今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 49 象潟 象潟や雨に西施がねぶの花
本日二〇一四年八月 二日(陰暦では二〇一四年七月七日)
元禄二年六月十七日
はグレゴリオ暦では
一六八九年八月 二日
である。【その一】この時、酒田を拠点にしていた芭蕉は、この日、奥の細道の最北端である象潟に到達した。
象潟(きさかた)や雨に西施がねぶの花
象潟 六月十七日朝雨降〔十六日着、十八日に立〕
象潟の雨や西施がねむの花
[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の句形で、同形で載る「雪まろげ」には、
六月十七日、朝象潟雨降ル、夕止、舟にて潟を廻る
の前文がある。
第二句目は「曾良俳諧書留」の句形。〔 〕は縦二行の割注。初案であるが、こちらでは雨の景が主体で並列的叙景となって組み写真のような素人っぽさが出る。まさに俳諧の「てにをはの命」で、「の」一字の彫(え)りによって「西施」の面影の「ねむの花」が主人となったのであった。
因みにこれらの「潟」の字は総て底本(岩波版中村俊定校注「芭蕉俳句集」)では〈(さんずい)+「写」〉の字体である。また、「合歡花」の「歡」は「歓」であるが、私の好みから「歡」とした。
私が「奥の細道」で最も愛する句である。
「ねむの花」マメ目マメ科ネムノキ亜科ネムノキ属ネムノキ
Albizia julibrissin の枝先に集まって夏に咲く、細い刷毛の塊のような羽毛状に開いた(頭状花序的という)花。淡紅色のおしべが長く美しく、香りは桃のような甘さがある。和名の「ネム」「ネブ」は、夜になると葉が閉じるて就眠運動をすることに由来する。漢字名の「合歓木」は中国においてネムノキが夫婦円満の象徴とされていることから付けられたものである(以上は主にウィキの「ネムノキ」に拠る)。
芭蕉は「奥の細道」の象潟の段では、冒頭から闇中模索の絶景の地の属性である迷宮(ラビリンス)を演出、実際の天候や事実や実見を自在に変容(メタモルフォーゼ)させてモンタージュして、極めて詩的な映像――私はタルコフスキイの映像に近いものをそこに感ずる――を創り上げている(事実との齟齬に今の私は何の興味もない。それは諸家が隅を突っつき、詰まった木端まで綺麗に掘り出しているからそれらを参照されたい)。
何よりまず、「雨も又奇なりとせば」と呟くことによって、蘇東坡の七絶、
飮湖上初晴後雨
水光瀲艷晴方好
山色空濛雨亦奇
欲把西湖比西子
淡粧濃抹總相宜
湖上に飮す 初め晴れ 後に雨ふる
水光 瀲艷(れんえん)として 晴れて まさに好く
山色 空濛として 雨も亦 奇なり
西湖を把(も)つて 西子(せいし)に比せんと欲せば
淡粧 濃抹 總て相ひ宜(よろ)し
[やぶちゃん語注:「瀲艷」は漣(さざなみ)のたちゆらぐさま。「空濛」は雨霧のために薄暗く朦朧としているさま。「西子」は西施。現在の浙江省諸曁(しょき)の田舎娘であったが会稽の恥を雪がんとする越王句践(こうせん)によって籠絡の道具として仇敵呉王夫差のもとへ送り込まれた悲劇の美女。「淡粧」は薄化粧、「濃抹」は欠くところのない完璧な厚化粧の意で、前者が晴天の、後者が雨に煙る西湖を比す。「相宜」は孰れも適って完全無欠な素晴らしさ示すの謂い。]
を象潟の秘鑰(ひやく:秘密を解く鍵。)として提示、そこに「奥の細道」の中の名文中の名文、「俤、松嶋にかよひて又異(コト)なり。松しまはわらふかごとく、象潟はうらむがごとし。さびしさに悲しびをくはへて、地勢、魂をなやますに似たり」という、恐ろしいまでに彫琢された表現を彼方まで敷き広げて、象潟の内向する幽玄深奥な形而上学的感懐で全景をゆっくりパンさせるのである。
本句はそうした夢幻的な広角画面から一気に、雨にしっとりと濡れ垂れた、独り閨房に泣きはらした末に、涙を湛えたままに閉じられかけた睫毛のような(この私の比喩は雨後の合歓の花を見たことがある人にしか分からない)合歓の花にクロース・アップ、「飮湖上初晴後雨」の「西湖を把つて西子に比せん」から死に至る懐郷病(ノスタルジア)に憂悶する深閨の幸薄き美姫を読者に直ちに連想させる。
以下、「奥の細道」の象潟の段を総て示す。
*
風光
江-山水-陸の數を盡して今象潟に
方-寸を責(セム)酒田の湊より東-
北の方山を越礒を傳ひいさこを蹈
て其際十里日影やゝかたふく比
汐風眞砂を吹上雨朦-朧として
鳥海の山かくる闇-中に莫-作して
雨も又奇なりとせは雨後の晴-色又
と
賴母敷蜑の苫屋に膝を入て雨の
晴るゝを待其朝天能霽て朝日
花やかに指出る程に象潟に舟をうかふ
先能因島に舟をよせて三年幽
居の跡をとふらひむかふの岸に舟
をあかれは花の上こくとよまれし
櫻の老木西行法師の記念を殘ス
江上に御陵あり神功皇宮の
御墓と云寺を干滿珠寺と云
この處に行幸ありし事いまたき
かすいかなる故にや此寺の
方丈に座して簾を捲は風景
一眼の中に盡て南に鳥海天を
さゝへ其陰うつりて江に有西は
むやむやの關路をかきり東に堤
に
を築て秋田にかよふ道遙海北に
かまえて浪打入るゝ處を汐こしと云
江の縱横(シウヲウ)一里はかり俤松嶋に
かよひて又異(コト)なり松しまはわらふかことく
象潟はうらむかことしさひしさに
悲しひをくはへて地勢魂をなや
ますに似たり
象潟や雨に西施かねふの花
汐越や鶴はきぬれて海凉し
祭礼
曽良
象潟や料理何くふ神祭
美濃國商人低耳
蜑の家や戸板を敷て夕すゝみ
岩上に雎鳩の巣を見る
曽良
波こえぬ契ありてやみさこの巣
*
[やぶちゃん字注:本文中の「潟」の字も総て、〈(さんずい)+「写」〉の字体である。]
■異同
(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)
〇いかなる故にや → ●いかなる事にや
〇さびしさに悲しびをくはへて → ●寂しさに悲しみをくはえて
■やぶちゃんの呟き
象潟は芭蕉が訪れた当時は潟湖であった。ウィキの「象潟」によれば、『紀元前466年に鳥海山が噴火し、発生した大規模な山体崩壊による流れ山が日本海に流れ込み、浅い海と多くの小さな島々ができあがった。やがて堆積作用の結果、浅海は砂丘によって仕切られて潟湖ができた。そして小さな島々には松が生い茂り、風光明媚な象潟の地形ができあがった。東西の長さは20町(約2200m)、南北の長さは30町(約3300m)をそれぞれ超える程度』の潟であったが、この時より115年後の『文化元年(1804年)の象潟地震で海底が隆起し、陸地化した。その後、干拓事業による水田開発の波に飲まれ、歴史的な景勝地は消されようとしていたが、当時の蚶満寺の住職の呼びかけによって保存運動が高まり、今日に見られる景勝地の姿となった』。『現代も102の小島が水田地帯に点々と残されている。とりわけ田植えの季節に水が張られると、往年の多島海を髣髴とさせる風景が見られる』とある。私は残念ながら訪れたことがない。
「苫屋(とまや)に膝を入(いれ)て」ここは直後に名の出る能因の、「後拾遺和歌集」の五一九番歌、
世の中はかくても經けり象潟の海士(あま)の苫屋をわが宿にして
に基づく。
「花の上こぐとよまれし櫻の老木、西行法師の記念を殘ス」これは、
象潟や櫻の波にうづもれてはなの上こぐ漁士(あま)のつり舟
を指すが、実はこれは西行が詠んだと伝承されるに過ぎない歌であって、山家集には所収しない。しかし、長谷川成一氏の『近世出羽国「象潟」―名所・名勝における歴史的景観の保存と開発」によれば、『宗紙の「名所方角抄」に見えるところであって、もっとも和歌詠み達に引用される和歌で』あり、『この歌に詠まれた桜は、西行桜と呼ばれ、蚶満寺阿弥陀堂の北の島の桜といわれている』(当然、それは桜の「老い木」の精と西行の物語である木世阿弥の夢幻能「西行桜」と響き合い、芭蕉も確信犯でここでそれを字背に匂わせようとしている。もしかするとこの時、俳諧師芭蕉はシテの老桜の精となって『この浮世と見るも山と見るも。唯其人の心にあり。非情無心の草木の。花に浮世のとがはあらじ』という言葉を心の内に木霊させていたのかも知れない)とあり、また井原西鶴の「好色一代男」に引用されたり、前に出た酒田の不玉の「継尾集」にも載る、当時は確かに西行の和歌として諸人の共有していた〈真歌〉であったのである。長谷川氏は『西行が実際に象潟へ来訪したのかどうかについては、色々と意見が分かれるところであ』るが、『目崎徳衛『西行の思想史的研究』(吉川弘文館一九七九年二二四頁)では、能因がそこで越冬までした象潟の地を西行が目指した可能性は大きい』とあるのを支持されておられる。個人的には西行の歌かどうかは別として本歌を私はこの芭蕉の句とともに偏愛する。西行の「海」と「桜」と「海士」と――この華麗なモザイクが――「象潟(海)」と「合歓の花」と「西施」と――に不思議に私にはオーバー・ラップして〈聴こえてくる〉のである。
「むやむやの關」有耶無耶の関。歌枕。現在の由利(ゆり)郡象潟町関にあったとする。後掲する「曾良随行日記」参照。
「汐こし」汐越。象潟の西の入海の、潮が打ち寄せてくる浅瀬及び海浜の低地の固有地名。評者によっては象潟と同義とする。
「象潟や料理何くふ神祭」象潟汐越の熊野権現の社の祭の際には魚肉を食うことを禁忌としていることに基づくか。評者によっては祭日の珍しい料理を連想するともする。孰れにせよ、一見、駄句である。不玉の「継尾集」には、
神事の日にまいりあひければ
蚶潟(きさがた)や幾世になりぬ神祭り 曾良
という別句が載る。前二句の引き立てとしか私には思われないが、これは祭りを詠まず、時間と時代を遙かに超越した象潟の自然の中に潜み込んでしまった芭蕉の世界を、俳諧的に一気に俗界のリアリズムに引き戻すという大切な役割を持っているとは言えよう。
「蜑(あま)の家(や)や戸板を敷(しき)て夕すゞみ」作者の低耳(ていじ)は宮部彌三郎という岐阜長良の行商人で池西言水の流れを汲む俳人で芭蕉とは旧知(元禄元年頃に鵜飼見で知り合ったらしい)。「奥の細道」の旅では芭蕉らの象潟以降の北陸道での宿所の紹介をしたりしている(ここは主に安東次男氏の「古典を読む おくのほそ道」に拠る)。表に戸板を敷き並べて縁台替わりとして夕涼みをする、鄙の漁村の日常の海士の景。前句のハレをぐっと鄙びた漁師の納涼という風流に繫げ、次の句の最後まで象潟の段は潮の匂いが満ち満ちるのである。
「雎鳩」「みさご」と読む(音は「ショキュウ」)。タカ目タカ亜目タカ上科ミサゴ科ミサゴ属
Pandion のタカ類の総称。主に海岸に棲息し、好んで魚を捕食することから魚鷹(うおたか)の異名を持つ。漢字では「鶚」「雎鳩」と書く。和名は、高空から水中に突入して足で獲物を摑み取ることから「水さぐる(ミズサグル)」「水探(ミクサ・ミサゴ)」「水捜し(ミゾサガシ)」等の意とする説、水沙の際にいることから「水沙(ミサコ)」の意とする説、獲物を捕らえた際の水音に由来するという説等がある。
「波こえぬ契ありてやみさこの巣」安東次男氏は前掲書で、この句について、
《引用開始》
『詩経』の「周南」に「関々タル雎鳩河洲ニ在リ。窈窕タル淑女 君子ノ好逑(よき配偶者)」とあり、愛情こまやか夫婦の引合にされる鳥である。それを、遥々北の荒海までやって来て見た、ということが感動になっている。因にこの句には、「北海のあらけなき波の中に、嶠(けう)とき岩ほ有。頂のうへに雎の巣作り侍りて、あひやはらげるはごくみも、いとあはれに覚ければ、 浪こさぬ契りやかけしみさごのす」、という曾良自筆の懐紙もある。
《引用終了》
と述べておられる。これはまさに最初の芭蕉の句の夫婦和合の「合歓の花」に響き合うように同じ象徴である「雎鳩」が花鳥の繡(ぬいとり)、鴛鴦のそれのように象潟の段の発句という閨(ねや)の通路には、美しく掛っているのであった。
最後に「曾良随行日記」を対比検証はせずに掲げておく(『蚶彌寺』は『蚶滿寺』の誤字)。
○十五日 象潟ヘ趣。朝ヨリ小雨。吹浦ニ到ル前ヨリ甚雨。晝時、吹浦ニ宿ス。此間六リ、砂濱、渡シ二ツ有。左吉狀屆。晩方、番所裏判濟。
○十六日 吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。一リ、女鹿(めが)。是ヨリ難所。馬足不ㇾ通。
番所手形納。大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄内預リ番所也。入ニハ不ㇾ入二手形一。塩越迄三リ。半途ニ關と云村有(是より六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ關成ト云。此間、雨強ク甚濡。船小ヤ入テ休。
○晝ニ及テ塩越ニ着。佐々木孫左衞門尋テ休。衣類借リテ濡衣干ス。ウドン喰。所ノ祭ニ付テ女客有ニ因テ、向屋ヲ借リテ宿ス。先、象潟橋迄行テ、雨暮氣色ヲミル。今野加兵ヘ、折々來テ被ㇾ訪。
十七日 朝、小雨。晝ヨリ止テ日照。朝飯後、皇宮山蚶彌滿)寺ヘ行。道々眺望ス。歸テ所ノ祭渡ル。過テ、熊野權現ノ社ヘ行、躍等ヲ見ル。夕飯過テ、潟ヘ船ニテ出ル。加兵衞、茶・酒・菓子等持參ス。歸テ夜ニ入、今野又左衞門入來。象潟緣起等ノ絶タルヲ歎ク。翁諾ス。彌三郎低耳、十六日ニ跡より追來テ、所々ヘ隨身ス。
なお、上の句に添えた二枚の写真は上から順に日本語版ウィキの「ネムノキ」の Kurt Stüber 氏の撮影になる合歓の花の再使用許可画像と英語版ウィキの“Albizia julibrissin”のFamartin氏の撮影になる合歓の花の再使用許可画像を拝借した。グーグル画像検索「合歓の花」もリンクさせておく。
私がこの句を偏愛する理由は何より――合歓の花がいっとう好きな花だから――である。]
« 耳嚢 巻之八 亡靈の歌の事 | トップページ | 今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 50 象潟 ゆふばれや櫻に涼む波の花 »