今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 61 越中國分 早稻の香や分け入る右は有磯海
本日二〇一四年八月二十八日(陰暦では二〇一四年八月四日)
元禄二年七月 十四日
はグレゴリオ暦では
一六八九年八月二十八日
である。芭蕉は十三日に市振を発し、滑川で泊り、十四日に滑川から高岡に出て、その周辺を巡って、三時過ぎに高岡に戻って泊まり、翌十五日、倶利伽羅峠を越えて金沢へ午後二時頃に着いている。諸本はこの句を十五日の作と比定するが、ロケーションは断然、十四日である。
わせの香や分入(わけいる)右は有磯海
猶(なほ)越中をへてかゞに入(いる)
稻の香や分入右は有曾海
早稻の香や分入(わけいる)道はありそ海
[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の句形。「卯辰集」(楚常編・元禄四年)には、
越中に入りて
と前書する。私はこの前書が本句の景には最も相応しいと考えている。「有磯海」(浪化編・元禄八年)の注記、
此句ハ元祿二年奥羽の行脚に春夏を送り、
秌(あき)立たつ頃三越ぢにかゝり、處
處(ところどころ)の吟ありけるなかに、
當所のほ句と申つたへける
というのも、「秌」(秋の異体字)「立たつ頃三越ぢにかゝり」が七月十四五日に越後と越中を過ぎて、倶利伽羅越えを経て越前加賀入りをした、その直前の、という意味に於いて支持出来る文章である。「曾良俳諧書留」には、
かゞ入
と前書するが、山本健吉氏によれば、『当時は加越能、三国にわたって前田百万石の領内であるから、ここでは三国を一つながりに見て三国と言ったのである。ことに越中の呉羽山を境にして呉東・呉西と言い、呉東は加賀藩の支藩、呉西は加賀藩の直轄であり、有磯海は呉西であるから加賀の国と言ってもおかしくはない』と解説されておられる。眼から鱗であった。
第二句目は真蹟詠草の、第三句は「類柑子」(其角著・宝永四(一七〇七)年跋)の句形。
以下、「曾良随行日記」を見る(〔 〕は右傍注。□は判読不能字)。
○十四日 快晴。暑甚シ。冨山カヽラズシテ〔滑川一リ程來。渡テトヤマヘ別。〕、三リ、東石瀨野〔渡シ有。大川。〕。四リ半、ハウ生子(しやうづ)。〔渡有。甚大川也。半里計。〕。氷見ヘ欲ㇾ行、不ㇾ往。高岡ヘ出ル。二リ也。ナゴ・二上山・イハセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻、着テ宿。翁、氣色不ㇾ勝。暑極テ甚。少□同然。
一 十五日 快晴。高岡ヲ立。埴生八幡ヲ拜ス。源氏山、卯ノ花山也。クリカラヲ見テ、未ノ中刻、金澤ニ着。京や吉兵衞ニ宿かり、竹雀・一笑ヘ通ズ。艮刻、竹雀・牧童同道ニテ來テ談。一笑、去十二月六日死去ノ由。
「艮刻」は「とらのこく」ではなく、「即刻」の誤字(岩波文庫萩原恭男校注版「おくのほそ道」に拠る)。
「有磯海」は本来は波の荒い嶮しい岩礁性海岸を指す一般名詞であるが、富山では新湊から氷見にかけての沿岸海域を広汎に指す万葉の香を湛えた固有名詞となった。
曾良の日記を見る限り、「分け入る右は有磯海」に最も相応しいロケ地は、現在の新湊市にある放生津潟(ほうしょうづがた:「ひなたGPS」。干拓でひどく変わってしまったのでこちらで示した。以下相当の「新湊町」「伏木町」も見えるようにした)周辺、若しくは「ナゴ」則ち奈呉の浦で現在の新湊市の海岸、さらに現在の高岡市伏木の「二上山」麓の国分(こくぶ)浜辺りである。しかも、その前に「氷見ヘ欲ㇾ行、不ㇾ往」とある点、即ち、後掲する「奥の細道」本文でも歌枕「担籠(たご)の藤波(ふじなみ)」(現在の富山県氷見市下田子(しもたご:グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)に行くことを強く望んだ点に着目すれば、この時、芭蕉と曾良が途中まで辿り着きながら、土地の者に、「是より五里、いそ傳ひして、むかふの山陰に入り、蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿かすものあるまじ」(ここは通用本から引用)と、嚇されて断念したとするロケーションに最も合致するのはただ一つ、伏木の国分浜しかあり得ない(「五里」は十九キロメートル弱であるが、これは丁度、国分浜辺から氷見へと向かい、そこから十二町潟などの万葉の名跡を訪ねて、「担籠の藤波」のある田子浦藤波神社へ向かう距離にほぼ等しい。何より、「いそ傳ひして、むかふの山陰に入り」はここから氷見へ向かうルートを美事に述べているからである)。現在、芭蕉の本句碑の立つ「奈呉の浦」からだと、「五里」の距離はストレート・コースならよく一致するものの、庄川と小矢部川を挟んでおり、不自然である。私は本句は高岡市伏木の国分浜で詠まれたと信ずるものである。――私は実は、中学・高校時代をこの高岡市伏木の二上山麓で過ごした。国分浜の直上の古名「如意が丘」には私の出身である県立伏木高等学校がある。そうして何より私の忘れ難い青春の思い出の地こそが、この国分浜であったのである。……これはしかし、単なる個人的ロマンティシズムによる牽強付会ばかりではないのである。この「如意が丘」という地名は非常に古い。丘の東の麓から新湊に渡るための小矢部川の渡しを古く「如意の渡し」と呼んだ。そうして――その「如意の渡し」こそが――芭蕉の偏愛する義経の「勧進帳」の話の元であるところの「義経記」に載る本当の舞台なのである!――芭蕉がそれを知らなかったはずは、絶対に、ない。とすれば、万葉の「担籠の藤波」に少しでも近づき、爽やかな幽かな早稲の香に加えて義経の残り香をもかぐわせるためにも――「いそ傳ひして、むかふの山陰に入」った雨晴(あまはらし)には義経が雨宿りをするために弁慶が磯の岩を持ち挙げたという伝承が残る岩も残る――芭蕉が、ここ国分浜で本句を詠じたと考えるのが、文学的に最も相応しい――それ以外にはないと私は考えるのである。
以下、「奥の細道」の越中路の段。
*
くろへ四十八が瀨とかや數しらぬ川を
わたりて那古と云浦に出担籠の藤
波は春ならす共初秋のあはれ
とふへものをと人に尋れは是より
五里礒つたひしてむかふの山陰に入
蜑の芦ふきかすかなれば一夜の宿
イ
かすものあるましと云おとされて
かゝの国に入
わせの香や分入右は有ソ海
*
■異同
(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)
〇とふへものを → ●とふべきものを
[やぶちゃん字注:脱字であろう。]
○蜑の芦ぶきかすかなれば、一夜の宿かすものあるまじ
↓
●蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿かすものあるまじ]
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