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2014/08/20

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 瀨戸幷に瀨戸橋〔照手天姫松〕

  ●瀨戸幷に瀨戸橋〔照手天姫松〕

瀨戸或は迫門に作る。海水湾曲の北に至りて窮まれる處。即ち洲崎(すさき)と引越村の間をいふ。

[やぶちゃん注:以下、「回国雑記」の和歌までの引用は底本では一字下げ(ポイントは本文と同じ)。]

囘國雜記云ふ。瀨戸金澤(かなさは)いへる勝地のはへるを尋行に。瀨戸の沖に。漁舟のあま見えけるを。

 よるへなき身(み)のたくひかな波あらき瀨戸の汐合法る舟人

此瀨戸の往還に架したるを。瀨戸橋といふ。中間に土臺を築き橋杭を用ゐず。長さ二間あまりの橋二つをわたし。舟の其の下を過き得るやうにせり。これより北君か崎に至るの問。むかしは入海にてあらしこと明かにて。其の後は湖の如く澤の如くなりしか。近年は大抵田地となりて。全く其の舊形を變せり。江戸名所圖會載する所の圖は。尚ほ舊觀を存しぬ。同所西の出崎に照天姫松といへるがありしが。延寶庚申の大風(おほかぜ)に折られ。僅かに根株を留めたるが。今はなし。

[やぶちゃん注:昔の内海への入口である瀬戸と洲崎の間に北条貞顕(これを北条実時とする資料もあるが採らない。採らない理由は以下の引用を参照されたい)が称名寺へ通ずる道路一環として徳治年間(一三〇六~一三〇八)に架橋したと推定される橋。西岡芳文「六浦瀬戸橋-中世鎌倉のベイブリッジ」(神奈川県立金沢文庫平成七(一九九五)年刊。但し、個人のHP「後深草院二条」のこのページからの孫引き)によれば、従来の北条実時造営説に対して、北条実時及びその子顕時は当時の六浦庄領主であったと考えられるが、彼らによる在地支配を直接的に示す史料はなく、金沢地区に於ける顕時の行った事業としては、念仏宗から律へと改宗した称名寺の伽藍造営や寺内式制の整備が知られている。しかし、弘安八(一二八五)年の霜月騒動で安達泰盛が滅亡すると顕時は姻族による連座で流罪とされ、凡そ十年の間、金沢の地に戻ることはなく、宥免された後も第八代執権北条貞時による得宗専制下にあって正安元(一三〇一)年に生涯を終えている(従って実時や顕時による瀬戸橋建立は考え難いというのが西岡氏の論旨であろう)。『金沢北条氏にとって逆風の強まったこの時期には、仮に実時の瀬戸橋造営の遺志があったとしても、とうてい事業を続行できる環境ではなかった。また確証はないが、六浦庄の支配権自体』も幕府の管理下にあった可能性も考えられる、とある。この六浦支配が本来の領主であった金沢北条氏によって活性化するのは顕時の子である貞顕の代で、彼と新たに『称名寺二世長老となった剱阿のコンビによる積極的な活動が見られるようになる。六渡羅探題として京都に滞在した貞顕は、和書・漢籍を問わず膨大な写本・版本を入手して金沢文庫を築きあげ、さらに称名寺梵鐘の銘文に名を残す「入宋沙弥」円種が活動するのも同じ時期であり、彼らの手によって宋版大蔵経や青磁などの「唐物」が盛んに六浦津を経て称名寺にもたらされたと考えられる』。『運上や交易のために鎌倉に運ばれる関東各地のさまざまな産物、あるいは北条氏のバックアップを受けた律宗のネットワークに乗って交流する人や文化、さらに九州から六浦までの海運の要所をおさえた金沢北条氏一族の交易活動など、六浦津が最も殷賑をきわめたのはまさにこの時期であったと思われる』。『こうした中で、嘉元年間(一三〇三~六)、瀬戸橋の造営事業を明確に伝える史料が現れる。すなわち、瀬戸橋の造営を京都から督促する貞顕の手紙と、全国各地の金沢称名寺領に橋の造営料を賦課した注文である』。『金沢文庫文書から知られるところでは、瀬戸橋の架橋事業は金沢貞顕の発願にかかり、称名寺が主体となって行われたようである。しかしこの架橋には謎が多い。そこでまず瀬戸橋をかけた目的について想像をめぐらしてみたい』(として論考は考証の核心に入る)。『金沢北条氏が本拠とした金沢村は、六浦庄のなかでも辺境に属し、交通の便の良いところではなかった。鎌倉からは、いわゆる白山道を経由して、釜利谷方面から山道をたどるか、六浦本郷より瀬戸明神の前から渡船によって対岸の洲崎を通るかのいずれかの方法しかなかったのである』。従って『称名寺への参道として、瀬戸海峡を橋で結ぶ必要性は確かに在する。以後二十年にわたって伽藍の造営事業が継続することを考えれば、これが第一の目的と考えることができよう』。『瀬戸橋が完成するまでの洲崎から金沢までの一帯は、さほど人口の集まる地城ではなかったと思われるが、架橋によって六浦の延長として市街地が形成されたようである。南北朝期に「町屋」という地名があらわれることがその一つの証拠である。瀬戸橋を渡ってから、洲崎から称名寺にいたるほぼ直線状の道路も、金沢北条氏による架橋事業の一環として整備された可能性が高い。称名寺の造営にたずさわる職人をはじめ、六浦津において交易をおこなっていた商人たちをここに集住させ、当時すでに過密の度をくわえていた鎌倉の都市機能を拡張することもねらっていたのではあるまいか。(なお不思議なことに、鎌倉の西縁にも洲崎・(上)町屋の組み合わせの地名がある。これを考えるに、鎌倉市中の過密化によって外縁部の水辺の荒蕪地が市街化し、本来名もないような所であったので「町屋」がそのまま地名となったのではないであろうか。)』(「西緣」は引用元「西緑」。訂した)。『三番目に考えられることは、軍事的な意味である。世戸提の造成が蒙古襲来の最中に完成していたという事実は、戦略物資輸送基地としての六浦津の機能拡充の意図をうかがわせる。さらにここに橋をかけることは、鎌倉から東京湾岸への到達を容易にする意味がある。東京湾の制海権を維持し、千葉氏をはじめとする東京湾岸の外様御家人の鎌倉侵入を抑制すること、あるいは万一侵略者たちが鎌倉へ侵攻してきた時に、海上の退路を確保する意図がなかったとは言えないであろう。これは後年の関東公方足利氏が、鎌倉内でも六浦寄りに御所を構え、やがて鎌倉を支えきれずに遁走して古河公方となった例を考えあわせれば、充分に可能性がある』。『いずれにせよ瀬戸橋は、一般の街道にかけられた橋とは異なり、未来の都市機能拡張への先行投資ないしは政治的・軍事的意図によってかけられたと想像される点で、日本の橋の歴史の中では特異な意味をもつのではなかろうか』と述べられておられる。たかが瀬戸橋、されど瀬戸橋、今は何の変哲もない一本の橋が、歴史の真実を語り出す美事な評論である。以下続く「五、瀬戸橋完成」では、西岡氏はこの橋に纏わる人柱伝承についての興味深い考察を行っているが、引用が長くなり過ぎるので涙を呑んで省略する。是非、リンク先でお読みあれ。なお、以下に『風俗画報』筆者も懐旧している「江戸名所図会」の「瀬戸橋」の図を示しておく(二図(四葉)からなる。瀬戸橋の構造と江戸後期の瀬戸橋周辺の活況が手に取るように伝わって来るではないか)。

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「囘國雜記」廻国雑記。道興准后が著した紀行文。道興は関白近衛房嗣の次男で、聖護院第二十四代門跡・新熊野検校などに任ぜられた。大僧正。後、職を辞して詩歌の道へ入り、足利義政・寛正六(一四六五)年、准三后に補任(准后は「じゅごう」と読み、公家(「后」とあるが女性に限らない)の最高称号の一つである)、それ以降、道興准后と呼ばれ、将軍足利義政の護持僧となり、義尚にも優遇された。。本書は文明一八(一四八六)年の六月から北陸道を経て越後に至り、関東から甲斐、さらに奥州の松島に至る凡そ十ヶ月に亙る旅について記したもの。漢詩・和歌・俳諧連歌を交えた紀行文は、その文学的価値もさることながら、当時の各地の修験者の動向を知る資料として貴重である(以上は主に平凡社「世界大百科事典」の記載に補足を施してある)。なお、「廻国雑記」では、引用の和歌の後、

 

磯山づたひ、殘(なごり)の紅葉、見所多かりければ、

  冬さればせとの浦わのみなと山、幾しほみちて殘る紅葉ぞ

 

と読み、称名寺訪問の下りに繋がっている。

「二間」約三・六四メートル。

「君か崎」君ヶ崎。既注であるが再掲しておく。現在の平潟湾奥の金沢八景駅附近から称名寺方向に向かった砂浜海岸。現在、横浜市金沢区谷津町、金沢文庫駅東北直近に君ケ崎稲荷神社がある。ここは現在の海岸線(海の公園)からは凡そ一・二キロメートルも離れているが、古く(江戸時代の泥亀新田の干拓事業以前。開拓後もしばしば洪水や台風によって海岸域は浸水した)はこの辺りが岬の突端であったものと思われる。本書の頃の海岸線も現在のそれよりも有意に西にあったものと考えてよいであろう。

「照天姫松」照手姫松。侍従川に入水した(別話では水刑に処せられた)照手姫は危ういところを六浦の漁師によって助けられるたが、嫉妬した漁師の女房に、松の木に縛り付けられて火で炙り殺されそうになったという松。照手姫・小栗判官伝説は既注aki12mari 氏のブログ横浜紹介(863)照手姫伝説の松」で、現在、伝承地とされる旧姫小島(現在は陸化)が見られる(現在のダイエー金沢八景店の近く)。但し、新編鎌倉志八」の注で考証したように、江戸中期の照手姫松と後期のそれとでは明らかに場所が違っているようにも見える(但し、これは陸繋島であったそれが島嶼化しただけなのかも知れない)。

「延寶庚申」延宝八(一六八〇)年。]

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