杉田久女句集 266 花衣 ⅩⅩⅩⅣ 深耶馬溪 六句
深耶馬溪 六句
大嶺に歩み迫りぬ紅葉狩
自動車のついて賑はし紅葉狩
打ちかへす野球のひゞき草紅葉
靑の洞門を見て
洞門をうがつ念力短日も
嚴寒ぞ遂にうがちし岩襖
鎚とれば恩讐親し法の秋
洞門をうがちし僧禪海の像及び碑が靑の洞門の入口にある。
人間の一心は遂に何事も成就するといふ事を感知せらる。
[やぶちゃん注:角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」によれば、昭和一〇(一九三五)年の連作。本句集では異例の長い後書で、その「人間の一心は遂に何事も成就するといふ事を感知せらる」という箇所は、実に実に久女のひたむき且つ恐るべき執心の人生の意思を感じさせるものではないか。因みに、この翌昭和十一年十月、久女は突如、虚子によって『ホトトギス』から除名処分となる。
「深耶馬溪」は既注。「靑の洞門」同じく大分県中津市本耶馬渓町樋田にある洞門(隧道)で、名勝耶馬渓に含まれ、山国川に面してそそり立つ競秀峰の裾に位置する。全長は約三四二メートルで、そのうちトンネル部分は約一四四メートル(ウィキの「青の洞門」に拠る)。中津市公式サイト内の「青の洞門」より引用する(アラビア数字を漢数字に、一部の記号をカタカナに変えさせて戴いた)。
《引用開始》
大正八年に発表された菊池寛の短編小説「恩讐の彼方に」で一躍有名になった、禅海和尚が掘った洞門(トンネル)で、耶馬渓を代表する名勝である競秀峰の裾野に穿たれている。
諸国巡礼の旅の途中に耶馬渓へ立ち寄った禅海和尚は、極めて危険な難所であった鎖渡で人馬が命を落とすのを見て、慈悲心から享保二〇年(一七三五)に洞門開削の大誓願を興したと伝えられている。
禅海和尚は托鉢勧進によって資金を集め、雇った石工たちとともにノミと鎚だけで掘り続け、三十年余り経った明和元年(一七六四)、全長三四二メートル(うちトンネル部分は一四四メートル)の洞門が完成した。
寛延三年(一七五〇)には第一期工事落成記念の大供養が行われ、以降は「人は四文、牛馬は八文」の通行料を徴収して工事の費用に充てており、日本初の有料道路とも言われている。
完成当初は樋田の刳抜(くりぬき)と一般に呼ばれていたが、江戸末期から大正にかけて樋田のトンネルや青の洞門と呼ばれるようになり、大正十二年四月尋常小学校国語読本巻第二十一詠には青の洞門と書かれており、昭和十七年に大分県の史跡指定にあたり、青の洞門が正式名称となったようである。
明治三十九年から翌四十年にかけて行われた大改修で大部分が原型を破壊されたと言われており、現在の青の洞門には、トンネル内の一部に明かり採り窓などの手掘り部分が残っている。
《引用終了》
「禪海」禅海(元禄四(一六九一)年~安永三(一七七四)年)は正しくは真如庵禅海で曹洞宗の六十六部(法華経を六十六部書写し、日本全国六十六ヶ国の国々の霊場に一部ずつ行脚して奉納した僧。鎌倉時代から流行り、江戸時代には広く諸国の寺社に参詣する巡礼又は遊行聖を指す。白衣に手甲・脚絆・草鞋がけで背に阿弥陀像を納めた長方形の龕(がん)を負い、六部笠をかぶった姿で諸国を廻ったが、後には同装の巡礼姿で米銭を請い歩いた乞食に零落した。六部とも。ここは「大辞林」の記載に拠った)越後国高田藩士の子で本名は福原市九郎。生年については貞享四(一六八七)年説もある。両親が亡くなったことから世の無常を感じて出家、諸国を行脚し、正徳五(一七一五)年に得度して禅海と称した。回国の途中で豊後国羅漢寺を参詣した折り、川沿いの断崖に架けられた桟橋、青野渡しが危険で、人馬がしばしば覆没することを知って、これを哀れみ、鑿道の誓願を発して陸道の掘削を思いついた。享保一五(一七三〇)年頃には豊前国中津藩主の許可を得て掘削を始めたが、その後周辺の村民や九州諸藩の領主の援助を得て三十年余りの歳月をかけて、宝暦一三(一七六三)年に完成させた。当時のそれは高さ二丈(約六メートル)、径三丈(約九メートル)、長さ三〇八歩(三六九・六メートル)。開通後、通行人から通行料を徴収したという話も伝わっており、この洞門は日本最古の有料道路とも言われている。菊池寛の小説「恩讐の彼方に」の主人公「了海」(俗名・市九郎)のモデルとなった。『作中では主である旗本中川三郎兵衛を殺害してその妾と出奔、木曽鳥居峠で茶屋経営の裏で強盗を働いていたが、己の罪業を感じて出家、主殺しの罪滅ぼしのために青の洞門の開削を始め、後に仇とつけ狙った三郎兵衛の息子と共に鑿ったものとされるが、主殺しなどのエピソードは菊池の創作である』(以上は引用を含め、ウィキの「禅海」に拠った。一部に前掲した中津市の記載と異なる箇所があるので注意されたい)。]