耳嚢 巻之八 思念故郷へ歸りし事
思念故郷へ歸りし事
大番與力勤(つとめ)ける横田某かたりけるは、二條、大阪在番の留守は、組屋敷の惣門(そうもん)も嚴重にて、番人も猥(みだ)りの者は斷(ことわり)なくては不通(とほさず)。しかるに明和安永の頃、在番に登りし酒井小七と云へる同心、其時(そのとき)にあらずして暮過る頃、惣門へ來りて、通るべき由申ければ、番人も組内の者ゆゑ不疑(うたがはず)して通しけるに、其夜小七が妻も、夢うつゝとなく小七が歸り來りしに對面なせしが、何とやら色あしく衰へたる樣に覺へけるに、あけの日、上方より書狀來りて、右小七在番先にて病死せしとなり。文化五年にも、松山彌三郎といへる同心二條にて病死せるに、横田歸り聞(きけ)ば、彌三郎病死の砌(みぎり)、江戸惣門の門番、彌三郎が歸り來る事を留守宅ヘ告(つげ)しが、留守へ人魂(ひとだま)來りて屋(や)の棟(むね)を徘徊せるを見候者ありと語るを聞(きき)て、兩度まで右の事あれば、意念の歸り來る事もある事とかたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:怪異譚三連発。亡魂の帰郷という本格幽魂物で、まさに都市伝説のプロトタイプともいうべきものである。
・「大番與力」「大番」は将軍を直接警護する現在のシークレット・サーヴィス相当職であった五番方(御番方・御番衆とも言う。小姓組・書院番・新番・大番・小十人組を指す)の中でも最も歴史が古い衛士職。「大番與力」は大番頭与力で、一組に附き、十騎(「騎」与力の数詞)配属された。
・「二條、大阪在番」上方在番と総称された二条在番と大坂在番。老中の支配下で、前者は将軍御留守の体(てい)を成すところの京都二条城の警護、後者は大坂城の警備に当たった。孰れも二組ずつの一年交替順番制であったらしい。二条在番は四月が、大坂在番は八月が交替時期であった。
・「明和安永」西暦一七六四から一七八一年。幅があり過ぎるのが嘘臭く、また「卷之八」の執筆推定下限が文化五(一八〇八)年夏であるから、噂話としての都市伝説としてはあまりに古過ぎるが、そこに今年「文化五年」二話目をカップリングする手法はなかなかの作話(であるとすれば)力である。孰れも同一の組屋敷で起きたとする点で、ある種、今流行の心霊スポットのルーツとも言えるのかも知れぬ。
・「同心」大番頭同心。一組に附き、二十人。与力に属して二の丸銅門の警備に当たった(以上の役職については主に北畠研究会のサイト「日本の歴史学講座」の「江戸幕府役職事典」を参照させて戴いた)。
■やぶちゃん現代語訳
望郷の念抑えがたくして魂の故郷へ帰ったる事
大番頭与力を勤めたことの御座る横田某(ぼう)殿の語った話で御座る。
京二条城及び大阪在番に上っておる者の留守は、江戸組屋敷の総門の開け閉めも厳重にて、番人も濫(みだ)りに人を通さず、通常は、いちいち相応の訪問の訳を問い質さぬうちは中(なか)へ入れぬようになって御座った。
*
然るに、明和・安永の頃のこと、在番に上って御座った酒井小七と申す同心、在番中なれば、本来、ここに居らぬはずにも拘わらず、その日の暮過ぎた、大分もう、辺りも暗(くろ)うなっておった時分に、突然、ぬっと総門へ来たって、
「……罷り通る……」
と申したによって、番人も、確かに組内の酒井小七に間違いなきゆえ、何ぞ、余程の火急のこと御座って江戸へ立ち帰られたものと存じ、さしたる疑いも抱かず、早々に通して御座ったと申す。
その夜のことで御座った。
組屋敷内の小七が妻は、夢うつつとのぅ、小七が帰って参って、對面致いたと申す。……
……ところが夫は……
……何やらん、顔色も悪う……
……ひどく痩せ衰へた姿と見えた……
……と……
……気づけば、妻は……
……座敷に一人座って御座ったに心づいたと申す。…………
――翌日、上方より書状の来たって、
――右小七、在番先にて病死せり
とあった。…………
* *
文化五年にも、松山弥三郎と申す大番頭同心、二条在番方にて病死致いたところが、横田が交替となって江戸組屋敷にたち帰って聴いた話によれば……
――弥三郎病死の砌り、やはり同じき江戸組屋敷の総門の門番が、
「……先ほど、弥三郎殿がお帰りになられましたが……」
と在番中のこととて、やや不審げに留守宅の家人ヘ告げたと申す。
家人は一向に弥三郎には対面して御座らなんだによって、不審を募らせて御座ったが、その夜のこと……
……弥三郎の留守宅の上へ……
……人魂が……一つ……
……ふぅわり……ゆらぁりと……
……空(くう)を舞いつつ……来たって……
……屋(や)の棟(むね)の辺りを……
……何度も……何度も……
……名残惜しげに……行き交(こ)うを……
……見た者のあった……と申す。…………
* * *
「……かくも数十年を経て、両度に亙り、斯様(かよう)なるの事のあればこそ……死人(しびと)の意念、これ、かくも帰り来ったること、これ――ある――ということにて、御座ろう。……」
と、横田某殿、語って御座った。
« 今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 59 高田 薬欄にいづれの花をくさ枕 | トップページ | 飯田蛇笏 山響集 昭和十二(一九三七)年 冬 Ⅰ »