『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 海寶院
●海寶院
長谷山と號す、曹洞宗、駿州(すんしう)富士郡(ごほり)傳寶(でんはう)村保壽寺末、本尊十一面觀音開山支源は本寺二世(せ)の僧なり、退隱して駿州に閑居す、後又當郡横須賀村良長院に移住しけるが、當村の地は高敝にして富士山眺望の勝地たれは、官に請(こふ)て彼の院を爰に引き、今の院號に改む(後年舊地に一寺を建て、良長院の古名を存す、今猶ありといふ。)時に縣令長谷川七左衞門長綱力を戮(あはせ)て當院を修飾す故に長綱を開基とす、山號は其家號(かがう)に取れり、天正十九年十一月寺領十八石の御朱印を賜ふ、支源曾て駿州の隱栖に菊數種を栽て樂みとす、其頃、東照宮御獵(みかき)の序入御ありて、源を菊長老と召されしとそ、其後文祿四年十一月二十一日寂せり。
洪鐘 庫裏の樓上に掛く、武州多摩郡小野路村(をのみちむら)小野社の鐘なり應永十年の銘を鐫る、長谷川長綱當寺に寄附すといふ。
[やぶちゃん注:以下の鐘銘は底本ではポイント落ちで全体が一字下げ、最後の「圓其外……」以下は、更に全体が二字下げ。前文ともに「新編相模國風土記稿」の「卷百九 村里部 三浦郡卷之三」の「海寶院」を元にしているが、鐘銘には誤植が認められるため、読点を含め、原本(国立国会図書館日本国史大系で視認)で補正した。□は底本及び親本にある判読不能字を示すものである。]
銘文曰武藏國小山田保小野路縣小野大明神宮鐘銘幷序
應永十年癸未冬、當縣居住奉三寶弟子正珍募緣、鑄鉅鐘朝夕扣擊、使夫往來之人晩宿早發知其時、何止證入圓通三昧亦復獲免道路之患難其施不亦博乎、乞銘於自快道人乃爲銘、銘曰、
圓其外正虛其中剛有扣斯應、厥聲孔揚無懈、夙夜鳴霜春□警覺民夢開發群聾宿客報曉路人知時號令玆縣神共護之
大工□十郎四郎
長谷川七左衞門長綱墓 表に海寶院殿節叟玄忠慶長九年四月十二日、裏に家康公御郡代奉行長谷川七左衛門少尉源朝臣長綱と鐫る。
山門 燒失の後未再建せす、樓上に安置せしは釋迦十六羅漢の像なり今本堂に置く。
[やぶちゃん注:現在の逗子市沼間二丁目にある。山号は確認出来ないが、「山號は其家號に取れり」とはあるものの、他の曹洞宗寺院の山号から推しても「はせざん」ではなく「ちょうこくざん」と音で読むものと思われる。
「駿州富士郡傳寶村保壽寺」静岡県富士市伝法に現存。
「支源」駿河出身の僧支源臨乎。
「横須賀市緑が丘に現存。但し、ネット上の情報によれば、元は現在の米軍基地内の泊浦(現在の横須賀市泊町)にあったとある。
「當村」沼間村。
「高敝」不詳。「敝」は「破れる」「ぼろぼろになる」でよい意味がない。地勢が時代を経て崩えつつも禅味に於いて孤高崇高な雰囲気であることをいうか?
「縣令」代官を唐名で言ったものであろう。
「長谷川七左衞門長綱」(天文一二(一五四三)年~慶長九(一六〇四)年)は江戸初期の代官頭。今川家臣長谷川長久三男。徳川氏の五ヶ国領有時代に遠江及び駿河の代官として活躍、天正一八(一五九〇)年の関東入国後は相模国三浦郡西浦賀の陣屋を拠点として民政を行い、江戸湾防衛にも当たっている。直接支配地は相模国三浦郡・武蔵国多摩川河口の六郷・川崎領(現在の東京都大田区及び神奈川県川崎市)などであったが、代官頭として検地の実施、知行割や交通制度の確立に参画、東海道川崎宿の基礎も築いた(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。また、海山遊氏のサイト「横浜金沢 みてあるき」の「ファミリ-版 三浦半島の歴史」によれば、天正一八(一五九〇)年の豊臣秀吉の小田原城攻めによって後北条氏が滅亡すると、徳川家康は秀吉の意向に応じて東海の地を離れ、後北条の旧領地である関東六カ国(上野・上総・下総・相模・武蔵・伊豆)に領地替えして江戸城に入ると、江戸から一泊で通い得る範囲の地に旗本を配置し、東海道筋の遠方には主として東海時代の功労者を大名として選んで配したが、三浦郡は一部の旗本領を除いて総てを直轄地とし、その統治に駿河からこの長谷川長綱を代官頭として招き、浦賀湾岸に陣屋を置かせ、文禄三(一五九四)年には全国一斉に太閤検地が行なわれたが、三浦郡内では長綱が全域で検地を行なっている、とある。
「天正十九年」西暦一五九一年。
「文祿四年」西暦一五九五年。
「洪鐘」逗子市公式サイトの「逗子市内の重要文化財」によれば、総高一メートル六十センチ、口径五十二センチメートルで、『本鐘が海宝院にあることについて寺伝は「往古武蔵国八王寺小野大明神の鐘にして徳川幕府のころ当郡高山城則北条氏の築かれし城へ軍用の為取り寄せ置き其の後当郡奉行職長長谷川氏へ軍功に仍て軍器と共に右鐘拝領相成当院建立の際納められし鐘也」といい、「三崎志」古蹟の部には、「○陣の台菊名にあり道寸陣鐘此処にありしを文禄中長谷川七左ェ門沼間海宝院に移せしなり」とある。新編相模(国)風土記稿には「菊名」の項に「陣場‥北条早雲陣営せし処といふ」とある。これらを総合すると北条早雲が三浦道寸の新井城を攻略の際、陣鐘として使用していたものが戦後その陣営地におかれていたものを、三浦郡代官長谷川七左ェ門が海宝院建立のとき寄付したものということになる』とある(「逗子市文化財調査報告書 第二集」逗子市教育委員会一九七一年刊が原資料)。pok**hino*324氏の個人ブログ「地球のしずく」の「神々の坐す里・横須賀水道路を歩く ④長谷川七左衛門長綱と海宝院」の記事(写真も豊富で必見)では、当院の『「海宝院応永十年銅鐘(県指定重要文化財)」由来書』から引き(一部、西暦部分を漢数字化した)、
《引用開始》
鐘高一〇〇・六糎 鐘身七八・〇糎
口径五二・〇糎鐘の銘文によると、応永十年(一四〇三)足利四代将軍義持の頃造られた、武蔵国八王子、小野大明神の宮鐘であることがわかる、文明年間(一四六九―一四八六)、扇ヶ谷、山ノ内両上杉氏の戦いの折、山ノ内上杉の兵によって持ち去られ、やがて永正十三年(一五一六)、北条早雲が三浦新井城に義同義意の父子を攻めたとき、これを陣鐘として使用したと伝えられている。
徳川家康は、この鐘を八王子横山の高山城に軍用のため取り寄せた。のち長谷川七左衛門長綱が拝領し、海宝院創建のとき寺へ寄進したものだといわれている。
昭和五十年十二月 長谷山海宝院
《引用終了》
とある。
「武州多摩郡小野路村小野社」現在の東京都町田市小野路町(おのじまち)、旧南多摩郡小野路村に現存する小野篁を祭神とする小野神社。ウィキの「小野神社」にも、『小野路の地は古代から鎌倉街道の重要な中継点の一つとして知られていたが』天禄年間(九七二年頃)に『武蔵国司として赴任した小野孝泰』(小野篁七代後の子孫)が『この地に祖先の小野篁を祀ったのが始まりとされる』。『かつてこの神社にあった鐘は、文明年間に山内上杉氏と扇谷上杉氏が争った際、山内上杉氏の兵によって陣鐘として持ち去られ、現在は神奈川県逗子市沼間の海宝院にて梵鐘として使用されている』とある。「文明年間に山内上杉氏と扇谷上杉氏が争った際」とは延々と続いた享徳の乱(享徳三(一四五五)年~文明一四(一四八三)年)の中でも、太田道灌によって鎮圧された長尾景春の乱(文明八(一四七六)年~文明一二(一四八〇)年にかけて起こった関東管領上杉氏の有力家臣長尾景春による反乱での戦闘を指すものであろう。
「應永十年」西暦一四〇一年。
「慶長九年」西暦一六〇四年。
「表に海寶院殿節叟玄忠慶長九年四月十二日、裏に家康公御郡代奉行長谷川七左衛門少尉源朝臣長綱と鐫る」同じく「神々の坐す里・横須賀水道路を歩く ④長谷川七左衛門長綱と海宝院」の記事では、「三浦郡史」から引いて、
《引用開始》
長綱の祖は田原藤太秀郷二十二代の孫長谷川治郎左衛門正宣にして、駿河国志太郡小川村に住し、今川氏に仕ふ。墓は高さ約三尺、表面に「海寶院殿節叟玄忠大居士」と刻し、裏面に「家康公御代之奉行長谷川七左衛門少尉藤原朝臣長綱
六十二歳 於江戸卒」と鐫(ほ)る。
《引用終了》
(「三尺」は約九十一センチメートル)とある。
「山門 燒失の後未再建せす」同じく「神々の坐す里・横須賀水道路を歩く ④長谷川七左衛門長綱と海宝院」の記事に、「逗子町誌」を引き、
《引用開始》
山門 今間口一町余の老杉の中央に朱塗りの山門あり其色彩愛すべし。されど焼失せる古の山門は更に壮大にして左右松並木にて圍(かこ)める十間幅の参道に接し、二尺余の十六羅漢を安置せしも、今只、禅学修業の霊場たる意を表はせる「獅子林」の扁額のみを掲ぐ、十六羅漢は本堂内陣に移す。
《引用終了》
とある。]
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