橋本多佳子句集「海彦」 青蘆原 Ⅱ
遠賀川を渡る 二句
咳しつゝ遠賀(をが)の蘆原旅ゆけり
青蘆原をんなの一生(よ)透きとほる
[やぶちゃん注:本「青蘆原」句群の標題句二句。これもやはり昭和二六(一九五一)年五月に博多で催された『天狼』三周年記念博多大会に出席した折り、遠賀川まで足を延ばした際の詠。特に二句目は嘗ての師久女を追懐して余りある。いや、寧ろ、そこに老いを迎えた(当時多佳子五十二)自身の影をもダブらせているように思われる。
前書の久女の句は、昭和七(一九三二)年秋の句で、久女没(昭和二一(一九四六)年一月二十一日。満五十五歳)後、六年後に日の目を見た昭和二七(一九五二)年十月刊「杉田久女句集」では、まず「水郷遠賀 十一句」の二句目に「菱刈ると遠賀の乙女ら裳を濡すも」と載り、すぐ後に、「水郷遠賀 三句」の二句目に、この句形で出る。以下に後者を引用する。
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水郷遠賀 三句
菱實る遠賀の水路は縱横に
菱採ると遠賀の娘子(いらつこ)裳(すそ)濡(ひ)づも
菱摘むとかゞめば沼は沸く匂ひ
「遠賀川」は福岡県南東部にある現在の嘉麻(かま)市(旧嘉穂(かほ)郡嘉穂町(まち))の馬見山(うまみやま)に源を発し、筑豊地方の平野部を流れて響灘(玄界灘)へと注ぐ川で、久女は好んでこの下流域(水巻町から河口近くの芦屋町辺り)を吟行した。富士見書房平成一五(二〇〇三)年刊の坂本宮尾氏の「杉田久女」によれば、この芦屋は『九州のいわば海の玄関で、京都と大宰府を結ぶ官道の重要な地点で』、『京都から来た役人たちは』、ここ旧地名で「塢舸(をか)の水門(みなと)」(これが「岡賀」「遠賀」と表記が変化して濁音化撥音化して「遠賀」となったとある)『から九州に上陸し、逆に京都へ帰る役人はここから船に乗った』とあり、「万葉集」にも(巻七の一二三一番歌)、
天(あま)霧(き)らひ日方(ひかた)吹くらし水莖(みづくき)の岡の水門(みなと)に波立ちわたる
と詠まれている。「水莖の」は「岡」の枕詞。
――空一面に曇って、東の方から風が吹いているようだ……岡の湊に波が一面に立ち渡っているよ――
の意。
坂本氏は杉田久女の本句について、
《引用開始》
「濡づ」とは水につかる、濡れるの意。「裳(も)を濡(ひ)づも」あるいは「裳の裾ぬれに」は万葉時代に用いられた女性の官能的な美を詠う慣用表現である。久女はこの句を何度も推敲して「乙女は」「乙女ら」「娘子」の三種類の表現を試みている。「乙女は」の助詞「は」は説明的だ。「乙女ら」よりも「娘子」のほうが字面がいい。そのため久女は最終的に娘子を採用したのであろう。久女は「娘子」に「いらつこ」とルビをふっているが、辞書には「いらつこ」とは若い男のこと、若い女は「いらつめ」とある。そうなるとこの読みには無理がありそうだ。
《引用終了》
とある。
私は、菱を採る際に詠われ労働歌は、実は広くアジアに於ける歌垣(ラブ・ソング)であったのだと思う。日本初公開のベトナム映画「無人の野」(一九八〇年)の冒頭の、美しいそのベトナム語の歌声(男性から女性へ)を私は忘れることが出来ない(確証はないが、あれは菱採りであったように思う)。菱採りという設定自体が既にしてロマンスなのだと私は信じて疑わぬのである。
何より、私は菱が大好きなのである。一年草の水草で池沼に生える双子葉植物綱フトモモ目ヒシ科ヒシTrapa japonica の実は澱粉が凡そ五十二%含まれており、茹でたり蒸したりして食すると栗のような味がする(以上はウィキの「ヒシ」に拠る)。私は私の年代では珍しいヒシに親しんだ経験のある人間である。鹿児島出身の母の実家は大隅半島中央の岩川というところにあったが、小学校二年生の時に初めて訪ねた折り、近くの山陰の池に平舟を浮かべて、鮮やかな緑色のヒシの実をいっぱい採って、茹でて食べた思い出がある。それから三十年の後、妻や友人とタイに旅行し、スコータイの王朝遺跡を訪れた際、路辺で婦人が黒焼きにしたヒシの実を小さな竹籠に入れて売っていた。それは棘が左右水平方向にほぼ完全に開いたもので実の湾曲が殆んどない如何にも美しいのフォルムであった(グーグル画像検索「ヒシの実」はこちら)。まだ二十歳の美しいガイドのチップチャン(タイ語で「蝶」の意)に「これは日本語ではヒシと言います」と教えると、「ヒシ」という名をノートに記し、何を思ったものか、そのヒシの実一籠を自分のお金で買い求め、私にプレゼントしてくれた。それからまた三十年近くが経つ。……そろそろヒシに出逢えそうな予感がする。……]
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