橋本多佳子句集「紅絲」 由布高原 / 後記 ~ 句集「紅絲」了
由布高原
一月六日関西旅行の横山白虹氏、自鳴鐘の岡
部丘夫、中尾芦山氏に誘はれて久々にて九州
へ旅する
河豚煮るゆげ誘はれて海渡りたる
昨日(きぞ)海に勁かりし星枯野に坐る
莨火にも由布の枯野の燃えやすき
野火立ちて由布野の小松つひに燃ゆ
野に寝れば髪枯草にまつはりぬ
狐の皮干されて枯るゝ野より悲し
[やぶちゃん注:年譜によれば昭和二六(一九五一)年一月六日の旅立ちであったが、有名な由布の野焼きは現在は二~三月に行われるし、以下(「岡部丘夫」の注)から五月にまで及ぶ非常に長い旅ででもあったものかとも考えたが、幾らなんでも五ヶ月の旅はおかしい。最後のクレジットは一月ではあり、野焼きを一月中に行う場所もある。
「横山白虹」(はっこう 明治二二(一八八九)年~昭和五八(一九八三)年)は医師で俳人。本名、健夫(たけお)。東京府生まれ。九州帝国大学医学部を卒業。俳句は中学時代からはじめ、大学で九大俳句会を設立、また吉岡禅寺洞の『天の川』に投句、昭和二(一九二七)年より『天の川』編集長となって新興俳句運動の推進に努めた。昭和九年、小倉市にて横山外科病院を開設、昭和十二年には『自鳴鐘』(とけい)を創刊して主宰、同誌は昭和十四年に戦時の用紙統制令によって休刊したが戦後の昭和二三(一九四八)年には『自鳴鐘』(じめいしょう)として復刊した。昭和二七(一九五二)年、山口誓子の『天狼』同人、一九七三年、現代俳句協会会長に就任、他にも小倉市議会議長、九州市文化連盟会長などの要職を歴任し、多彩な交流があった。句集に「海堡」「空港」「旅程」など。『天の川』」の同朋であり、彼の患者でもあった俳人芝不器男が夭折した折には遺句集を編んでいる(以上はウィキの「横山白虹」に拠るが、「芝不器男」のリンクは私の電子化句集)。句を掲げておく。
たそがれの街に拾ひし蝶の翅
原子炉が軛となりし青岬
原爆の地に直立のアマリリス
「自鳴鐘の岡部丘夫」号は麦山子。詳細不詳であるが、個人ブログ「かわうそ亭」の「苺どろぼう、夏蜜柑どろぼう」という記事に、西東三鬼が昭和三四(一九五九)年五月号『天狼』に書いた「どろぼう」という随筆に書いた、非常に面白いエピソードが載るが、そこに名が出る。三鬼とは横山白虹と岡部麦山子の二人に招かれて、博多で催された『天狼』三周年記念博多大会に出席したが(年譜で確認した)、その後、慰労会と称して山口県川棚温泉で彼らから歓待を受けた。その『宴もたけなわ、話は麦山子のえんどう豆どろぼう、鶏どろぼうの武勇伝になって一同、げらげら笑い転げているうちに、麦山子が緊急動議を出した。きみらに少し真の反俗精神を教えてやらにゃならん、この近くの禅寺に手頃な夏蜜柑があった。あれをこれから採集に出かけよう』ということになったという(以下は「どろぼう」からの引用段落冒頭に一字下げを施した)。
《引用開始》
先ずその時のいでたちは、男はゆかたの尻つぱしより、頬かむり。女(すなわち橋本さん)は、手拭で伊達な吹き流し。まんまと寺苑に忍び入り、ましらのごとく木に登る。手あたり次第に捻り取るは、夜目にも黄金の夏蜜柑。垣の外ではをんな賊、ドンゴロス袋に詰め込んで、ソレ引揚げろと親分の下知を合図に逃げ出した。甚だ薄気味悪かった。
その翌朝、麦さん平然として、昨夜の夏蜜柑をお住持に土産に持つてゆくという。これにはびつくりしたが、実は戦時中、麦さんはその寺に疎開していて、坊さんとは親交がある由。それを伏せての昨夜のいたづらであつた。
《引用終了》
「ドンゴロス袋」は麻袋のこと。ウィキの「麻袋」によれば粗い綿布(デニム)を指す英語の“dungaree”(ダンガリー)からの転訛とされる。……この話を読んで、多佳子が彼だけ本名を呼び捨てにしている(好意的に考えるなら、単に「両氏」とするところを落しただけとも言えるが)意味が分かった気がした。
「中尾芦山」不詳。]
折尾へ
赭崖の氷雨の八幡市すぐ暮るゝ
凍る嶺(ね)の一つ嶺火噴きはゞからず
(一九五一・一)
[やぶちゃん注:「折尾」北九州市八幡西区の地名。句会か講演での訪問か。
「赭崖」読み不詳。「あかがけ」と訓じているようには思う。
「嶺火」不詳。地図上、折尾からでは噴煙の見える火山はないように思われるが。
これが句集「紅絲」の掉尾で、最後の国文学者神田秀夫の歴史的仮名遣で書かれた『「「紅絲」跋』が載るが、神田氏の著作権は存続しているので省略する。]
後記
「紅絲」は俳誌「天狼」創刊の昭和二十三年一月に始り、約三年間の作品を収めました。
思へば「天狼」の創刊は私にいろいろの幸福をもたらしました。山口誓子先生の主宰される「天狼」に参加する非常な喜びと緊張、得難い諸先輩同人に親しく触れることが出来たのは何としても「紅絲」の世界に大きな力を与へられたと思ひます。尚この他にも常に鞭うつて下さる幾多の友を持つ喜びを「紅絲」を編み乍らつくづく感じました。
この「紅絲」の三年間は私にとつて実に多難な年でしたが、ことに二人の娘の夫に逝かれたことが一番私を悲しませ弱らせました。幸ひその悲しみの穴も日々に埋められてゆきます。「紅絲」の次の世界は明るい平淡なものが待つてゐるやうに思はれます。一応今日までの作品を纏め新しい出発を期したいと思ひます。
尚「紅絲」は年代に分けず一つの題名のもとに一群の作品を集めてみました。旅の作品にも年月を記しませんでしたが、「冬の旅」の中の「九州路」は昭和二十二年、「金沢」は同二十四年、「蘇枋の紅」は同二十四年と五年の春上京しての作品で、「由布高原」は今年一月久々に九州へ旅をして作りました。
「紅絲」に対し山口誓子先生の序文、神田秀夫氏の跋文を戴きました。いづれも身に余る御厚情、謹んで御礼申上げる次第でございます。
「紅練」は初め秋元不死男氏の御すゝめにより編む機を与へられ、この度目黒書店の木村徳三氏、石川桂郎氏の御配慮により漸く出版のはこびとなりまかした。厚く御礼申上げます。
昭和二十六年三月
奈良菅原の里にて
橋本多佳子
[やぶちゃん注:本文中の句作年代については幾つかの疑問がある(特に「金沢」と「蘇枋の紅」。「金沢」はそもそも「金沢へ」の誤りである)。それぞれの注でそれを示しておいた。]
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