(無題) 山之口貘――小山コーヒー寮店小山志づ追悼詩――
[やぶちゃん注:以下は、無題の一篇。]
いつもは
をばさんと談しながら
コーヒーをのんで
ゐる筈なのだが
今日は
をばさんの
おもひ出ばかり。
[やぶちゃん注:底本の思潮社二〇一三年九月刊「新編 山之口貘全集 第1巻 詩篇」では標題を『(いつもは……)』とするが、無題と採った。
同解題によれば、年不詳の六月「コヤマのおばさん」と題する五月十日に五十二歳で逝去した小山コーヒー寮店小山志づなる人物を追悼する「コヤマかい・小山コーヒー寮」発行のリーフレット(印刷所は文栄堂印刷で住所は東京都港区白金町志田町)へ寄せた追悼詩とある。同リーフレットには詩人秋田雨雀及び周郷博らの詩も掲載されている、とある。
小山コーヒー寮店及び小山志づなる人物については不詳であるが、バクさんが昭和二八(一九五三)年四月二日附『報知新聞』に掲載した随筆「池袋の店」に以下のような記載がある(前半部のみ引用)。
池袋の店
池袋は、いま、時々刻々に変貌しつつあるのだ。池袋駅東口には、すでに、西武百貨店がその巨体を構え、西口には、東横百貨店が控えているのであるが、東口にはさらに三越や伊勢丹の姿も現われるとのことで、これら四つの大百貨店の勢揃いを想像しただけでも、近い将来の池袋の風貌がうかがわれるわけである。東口駅前も、いまは広場になっていて、各方面へのバスの便があり、地下鉄が完成したり、上越、信越線がはいってくるようになるあかつきには、すっかり大池袋に化けるのだ。
さて、こうした新装をこらすために、池袋の祷は至るところごった返していて、落着きのない雰囲気に包まれているのだ。ちょいとご無沙汰しているうちに、旧武蔵野線の出口の筋向いあたりにあったあのゆうれい横丁も消えてしまって「平田屋」で焼酎一杯という気分も出しようのない変り方になったのだ。区画整理のためにそこら一帯も様子を変えて「小山伽排店」も場所をずらされたついでに、無理に店を拡げて、うなぎの寝床みたいな細長い格好の店になった。筆者は、原稿の押し売りとか、ぼろ生活のための金策などの往き帰りを、旧武蔵野線を利用しているので、つい「小山伽排店」に寄るのだが、模様変えしてからの客種の増えたことにはおどろいているのである。筆者の舌など、伽排の味のわかる舌ではないにしても、うまいとおもえば高く、安いとおもえばまずかったりするのは、どちらも困るのだが、この店のは安い割にしてはうまいみたいな感じのするところが一般にうけているのかも知れないのだ。筆者はここでしばしば、ステッキを片手の秋田雨雀氏の姿も見かけるのである。なにしろ、繁栄している店なのだが、来る人達の生活もこの店ぐらいに、たがいに繁栄したいものだ。[やぶちゃん注:以下略。]
ここに出る「小山珈琲店」と同一であることは間違いない(現存しない模様である)。
因みに、周郷博(すごうひろし 明治四〇(一九〇七)年~昭和五五(一九八〇)年)は教育学者。千葉県生。東京帝国大学文学部教育学科卒。東京大学助手の後、いくつかの大学の非常勤講師を経て、昭和一二(一九四七)年、東京女子高等師範学校講師。その後は新制のお茶の水女子大学教育学部教授。晩年は付属幼稚園園長も兼務した。参照したウィキの「周郷博」によれば、『教育の詩人と呼ばれ、青年期から詩作をし、『母と子の詩集』などもある。ティヤール・ド・シャルダンの著作を座右の書とした。戦後、日本の教育界に影響のあったハーバート・リードの『平和のための教育』、レスター・スミスの『教育入門』を岩波書店から翻訳刊行している。平和教育、芸術教育な関心が深かったが、後年は、育児、子育てについての文章も多い』とある。
秋田雨雀の没年は昭和三七(一九六二)年五月十二日であるから、そこが本詩の創作時期の最下限となるが、底本がこれを最後に配していること及び「池袋の店」からは、私の推定年代ではあるものの、前の詩「龍舌蘭」の昭和二八(一九五三)年頃かそれよりも前の可能性が高いか。]
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