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2014/08/20

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 瀨戸明神社

  ●瀨戸明神社

瀨戸明神は。瀨戸橋より西へ一町ばかり。海道の右側に在り。大山祇命を祀る。社傳には。賴朝公治承四年四月四日に。伊豆三島の明神を勧請し給ふといへり。然れとも公の鎌倉に入りしは。治承四年十月六日なりしよし。東鑑に見えたれは。建立はそれより後のことなるべし。社(やしろ)の西にもと神官(じんかん)千葉氏の家あり。鉋(かんな)を用ゐさる以前に營造せしものとて。名高かりしが。今は廢絶せり。

境内に蛇混柏(じやびやくしん)と稱する枯木あり。延寶の暴風に吹倒(ふきたほ)され。地上に横臥(わうぐわ)し。枝皮剝盡し。堅硬石の如く。木理亦輪困愛すベし。三本杉と稱するものありしが。今はなし。

[やぶちゃん注:「治承四年」西暦一一八四年。四月四日では、同月二十七日に叔父源行家が頼朝に以仁王の平氏誅罰の令旨を届ける前であり、これはどう考えてもあり得ない。「江戸名所図会」の「瀬戸明神社」の図を示しておく。

Setomyoujin

「公の鎌倉に入りしは。治承四年十月六日なり」正しい。

「千葉氏」千葉氏は本文にもある通り、代々瀬戸神社神職を務めた家系である。瀬戸神社に残る記録では文和三(一三五四)年に千葉胤義が神主に就いたとする(以上の記載は、主に個人サイト「小市民の散歩行こうぜ」の『ようこそ「金沢・時代の小波 六浦地区」へ』の「嶺松寺跡」を参照させて頂いた)。ただ「千葉胤義」と名乗る人物は鎌倉期から戦国期に複数存在し、私にはこの「胤義」がその中のどの流れを汲むものかは不詳である。気になるのは瀬戸神社の記載が南北朝までしか遡れないことである。鎌倉期に既に「千葉胤義」なる人物は存在する。「吾妻鏡」の正嘉二(一二五八)年三月一日の条の将軍宗尊親王二所詣先陣随兵の中に「葛西四郎太郎」という人物が登場するが、 サイト「千葉一族」の「千葉市の歴代」の記載の中に、この人物は『立沢四郎太郎胤義のことと』推測される、という記載がある。同ページの「千葉頼胤周辺系譜」の系図によれば、彼は祖父が頼朝挙兵以来の近臣であった千葉胤正(永治元(一一四一)年?~建仁三(一二〇三)年?)の孫に当たる(嫡流ではない)ことが分かる。この人物と、この文和三年に神主に就いた「千葉胤義」が確かな連関を持っていることを明らかにする資料が欲しい。幾つかの系図を辿ってみたが、よく分からない。識者の御教授を乞うものである。

「蛇混柏」「混柏」は現在、一般には「柏槇」と書く。裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属で、近在の建長寺にあるものと同種であるとすれば和名カイヅカイブキ(異名カイヅカビャクシン)Juniperus chinensis cv. Pyramidalis であろう。成長が遅いが高木となり、赤褐色の樹皮が縦に薄く裂けるように長く剥がれる特徴を持つ。これが自己認識を解き放つことを目指す禅宗の教義にマッチし、しばしば禅寺に植えられる。シーラカンスの標本みたような現在も残る残痕はグーグル画像検索「で。

「延寶の暴風」延宝八(一六八〇)年八月六日(「新編鎌倉志卷之八」)。高い確率で照手姫松を吹き倒したものと同じ台風であろう。

「枝皮剝盡し」「えだかははげつくし」と読むのであろう。

「堅硬石の如く」「けんこう、いしのごとく」と読むのであろう。

「木理亦輪困愛すベし」「きめ、また、わ、こんあいすべし」と読むか。それでも何だかおかしい。「亦」は「年」の誤植か。「困」が分からぬ。「甚」だ「愛」すべし、なら分かるが。どなたか読みと意味の御教授を願いたい。何だかここ、筆者、急に気張っちゃってるだけに、ヘン。

「三本杉」「新編鎌倉志卷之八」

   *

三本杉 蛇混柏(じやびやくしん)の南にあり。大木にて、根株相ひ連て三本幷(なら)び生ず。奇(あや)しき形なり。放下僧(はうかそう)、讎(あだ)を復(ふく)したる所なり。謠(うたひ)にも瀨戸の三島とうたふは此所なり。此三本の杉も延寶庚申の風に吹倒す。

   *

 この「謠」、能は「放下僧」のこと。下野国の住人牧野左衛門が相模国の利根信俊と些細なことから口論に及び、後日闇討ちされて果てる。その子牧野小次郎は仇討ちを志し、出家していた兄に助力を求めるべく禅院の学寮へ兄を訪ねるが、出家の身である兄はこれを躊躇する。小次郎は、親の敵を打たぬは不孝と言い、母を殺した虎を狙って百日の間というもの野に出で、果ては虎と見誤って大石を射るも一念が通じて矢は石に突き立って血を流した、という中国の故事を物語る。兄はこの弟小次郎の熱意に打たれて仇討に同意、仇敵利根に近づくため、当時流行していた僧形の芸能者放下僧(室町時代に、それまでの田楽から発生したもので、曲芸や手品を演じつつ小切子こきりこを打ち鳴らして小歌などを歌った大道芸人を言う)に身を窶して故郷を旅立つ(ここで中入)。どうにも夢見の悪い利根はここ瀬戸の三島神社に参詣を志し、その境内で二人の放下僧と道ずれになる。一人(小次郎兄)が己れの持つ団扇の由緒を、また今一人(小次郎)も携える弓矢のことなど面白く説き、更に禅問答を交わした上、曲舞(くせまい)・鞨鼓・小歌といった様々な芸を演じては利根を油断させ、遂に兄弟揃って躍り掛かり、美事本懐を果たすという仇討物である。この松も蛇混柏と一緒に同じ台風によって倒れたことが分かる。現在は無論、ない。

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