日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 旅の終わり
第十五章 日本の一と冬
我々は夕方の七時頃東京へ着き、私は新しい人力車に乗って、屋敷へ向った。再び混雑した町々を通ることは、不思議に思われた。私は何かと衝突しそうな気がして、まったく神経質になったが、馴れる迄には数日かかった。私は十一日にわたって、ニューヨークからオハイオ州のコロンバスへ行く程の距離の、長い田舎路を旅行し、而もその半分以上は日本人の伴侶只一人と一緒にいた丈であるが、遙か北方の一寒村で、老婆が渋面をつくったのと、二人の男が私を狭い路から押し出そうとしたのとを除いて、旅行中、一度も不親切な示威運動に出喰わしたことがない。この後の方の経験は全く自然なもので、田舎の路を歩いている二人の紳士が、向うからやって来た支那人の洗濯屋に、溝の中へ押込まれることを許さぬというようなことは、我国でもよく起るであろう。私は同伴者より半マイルも前方で、山の輪郭を写生しながら、狭い路の真中に立っていた。二人の男は私を外国の蛮人と認め、私もまた争闘を避けるためには、私自身を蛮人とみなして、横へ避るべきであったかも知れぬ。だが、彼等が明かに私をやっつける気でいることが見えたので、私はがんばった。そして、今や私につき当ろうとする時になって、彼等は両方に別れ、私に触れさえもしなかったが、彼等が過ぎて行く時、私は多少心配をした。
[やぶちゃん注:矢田部日誌によれば、明治一一(一八七八)年八月二十七日朝五時に宇都宮から駅馬車に乗ったモースが浅草に着いたのは午後六時四十五分であった。
「十一日」函館を発って帰途に着いた日数であるが、函館発は八月十七日であるから十日が正しい。因みにこの北海道・東北旅行は七月十三日の横浜出航から延べ四十五日に及ぶ大旅行であった。
「ニューヨークからオハイオ州のコロンバスへ行く程の距離」直線で約八百十キロメートル。函館から東京は直線で凡そ六百九十キロメートル弱であるが、海路と東北での旅程、奥州街道のうねりを計算に入れれば、問題のない数値であろう。
「日本人の伴侶只一人」既に見てきた通り、松島で佐々木忠二郎と内山富太郎を残して採集を命じ、ここから東京までは矢田部良吉との二人旅であった。
「半マイル」約八百メートル。]
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