今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 52 酒田 あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ
本日二〇一四年八月 四日(陰暦では二〇一四年七月九日)
元禄二年六月十九日
はグレゴリオ暦では
一六八九年八月 四日
である。この前日に芭蕉一行は象潟から酒田の医師伊藤玄順(号淵庵不玉)方へ戻った。
あつみ山や吹浦(ふくうら)かけて夕すゞみ
あつみ山吹浦かけて夕すゞみ
[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の句形。但し、そこでは酒田到着最初の発句のように記されてある。「曾良俳諧書留」には、
出羽酒田伊藤玄順亭にて
と前書した不玉と曾良との三吟歌仙「あつみ山や」の巻が載る。脇は不玉が付けて、
温海山や吹浦かけて夕すゞみ 翁
みるかる磯にたゝむ帆筵 不玉
としている。「継尾集」では
江上之晩望
と前書する。「出羽 俳諧袖の浦」(淇水編・明和二(一七六五)年自跋)には、
袖之浦江上納涼
とあって、本句が酒田湊に船を浮かべての夕涼みの広角の景であることが分かる。因みに「梟日記」(支考編・元禄十一年奥書)では、本句について、
此句は吹浦の二字うれしければかく申され侍しを、此ごろなにがしが集には、福浦かけてと出し侍り。是俳諧をしらぬのみにあらず。先師をあやまるにちかし。
と漢字一字の誤りを激しく批難しているが、この『なにがしの集』とは「鳥之道集」(玄梅編・元禄一〇(一六九七)年序)である。蕉門随一の論客と言われた支考は実は芭蕉から信頼されておらず、対するこの玄梅は芭蕉の絶大な信頼を受けていた去来に近かった人物ではなかったかと思われている。
「温海山」(あつみやま)は現在の温海岳(標高七三六メートル)。酒田の港からは南南西約三九キロメートル(この後の六月二十六日にはこの山麓の海沿いの町である温海に芭蕉は宿泊している)のところに位置し、一方の「福浦」は北北東一〇キロメートルのところにある砂浜海岸の漁村(こちらはこの前の六月十五日に象潟に向かう途中で一泊した場所である)。地図上から考えると全景を広角で見渡せたと言うのは少し疑問で、ここは既に宿泊予定地としていた温海という地名に「暑(あつ)」さを掛け、吹浦には実景たる夕べの納涼の酒田湊の浦を吹く風を掛け、それらを合わせて縁語とした、大観に寛ぎの気分を詠んだものではある。支考が大上段に嚙みつくほどの句ではない。芭蕉も草葉の蔭で笑っておられよう。]
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