『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 法勝寺
●法勝寺
沼間山法勝寺と號す、日蓮宗、金谷村大明寺末、本尊三寶及十一面觀音、行基作長二尺五寸。
[やぶちゃん注:現在の逗子市沼間四丁目にある。天平年間(七二四年~七四九年)に天台宗天童山正覚寺として創建された、山中にある神武寺(神亀元(七二四)年創建)と並ぶ古刹。永仁年間(一二九三年~一二九九年)に大善阿闇梨日範聖人が宗論に勝ち、日蓮宗に改宗、沼間山法勝寺と改めた。また源頼朝の父源義朝がこの辺りに沼浜(ぬはま)城(沼浜亭・沼浜館とも。沼間は古くは沼浜郷と呼ばれ、「倭名類聚抄」にも鎌倉郡の一つの郷として記されている)という居館を持っていたとされ(本屋敷趾は鎌倉寿福寺附近とされる)、現在、境内は沼浜城趾とされる。「逗子町誌」によれば、本寺には延享元(一七四四)年足利家重筆、及び文安三(一四四六)年足利義正筆になる寺伝が残るとあり、沼間の貴重な古資料である。この本尊行基作十一面観音菩薩には大蛇伝説がある。前でも引き、ここでも参考にさせて戴いた
pok**hino*324 氏の個人ブログ「地球のしずく」の、「神々の坐す里・横須賀水道路を歩く ②法勝寺十一面観音」の記事(やはり写真も豊富で必見)には、「法勝寺の由来」として以下のような伝承が語られてある。切り離されてある文章を繫げて(一部割愛)引用させて戴く。
《引用開始》
その縁起によると、太古の沼間一帯は沼地で、すぐ近くまで海岸がせまっていた場所だった。ちょうどいまの桜山と沼間の境に「汐止め橋」とつけられた橋が残っているのは、そのあたりまで海岸だったということが推測できる。
ある日、奈良の大仏建立にも尽力を注いだ有名な行基菩薩が、諸国を行脚しているときに、この地を訪れた。ちょうどその頃、この地には七つの頭を持った恐ろしい大蛇が棲んでいて、とこどき西海に現れては火を噴き、毒を吐いて沖を通る船を襲い、人々を苦しませるという不思議なことが起こっていた。
そこでこの国の守護だった長尾左大夫善応は、行基菩薩が、岩殿寺、延命寺、神武寺を訪ねると聞いて、人々を苦しめる大蛇を退治してもらおうと懇願した。行基菩薩は、小船に乗って西海に出て、お経を読みながら祈祷し、ついに大蛇を退治したとある。
このときに行基菩薩が彫刻したのが、この十一面観世音菩薩像だと書かれている。そして長尾善応はじめとする村人は、諏訪神社を建て、七つの頭を持った大蛇を一頭ずつ別の地に祀った。それがいまも残る七諏訪と呼ばれる由縁でもある。大蛇伝説を証明する地名、名称がこの地に多い。
《引用終了》
「金谷村大明寺」現在の横須賀市衣笠栄町にある日蓮宗金谷山大明寺(きんこくざんだいみょうじ)。石渡氏の結んだ草庵を明徳年間(一三九〇年~一三九三年)までのに現在地に移されたとも明徳年間に創建したとも伝えられる。参照したウィキの「大明寺」によれば、『戦国時代には太田氏の帰依を受け、江戸時代初頭には不受不施義の拠点のひとつであった。江戸時代には、江戸幕府から朱印状を受けていた』とある。
「三寶」は三宝尊(さんぼうそん/さんぽうそん)のこと。法華宗・日蓮宗の本尊で仏法僧の三宝を祀るための仏像。参照したウィキの「三宝尊」によれば、『仏教は元来、三宝を尊ぶ宗教である。この三宝の象徴的存在が三宝尊である。三宝尊への礼拝が、即、三宝を尊ぶ意となる。日蓮宗・法華宗では宗派内で本仏について、教義論争が有り、三宝尊への捉え方はまちまちである。ここで、宗門の釈尊本仏論派のひとつの解釈を解説する。三宝は仏・法・僧であるが、仏の第一を釈迦如来とし、法の第一を法華経とし、僧の第一を日蓮とし、三宝の各第一をひとつの本尊にまとめたものが三宝尊であると言う解釈である』とある。リンク先を見ると様々な形式があるあらしいが、法勝寺のそれが孰れであるかは私は行ったことがないので不明。]
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