今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 62 加賀入り 熊坂がゆかりやいつの玉祭
本日二〇一四年八月二十九日(陰暦では二〇一四年八月五日)
元禄二年七月 十五日
はグレゴリオ暦では
一六八九年八月二十九日
である。芭蕉はこの日、高岡を発って倶利伽羅越えをし、金沢に到着した。本句はその途中吟。
加賀の國を過(すぐる)とて
熊坂がゆかりやいつの玉まつり
盆 同所
熊坂が其(その)名やいつの玉祭
加賀の國にて
熊坂をとふ人もなし玉祭リ
[やぶちゃん注:第一句目は「笈日記」の、第二句目は「曾良書留」の、第三句目は「俳諧翁艸」(里圃編・元禄九年奥書)の句形。
「熊坂」熊坂長範。芭蕉の好きな義経の伝承に登場する大盗賊。牛若丸が金売吉次に伴われて奥州の藤原秀衡のもとへ下る途中、吉次の荷物を狙った長範一行に襲われたが、牛若丸の活躍によって長範は討ちとられたとする。但し、長範が牛若丸を襲う場所は「幸若舞」の「烏帽子折」や謡曲「現在熊坂」では美濃国青墓(あおばか)、謡曲「烏帽子折」「熊坂」では同国赤坂とも伝える。「義経記」では盗賊の名は長範ではなく「藤澤入道」と「由利太郎」とし、場所は近江国鏡の宿とされている。生国についても加賀の熊坂(現在の石川県加賀市熊坂町)とも越後と信濃の境にある熊坂(現在の長野県上水内郡信濃町熊坂)とも伝える(ここまでは平凡社「世界大百科事典」に拠った)。ここで芭蕉は加賀出生説を採って、さらに加賀入りの盆に合わせて供養に纏わる謡曲「熊坂」(旅僧の前に長範の亡霊が現われて牛若丸に討たれた無念を語って自身の命日の回向を頼む夢幻能)を通わせたものである。
「いつの玉まつり」とは「いつ」の疑問詞によって、かの稀代のピカレスクのその末裔が今もどこかで秘かにその御魂を鎮魂する魂祭りをしているのであろうか、と興じたのである。大悪漢なればこそ自身の大国入国の、ピカレスク・ロマン染みたとでも言い得る文芸的諧謔に相応しい祝祭句と考えた芭蕉の思いつきが面白い。別稿では謡曲の世界はいざ知らず、極悪人故に追善する者もなく、あったとしてもとうに絶えていよう、という暗示の寂寥が勝ってしまい、逆に俳諧味が薄まるように思われる。
「玉まつり」この日は七月十五日で盂蘭盆の中日である。]