『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 金龍院
●金龍院
金龍院は。瀨戸明神の前を過ぎ。南に折れて行けは左に標石あり。八景一見之地飛石と題せり。東行すれは門あり。昇天山〔成拙書〕の額を掲け。久良岐橘樹両郡八十八ケ所の靈地第五十九番金龍院と貼表(てうへう)せり。門内左に草葺の堂宇あり。此に金龍禪院と扁額す。弘化三丙午夏五月墨齋元鼎の書する所。當寺は建長寺に屬し。本尊は正観音(せうくわんおん)にして。開山を方崖元圭和尚とす。
○飛石 寺の東園に在り。もと山上に峙ちしが。地震の爲めに轉墜(てんすゐ)し。今は平地に臥(ぐわ)せり。常に葦索(しめ)を張り。上に小石祠を安す。高さ一丈餘(よ)。廣さ九尺餘。むかし伊豆の三島明神此石上に飛移り給ひしといひ傳ふ。金澤四石の一なり。四石は飛石、福石、美女石、姥石をいふ。
[やぶちゃん注:臨済宗建長寺派昇天山金龍禅院。永徳年間(一三八一年~一三八四年)の創建と伝え、山号は古えに本寺で硯の中から龍が昇天したことに由来するという。
「八景一見之地飛石」現存。「八景島旅行
クチコミガイド」の「金龍院(横浜市金沢区瀬戸)」で画像が見られる。
「成拙」不詳。
「久良岐」既注。旧武蔵国の郡。明治一一(一八七八)年に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の横浜市中区・南区・西区・磯子区・金沢区の全域、及び南区の大部分(六ツ川四丁目を除く)、港南区の一部(芹が谷・東芹が谷・上永谷・下永谷・東永谷・丸山台・日限山・上永谷町・野庭町の各町を除いた地域)に相当する(ウィキの「久良岐郡」に拠る)。
「橘樹」これで「たちばな」と読む。旧武蔵国の郡。前注と同じ期に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の横浜市鶴見区・神奈川区、西区の一部(同年に設置された横浜区に属した区域を除く)、保土ケ谷区の一部(上星川・川島町以北及び今井町を除く)、港北区の一部(新羽町・北新横浜・新吉田東・高田東・高田町以西を除く)、川崎市川崎区・幸区・中原区・高津区・宮前区・多摩区の全域、麻生区の一部(金程・高石・百合丘・東百合丘以東)に相当する(ウィキの「橘樹郡」に拠る)。
「金龍禪院と扁額す。弘化三丙午夏五月墨齋元鼎の書する所」「弘化三」年は西暦一八四六年。「墨齋元鼎」は不詳。同じく「八景島旅行
クチコミガイド」の「金龍院(横浜市金沢区瀬戸)」で画像が見られる。
「方崖元圭」建長寺第四十七世住持。
「飛石」本来の背後の山上にあった際の記述である「新編鎌倉志卷之八」では、
飛石 寺の後(うしろ)の山にあり。高さ一丈餘、廣さ九尺餘あり。三島の明神、此石上に飛び來りと云傳ふ。
とある。「一丈餘」四・五四メートル、「九尺餘」二・七三メートル。本記載通り、元は背後の山腹にあったが、文化九(一八一二)年十一月の関東地方に発生した大地震によって現在位置に落下したものと伝えられている。落下はしたものの、それ自体の大きな欠損はないことが分かる。現在はシダ類が繁茂し、石の正確な形状はよく見えない。
「金澤四石の一なり。四石は飛石、福石、美女石、姥石をいふ」「福石」は先の「瀨戸辨財天」に出た。「美女石」「姥石」は「称名寺」に後掲される(姥石はせず)。]
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