今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 55 村上 小鯛さす柳涼しや海士が妻
本日二〇一四年八月 十四日(陰暦では二〇一四年七月十九日)
元禄二年六月二十九日
はグレゴリオ暦では
一六八九年八月 十四日
である。酒田を十日に立った芭蕉は大山(現在の山形県鶴岡市大山)、十一日温海(現在の鶴岡市温海)、十二日中村(現在は新潟県村上市北中)、この十三日には村上に着いた。村上を発ったのは二日後の七月一日であった。
西濱
小鯛さす柳涼しや海士(あま)がつま
西濱
小鯛さす柳涼しや海士が家
小鯛さす柳涼しや海士が軒
[やぶちゃん注:第一句は「曾良俳諧書留」の、第二句は「雪まろげ」の、第三句目は「芭蕉翁発句集」(蝶夢編・安永三(一七七四)年刊)の句形。「白雄夜話」(加舎白雄著・天保四(一八三三)年刊)ではこの第三句目を第一句の初案とする。
「西濱」という地名が現在まで不明で、どこで詠まれた句か同定されていない。山本健吉氏は多様な評者の比定地を掲げる最後に「曾良随行日記」に『六月二十九日、村上に泊まって「未ノ下尅、宮久左衛門同道ニテ瀬波ヘ行」とあり、瀬波とは村上の西方の海岸だから、この時の嘱目かもしれない』と記され、『二十八日に村上に着いて、二日も滞在したのだから、ここで一句も作らないとも考えられない』とするのに従って本日に配した。
因みに、山本氏によれば、この句は後に金沢で披露され、『金沢の俳人が表六句を付けてい』るが、その脇句は、
小鯛さす柳涼しや海士が家 芭蕉
北にかたよる沖の夕立 名なし
と「奥の細道附録」にあると記され、この名のない脇句こそはこの村上滞在の際、『芭蕉を歓待した土地の人として『随行日記』に名前が出てくる喜兵・友兵・太左衛門・彦左衛門・友右などのうち、誰かであろう』とまで推測されている(七月朔日の条)から、山本氏の同定は確信に近い。]
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