今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 57 出雲崎 荒海や佐渡によこたふ天河
本日二〇一四年八月十八日(陰暦では二〇一四年七月二十三日)
元禄二年七月 四日
はグレゴリオ暦では
一六八九年八月十八日
である。この日、芭蕉は出雲崎に到達、かの「荒海や」の名吟が詠まれた。
荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがは)
[やぶちゃん注:「奥の細道」。「曾良俳諧書留」には、
七夕
と前書する。因みにこの前書は記載位置から、ちゃんと実際の七夕が過ぎた八日以降に附された前書と思われるのが微笑ましい。曾良の「雪まろげ」にも、
越後の國出雲崎といふ所より佐渡が島へ海上十八里となり。初秋の薄霧立(たち)もあへず、流石(さすが)に波も高からざれば、たゞ手の上の如く見渡さるゝ
と前書がある。
本句に関わって芭蕉は別に複数の真蹟懐紙で俳文様の長い類似した前書を多くものしているが、それらと大同小異の「風俗文選」(許六編・宝永三(一七〇六)年跋)の「銀河の序」と称されるものが人口に膾炙するので、以下に句も含めて全文を示す(底本は岩波文庫一九二八年刊の伊藤松宇校訂「風俗文選」を用いたが、総て句点であるため、読み易さを考えて適宜読点に代え、一部に読みを歴史的仮名遣で追加した。踊り字「〱」「〲」は正字化した)。
銀河ノ序 芭蕉
〇北陸道に行脚して、越後ノ國出雲崎といふ所に泊る。彼(かの)佐渡が島は海の面十八里、滄波(さうは)を隔て、東西三十五里に、よこおりふしたり。みねの嶮難(けんなん)の隈隈(くまぐま)まで、さすがに手にとるばかり、あざやかに見わたさる。むべ此島は、こがねおほく出て、あまねく世の寶となれば、限りなき目出度島にて侍るを、大罪朝敵のたぐひ、遠流せらるゝによりて、たゞおそろしき名の聞こえあるも、本意なき事におもひて、窓(まど)押開きて、暫時の旅愁をいたはらんむとするほど、日既に海に沈(しづん)で、月ほのくらく、銀河半天にかかりて、星きらきらと冴(さへ)たるに、沖のかたより、波の音しばしばはこびて、たましひけづるがごとく、腸(はらわた)ちぎれて、そゞろにかなしひきたれば、草の枕も定らず、墨の袂なにゆゑとはなくて、しほるばかりになむ侍る。
〽あら海や佐渡に横たふあまの川
「曾良随行日記」を見ると、
○四日 快晴。風、三日同風(アイ)也。辰ノ上刻、弥彦を立。弘智法印像爲ㇾ拝。峠ヨリ右へ半道計行。谷ノ内、森有、堂有、像有。二三町行テ、最正寺ト云所ヲノヅミト云濱ヘ出テ、十四、五丁、寺泊ノ方ヘ來リテ左ノ谷間ヲ通リテ、國上ヘ行道有。荒井ト云、鹽濱ヨリ壱リ計有。寺泊ノ方ヨリハ、ワタベト云所ヘ出テ行也。寺泊リノ後也。壱リ有。同晩、申ノ上刻、出雲崎ニ着、宿ス。夜中、雨強降。
○五日 朝迄雨降ル。辰ノ上刻止。出雲崎ヲ立。間モナク雨降ル。至柏崎ニ、天ヤ彌惣兵衞ヘ彌三良狀屆、宿ナド云付ルトイヘドモ、不快シテ出ヅ。道迄兩度人走テ止、不止シテ出。小雨折々降ル。申ノ下尅、至鉢崎。宿タワラヤ六郎兵衞。
とあるから、この嘱目した眺望は四日の宵であったことが分かる(因みに句とは関係ないがこの五日の柏崎での予想外のトラブル・シーンは日記中、珍しく芭蕉と曾良の怒りがはっきりと感ぜられる珍しい箇所である)。
本句を現代音で総てローマ字化して示してみる。
Araumi
ya Sado ni yokotau(yokotou) Amanogawa
十七音の内、母音の「a」音が九音(若しくは八音)、「o」音が四音(若しくは五音)で山本健吉氏が「芭蕉全句」で述べられているように、『ほとんど強音の a 音と o 音で組立てられ、雄渾な調べを』構成している。
続いて山本氏は、『「横たふ」は元来他動詞であるべきものを自動詞として用いた文法的誤用だと言われている。だがこれは、たとえば他動詞「寄する」を、自分を寄せるという意味で自動詞「寄る」と同じように使った場合に準ずべきもので、反射動詞(再帰動詞)的用法として』(*)
(*)再帰動詞:ヨーロッパ言語に於いて意味上の動作主と被動者(形式的には主語及び目的語として現れることが多い)が同じであるような動詞をいう。目的語として再帰代名詞をとる動詞でフランス語“se lever”(起きる)やドイツ語の“sich freuen”(喜ぶ)などの類(ここは「大辞泉」に拠った)。ウィキの「再帰動詞」によれば、『意味的には、自分自身を対象として行う行為(再帰的)のほか、言語にもよるが、複数の人または物が互いにしあう行為(相互的:英語では
each other などを使う)、他の明示されない動作主や現象によって受ける行為(受動的:英語では能格動詞などを使う)などにも用いられる。本質的再帰動詞は、他の言語ならば自動詞を使うような場面(他の動作主があるとは普通考えられない)に用いられる』とあり、また、日本語にはこうした『再帰動詞はないが、再帰代名詞に当たる「自分」「自ら」などがあり、また相互的動作を現す補助動詞的成分「あう」(「投げあう」「罵りあう」など)がある。また形式的には特殊な点はないが、「着る」「脱ぐ」のように自分のことについてのみ用いる他動詞を再帰動詞と呼ぶこともある。「顔を洗う」なども用法的にはこれに含められる』とある。
『日本語の自然法からはずれているわけではない。学者よりも詩人が、母国語の法則を直感的に把握している一例と見做してよいであろう』と、インキ臭い重箱の隅掘りの文学の分からぬ国語学者共を論破されている。実に小気味よいではないか。かの安東次男氏も「古典を読む おくのほそ道」で同様に、『一種の再帰動詞的絶対動詞の語法を兼ねているよう』で、織女の来迎を待ち望む牽牛、望郷の思いにかられている佐渡の流人たち(若しくはその魂魄)という、『(待ち侘びる者の許へ小舟を渡してやるために)天の川が自分自身を横たえる、と考えればよい。芭蕉はさしずめ脱出の共犯である』と述べておられる。流石は安東節、炸裂している。
実は私には本句についての教師時代の教授に内心忸怩たるものがある。それは「天の川は佐渡には横たわらない」ということを強調したことである。それは無論、詩的真実の説明のためであったが、それによって芭蕉の操作性を鬼の首を捕ったように豪語していた(確かに豪語であったことを告白する。その点に於いては先に私自ら批判した国語学者連中と私は同列であった)自分が情けないのである。頴原・尾形評釈(角川文庫版「おくのほそ道」)ではこのことについて「横たふ」論に続けて以下のように述べてあるので含めて引用し、自戒としたい。
《引用開始》
なおこの句については、「横たふ」に関する文法上の論と、銀河は出雲崎から佐渡に横たわるようには見えないという地理上の実際説とがある。前者については、文法的に「横たはる」と自動詞を用いたのでは、語勢がゆるんでしまう。こうした場合まず貴むべきは、ことばからくる感じやリズムであるから、文法的な破格は当然許されねばならぬというのが定説となっているようだ。もちろんそれが正しいにちがいない。しかし芭蕉がそうした文法論や修辞論を考えた結果、「横たふ」としたのではない。これは自然に芭蕉の口に浮かんだことばだったのである。そうし文法的誤謬(ごびゅう)があろうがなかろうが、結局「横たふ」でなければならなかったのである。また地理の実際はなるほど句と異なっているかも知れぬ。しかし「銀河半天にかかりて」という景観は、たとえその方向が出雲崎の町そって流れていたろうとも、作者の心に「佐渡に横たふ」と思わせるに十分な感銘があったにちがいない。それは一個の詩境である。読者は作者とともにこの詩境を味わえば足りる。かならずしも銀河の実際の方向の如何(いかん)を問題とする必要はない。
《引用終了》
なお、本句が実際に披露されたのは「曾良随行日記」「曾良俳諧書留」からは、三日後の今町(直江津)での会吟の折りであったと考えられる。
「奥の細道」の原文は次の「文月や六日も常の夜には似ず」の句で示すこととする。]
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