今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 56 風かほるこしの白根を國の花
本日二〇一四年八月十五日(陰暦では二〇一四年七月二十日)
元禄二年七月 一日
はグレゴリオ暦では
一六八九年八月十五日
風かほるこしの白根(しらね)を國の花
[やぶちゃん注:「柞原集」(ははそはらしゅう・句空・元禄五年奥書)に載る。底本巻頭には、
春なれやこそのしら根を國の花
此句、芭蕉翁一とせの夏越路(コシジ)行脚の時、五文字「風かほる」と置てひそかに聞え侍るを思ひ出て、卒尓に五もじをあらたむ
と句空が附記しているとあり(「卒尓」は「そつじ」で卒爾に同じ。軽率にも、でこの「春なれや」という改変が句空によるもの――芭蕉の句ではないことが告白されているのである点に注意されたい)、「蕉句後拾遺」(康工編・安永三(一七七四)年自序)には、
加賀へ文通に
と前書する。
この最後の前書と、怪しげな句空の改作行為から見て、少なくとも本句は金沢に着く前、旅先から加賀の句空宛に記された私的な書簡中の挨拶句であった可能性が高い。特にこの日に配する理由はないが、間隙が有意に空くのを避けたいので今日に配しておく。寧ろ、加賀に近づいてしまったのでは句の感懐は半減してしまう感ずるからでもある。以下に述べるように私の日時比定は必ずしも見当違いとは思っていない。
「こしの白根」越の白嶺。霊峰加賀白山の古称。現在の石川県白山市と岐阜県大野郡白川村に跨る。標高二七〇二メートル。標高が高いために他の山で残雪が消えた季節でもあっても雪を被ったその峰が遠方からでもはっきりと見える。それが目立って白くなった越の白嶺というは北陸路に晩秋が訪れた象徴でもある。芭蕉が実際に金沢に入ったのは旧暦七月十五日で秋の季感としてはぴったり一致するということに着目すべきであろう(但し、これは暦上のことで句空自身が芭蕉の来訪を『一とせの夏越路行脚の時』と言っているように、当時にあっても実感は夏であったのである)。しかもこの句が村上でのものならばまさに秋の始まりでである七月一日である点でも句作の季が極めて一致もするのである。無論、加賀藩領内に入らぬ限り白山は見えないから、この句は以上の推理から想像句であることが判明する。そうして先行する月山での芭蕉の句、「有難や雪をかひらす南谷」に即して考えれば、ここで「風かほる」のはまさに越の白嶺を象徴する白峰から吹き下してくる「雪」を「かほ」らせて吹き渡る「風」と読める。そしてその雪をいただく神聖霊妙な偉容の山を芭蕉は加賀の「國の花」と讃えているのである。そうしてその想起された「國の花」たる白山は、そのまま挨拶をした風雅の「國の花」たる句空をも指し、白嶺から吹き降ろす秋の雪薫る涼風とともに貴方にお逢い出来るのを心待ちにしています、という挨拶吟へと転じているのである。
以上を記すに大いに参考になった山本健吉氏の「芭蕉全句」の評釈は、『句空が初五「春なれや」と改めたのは、祝賀の句に仕立て直したものか。愚かなことである』と結んでおられるが、同感である。季感を無視した捏造に等しいものである。尤も、金沢の平民であった俳人句空は生没年不詳ながら、「朝日日本歴史人物事典」によると元禄元(一六八八)年四十一、二歳の頃に京都知恩院で剃髪、金沢卯辰山の麓に隠棲し、翌年のこの時、芭蕉が金沢を訪れた際に正式に入門、同四年には大津の義仲寺に芭蕉を訪ねている。五部の選集を刊行している俳壇的野心は全くなく、芭蕉に対する敬愛の念は非常に深く、宝永元(一七〇四)年に刊行した「ほしあみ」の序文では芭蕉の夢を見たことを記しているとあるから、一種熱狂的な芭蕉の弟子の一人であったものと思われ、こうした恣意的な改造も彼にとっては芭蕉との一体感を味わえるものででもあったのであろう。]
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