北條九代記 卷第六 北條義時死去
○北條義時死去
同月十二月、前陸奥守北條義時、心地殊の外に惱み給ふ。日比病氣の事ありしか共、差(さし)て殊なる色にも覺え給はざりし所に、俄に危急悶亂し、人事(にんじ)をも省(かへりみ)給はず、二位〔の〕禪尼を始めて、子息一族の人々手を握り、汗を流し、上に下に返し給ふ。陰陽師(おんやうじ)國道、泰貞を召して、御祈禱仰(おほせ)付けられ、天地災變の祭(まつり)、二座三萬六千の神祭、屬星、如法(じよくしやうによほふ)の太山府君の祭を行ふ。供物その式(しき)を守り、十二種の重寶、五種の身代(みがはり)、悉くその沙汰あり。そのほか、天曹(そう)、地府(ちふ)、八字文殊、訶利帝母(かりていも)、七佛藥師、金輪の法、各(おのおの)修(しゆ)せらるといへども、時移るに隨ひて、いよいよ危急に迫り給ふ。翌日十三日の巳刻に、遂にはかなくなり給ふ。行年(かうねん)六十二歳なり。同十八日、故右大將家の法華堂の、東の山上に葬(ほうむり)て、一堆(たい)の墳墓にぞ埋みける、人世の浮生(ふしやう)、水面の泡、石火電光、一夢中、總て無常の有樣、誰(たれ)かは當(まさ)に遁(のが)るべきなれ共、榮貴(えいき)、今、盛んなる時節に方(あたつ)て、家門、是(これ)、富(とみ)に至る。武威、輝(かゝや)く最中ぞかし、天下の事、如何(いかゞ)あらんと危む人も有りけり、式部大夫、駿河守、陸奥四郎、同五郎、同六郎、三浦駿河前司、その外、宿老、伺候の輩、各(おのおの)服衣(ふくい)を著(ちやく)せしめ、御家人等(ら)、參候(さんこう)して、忌(いみ)に籠り給ひしかば、鎌倉中打潛(うちひそみ)て、物哀にぞ見えにける。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十六の貞応三(一二二四)年六月十二日・十三日・十八日の記事に基づく。
「日比病氣の事あり」死因は「吾妻鏡」では衝心脚気と急性消化器疾患とされるが(後掲)、ウィキの「北条義時」には、『偉大な幕府指導者の急死であったため憶測を呼び、近習の小侍に刺し殺されたとの異説(『保暦間記』)や、後妻の伊賀の方に毒殺されたとする風聞(『明月記』)もあった』と記す。
「人事をも省給はず」人事不省(昏睡状態)になられ。
「天地災變の祭」星宿信仰に関わる天変地異の修法。前段に見たような、ここのところの異常な旱魃や怪魚の大量死等を考慮したものか。
「二座三萬六千の神祭」これは道教に於ける神の全数であり、これら神は天宮のみでなく、この地上に来臨して山や洞窟、さらには個々人の身体内にも宿るとされた。義時の体内の神のみでなく、その総ての神に病気平癒を祈る修法であろう。
「屬星」属星祭(ぞくしょうさい)。前章で既注であるが、陰陽道で生年によって決まり、その人の運命を支配するとする星、生年の干支を北斗七星の各星に宛てたものに祈念する修法。
「如法の太山府君(ぶくん)の祭」正式な法式作法に則った泰山府君祭(前章に既注)。元来、この陰陽道の最奥義の修法は病気などの身体に関わる祈願を目的としたものである。
「その式」それぞれの修法の同じく決められた通りの供物に関わる法式、の意。
「十二種の重寶」恐らくは陰陽道の泰山府君及び天界及び冥界の十二の神(以下の注「天曹、地府」を参照のこと)をシンボライズした霊的祭祀物であろう。
「五種の身代」「吾妻鏡」の割注(後掲)によれば、馬・牛・男女の装束などとあり、これは所謂、修法の中で物の怪(病魔)を患者から移すための形代(かたしろ)・依代(よりしろ)の類いと思われる。この「馬・牛」というのも、「式」に厳密に従ったと二度も言っているところを見ると、本物の牛馬を用いたのではないかと思われる(人によっては以下に示すようなミニチュアとする)。「男女の装束」とは、人形(ひとがた)の依代で、古くは憑依させて物の怪に喋らせるために実際の処女の娘が用いられたが、憑依霊が邪悪な場合、生命の危険に晒されることから、こうした着衣やひいては人形(にんぎょう)や人を象って切りぬいた紙に代わっていった。
「天曹、地府」天曹地府祭又は天曺(てんちゅう)地府祭のこと。六道冥官祭(ろくどうめいかんさい)とも言う(陰陽道を掌る安倍氏においては、「曹」を用いずに代字として「曺」を用いた)。広義には天曹は天界・天宮、地府は地下の冥界を指す。参照したウィキの「六道冥官祭」によれば、泰山府君と天曹及び地府を中心とした十二座の神に『金幣・銀幣・素絹・鞍馬・撫物などを供えて無病息災・延命長寿を祈祷する儀式である。天皇や将軍の交替という国家の大事にも行われたために陰陽道でも最も重要な儀式として位置づけられた』。『院政期に中国の封禅思想や仏教の六道思想を取りこむ形で行われ、鎌倉時代に入ると、鎌倉幕府の将軍宣下の際に合わせて安倍氏の手によって行われる儀式となった他、天皇や貴族や武士の間で定期的あるいは災厄の発生や天変地異、補任などの臨時の祈祷として行われるようになった。土御門家が室町幕府の庇護下で安倍氏の宗家として確立されるようになると、将軍の御代始の儀式として同家が管掌するようになった。江戸時代に入ると、江戸幕府の将軍宣下では勿論のこと、天皇の即位式の際にも土御門家によって行われるようになり、明治天皇の時に政治的混乱で行われないまま陰陽寮の廃止に至るまで続けられた』。『陰陽道の儀式であるが、中国の封禅思想をはじめ、加持・燻香・打磐などの仏教様式や拍手・奉幣・中臣祓などの神道様式、法螺などの修験道様式が取り入れられた』。祭神とされた十二の神は「冥道十二神」と称されるもので、『泰山府君・天曹・地府・水官・北帝大王・五道大王・司命・司禄・六曹判官・南斗・北斗・家親丈人を指』すとある。
「八字文殊」以下の四種は仏式の修法で、これは息災調伏を祈る文殊菩薩を本尊とするもの。通常の文殊菩薩は頭髪を五髻に結っているが、八字文殊法のそれは八髻に結い、真言も八字で表わされることによる参考にしたMOA美術館公式サイト内のコレクションの「八字文殊菩薩及八大童子像」でこの修法のために描かれた図像が見られる。
「訶利帝母」鬼子母神を指し、破邪調伏をこととする仏教神である。
「七佛藥師」病気平癒の薬師如来を本尊とする修法。西方浄土には阿弥陀如来がいるが、東にも七つの浄土があって此岸に一番近いところから善名称吉祥王如来・宝月智厳光音自在王如来・金色宝光妙行成就王如来・無憂最勝吉祥王如来・法海雷音如来・法海勝慧遊戯神通如来が居り、その最も遠い東方の浄土に薬師琉璃光如来(薬師如来)が居る。その最果ての薬師如来の居る浄土は「浄瑠璃国」「浄瑠璃浄土」などと称せられる。東方の薬師如来に至る如来像七体を並べて祈る方法を七仏薬師法と称する。参照した
Tobifudoson Shoboin 氏の「仏様の世界」の「七仏薬師」によれば、この修法は『天台宗の良源という僧侶が摂関家の安産祈願をしてから特に有名にな』ったとある。
「金輪の法」一字金輪法であろう。以前にも注したが、再掲しておく。「一字金輪」は一字頂輪王・金輪仏頂などとも呼ばれ、諸仏菩薩の功徳を代表する尊像を指す。真言密教では秘仏とされ、息災や長寿のためにこの仏を祈る一字金輪法は、古くは東寺長者以外は修することを禁じられた秘法であったと言われる(国立博物館の「e国寶」の「一字金輪像」の解説に拠る(リンク先に一字金輪像の画像あり)。
「巳刻」午前十時頃。
「故右大將家」源頼朝。
「法華堂」現在の島津家が勝手に作り上げた頼朝の墓と称するものの、怪談下の左側の公園付近にあった頼朝を祭った霊廟。元は頼朝の持仏堂であった。現存しない。
「東の山上に葬て、一堆の墳墓にぞ埋みける」「新編鎌倉志卷之二」に、
*
平の義時が墓 今は亡(なし)、【東鑑】に、元仁元年六月十八日、前の奧州義時を葬送す。故右大將家の、法華堂の東の山の上を以て墳墓とす。號新法華堂(新法華堂と號す)とあり。
*
と記すように、これも早くに消失して現存しない。岡戸事務所編の「鎌倉手帳(寺社散策・観光)」の「北条義時の法華堂跡」に、平成一七(二〇〇五)年に『源頼朝墓東隣の山の中腹から北条義時のものと考えられる法華堂跡が発掘され』、『調査の結果』、一辺が八・四メートルの『正方形の三間堂であったと推測されている』とあり、『近くに「よしときさん」と呼ばれ、義時の墓とされてきた「やぐら」も存在している』として、別ページに「北条義時やぐら」を立てておられる。私も三十年前、このやぐらを検証したことがあるが、規模から見ても義時の「墓」ではないし(そもそも実質上の最高権力者であった義時の、その時代、幕府の最高権力層をやぐらに葬った例はない)、供養のやぐらとしても小さ過ぎるように思われる(やぐらとしては羨道の掘り方が鎌倉期のそれらとは異なる印象を受けた。もっと後世のもののように私には見えた)。私が訪れた当時は八重葎に覆われており、保存状態も劣悪であったが、今はどうなっているのであろう。
「一夢中」ちょっと眠った中で見た儚い夢。
「式部大夫」義時次男の北条朝時(ともとき)。名越次郎朝時とも称した。泰時の異母弟(泰時は側室阿波の局。彼の母は義時の前妻(正室)「姫の前」)この時、満三十一歳。
「駿河守」義時三男の北条重時。朝時の同母弟。当時、満二十六歳。
「陸奥四郎」義時五男の北条政村。義時の後妻伊賀の方の子。後の第七代執権。当時、満十九歳。
「同五郎」義時四男の北条有時。但し、ウィキの「北条有時」によれば、側室の子で、『通称は六郎であり、義時の葬儀の際の序列は、正室所生の弟政村・実泰より下位の最後尾に位置づけられている』とある(後掲する「吾妻鏡」を参照のこと)。当時満二十四歳。
「同六郎」義時六男(推定)の北条実泰。北条政村の同母弟。当時、満十六歳。
「三浦駿河前司」三浦義村。
以下、「吾妻鏡」を引く。まず、貞應三(一二二四)年六月十二日の条を出し、順に葬送まで残さず見る。
○原文
十二日戊寅。雨下。辰尅。前奥州義時病惱。日者御心神雖令違亂。又無殊事。而今度已及危急。仍招請陰陽師國道。知輔。親職。忠業。泰貞等也。有卜筮。不可有大事。戌尅。可令屬減氣給之由。一同占申。然而始行御祈祷。天地災變祭二座。〔國道。忠業〕三万六千神祭。〔知輔〕屬星祭。〔國道。〕如法泰山府君祭。〔親職〕此祭具物等。殊刷如法儀之上。十二種重寳。五種身代。〔馬牛男女裝束等也〕悉有其沙汰。此外。泰山府君。天曹地府祭等數座也。是存懇志之人面々所令修也。但隨移時彌危急云々。
○やぶちゃんの書き下し文
十二日戊寅。雨下(ふ)る。辰の尅、前奥州義時、病惱す。日者(ひごろ)、御心神違亂せしむと雖も、又、殊なる事無し。而るに今度、已に危急に及ぶ。仍つて陰陽師國道・知輔・親職(ちかもと)・忠業(ただなり)・泰貞等を招請す。也。卜筮(ぼくぜい)有り。大事有るべからず。戌の尅、減氣(げんき)に属せしめ給ふべきの由、一同、占ひ申す。然れども、御祈禱を始行す。天地災變祭二座〔國道。忠業〕・三万六千神祭〔知輔〕・屬星祭〔國道〕・如法泰山府君祭〔親職〕。此の祭、具物(そなへもの)等、殊に如法儀の上に刷(さつ)す。十二種の重寳、五種の身代り。〔馬・牛・男女裝束等なり。〕悉く其の沙汰有り。此の外、泰山府君・天曹地府祭等、數座なり。是、懇志を存ずるの人、面々に修せしむ所なり。但し、時の移りに隨ひて彌々(いよいよ)危急と云々。
・「大事有るべからず」占いの結果は「大したことはない」であった。
・「戌の尅、減氣(げんき)に属せしめ給ふべき」占いの続き。「減氣」は病いの陰気が減ずることをいう。「午後八時頃には快方に向かわれるでしょう」と出たのであった。
・「懇志を存ずるの人」「懇志」は親切で行き届いた志し、懇ろな心、厚志の意で、ここは義時に特に心からの忠誠を誓っている人々(具体的には祈誓を修している陰陽師や神主・僧)の謂いであろう。
○原文
十三日己夘。雨降。前奥州病痾已及獲麟之間。以駿河守爲使。被申此由於若君御方。就恩許。今日寅尅。令落餝給。巳尅。〔若辰分歟〕遂以御卒去。〔御年六十二〕日者脚氣之上。霍乱計會云々。自昨朝。相續被唱彌陀寳號。迄終焉之期。更無緩。丹後律師爲善知識奉勸之。結外縛印。念佛數十反之後寂滅。誠是可謂順次往生歟云々。午尅。被遣飛脚於京都。又後室落餝。莊嚴房律師行勇爲戒師云々。
○やぶちゃんの書き下し文
十三日己夘。雨降る。前奥州の病痾、已に獲麟(くわくりん)に及ぶの間、駿河守を以つて使いと爲(な)し、此の由を若君の御方に申さる。恩許に就きて、今日、寅の尅、落餝(らくしよく)せしめ給ふ。巳の尅〔若しくは辰の分か。〕、遂に以つて御卒去〔御年六十二。〕。日者(ひごろ)、脚氣の上、霍乱、計會(けいくわい)すと云々。
昨朝より、相ひ續きて彌陀の寳號を唱へられ、終焉の期(ご)に迄(およぶまで)、更に緩(おこた)り無し。丹後律師、善知識として之れを勸め奉る。外縛印(げばくいん)を結び、念佛數十反(へん)の後、寂滅(じやくめつ)す。誠に是れ、順次の往生と謂ひつべきかと云々。
午の尅、飛脚を京都へ遣はさる。又、後室も落餝す。莊嚴房律師行勇、戒師たりと云々。
・「若君」三寅。後の第四代将軍藤原頼経。
・「寅の尅」午前四時頃。
・「巳の尅」午前十時頃。
・「辰の分」午前八時前後。死亡時間に二時間以上の混乱があるのは何か怪しい感じはするが、それだけ義時の死が予期しない突発的で衝撃的な出来事であったことを物語るとも言えよう。
・「脚氣」ビタミンB1(チアミン)の欠乏によって心不全と末梢神経障害をきたす疾患である。心不全によって下肢のむくみが、神経障害によって下肢のしびれが起きることから脚気の名で呼ばれる。心臓機能の低下・不全、所謂、衝心を併発したときは、脚気衝心と呼ばれる。日本では平安時代以降、京都の皇族や貴族など上層階級を中心に脚気が発生している(ここまではウィキの「脚気」に拠る)。また、ウィキの「日本の脚気史」には、『日本で脚気がいつから発生していたのか、はっきりしていない』が、『『日本書紀』と『続日本紀』に脚気と同じ症状の脚の病が記載されており、平安時代以降、天皇や貴族など上層階級を中心に脚気が発生した。江戸時代に入ると、玄米にかわって白米を食べる習慣がひろまり、上層階級のほか、武士と町人にも脚気が流行した。とくに江戸では、元禄年間に一般の武士にも脚気が発生し、やがて地方にひろがり、また文化・文政に町人にも脚気が流行した。江戸をはなれると、快復にむかうこともあり、「江戸患い」とよばれた。経験的に蕎麦や麦飯や小豆を食べるとよいとされ、江戸の武家などでは脚気が発生しやすい夏に麦飯をふるまうこともあった』とある。
・「霍乱」平凡社の「世界大百科事典」によれば、嘔吐と下痢を起こし、腹痛や煩悶などをも伴う病気の総称で。、身体の冷熱の調和が乱れることによって起こると考えられていた病気。病状からみて、現在のコレラや細菌性食中毒などを含む急性消化器疾患と考えられる。
・「丹後律師」頼暁。
・「善知識」導師。禅宗では参禅の者が師匠をこう呼ぶ。
・「外縛印」合掌をした際に左右の指を根元まで深く差し込む手の組み方を、主に真言宗でこう称した(「高野山真言宗
総本山金剛峯寺」公式サイトのこちらを参照した)。
・「後室」後妻(継室)の伊賀方(生没年未詳)。藤原秀郷流の関東の豪族伊賀朝光の娘。夫義時の急死直後の同年七月には兄である伊賀光宗とともに実子である政村を幕府執権に、娘婿の一条実雅を将軍に擁立しようと図ったが、北条政子が政村の異母兄泰時を義時の後継者としたことから失敗、伊賀の方と光宗・実雅は流罪となった(伊賀氏の変)。但し、子の政村はこの事件に連座せず、後に第七代執権(彼は得宗家ではないので本書のタイトルの「九代」には含まれないので注意)となっている。同年八月二十九日に彼女は政子の命によって伊豆北条へ配流となって幽閉の身となった。四ヶ月後の十二月二十四日には危篤となった知らせが鎌倉に届いており、その後、死去したものと推測される。なお、藤原定家の「明月記」によると、義時の死に関して、実雅の兄で承久の乱の京方首謀者の一人として逃亡していた尊長が、義時の死の三年後に捕らえられて六波羅探題で尋問を受けた際に、苦痛に耐えかねて「義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫んで、武士たちを驚かせている(義時謀殺説である)。以上はウィキの「伊賀の方」に拠った。
・「午の尅」正午頃。
・「莊嚴房律師行勇」頼朝・政子の帰依が厚く、東勝寺や浄妙寺の開山ともなった臨済僧退耕行勇。栄西の弟子に当たる。
○原文
十五日辛丑。晴。恒例七瀨御秡依穢延引云々。
○やぶちゃんの書き下し文
十五日辛丑。晴る。恒例の七瀨(ななせ)の御秡(おんはらへ)、穢(ゑ)に依つて延引すと云々。
・「靈所七瀨の御祓」既注であるが再注する。鎌倉御府内を守護する七箇所の霊地(由比ヶ浜・金洗沢・片瀬川・六浦・㹨川・杜戸・江島竜穴)で行われる大規模な鎌倉防衛のための霊的な陰陽道の大祭。無論、義時の忌中の穢れである。
○原文
十七日癸未。晴。午刻地震。
○やぶちゃんの書き下し文
十七日癸未。晴る。午の刻、地震。
○原文
十八日甲申。霽。戌尅。前奥州禪門葬送。以故右大將家法華堂東山上爲墳墓。葬礼事。被仰親職之處辞申。泰貞又稱不帶文書故障。仍知輔朝臣計申之。式部大夫。駿河守。陸奥四郎。同五郎。同六郎。幷三浦駿河二郎。及宿老祇候人。少々著服供奉。其外御家人等參會成群。各傷嗟溺涙云々。
○やぶちゃんの書き下し文
十八日甲申。霽る。戌の尅、前奥州禪門の葬送。故右大將家法華堂東山上を以つて墳墓と爲す。葬礼の事、親職(ちかもと)に仰せらるの處、辞し申す。泰貞、又、文書を帶せずと稱して故障す。仍つて知輔朝臣、之れを計り申す。式部大夫・駿河守・陸奥四郎・同五郎・同六郎幷びに三浦駿河二郎、及び宿老の祇候人(しこうにん)少々、服を著し、供奉す。其の外、御家人等の參會群を成す。各々傷嗟(しやうさ)して涙に溺(おぼ)ると云々。
・「戌の尅」午後八時頃。
・「葬礼の事、親職に仰せらるの處、辞し申す。泰貞、又、文書を帶せずと稱して故障す」「文書を帶せず」とは葬送の儀を任せられたことを示す公的文書か。陰陽師の親職と泰貞がかくも辞退・固辞したのは不審であるが、もしかすると、十二日の義時病気平癒の卜筮が大外れしたことと関係があるのかも知れない(但し、その中には結果として請け負った知輔もいた)。
・「宿老の祇候人」古参の長老の代理人。
・「傷嗟」悼み嘆くこと。]
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