杉田久女句集 269 花衣 ⅩⅩⅩⅦ 企玖の紫池にて 八句
企玖の紫池にて 三句ならびに五句
豐國の企玖の池なる菱の末を
つむとや妹が御袖ぬれけむ
萬葉集豐前國白水郎歌
菱摘みし水江やいづこ嫁菜摘む
[やぶちゃん注:「嫁菜」を久女は「万葉集」の古称に因んで、「うはぎ」と読んでいるものかとも思われる(少なくとも坂本宮尾氏の「杉田久女」で坂本氏はそう考えておられることが後に示す引用のルビによって明らかである)。所謂、野菊(実際に現在でもヨメナに似る近縁種のキク類を総称して「嫁菜」と呼んでいる)と呼ばれるキク亜綱キク目キク科キク亜科シオン属ヨメナ
Aster yomena のこと。参照したウィキの「ヨメナ」によれば、『若芽を摘んで食べる。古くは万葉集の時代から使われていたようで、オハギ、あるいはウハギと呼ばれている。ヨメナご飯なども有名。名前の由来は嫁菜とも夜目菜とも言われ、はっきりしない。一説には、美しく優しげな花を咲かせるため「嫁」の名がつくといわれている。なお、のぎくをヨメナの別名とする記述が国語辞典関連ではよく見られるが、植物図鑑ではヨメナの別名としてノギクを挙げた例はない』とある。]
萬葉の池今狹し櫻影
池の傳説
夕づゝに這ひ出し蛙みな啞と
摘み競ふ企玖の嫁菜は籠にみてり
嫁菜つみ夕づく馬車を待たせつゝ
里人の茅の輪くぐりに從はず
一人強し夜の茅の輪をくぐるわれ
萬葉の菱の咲きとづ江添ひかな
[やぶちゃん注:坂本宮尾氏の「杉田久女」(九六頁)によれば、これらの句(若しくは少なくとも「菱積みし」「摘み競ふ」「嫁菜摘み」の三句)は「企玖の紫池にて」として久女の主宰誌『花衣』第二号(昭和七(一九三二)年四月発行)に初出する(同前書の万葉歌は初出では万葉仮名表記の平仮名ルビ附)。句群は春に始まり最後の三句は夏であるから総てが同一時制の嘱目吟ではなく、吟自体は前年以前のものと考えてよかろう。
「企玖の紫池」企救(きく)は既に何度も出ているが、現在の福岡県北九州市小倉北区・小倉南区・門司区の広域を指す古地名。万葉時代の「企救の紫池」の所在地は不明とされている。久女が佇んでいるのはその比定地の一つと伝承されている現在の福岡県北九州市小倉南区蒲生にある曹洞宗鷲峰山(しゅうぶさん)大興善寺門前にある紫池である(宮尾氏の引用を参照。そこでは「禅寺」となっているが誤認であろう)。但し、ネット上で見る限り(ここの鷲峰(わしみね)公園の紹介記事中に窪地の画像がある)、少なくとも現在は水が全くなく、池跡となっている。当時はまだ狭いながらも沼のような状態であったものらしい(宮尾氏の引用によれば、道路建設工事で無惨にも埋め立てられたとある)。「北九州あれこれ」の「蒲生」 の地図を見ると、池跡の直近東に文字通りの現在は軽く蛇行する紫川が南北に流れ、その右岸が紫川河畔公園として整備されているのが分かる。恐らくはこの周辺一帯の原紫川の氾濫原に有意に広い沼沢地帯が紫川畔に存在し、そこに菱が植生していたものと考えてよかろう。ここの紫池というのは紫川の中下流域に広がったそうした沼沢地方の総各称であったものと考える。
「豊國」現在の福岡県東部と大分県を含む広域を指す地名と推定されている。
「豐國の企玖の池なる菱の末をつむとや妹が御袖ぬれけむ」「万葉集」巻第十六の三八七六番歌、
豊前國(とよのみちのくちのくに)の白水郎(あま)の歌一首
豊國(とよくに)の企救(きく)の池なる菱(ひし)の末(うれ)を採(つ)むとや妹が御袖(みそで)濡れけむ
で、「豊前國」は企救郡、現在の北九州市。「白水郎(あま)」は漁師。海士(あま)で「白水」は元来は中国の地名で、この地方出身の者は水に潜ることが上手であったことに由来する。「妹」は講談社文庫版中西進訳注では『上層階級の女か』とする。
「池の傳説」大興善寺公式サイト内の「伝承」の頁に、最盛期であった律宗当時(同寺は執権北条時頼の命によって寛元三(一二四五)年に建立された奈良西大寺末寺で当時は十八大寺の一つとして崇敬された律宗であったが、慶長元(一五九六)年頃に現在の曹洞宗に改宗している)の延元三・建武五/暦応元(一三三八)年頃の伝承と伝える以下の話を指す。『住職の玄海律師は戒徳密行、人々に重んぜられ、寺を治めておられましたが、
ある日、一室に坐して阿字観を修しておられたとき、山林寂静の中、 修行の妨げにならないようにと、蛙が鳴き止んだそうです。このときより今にいたるまで寺の境内周囲に
蛙の鳴くことがありませんでした。紫の池に蛙鳴かずという 云い伝えが現在も残っています』。
以下、坂本氏前掲書の「万葉の企救の紫池」から部分引用する。
《引用開始》
企救(あるいは企玖)郡は現在の北九州市門司区と小倉区にあたる。古代の小倉の南部一帯は大きな湖水であったが、万葉の時代に入って次第に滴れて、「企救の池」と呼ばれるようになったという。『万葉集』に詠まれた企救の他の所在地については諸説あるが、久女が訪れたのは小倉郊外の蒲生(がもう)にある大興(だいこう)禅寺門前の紫池で、久女は〈万葉の池今狭し桜影〉と詠んだ。現在、この場所は、道路建設によって埋め立てられたが、紫池が小倉の中央を流れる紫川の名の起こりとされている。
「花衣」の第三号に、佐藤普士枝が「蒲生吟行」として報告を載せている。それによると久女と小倉の「花衣」含月の十名が、縫野いく代邸で土筆を摘み、句を詠み、近くの大興禅寺に詣でて、紫池で嫁菜摘みに興じた。『万葉集』に造詣の深い久女は紫池や、嫁菜の説明をしたのであろうか。久女たちは、春の一日を心ゆくまで遊んだことがうかがわれる。
ここに詠まれた嫁菜は古来食用にされてきた。柿本人麻呂の歌に「妻もあらば摘(つ)みて食(た)げまし沙弥(さみ)の山野の上(へ)のうはぎ過ぎにけらずや」(2-二二一)(妻が居合わせたら一緒に摘んで食べもしようものを、沙弥の山の野の上の嫁菜は盛りを過ぎたではないか)とあるように、早春の嫁菜の若葉は香りが高く、おひたしや、てんぷら、汁の実とされた。久女の時代にどれほどの人がこの嫁菜を食べていたかはわからないが、久女は野趣のある食べ物を好んだらしく、ご飯に炊き込み、〈炊き上げてうすき緑や嫁菜飯〉と句に残した。久女は春には嫁菜飯を炊いて客をもてなし、秋には菊枕を作るなど、季節の風雅をこまめに実行に移してみたくなる俳人だった。
《引用終了》
私はこの最後に語られる久女の姿に誰よりも強く惹かれるのである……。
「里人の茅の輪くぐりに從はず」と「一人強し夜の茅の輪をくぐるわれ」の組写真は意志鞏固にして独立の人久女ならではのものこういう組み句というのは、知られた俳人のものでも、妙に説明調の印象を与えて上手くゆかぬものであるが、これは後の句に強靭な響きが収斂して素晴らしい希有の成功例である。
最後に。最後の句のためにグーグル画像検索「菱の花」をリンクさせておく。]
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