『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 能見堂(二)
此地望む所の勝景は。故(ことさ)らに記者の禿筆を勞するを要せす。古人已に之を叙せり。何如か形容したるか。如何か嘆賞したるか請ふ左に載する所を見よ。
[やぶちゃん注:以下の太宰春台の「湘中紀行」は底本では一字下げポイント落ち。]
太宰純湘中紀行云、上二是山一望二金澤一、諸勝如ㇾ畫、金澤者海曲之名也、南西北皆山、而東連二滄溟一、近浦多二島嶼一、神祠曰二迫門一、在二水西一佛寺曰二稱名一、在二水北一曰二大寧一、在二水南一皆名區也、野人之業漁農相半、亦有二畦鹺戸一、潮水盈虛、且暮異ㇾ景、況四時乎、凡此皆擲筆所二下見一、山僧指點示ㇾ之也、若夫平二臨之一、則海東總房諸山如ㇾ黛、萬里征帆、縹二渺乎煙浪間一、美哉景也、我輩留連移ㇾ時、猶未レ能レ究二其十一一、巨勢之畫不ㇾ成、豈不信哉、
安藤煥圖遊相紀事云、大概右ㇾ山左ㇾ海、海中島嶼無數、大者爲二夏島一爲二野島一、小而如二落帽一爲二帽子島一、而海水入二山間一、縱横爲ㇾ港、橋通二迫間一、迫門前突二出海渚一、鬱然者洲崎天女祠也、山皆如二蟻蛭一、樹如二薺苹一、宛然一幅輞川圖也、假令右丞當二金岡世一、亦當ㇾ擲其筆否、雖ㇾ然彼以二擲筆一不ㇾ朽、其爲二不擲一也大矣哉、澤元愷漫遊文草云、登二擲筆之山一以眺焉、濃淡布置、豈造物者之學二虎頭一耶、金岡之擲筆寔墨宜矣哉、
[やぶちゃん注:「太宰純」太宰春台(これは号)の本名。「じゆん(じゅん)」。
以下、我流で書き下す。
太宰純「湘中紀行」に云はく、『是の山に上り金澤を望むに、諸勝、畫のごとく、金澤は海曲の名なり。南・西・北、皆、山、而して東は滄溟に連なり、近き浦は島嶼多し。神祠は迫門を曰ふ。水西、佛寺在りて稱名と曰ひ、水北に在るは大寧と曰ふ、水南に在るは、皆、名區にして、野人の業、漁農相ひ半ばす。亦、畦鹺戸(けいさこ)在り、潮水盈虛(えいきよ)、且つ、暮の景は異れり。況んや四時をや。凡そ此れ皆、擲筆、下に見ゆるの所なり。山僧、指點して之を示すや、若しくは夫(そ)れ、臨之(りんし)の平らかにして、則ち、海、東は總房の諸山、黛(まゆずみ)のごとく、萬里征帆、煙浪の間に縹渺とすか。美しきかな景や、我れらが輩、留め連ねて時を移し、猶ほ未だ其十一を究めんことを能くせざるがごとく、巨勢の畫、成らずとは、豈に不信ならんや。』と。
「滄溟」青海原。大海。
「迫門」既注。瀬戸明神のこと。「新編鎌倉志卷之八」の「瀨戸明神」に、『瀨戸〔或作迫門(或は迫門に作る)。〕』と割注する。
「名區」古くから知られた地域の謂いか。
「畦鹺戸」これは恐らく塩田のことと思われる。
「潮水盈虛」月の満ち欠けに伴う潮干。
「臨之の平らかにして」之に臨むに及んで景観はあくまで穏やかにして、という謂いか。
「總房」房総半島。
「黛」黒ずんだ青色。
「其十一」不詳。十に一つもの謂いか?
「豈に不信ならんや」反語である。
以下、二段目をやはり我流で書き下す。
安藤煥圖(くわんと)「遊相紀事」云はく、『大概、山を右にし、海を左にす。海中、島嶼無數、大なるは夏島と爲し、野島と爲す。小にして落ちたる帽のごときは帽子島と爲す。而して海水、山間に入りて、縱横、港と爲し、橋、迫間に通ず。迫門の前、海渚に突出して、鬱然たるは洲崎が天女の祠なり。山、皆、蟻蛭のごとく、樹、薺苹一のごとし。宛然として一幅の輞川が圖なり。假令(たとひ)、右丞、金岡が世に當りて、亦、當(まさ)に其の筆を擲うつべきや否や、然りと雖も、彼、擲筆を以つて朽ちざる、其れ、不擲(ふてき)と爲すや、大なるかな。
澤元愷(たくげんがい)「漫遊文草」に云はく、擲筆の山に登りて以つて眺む。濃淡の布置、豈に造物の者の虎頭に學ぶや、金岡の擲筆、寔(まこと)に墨、宜しきかな。』と。
「安藤煥圖」安藤東野(とうや 天和三(一六八三)年~享保四(一七一九)年)のこと。江戸時代中期の儒者。下野の出身。本姓は大沼、名は煥図(かんと)。字は東壁。通称、仁右衛門。荻生徂徠の最初の頃の弟子で蘐園(けんえん:徂徠の別号で彼の塾の名。)学派の勢いをたかめた。のち柳沢吉保に仕えた。詩文に優れ、没後に「東野遺稿」が刊行された。
「遊相紀事」安藤東野の紀行文。
「洲崎が天女の祠」瀬戸弁財天(後掲)のことを指している。
「蟻蛭」「ぎてつ」「ぎしつ」「ぎしち」などと読むか。アリとヒル。先に出た「螻蟻」(ケラとアリ)と同じく、小さくて取るに足りないものの譬えであろう。
「薺苹」ナズナとヨモギ。やはり小さくて取るに足りないものの譬えであろう。
「宛然」そっくりそのまま。まさに。
「一幅の輞川が圖」輞川図巻のこと。盛唐の詩人王維の別荘輞川荘を描いた図巻。盛唐の詩人王維は陝西の藍田に別荘輞川荘を営み、画家として自ら壁画輞川図を描いたが、五代以後になると、王維の詩を基にして、その輞川二十景の名数を描いた横巻形式の輞川図が盛んに制作された。
「澤元愷」平沢旭山(きょくざん 享保一八年(一七三三)年~寛政三(一七九一)年)は江戸中期の儒者。山城出身。本姓は山内、字は俤侯、通称は左門・茂助・五助などと称した。江戸昌平黌の林家に入門、入退塾を繰り返した後、片山北海に学び、一時、蝦夷松前藩主松前道広に仕官。荷田在満に律令を学び、仏教にも通じていたとされる。生涯に文章三千編を書いたといわれ、文章家としても知られている。
「豈に造物の者の虎頭」不詳。中国では虎は百獣の王であるから、天然自然の造物主たるものの、万能の自然の造形たる者の謂いか。]