『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 金澤 附 吉田兼好舊跡
●金澤
金澤は。武藏國久良岐郡の東南端にあり。もと六浦莊(むつらしやう)の内なり。地の海に浸する數里。其の觜を野島といふ海の涯を洄る亦數里其の濱を君崎(きみさき)といふ。地と海と相抱(あひだき)て。壽字の體勢を爲す。其の浸即ち金澤(かなさは)にして。其の洄即ち六浦なり。兼好の家集に。武藏國金澤と云所に。昔し住し家にて月を見てよめる云歌あり。かゝれは兼好も嘗てこゝに住みたることありと見えたり。金澤はもと瀨戸橋より東の稱なりとそ。後世は八景の在る處を概稱(がいせう)せり。
[やぶちゃん注:「かゝれは兼好も嘗てこゝに住みたることありと見えたり」底本では「住たるたる」とあるが衍字と断じて除去した。
「浸する」「しんする」と音読みしているか。海水につかる、没するの意。
「觜」は「はし」と読む。尖端。
「洄る」「めぐる」と読む。
「君崎」現在の平潟湾奥の金沢八景駅附近から称名寺方向に向かった砂浜海岸。現在、横浜市金沢区谷津町、金沢文庫駅東北直近に君ケ崎稲荷神社がある。ここは現在の海岸線(海の公園)からは凡そ一・二キロメートルも離れているが、古く(江戸時代の泥亀新田の干拓事業以前。開拓後もしばしば洪水や台風によって海岸域は浸水した)はこの辺りが岬の突端であったものと思われる。本書の頃の海岸線も現在のそれよりも有意に西にあったものと考えてよいであろう。
「壽字の體勢」「壽」の字体のような地形を成している。入り江が深く入り込みながら、海に突き出す陸部がその左右に堤のように挟まるという入り江構造が複数重なってあったことを意味している。現在の状態からはちょっと想像が出来ない。
「浸」ここは「シン」と音読みし、以上述べた北方の入り江が浸すところの最奥の地が金沢である、という謂いであろう。
「洄」ここはやはり「クワイ(カイ)」と音読みし、以上述べた南部から北部への大観した大きな陸の廻る部分が六浦である、という謂いであろう。
「兼好の家集に……」余り認識されているとは思われないが、かの「徒然草」の作者卜部兼好は若き日に少なくとも二度、鎌倉・六浦を訪れており、代十五代執権(但し、十日で辞任)となる前の北条貞顕と親交を結んでいることが知られている。「新編鎌倉志卷之八」には、
〇金澤〔附吉田兼好舊跡〕 金澤(かなざは)は、武藏の國六浦庄(むつうらのしやう)の内なり。兼好が家の集に、武藏の國金澤と云(いふ)所に、昔し住みし家(いへ)にて、月を見てよめると云歌あり。然らば兼好、遁世の後暫く此所に居たるとみへたり。今其舊跡さだかにしれる人なし。又【徒然草】に、甲香、此浦より出づ。所の者はへなだりと云と書けり。【野槌(のづち)】に、今金澤にて尋ねれば、ばいと云、又つぶとも云ふとあり。又昔し唐船のつきたる時、唐猫(からねこ)を載來(載せ來る)。故に今に金澤の唐猫とて名物なり。此事【梅花無盡藏】にも見へたり。
とある。ここでは「今其舊跡さだかにしれる人なし」とするが、一説に六浦の上行寺境内(現在の上行寺東やぐら群の遺跡附近とも)に庵を結んだとも伝えられている。「兼好家集」第七十六番歌にある、
武藏の國金澤といふところに、むかし住みにし家の
いたう荒れたるにとまりて、月あかき夜
ふるさとの淺茅が庭の露のうへに床は草葉とやどる月かな
〇やぶちゃんの現代語訳
古き変わらぬ里山……かつて誰ぞの住みなした家……今は人も絶えて……その荒れ果てた庭の葎の葉に置く露の上――
『……わたしの寝床は……この草葉……』
とでも言うが如く……いつに変わらぬ月が……そこに輝き宿っていることよ……
は、正にこの時の滞在の(恐らくは最初の下向の)折りの吟詠と考えられている。]
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