今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 60 市振 一つ家に遊女もねたり萩と月
本日二〇一四年八月二十六日(陰暦では二〇一四年八月二日)
元禄二年七月 十二日
はグレゴリオ暦では
一六八九年八月二十六日
である。この日、芭蕉は市振に着いた。
一つ家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月
一つ家に遊女も寢たり荻(おぎ)と月
一つ家に遊女も寢たり萩(はぎ)に鹿(しか)
[やぶちゃん注:前の項で述べた通り、諸資料から推すと、物語仕立ての異例の、話柄そのものの虚構性が喧しい「奥の細道」の当段本文は勿論のこと、本吟も実際のこの日の市振での即吟ではなく、旅を終えて「奥の細道」本文を書いた折りの作であろうと多くの研究者は指摘している。しかし、そんなことは何の意味もないことである。紀行だろうが随筆だろうが小説だろうが(そもそも当時、今のような虚実認識に立った近代文芸上の息苦しい画然とした区別は存在しない)総てそれは物語りである。芭蕉が実際に遊女らに逢ったかどうかという刑事染みた聴き込み捜査をする必要は文芸として味わうためには寧ろ、致命的な強毒として作用する。但し、私は事実ここに書かれたものに近い遊女との邂逅がこの旅の何処かで実際にあったと考えている。そう考えてこそ/のみこの話は我々の印象の中で忘れ難いリアリズムを持つからである。そう考えずにこの章段の虚構性を殊更に論う輩は、句を含めた本文を味わう資格を最早、永遠に喪失する者だと言わざるを得ない。敢えて言うならこのこのシークエンスは、以前に検証したようにここまでの芭蕉の越後路の実際は忘れてしまいたい不本意にして不快な現実体験(風体の乞食俳諧僧と胡散臭く思われて宿を断られ、後から芭蕉と知れれば手を返したようにすり寄ってくるといった凡俗の態度に接したこと)の多いものであったと考えられ、さればこそ、その事実を拭い去ってしまい、自身の思い出の、昇華された「奥の細道」の旅を、かくも濃厚に演出したのだと言い換えてもよい。
第一句目は「奥の細道」の知られた句形。
第二句目は「泊船集」の句形。但し、何人かの研究者はこれを異形句とせずに単なる「萩」を「荻」の誤字とする。底本の岩波文庫版中村俊定校注「芭蕉俳句集」には本文は勿論、脚注にも載せない。中村氏は完全に「泊船集」のそれを誤伝としているものと思われる。私は後述する理由からこれを異形句として掲げておく。私はこの句と「曾良俳諧書留」の市振の時間帯(無論、本句は載らない)のすぐ前に記されてある、前項で記した、高田での、
薬欄にいづれの花をくさ枕 翁
荻のすだれをあげかける月 棟雪
の医師細川春庵棟雪)のつけた脇句が気になって仕方がないのである(これを指摘している方は管見する限り、誰もいないので、猶更気になるのである。私は気にしない方がおかしいと思うからである)。この荻は荻で出来た簾ではある、しかし芭蕉の意識の中にはこの棟雪の「荻」と「月」という取り合わせを生かしたい意識が沈殿したのではなかったとは言えない。私は敢えて言うなら寧ろ、カラーで撮る「市振の段」の「萩と月」よりも、もの寂びたモノクロームの「市振」の段を撮りたい。そうしてその時私の好みとしてはあからささまに艶なる色を感じさせる「萩と月」よりも「荻と月」の映像を選びたく思うのである。少なくともそうした私の「市振の段」のフィルムの印象の中では「荻と月」も十分に資格を持った句として認識されるのである。次の第三句の解説も参照されたい。
第三句目は「芭蕉句選年考」(石河積翠著・寛政年間(一七八九年~一八〇一年)成立)に『或本に萩に鹿ともあり』と記されあるものから復元した。この第三句目は頴原退蔵・尾形仂訳注の角川文庫版「おくのほそ道」の発句評釈の注記データではこの句形を『疑問』として否定的であるのに対し(実はこの句の直後に示された出典その他の注記部分は尾形氏によって後から追加されたもので、頴原氏の研究を後継して本初を改訂した尾形氏はこの第三句目を明らかに存疑の句とし、捏造された可能性が強いと考えていることを示唆する謂いとしか読めない)、後掲するように恐らくは頴原氏の手になると思われる発句評釈中では当「萩に鹿」が初案であった可能性を強く示唆する叙述となっている(時間を置いて二人の研究者が携わったことによる齟齬で、これについては冒頭の凡例で尾形氏も別な箇所については断っているのであるが、読む者は頗る戸惑わざるを得ない強い違和感がある)。私は評釈本文の立場をとってこの句形を掲げておくこととする(底本の岩波文庫版には脚注に「句選年考」の記事を引用するのみで異形句としては本文採用をしていない)。評釈は遊女が「萩」に、芭蕉自身が「月」に象徴されるように思われたという通釈の後、以下のように続く。
《引用開始》
萩と月は実景であったろうが、この句の場合、それは実景としてよりも一種の比喩として重く見られねばならぬ。しかし単に遊女を芭蕉自身を月に喩(たと)えたというだけならば、談林風の見立てと相距(あいへだた)ること遠くはない。これは単純な、もしくは理知的な比喩や見立てとはちがう。萩と月とは、いわば遊女と芭蕉との「にほひ」である。楚々(そそ)として可憐(かれん)な萩の姿、清く世塵(せじん)を離れた月の光、それは眼前の景であると同時に、芭蕉の心には遊女と自分との相(そう)をそのま見ているのであった。萩と月とは実であり、また虚である。つまりこの句は、そうした芭蕉の心持からはいって味わうべきであろう。芭蕉自身を月の清光に擬したのはおかしいという考えもあろうが、この場合道徳的な反省などは加わっていない。ただ遊女の萩に対して、芭蕉は自分の世捨て人めいた境涯を、何となく素月の光に思いくらべたのであろう。
この句をかように解すると、おそらく今日の人々からは好感をもたれまい。たとえ萩と月とが「にほひ」を表わしたものにせよ、それが比喩的に取扱われているかぎり一種の臭味がある。だから萩と月とをまったく眼前の景物として見ようとする解もある。しかしそれは、樋口氏もいわれている通り、芭蕉時代の句としては正しい鑑賞のしかたではあるまい。『句選年考』に「ある本に」というのは出所が明らかでないが、とにかく、「萩に鹿」と伝えたものさえあるというのである。芭蕉が「萩と月」と置いたのは、けっして単なる景物のあしらいではなかった。もとより「萩に鹿」のままではあまりに露骨な比喩に終わるので、さらに推敲(すいこう)をかさねた結果、この句を得たのではあるまいか。
《引用終了》
因みに文中の「樋口氏」云々というのは昭五(一九三〇)年麻田書店刊「奥の細道評釈」とその著者樋口功氏のことである。私はこの解釈が支持されるとならば、寧ろ、第二句の「荻と月」は正当な句案の一つであった可能性がもっと支持されてよいと考えるものである。いや、例えば初案を「萩に鹿」とあからさまに見立ててその如何にもな『臭味』を避け、高田の棟雪の脇句で気に掛かっていた取り合わせの「荻と月」と改作してみたものの、その画像が如何にもな陰画なってしまい、艶が減衰するのを物足りなく思い、最初の印象を反芻して「萩と月」と決したとしても――そういう推敲過程があったと仮定しても何らおかしくない。
一つ家に遊女も寢たり萩に鹿
↓
一つ家に遊女も寢たり荻と月
↓
一つ家に遊女もねたり萩と月
いや、寧ろ、「市振の芭蕉」というショート・フィルムとしてはこの方が断然、面白いと私は思うのである――言っておくが私はアカデミズムの研究者ではない。だからこそ彼らが言いたくても言えない/本来言いたいはずの自由な愉しい夢想を飛ばすことが出来る。いや、本当の研究者というのはそういう文芸の享受の核心にあるはずのエクスタシーを失った時、最早、饐えた魂なき遺骸を掘る盗掘者に成り下がるのだと思う――。
以下、「奥の細道」の市振の段。
*
今日は親しらす子しらす犬もとり駒返し
なと云北國一の難所を越てつかれ
侍れは枕引よせて寢たるに一間隔て
面の方に若きをんなの聲二人計ときこゆ
年老たるおのこの聲も交て物語する
をきけは越後の國新潟と云處の
遊女成し伊勢に參宮するとて
此關まておのこの送りてあすは古里に
かへす文したゝめてはかなき言傳なと
しやる也白浪のよする汀に身をはふら
かしあまのこの世をあさましう下りて
定めなき契日々の業因いかにつた
なしと物云をきくきく寢入てあし
た旅たつに我々にむかひて
行末しらぬ旅路のうさあまり覺
束なう悲しく侍れは見えかくれに
も御跡をしたひ侍ん衣の上の御情
に大慈のめくみをたれて結緣せさ
せ給へとなみたを落す不便の
事には侍れ共我々は
所々にてとゝまる方おほし
唯人の行にまかせて行へし
神明の加護必つゝかなかるへ
しと云捨て出つゝあはれさ
しはらくやまさりけらし
一家に遊女もねたり萩と月
曽良にかたれは書とゝめ侍る
*
■異同
(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)
〇伊勢に參宮する → ●伊勢參宮する
○行末しらぬ旅路のうさ → ●行衞しらぬ旅路のうさ
○不便の事には侍れとも → ●不便(ふびん)の事には思ひ侍れども
■やぶちゃんの呟き
まさに壮大な連句「奥の細道」の巻の、特異点としての恋と月の座である。
本段は西行の江口(淀川と神崎川の交わる場所にあった川湊。現在の東淀川区内)の伝承を第一の本歌とする。「新古今和歌集」の「卷第十 羈旅歌」の第九七八・九七九番の問答歌がそれである(二首ともに多少の異同を含むが「西行法師家集」「山家集」にも所収する)。西行が天王寺詣の途次、にわか雨に遇ってこの江口の遊里で一夜の宿を望むも、女主人の舟遊女「江口の君」(妙(たへ))にすげなく断られるそこで西行は、
世の中を厭(いと)ふまでこそ難(かた)からめ仮りの宿りを惜しむ君かな
と詠むと、江口の君は、
世を厭ふ人とし聞けばかりの宿に心とむなと思ふばかりぞ
と返したという話である。
これは後の「撰集抄」で厚艶な西行伝説に改作される。これが第二の本歌。
遊女妙は和歌を返した後、宿内へと西行を迎え入れ、妙が遊女の苦界(くがい)を語り、出家を志す胸内を『しやくりもあへず泣』きつつ訴え、一夜懇ろに語り合って再会を約すも、客のあって訪れることが出来ず、互いに逢いたい思いを和歌で贈答するもそのまま時の経つうちに、遂に行方知れずとなって亡くなったと聴いた。『かの遊女の最期のありさま、いかゞ侍るべきと、かへすがへすゆかしく侍り』と終わる(引用は岩波文庫版一九七〇年刊西尾光一校注本を用いた)。
そうしてさらに、この「撰集抄」を元に創作された夢幻能「江口」が第三の本歌となる。行脚の二僧(ワキ・ワキツレ)が都から江口の里に来て西行の古歌を口ずさんで懐かしむ。と、里の女(前シテ)が呼びかけつつ現われて、西行と遊女との問答歌の真意を説く。訝る僧らに自らを「江口の君」の霊と告げて消え失せる。里の男が旅僧に遊女が普賢菩薩となって現れる奇瑞を語って供養を勧めると、旅僧らが弔いをする。すると江口の君の霊(後ジテ)が二人の遊女を連れて舟に乗って現われ、遊女の悲惨な身と六道流転の歎きを述べた後、悟りの舞を舞って、執着を捨てたならば迷いはないとする大悟を示して、遊女は普賢菩薩に、舟は白象となって西の空へ消えて去ってゆく。
冒頭のワキとワキツレの「次第」は、
月は昔の友ならば 月は昔の友ならば
に始まり、後ジテの「江口の君」の舟遊びの舞いの場面を中心に集中的(九回)に「月」が現れるが、この場合、この月が真如の月であることは言を俟たない。
これらをインスパイアした芭蕉は俳諧の象徴性により、静謐さと同時に濃艶な暗示の匂わせを施した。ここでの遊女と僧形の俳諧師芭蕉は、第一本歌に立っている西行のような小洒落たストイッシズムや教養に富んだ高級娼婦のそれでもなく、第二本歌の過剰にウェットで互いに接して漏らしそうな濃密さを孕んだ何やらん隠微なエロティシズム(を私は強く感じる)でもなく、第三本歌の荘厳にして私には異様にしか見えない菩薩化する遊女とそれを崇める供養僧のそれでも、これ、さらさらない。
萩と月――これはやはり、素直にそのままの自然の「萩と月」なのであり、萩に作為のない「女」という存在の匂いを、月にそれを照らす静かな芭蕉の「真如」ならぬ「女」を遂に忘却することの出来ぬ凡夫としての「男」としての芭蕉の「心」の影を、私は詠むのである。そういう象徴関係をここに感じてはいけないのだと殊更に禁忌の駄目出しをし続ける一部の諸家(結構いる)は俳諧の真の味わい方を寧ろ、御存じない方だと私は断ずるものである。少なくともその人の見ている萩と月は、私の見ている萩と月とは全く違う対象であり、彼我の世界は世界と反世界であり、全く断絶した永遠に理解し合えぬものである。
「曽良にかたれば書きとゞめ侍る」「随行日記」にも「俳諧書留」にも記載はない。参考までに「随行日記」の当日と翌日の記事を示して終わりとする。
○十二日 天氣快晴。能生ヲ立。早川ニテ翁ツマヅカレテ衣類濡、川原暫干ス。午ノ尅、糸魚川ニ着、荒ヤ町、左五左衞門ニ休ム。大聖寺ソセツ師言傳有。母義、無事ニ下着、此地平安ノ由。申ノ中尅、市振ニ着、宿。
○十三日 市振立。虹立。泊ニテ玉木村。市振ヨリ十四五丁有。中・後ノ堺、川有。渡テ越中方、堺村ト云。加賀ノ番所有。出手形入ノ由。泊ニ至テ越中ノ名所少ゝ覺者有。入善ニ至テ馬ナシ。人雇テ荷ヲ持せ、黑部川ヲ越。雨ツヾク時ハ山ノ方ヘ廻ベシ。橋有。壹リ半ノ廻リ坂有。晝過、雨聊降晴。
申ノ下尅滑河ニ着、宿。暑氣甚シ。]
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