『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 筆捨松
●筆捨松
ふですて松。文人之を擲筆松といふ。舊能見堂の前に存在せる老松なり。離奇夭矯愛すべし。相傳ふむかし巨勢金岡此地の勝景を畫(ゑが)かむとて。筆を把(と)りしが。風光の美妙なる爲め。眞況を寫す能はず終(つひ)に筆を此の松下(まつした)に投して。背後に驚倒せりといふ。因てこの稱あり。
登々匍匐路攀ㇾ高 景集大成忘二却勞一
秀水奇山雲不ㇾ裹 畫師絶倒擲二秋毫一
萬里居士
涼しさや折ふし是はと筆捨松 西山 宗因
ゆつりてよ筆捨松に蟬の聲 同
[やぶちゃん注:「把りしが」底本では「把りが」。脱字と断じて補った。萬里居士(集九)「梅花無尽蔵」の七言絶句の転句の「裹」は底本では「裏」であるが、訂した。巨勢金岡とその伝承については既に前の「能見堂」の注で示しているので参照されたい。
「離奇夭矯」「りきようきやう(りきようきょう)」と読む。「離奇」は奇怪、「夭矯」は曲がりくねったさまであるから、老松の曲がりくねって尋常ならざる奇体な樹容を言っているものと思われる。
漢詩は前に示したが、「新編鎌倉志卷之八」の書き下しには一部、疑問があるので改めて訓読し、注する。原本の最後の後書きの割注「畫師擲筆之峰」も附加した。
登々(とうとう) 匍匐(ほふく) 路(みち) 高きに攀(よ)づ
景 集めて大成し 勞(らう)を忘却す
秀水 奇山 雲は裹(つつ)まず
畫師 絶倒して 秋毫(しうがう)を擲(なげう)つ
〔畫師(ぐわし)擲筆(てきひつ)の峰(みね)。〕
「登々」坂を登りに登るさま。
「景 集めて大成し」眺望の中にある無数の個々の景色が一つに集められて、スケールの大きな一景として自ずから完成していることを言う。
「秋毫」(秋に伸びた獣の細い毛で作った)筆。
「ゆつりてよ筆捨松に蟬の聲」「江戸名所図会」の「筆捨松」の条には、
ゆづりてよ筆捨松に蟬の吟
とある。諸資料、「聲」とするものも多いようだが、「ゆづりてよ」という上五を受けるのなら断然、「吟」であろう。そうでないと諧謔が生きてこない。
最後に。
これは能見堂と筆捨松を遠望した広重作の嘉永六(一八五三)年「武相名所手鑑」の「従能見堂金沢八景一覧 其一」である。]
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