上部は一個の石塊から造り出し、台も同様で、木の古い株を現している。生えた苔から判断すると、この石燈籠は古いものである。我々は日本の町や村の殆ど全部に、美事な石細工、据物細工、その他の工匠の仕事があるのに驚く。これは彼等の仕事に対して、すぐれた腕を持つ各種の職業に従事する人々が、忠実に見習期間をすごして、広く全国的に分布していることを示している。 

 昼、我々はまた利根川に出て、大きな平底船で渡り、再び数マイルごとに馬を代えながら、旅行を続けた。東京へ近づくにつれ、特にこの都会の郭外で、私は子供達が、田舎の子供達よりも、如何に奇麗であるかに注意した。この事は、仙台へ近づいた時にも気がついた。子供達の間に、このような著しい外観の相違があるのは、すべての旅館や茶店が女の子を使用人として雇い、これ等の持主が見た所のいい女の子を、田舎中さがし廻るからだろうと思う。彼等は都会へ出て来て、やがては結婚し、そして彼等の美貌を子孫に残し伝える。これはすくなくとも、合理的な説明であると思われる。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の「19 北海道・東北旅行」の章の掉尾には、現存する東京大学から文部省に宛てたこの時の事後旅行報告書が引用されている。磯野先生の真似をして本「第十四章  函館及び東京への帰還」の掉尾としよう(例によって恣意的に正字化し、一部に私の読みを歴史的仮名遣で追加した)。

   *

「動物見本採集幷(ならびに)學術研究ノ爲メ七月十三日發程(はつてい)、往復五十日間ノ期限ヲ以テ横濱ヨリ海路渡島國函館ニ到リ上陸、該地近傍ヲ經廻(けいくわい)シ、尋(つい)デ後志(しりべし)胆振(いぶり)石狩國ノ各郡ヲ廻歷シ、順路函館ニ歸リ、同所ヨリ陸奧國靑森ニ渡リ、夫ヨリ盛岡ニ出テ北上川ヲ上リ、鹿又村ヨリ上陸シテ順路陸前國仙臺ニ到リ、奧州街道ヲ經テ歸京」

  *]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 22 利根の渡しで――モースは芭蕉である――

 翌朝我々は蠟燭の光を頼りに出発した。正午、我我は鰻のフライで有名な場所で休息し、美味な食事をした。午後我々は雨で増水した利根川を渡ったが、渡船を待つ問、渡船場の下流の、広い砂地が川に接した場所に、日本人の一群がいるのに気がついた。数時間前、徒渉しようとした男が溺死し、今や彼等は見つけ出した死体を、運ぼうとしつつあるとのことであった。私は群衆の中に入って行った。例の大きな木製の桶があり、火葬場へ持って行く死体が内に入っている。横では一人の女が、深い悲嘆にくれて泣いていた。数名の男が線香をたき、奔流、不毛の砂地、空を飛ぶ黒い雲等が、陰鬱な、心を打つような場面を形成していた。私が突然彼等の間に出現したのは、まるで幽霊みたいだったので、彼等は皆、私が雲から墜ちて来たかの如く私を見た。船が着いたので、私は渡船場へ急いだ。やがて雨が降り始め、午後中降り続いた。

[やぶちゃん注:八月二十六日の描写。五時半に白河発であるが、二十四日も二十五日もこの時間に発っているから、特にこの日が早かったわけではないので注意。恐らくモースは提灯を点して人力車が行くという記憶の中の忘れ難いシーンを遅まきながら描写したくなったのであろう。

「我我は鰻のフライで有名な場所」「フライ」底本では直下に石川氏の『〔揚物〕』という割注が入る。これは奥州街道の宿場町として繁栄した現在の栃木県大田原市。同市を流れる那珂川は淡水魚の種数が豊富なことで知られる。最近、那珂川産天然鰻が実は養殖の虚偽表示であったとする記事を見かけたし、那珂川産の天然鰻は最早、稀少価値でとても美味であるとする鰻通のブログ記事もあった。但し、少なくとも現在、ネット上で見る限りでは、大田原は鰻料理で有名という感じはしない。「フライ」とあるが、これは一応、お馴染みの蒲焼であるととってはおく(モースにとっててらてらのねっとりとした蒲焼は「油で炒めた」ものと映ったとしておかしくないからである。但し、鰻の唐揚げはあるし、私は好きである。事実、美味い)。

 この短い一段、私は何故か非常に好きである。そのシチュエーションの描写は確かな事実をのみ描出しているのではあるが、しかし私は実にそこにモースの詩心を感じるのである。私は凡百の私小説よりこの一章を愛すると言ってもよい。大田原はまさに「奥の細道」所縁の地であるが、私にはこのシーンのモースが僧形の芭蕉のように見えて仕方がないのである。――原文を総て引く。私のような不勉強な者でも数回辞書を引けば読める。

The next morning we were off by candle-light. At noon we stopped at a place famous for its fried eels and we had a delicious dinner. In the afternoon we crossed the Tonegawa swollen by the rains, and while waiting for the ferry-boat we noticed a crowd of Japanese below the landing on a broad strip of sand that bordered the river. We were told that a few hours before a man had been drowned in attempting to wade the river, and they were just getting ready to remove the body which had been recovered. I went down into the crowd, and there was the customary big wooden tub in which the body had been packed preparatory to cremation, a woman beside it in deepest grief. A few men were burning incense sticks, and the rush of water, the stretch of sterile sand, and the black, scudding clouds above all formed a sombre and striking scene. My sudden appearance among them was like an apparition, and they all looked at me as if I had dropped from the clouds above. The boat came and I hurried back to the landing. Soon afterward it began to rain and continued to rain the whole day.”]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 56 風かほるこしの白根を國の花

本日二〇一四年八月十五日(陰暦では二〇一四年七月二十日)

   元禄二年七月   一日

はグレゴリオ暦では

   一六八九年八月十五日

である。この日芭蕉は村上を発って築地(ついじ:旧新潟県北蒲原郡築地村。)へ泊まっている。

 

風かほるこしの白根(しらね)を國の花

 

[やぶちゃん注:「柞原集」(ははそはらしゅう・句空・元禄五年奥書)に載る。底本巻頭には、

 

 春なれやこそのしら根を國の花

 

此句、芭蕉翁一とせの夏越路(コシジ)行脚の時、五文字「風かほる」と置てひそかに聞え侍るを思ひ出て、卒尓に五もじをあらたむ

 

と句空が附記しているとあり(「卒尓」は「そつじ」で卒爾に同じ。軽率にも、でこの「春なれや」という改変が句空によるもの――芭蕉の句ではないことが告白されているのである点に注意されたい)、「蕉句後拾遺」(康工編・安永三(一七七四)年自序)には、

 

  加賀へ文通に

 

と前書する。

 この最後の前書と、怪しげな句空の改作行為から見て、少なくとも本句は金沢に着く前、旅先から加賀の句空宛に記された私的な書簡中の挨拶句であった可能性が高い。特にこの日に配する理由はないが、間隙が有意に空くのを避けたいので今日に配しておく。寧ろ、加賀に近づいてしまったのでは句の感懐は半減してしまう感ずるからでもある。以下に述べるように私の日時比定は必ずしも見当違いとは思っていない。

 「こしの白根」越の白嶺。霊峰加賀白山の古称。現在の石川県白山市と岐阜県大野郡白川村に跨る。標高二七〇二メートル。標高が高いために他の山で残雪が消えた季節でもあっても雪を被ったその峰が遠方からでもはっきりと見える。それが目立って白くなった越の白嶺というは北陸路に晩秋が訪れた象徴でもある。芭蕉が実際に金沢に入ったのは旧暦七月十五日で秋の季感としてはぴったり一致するということに着目すべきであろう(但し、これは暦上のことで句空自身が芭蕉の来訪を『一とせの夏越路行脚の時』と言っているように、当時にあっても実感は夏であったのである)。しかもこの句が村上でのものならばまさに秋の始まりでである七月一日である点でも句作の季が極めて一致もするのである。無論、加賀藩領内に入らぬ限り白山は見えないから、この句は以上の推理から想像句であることが判明する。そうして先行する月山での芭蕉の句、「有難や雪をかひらす南谷」に即して考えれば、ここで「風かほる」のはまさに越の白嶺を象徴する白峰から吹き下してくる「雪」を「かほ」らせて吹き渡る「風」と読める。そしてその雪をいただく神聖霊妙な偉容の山を芭蕉は加賀の「國の花」と讃えているのである。そうしてその想起された「國の花」たる白山は、そのまま挨拶をした風雅の「國の花」たる句空をも指し、白嶺から吹き降ろす秋の雪薫る涼風とともに貴方にお逢い出来るのを心待ちにしています、という挨拶吟へと転じているのである。

 以上を記すに大いに参考になった山本健吉氏の「芭蕉全句」の評釈は、『句空が初五「春なれや」と改めたのは、祝賀の句に仕立て直したものか。愚かなことである』と結んでおられるが、同感である。季感を無視した捏造に等しいものである。尤も、金沢の平民であった俳人句空は生没年不詳ながら、「朝日日本歴史人物事典」によると元禄元(一六八八)年四十一、二歳の頃に京都知恩院で剃髪、金沢卯辰山の麓に隠棲し、翌年のこの時、芭蕉が金沢を訪れた際に正式に入門、同四年には大津の義仲寺に芭蕉を訪ねている。五部の選集を刊行している俳壇的野心は全くなく、芭蕉に対する敬愛の念は非常に深く、宝永元(一七〇四)年に刊行した「ほしあみ」の序文では芭蕉の夢を見たことを記しているとあるから、一種熱狂的な芭蕉の弟子の一人であったものと思われ、こうした恣意的な改造も彼にとっては芭蕉との一体感を味わえるものででもあったのであろう。]

2014/08/14

僕は

僕はこれで……僕と……そして龍之介の孤独が……分かったような気がします……

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 21 白河提灯祭り(その二)

 行列の真中には、十数名の男が肩にかつぐ、飾り立てた華蓋(はながさ)があった。これを運ぶのに、如何にもそれがいやいやながら運ばれるかの如く、男達のある者は冗談半分、引き戻そうとして争うらしく思われた。この景色は到底写生出来なかったが、読者は広い道路、両側に立並んだ低い一階建の日本家屋、軒の下の提灯の列、感心している人々で一杯な茶店、三味線や笛を奏している娘達、速歩で進む行列、高さ十五フィートの竿の上で上下する提灯、時々高さ三十フィートの竿についた提灯の一対……それ等を想像すべきである。それを見ている、唯一の外国人たる私に、過ぎて行くすべての人が目を向けたが、この大群衆中誰一人、私に失礼な目つきをしたり、乱暴なことをしたりする者はなかった。

[やぶちゃん注:「飾り立てた華蓋(はながさ)」原文は“an elaborate canopy”。訳すなら「手の込んだ(精巧な)天蓋様のもの」で、これは神輿(みこし)を指す。白河提灯祭りの各町の行列の中央には神輿がある。しかし「花蓋」という訳は如何か? 天蓋のようなものを「花蓋」と表記するのは字面上は何となく分かるが、初読、これは何かよく分からない(少なくとも祭嫌いの私などでもこれは神輿だとは思ったものの、本当に同祭りについて確認するまでは気になった)。そもそも「花蓋」は「かがい」と音読みし、植物学で萼(がく)と花びらの総称(その区別がつかないものでは両者をひっくるめた呼称。但し、「花被(かひ)」の方が一般的)であって、御輿をこうは呼ばない(少なくとも私は聞いたことがない)。しかも石川氏は「花蓋」に「はながさ」とルビを振るのであるが、花笠を神輿の意味で使用するケースを少なくとも私は知らない(もしかすると石川氏の経験の中で神輿を「はながさ」と呼称する体験があった、祭りの神輿を石川氏は「はながさ」と呼ぶような場所に生活史があったのかも知れない)。

「十五フィート」約四・六メートル。先達提灯の後に複数続く高張提灯群の高さは画像を視認する限り、それぐらいの高さにある(それが不服なら、行列の最後には元方提灯という先頭の先達提灯の半分の高さぐらい(四メートル半)のそれでもよい。私はもう、これは間違いなく、明治一一(一八七八)年の鹿嶋神社の例祭を叙述した数少ない生き生きとした文章なのだと確信して疑わないのである。……私は実は、祭りが嫌いだけれど……これを注しながら……この鹿嶋神社の祭を見たくなったのである……

「高さ三十フィートの竿についた提灯の一対」先に示した鹿嶋神社公式サイトの同祭の写真画像集を調べると、まさに先達提灯は先頭中央に左右二人いることが確認出来る。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 20 仙台から白河へ 白河提灯祭り

 翌朝我々は暗い内から起き、九時頃仙台市へ着いた。た。雑閙(ざっとう)する町々を人力車で行ったら、一寸東京へ帰ったような気がした。随行者の二人を採集するために松島へ残し、矢田部と私とは、東京へ向けての長い人力車の旅に登った。我々は身軽くする為に、出来るだけ多くの物を残し、人力車一台に車夫を二人ずつつけた。矢田部は東京へ電報を打とうとしたが、私人からの電報はすべて禁止されていると知って、大きに驚いた。何故こんな告示が出たのか、いろいろ聞いても判らぬので、彼は大きに心を痛めた。東京で革命が勃発したのか? 反外国の示威運動があったのか? 何事も判らぬままに、我々は東京迄陸路二百マイルの旅に出た【*】。この電報の禁止以後は、通り違う日本人がすべて疑い深く、私の顔を見るように思われた。仙台を出て二時間行った時、我々は間違った方向へ行きつつあることに気がついた。このひどい間違いのために、我々は仙台へ立ち戻り、半日つぶして了った。ここで食事をし、新しい車夫を雇って夜の十時まで走り続け、藤田へ着いた。旅館はすべて満員で、我々はあやしげな旅籠屋へ泊らねばならなかった。貧弱な畳、貧弱な食物、沢山あるのは蚤ばかり。それでも我々は苦情をいうべく、余りに疲れていた。

[やぶちゃん注:次に一行空け、注記の後も同じ。注記は底本では全体が一字下げのポイント落ち。]

 

* 東京へ近づいた時、我々は東京の兵営で反乱が起ったことを知った。それで電報を禁じたのである。

 

[やぶちゃん注:前に記した通り、松島出発は午前五時半で、仙台着は午前九時半であった。

「雑閙」雑踏に同じい。「閙」は騒がしいの意。

「随行者の二人を採集するために松島へ残し」前に注したが、再掲すると、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によると、『佐々木と内山は松島に残して採集させ、松島以降はモースと矢田部の二人旅だった。』とある。

「矢田部は東京へ電報を打とうとしたが、私人からの電報はすべて禁止されていると知って、大きに驚いた」「東京の兵営で反乱」竹橋事件。これも前に注したが、再注する。この前日の明治一一(一八七八)年八月二十三日に発生した、竹橋付近に駐屯していた大日本帝国陸軍の近衛兵部隊が起こした武装反乱事件。以下、ウィキの「竹橋事件」によれば、『反乱は、鎮台予備砲隊隊長岡本柳之助大尉、松尾三代太郎騎兵中尉、近衛歩兵第二連隊第二大隊第二中隊兵卒三添卯之助、近衛砲兵大隊第一小隊小隊馭卒小川弥蔵、同第二小隊馭卒長島竹四郎、同じく小島萬助らを中心に決起の計画が練られた。 旗を用いて合図を送ったり、「龍」→「龍起」、「偶日」→「奇日」等の合言葉を作成する等、計画的なもので』、『午後11時、橋西詰にあった近衛砲兵大隊竹橋部隊を中心とした反乱兵計259名が山砲2門を引き出して蜂起し、騒ぎを聞いて駆けつけた大隊長宇都宮茂敏少佐、続いて週番士官深沢巳吉大尉を殺害』、『砲兵隊の門前を出ると、既に近衛歩兵第一、第二連隊が出動しており、これと銃撃戦になった。戦闘に紛れて反乱軍は大蔵卿大隈重信公邸に銃撃を加え、営内の厩や周辺住居数軒に放火。この一時間にわたる戦闘で鎮圧軍側では坂元彪少尉ら2名が死亡し、4名が負傷。対する反乱軍側も6人が死亡し、70名以上が捕縛された』。『この戦闘で小銃弾を大幅に消耗してしまった反乱軍は午後12時、やむをえず天皇のいる赤坂仮皇居へと向かい、集まる参議を捕らえようとした。この道中で、さらに20余名が馬で駆け付けた近衛局の週番士官の説得に応じて投降、営舍へ戻った。残る94名は仮皇居である赤坂離宮に到着すると、騒ぎを諌めようとした近衛局当直士官磯林真三中尉に誘導され、正門へ到着し、「嘆願の趣きあり」 と叫んだ』。『正門を警備している西寛二郎少佐率いる近衛歩兵隊が一行を阻止し、武器を渡せと叫ぶと、反乱側代表として前へ出た軍曹は一瞬斬り掛る風を見せたが、士官の背後に近衛歩兵一個中隊が銃を構えているのを見て、士気を喪失し、刀を差し出した。続いて絶望したリーダー格の一兵士大久保忠八が銃口を腹に当てて自決した。これをしおに、残り全員が午前1時半をもって武装解除し投降。蜂起してからわずか2時間半後のことであった』。『同日午前8時、早くも陸軍裁判所で逮捕者への尋問が始められ、10月15日に判決が下された。 騒乱に加わった者のうち、岡本は発狂したとして官職剥奪で除隊、三添ら55名は同日銃殺刑(うち2名は翌年4月10日処刑)、内山定吾少尉ら118名が准流刑(内山はのちに大赦)、懲役刑15名、鞭打ち及び禁固刑1名、4名が禁固刑に処せられている。事件に直接参加していない者を含め、全体で処罰を受けたものは394名だった』。『動機は、過重な兵役制度や西南戦争の行賞についての不平であった。大隈邸が攻撃目標とされたのは、彼が行賞削減を企図したと言われていたためである』。『内務省の判任官西村織兵衛は事件の起こる直前の夕方に神田橋で叛乱計画の謀議を知り、内務省に立ち戻り書記官に急を知らせた。この通報により蹶起計画は事前に漏れていたのだが、阻止することはできなかった』。『のちに日本軍の思想統一を図る軍人勅諭発案や、軍内部の秩序を維持する憲兵創設のきっかけとなり、また近衛兵以外の皇居警備組織として門部(後の皇宮警察)を設置するきっかけとなった。太平洋戦争後まで真相が明らかになることはなかった。 近年では、行動の背景に自由民権思想の影響があったとも考えられている』とある。

「二百マイル」約三百二十二キロメートル。仙台から東京までは直線距離でも三百キロ強である。

「この電報の禁止以後は、通り違う日本人がすべて疑い深く、私の顔を見るように思われた」これはモースが竹橋事件のような小規模な反乱やクーデターの如きものではなく、最悪の事態として、前年の西南戦争に匹敵するような内戦か、恐らくはいろいろ聞き知っているかつての攘夷思想の基づく、モースの現在の地位をも揺るがせにするかも知れない大規模な「反外国の示威行動」的な騒乱勃発の恐れを強く抱いていたことを示唆する疑心暗鬼の内心をリアルに示している部分と言える。

「仙台を出て二時間行った時、我々は間違った方向へ行きつつあることに気がついた。このひどい間違いのために、我々は仙台へ立ち戻り、半日つぶして了った」この事態は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」にも出ていない(矢田部日誌には記載がなかったか)。そこでは一見順調に、『一行は仙台からまた人力車で、長町、岩沼、大河原、白石を経て、「九時十五分藤田[現国見]着』と記すのみである。国見とは現在の福島県伊達郡国見町藤田。]

 

 翌日は白河まで七十マイル行かなくてはならぬ。そうでないと、その次の日、宇都宮ヘ着くことが出来ない。それで我々は日出前に出発したが、夜になる前、すでに我々はしびれる程疲れ切っていた。私は昼、何かを食うために、非常に奇麗な茶店にとまったことを覚えている。後の庭は奥行僅か十フィートであったが、日本人が如何に最も狭い地面をも利用するかを、よく示していた。我々が休んだ部屋から見たこの狭い地面は、実に魅力に富んだ光景であった。灌木は優雅に刈り込まれ、菖蒲は倭生に仕立てられ、ここかしこには面白い形の岩が積まれ、小さな常緑樹と日本の楓とが色彩を与え、全体の効果が気持よかった。午後中我々は旅行した。そして七時、我々はこれ以上行くことが不可能と思われる位疲れていたが、それでも飯を腹一杯食って、また次の駅へ向けて出発した。夕方の空気の中を行くことは涼しくて気持よく、また夜の村をいくつもぬけて、再び広々とした田舎の路に出るのは興味があった。この夜白河へ着くことが出来さえすれば、次の夜には宇都宮へ着くことが出来、宇都宮からは東京まで駅馬車がある。

[やぶちゃん注:この八月二十五日の藤田出発は朝五時半で、午前七時半に福島着、午前十一時四十分二本松着、午後四時半郡山着、夜遅く午後十時十五分にようよう白河へ辿りついている。ここで昼に訪れた茶店は二本松辺りであったか(磯野先生は矢田部日誌の一部を割愛しているので断定は出来ない)。

「七十マイル」百十三キロメートル弱。現在の国道四号を国見町藤田から白河まで丹念に実測してみると凡そ百キロメートルある。何時もながら、モースの記載は正確だ。

「十フィート」約三メートル。]

 

 十時、白河の町に近づいた時、路に多数の人がいることによって、我々は何か並々ならぬことが行われつつあるのを知った。町へ入って見ると建物は皆、提灯その他いろいろな意匠の透し画で照明されていた。旅館はいずれも満員で、我々は十時半にやっとその夜の泊を見出したが、この宿屋も満員で、また往来はニコニコして幸福な人々でぎっしり詰っていた。十一時、大行列がやって来た。人々はいずれも色鮮かな提灯を、長い竿の上につけたり、手に持ったりしていた。この行列が隊、あるいは集団から成立していた点から見ると、これ等は恐らく各種の職業、あるいは慈善団体を代表していたのであろう。一つの群は赤い提灯、他は白い提灯……という具合であった。最も笑止なのは、場合によっては長さ三十フィートもある、竹竿の上につけた提灯を持って歩くことで、持っている人はそれを均衡させる丈に、全力を焼け尽すらしく思われた。彼等は一種の半速歩で動いて行き、皆「ヤス! ヤス!」と叫んだ。

[やぶちゃん注:これは恐らく当地の鹿嶋神社(現在の福島県白河市大鹿島に所在)の例祭で、現在の「白河提灯まつり」であろう。同神社公式サイトの同祭の「いわれ」のページの「各町神輿の提灯行列図」を見ると、各町(モースは「各種の職業、あるいは慈善団体」と誤認しているが)の行列の先頭には非常に長い竿の先に提灯を吊るした「先達提灯」というのがあり、これはまさにモースの叙述とぴったり一致するのである。同ページを見ると、町によって提灯の意匠(提灯自体は白)の色が黒か赤(若しくは赤を主体)とした二種に分かれる点も一致する。

【以下、2014年8月16日改稿】

 ただ、問題はこの祭(少なくとも現在は祭日の三日間総てに提灯行列がある。以下に示す資料によれば、江戸時代も三日間やはりそれぞれに意味の異なった提灯行列が行われていたことが分かった)が行われていた日付で、現在は九月敬老の日(九月の第三月曜日)直前の金・土・日に開催されている。モースが訪れたのは八月二十五日(土)であった。しかしこれは明治十一年の旧暦だと九月二十一日である。孰れもぴったり一致する感じがしない。この白河での提灯祭り嘱目パートを公開してその疑問を投げかけたところ、「ミクシィ」の未知の方から、白河市公式サイト内の白河市歴史的風致維持向上計画を紹介して戴いた。その「第3章 維持向上すべき歴史的風致」(PDF形式3.98MBでダウンロードして閲覧可能)の中の「(1) 白河提灯まつりにみる歴史的風致 ① 白河提灯まつりの歴史と発展」の「イ. 祭礼の由来」の項に祭日の記載が現れる(下線はやぶちゃん)。

   《引用開始》

 現在の提灯まつりにつながる祭礼のはじまりは、江戸時代初期の明暦3年(1657)に白河藩主本多忠義より神社神輿(市指定重要文化財)の寄進があり、これが祭礼の始まりであるとされる。

 明暦3年7月6日から8日までの3日間、城下東端の桜町に御旅所(御旅屋)を建築し、神輿の遷座、神楽祈祷を行い、「鹿嶋様」である神社神輿を渡御(渡祭)し城下総町(氏子区域)を巡幸し、各町において13~14歳の子供を屋台に乗せ、この屋台に続いて踊りを奉納したとされる。その後、寛政6年(1794)には、祭礼日が8月3日から5日までに変更されたという。しかし、その後祭礼日はすぐに旧に復することとなった(『白河市史』)。このように、鹿嶋神社祭礼は白河藩の庇護の下に復活し、途中に中断や祭礼日の変更はされながらも、明暦3年の渡御祭復活から約350年にわたり白河市を代表する祭礼として現在に引き継がれている。

   《引用終了》

しかも、続く「ウ.祭礼の発展」の項には、『明治11 年(1878)7 月13 日、東京大森貝塚を発見したアメリカ人のエドワード・シルヴェスタ・モースは、横浜から蝦夷へ調査に向かった帰路に白河に宿泊した折、白河提灯まつりに遭遇している。その様子を『Japan Day by Day(日本その日その日)』「函館及び東京への帰還」に記している』とあって、本段を全文引用しているのである。これによって白河市はモースが嘱目した祭りが白河の提灯祭りであることを公式に認めているということが分かった。ただ、今度はこの「公認記載」のヘッドの部分が気になるのである。これは普通に読む人が『明治11 年(1878)7 月13 日、』とある日附部分を、後文のどこに掛かっていると読むかというと、当然、『白河に宿泊した折、白河提灯まつりに遭遇している』の部分である。ところが、すると日付が合わないのである。まず、私が問題にしている祭日と整合しない(因みに、明治十一年の旧暦7月6日から8日を見ると、言わずもがな乍ら、新暦では6月7日から9日に相当し、まるで合致しない。試みに明暦に変更されて直に旧に復したという祭日の8月3日から5日は旧暦7月5日から7日で、これもまたやはり合わない)。それに加えて事実はモースの白河来訪は8月25日(旧暦9月21日)なのである。実はこの日付は、モースが北海道旅行に旅立ったその日であり、『明治11 年(1878)7 月13 日、』とある文は実は『横浜から蝦夷へ調査に向かった』に掛かるのである。こう読む/読める人は万に一人もいない。これは文章としては失礼乍ら、おかしいのである(因みに、この年の7月13日は旧暦で8月11日である)。

 これだけの豊富なデータが揃いながら、しかも、この祭日の齟齬の謎は深まるばかりである。とりあえず、「第3章 維持向上すべき歴史的風致」の波線部の中の『途中に』『祭礼日の変更はされ』たことがあったという記載から、この明治十一年の白河の提灯祭りは何かの都合で8月25日(旧暦9月21日)前後に行われていたらしいという、如何にもしょぼい結論を出すしかないようなのである。更なる情報をお持ちしている。

【改稿終】

「三十フィート」九・一メートル。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 19 松島

M458

図―458

 午後になって我々は、その夜仙台に着くことが困難であることを知ったので、有名な松島でとまった。再び塩風に当ったのは気持がよかった。干潮時だったので、海岸は海藻で覆われ、その香は心地よかった。我々は一部樹木にかくされた岬の上にある、奇麗な小旅館でとまった。松島へ入る前、道路は崖について廻るが、この崖には以前の海蝕の跡をとどめた大小の洞穴が、沢山あいていた。この摩滅作用は、非常に不思議である。岩の上層がより低い部分の上にのしかかること、雪の吹寄せのある形式に似ていた。図458はこのような岩が、海陸――仙台湾にはここに書いたような岩が何百となく存在する――を問わず装う形態の、かなり代表的なものである。島のあるものは長さ二十フィートに足らぬが、水面から二十フィートも聳え、そして面積も余程広いものもある。これは最も特殊な事実で、大がかりな侵蝕と、新しい隆起とを示している。

[やぶちゃん注:矢田部日誌によれば、午後十二時十分に鹿又を発ち、午後六時半に松島に着いている。松島の叙述が少ないのは、翌日の出発が朝五時半で、ゆっくりと観光する余裕がなかったからである。モースの北海道からの帰還の旅は既にお分かりの通り、かの芭蕉の「奥の細道」の旅と重なっているだけに、ここでモースにはちょっとゆっくりしてもらいたかったと思うの私だけか。当時の最先端の近代自然科学者の眼が見る「松島の段」はもっともっと豊かなものになっていたに違いないのだ。百三十六年前であるから、このスケッチされた島も小島で如何にも浸食や、かの地震や津波の影響を受けやすいものと見え、現在は形状はかなり変わってしまったものとは思われるが、時間的に船による遊覧をしなかったと考えられるから、このスケッチは松島海岸直近にある島であると考えてよい。松島にお詳しい方、島の同定とその島名がお分かりになったら、是非、お教え戴きたい

「雪の吹寄せ」原文“snowdrifts”。雪の吹き溜まり。但し、モースの言いようとスケッチから言うと、雪庇(せっぴ:英語では“cornice”)の方が私にはピンとくる。

「二十フィート」約六・一メートル。因みに、松島湾で最大の島は福浦島で松島海岸の東に浮かび、面積六ヘクタールほど。現在は全長二五二メートルの朱塗りの橋で陸と繋がる。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 18 鹿又から松島へ(Ⅲ) 人力車のエピソード

 人力車は一人乗りで狭く、そして背が高くて頭重だから、乗っている人は、しよつ中均衡に注意していなくてはならぬ。ひっくりかえることを恐れて、居眠りも出来ないのは辛い。私の前には美しい寛衣を着た坊さんが、頭を低く垂れて、眠ながら人力車に乗って行った。私は彼が必ずひっくりかえるだろうと思い、すっかり睡気をさまして一マイル以上も見つめていたら、果して彼はすってんころりと、路傍の湿った溝へころげ落ちた。車夫もまたころんだが、すぐはね起き、帽子をぬいで何度も何度も頭を下げて謝った。私は堪えられなくなって笑った。坊さんは私を見て、同情して笑った。

[やぶちゃん注:「一マイル」一・六一キロメートル。

「私は堪えられなくなって笑った。坊さんは私を見て、同情して笑った。」原文は“I could not help laughing, and when the priest noticed me, he laughed in sympathy.”。「同情」が日本語の文脈ではややおかしく感じられる。

――私は笑いを抑えることが出来なかった。そうしてまた、僧は笑っている私に気がつくと、彼もまた、仕方がない、といった風に、まるで私と共感するかのように微笑んだのであった。――

といった感じであろう。この共感と笑みのうちには、モースが前に述べているように、居眠りをすれば転落する危険がことは事前に分かっていながら、うっかり眠って、やっぱり落ちたのだということを僧も認識していたことを含むから、意訳になるが、寧ろ、すっきりと

――私は笑いを抑えることが出来なかった。そうしてまた、僧は笑っている私に気がつくや、同時に照れ笑いをしたのであった。――

と訳した方がすんなり読める。ともかくも、モースは失礼にも笑った自分に怒りを向けず、照れ笑いで返した僧の、その日本人の優しい心にこそモース自身が「共感」を感じているということである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 17 鹿又から松島へ(Ⅱ) 煽り

M457

図―457

 図457は高さ約三フィートの奇妙な扇で、米から塵を煽ぎ出したり、あるいは穀物から籾殻(もみがら)を簸(あお)りわけたりするのに使用する。一本の竹でつくった縦の柄を握り、鞴(ふいご)を使う時みたいに両手を左右に動かすと、蝶々の翅(はね)に似た形の扇が開いたり閉じたりする。

[やぶちゃん注:これは、画像検索で検索に検索を重ねた末、遂に静岡お観光ガイド」懐かしい農具を展示 「むかしの道具展」(これは二〇一一年十月に静岡県焼津市(旧志太郡大井川町)宗高にある焼津市立大井川図書館展示室で行われたもの)で発見出来た。これはあおりと呼ばれる(リンクは同ページ(ブログ形式)の当該道具の写真の拡大画像)もので、写真キャプションには籾・麦と塵・芥を風を起こして選別する大型の団扇とある。

「三フィート」約九十一センチメートル。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 16 鹿又から松島へ(Ⅰ) 素敵な欄間窓

M455

図―455

M456

図―456

 

 私は我々が通過した町々の建築法に、非常な変化があり、家の破風端に梁が変な具合に並べてあるのに気がついた。図455に示したものは典型的で、スイスの絵画的な建築を思わせた。自然そのままの木材は、いう迄もなく、年代で鼠色になっていた。我々は非常な勢で走って来たので、ゆっくり写生するだけの時間が無かったが、街道いたる所の家に美事な木細工がしてあるのには注目した。一階の上にある長い張出窓には、図456に示すように、松、竹、その他をすかしぼりにした繊美な木細工が、ちょいちょい見られる。

[やぶちゃん注:日本の民家にのみ見られる欄間窓と呼ばれるものである。「我々が通過した町々」とは、前後の文脈から、船旅を終えて鹿又から松島に至る途中での嘱目と分かる。当地にお住いの方や郷土史研究家の方で、この図にある欄間窓に見覚えがある方はおられないであろうか?

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 55 村上 小鯛さす柳涼しや海士が妻

本日二〇一四年八月 十四日(陰暦では二〇一四年七月十九日)

   元禄二年六月二十九日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年八月 十四日

である。酒田を十日に立った芭蕉は大山(現在の山形県鶴岡市大山)、十一日温海(現在の鶴岡市温海)、十二日中村(現在は新潟県村上市北中)、この十三日には村上に着いた。村上を発ったのは二日後の七月一日であった。

 

  西濱

小鯛さす柳涼しや海士(あま)がつま

 

  西濱

小鯛さす柳涼しや海士が家

 

小鯛さす柳涼しや海士が軒

 

[やぶちゃん注:第一句は「曾良俳諧書留」の、第二句は「雪まろげ」の、第三句目は「芭蕉翁発句集」(蝶夢編・安永三(一七七四)年刊)の句形。「白雄夜話」(加舎白雄著・天保四(一八三三)年刊)ではこの第三句目を第一句の初案とする。

 「西濱」という地名が現在まで不明で、どこで詠まれた句か同定されていない。山本健吉氏は多様な評者の比定地を掲げる最後に「曾良随行日記」に『六月二十九日、村上に泊まって「未ノ下尅、宮久左衛門同道ニテ瀬波ヘ行」とあり、瀬波とは村上の西方の海岸だから、この時の嘱目かもしれない』と記され、『二十八日に村上に着いて、二日も滞在したのだから、ここで一句も作らないとも考えられない』とするのに従って本日に配した。

 因みに、山本氏によれば、この句は後に金沢で披露され、『金沢の俳人が表六句を付けてい』るが、その脇句は、

 

小鯛さす柳涼しや海士が家  芭蕉

  北にかたよる沖の夕立 名なし

 

と「奥の細道附録」にあると記され、この名のない脇句こそはこの村上滞在の際、『芭蕉を歓待した土地の人として『随行日記』に名前が出てくる喜兵・友兵・太左衛門・彦左衛門・友右などのうち、誰かであろう』とまで推測されている(七月朔日の条)から、山本氏の同定は確信に近い。]

2014/08/13

610000突破記念 「篠原鳳作全句集」 PDFファイル版 / 藪野直史句集「鬼火」 PDFファイル版

先程、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、ブログ・アクセス610000突破。

記念として、私が手がけた初めての、「篠原鳳作全句集」PDFファイル版を「やぶちゃんの電子テクスト:俳句篇」に公開、及び私の句集「鬼火」のPDFファイル版をもサイト・トップに公開した。【2016年5月8日追記:正字が転倒する箇所があり、後者は削除した。】

やっぱり、俳句は縦書に限る――

北條九代記 卷第六 大魚死して浦に寄する 付 旱魃雨請

      ○大魚死して浦に寄する  旱魃雨請

同三年四月二十八日、若君の御手習始あり。陰陽頭國道(おんやうのかみくにみちの)朝臣、日次を選びて定め參す。手本御硯等は、御父道家公より迭らるゝ所なり。其式は、元三の儀に同じとかや。同五月、近國の浦々に名も知らぬ大魚共多く死して、波の上に浮上(うきあか)り、三浦ヶ崎、六浦(むつら)の前濱に打寄せらる。是を取上(とりあげ)て鎌倉中に充滿す、家々買取(かひとり)て、是を煎(せん)じて脂(あぶら)を取る、臭香既に四方に充ち、山谷(さんこく)に亙る。「是(これ)、旱魃の兆(てう)なり、只事にあらず」といひけるが、申すに違はず、炎旱(えんかん)、頻(しきり)にして田畠(でんぱた)、焦(こが)れたり。請雨(しやうう)の法行はるべしとて、百壇の不動供(ふどうく)、一字金輪(こんりん)水天供(ぐ)、降雨の法、仁王觀觀音經の御讀經(みどきやう)を行はれしか共、火龍(くわりう)の空に塞るか、祝融(しゆくゆう)の山に出たるか、密雲は棚引き、大虛は曇れ共、一滴も降る事なし。去年より打續き、天地の災變樣々なり。五龍祭、(りうさい)、屬星(じよくしやう)、水曜等の御祭(おんまつり)を行はれて然るべきかと、衆議、更に區(まちまち)なり。同六月に至りては、いとゞ炎暑烈(はげ)しくして、草木の葉は枯(かれ)につき、人は熱さに堪兼(たへかね)て、川水も涸上(かれあが)り、土石の中より燃出(もえいづ)るが如くなれば、蛇蛙(へびかはづ)を初(はじめ)て、死する事夥し。二位〔の〕禪尼、是を歎き給ひて、神社、佛寺に仰せて、請雨の御(ご)祈禱樣々なり。陰陽頭國道朝臣は、靈所七瀨の御祓を致せば、同じく知輔(ともすけの)朝臣は、金洗(あなあらひ)の澤沉(たくちん)の祭をぞ行ひける。同じく信賢(のぶかたの)朝臣は、江島の龍穴に行ひ、その外、柚河(ゆのかは)、杜戸(もりど)、六浦、固瀨川(こせがは)に八龍(りう)の祭を營み、日曜、七座(なゝざ)の太山府君(ぶくん)、十壇の水天供(ぐ)、取々に修せらるゝ所に、同六月十日の夜に入りて、甘雨(かんう)、降下(ふりくだ)りければ、上下萬歳を唱へて、喜ぶ事限なし。早苗は色を直し、田面の蛙(かはづ)も嬉(うれし)げに、鳴く聲、珍(めづらか)にぞ覺えける。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十六の貞応三(一二二四)年四月二十八日、五月十三日・十五日、六月六日・十日の条に基づく。

「若君」後の第四代将軍藤原頼経。当時、満六歳。彼の征夷大将軍宣下は二年後の嘉禄二(一二二六)年一月二十七日である。

「陰陽頭」誤り。「吾妻鏡」では「陰陽權助」(おんみょうのごんのすけ)。陰陽頭は陰陽寮長官で従五位下相当であるのに対し、陰陽権助は陰陽寮次官の陰陽助(おんみょうのすけ)のさらに次席で従六位上相当である。

「國道」安倍国道(あべのくにみち ?~貞永元(一二三二)年)。ウィキの「安倍国道」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『曽祖父である安倍晴道は、官職こそ陰陽権助に留まったものの、当代屈指の陰陽師として安倍氏の氏長者の地位を占めた実力者であった。その子孫も地位こそ振るわなかったものの、実力者を相次いで輩出して一族は「晴道党」と称されていた』。『建久四年一二月九日(一一九四年一月三日)、陰陽少允に任じられたのが記録上の初出(『玉葉』同日条)で翌年には主計助、建仁二年(一二〇二年)には正五位下に叙された。早くから九条家に仕え、息子の晴吉は承久元年(一二一九年)に鎌倉幕府の次期将軍として九条家の三寅(後の九条頼経)の護持陰陽師として三寅に随って鎌倉に下り、小侍所に配属されている。国道は翌承久二年(一二二〇年)までに天文密奏宣旨を受けて陰陽権助に任ぜられていたことが知られている』。『翌承久三年(一二二一念)、国道は鎌倉に下って陰陽権助在任のまま鎌倉幕府に仕える。この年、鎌倉幕府は承久の乱で勝利してその政治的地位を固めていた。その一方、三寅の将軍就任のための環境整備が進められており、国道は息子・晴吉との交替する形で三寅への近侍のために鎌倉に下ったのである。同年十一月三日には執権北条義時の夫人の出産に伴う移徙』(わたまし:転居。ここは血の穢れによる。)『に際して勘文を提出している(『吾妻鏡』同日条)。国道は以後五年間にわたって鎌倉に滞在し、北条義時・泰時からも信任を受けて、元仁元年十二月二十六日(一二二五年二月五日)には四角四境祭を行うために六連・小壺・稲村・山内を鎌倉の四境と定めている(『吾妻鏡』同日条)』。『嘉禄二年(一二二六年)、国道は突如京都に帰還した。藤原定家の『明月記』(同年十月十三日条)によれば、国道は天文博士の地位を望んだが叶えられず、反対に陰陽権助の地位を奪われるという風説を聞いたためであったという。寛喜二年(一二三〇年)に陰陽頭兼権天文博士の安倍泰忠が辞任すると、陰陽助(正助)の賀茂在俊と陰陽頭の地位を争って敗れるが、陰陽助兼権天文博士に任ぜられて面目を保つ。寛喜三年(一二三一年)二月には陰陽博士就任を希望して失敗し、八月に賀茂在俊が陰陽頭を辞任すると再度陰陽頭就任を希望した。これに対して賀茂氏嫡流の賀茂在継は賀茂氏・安倍氏の人々に国道の陰陽頭就任に反対し、任命された場合には公事をボイコットする旨の起請文を呼びかけた。これには賀茂氏だけでなく、国道の強引な猟官に反発する安倍氏の人々の賛同をも得たが、九条道家の後押しを受けた国道が陰陽頭に任じられた。折しも、寛喜の飢饉に付随して発生した疫病で、国道に対抗できる熟練の陰陽師の多くが死亡したこと、先に死去した安倍泰忠の後継者争いで安倍氏嫡流が衰退したことも国道にとっての追い風になったと言われている。また、賀茂在俊らの過激な反対運動が却って人々の反感を買い、藤原定家も『明月記』(寛喜三年九月九日条)の中で彼らの行動を僧兵の強訴になぞらえて批判している』。『こうして悲願の晴道党初の陰陽頭に就任した国道であったが、就任翌年の貞永元年(一二三四年)に急逝してしまった。だが、鎌倉において国道が行った様々な事例が鎌倉幕府における陰陽道・天文道の先例として重視されることになり、後の「鎌倉陰陽師」と呼ばれる鎌倉幕府に仕える陰陽師集団の基礎を築くことになった』とある。

「同五月」後で見るように、五月十三日。

「名も知らぬ大魚」見たことがないとあり、腥匂いの強烈な「脂」(魚油)を採っていることから、ワックスを多く含む深海魚と考えられる。条鰭綱ハダカイワシ目ハダカイワシ科 Myctophidae の中でも普通は浅海域に捕食遊泳しない種か。

「百壇の不動供」不動明王を本尊として息災を祈願する修法。以下の雨乞いの修法が執り行われたのは五月十五日で、本文はあたかもこの異魚の大量打ち上げがあってから、「是旱魃の兆なり、只事にあらず」と噂し、「申すに違はず、炎旱、頻にして田畠、焦れたり。」という現象が起こった、そこでやおら雨乞いの儀となったように見えるが、実際には後掲するように「吾妻鏡」ではそれよりも前から、雨が降らず、五月十五日までで炎暑日が十日も続いた結果、行ったのである。話柄の作りととして、日を抜いたのは上手い方法ではあるが、叙述としては正確ではない。

「一字金輪水天供」「一字金輪」は一字金輪仏頂のこと。一字金輪王・一字頂輪王・金輪仏頂王などともいう。仏頂部の中で最もすぐれた仏頂、如来を意味する。形像は宝冠をつけ瓔珞・腕釧(わんせん:上膊部或いは手首につける腕輪。)など種々の荘厳具を着けた菩薩形で、釈迦金輪と大日金輪の二種に分かれる。釈迦金輪は螺髪(らほつ)形の釈迦が須弥山頂で法界定印を結び、印の上に金輪を置く姿を表し、大日金輪の方は、宝冠を着けて智拳印を結ぶ金剛界の大日如来が日輪の中に表されたものをいう。「水天」は天部の一人で須弥山の西に住んでいるとされる水神の最高神。ここはそうした釈迦や大日如来と併せて水天の複数を本尊として修するもの。

「仁王觀音經」鎮護国家の代表的経典である「仁王(いんのう)経」と「法華経普門品」である衆生済度を讃える「観音経」。

「祝融」中国神話の火の神。炎帝の子孫とされ、火を司る。「山海経」中の「海外南経」によれば祝融は南の神でその姿は獣面人身である、とする。

「大虛」大空。

「五龍祭」雨乞いの修法としては、古くから陰陽道でポピュラーな水神である五匹の龍(青龍・赤龍・黄龍・白龍・黒龍)を祀る修法。

「屬星」陰陽道で生年によって決まり、その人の運命を支配するとする星。生年の干支を北斗七星の各星に宛てたもの。この場合は個人ではないから、総ての属星(午年は破軍星、巳・未年は武曲(ぶごく)星、辰・申年は廉貞(れんてい)星、卯・酉年は文曲(もんごく)星、寅・戌年は祿存(ろくそん)星、子年は貪狼(どんろう)星、丑・亥年は巨門(こもん)星)を祀るのであろう。

「水曜」九曜(くよう)である九つの天体である日曜・月曜・火曜(熒惑星)・水曜(辰星)・木曜(歳星)・金曜(太白星)・土曜(鎮星)・計都星・羅睺星の中の水星を祀る修法。陰陽道でのそれは抽象化されたもので実際の天体とは一致しない。雨乞いだから「水」星と捉えればよいであろう。

「靈所七瀨の御祓」鎌倉御府内を守護する七箇所の霊地(由比ヶ浜・金洗沢・片瀬川・六浦・㹨川・杜戸・江島竜穴)で行われる大規模な鎌倉防衛のための霊的な陰陽道の大祭。但し、この部分、脱落があり、「陰陽頭國道朝臣」が「靈所七瀨の御祓を」したように読めて以下が続かない。「吾妻鏡」によれば安倍国道は由比ヶ浜で修した。

「金洗の澤沉」「沉」は沈の俗字で、沼の意。七里ヶ浜の行合川の西の金洗沢(かねあらいざわ)の池。田辺ケ池・田辺池・雨乞いの池とも呼ぶ。教育社の「北条九代記」で増淵勝一氏は『銭洗弁天』と割注するが、これは誤りである。

「知輔」安陪知輔。以下、無論、最後の十壇の水天供の修法者を除いて総て幕府お雇いの陰陽師で、皆、安倍姓の一族。

「柚河」㹨川(いたちがわ)の誤記。

「固瀨川」片瀬川。

「八龍の祭」、天龍八部衆に所属する龍族の八王である護法神八大龍王。難陀(なんだ)・跋難陀(ばつなんだ)・娑伽羅(しゃから)・和修吉(わしゅきつ)・徳叉迦(とくしゃか)・阿那婆達多(あなばだった)・摩那斯(まなし)・優鉢羅(うはつら))を祭る修法。

「日曜」日曜祭。神格化された太陽を祭る修法。

「七座の太山府君」底本では「七座の」の後に読点があるが除去した。七座太山府君祭で、道教の最高神である泰山府君(たいざんふくん)を祭る、天変地異に対する修法では陰陽道最奥の秘儀とされるもの。

「十壇の水天供」「十壇」はよく意味が分からない。護摩壇の十方に祭壇を配したものか。識者の御教授を乞う。「吾妻鏡」によれば、これは真言僧『辨僧正〔定豪〕』が修したとある。定豪(じょうごう 仁平二(一一五二)年~嘉禎四(一二三八)年)は『治承四年(一一八〇年)に仁和寺の寛遍(忍辱山流の祖)の門人兼豪より、大和国忍辱山円成寺にて伝法潅頂を受ける。文治元年(一一八五年)、三十四歳でようやく法橋に任ぜられるなど、必ずしも僧侶として恵まれた立場にはいなかった。そこで、時期は不明であるが源頼朝がいた鎌倉に下り、建久二年(一一九一年)には鶴岡八幡宮の供僧に補任され、二年後には同地の宿老僧十名の一人とされる。正治元年(一一九九年)には、文覚失脚後を受けて神護寺を継承した性我の譲りによって勝長寿院の別当になった。建仁二年(一二〇二年)、五十一歳にしてようやく法眼に任じられた』。『ところが、承久二年(一二二〇年)、当時の鶴岡八幡宮別当であった公暁が叔父の将軍源実朝を暗殺して自らも討たれるという大事件が発生、急遽鶴岡八幡宮別当に補任された。以後、八幡宮の実権を掌握して、翌年九月の別当辞任後も門人を別当に据えてその権威を保持した。更に翌年承久の乱が発生すると、鎌倉幕府のために祈祷を行い、その功績によって熊野三山検校・新熊野検校・高野山伝法院座主が与えられ、鎌倉幕府の仏教界への本格的関与の先駆となった』。『定豪の台頭の背景には鎌倉幕府との強いつながりや朝幕関係の安定を望む承久の乱後の朝廷の意向があったが、その一方で彼自身も九条家や久我家と連携して仁和寺御室の道深法親王と間で伝法院や広隆寺、東大寺の継承を巡って激しく争うなど、鎌倉幕府の意向とは一線を画した野心的な行動も見せている』。『定豪はその後も鎌倉を本拠として必要な場合に京都に上った。嘉禄元年(一二二五年)には東寺三長者(東寺長者のうちの第三位)に任じられたが、久しく三名の定員であったものを四名の先例を盾にして強引に定数を増員して任じられたものであった。後に二長者に昇進する。安貞二年(一二二八年)には東大寺別当に任じられるが、文暦元年(一二三四年)、将軍九条頼経の正室竹御所の御産祈祷の失敗(母子ともに死去)の責任を取って、東大寺別当・東寺二長者を辞任する。嘉禎元年(一二三五年)には大僧正、同二年(一二三六年)には九条道家の推挙によって東寺長者の筆頭である一長者(貫主)に任じられた(八十五歳での任命は当時の最高齢記録)。同三年(一二三七年)には四条天皇の護持僧となる。同年には東寺一長者の権力を用いて、厳格な審査を必要とした同寺所蔵の仏舎利を一度に十五粒も受領した。八十七歳の高齢で京都にて没した』とある。当時既に七十二歳であった。

 

 以下、「吾妻鏡」の記載。まず、貞應三(一二二四)年四月二十八日の条。

○原文

廿八日甲午。晴。有若君御手習始之儀。陰陽權助國道朝臣擇申日次。〔今日。時巳未。〕其儀兼被上南面御簾三ケ間。御硯一面。〔蒔鶴。〕御手本〔昨日自京都參著。〕等〔置文臺〕置御座前。吉時〔未。〕前奥州著布衣被參。若君出御。宰相中將〔布衣。〕被候傍。頃之參進。開御硯蓋。摺墨染筆被進。取之習始給。長生殿詩云々。事訖。奥州被賜御釼。〔納錦袋。〕相公羽林傳之。出羽守家長〔布衣。〕爲役送。其後於上臺所盃酒。宿老御家人兩三輩參候云々。

○やぶちゃんの書き下し文

廿八日甲午。晴る。若君の御手習始めの儀、有り。陰陽權助國道朝臣、日次(ひなみ)〔今日。時は巳(み)・未(ひつじ)〕を擇(えら)び申す。其の儀、兼ねて南面の御簾三ケ間を上被げらる。御硯一面〔蒔鶴。〕。御手本〔昨日、京都より參著す。〕等〔文臺に置く。〕、御座の前に置く。吉時〔未。〕に前奥州、布衣を著して參らる。若君、出御。宰相中將〔布衣。〕、傍らに候ぜらる。頃之(しばらくあ)つて參進し、御硯の蓋を開き、墨を摺り、筆を染め進じぜらる。之を取りて習ひ始め給ふ。長生殿詩と云々。

事、訖りて、奥州、御釼〔錦の袋に納む。〕を賜(たまもの)せらる。相公羽林、之を傳ふ。出羽守家長〔布衣。〕、役送(やくそう)たり。其の後、上臺所に於いて盃酒す。宿老・御家人兩三輩參候すと云々。

・「巳・未」午前十時と午後二時。

・「蒔鶴」鶴をあしらった蒔絵。

・「前奥州」北条義時。

・「宰相中將」一条実雅。一条能保の三男で北条義時の娘婿。

・「長生殿の詩」長生殿は唐の太宗が驪(り)山に建てた離宮。玄宗が楊貴妃を伴って遊んだことから(当時は華清宮と改名)、及びそれを素材とした白居易の「長恨歌」で知られる。ここは「和漢朗詠集」に収められる慶滋保胤(よししげのやすたね)の詩、

 長生殿の裏には春秋富めり、不老門の前には日月遅し

を指す。この詩は帝王の万歳長久(ばんぜいちょうきゅう)を慶賀した内容であることから、吉祥の詩として、また意匠としても絵画や工芸の主題として好まれた(ここは「徳川美術館」公式サイトの「長生殿蒔絵手箱」のキャプションを参照した)。。

・「出羽守家長」中条家長(永万元(一一六五)年~嘉禎二(一二三六)年)のこと。武蔵七党の一つである横山党の小野義勝(法橋成尋)の子で、藤原道兼の子孫である有力御家人八田知家の養子となった。武蔵国埼玉郡中条保を本拠として中条氏を称した。右馬允・右衛門尉を経て、貞応二(一二二三)年に従五位下出羽守に至る。治承・寿永の内乱では源範頼に従って一の谷の戦いに加わり、その後も豊後国に転戦、奥州合戦にも参加した歴戦の勇士であった。源頼朝以下、藤原頼経まで歴代の将軍に近侍して鎌倉幕府宿老として重きをなした。また評定衆創設(一二二五)以来、その職に任ぜられて幕政にも参画した。(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

 

 以下、同年五月十三日の条。

○原文

十三日己酉。晴。近國浦々大魚〔其名不分明。〕多死浮波上。寄于三浦崎。六浦。前濱之間充滿。鎌倉中人擧買其完。家々煎之。取彼油。異香滿閭巷。士女謂之旱魃之兆。無先規。非直也事云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十三日己酉。晴る。近國の浦々に大魚〔其の名、分明ならず。〕波の上に多く死に、浮ぶ。三浦崎、六浦、前濱の間に寄りて充滿す。鎌倉中の人、擧(こぞ)りてて其の完(しし)を買ひ、家々に之を煎(せん)じ、彼の油を取る。異香、閭巷(りよこう)に滿つ。士女、之れを旱魃の兆と謂ふ。先規、無し。直(ただ)なる事に非ずと云々。

・「三浦崎」三浦三崎。

・「前濱」由比ヶ浜。

・「完」肉。

 

 以下、同年五月十五日の条。この間の十四日には記事がない。

○原文

十五日辛亥。晴。炎旱渉旬。仍被始行祈雨法。所謂。百壇不動供。一字金輪水天供。降雨法。仁王觀音等御讀經也。周防前司親實爲奉行。

○やぶちゃんの書き下し文

十五日辛亥。晴る。炎旱、旬に渉(わた)る。仍つて祈雨の法を始行せらる。所謂、百壇不動供・一字金輪・水天供・降雨法・仁王・觀音等の御讀經なり。周防前司親實、奉行たり。

・「旬」は厳密には十日を示す単位。

・「周防前司親實」藤原親実(生没年不詳)幕府吏僚。明経道(みょうぎょうどう:律令制下に於ける大学寮の学科の一つ。儒教の経学を専攻したが、平安時代以降は中国の史書・詩文を学ぶ紀伝道が盛んとなるに従って次第に衰え、教官の世襲化が強まって中原・清原両氏の家学となった。ここは「大辞林」に拠った。)の中原忠順の子で、評定衆中原師員の叔父。仁治二(一二四一)年の安芸厳島社神官等申状には親実が当時七十歳を超えていたことを記している。将軍頼経に仕えた諸大夫で、将軍御所の儀礼・祭祀などの奉行を務めた。文暦二(一二三五)年の厳島社造営の人事で周防守護から安芸守護に転任,厳島神社の神主に任ぜられている。寛元二(一二四四)年には上洛して六波羅評定衆となり、その後は周防守護に戻って寛元三年から建長三(一二五一)年までの在職を認めることが出来る。建長五年の法勝寺阿弥陀堂供養では老体にも拘わらず、在京人として西二階門を警固している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

 

 次に、同年六月六日の条。この条の直前は同月の朔日で『子刻、大地震。』とある。

○六日壬申。霽。炎旱渉旬。仍今日爲祈雨。被行靈所七瀨御祓。由比濱國道朝臣。金洗澤池知輔朝臣。固瀨河親職。六連忠業。狎河泰貞。杜戸有道。江嶋龍穴信賢。此御祓。關東今度始也。此外。地震祭。〔國道。〕日曜祭。〔親職。〕七座泰山府君。知輔。忠業。晴賢。晴幸。泰貞。信賢。重宗等云々。又十壇水天供。辨僧正〔定豪。〕令門弟等修之。

○やぶちゃんの書き下し文

六日壬申。霽る。炎旱、旬に渉る。仍つて今日、祈雨の爲に、靈所に七瀨の御祓へを行はる。由比の濱には國道朝臣、金洗澤池には知輔朝臣、固瀨河には親職(ちかもと)、六連(むつら)には忠業(ただなり)、㹨河には泰貞。杜戸(もりと)には有道、江嶋(えのしま)の龍穴には信賢。此の御祓へは、關東、今度(このたび)、始めなり。此の外、地震祭〔國道。〕・日曜祭〔親職。〕・七座の泰山府君は知輔・忠業・晴賢・晴幸・泰貞・信賢・重宗等と云々。

又、十壇の水天供は、辨僧正〔定豪。〕、門弟等をして之を修せしむ。

 

 四日後の六月十日の条には『十日丙子。入夜。甘雨下。』(十日丙子。夜に入りて、甘雨、下(ふ)る)とある。]

橋本多佳子句集「紅絲」  由布高原 / 後記 ~ 句集「紅絲」了

 由布高原

 

  一月六日関西旅行の横山白虹氏、自鳴鐘の岡

  部丘夫、中尾芦山氏に誘はれて久々にて九州

  へ旅する

 

河豚煮るゆげ誘はれて海渡りたる

 

昨日(きぞ)海に勁かりし星枯野に坐る

 

莨火にも由布の枯野の燃えやすき

 

野火立ちて由布野の小松つひに燃ゆ

 

野に寝れば髪枯草にまつはりぬ

 

狐の皮干されて枯るゝ野より悲し

 

[やぶちゃん注:年譜によれば昭和二六(一九五一)年一月六日の旅立ちであったが、有名な由布の野焼きは現在は二~三月に行われるし、以下(「岡部丘夫」の注)から五月にまで及ぶ非常に長い旅ででもあったものかとも考えたが、幾らなんでも五ヶ月の旅はおかしい。最後のクレジットは一月ではあり、野焼きを一月中に行う場所もある。

「横山白虹」(はっこう 明治二二(一八八九)年~昭和五八(一九八三)年)は医師で俳人。本名、健夫(たけお)。東京府生まれ。九州帝国大学医学部を卒業。俳句は中学時代からはじめ、大学で九大俳句会を設立、また吉岡禅寺洞の『天の川』に投句、昭和二(一九二七)年より『天の川』編集長となって新興俳句運動の推進に努めた。昭和九年、小倉市にて横山外科病院を開設、昭和十二年には『自鳴鐘』(とけい)を創刊して主宰、同誌は昭和十四年に戦時の用紙統制令によって休刊したが戦後の昭和二三(一九四八)年には『自鳴鐘』(じめいしょう)として復刊した。昭和二七(一九五二)年、山口誓子の『天狼』同人、一九七三年、現代俳句協会会長に就任、他にも小倉市議会議長、九州市文化連盟会長などの要職を歴任し、多彩な交流があった。句集に「海堡」「空港」「旅程」など。『天の川』」の同朋であり、彼の患者でもあった俳人芝不器男が夭折した折には遺句集を編んでいる(以上はウィキの「横山白虹」に拠るが、「芝不器男」のリンクは私の電子化句集)。句を掲げておく。

 

 たそがれの街に拾ひし蝶の翅

 原子炉が軛となりし青岬

 原爆の地に直立のアマリリス

 

「自鳴鐘の岡部丘夫」号は麦山子。詳細不詳であるが、個人ブログ「かわうそ亭」の苺どろぼう、夏蜜柑どろぼうという記事に、西東三鬼が昭和三四(一九五九)年五月号『天狼』に書いた「どろぼう」という随筆に書いた、非常に面白いエピソードが載るが、そこに名が出る。三鬼とは横山白虹と岡部麦山子の二人に招かれて、博多で催された『天狼』三周年記念博多大会に出席したが(年譜で確認した)、その後、慰労会と称して山口県川棚温泉で彼らから歓待を受けた。その『宴もたけなわ、話は麦山子のえんどう豆どろぼう、鶏どろぼうの武勇伝になって一同、げらげら笑い転げているうちに、麦山子が緊急動議を出した。きみらに少し真の反俗精神を教えてやらにゃならん、この近くの禅寺に手頃な夏蜜柑があった。あれをこれから採集に出かけよう』ということになったという(以下は「どろぼう」からの引用段落冒頭に一字下げを施した)。

   《引用開始》

 先ずその時のいでたちは、男はゆかたの尻つぱしより、頬かむり。女(すなわち橋本さん)は、手拭で伊達な吹き流し。まんまと寺苑に忍び入り、ましらのごとく木に登る。手あたり次第に捻り取るは、夜目にも黄金の夏蜜柑。垣の外ではをんな賊、ドンゴロス袋に詰め込んで、ソレ引揚げろと親分の下知を合図に逃げ出した。甚だ薄気味悪かった。

 その翌朝、麦さん平然として、昨夜の夏蜜柑をお住持に土産に持つてゆくという。これにはびつくりしたが、実は戦時中、麦さんはその寺に疎開していて、坊さんとは親交がある由。それを伏せての昨夜のいたづらであつた。

   《引用終了》

「ドンゴロス袋」は麻袋のこと。ウィキ麻袋」によれば粗い綿布(デニム)を指す英語の“dungaree”(ダンガリー)からの転訛とされる。……この話を読んで、多佳子が彼だけ本名を呼び捨てにしている(好意的に考えるなら、単に「両氏」とするところを落しただけとも言えるが)意味が分かった気がした。

「中尾芦山」不詳。]

 

  折尾へ

 

赭崖の氷雨の八幡市すぐ暮るゝ

 

凍る嶺(ね)の一つ嶺火噴きはゞからず

              (一九五一・一)

 

[やぶちゃん注:「折尾」北九州市八幡西区の地名。句会か講演での訪問か。

「赭崖」読み不詳。「あかがけ」と訓じているようには思う。

「嶺火」不詳。地図上、折尾からでは噴煙の見える火山はないように思われるが。

 これが句集「紅絲」の掉尾で、最後の国文学者神田秀夫の歴史的仮名遣で書かれた『「「紅絲」跋』が載るが、神田氏の著作権は存続しているので省略する。]



 後記

 「紅絲」は俳誌「天狼」創刊の昭和二十三年一月に始り、約三年間の作品を収めました。

 思へば「天狼」の創刊は私にいろいろの幸福をもたらしました。山口誓子先生の主宰される「天狼」に参加する非常な喜びと緊張、得難い諸先輩同人に親しく触れることが出来たのは何としても「紅絲」の世界に大きな力を与へられたと思ひます。尚この他にも常に鞭うつて下さる幾多の友を持つ喜びを「紅絲」を編み乍らつくづく感じました。

 この「紅絲」の三年間は私にとつて実に多難な年でしたが、ことに二人の娘の夫に逝かれたことが一番私を悲しませ弱らせました。幸ひその悲しみの穴も日々に埋められてゆきます。「紅絲」の次の世界は明るい平淡なものが待つてゐるやうに思はれます。一応今日までの作品を纏め新しい出発を期したいと思ひます。

 尚「紅絲」は年代に分けず一つの題名のもとに一群の作品を集めてみました。旅の作品にも年月を記しませんでしたが、「冬の旅」の中の「九州路」は昭和二十二年、「金沢」は同二十四年、「蘇枋の紅」は同二十四年と五年の春上京しての作品で、「由布高原」は今年一月久々に九州へ旅をして作りました。

 「紅絲」に対し山口誓子先生の序文、神田秀夫氏の跋文を戴きました。いづれも身に余る御厚情、謹んで御礼申上げる次第でございます。

 「紅練」は初め秋元不死男氏の御すゝめにより編む機を与へられ、この度目黒書店の木村徳三氏、石川桂郎氏の御配慮により漸く出版のはこびとなりまかした。厚く御礼申上げます。

   昭和二十六年三月

              奈良菅原の里にて

                 橋本多佳子


[やぶちゃん注:本文中の句作年代については幾つかの疑問がある(特に「金沢」と「蘇枋の紅」。「金沢」はそもそも「金沢へ」の誤りである)。それぞれの注でそれを示しておいた。]

杉田久女句集 266 花衣 ⅩⅩⅩⅣ 深耶馬溪 六句

  深耶馬溪 六句

 

大嶺に歩み迫りぬ紅葉狩

 

自動車のついて賑はし紅葉狩

 

打ちかへす野球のひゞき草紅葉

 

  靑の洞門を見て

 

洞門をうがつ念力短日も

 

嚴寒ぞ遂にうがちし岩襖

 

鎚とれば恩讐親し法の秋

 洞門をうがちし僧禪海の像及び碑が靑の洞門の入口にある。

 人間の一心は遂に何事も成就するといふ事を感知せらる。

 

[やぶちゃん注:角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」によれば、昭和一〇(一九三五)年の連作。本句集では異例の長い後書で、その「人間の一心は遂に何事も成就するといふ事を感知せらる」という箇所は、実に実に久女のひたむき且つ恐るべき執心の人生の意思を感じさせるものではないか。因みに、この翌昭和十一年十月、久女は突如、虚子によって『ホトトギス』から除名処分となる。

「深耶馬溪」は既注。「靑の洞門」同じく大分県中津市本耶馬渓町樋田にある洞門(隧道)で、名勝耶馬渓に含まれ、山国川に面してそそり立つ競秀峰の裾に位置する。全長は約三四二メートルで、そのうちトンネル部分は約一四四メートル(ウィキの「青の洞門」に拠る)。中津市公式サイト内の「青の洞門」より引用する(アラビア数字を漢数字に、一部の記号をカタカナに変えさせて戴いた)。

   《引用開始》

大正八年に発表された菊池寛の短編小説「恩讐の彼方に」で一躍有名になった、禅海和尚が掘った洞門(トンネル)で、耶馬渓を代表する名勝である競秀峰の裾野に穿たれている。

諸国巡礼の旅の途中に耶馬渓へ立ち寄った禅海和尚は、極めて危険な難所であった鎖渡で人馬が命を落とすのを見て、慈悲心から享保二〇年(一七三五)に洞門開削の大誓願を興したと伝えられている。

禅海和尚は托鉢勧進によって資金を集め、雇った石工たちとともにノミと鎚だけで掘り続け、三十年余り経った明和元年(一七六四)、全長三四二メートル(うちトンネル部分は一四四メートル)の洞門が完成した。

寛延三年(一七五〇)には第一期工事落成記念の大供養が行われ、以降は「人は四文、牛馬は八文」の通行料を徴収して工事の費用に充てており、日本初の有料道路とも言われている。

完成当初は樋田の刳抜(くりぬき)と一般に呼ばれていたが、江戸末期から大正にかけて樋田のトンネルや青の洞門と呼ばれるようになり、大正十二年四月尋常小学校国語読本巻第二十一詠には青の洞門と書かれており、昭和十七年に大分県の史跡指定にあたり、青の洞門が正式名称となったようである。

明治三十九年から翌四十年にかけて行われた大改修で大部分が原型を破壊されたと言われており、現在の青の洞門には、トンネル内の一部に明かり採り窓などの手掘り部分が残っている。

   《引用終了》

「禪海」禅海(元禄四(一六九一)年~安永三(一七七四)年)は正しくは真如庵禅海で曹洞宗の六十六部(法華経を六十六部書写し、日本全国六十六ヶ国の国々の霊場に一部ずつ行脚して奉納した僧。鎌倉時代から流行り、江戸時代には広く諸国の寺社に参詣する巡礼又は遊行聖を指す。白衣に手甲・脚絆・草鞋がけで背に阿弥陀像を納めた長方形の龕(がん)を負い、六部笠をかぶった姿で諸国を廻ったが、後には同装の巡礼姿で米銭を請い歩いた乞食に零落した。六部とも。ここは「大辞林」の記載に拠った)越後国高田藩士の子で本名は福原市九郎。生年については貞享四(一六八七)年説もある。両親が亡くなったことから世の無常を感じて出家、諸国を行脚し、正徳五(一七一五)年に得度して禅海と称した。回国の途中で豊後国羅漢寺を参詣した折り、川沿いの断崖に架けられた桟橋、青野渡しが危険で、人馬がしばしば覆没することを知って、これを哀れみ、鑿道の誓願を発して陸道の掘削を思いついた。享保一五(一七三〇)年頃には豊前国中津藩主の許可を得て掘削を始めたが、その後周辺の村民や九州諸藩の領主の援助を得て三十年余りの歳月をかけて、宝暦一三(一七六三)年に完成させた。当時のそれは高さ二丈(約六メートル)、径三丈(約九メートル)、長さ三〇八歩(三六九・六メートル)。開通後、通行人から通行料を徴収したという話も伝わっており、この洞門は日本最古の有料道路とも言われている。菊池寛の小説「恩讐の彼方に」の主人公「了海」(俗名・市九郎)のモデルとなった。『作中では主である旗本中川三郎兵衛を殺害してその妾と出奔、木曽鳥居峠で茶屋経営の裏で強盗を働いていたが、己の罪業を感じて出家、主殺しの罪滅ぼしのために青の洞門の開削を始め、後に仇とつけ狙った三郎兵衛の息子と共に鑿ったものとされるが、主殺しなどのエピソードは菊池の創作である』(以上は引用を含め、ウィキ禅海に拠った。一部に前掲した中津市の記載と異なる箇所があるので注意されたい)。]

2014/08/12

人生の夏安居

57歳にして初めて自分の書斎にエアコンが入った。これより遅れて来た僕の人生の夏安居(げあんご)に入る――

2014/08/11

「こゝろ」の「先生」の家の間取り

『東京朝日新聞』大正3(1914)年5月5日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第十六回で注したものだけど、これはしょぼい。夫婦の寝室を忘れとるわ……

Seiseinouti

「こゝろ」の「先生」の高等下宿の間取り

『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月27日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第六十五回のシンクロニティで僕が載せたもの――


Gesyuku

薬がきれた

薬がきれた――一日一錠のジャヌビア(糖尿病薬)がきれた――主治医は一週間後でないと開院しない――これは痛恨の失敗であった……とりあえず食事は一日一食に――僕の夏安居だ……

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 筆捨松

    ●筆捨松

ふですて松。文人之を擲筆松といふ。舊能見堂の前に存在せる老松なり。離奇夭矯愛すべし。相傳ふむかし巨勢金岡此地の勝景を畫(ゑが)かむとて。筆を把(と)りしが。風光の美妙なる爲め。眞況を寫す能はず終(つひ)に筆を此の松下(まつした)に投して。背後に驚倒せりといふ。因てこの稱あり。

 登々匍匐路攀ㇾ高 景集大成忘却勞

 秀水奇山雲不ㇾ裹 畫師絶倒擲秋毫

                萬里居士

 涼しさや折ふし是はと筆捨松  西山 宗因

 ゆつりてよ筆捨松に蟬の聲     同

[やぶちゃん注:「把りしが」底本では「把りが」。脱字と断じて補った。萬里居士(集九)「梅花無尽蔵」の七言絶句の転句の「裹」は底本では「裏」であるが、訂した。巨勢金岡とその伝承については既に前の「能見堂」の注で示しているので参照されたい。

「離奇夭矯」「りきようきやう(りきようきょう)」と読む。「離奇」は奇怪、「夭矯」は曲がりくねったさまであるから、老松の曲がりくねって尋常ならざる奇体な樹容を言っているものと思われる。

 漢詩は前に示したが、「新編鎌倉志卷之八」書き下しには一部、疑問があるので改めて訓読し、注する。原本の最後の後書きの割注「畫師擲筆之峰」も附加した。

 

登々(とうとう) 匍匐(ほふく) 路(みち) 高きに攀(よ)づ

景 集めて大成し 勞(らう)を忘却す

秀水 奇山 雲は裹(つつ)まず

畫師 絶倒して 秋毫(しうがう)を擲(なげう)つ

   〔畫師(ぐわし)擲筆(てきひつ)の峰(みね)。〕

 

「登々」坂を登りに登るさま。

「景 集めて大成し」眺望の中にある無数の個々の景色が一つに集められて、スケールの大きな一景として自ずから完成していることを言う。

「秋毫」(秋に伸びた獣の細い毛で作った)筆。

 

「ゆつりてよ筆捨松に蟬の聲」「江戸名所図会」の「筆捨松」の条には、

 

ゆづりてよ筆捨松に蟬の吟

 

とある。諸資料、「聲」とするものも多いようだが、「ゆづりてよ」という上五を受けるのなら断然、「吟」であろう。そうでないと諧謔が生きてこない。

 最後に。

Hudesutematu

これは能見堂と筆捨松を遠望した広重作の嘉永六(一八五三)年「武相名所手鑑」の「従能見堂金沢八景一覧 其一」である。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 能見堂(二)

江戸名所圖會に云。

[やぶちゃん注:以下は底本では一字下げポイント落ち。]

此地に至りて。金澤の勝景を望めば。畫が如く。南より西北にめくりては。皆山にして。東は浪溟に連り。千里の風光窮りなく。沖行舟の眞帆片帆は。雲に入かとあやしまる。瀨戸の神祠は水に臨み。稱名の佛閣は山に傍たり。漁家民屋は樹間々々にみえかくれし。島は波間々々にあらはる。又鹺戸の烟潮水の盈虛も。皆此の擲筆松の下に平臨する所にして。一瞬に遮り。一日早晩の異なる一年春夏秋冬の變れる。千態万狀極りなく。關左の一勝地にして。しかも松島象潟の風致あるを以て。雅客遊人留連時を移すといへども。其の十の一を究むる事能はす。

[やぶちゃん注:「江戸名所圖會」神田の名主斎藤幸雄・幸考・幸成の親子三代によって完成された長谷川雪旦・雪提画になる天保七(一八三六)年刊の、江戸及びその近郊の絵入名所案内記。次に出る「東海道名所図会」より新しいので注意。

「畫」「ゑがく」と読む。

「傍たり」「そひたり」と読む。

「鹺戸」前出既注。「さこ」と読む。

「關左」関東。

「雅客遊人留連」「がくかくいうじんりうれん(りゅうれん)」と読む。「留連」は遊興に耽って家に帰るのを忘れることをいう。流連とも書く。

「十の一を」「江戸名所図会」では『十が一を』。]

 

東海道名所圖會に云ふ。

[やぶちゃん注:以下は底本では一字下げポイント落ち。]

夫此堂上へ登りて遠望すれは。東南には安房。上總の峯々。眼下に遮り。近く見れは瀨戸洲崎の入江。鹽くむ海人藻を刈る賤女。瀨戸橋の行人。島は烏帽子島猿島、躶島、野島、夏島。浦は六浦、三浦、葛浦、浦江。社は瀨戸明神辨天社手子社。寺は稱名寺、大寧寺、善雄寺、藥王寺、龍華寺、圓通寺、金龍院。松は照天松村君大夫が夫婦松。君が崎りひとつ松。雀浦の孤松。金澤の四石八木は世に名高し。井は龜井、染井、白井、赤井、大井所、小井所の七井。亭は四望亭、九覽亭の二亭あり。里は釜利屋(かまりや)、刀切(なたぎり)、洲崎村、町屋村、瀨戸村、谷村、室木村、野島村、柴崎村、引越村、乙艫村、大同(だいどう)村。山は鎌倉山に續て。遠近の連山綿々たり。安房、上總のあいだの鋸り嶽。三浦の二子山。名にしをふ行衛も知らぬ我思ひと詠せられしふじの高根も。此濃見の筆捨松の葉はしより。邈に見へわたり海は堅魚とる鎌倉の海につらなり。波瀾渺々にして。水やそら。空や水とも見えわかず。かよひてすめる秋の夜の月と。淸輔の詠め給ひしも。こゝにおもひあたる。

[やぶちゃん注:「東海道名所圖會」秋里籬島(あきざと(あきさと) りとう)著で北尾政美・竹原春泉斎他画になる寛政九(一七九七)年刊の、京都から江戸に至る東海道絵入名所案内記。

「躶島」は「はだかじま」と読む。「新編鎌倉志卷之八」の「猿島」の条に、

〇猿島〔附裸島〕 猿島(さるしま)は、夏島(なつしま)の東南にあり。五町四方ばかりあり。其の前二三町餘離れて、裸島(はだかじま)と云ふ小島あり。

と出る。古くは猿島一帯にあった十の小島と猿島とを総称して豊島(としま)(十島)と呼ばれていたらしく、「裸島」もその一つであった(現在、裸島は同定不能。岩礁であったが浸食で消滅した可能性が高いと思われる)。

「葛浦、浦江」原本を視認すると「くずがうら」「うらえ」と読み振られてある。ともに不詳。識者の御教授を乞う。

「手子社」「てこのやしろ」と読む。金沢区釜利谷南にある手子神社。「新編鎌倉志卷之八」に、

〇手子明神 手子(てご)の明神は、釜利谷(かまりや)村の内、瀨戸の北にあり。此の所三方は山、東は瀨戸橋より入海(いりうみ)なり。明神の北に、瀟湘(しやうしやう)の夜雨松と云あり。此所より鼻缺(はなかけ)地藏へ出る道あり。

とある。「此所より鼻缺地藏へ出る道あり」は、同書の「鼻缺地藏」の条で言うところの、「鼻欠地蔵の右手を回り込んで行く山道『釜利谷へ出て、能見堂へ登る路』と考えられ、朝比奈のずっと東に、この古い間道があったことが分かる。リンク先の「鼻缺地藏」の注に「江戸名所図会」の絵を挿入してあるので、是非、ご覧あれ。最早、失われた古道がちゃんと描かれてある。

「善雄寺」「新編鎌倉志卷之八」に、

〇善雄寺 善雄寺(ぜんゆうじ)は、野島村の内にあり。野島山(やとうざん)と號す。眞言宗、龍華寺の末寺なり。本尊は不動。觀音、聖德太子の作。愛染、弘法の作、長(たけ)五寸。腹内に愛染の小像千體作りこむと云ふ。寺の側に井あり。淸冷なり。

とあるが、寺名や本尊が錯綜しており、「江戸名所図会」では「善應寺」と記しており、現存する寺も野島山染王寺(のじまさんぜんのうじ)とする。小市民氏の「散歩行こうぜ」の『ようこそ「金沢・時代の小波 野島コース」へ』によれば文政十三(一八三〇)年に成った「新編武蔵国風土記稿」によれば『「この寺は、もとは野島の山頂にあったが、南方からの強風を受けて堂舎を破損したため、山麓の現在地に移った、山頂には今でも善応寺屋敷の地名が残っている」と寺伝を記して』おり、同書では続いて本堂の規模を記した上、本尊観音は約八寸程の立像であるとし、『昔は愛染明王が本尊だったのであろう、火災に遭って改めたものだ』と記されているとある(小市民氏は寺号もこのときに変更されたものと推測されている)。更に寺伝によれば、開山とされる源朝なる僧の示寂は永禄九(一五六六)年とあることから、その頃の創建とされているけれども、境内の墓地入口に『古びた宝篋院塔があり、安山岩の基礎石正面には「比丘尼角意、永徳二年六月十八日」と刻まれて』いるとする。永徳二・弘和二(一三八二)年であるから、この尼が本寺関係があるとすれば、この寺の創建は開山とされる源朝の存命期よりもずっと前(百五十年以上前)に遡る可能性がある、と記されておられる。『野島には染王寺のほかにも夕照山正覚院や円明院という寺院があって、いずれも洲崎町龍華寺の末寺で』あったが、『円明寺は早くから廃寺となり、正覚院の過去帳の一部などが染王寺に伝えられて』おり、現在、『染王寺は、金沢札所第八番であるとともに、新四国東国八十八所霊場第七十七番にもなってい』るとある。

「藥王寺」「新編鎌倉志卷之八」に、

〇藥王寺 藥王寺(やくわうじ)は、町屋村の東にあり。三愈山と號す。龍華寺の末寺なり。堂に藥師十二神の像〔行基作。〕・蒲(かば)の御曹司範賴(のりより)の牌有。表に太寧寺道悟、裏に天文九年庚子六月十三日とあり。後の太寧寺の條下に詳なり。

とある。現在は三療山医王院薬王寺と号している。金沢区の公式記載に依れば、本寺は頼朝異母弟源範頼(久安六(一一五〇)年?~建久四(一一九三)年? 遠江国蒲御厨(現在の静岡県浜松市)の出身であることから「蒲殿」と呼ばれた。頼朝への謀反の疑いによって伊豆修繕寺に幽閉誅殺された)の別邸があったこの地(瀬が崎と称した)にその霊を弔うため、鎌倉前期に建立された真言寺で、古くは三愈山愈遍照坊と称したが一時衰亡、再建後の江戸期に三療山薬王寺と改名したとある。本尊薬師如来は範頼の念持仏と伝えられる。鎌倉にも同名の日蓮宗寺院があるので注意が必要。「天文九年」は西暦一五四〇年。]

「龍華寺」本文に後掲。

「圓通寺」「新編鎌倉志卷之八」に、

○圓通寺 圓通寺(えんつうじ)は、引越村(ひきこへむら)の西にあり。日輪山と號す。法相宗。南都法隆寺の末寺なり。開山は法印法慧、寺領三十二石、久世(くぜ)大和の守源の廣之(ひろゆき)付するなり。

東照權現の社 山の上にあり。御代官柳木(やなぎ)次郎右衞門勸請し奉るとなり。

とある。金沢八景駅を利用したことのある人なら、まずホームから見えた茅葺屋根の家が記憶にない人物はいないであろう(二〇一〇年に火事で一部焼失)。楠山永雄氏の「ぶらり金沢散歩道」の「NO.48 円通寺客殿と権現山」(トップ・リンク及び設置の確認メールを要求されておられるので、リンクは張らずにアドレスを以下に示す。 http://www1.seaple.icc.ne.jp/kusuyama/3burakana/48/48.htm)によれば、ここがこの「圓通寺」の遺構である。ここの『奥の一段高いところには、かつて東照宮が鎮座して』おり、これは万治年間(一六五八年~一五六一年)に、土地の郡代官『八木次郎右衛門が東照大権現(徳川家康)を祀ったもので、円通寺はその別当寺であった』とする(本文では「柳木次郎」とあり、「江戸名所図会」でも「柳木氏」とある)。あの『茅葺の建物は、円通寺の客殿で奥座敷の長押の釘隠しは「三つ葉葵」で飾られ、将軍・家光が使ったという手あぶり火鉢などが伝えられている。だが、明治維新の神仏分離令によって円通寺は廃寺となり、東照宮』も明治十一(一八七八)年に『瀬戸神社へ合祀され』てしまった。その際に久世広之(慶長十四(一六〇九)年~延宝七(一六七九)年:秀忠・家光小姓から大名となり、家綱の御側衆、若年寄、後に老中となった)及び六浦藩主米倉保教がこの東照権現に『寄進した石灯篭も同神社に移され、現在も鳥居をくぐった両側に建っている』と記しておられる。リンク先の記事では旧客殿の長押釘隠しの葵の紋も画像で見られる。別なデータでは、この旧客殿原型は江戸時代後期の享和二(一八〇二)年頃の建築と推定されている。]

「金龍院」本文に後掲。

「照天松」「てるてのまつ」と読む。既注。

「村君大夫が夫婦松」原本では「むらきみだゆうがふうふまつ」と読んでいる。

「雀浦の孤松」原本では「すゞめがうらのこしよう」と振る。

「金澤の四石八木」金龍院の条その他に出るが、「四石」は飛石・美女石・姥石・福石。飛石は現在、金竜院本堂裏庭にある(後掲されるように元は背後の山腹にあったが、文化九(一八一二)年十一月の関東地方に発生した大地震によって現在位置に落下したものと伝えられている)。後の三つの所在(跡)地は美女石と姥石が称名寺(本堂前の阿字ヶ池の中に美女石のみ現存する。後の「稱名寺」の条に出る)、「福石」が琵琶島の瀬戸神社(「瀨戸辨才天」の条に出る)である。「八木」は「稱名寺」で後掲される名数であるが、「新編鎌倉志卷之八」では「稱名寺」の条に、

金澤の八木と云て、靑葉(あをば)の楓(かへで)・西湖梅(せいこむめ)・黑梅(くろむめ)・櫻梅(さくらむめ)・文殊櫻(もんじゆさくら)・普賢象櫻(ふげんぞうざくら)・蛇混柏(じやびやくしん)・雀浦一松(すゞめがうらのひとつまつ)とてあり。五木は此の處にあり。蛇混柏は、瀨戸の明神にあり。雀浦(すずめがうら)の一つ松は其の所にあり。黑梅(くろむめ)は絶てなし。其跡は爰にあり。

とあって「黑梅」は古くに枯死していたことが分かる。「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」にはそれらの花の図があるので参照されたい。これらの木については「稱名寺」の条で再度細かく注する。

「龜井」称名寺赤門内左側の民家の裏にある石の丸井戸。ここに亀山天皇が住み、この井戸を用いたという伝承に基づくとされる。

「染井」現在の金沢文庫駅から横浜寄りの線路の西側奥にある石の丸井戸。

「白井」釜利谷道白井橋 (現在の金沢文庫駅西口の谷津川に架かる橋)の右側崖下にあった。現存しない模様。

「赤井」正法院の庫裡の裏に現存する。昔、赤い水が出たことからこの名がついたとされる。私も実見した。近くには同じ水質の赤黒い鉱泉能見堂赤井温泉がある(私は釜利谷高校時代によく入りに行った。かつての軍の保養施設で二階の雰囲気などとてもレトロ。お薦めのスポットである)。

「大井所」原本ではこの三字で「おほゐと」と読んでいる。御井戸とも。称名寺赤門から東へ凡そ百メートル行った右側にあった角井戸。現存しない模様。

「小井所」原本ではこの三字で「こゐと」と読んでいる。以上の記載の参考にした横浜市公式サイト内の「金沢の四石・七井・八名木」の「七井」の名数の「御仲井」がこれか? 『釜利谷御仲井通りの中ほどを北に入った民家の庭(元真浄寺の境内)にある丸井戸』とあり、現存するようである。

「七井」原本では「しちせい」と振る。ところが井戸は六つしかない。以上の記載の参考にした横浜市公式サイト内の「金沢の四石・七井・八名木」によれば、恐らくは「荒井」という七番目の井戸が落ちているものと思われる。金龍院の前の荒井妙法の屋敷跡にあったとある。現存しない模様。

「亭は四望亭、九覽亭の二亭あり」原本では「ちんはしばうてい、きうらんていのにてあり」と読んでいる。「四望亭」室ノ木の鎮守である熊野権現社は、かつてはその参道入口に観音堂があって室木庵と称し、金沢三十四観音の第九番札所であった。江戸後期には山頂に四望亭と称する展望台が設けられ、瀬ヶ崎の半島先端部の断崖を天神崎と呼んで、天神の祠が置かれ、観光名所となっていた、と神奈川県タウンニュースの『かねさわ地名抄 第31回「室ノ木」』にある。廃仏毀釈や海軍航空隊追浜飛行場の延長としての大規模な削平工事によって、神社を除き、総て現存しない。「九覽亭」は本文に後掲。

「室木村」「室木」には「むろき」と振る。前注参照。熊野権現社の境内にあったムロノキが地名の由来とされる。ムロノキは針葉樹の杜松(ねず)、裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ビャクシン属ネズ Juniperus rigida

「町屋村、瀨戸村」脱落がある。原本では「町屋(まちや)村、六浦(むつら)村、瀨戸(せと)村」である。

「行衛も知らぬ我思ひ」西行の和歌、

 

 風になびく富士の煙の空に消えてゆくへもしらぬわが思ひかな

 

を指す。これは西行の辞世とも言えるもので、奥州行脚の旅の帰るさの詠歌とされるもの。慈円の「拾玉集」によれば、西行自身、生涯一と自賛した一首とする。

「邈に」「はるかに」と訓ずる。

「水やそら。空や水とも見えわかず。かよひてすめる秋の夜の月と。淸輔の詠め給ひしも」「詠め」は原本を視認すると「ながめ」と訓じていることが分かった。「淸輔」は藤原清輔(長治元(一一〇四)年~治承元(一一七七)年)は平安末期の公家人で歌学書「袋草紙」の作者であり、この和歌は、その「袋草紙」上巻に載るものであるが、注意しなければならないのは、彼の詠ではないということである。これは「田舎の者に詠み負かされてしまった不覚の歌人の例をアンソロジックに纏めた章の冒頭に出る「詠み人知らず」の無名の武士の作った和歌である。岩波版新日本古典文学大系から恣意的に正字化して引く。

   *

 俊綱朝臣の家に、「水上の月」を詠じたる歌を講ず。而して田舍の武士、中門の邊に宿してこの事を聞き、即ち靑侍に語りて云はく、「豫(あらかじ)め今夜の題をこそつかうまつりて候へ」と云々。侍云はく、「興有る事なり、如何」と。兵士詠じて云はく、

  水や空空や水ともみえわかずかよひてすめる秋の夜の月

侍來たりてこの由を申す。萬人驚歎して詠吟し、且つ感じ且つ恥ぢておのおの退出すと云々。

   *

「俊綱」は官人歌人であった伏見修理大夫橘俊綱(長元元(一〇二八)年~寛治八(一〇九四)年)。本歌は「続詞花和歌集」(第一八四番歌)・「新後拾遺和歌集」(第三七二番歌)に載り、またこの話も「古今著聞集」の巻六や「十訓抄」第三にも載る知られたものではあるが、「淸輔の詠め給ひしも」というのは無理がある。せめて「俊綱の詠め給ひしも」なら意味が通るという気がする。]

「こゝろ」の最終回は今日

『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月11日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百十回

4年前の僕のブログの電子化テクスト――こんな暑い最中に人々はあの「こゝろ」の最終回に邂逅したのだった――

2014/08/10

何故か知れた

何か僕のブログに書くものが匂ったものか、先日から妻が一ヶ月のリハビリ入院をしていることを言っていないのに、教え子諸君からお誘い急増。淋しいやぶちゃんとしては、すこぶる嬉しい限り――

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 能見堂(二)

此地望む所の勝景は。故(ことさ)らに記者の禿筆を勞するを要せす。古人已に之を叙せり。何如か形容したるか。如何か嘆賞したるか請ふ左に載する所を見よ。

[やぶちゃん注:以下の太宰春台の「湘中紀行」は底本では一字下げポイント落ち。]

太宰純湘中紀行云、上是山金澤、諸勝如ㇾ畫、金澤者海曲之名也、南西北皆山、而東連滄溟、近浦多島嶼一、神祠曰迫門一、水西佛寺曰稱名、在水北大寧、在水南皆名區也、野人之業漁農相半、亦有畦鹺戸、潮水盈虛、且暮異ㇾ景、況四時乎、凡此皆擲筆所下見、山僧指點示ㇾ之也、若夫平臨之、則海東總房諸山如ㇾ黛、萬里征帆、縹渺乎煙浪間、美哉景也、我輩留連移ㇾ時、猶未レ能レ究其十一、巨勢之畫不ㇾ成、豈不信哉、

安藤煥圖遊相紀事云、大概右ㇾ山左ㇾ海、海中島嶼無數、大者爲夏島野島、小而如落帽帽子島、而海水入山間、縱横爲ㇾ港、橋通迫間、迫門前突出海渚、鬱然者洲崎天女祠也、山皆如蟻蛭、樹如薺苹、宛然一幅輞川圖也、假令右丞當金岡世、亦當ㇾ擲其筆否、雖ㇾ然彼以擲筆不ㇾ朽、其爲不擲也大矣哉、澤元愷漫遊文草云、登擲筆之山以眺焉、濃淡布置、豈造物者之學虎頭耶、金岡之擲筆寔墨宜矣哉、

[やぶちゃん注:「太宰純」太宰春台(これは号)の本名。「じゆん(じゅん)」。

 以下、我流で書き下す。

 

太宰純「湘中紀行」に云はく、『是の山に上り金澤を望むに、諸勝、畫のごとく、金澤は海曲の名なり。南・西・北、皆、山、而して東は滄溟に連なり、近き浦は島嶼多し神祠は迫門を曰ふ。水西、佛寺在りて稱名と曰ひ、水北に在るは大寧と曰ふ、水南に在るは、皆、名區にして、野人の業、漁農相ひ半ばす。亦、畦鹺戸(けいさこ)在り、潮水盈虛(えいきよ)、且つ、暮の景は異れり。況んや四時をや。凡そ此れ皆、擲筆、下に見ゆるの所なり。山僧、指點して之を示すや、若しくは夫(そ)れ、臨之(りんし)の平らかにして、則ち、海、東は總房の諸山、黛(まゆずみ)のごとく、萬里征帆、煙浪の間に縹渺とすか。美しきかな景や、我れらが輩、留め連ねて時を移し、猶ほ未だ其十一を究めんことを能くせざるがごとく、巨勢の畫、成らずとは、豈に不信ならんや。』と。

 

「滄溟」青海原。大海。

「迫門」既注。瀬戸明神のこと。「新編鎌倉志卷之八」の「瀨戸明神」に、『瀨戸〔或作迫門(或は迫門に作る)。〕』と割注する。

「名區」古くから知られた地域の謂いか。

「畦鹺戸」これは恐らく塩田のことと思われる。

「潮水盈虛」月の満ち欠けに伴う潮干。

「臨之の平らかにして」之に臨むに及んで景観はあくまで穏やかにして、という謂いか。

「總房」房総半島。

「黛」黒ずんだ青色。

「其十一」不詳。十に一つもの謂いか?

「豈に不信ならんや」反語である。

 

 以下、二段目をやはり我流で書き下す。

 

安藤煥圖(くわんと)「遊相紀事」云はく、『大概、山を右にし、海を左にす。海中、島嶼無數、大なるは夏島と爲し、野島と爲す。小にして落ちたる帽のごときは帽子島と爲す。而して海水、山間に入りて、縱横、港と爲し、橋、迫間に通ず。迫門の前、海渚に突出して、鬱然たるは洲崎が天女の祠なり。山、皆、蟻蛭のごとく、樹、薺苹一のごとし。宛然として一幅の輞川が圖なり。假令(たとひ)、右丞、金岡が世に當りて、亦、當(まさ)に其の筆を擲うつべきや否や、然りと雖も、彼、擲筆を以つて朽ちざる、其れ、不擲(ふてき)と爲すや、大なるかな。

澤元愷(たくげんがい)「漫遊文草」に云はく、擲筆の山に登りて以つて眺む。濃淡の布置、豈に造物の者の虎頭に學ぶや、金岡の擲筆、寔(まこと)に墨、宜しきかな。』と。

 

「安藤煥圖」安藤東野(とうや 天和三(一六八三)年~享保四(一七一九)年)のこと。江戸時代中期の儒者。下野の出身。本姓は大沼、名は煥図(かんと)。字は東壁。通称、仁右衛門。荻生徂徠の最初の頃の弟子で蘐園(けんえん:徂徠の別号で彼の塾の名。)学派の勢いをたかめた。のち柳沢吉保に仕えた。詩文に優れ、没後に「東野遺稿」が刊行された。</