今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 63 金沢 あかあかと日は難面もあきの風
本日二〇一四年八月三十一日(陰暦では二〇一四年八月七日)
元禄二年七月 十七日
はグレゴリオ暦では
一六八九年八月三十一日
である。以下の句は「奥の細道」では途中吟として、七月二十四日の金沢を発って小松に向かった折りの嘱目吟として出るが、これは全くの虚構で、現在はこの金沢滞在(七月十五日到着で九泊した)の三日目、立花北枝亭で創られたとほぼ推定されてある(荻野清氏の説に拠る)。
あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風
[やぶちゃん注:「奥の細道」金沢の段。
真蹟に、
旅愁慰め兼て、もの憂き秋もやゝ至りぬれ
ば、さすがに目に見えぬ風の音づれも、い
とゞ悲しげなるに、殘暑猶(なほ)やまざ
りければ
あかあかと日はつれなくもあきの風
と長い前書をするものが残り(曾良の「雪まろげ」もほぼ同文)、芭蕉自身会心の作と認識していたらしく、五種の真蹟が現存する。その内の二種の前書を以下に示しておく。
北國行脚の時、いづれの野にや侍りけむ、
暑さぞまさるまさる、とよみ侍りし撫子の
花さへ盛過行比(さかりすぎゆくころ)、
萩・薄に風のわたりしを力に、旅愁を慰め
侍るとて
北海の磯傳ひ、眞砂(まさご)は焦れて火
のごとく、水は沸(わき)て湯よりも熱し。
旅懷心をいたましむ。秋の空幾日(いくか)
に成(あなる)ぬとおぼえず
この「奥の細道」の「難面」という用字は新在家文字(しんざいけもじ)といって、「迚(とて)」「社(こそ)」「梔(もみじ)」「不知黒白(あやめもしらず)」など、室町以降、連歌に多く用いられた特殊な用字である(新在家という呼称は連歌師などが多く住んでいた京の地名に由来する)。
この句は、謂わば芭蕉の俳諧の季詞(きのことば)に対する根源的な疑義と、その皮肉として私には響く。
――暦の上では秋である……しかし炎熱の陽光はそれを一向知らぬげに私(我が面(つら)をとしてもよい)にあかあかとぎらつきながら射刺して来る……だが……同時にその季も知らぬ顔の厳しい陽射しを裏切るように……夕暮れのこの今――ふっと――秋草の広がる野の彼方からもの侘しい秋の風が――さっと――私の頰を過ぎった――
山本健吉氏は「芭蕉全句」の評釈で、『季感の上の齟齬(そご)に想を発した古歌として藤原敏行の』(「古今和歌集」第一六九番歌)、
秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる
『があり、芭蕉のこの句の想においてつながっている』と述べておられる。山本氏の謂いに水を差すわけではないが、これは実は別な芭蕉の真蹟の前書で、
めにはさやかにとといひけむ秋立つけしき、
薄かるかやの葉末にうごきて、聊昨日に替
る空のながめ哀なりければ
と、インスパイアを芭蕉自身が明らかにしている事実である。
なお、思うところあれば、「奥の細道」原文は次の「秋涼し手毎にむけや瓜茄子」そのまた次の「塚も動け我泣声は秋の風」に出だすこととする。]
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