『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 能見堂(一)
●能見堂
能見堂は。稱名寺の艮位即ち金澤西北の山頂に在りし堂名なり。山に登れは。路傍に一茅亭を構へ。老媼茶を瀹(に)て客に供し指點(してん)して其の勝景を説く。擲筆松の下もと一蘭若あり。禪宗(洞家)にして地藏院と名く。其の門に篆榜して擲筆山といひ。其の堂に扁額して能見堂といふ共に僧心越の命して手書(しゆしよ)せし所のもの。堂の廢せること已に久し。扁額亦在る處を知らず。而して人尚ほ舊に仍り能見堂を以て之を稱す。或は地名なりと思ふに至れり。
[やぶちゃん注:本条は少し長いので、各項で注する。本文の読み易さを考え、注の後を一行空けた。
当地に建つ金沢区役所の説明版によれば、明治初めころまではこの擲筆山地蔵院(擲筆山は「てきひつざん」と読むのであろう)という寺院があり、能見堂と呼ばれていたとあり、「能見堂」の名が出る一番古い資料は本文でも後に引く室町時代の文明十八(一四八六)年成立の「梅花無盡蔵」で、これに「濃見堂」と出るとする。但し、創建は不明で、江戸時代に書かれた「能見堂縁起」には平安時代、藤原道長が結んだ草庵を始まりとしているとある(信ずるに足らない)。『なぜ能見堂の名が付いたのかと言うと、よく見える(能(よ)く見える)からとか、巨勢金岡(こせのかなおか)という絵師がこの景色を描こうとしたが、あまりの美しさと潮の満(み)ち干(ひ)の変化のため描けず、筆を捨てのけぞったから(のけ堂)とか、地蔵を本尊とするため六堂能化(ろくどうのうげ)の意味から取ったからなどその他いろいろな説があ』ると記す(「六堂能化」は六道の巷(ちまた)に現れては衆生を教化し救う地蔵菩薩のことを指す)。能見堂は初めは小さな辻堂で、それさえも無くなった時代があったが、それを江戸時代の寛文年間になって、この地を領地とした久世大和守広之(後注)が、江戸増上寺の廃院であった地蔵院を、ここに移して再建、寺院としたとある。『交通の要所でもあった能見堂は、眺望が素晴らしかったので、その景色を中国の「瀟湘八景」に当てはめて、古くから人々は、「金沢八景」と呼んで』いたことは、慶長十九(一六一四)に年に書かれた三浦浄心の「順礼物語」という本に出、徳川家康もこの景色を愛して江戸城の襖絵にもここからの景色が描かれていたとある(三浦浄心は江戸初期の仮名草子作家。相模国の三浦道寸(義同)の同族で北条氏政に仕えた武士であったが、主家滅亡の後、江戸に出て商人となり、後に天海僧正に帰依、入道した。慶長年間の世相「慶長見聞集」「北条五代記」「そぞろ物語」等の著作がある。ここは平凡社「世界大百科事典」に拠る)。『多くの文人墨客たちもこの地を訪れるようになり、それを紀行文や詩、歌などに残し、絵師たちはここからの絵を描き』、『また境内に碑なども建てられ、能見堂からは、案内図などが売り出され』た。天宝五(一八三四)年に出版された「江戸名所図絵」に描かれた能見堂の絵を見ると(私の電子テクスト「新編鎌倉志卷之八」に「能見堂 筆捨松」の絵として掲げてあるのでご覧になられることを強くお薦めする)、繁栄していた当時の姿を知ること出来る。本堂は二間半(四・五メートル)四方で、本尊は地蔵、『大きな松は、巨勢金岡の伝説がある筆捨の松で、その手前で、望遠鏡から景色を見ている人もい』る。しかし明治二(一八六九)年に火災に遇い、その後、無住となり、『その上、鉄道やほかの道も出来たため、さびれて、訪れる人も次第に少なくなってしまい』『今は、「金澤八景根源地」の碑などが、当時の面影をと留めるだけになってしま』ったとある。
「艮位」は「うしとらのゐ」で丑と寅との中間の北東を指す。陰陽道で鬼門とされるから、ここに封じのための堂が造営されたと考えてもよいか。
「一茅亭」現存しない。私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」に松を配した能見堂の図があり、その眺望のさまも描かれてある。前にも言った通り、現在はこのような眺望は望めないので、是非、一見されたい。
「擲筆松」前の段の注に引用した「新編鎌倉志卷之八」及び次段の本文と注を参照。
「洞家」曹洞宗。
「篆榜」「てんばう(てんぼう)」で、「篆」は篆刻、「榜」は狭義には官僚化された禅林に於いて上位から下位に対して告知される掲示文を指すが、ここは単に門の扁額に字(篆刻は必ずしも篆書である必要はない)を彫ることを言っている。
「堂の廢せること已に久し」前の段の注に引用した「新編鎌倉志卷之八」に、『昔は堂なし』『今の堂は、頃年、久世(くぜ)大和の守源の廣之(ひろゆき)建立なり』とある。「久世大和の守源の廣之」久世広之(慶長十四(一六〇九)年~延宝七(一六七九)年)は若年寄・老中。下総関宿藩主。第二代将軍秀忠及び三代将軍家光の小姓から寛永十二(一六三五)年)に徒頭となり、翌年には従五位下大和守に叙任されている。承応二(一六五三)年には四代将軍家綱お側衆、寛文二(一六六二)年に若年寄、翌年に老中。「今の堂は、頃年、久世大和の守源の廣之建立なり」とあるが、道長のものはとうに廃れていたものと思われ、これは「今の堂」、則ち当時の新築の堂舎屋のことを指し、広之が寛文年間に増上寺にあった地蔵院を、ここへ移して擲筆山地蔵院と称したものを指している(以上の事蹟は主にウィキの「久世広之」を参照した)。]
抑能見堂は「ノツケ」即ち絶倒の義にして。ノケニソルの意なり畫師(ゑし)金岡(かねをか)の故事に基く。後人其の俚語なるを嫌ひ。代ゆるに今の字を以てし。益々其の義を失せり。能見(のうけん)或は濃見(のうけん)にも作れり。
[やぶちゃん注:以下の「梅花無尽蔵」の引用は、底本では全体が一字下げ。]
梅花無盡藏云。出二金澤一七八里許。攀二最高頂一。則山々水々面々之佳致。昔畫師金岡絶倒擲筆之處。有ㇾ名無ㇾ基。但其名不二甚佳一。相傳曰濃見堂也。又云畫師擲筆之峰。
[やぶちゃん注:「畫師金岡」巨勢金岡(こせのかなおか 生没年未詳)のこと。九世紀後半の伝説的な画家。宇多天皇や藤原基経・菅原道真・紀長谷雄といった政治家・文人との交流も盛んであった。道真の「菅家文草」によれば造園にも才能を発揮し、貞観十(八六八)年から十四(八七二)年にかけては神泉苑の作庭を指導したことが記されている。大和絵の確立者とされるものの、真筆は現存しない。仁和寺御室で彼は壁画に馬を描いたが、夜な夜な田の稲が食い荒らされるとか、朝になると壁画の馬の足が汚れていて、そこで画の馬の眼を刳り抜いたところ、田荒らしがなくなったという話が伝わるが、その伝承の一つに、金岡が熊野参詣の途中の藤白坂で一人の童子と出会ったが、その少年が絵の描き比べをしようという。金岡は松に鶯を、童子は松に鴉を描き、そうしてそれぞれの描いた鳥を手でもってうち払う仕草をした。すると二羽ともに絵から抜け出して飛んでいったが、童子が鴉を呼ぶと飛んで来て絵の中に再び納まった。金岡の鶯は戻らず、彼は悔しさのあまり筆を松の根本に投げ捨てた。その松は後々まで筆捨松と呼ばれ、実はその童子は熊野権現の化身であったというエピソードが今に伝わる。描こうとして、余りの美景、その潮の干満による自在な変化に仰(の)け反(ぞ)ってしまった(ということは描かなかったということである)という本話や、後掲される「筆捨松」の話柄は明らかにこの話の変形であって、実話とは信じ難い。なお、ウィキの「能見台」によれば、それから七十年余り後に、『藤原道長が設けた草庵が能見堂とな』ったとする。
「梅花無尽蔵」は戦国期の五山の学僧(後に還俗)万里諸九(生没年未詳。没年は永正初年(元年は一五〇四年)頃とする)の詩文集。
漢文部分を書き下す。底本の返り点には必ずしも従っていない。但し、「梅花無尽蔵」を確認したところ、最後の部分は当該書の文脈では、実は集九作の漢詩の詩題であることが分かる(「相傳曰濃見堂也。」からその詩題の「畫師擲筆之峰」の詩題が記されるところの間には省略がある)。一応、外に出して文脈に添うようにかく訓じた。
*
「梅花無盡藏」に云はく、『金澤を出でて、七、八里許(ばか)り。最高頂(さいかうてう)に攀(よ)づれば、則ち山々水々(さんさんすいすい)にして面々(めんめん)の佳致(かち)あり。昔、畫師(ぐわし)金岡(かなおか)、絶倒(ぜつたう)して筆を擲(なげう)つの處なり。名は有れども、基(もとゐ)は無し。但し、其の名は甚だ佳(か)ならず。相ひ傳へて曰はく、「濃見堂なり」と。』と。又、云ふ、「畫師擲筆の峰」と。
*
このミスは『風俗画報』の筆者がここを書くに際して「新編鎌倉志卷之八」の「筆捨松」や「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」の「能見堂」の条を不完全に引用した結果であると思われる。以下にそれぞれ掲げておく。まず、「新編鎌倉志卷之八」の「筆捨松」と私の注(一部省略)。
*
筆捨松(ふですてまつ) 堂の前にあり。金岡(かなおか)、金澤の多景を感して、此松の下(した)にて筆を捨しと也。故に名く。萬里居士が詩あり。【梅花無盡藏】に云、出金澤七八里許、攀最高頂、則山々水々、面々之佳致、昔畫師金岡、絶倒擲筆之處、有名無基、但其名不甚佳、相傳曰濃見堂也、又云、畫師擲筆之峯。
[やぶちゃん注:以下は、底本では四句が読点で連続するが、明らかな七言絶句であるので、以下のように表示する。]
登々匍匐路攀高
景集大成忘却勞
秀水奇山雲不裹
畫師絶倒擲秋毫。
[やぶちゃん注:「梅花無尽蔵」の漢文を影印によって書き下したものを以下に示す(詩には括弧を附さずに送り仮名を補った)。
金澤を出でゝ、七八里許(り)、最高頂を攀れば、則ち山々水々、面々の佳致なり。昔し、畫師金岡、絶倒して筆を擲つの處、名有(り)て基ひ無し。但(し)、其の名甚だ佳ならず。相(ひ)傳へて濃見堂と曰ふなり。又云(く)、畫師筆を擲つの峯と。
登々 匍匐 路 高きを攀づ
景 集めて 大成 勞を忘却す
秀水 奇山 雲 裹ツヽまず
畫師 絶倒して 秋毫を擲つ
これは「江戸名所図会」にも引用されており、それを見ると「相傳曰濃見堂也」と「又云、畫師擲筆之峯」の間に中略があることが分かる。因みに「江戸名所図会」では漢詩の後に、
涼しさや折ふしこれはと筆捨松 西山宗因
ゆづりてよ筆捨松に蟬の吟 同
を載せる。
「畫師擲筆」は固有名詞であるから返読せず「がしてきひつ」と読む方がよいと思う。]
*
因みに、「新編鎌倉志卷之八」の私の電子テクストではネット上で採取した、歌川広重作の嘉永六(一八五三)年「武相名所手鑑」の「従能見堂金沢八景一覧 其一」(リッカー美術館所蔵)の画像を示してある。これは筆捨松の全容に加えて、能見堂からのロケーションが近代的なパースペクティヴで描かれ、美事である。一見されたい。
次に「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」の本文と私の注(「筆捨松」は「新編鎌倉志」とほぼ内容が同じなので引用しない)。
*
能見堂 稱名寺より西北にて、山上にあり。此所は釜利谷村の内なり。里諺にいふ、むかし巨勢の金岡といふ畫の妙手なる人、玆の風景を寫さんとして來りしが、其多景なるを見て、のつけにそりたるゆへに、のつけん堂ともいえるとぞ。又は風景の能見ゆるとの名なりともいふ。昔より堂ありしが、文明の頃、萬里が遊觀せし砌は、堂宇も廢しけるにや。【梅花無盡藏】に云、
[やぶちゃん注:以下、漢詩まで底本では全体が一字下げ。]
昔畫師金岡、絶倒轍輩之虛、有名無基、但其名不甚佳、相傳曰、濃見堂也云云、題畫師擲筆之峰。
登々匍訇路攀高。 景集大成忘却勞。
秀水奇山雲不裹。 畫師絶倒擲秋毫。
又里老の話るに、昔此堂は閻魔堂守り。是を能見堂と稱せり。其時に、此地へ遊覽せし書生が、能見堂に憇ひ、堂守の老僧にいひけるは、此所より景色を望み盡せるとて、能見堂と名附しは、文盲なるものゝ授たる堂の名なりと笑ひしかば、老僧が答えしは、此堂號は、眺望のよきゆへ名附たるにあらず。本尊閻王の化度する因緣を有をもて能見と稱すると、佛經に見えたり。貴客文字に通じ給ふとも、佛道の奥義を知たまはぬゆへなりと笑ひしかば、書生また答ふる言葉なかりしとぞ、土人が傳説にはいひけれども、其慥なる事はしらず。久世大和守康之の、此邊を領し給ふ時、堂宇の廢せしを再建せられ、本尊に地藏尊を安じ、擲筆山地藏院と號す。閻魔は、もと地藏の化現なるゆへ、再建には本尊を地藏に改けるにやあらん。堂に横額を掲ぐ。明朝の心越禪師が小篆に、能見堂と書せり。
[やぶちゃん注:この漢文部分は同文が「古松」「筆捨松」に既出、そこで書き下しも示してある。但し、ここでは「匍匐」が「匍訇」となっている。一応、「匍訇」のままで示しておいたが、この「訇」(音・コウ)は大きな音の形容で意味が通じないから、これは明らかに「匐」の誤字か誤植である。
私はこの書生と僧の対話が好きである。ここで僧は「能見」の意を説いて、書生の民を小馬鹿にした笑いを、その不覚なる無知に於いて鏡返しで笑っているわけである。]
*]
然るに金澤の八勝皆能く見ゆる故に。此の稱ありとするは非なり江戸名所圖會に。
[やぶちゃん注:以下引用「作られたりしかとあり。」までは底本では全体が一字下げ。]
澤庵和尚の鎌倉紀行に能見堂の松と言ふに立よりて。金澤を見下(みおろ)せは。詞にも及ひかたしと記されたるは。地藏寺を本尊とする故。六道能化の意によりて能化堂には作られたりしかとあり。
能化の説。亦恐らくは附會なり。況や太宰氏の湘中紀行其他には。閻羅(えんら)の木像を置きしよしを記せるをや。
[やぶちゃん注:
以下、やはり私の電子テクスト沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」より本文と注を少々長いが引用する。能見堂を訪れた当該箇所を太字にした。
*
あけゆけば海道をふるに袖も引ちぎらず、上り下り人しるしらず打すぎ打すぎゆく人、いづれか世に殘りとゞまるベき。夢にあひ夢に別る、いづれをうつゝぞや。行とまるべき終のやどりをしる人やある。本覺の都とやらんも名にはきゝつらん、覺つかなし。
東往西還見幾人 人々相遇孰相親
親疎不問草頭露 露脆風前夢裡身
[やぶちゃん注:書き下す。
東往 西還 幾人をか見る
人々 相ひ遇ひ 孰(いづ)れか相ひ親しむ
親疎問はず 草頭の露
露は風前に脆く 夢裡の身
底本では「相」に送り仮名を振らない。]
西行法師、
いつくよりいつくにかよふ道なれは この世をかりの宿といふらん
とかゝる事を聞ても、身のゆくへおもふ人ぞまれなる。
とまる身もゆくも此世を旅なれは 終のやとりはいつちならまし
と口のうちにつぶやきながら行に、かしこの里のこなたより左に付て行末こそ金澤へ入道なれといふ。そこの里の名をとへばかたびらの里と聞て、
地白なる霜のあしたははたさむし 夏そきてみむかたひらの里
と俳諧して谷相の道をへてゆく。やうやうにしてたかき所にのぼれば、ふるき寺など見付て、山路のうれたき心もやぶれぬ。魂傷山峽深愁破崖寺古と杜工部がつくりけむ詩をおもひ出ぬ。又一坂をのぼれば一本の松あり。おひのぼりたるまさきのかづら靑つゞら、くる人もまれなるに、山男ひとり爪木とるが、是にとへば能化堂の松これ也といふに、立よりて金澤を見おろせば詞もなくて、實にや此入海はいにしへよりもろこしの西湖ともてなしけるときくも僞ならじ。追門の明神とて入海にさし出たる山あり。古木くろみ麓に橋あり。橋の下よりしほさし入ぬれば、はるばるとをき山のいりまで湖水となり、しほ引ぬれば水鳥も陸にまどふにこそ。水陸の景氣もあした夕にかはり、金岡も筆およばざりしと也。來て見る今は冬枯の野島が崎とをしふるは、秋の千種の色もなし。水むすびつゝすゞみける折にふれてや名付けん、名は夏島に夏もなし。島根に海士の小屋みえて網をほしたる夕附日、漁村のてらし是也。そめてかはらぬ筆の跡、硯の海のうるひかや、雨にきてまし笠島は、人の國なる瀟湘のよるの心もしられけり。目路とほけれど富士の根を心によせてまだふらぬ江天の雪と打ながむ。浪たちかへる市の聲、風まち出る沖つ舟、烟寺の鐘もひゞきゝぬ。洞庭とてもよそならず、月の秋こそしのばるれ。水のそこなる影を見て、臂をやのぶる猿島は、身のおろかなるなげ木より、おとしてけりな烏帽子島、海士の子どものかり殘す、沖のかぢめか鎚の音、荒磯浪に釘うたせ、あさ夕しほやさしぬらん。箱崎也とをしふるは、松さへしげり、あひにあふ、しるしの箱をおさめつゝ、西を守ると聞つるに、東の海のそこふかき、神の心ぞたふとかりける。
島々やいく浦かけて山と歌 いかになかめん三十一文字
[やぶちゃん注:「いつくよりいつくにかよふ道なれは この世をかりの宿といふらん」この一首、西行の和歌に見出し得ない。識者の御教授を乞う。
「かたびらの里」帷子の里。かむいさんの個人ブログ「横浜の街紹介」の「帷子の里」に、帷子の地名は、「古(いにしへ)よりありし所なりと、されどその名の起りし故は傳へず」として「新編武蔵風土記稿巻文六十九 橘樹郡之十二 神奈川領編」に、道興准后の巡歴集「廻国雑記」(文明一八(一四八六)年成立)と伝太田道灌「平安記行」(室町中期成立)に、「帷子の里」と載る旨の紹介があるとする。「廻国雑記」には、
新羽を立ちて鎌倉に到る道すがら、さまざまの名所ども、委しく記すに及び侍らず。かたひらの宿といへる所にて、
いつ来てか、旅の衣をかへてまし、風うら寒きかたひらの里
と載る。かむいさんのブログでは更に、『かたひらの里は現在の「橘樹神社」「神明社」あたりから元町(後の古町橋)にかけての』里名で、『新羽から「下の道」で芝生(現在の浅間町)の「追分」より元町→神明社の裏山を通り→かなざわかまくら道→岩井原の「北向き地蔵」→弘明寺→上大岡に至り「もちゐ坂」へ向かう』と、同定されておられる。この橘樹(たちばな)神社とは横浜市保土ヶ谷区天王町にあり、そばに現在も帷子川(かたびらがわ)と称する川が流れている。一説に、この天王町一帯は片方が山で、片方が田畑であったため、昔「かたひら」と呼称されたことに由来するという(この部分はウィキの「帷子川」に拠る)。この「かたびらの里」で「以下にこなたより左に付て行末こそ金澤へ入道なれ」とあるから、この歌は、現在の西横浜辺りで詠まれたと考えられる。
「うれたき」「慨し」、元「心痛(うらいた)し」で、腹立たしい、うらめしい、いまいましい。「谷相」、谷間(たにあい)の景色の開けぬ中を延々と歩いて鬱屈していた。そこへ、景観が開けて解放された思いがしたのである。
「魂傷山峽深愁破崖寺古と杜工部がつくりけむ詩」底本の訓点は納得がいかないので、私の自己流で訓読すると、
魂(こん) 山峽の深きに傷みしが
愁(うれひ) 崖寺(がいじ)の古きに破らる
杜甫の五言古詩「法鏡寺」の第三・四句目であるが、字に異同がある。
身危適他州
勉強終勞苦
神傷山行深
愁破崖寺古
嬋娟碧蘚淨
蕭槭寒籜聚
回回山根水
冉冉松上雨
洩雲蒙淸晨
初日翳複吐
朱甍半光炯
戸牖粲可數
拄策忘前期
出蘿已亭午
冥冥子規叫
微徑不複取
身危適他州
勉強終勞苦
愁破崖寺古原文も参考にさせて頂いた紀頌之氏の「杜詩100」によれば、前半の紀頌之氏の訳は(訳の部分を連続させて引用)、
《引用開始》
身の危険を覚悟の上で他の州の方へゆくのであるが、苦を厭わないことに努めようとはするが、結構きつい旅である。
自分の精神は山道を余りに深く入るのでしんぱいになってくる、愁いのこころがうち破られたのは突然に崖のところに古寺がみえてきたのだ。
みれば寺前に青ごけがしきつめてあるのであでやかで美しい感じになっている、こちらでは竹の皮が寒風に吹きよせられてさびしい様子である。
山の下をながれる水は回りうねって音をたてて流れる、そうしていると松の上からはぽつりぽつり次第に雨がふりそそいでくる。
《引用終了》
これだと、
神(しん) 山行の深きに傷みしが
愁 崖寺の古きに破らる
か。第一句・第二句はもとより、次のシーンの松も対応しており、沢庵が本詩を想起したことが如何にも、と共感される。本詩の後半部は正しく、紀頌之氏のところで御鑑賞戴きたい。
「能化堂の松」「能化堂」は能見堂のこと。「新編鎌倉志卷之八」及び「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の「能見堂」の巨勢金岡(こせのかなおか)筆捨松の条々を参照されたい(絵図もある)。
「追門の明神」瀬戸明神のこと。「新編鎌倉志卷之八」の「瀨戸明神」に、『瀨戸〔或作迫門(或は迫門に作る)。〕』と割注する。
「人の國なる瀟湘のよるの心もしられけり」水戸藩主徳川光圀が招いた明の禅僧東皐心越(とうこうしんえつ)が撰したものが金沢八景の由来であるが、その元となった中国で画題として知られる湖南省の瀟湘八景(瀟水が湘江に合流、他の水系も加わって洞庭湖を形成する一帯)の内、「瀟湘夜雨」(瀟水と湘水の合流する川面に降る夜の雨)の風情を受けた謂い。この前後、描き出す景観といい、韻律と言い、私は非常に美しく上手いと思う。下らぬ私の注など、不要という気さえしてくるのである。
「箱崎」現在の横須賀市箱崎町。吾妻島。現在は全島が米海軍吾妻倉庫地区に属しているために一般人は原則立ち入ることが出来ない。元は岬(箱崎半島)であったが、明治二二(一八八九)年に基部に水路が開削されて島となった(以上はウィキの「吾妻島」に拠った)。
「あひにあふ」とは「箱崎」という名称から身と蓋を連想したものか。また、その彼方の海が走水の海であり、倭建命(やまとたけるのみこと)のために我が身を海神に捧げた后弟橘媛(おとたちばなひめ)の二柱一体の幻影が沢庵を捉えたのかも知れない。識者の御教授を乞うものである。]
*
「太宰氏の湘中紀行」江戸中期の儒者太宰春台の享保二(一七一七)年の作。因みにこの紀行で春台は、訪れた駆け込み寺東慶寺の男子禁制の札に憤慨、『松岡は淫婦の業林』と記している。
「閻羅の木像」閻羅」は閻魔のこと。先に掲げた「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」の「能見堂」に古老の話として載る。地蔵と閻魔は本地垂迹の関係にあることは確かではある。]
« 今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 53・54 酒田 初眞桑四にや斷(わ)らん輪に切らん / 花と實と一度に瓜のさかりかな | トップページ | 橋本多佳子句集「紅絲」 秋蛾 »