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2014/09/30

本日閉店

本日、教え子のカップルと会食につき、これにて閉店――心朽窩主人敬白

杉田久女句集 281 花衣 L 「飛鳥みち」「大和橘寺の鐘樓初見」 二句

  飛鳥みち

 

稻架の飛鳥みちなり語りつゝ

 

[やぶちゃん注:「稻架」は「いねかけ/いなかけ」と素直に読んでいるようである。稲架は「はさ」「はざ」(挟むの意)とも読んで秋の季語である。]

 

  大和橘寺の鐘樓所見

 

つらね干す簷の橘まだ靑く

 

[やぶちゃん注:「橘寺」(たちばなでら)は奈良県高市郡明日香村にある天台宗寺院。正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。橘寺という名は垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守(たぢまもり)が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。『橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり、寺院は聖徳太子建立七大寺の』一つとされている。『太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わる。史実としては、橘寺の創建年代は不明で』。「日本書紀」天武天皇九(六八〇)年四月の条に、『「橘寺尼房失火、以焚十房」(橘寺の尼房で火災があり、十房を焼いた)とあるのが文献上の初見である』。『皇族・貴族の庇護を受けて栄えたが、鎌倉期以降は徐々に衰え』、現存する建物は江戸期に徐々に再建されたものである(ウィキの「橘寺」に拠る)。]

耳囊 卷之九 妖も剛勇に伏する事

 

  妖も剛勇に伏する事

 

 藝州の藩中に、名も聞(きき)しが忘れたり、至(いたつ)て剛勇の男ありしが、近ごろ主人の供して廣島へ至り、其頃交替の住居、程近(ほどちかく)になかりしが、至極都合宜(よろし)き屋舖(やしき)明(あ)き居たりしゆゑ右屋敷に住(すま)はん事をのぞみしが、右は妖怪ありて住人に災(わざあひ)ありと人々止(とめ)しかど、何條(なんでふ)さる事あらんとて乞請(こひうけ)て住居(すまひ)せしが、其夜家なり抔して物凄きことども有(あり)しが、事ともせずしてありしが、江戶に住ける同家中の伯父來りて對面なしけるが、右伯父は、在所へ供せし事も不聞(きかず)、全(まつたく)怪物ならんと思ひしに、彼(かの)伯父申けるは、此住居は人々忌憚(いみはばか)りて住居するものなし、押(おし)て住(すま)はば爲(ため)あしかるべしと異見なしけるを、我等主人へ申立(まうしたて)、住居するうへは、爲あしかるべき謂(いはれ)なしと答えけるに、彼伯父大きに怒りて何か申罵(まうしののし)りけるが、其樣いかにも疑敷(うたがはしく)、全く怪異に無紛(まぎれなけ)れば拔打(ぬきうち)にきり倒し、妖怪を仕留(しとめ)けると下人を呼(よび)て其死骸を改(あらたむ)るに、怪物にもあらず、やはり伯父の死骸なれば大きに驚き、所詮存命難叶(かなひがたし)、腹切らんと覺悟極(きめ)けれど、所詮死すべきに決する上はと、猶又刀を拔(ぬき)て彼伯父の死骸の首打落(うちおと)し、猶(なほ)切刻(きりきざ)まんとせしに、彼死骸忽然と消失(きえう)せぬ。さればこそ妖怪なれと、猶まくらとりいねんとせしに、さもやせがれて怖(おそろ)しげなる老人出て、さてさて御身は勇氣さかんなる人なり、我(われ)年久敷(ひさしく)此家に住(すみ)て是迄(これまで)多く住來(すみきた)る者を驚(おどろか)し我(わが)永住となせしが、御身の如き剛勇の人に逢(あひ)て、今住果(すみはて)んことかたし、是より我は此所を立退(たちの)く間、永く住居なし給へといひて消えぬる由。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。本巻最初の本格怪談であるが、ロケーションが「藝州の藩中」であり、主人公は藩士の一人で「至て剛勇の男」とあること、またそこで起こる怪異の複雑な様態、さらに結末で物の怪が出現、男の剛勇に負けて退去するという話柄は、明らかに現在知られているところの「稲生物怪録」(いのうもののけろく/いのうぶっかいろく)が種本であると考えてよい。ウィキの「稲生物怪録」から引いておくと、「稲生物怪録」は寛延二(一七四九)年に備後三次藩(現在の広島県三次市)藩士の稲生武太夫(幼名平太郎)が体験したとされる長編の妖怪怪異譚とされるもので、江戸後期には国学者平田篤胤によって広く世間に知られるようになった「実話」怪談とされるものである。基礎定本とされるものの著者は柏生甫(かしわせいほ:以下に示す主人公と後に同役になった三次藩士)で、体験当時は未だ十六歳であった実在する三次藩士稲生平太郎が寛延二年七月の一ヶ月間に体験したという怪異をそのまま筆記したものと伝えられている。粗筋は、知れる相撲取りと行った肝試しにより、妖怪の怒りをかった平太郎の屋敷に、さまざまな化け物が実に三十日の間、連続して出没するも、平太郎はこれを悉く退け、最後には大魔王たる山本(さんもと)五郎左衛門から勇気を称えられて木槌を授かる、というものである(平太郎には非常に優れた守護霊がついていた)。奇怪至極の豊富な怪異を描いた絵巻物風のものもあり、『平太郎の子孫は現在も広島市に在住、前述の木槌も国前寺に実在し、『稲生物怪録』の原本も当家に伝えられているとされる。現在は、三次市教育委員会が預かり、歴史民俗資料館にて管理している。稲生武太夫の墓所は広島市中区の本照寺にある』とある。何を隠そう私も本作のフリークで関連の諸本を数十冊所持している。例えば最初に絵本化された「稲生平太郎物語」では、その九日目の夜の怪異として次のような話が載る。――知人の亮太夫という者(実は妖怪が化けたもの)が伝家の名刀を兄から借り受けて訪ねて参り、化け物を退治すると豪語して、石臼を斬りつけてしまい、刀を刃こぼれさせてしまう。亮太夫は、兄に申し開きが出来ぬ、とその場で切腹、平太郎は仰天、遺体をどう処理したものかと考えあぐんでいるところに裏口を叩く音がし、出て見れば、外には亮太夫の亡霊が立って恨み言を浴びせかける。屋敷内に立ち戻ってみると、最早、亮太夫の遺骸は消え失せていた――この怪異の結構は本話との類似性が認められるように私は思う。なお、平田篤胤は編した全四巻からなる絵巻物「稲生物怪録」(四種の異本から校訂)は既に文化三(一八〇六)年に刊行されている。「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから、体験時とされる時からは六十年が経っているものの、同書の刊行は三年前の直近、根岸が仮に読んでいなかったとしても、そこから都市伝説が派生するには十分過ぎる時間であろう。話の〆め方も都市伝説っぽい、裁ち入れである。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  妖怪も剛勇には伏するという事

 

 安芸国の藩中に――これ、確かな姓名をも聞いたが、残念なことに失念致いた――至って剛勇なる男があった。

 しかもこれ、近年のこと申す。

 この男、主人の供をして広島へ参り、滞留致すことと相い成ったが、折り悪しく、近侍御用のための交替の住居がこれ、主人屋敷近くに見つからず困って御座ったところ、至極都合宜しき屋敷が空いておるとの話を耳に致いたゆえ、その屋敷に住まいせんことを望み、地元の者に仲介を頼んだところが、

「……実は……そのぅ……その御屋敷は……これ……よ、妖怪の御座ってのぅ……住める人に災いをなすこと……これ、御座いますれば、のぅ……」

と、何人もの者が借しきりその家に住まうを押し止めた。

 しかし男は、

「どうしてそんな馬鹿げたことが、これ、あろうか!」

と、強いてその屋敷の貸借を乞い請け、住まい致いたと申す。

 ところが、移り住んだその夜のこと、

――ズズ、ズン!

と奇っ怪なる家鳴(やな)りが致いた。

 しかし、男は何事もなかったかの如く平然と端座して御座る。

 すると今度は、突然、江戸に住んでおるはずの同藩家中の伯父が夜半に訪ねて参る。

 対面(たいめ)なしてはみたものの、男は内心、

『――かの伯父は、藩主が国元へ帰った折り、これ、お供を致いて戻ったとも、聞いてはおらぬ。――これ、全く、物の怪に相違あるまい――』

と踏んでおった。

 かの伯父は開口一番、

「……この住まい……巷にては、人々、忌み憚って住まいする者ものないと、聴き及んでおる……無理にもかく住まいせんとせば、それはそながために悪しきことにてなろうぞ!」

と、異見を始めた。しかし男は、

「――我ら、主人へ既にしてここを定宿(じょうやど)とせんことを申し立てまして、住まいと致しました上は、拙者がために悪しきことなど、これ、あろう謂(いわ)れは、御座らぬ!」

ときっぱりと応えた。すると、かの伯父、大きに怒って、口角泡を飛ばし、何やかやと罵しり謗って御座った。

 その様子――平素知れる叔父の所作や言動とも思われず――さればこそ、如何にもますます、その者が「伯父」なること、疑わしゅう感ぜられて参ったによって、

『――これは全くの怪異! 物の怪の類いに紛れなし!』

と心中に断じ、その場にて相手を抜き打ちに斬り倒し、

「――妖怪をし留めたりッツ!!」

と、下人を呼び、その死骸(むくろ)を改めさせた。

 ところが……怪物にもあらず……これ、死して変ずることものぅ……やはり、正真正銘の……伯父の死骸(むくろ)……

 さればこそ、男は大きに驚き、

「……かくなる不届きを犯したる上は……所詮、存命(ぞんめい)、これ、叶い難し! 我ら、ここにて腹、切らん!」

と、覚悟の言挙げをも成したれど、

「……所詮死せずんばならずと決した上は――」

と、なお、また、刀を抜き直し、

「……確かに伯父ごかどうか、一つ――かの伯父ごの死骸(むくろ)の首をも、打ち落とし――なお――それを寸々に切り刻んでみるに――若かず!」

と、やおら、かの死骸(むくろ)にたち向かったところが……

――死骸(むくろ)

――これ

――忽然と消え失せておった。

 さればこそ、

「――やはり妖怪じゃッたかい! はははッツ!」

と、呵々大笑するや、そのまま、その居間にごろりとなって、枕を取り、寝(いね)んと致いた。

 するとその目の前に……

――何処から湧いて出たものか

――さも、痩せがれて、何とも言えず、怖ろしげなる老人の、一人出て参り……

「……さてさて……御身は……まっこと……勇気の盛んなるお人ではある……我ら……年久しゅう……この家(や)に住みて……これまで実に多くの……住まんとせし者を……驚かしては……ずっと我が永住の地と……成して参ったれど……御身の如き……剛勇の人に逢うてはのぅ……これ……今となっては……かく住み続けんとすること……これ……し難きことじゃ……これより我は……ここを発(た)ち退(の)くによって……どうか……永く住みなし給え…………」

と、言うたかと思うと――ふっと――消えてしまった……とのことで……御座った。

生物學講話 丘淺次郎 第十一章 雌雄の別 四 外觀の別 (4)

Kumoseitekinikei

[「くも」の一種 (大)雌 (小)雄]

[やぶちゃん注:本図は国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、補正をしたものである。]

 

 動物には種類によつて身體の大きさの目立つて違ふものも隨分ある。獸類の中でも「をつとせい」の如きは牡は牝に比して遙に大きく、身長は二倍以上、重量は殆ど十倍以上にも達する。概して獸類では雌雄で大きさの違ふ場合には、必ず雄の方が大きい。猿なども牡の方が牝よりも少く大きいのが常である。これに反して昆蟲類には、雄よりも雌の方が大きいものが多い。亭主が小さくて細君の方が大きいと、俗にこれを「のみ」の夫婦といふが、實際「のみ」に限らず「はへ」でも蚊でも雌の方が幾らか大きい。これは一つは卵巣が大きくて、そのため腹が膨れて居る故でもあらう。稻の害蟲の「うんか」なども同種のものを調べて見ると、いつも雄よりも雌の方が著しく大きい。外國に産する「くも」類の中にはその相違がさらに甚だしく、雄は僅に雌の十分の一にも及ばぬものがある。

[やぶちゃん注:「をつとせい」オットセイ(膃肭臍・英名 Fur seal )哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科オットセイ亜科 Arctocephalinae に属するキタオットセイ属 Callorhinus 及びミナミオットセイ属 Arctocephalus の総称。雄は最大、体長二・一メートル、体重一八〇キログラムに達するが,雌は一・四メートルで五十キログラム程度と有意に小さく、顕著な性的二型を示す。鬣(たてがみ)も雄にのみある。雌雄の差は成体となった六~七歳以後であっても、雄の成長が継続するためにはっきりと分かる。

『外國に産する「くも」類の中にはその相違がさらに甚だしく、雄は僅に雌の十分の一にも及ばぬものがある』ウィキ性的の「極端な体格の差」の項に、『体格の差が極端に大きく、もはや同種とは思えないほどになる例もある。特に有名なのが造網性のクモで、コガネグモ科』(節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目クモ亜目クモ下目コガネグモ上科コガネグモ科 Araneidae)やヒメグモ科(フツウクモ亜目ヒメグモ科 Theridiidae )など『のものでは、同じ種とは思えないほどに形も違っているものがある。日本の例では、最も差が大きいのは多分オオジョロウグモ』(Nephila pilipes 南西諸島以南に生息)で、雌は体長三五~五〇ミリメートルにもなるのが、雄は一〇ミリメートル程度にしかならない。また、コガネグモ科オヒキグモ属キジロオヒキグモ Arachnura logi では、『卵嚢から出た時点で、雄は既に成熟している。これがどのような配偶システムに繋がっているのかは定かでない(ちなみに徘徊性のクモはあまり雌雄の体格差がなく、雄は雌よりやや華奢な程度である)』とし、『それよりも差が大きい場合、雄はもはや雌に見られるような構造を持たず、はるかに簡単な仕組みだけを持つ例もある。そのようなものを矮雄(わいゆう)という。ちなみに、雌ではこの例ははない。雌は卵を産むからには、そこまで小さくはなれないということであろう』と附言してある。丘先生の出した外国産のクモの図は種同定は出来ないものの、比率を比べて見ると、この本邦産オオジョロウグモも引けを取らないことが分かる。]

飯田蛇笏 山響集 昭和十三(一九三八)年 夏

〈昭和十三年・夏〉

 

瀧おもて雲おし移る立夏かな

 

田水滿ち日出づる露に蛇苺

 

胡桃生(な)る瀧川よどみ鮠とびぬ

 

アカシヤの耕馬にちりて薄暑かな

 

  天目山勝賴夫人墳墓

 

山墓に薄暑の花の鬱金かな

 

[やぶちゃん注:「天目山」現在の山梨県甲州市(旧大和村)木賊(とくさ)及び田野(たの)にある峠。元は木賊山(とくさやま)と呼ばれていたが、後に山中に棲雲寺が創建され、その山号から天目山と改称した。武田氏二度の滅亡の地である。ウィキ天目山」によれば、まず応永二四(一四一七)年に室町幕府に追われた武田氏第十三代当主武田信満がこの山中の木賊村で自害して甲斐武田氏は一時断絶、その後に再興された甲斐武田氏も百六十五年後の天正一〇(一五八二)年に以下に見るように、この山麓の田野村で自害して甲斐武田氏は滅亡したとある。後、『武田氏滅亡後に甲斐を領した徳川家康は、領民懐柔政策の一環として麓に勝頼主従の菩提を弔うため景徳院を建立している。付近には武田氏関係の史跡が点在し、景徳院の境内の勝頼親子』三人の墓の近くには、この勝頼正室北条夫人の以下に示す最初の一首の辞世の『が刻まれた石碑が立っている』とある。

「勝賴夫人」甲斐国主武田勝頼の継室北条夫人(永禄七(一五六四)年~天正一〇(一五八二)年四月三日)。北条氏康六女とされる。ウィキの「北条夫人」によれば、天正一〇(一五八二)年二月一日、勝頼は『織田・徳川連合軍の甲斐侵攻を受け、河内領主の穴山信君ら一部家臣団の離反も招いた』。彼女は同年二月十九日に『勝頼のために武田家の安泰を願い、武田八幡宮』(現在の山梨県韮崎市神山町北宮地にある武田家の氏神)『に願文を奉納している』(現存し、県指定有形文化財)。しかし同年三月になると『戦況は悪化し、勝頼は相模国と接する郡内領主小山田信茂の居城の岩殿城を目指して落ち延びたが、信茂が離反すると笹子峠において織田軍に襲撃され、一行は天目山に逃れた』。三月十一日、豊穣夫人は『日川渓谷の天目山の近くの田野で、滝川一益の軍に発見され、勝頼らと共に自害した』。享年十九であった。辞世は、

  黑髪の亂れたる世ぞ果てしなき思ひに消ゆる露の玉の緒

で、「小田原北条記」によると、『「先年、わが弟の越後三郎(景虎)危急の時、私から色々嘆願したにも関わらず、あなたはお聞き入れになりませんでした。今更命が惜しいと、何の面目があって小田原に帰れましょうか。」と最期に語り、北条家に顔向けできないと恥じ入って自害したと記して』、

  歸る雁賴む疎隔の言の葉を持ちて相模の國府(こふ)に落とせよ

『(南に帰っていく雁よ、長い疎遠の詫び言を小田原に運んでくれないか)という、もう』一首も残している。『法名は北条氏供養で桂林院殿本渓宗光。 武田氏からは「法泉寺位牌」で陽林院殿華庵妙温大姉、「景徳院位牌」に北条院殿模安妙相大禅定尼と贈られている』。『山梨県身延町の南松院には恵林寺住職快川紹喜の遺墨である蘭渓字説(県指定文化財、現在は山梨県立博物館に寄託)が残されている。これは「甲州城上淑女君」の侍局に対し法諱雅号を与えその由来を記したものであるが、この淑女君は北条夫人を指していると考えられており、「家語に曰く、善人と居るは芝蘭の室に入るがごとし、久しくしてその香を聞かざるも、自然これと化す。善人あに異人ならんや、淑女君是なり」と淑徳を称えている』とあり、この若くして散った才媛への蛇笏の哀憐の情の意味がよく分かってくる。

「鬱金」「うこん」は鮮やかな黄色のこと。何の花であろう。キンポウゲか。]

 

キャベツ採る娘が帶の手の臙脂色

 

[やぶちゃん注:「臙脂色」で「えんじ」と読ませていよう。黒みを帯びた赤色で、日焼けした肌の形容で、健康的なエロスを感じさせる佳句である。]

 

蒟蒻(こんにやく)の咲く藥園のきつね雨

 

枝蛙風にもなきて茱萸の花

 

[やぶちゃん注:「茱萸」老婆心乍ら、「ぐみ」と読む。]

 

水喧嘩墨雲月をながしけり

 

蛞蝓の流眄(ながしめ)してはあるきけり

 

[やぶちゃん注:「流眄」音は「リュウベン」で流し目のこと。「眄」自体が、流し目で見る・脇き見をするの意。]

 

綠金の蟲芍薬のただなかに

 

[やぶちゃん注:「綠金の蟲」鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Elateriformia下目タマムシ上科タマムシ科 Buprestidae のタマムシ(玉虫)の類であろう。]

 

桑の實に顏染む女童にくからず

 

[やぶちゃん注:「女童」は「めらは(めらわ)」と読んでいよう。「め(女)わらわ(童)」の音変化で、中世以降に見られる読みである。]

 

芋の花月夜を咲きて無盡講

 

[やぶちゃん注:「無盡講」頼母子講(たのもしこう)に同じい。金銭の融通を目的とする民間互助組織で、一定の期日に構成員が掛け金を出し合い、籤や入札で決めた当選者に一定の金額を給付、全構成員に行き渡ったところで解散する。鎌倉時代に始まり、江戸時代に流行した。]

 

嶽腹を雲うつりゐる淸水かな

 

焼肉(やきにく)にうすみどりなるパセリかな

 

吹き降りに瀨をながれ去る女郎蜘蛛

 

蟬鳴いて夜を氾濫の水殖(ふ)えぬ

 

つばめ野には下りず咲き伸す立葵

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「伸す」は「のす」と読み、伸びるの意。]

 

しげくして雲たちこむる梅雨の音

 

ふりつぎて花卉にいと澄む梅雨湛ふ

 

梅雨霽れの風氣短かに罌粟泣きぬ

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「罌粟」は「けし」。]

 

さつこんは愛兄(いろえ)と呼びて更衣

 

[やぶちゃん注:「愛兄(いろえ)」は「日本書紀」に既に出る上代語で母を同じくする兄、又は兄を親しんで呼ぶ語。「いろ」は接頭語で親族関係を表わす名詞に冠して同母の・肉親の、の意を添える。]

 

旭影來し茄子馬にまた夕影す

 

月光のしたゝりかゝる鵜籠かな

 

[やぶちゃん注:この踊り字は実に効果的である。]

 

篝火に雨はしる鵜の出そろへり

 

泊(は)つる夜は鵜舟のみよし影澄みぬ

 

[やぶちゃん注:「みよし」「水押し」「舳」「船首」と漢字表記する。「みおし」の音変化で 狭義には船首にある波を切る部材、転じて舳先・船首の意となった。]

 

鵜篝のおとろへて曳くけむりかな

 

[やぶちゃん注:言わずもがな乍ら、芭蕉の名吟「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」のインスパイア。]

 

畫廊出て夾竹桃に磁榻濡る

 

[やぶちゃん注:「磁榻」は「じたふ(じとう)」と読み、野外に置かれた焼き物(磁器製)の座具かベンチのことであろう。]

 

椶櫚さいて夕雲星をはるかにす

 

[やぶちゃん注:「椶櫚」棕櫚に同じ。]

 

  横濱高臺の舍弟が新居を訪ねて

 

明け易き波間に船の假泊かな

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 若狹前司泰村舊跡

    ●若狹前司泰村舊跡

若狹前司泰村か舊跡は、八幡宮の東の山際にあり。東鑑に寛元三年七月六日、將軍家御方違(ごはうゐ)して、若狹の前司泰村か家に渡御し給ふ、泰村か家は御所より北の方なりとあり。按するに將軍は賴嗣なり、賴嗣の屋敷は若宮大路なれは此所(このところ)正北(まきた)なり、鎌倉物語に賴朝屋敷の北と書(しよ)せり、將軍の御所より北に當るとあるを見て賴嗣も賴朝屋敷に居せられたりと心得たり。泰村は三浦平六兵衞尉義村か長子なり、甚だ權威あり寶治元年六月五日、一門悉く亡ふ。

[やぶちゃん注:三浦泰村邸跡。この叙述はまるまる「新編鎌倉志卷之一」からの引用で、「按」じているのは筆者ではない。しかも途中を省略してとんだ誤りを犯してもいる。以下に総てを示してそれを明らかにしておく。

   *

○若狹前司泰村舊跡 若狹(わかさの)前司泰村が舊跡は、八幡宮の東の山際にあり。【東鑑】に、寛元三年七月六日、將軍家、御方違(をんかたたがへ)として、若狹の前司泰村か家に渡御し給ふ。泰村が家は、御所より北の方也とあり。按ずるに、將軍は賴嗣也。賴嗣の屋敷は若宮大路なれば、此の所ろ正北なり。【鎌倉物語】に、賴朝屋敷の北と書せり。將軍の御所より北に當ると有を見て、賴嗣も、賴朝屋敷に居せられたりと心ろ得たり。【東鑑脱漏】を未見ゆへに、賴經將軍の時、嘉禎二年に、若宮大路へ遷られしと云事を知らざる歟。賴經屋敷の事は、賴朝屋敷の條下に詳也。泰村は、三浦平六兵衞尉の義村が長子也。甚だ權威あり。寶治元年六月五日、一門悉く亡ぶ。

   *

「若狹前司泰村」三浦泰村(元暦元(一一八四)年~宝治元(一二四七)年)は義村の次男。承久三(一二二一)年の承久の乱の際、父とともに北条泰時に従って宇治川合戦で戦功を立てる。嘉禎三(一二三七)年に若狭守、暦仁元(一二三八)年には評定衆に補せられ、延応元(一二三九)年、父の死によって家督を継ぎ、三浦介相模守護となって幕府内に絶大なる権威を有するようになったが、宝治元(一二四七)年、時頼と安達景盛の策略に嵌まった泰村は鎌倉で挙兵するも大敗、法華堂の頼朝の御影の前で一族郎党とともに自害した。

「寛元三年」西暦一二四五年。以下、「吾妻鏡」の同日の条を示す。

○原文

六日戊戌。天晴。將軍家爲御方違。渡御若狹前司泰村之家。御騎馬也。供奉人皆爲歩儀。是入道大納言家令奉讓御所於將軍家給之間。來十日。可被建御厩侍北對。依當西方。爲令違秋節給也。泰村家自御所北方也云々。

○やぶちゃんの書き下し文

六日戊戌(つちのえいぬ)。天、晴る。將軍家、御方違(おんかたたがへ)の爲、若狹前司泰村が家へ渡御す。御騎馬なり。供奉人は皆、歩儀たり。是れ、入道大納言家、御所を將軍家に讓り奉らしめ給ふの間、來る十日、御厩侍(おんうまやざむらひ)を北の對(たい)に建らるべきに、西方に當るに依つて、秋節を違(たが)へせしめ給はんが爲なり。泰村が家は御所より北方也と云々。

この「入道大納言家」は先の第四代将軍藤原頼経のこと。反幕派の関東申次として宮中で勢力を伸ばしていた父九条道家とともに、執権北条経時との関係が悪化、この前年の寛元二(一二四四)年五月五日、経時によって将軍職を嫡男頼嗣に譲らされ、この前日の七月五日に鎌倉の久遠寿量院(頼朝の持仏堂であった法華堂が発展した後代の名称と思われる)で出家している。以下、ウィキ藤原頼経」によれば、『その後もなお鎌倉に留まり、「大殿」と称されてなおも幕府内に勢力を持ち続けるが、名越光時ら北条得宗家への反対勢力による頼経を中心にした執権排斥の動きを察知され』、当代の執権時頼によって、寛元四(一二四六)年に『京都に送還、京都六波羅の若松殿に移った。また、この事件により父道家も関東申次を罷免され籠居させられた』。その後、宝治元(一二四七)年に『三浦泰村・光村兄弟が頼経の鎌倉帰還を図るが失敗する(宝治合戦)』。また、建長三(一二五一)年『足利泰氏が自由出家を理由として所領を没収された事件も、道家・頼経父子が関与していたとされる』が、結局、建長三(一二五二)年には頼嗣も『将軍職を解任され、京都へ送還され』てしまい、『まもなく父・道家は失意の内に没した』。頼経は四年後の康元元(一二五六)年八月に赤痢のために三十九歳で京で死去、翌月には頼嗣も死去した。『この頃、日本中で疫病が猛威を振るっており、親子共々それに罹患したものと思われるが、奥富敬之』氏は吉川弘文館「鎌倉北条氏の興亡」・新人物往来社「鎌倉・室町人名事典」の九条頼経の項目(共に奥富による執筆)などで、九条家三代の『短期間での相次ぐ死を不審がり、何者かの介在、関与があったのではないかと推測している』とある。

「御方違(ごはうゐ)」読みは誤り。

「鎌倉物語」医師で貞門の俳諧師にして仮名草子作家であった中河喜雲(寛永十三(一六三六)年?~宝永二(一七〇五)年?)が万治二(一六五九)年に菱川師宣画で出した仮名草子。通俗鎌倉名所記。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 餅

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図―490

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図―491

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 モチは新年に好んで用いられる食品で、恰度ニューイングランド人が感謝祭と降誕祭(クリスマス)とに、沢山のミンスパイや南瓜のパイをつくるのと同じように、日本人も餅を調製する。これは、ねばり気の多い米の一種でつくられるが、先ずそれを適当に煮てから、大きな木の臼に入れ、長い棒で力つよくかき廻す。餅をつくっているのは、昨今往来でよく見受ける光景である。図490は、人々が生麪(なまこ)様のものを、かきまぜている所である。次にそれに米の粉をふりかけ、大きな木の槌で打つ。非常にべ夕べタしているので、槌がへばりついて了うこともある。北斎は、へばりつく塊から槌を抜こうとしている男を、漫画にした。このようにして、適宜にこねた後、平たい丸い塊にするが、時にそれは直径二フィートもあり、そして巨大なプディングに似ている。伸して、薄い盤状にすることもある(図491)。餅は多くの店で売られ、日本人は非常にこれを好む。食うと恐しくねばり気があって、不出来な、重くるしい麪包(パン)を思わせるが、薄く切ったのを火であぶり、焦した、或は褐色にした豆の粉と、小量の砂糖とをふりかけて食うとうまい。これは普通に行われる食い方である。図492は餅を供える一つの方法を示す。それは小さな竹製の机或は台で、下の棚には大な塊が二つあり、その周囲を稲の藁の環、常緑葉、条片に切った白紙、若干の羊歯(しだ)の葉が取りまいている。

[やぶちゃん注:「感謝祭」原文“Thanksgiving”。アメリカ合衆国とカナダの祝日の一つで、アメリカでは十一月の第四木曜日、カナダでは十月の第二月曜日に行われる。参照したウィキ感謝祭によれば、『感謝祭は、イギリスからマサチューセッツ州のプリマス植民地に移住したピルグリム・ファーザーズの最初の収穫を記念する行事であると一般的に信じられている。ピルグリムがプリマスに到着した』一六二〇年の『冬は大変厳しく、大勢の死者を出したが、翌年、近隣に居住していたインディアンのワンパノアグ族からトウモロコシなどの新大陸での作物の栽培知識の教授を得て生き延びられた』。一六二一年の『秋は、特に収穫が多かったので、ピルグリムファーザーズはワンパノアグ族を招待して、神の恵みに感謝して共にご馳走をいただいたことが始まりであるとされる。イギリス人の入植者もワンパノアグ族も秋の収穫を祝う伝統を持っていて、この年のこの出来事は特に感謝祭と位置づけられてはいなかった。プリマス植民地で最初に祝われた』一六二三年の『感謝祭は食事会というよりもどちらかというと教会で礼拝を行って、神に感謝を捧げる宗教的な意味合いが強かった』とある(但し、この話のインディアン交流部分にはリンク先の後の方の「アメリカ合衆国における感謝祭の起源説」の項の再説部分に大きな疑義が示されてある)。『現代の感謝祭では、宗教的な意味合いはかなり弱くなっており、現代アメリカ人の意識の中では、たくさんの親族や友人が集まる大規模な食事会であり、大切な家族行事のひとつと位置づけられている』とある。「感謝祭の食事」の項には、『伝統的な正餐のメインディッシュとなるのは、角切りにしたパンを用いた詰め物(「スタッフィング(stuffing)」または「ドレッシング(dressing)」と呼ばれる)をした大きな七面鳥の丸焼きである。そのため、感謝祭の日は「七面鳥の日」(Turkey Day)と口語的に呼ばれることもある。切り分けた七面鳥にグレービーソースとクランベリーソースを添えて供する。ベジタリアン向けには、七面鳥を模し豆腐や麩で作った食品(トーファーキーなど)も市販されている』。『副菜には、マッシュポテトとグレービーソース、オレンジ色のサツマイモの料理、さやいんげんのキャセロールなどが一般的である。デザートには、アップルパイやパンプキンパイが供されることが多い』とある。

「ミンスパイや南瓜のパイ」原文“mince and pumpkin pies”。「ミンスパイ」はドライ・フルーツから作った「ミンス・ミート」を詰めたパイのこと。参照したウィキの「ミンスパイ」に、『クリスマスに食べる菓子として知られ、径数センチの独特の形で作られることが多い。ミンスミート( mincemeat )とは元来は、ミンス(みじん切り)にした肉、つまりひき肉のことで、ミンチの語源でもある。しかししだいに、ドライフルーツを主体としたものに変化した』。『東方の三博士がイエス・キリストの誕生を祝うために捧げた没薬が、ミンスパイの起源と言われ』、『かつては果実や肉に香辛料と甘みを加えたものをパイ生地やビスケット生地で包んでゆりかごをかたどり、上面部に切り口を入れてイエスを表す小さな像を入れて焼き上げていた。この工程には、ゆりかごの中に神の子を置き、その誕生を祝っていた意味合いがあった』。『清教徒革命の際には偶像崇拝にあたるとしてミンスパイの製造が禁止されるが、間もなく禁止令は解ける。やがて、中に詰める具から肉が消え』、『また、イギリスが世界各地に植民地を持っていた時代になると、各地から様々な果実やナッツがイギリスに入り、ミンスパイの具として使用されるようになった』『現在は、リンゴ、ブドウ(干しぶどう)、柑橘類などが使われる。これらをみじん切りにし、ブランデー、砂糖、ケンネ脂』(スエット。牛や羊の腰の腎臓付近の脂身を言う)、『香辛料などを加え、煮込んだのち数日間寝かせ』て作る、とある。

「生麪」「麪」は音は「メン/ベン」で、訓で単漢字でも「むぎこ」と読む。生の麦粉。メリケン粉。

「北斎は、へばりつく塊から槌を抜こうとしている男を、漫画にした」「北斎漫画」の一枚を指す。個人ブログ『おしゃれに「きもの語り」』の北斎漫画に見る江戸時代の仕事と衣裳①に載る。

「二フィート」六〇・九六センチメートル。

「プディング」(pudding)は牛乳・鶏卵・砂糖を主材料として香料を加えて型に入れ、蒸し焼きにした菓子。カスタード・プディングやプラム・プディングなど。プリン。

「豆の粉」底本では直下に石川氏の『〔きなこ?〕』という割注が入る。]

2014/09/29

生物學講話 丘淺次郎 第十一章 雌雄の別 四 外觀の別 (3)

Kuwagatamusi

[くはがたむし (右)雄 (左)雌]

Seibetusoui_2

[雌雄によつて色の異なる動物の例]

[一二 外國産「あげはてふ」の一種(一 雄 二 雌)

 三四 めすぐろひようもん(三 雄 四 雌) 五六 大るり(五 雄 六 雌)]

 

[やぶちゃん注:「雌雄によつて色の異なる動物の例」の画像は底本では省略されている図版で、国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、補正をした。]

 

 昆蟲類に雌雄の著しく違ふ例は幾らでもあつて、到底枚擧の遑はない。甲蟲のなかで、「さいかちむし」〔かぶとむし〕の雄には頭部に大きな突起があるが、雌にはこれがない。「くはがたむし」の雄は左右の顎が頗る大きくて、恰も鹿の角の如くに見えるが雌はこれが甚だ小さい。日本の螢は雌雄ともに飛ぶが、外國の螢には、雄だけが空中を飛び廻り雌は翅がなく、蛆の如き形で地上を匍うて居る種類がある。毛蟲を飼うて置くと、それから出る蛾が、雄だけは翅を具へ雌には全く翅のないやうな種類もある。蝶類には雌雄で色や模樣の違ふものが特に多い。「つまぐろひようもん」といふ蝶の雄は、豹の皮の如くに黄色の地に黑い斑點があるが、雌は前翅の外半分が黑いから直にわかる。また、「めすぐろひようもん」では、雌の翅は雄のとは全く違つて、前後ともに全部暗黑色の中に白い紋があるだけ故、誰の目にも同一種の蝶とは見えぬ。早くから日本の蝶類を調べて居た横濱のプライヤーという人の如きも、始はこの蝶の雌を全く別種のものと思うて居た。柳の枝によく止まつて居る「こむらさき」といふ蝶は、雌雄とも翅は元來茶褐色であるが、雄は見やうによつて紫色に輝き、實に美しい。しかるに雌はどの方角から見ても、決して紫色に光ることはない。このやうな例は幾つでもあるが、限りがないから略する。

[やぶちゃん注:「さいかちむし」甲虫の別名。「さいかち」は落葉高木のマメ目マメ科ジャケツイバラ亜科サイカチ属 Gleditsia japonica で、別名をカワラフジノキとも呼ぶ。参照したウィキの「サイカチ」によれば、漢字では「皁莢」「梍」と表記するが、本来、「皁莢」はシナサイカチ( Gleditsia sinensis )を指すので注意。日本の固有種で本州・四国・九州の山野や川原に自生し、実などを利用するために(サポニンを多く含むため古くから洗剤として使用され、豆はおはじきなどの子供用玩具としても利用される)栽培されることも多い。『サイカチの幹からはクヌギやコナラと同様に、樹液の漏出がよく起きる。この樹液はクヌギやコナラの樹液と同様に樹液食の昆虫の好適な餌となり、カブトムシやクワガタムシがよく集まる。そのため、カブトムシを「サイカチムシ」と呼ぶ地域もある』とある。

「日本の螢は雌雄ともに飛ぶ」昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コメツキムシ下目ホタル上科ホタル科 Lampyridae に属するクシヒゲボタル亜科(エダヒゲボタル亜科) Cyphonocerinae ・マドボタル亜科 Lampyrinae ・ホタル亜科 Luciolinae

ミナミボタル亜科 OtotetrinaePhoturinae 科に属するものをホタルと総称するが、参照したウィキの「ホタル」によれば、『メスは翅が退化して飛べない種類があり、さらには幼虫のままのような外見をした種類もいる』とある。そこには本邦には四十種以上のホタルがいるとあり、その代表的な種は以下とある。

ゲンジボタル Luciola cruciata Motschulsky, 1854

ヘイケボタル Luciola lateralis Motschulsky, 1860

ヒメボタル Luciola parvula Kiesenwetter, 1874

マドボタル属 Pyrocoelia

オバボタル Lucidina biplagiata Motschulsky, 1866

但し、丘先生は「日本の螢は雌雄ともに飛ぶ」と述べられているが、これらの内、どうも関ヶ原に棲息するマドボタル属 Pyrocoelia のオオクロマドホタル(何故か、学名はネット上では検出不能)は飛ばないとある(岐阜県大垣市小野にある市立小野小学校公式サイト内のホタル疑問に拠る)。

「毛蟲を飼うて置くと、それから出る蛾が、雄だけは翅を具へ雌には全く翅のないやうな種類もある」有翅昆虫亜綱新翅下綱 Panorpida 上目鱗翅(チョウ)目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目ヒロズコガ上科ミノガ科 Psychidae に属する、所謂、「蓑虫」と総称している種の雌は多くの種の成虫が雌は翅も脚も持たないことはよく知られている(但し、ウィキミノムシ」によれば、『脚を残している種や痕跡的に退化した翅を持つ種もある。中にはヒモミノガ類のように雌が雄同様に羽化する種も存在する』とあるので注意が必要)。

「つまぐろひようもん」鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科タテハチョウ科ドクチョウ亜科ヒョウモンチョウ族ツマグロヒョウモン Argyreus hyperbius ウィキツマグロヒョウモンによれば、『雌の前翅先端部が黒色で、斜めの白帯を持つのが特徴』的で、成虫の前翅長は三八~四五ミリメートル程度、『翅の模様は雌雄でかなり異なる。雌は前翅の先端部表面が黒(黒紫)色地で白い帯が横断し、ほぼ全面に黒色の斑点が散る。翅の裏は薄い黄褐色の地にやや濃い黄褐色の斑点があるが、表の白帯に対応した部分はやはり白帯となる。また前翅の根元側の地色はピンクである』。『全体に鮮やかで目立つ色合いだが、これは有毒のチョウ・カバマダラに擬態しているとされ、優雅にひらひらと舞う飛び方も同種に似る。ただしカバマダラは日本では迷蝶であり、まれに飛来して偶発的に繁殖するだけである。南西諸島ではその出現はまれでないが、本土では非常に珍しい。つまり、日本国内においては擬態のモデル種と常に一緒に見られる場所はなく、擬態として機能していない可能性がある』とあり、『雄の翅の表側はヒョウモンチョウ類に典型的な豹柄だが、後翅の外縁が黒く縁取られるので他種と区別できる』とある。長野市公式サイト内の環境保全研究所のただ今のウオッチング(2012年春)の「ツマグロヒョウモン」の項に♂♀の写真が載る。

「めすぐろひようもん」ヒョウモンチョウ族メスグロヒョウモン Damora sagana ウィキメスグロヒョウモンによれば、『和名通りメスが黒っぽく、雌雄で極端に体色が異な』り、分類学上は一種のみで、『メスグロヒョウモン属 Damora に分類される。近縁のミドリヒョウモン属 Argynnis に組みこまれていたことがあり、その場合の学名 Argynnis sagana はシノニムとなる』とし、成虫の前翅長は三五~四五ミリメートルほどで、『和名通りメスの体は黒く、光沢のある青緑色を帯びる。前翅の前端に白帯、前翅の中央部に横長の白色紋が』二つあって、『後翅の中央部に白の縦帯がある。翅の裏側は表側より白っぽい。黄色の地に黒い斑点が散らばるヒョウモンチョウ類の中では特徴的な体色で、ヒョウモンチョウというよりオオイチモンジなどのイチモンジチョウ類に近い体色である。メスには類似種が少なく、判別しやすい』。『一方、オスは黄色地に黒い斑点の典型的なヒョウモンチョウ類の体色をしている。前翅には』三本の黒い横縞があるが、『これは大型ヒョウモンチョウ類のオスに見られる発香鱗条である』(発香鱗条とは蝶の翅の鱗粉の中で特殊な形状を示す、ある種の臭いを発する鱗粉のことを発香鱗と称し、この発香鱗粉が固まって生えていて筋のように見える部分を発香鱗条と呼ぶ)。『後翅表側のつけ根には細い黒線、後翅裏側の中央には稲妻状の白い縦帯がある。この体色はウラギンスジヒョウモンやオオウラギンスジヒョウモン、ミドリヒョウモンによく似るが、表側の前翅前端や後翅つけ根部分に大きな黒斑がなく、全体的に黄色部分が多い点で区別できる』。『オスとメスの体色がまるで別種のように異なり、チョウ類の中でも極端な性的二形をもつ』種で、『中央アジア東部から中国、アムール地方、朝鮮半島、日本まで分布する。日本では北海道、本州、四国、九州に分布し、南限は薩摩半島、大隅半島だが、屋久島までとする文献もある』とし、『分布域の中でいくつかの亜種に分かれており、このうち日本に分布するのは亜種 D. s. liane (Fruhstorfer, 1907) とされる』とあって、『日本産ヒョウモンチョウ類の中では分布が広い方だが、生息地は各地に散在しており、どこにでも生息するわけではない。環境の変化などで見られなくなっている地域もあり、レッドリストの絶滅危惧種に指定している都道府県がある』と記す。成虫は年一回だけ、六月から十月にかけて発生するが、『夏の暑い時期は一時的に活動を停止し夏眠するので、飛び回る姿が見られるのはおもに初夏と秋である。冬は卵、または若齢幼虫で越冬する』。『成虫は平地や丘陵地の森林周辺部に生息し、ツマグロヒョウモンに比べると湿った日陰の多い環境で見られる。飛ぶ速度はあまり速くなく、各種の花に訪れて蜜を吸う』。『幼虫は野生のスミレ類を食草と』しており、『終齢幼虫は藍色の地に黄褐色の突起がたくさん生えたケムシである』とある。リンク先で雌雄の違いが画像で見られる。

「プライヤー」ヘンリー・プライア―(Henry James Stovin Pryer 一八五〇年~明治二一(一八八八)年)。明治期に来日したイギリス人ナチュラリスト。ロンドン生まれ。明治四(一八七一)年に来日し、横浜の保険会社に勤めながら、日本各地の昆虫、特に蝶や蛾を採集した(同地で急逝)。単なるコレクターではなく、蝶を飼育して気候による変型を明らかにした研究は高く評価されている。主著は日本産蝶類の初の図鑑「日本蝶類図譜」(一八八六年~一八八九年刊)。本書の英文に和訳を添えたことに彼の見識が表れている。ブラキストンとの共著で「日本鳥類目録」(一八七八年~一八八二年刊)もある(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。小西正泰氏のサイト「コレクターのショーケース」の「Henry J.S.Pryer "Rhopalocera Niphonica" (1886-89)(プライヤー『日本蝶類図譜』)は必見。

「こむらさき」鱗翅(チョウ)目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目アゲハチョウ上科タテハチョウ科コムラサキ亜科コムラサキ属 Apatura metis ウィキコムラサキによれば、『南西諸島を除くほぼ日本全国に分布する。雄の翅の表面は美しい紫色に輝くので、この和名がつけられた。和名は昆虫学者の高千穂宣麿の命名とされ』、『日本亜種の学名としては Apatura metis substituta が用いられる』とある。『飛翔は軽快敏速で、特に午後から夕方にかけ、陽光のあたる樹上で活発に活動する。雄雌とも樹液や熟した果実に誘引され、花にはあまり訪れることがない。雄は湿った地面や動物の死骸に集まる習性をもつ』。暖地では五月頃から発生し始め、秋までに一、二回の発生を繰り返す(寒冷地では七月頃に一回の発生のみ)。『幼虫で越冬し、食樹の樹皮の皺などに密着して晩秋から春までを過ごす。一般に、多化する地域では春の発生個体がやや大型で、地色も暗いなどの季節型が認められる』。『遺伝的な多型現象を示すチョウとしても有名で、地色がオレンジ色の個体をしばしば「アカ型」、地色が暗色で明色紋が少ない個体を「クロ型」と呼ぶ。クロ型は静岡県や愛知県、能登半島、九州南部などに局地的に分布し、紫色の輝きがより強く見えるので、美麗な印象を与える。このような遺伝型が拡散せずに特定の河川流域に留まっているのは本種に移動性が乏しいことを物語っており、一見飛翔力が強そうなことから考えると意外である』と丘先生の叙述に現われる特徴が語られてある。『日本国外では東欧からカスピ海にかけて名義タイプ亜種 metis が分布し、広大なシベリアには分布の空白があり、日本の近隣地域では沿海州、モンゴル東部、中国東北地方、朝鮮半島に分布』しており、『大陸ではごく近縁のタイリクコムラサキ Apatura ilia と一緒に分布し、一見分類が難しいが、日本ではタイリクコムラサキの分布が知られていない。古い文献では本種の学名が Apatura ilia と書かれていることが多いことからも理解される通り、かつてはタイリクコムラサキの亜種、あるいは型として扱われてきた歴史がある』とある。『コムラサキ亜科の各種はほぼ世界全域に分布し、主に暖帯から亜熱帯の森林や林縁を棲息地とする。その中でも、本種を含む Apatura 属はヤナギ類を食樹に選ぶことにより、北半球の冷涼な地域に進出した種群であるといえる』。食性は、『幼虫は Salix(ヤナギ属)、Populus(ハコヤナギ属)といったヤナギ類を食する。通常は河川流域にある前者を選んでいることが多い。水辺のチョウといえる。生活史や幼生期の形態は近縁のオオムラサキやゴマダラチョウなどと似る』とある。『Apatura属に所属する他種は、以下の通り』として、

   《引用開始》

Apatura irisイリスコムラサキ

戦前にはチョウセンコムラサキという和名が用いられた。欧州、極東ロシア、中国、朝鮮半島に分布する。英国では本種に対して Purple Emperor という名称を使用する。コムラサキ亜科の中では最も古くリンネによって記載され、Apatura 属の模式種である。

Apatura bieti ビエトコムラサキ

イリスコムラサキと近縁であるが、中国南部の高標高地にのみ分布する。

Apatura ilia タイリクコムラサキ

欧州、極東ロシア、中国、朝鮮半島に分布する。地域変異に富む。

Apatura laverna ラベルナコムラサキ

遼寧省から雲南省にかけて分布する。

   《引用終了》

とある。因みに、『「コムラサキ」という名称は本種だけを指すのではなく、コムラサキ亜科に分類される他種も含んだ集合的な呼称として使われることもある。また、Apatura 属ではなくても「コムラサキ」の和名がつく近縁種としては、アサクラコムラサキ(台湾)、シラギコムラサキ(朝鮮半島)などが知られる。これらは戦前に日本人が命名使用していた名残として、現在も使われている』と附記する。チェコスロバキア語のサイトであるが、で同種の雌雄の違いが画像で見られる。]

生物學講話 丘淺次郎 第十一章 雌雄の別 四 外觀の別 (2)

 これに反して、鹿の角、獅子の鬣の如きは直接には生殖作用と關係せず、たゞ雌を奪ひ合ふための爭鬪の具として、または威巖を整へるための一種の裝飾として役に立つだけである。人間の鬚なども同じ組に屬する。かやうな性質の雌雄の相違は獸類には割合に少いが、鳥類や昆蟲類等には極めて普通で、且つ隨分著しいものがある。雞・「くじやく」が詩雄によつて形が違ひ、「きじ」・「錦雞」・鴨・「をしどり」などが雌雄によつて毛色の違ふことは、誰も知つて居るが、「大るり」と名づける「もず」に形の似た鳥は、雄は全身美しい瑠璃色、雌は全身茶色であるから、初めてその標本を見た西洋の學者は、雌雄を別の種類と考へ、各に學名を附けた。その他にも殆ど同一種とは思へぬ程に雌雄の異なる鳥類は澤山あつて、ニューギニヤに産する有名な極樂鳥のごときも、雄には實に美麗な白茶色の長い羽毛が總の形に兩翼から垂れて居るが、雌にはこのやうなものが全くないから、見た所がまるで違ふ。

[やぶちゃん注:「鬣」「たてがみ」と読む。

「大るり」スズメ目ヒタキ科オオルリ Cyanoptila cyanomelana ウィキの「オオルリ」によれば、『日本へは夏鳥として渡来・繁殖し、冬季は東南アジアで越冬する。高い木の上で朗らかにさえずる。姿も囀りも美しい』。全長約十六センチメートル、翼開長は約二十七 センチメートルで、『雄の背中は尾も含め光沢のある青で、尾の基部には左右に白斑がある。喉、顔は黒で腹は白い。雌は頭から尾にかけて背面が茶褐色で、喉と腹は白い。胸と脇が褐色。 また、雄が美しい色彩になるには』二~三年を『要すると考えられ、若鳥時代の雄の羽色は雌の羽色と似た茶褐色で、背面の一部と風切羽及び尾羽に青色が表れているだけである。雌はキビタキの雌やコサメビタキなどに似ている』。『コルリ、ルリビタキなど共に、「青い鳥」御三家の一つである』とある。雌雄の違いもリンク先で見られる。

「極樂鳥」スズメ目スズメ亜目カラス上科フウチョウ科 Paradisaeidae に属する鳥類の通称。和名は「風鳥」で「極楽鳥」「ゴクラクチョウ」という別名の方で人口に膾炙するが、これは英名の“Bird-of-Paradise”を和訳したもので、正式な和名としては採用されていない。ウィキの「フウチョウ科によれば、『オーストラリア区の熱帯に生息し、特にニューギニア島には多数の固有種が生息する。雄の成鳥が美しい飾り羽を持ち、繁殖期に多彩な求愛ダンスを踊ることで知られる。雌の成鳥は地味な外見をしている』。十六世紀、『ヨーロッパに初めてオオフウチョウがもたらされた時各個体は交易用に足を切り落とされた状態で運ばれていた。そのため、この鳥は一生枝にとまらず、風にのって飛んでいる bird of paradise (天国の鳥)と考えられた。また、昔風をえさにしていたとされることから「風鳥」と名づけられた』とある。雌雄の違いはこちらの絵を。]

北條九代記 卷第六 武藏守泰時執権 付 二位禪尼三浦義村を諫めらる〈北条泰時の第三代執権就任及び伊賀氏の変Ⅱ 北条政子、突如直々に三浦邸を訪問、三浦義村に諫言、翌日、義村は泰時の許へ参上、乱の未然の終息を報告、泰時、淡々と政村への悪意なきを仰せらる〉

二位禪尼、安からず思ひ給ひ、七月十七日の子刻(ねのこく)計(ばかり)に、駿河局計(ばかり)を召倶(めしぐ)して潛(ひそか)に駿河前司義村が家に入り給ふ。義村、思寄らず、恐れたる氣色なり。禪尼仰せけるやう、「前の陸奥守義時の卒去に付て、武蔵守泰時、鎌倉下向ありける所に、世の中靜ならず、陸奥四郎政村、式部丞光村等(ら)、頻(しきり)に義村が家に出入して密談の事あるの由、風聞す。若(もし)、泰時を謀りまゐらせん爲か、義時忠勤の大功、承久(しようきう)逆亂(げきらん)の治運(ぢうん)、干戈(かんくわ)靜謐(せいひつ)せし、其跡を繼ぎて關東の棟梁たるべき者は武蔵守泰時なり。誰か之を爭んや。政村、泰時の兩人、和平の諫を加へらるべし。政村を扶持(ふち)して叛逆(ほんぎやく)を企てられば、言語道斷の事なるべし。かく申すを用ひらるべきか、用ひまじき歟(か)、申し切るべし」とありければ、義村、申しけるは、「陸奥四郎政村は全く逆心なし。式部丞光宗等は用意ありと覺え候。仰の趣、畏りて制禁(せいきん)を加へ候はん。此事遁避(とんひ)仕るまじ」と誓言(せいごん)をもつて請合(うけあひ)申す。二位禪尼、「必ず和平(くわへい)の事打置き給ふな」とて、やがて御所にぞ歸り給ふ。夜明て後、三浦義村は泰時の方へ參りけるに、最殊(いとこと)となく出合ひて對面あり。義村、申されけるやう、「故義時の御時に、義村屢(しばしば)忠勤の抽(ぬき)いで、御懇志(ごこんし)を表せられ、四郎殿御元服の時、義村を烏帽子親とし、愚息泰村を御猶子(ごいうし)になさる。此芳志(はうし)あるを以て泰時、政村御兩所に付て、いづれを疎(おろそか)に存ずべき。只願ふ所は、兩所、御和平(くわへい)候へかし。式部丞は日比、計略の事、候歟(か)。義村、諷諫(ふうかん)いたし候へば漸く歸伏して候」とぞ申しける。武藏守〔の〕泰時、更に喜怒(きど)の色なく、「我は政村に、聊も野心なし。何事によりて別意を致さるべき」とぞ申されける。義村、心少し安堵して宿所にぞ歸りける。

 

[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:〈北条泰時の第三代執権就任及び伊賀氏の変Ⅱ 北条政子、突如直々に三浦邸を訪問、三浦義村に諫言、翌日、義村は泰時の許へ参上、乱の未然の終息を報告、泰時、淡々と政村への悪意なきを仰せらる〉

「駿河局」北条家に古くからいる女房で、政子の信頼厚く、女中頭的存在であった。

「式部丞光村」後文で分かるように伊賀「光宗」の誤り。三郎光村は義村の四男であるが、官位は「式部丞」ではない。

「用意あり」何か事を企もうとしておるようにては御座る。

「制禁」ある行為をさし止めること。

「遁避」遁(のが)れ避けること。

「打置き」物事をそのままに放っておく。

「御懇志を表せられ」特に私に目をお掛けなさって、懇ろなる御厚情をお示しになられ。

「四郎殿」北条政村。

「烏帽子親」仮親(かりおや)の一つ。元服する男子に烏帽子を被らせて烏帽子名(えぼしな:男子元服の際に幼名を改めて烏帽子親の名前から一字を貰ってつける元服名)をつける人。

「諷諫」遠回しに忠告すること。また、その忠告。

「何事によりて別意を致さるべき」一体、如何なる理由によって政村に敵意を抱かねばならぬなどということがあろうか? いや、ない。

 

 以下、「吾妻鏡」であるが、伊賀の乱関連でまず、貞應三(一二二四)年七月五日の条を示す。

 

○原文

五日庚子。鎌倉中物忩。光宗兄弟頻以往還于駿河前司義村許。是有相談事歟之由。人恠之。入夜。件兄弟群集于奥州御舊跡。〔後室居住。〕不可變此事之旨。各及誓言。或女房伺聞之。雖不知密語之始。事躰不審之由。告申武州。々々敢無動搖之氣。彼兄弟等不可變之由。成契約。尤神妙之旨被仰云々。

○やぶちゃんの書き下し文

五日庚子。鎌倉中物忩。光宗兄弟、頻りに以つて駿河前司義村が許(もと)に往還す。是れ、相ひ談ずる事有るかの由、人、之れを恠(あや)しむ。夜に入り、件(くだん)の兄弟、奥州の御舊跡〔後室、居住す。〕群集し、此の事を變ずべからずの旨、各々誓言(せいごん)に及ぶ。或る女房、之れを伺ひ聞き、密語の始めを知らずと雖も、事の躰(てい)不審の由、武州に告げ申す。武州、敢へて動搖の氣無し。彼(か)の兄弟等(ら)、變ずべからずの由、契約成すは、尤も神妙の旨、仰せらると云々。

・「光宗兄弟」光宗とその弟光資であろう。光宗の兄伊賀光季は既に見てきたように、承久の乱勃発時、高辻京極にあった宿所を襲撃されて自害している。

・「奥州」故北条義時。

・「此の事を變ずべからず」このこと(内容不明)について決して変節することは致しません。

・「武州」北条泰時。]

 

 以下、四日(六・九・十一・十三日)に亙って天空の星の運行に異常な変異が起こっていることが記され、十三日には特別な祭式が挙行されている。十一と十六日には故義時の四七日(よつなぬか:二十八日目の法事。)と五七日(いつなぬか:三十五日目の法事。)が行われている。

 次に十七及び十八日の条を続けて出す。

 

○原文

十七日壬子。晴。近國輩競集。於門々戸々卜居。今夕大物忩。子尅。二位家以女房駿河局計爲御共。潛渡御于駿河前司義村宅。義村殊敬屈(原文口偏)。二品仰云。就奥州卒去。武州下向之後。人成群。世不靜。陸奥四郎政村。幷式部丞光宗等。頻出入義村之許。有密談事之由風聞。是何事哉。不得其意。若相度武州。欲獨歩歟。去承久逆亂之時。關東治運。雖爲天命。半在武州之功哉。凡奥州鎭數度烟塵。戰干伐令靜謐訖。繼其跡。可爲關東棟梁者。武州也。無武州也。諸人爭久運哉。政村与義村。如親子。何無談合之疑乎。兩人無事之樣。須加諷諫者。義村申不知之由。二品猶不用。令扶持政村。可有濫世企否。可廻和平計否。早可申切之旨。重被仰。義村云。陸奥四郎全無逆心歟。光宗等者有用意事云々。尤可加禁制之由。及誓言之間。令還給云々。

十八日癸丑。晴。駿河前司義村謁申武州云。故大夫殿御時。義村抽微忠之間。爲被表御懇志。四郎主御元服之時。以義村被用加冠役訖。以愚息泰村男爲御猶子。思其芳恩。貴殿与四郎主。就兩所御事。爭存好惡哉。只所庶幾者。世之安平也。光宗日者聊有計略事歟。義村盡諷詞之間。漸歸伏畢者。武州不喜不驚。下官爲政村更不挿害心。依何事可存阿黨哉之旨。返答給云々。

○やぶちゃんの書き下し文(一部に《 》で注を挟み、直接話法化したため、やや訓読表記に違和感があるかも知れない)

十七日壬子。晴る。近國の輩、競ひ集まり、門々戸々に於て卜居す。今夕、大いに物忩(ぶつそう)。子の尅《深夜十二時前後》、二位家、女房駿河局計りを以つて御共と爲し、潛かに駿河前司義村が宅に渡御す。義村殊に敬屈(けいくつ)す。二品、仰せて云はく、

「奥州卒去に就きて、武州下向の後、人、群れを成し、世、靜まらず。陸奥四郎政村幷びに式部丞光宗等(ら)、頻りに義村が許へ出入し、密談の事有るの由、風聞す。是れ何事ぞや。其の意(こころ)を得ず。若し、武州を相ひ度(はか)りて、獨歩せんと欲するか。去ぬる承久の逆亂之時、關東の治運(ぢうん)、天命たりと雖も、半ばは武州の功に在るか。凡そ奥州、數度の烟塵鎭め、干伐を戰はせて靜謐せしめ訖んぬ。其の跡を繼ぎ、關東の棟梁たるべき者は、武州なり。武州無くんば、諸人、爭(いか)でか運を久しうせんや。政村と義村とは、親子のごとし。何ぞ談合の疑ひ無からんや。兩人無事の樣に、須らく諷諫を加ふべし。」

てへれば、義村、

「知らざる。」

の由を申す。二品、猶ほ用ひず、

「政村を扶持せしめ、濫世(らんせい)の企(くはだ)て有るべきや否や、和平の計(はかりごと)を廻らすべきや否や、早く申し切るべき。」

の旨、重ねて仰せらる。義村、云はく、

「陸奥四郎は全く逆心無きか。光宗等は用意の事有り。」

と云々。

「尤も禁制を加へるべき。」

の由、誓言に及ぶの間、還らしめ給ふと云々。

 

十八日癸丑。晴。駿河前司義村、武州に謁し、申して云はく、

「故大夫の御時、義村、微忠を抽(ぬき)んづるの間、御懇志を表せられんが爲に、四郎主《北条政村》御元服の時、義村を以つて加冠の役に用ゐられ訖んぬ。愚息泰村が男を以つて御猶子(ごいうし)と爲す。其の芳恩を思ふに、貴殿と四郎主、兩所の御事に就きては、爭でか好惡を存ぜんや。只だ、庶幾(しよき)する所は、世の安平なり。光宗、日者(ひごろ)聊か計略の事有るか。義村、諷詞(ふうし)を盡すの間、漸くに歸伏し畢(をは)んぬ。」

てへれば、武州、喜ばず、驚かず、

「下官《卑小の一人称》は政村が爲に更に害心を插(さしはさ)まず。何事に依つてか阿黨(あたう)を存ずべききや。」

の旨、返答し給ふと云々。

 

・「庶幾」心から願うこと。

・「諷詞」遠回しに言うこと。

・「阿黨存ず」原義は権力のある者に阿(おもね)り、組すること。また、その仲間を指すが、ここはやや捩じれた表現で一方の権威とその取り巻きの敵対集団として認識する、という謂いのようである。]

耳嚢 巻之九 入定の僧も有事

 入定の僧も有事

 

 寛政十一年の頃、八王子千人頭(せんにんがしら)萩原賴母(たのも)組同心組頭なりける栗原次郎左衞門、墓所俄(にはか)に窪むに付(つき)、怪しみて掘候處、八疊敷程廣掘(ひろくほり)候穴室あり。其内に人座し候やう成(なる)形見へしゆゑ立寄(たちより)見ければ、無程(ほどなく)崩れて塵灰のごとく、其脇に鐘一つ殘り其外調度あるやうなれど、悉く腐(くさ)れて其形わかるは右の鉦のみなり。右鉦などには年號などもありつらんを、後の祟(たたり)をおそれいみて其儘に埋(うづ)め、其所に印などたてし由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。本話は文章に異同はあるが、耳嚢 巻之八 入定の僧を掘出せし事と同話である。

 

 入定の僧を掘出せし事

 

 寛政十一年の頃の八王子千人頭萩原賴母組千人同心某が、墓所の地面くへ候て餘程の穴ありける故、驚て内へ人を入れ見しに、巾六七尺其餘も四角に掘りたる所ありて、燈にて見れば鳧鐘一つありて、一人の僧形、其邊に結迦扶座の體なり。いかなる者よと、大勢松明など入て立寄見しに、形は粉然と碎けて、たゞ伏せ鐘のみ殘りしゆゑ、僧を請じ伏鐘も其所に埋て跡を祭りしと。これ右萩原が親族、前の是雲語りぬ。

 

しかも、これはそこにも掲げた岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の巻之十に所収する「入定の僧の事」とははほぼ完全に相同である。一応、再掲しておく。

 

    入定の僧の事

 

 

 寛政十年の八王子萩原賴母組同心組頭なりける栗原次郎右衞門、墓所俄に窪むに付、怪しみて掘ける處、八疊敷程廣く穴室有り。其内に人坐候樣成形見えし故立寄見ければ、無程崩れて塵灰の如し。其脇に鉦一つ殘り其外調度あるやうなれど、委く腐れて其形わかるは右の鉦のみなり。右鉦などには年号などもありつらんを、其の祟りを恐れて其まゝに埋み、其處に印など建候よし。

 

「委く」には、底本では校注の長谷川強氏によって「悉」の訂正注が右にある。

 注はリンク先に譲る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 入定の僧も実在するという事

 

 寛政十一年の頃、八王子千人頭(せんにんがしら)であられた萩原賴母(たのも)組の同心組頭であった栗原次郎左衛門方の墓所が俄かに陥没した。

 そこで、覗いてみると、何やらん、空洞のようなものが見えたによって、怪しく思って試みに少し掘ってみて御座ったところ、凡そ八畳敷ほどもあろうかという、広く掘ってある穴状の部屋があった。

 その内部に、何か、こう、人が座って御座るような感じの、これ――人形(ひとがた)――が見えたによって、恐る恐る、その近くまで立ち寄って見てみようとした――

――ところが、それと同時に、ほどのぅ、その人形(ひとがた)、これ、一切の残骸も残さず、完膚無きまでに崩れ落ち、ただ塵灰(じんかい)の山の如くに成り果てて御座ったと申す。

 その、塵埃(じんあい)の積もった脇には、叩き鉦が、これ、一つ、残っておるだけにて、その他には、何か調度らしきもののあるようには見えたが、これらは悉く、腐(くた)れて、その形から識別出来得るものは、たた、その鉦のみであった、と申す。

 このたった一つの入定(にゅうじょう)僧と思しい者が誰かを知り得る物証と言い得る鉦には、何やらん、年号なんども彫り込まれてあったようで御座ったれど、後の祟りを恐れ忌(い)んで、そのままに再び埋め戻してしまい、そこには後代の栗原家子孫にのみ分かるような、さり気なき印なんどを建ておいた由にて御座る。

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 92 寂しさや須磨にかちたる濱の秋

本日二〇一四年九月二十九日(当年の陰暦では九月六日)

   元禄二年八月 十六日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十九日

【その四】同じく、いろの浜本隆寺での句。「奥の細道」の同段に第一に収録された。この句順は実に計算されていて素晴らしい。

 

寂しさや須磨にかちたる濱の秋

 

  越前いろの濱にて

寂しさや須磨にかちたるうらの秋

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目は「初蟬」(風国編・元禄九年刊)の句形。

 言わずもがな、「源氏物語」「須磨」の、

 須磨には、いとど心盡くしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平中納言の、「關吹き越ゆる」と言ひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり。

 御前にいと人少なにて、うち休みわたれるに、一人目を覺まして、枕をそばだてて四方の嵐を聞きたまふに、波ただここもとに立ちくる心地して、涙落つともおぼえぬに、枕浮くばかりになりにけり。琴をすこしかき鳴らしたまへるが、我ながらいとすごう聞こゆれば、彈きさしたまひて、

 

  戀ひわびて泣く音にまがふ浦波は

  思ふ方より風や吹くらむ

 

と歌ひたまへるに、人びとおどろきて、めでたうおぼゆるに、忍ばれで、あいなう起きゐつつ、鼻を忍びやかにかみわたす。

 

のシークエンスを受けはする。しかし彼の「寂しさ」は光などよりも、もっと多層的で神経症的である。ここにあるのは芭蕉という、彼自身にとっても不可解な孤独者の悲哀と寂寥を孕んだ「寂しさ」である。これは正常なる人間の、魂の平穏をかろうじて保っているところの極北の精神――孤高の蕊(ずい)そのものである、と私は思うのである。そこを読み解けない者は――遂に――芭蕉を捉え損なうであろう――]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 91 浪の間や小貝にまじる萩の塵

本日二〇一四年九月二十九日(当年の陰暦では九月六日)

   元禄二年八月 十六日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十九日

【その三】同じく、いろの浜本隆寺での句。「奥の細道」の同段に次の「寂しさや」句の後に収録された。

 

  ますほの小貝ひろはんと、種(いろ)の

  島に舟のり出(いで)たり。法花寺(ほ

  つけでら)にあがりて酒のむ

浪の間(ま)や小貝にまじる萩の塵

 

[やぶちゃん注:「類柑子」(其角著・宝永四(一七〇七)年跋)から。「種の島」の「島」はママ。

 私は「塵」は芭蕉自身だと思う。誰もそうは言っていないけれども、それは老残の彼である……されど……花は残るべし……だ。……]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 90 衣着て小貝拾はんいろの月

本日二〇一四年九月二十九日(当年の陰暦では九月六日)

   元禄二年八月 十六日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十九日

【その二】同じく、いろの浜本隆寺での句。

 

  種(いろ)の濱

衣(ころも)着て小貝拾はんいろの月

 

[やぶちゃん注:「荊口句帳」。衣は僧衣、西行の面影である。「月」は十六夜(いざよい)の月。前日は雨に祟られて、無念の思い――というより私は慙愧の念と言いたいのだが――をした芭蕉は、このいろの浜で十六夜の名月を賞翫し得たのであった。そうしたある種の魂の爽快感が、これら四句の名吟を生んだとも言えよう。これが「奥の細道」のコーダであったと私は思っている。……因みにかの曾良もまさにこの七日前の八月九日に、この本隆寺に泊まっていたのである。……]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 89 小萩ちれますほの小貝小盃

本日二〇一四年九月二十九日(当年の陰暦では九月六日)

   元禄二年八月 十六日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十九日

【その一】この日は、前夜とうって変わって天気晴朗(伊勢長島の天候ではあるが、当時そこにいた曾良の日記にも快晴とある)となり、例の敦賀の廻船問屋天屋五郎右衛門の接待で、敦賀湾北西岸にある種(いろ)の浜に舟を走らせ、一日(いちじつ)、遊んだ(この事実は以下に出すように「奥の細道」に出る)。

 

  いろの濱に誘引(いざなは)れて

小萩ちれますほの小貝小盃(さかづき)

 

[やぶちゃん注:「薦獅子集」(こもじししゅう・巴水編・元禄六年自序)。「俳諧四幅対」には、『色濱泛舟(色の濱に舟を泛(うか)ぶ)』と前書する。

 「ますほの小貝」貝類収集家の間では斧足綱マルスダレガイ目チドリマスオガイ科チドリマスオガイ Donacilla picta に同定されている。殻長は約一・一センチメートル、殻高七ミリ、殻幅四ミリメートル。殻は小さく卵型三角形で殻は大きさに対して比較的厚く硬い。前背縁は後背縁より長く,殻頂は後方に寄り、個体によっては殻頂部周辺がかなり明るい桃色を帯びている。腹縁はゆるやかに彎曲する。殻頂下内面には大きな弾体受けを有し、それを挟んで強い歯がある。外套線は弯入する。潮下帯の砂地に棲息する。いろの浜に打ち上がっているか? 我々収集家を侮ってはいけない。Shellsfukui 氏のブログ「福井の打上げ貝」の「チドリマスオガイ」をご覧あれ。太平洋側は相模湾、日本海側は福井が北限であるから、芭蕉は「奥の細道」の旅では、ここで初めてこの貝を目にした。グーグル画像検索「Donacilla picta

 詠まれたのは本文に出るいろの浜近在の本隆寺(現在の敦賀市色浜(いろがはま)にある法華宗の寺院)での茶席と後座の酒食の宴であるが、句のイメージは小貝散る浜の野点(のだて)のそれである(本隆寺は現在の海岸線である色浜海水浴場からは凡そ九十メートル近く離れている)。一句のもとは西行の「山家集」に載る当地で詠んだとされる(但し、西行が越前に来たという事実は知られていない)知られた、

 

潮染むるますほの小貝拾ふとて色の濱とは言ふにはあるらん

 

で、本歌は続く二句の本歌でもある。なお、本歌のロケーションを事実に即して浜から離れた本隆寺に馬鹿正直に設定すると、句のイメージが著しく委縮するので注意されたい。有意に海から離れた寺の庭に散った萩の花に小貝が混じるはずがないことをいちいち注意しなくてはならないような評釈、がっちがちの国土地理院みたような評釈(ここまでで大分お世話になっているので誰とは敢えて言わない)は、真正の俳句の鑑賞とは言えないと私は思っている。

 この句、当初(土芳自筆「赤冊子草稿」・宝永五~六(一七〇八~〇九)年稿等)から後に出す「奥の細道」に載る「浪の間や小貝にまじる萩の塵」という句の初案かとされているが(山本健吉氏の「芭蕉全句」には同行していた等栽が寺に残した句文にこの句が認められてあるとある。これは以下に見るように「奥の細道」に載る事実である)、山本氏も述べておられる通り、私も別案と採る。山本氏は『小萩・小貝・小盃と可憐なものを並べ立てて、「こ」の頭韻とi音の脚韻とを重ねて、すこぶるリズミカルである。その句のリズムに乗るかのように「小萩ちれ」と、小萩へ言いかけるような発想をもっている。小貝はまた、小盃をも連想させる。小貝は浜、小萩は庭、小盃は床の上ながら、離れ離れ三つの景物が作者の脳裏で一つになり、種の浜の秋景色を描き出す』と優れた評釈をなされておられる。私は軽みの句ながら、このいろの浜で作られた本句を含む以下四句は「奥の細道」の最後の旅のぼろぼろの駝鳥みたような句の中にあって、流れ着いた小貝、散った小萩のごとき、可憐な佳句であると思う。

 本句のみ、「奥の細道」には採られていない。可哀そうなので、ここで最後に「奥の細道」のいろの浜の段を引いて、本句を賞したい。

 *

十六日空晴たれはますほの小貝ひろ

はんと種の濱に舟を走ス海上七

里あり天屋何某と云もの破籠さゝ

へなとこまやかにしたゝめさせ僕あ

また舟にとりのせて追風時の間に

吹付ぬ濱はわつかなる蜑の小家

にて侘しき法華寺有爰にちや

をのみ酒をあたゝめて夕暮のさひしさ

感に堪たり

  さひしさやすまに勝たる濱の秋

  波の間や小貝にましる萩の塵

其日の日記等栽に筆をとらせて

寺に殘

   *

「走ス」従来、「はす」と読みならわしている。

「海上七里あり」「海上」は「かいしやう(かいしょう)」と読む。二七・四九キロメートル。実際は海上三里(約一一・七八キロメートル)という、と伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「奥の細道」「敦賀」の段の注にはある。地図上でシュミレーションしてみると、十キロメートル強ある。同注に『現在は敦賀原発建設時に工事用の陸路が建設されている』とある。現代のいろの浜の彼方には、チェレンコフの業火の蒼白い色が見えるのである。

「天屋何某」「てんやなにがし」と読む。既に示した敦賀の廻船問屋主人天屋五郎右衛門。

「破籠」「わりご」と読む。薄い檜の白木を曲げ物に作った弁当箱。

「小竹筒」「ささえ」と読む。竹筒を利用した携帯用の酒入れ。

「僕」「しもべ」と読む。

「追風時の間に吹き付きぬ」「源氏物語」の「須磨」へ辿りつく場面、『道すがら、面影につと添ひて、胸もふたがりながら、 御舟に乘りたまひぬ。日長きころなれば、追風さへ添ひて、まだ申の時ばかりに、かの浦に着きたまひぬ。かりそめの道にても、かかる旅をならひたまはぬ心地に、心細さもをかしさもめづらかなり』をインスパイアして、後の「寂しさや」の句への匂いつけとする。

「わづかなる」一叢(ひとむら)の貧しげな。

「侘しき」「わづかなる海士の小家」の対句であるからと言って「もの寂しい」とか「貧素な」などと訳している見かけるが、デリカシーを欠く。「もの寂びた」ぐらいにして欲しいものだ。

「法華寺」「ほつけでら」と読んで、法華宗(ここでは日蓮宗を指している)の寺院という一般名詞。既に説明した本隆寺。]

2014/09/28

結婚式出席の為 閉店

本日は教え子の結婚式のため、これにて閉店と致しまする――心朽窩主人敬白

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 年始 / 合鴨

 日本人は年頭の訪問を遵守するのに当って、非常に形式的である。紳士は訪問して、入口にある函なり籠なりに名刺を置くか、又は屋内に入って茶か酒をすこし飲む。その後数日して、淑女達が訪問する。元日には、日本の役人達がそれぞれ役所の頭株の所へ行く。また宮城へ行く文武百官も見受ける。外国風の服装をした者を見ると、中々おかしい。新年の祝は一週間続き、その間はどんな仕事をさせることも不可能である。この陽気さのすべてに比較すると、単に窓に花環若干を下げるだけに止るニューイングランドの新年祝賀の方法が、如何に四角四面で、真面目であることよ! ニューヨーク市で笛を吹き立てる野蛮さは、只支那人のガンガラ騷ぎに於てのみ、同等なものを見出す。

[やぶちゃん注:「その後数日して、淑女達が訪問する」夏目漱石の「こゝろ」で、Kが先生に衝撃の告白をする前段のシーンで「女の年始は大抵十五日過だのに、何故そんなに早く出掛けたのだらう」と質問する下りがあったのを思い出す。これは女正月(めしょうがつ)のことで、一月十五日の小正月前後の女性の年始回りを指す。正月は女性は家内の事始と親戚や年賀の挨拶客の接待で忙しくて休みがなく、年始廻りの挨拶も出来なかったため、年賀の行事が一段落した小正月の時期に一息ついたことから「女正月」と呼んだ。地方によって時期や内容が大きく異なるが、場合によっては男が家事一切を取り仕切って女を休ませる風習があった地方もあった。最早、このような習慣は都会では全く失われてしまった。

「役所の頭株」原文は“the heads of departments”。部門の長官。部長。

「支那人のガンガラ騷ぎ」原文は“the racket made by the Chinese”。中国人がする(旧正月を祝う)どんちゃん騒ぎ、の謂いか。]


M489

図―489

 

 我々の家へ、大きな、ふとった刁鴨(あいがも)二羽の贈物が届いた(図489)。これ等は四本の短い竹の脚を持つ、四角くて浅い籠に入っていた。刁鴨は野菜と緑葉と、三個の丸い檸檬(レモン)との上に置いてあった。刁鴨はお汁にし、檸檬はしぼってそれにかけるのだが、日本で物を贈る方法が、如何に手際よく、そして完全であるかは、これでも判るであろう。この国では贈物というものが非常に深い意味を持っている。そして如何に些少であっても、必ず熨斗(のし)がつけられる。

[やぶちゃん注:「刁鴨」この字の正しい音は「ちょうかも」である(この字は「悪い」「欺く」「乱れる」などのよくない意味を持っており、不詳。交雑種であることを指すものか。識者の御教授を乞うものである)。カモ目カモ科マガモ属マガモ品種アイガモ(合鴨) Anas platyrhynchos var. domesticus 。野生のマガモ(Anas platyrhynchos)とそれを家禽化したアヒルとの交雑交配種のこと(アヒルの学名はアイガモと同じ)。]

飯田蛇笏 山響集 昭和十三(一九三八)年 春

   昭和十三年

 

〈昭和十三年・春〉

 

初機のやまひこしるき奥嶺かな

 

深山川連理(れんり)の鳥に年たちぬ

 

春還る山川機婦に奏(かな)でけり

 

春淺き灯を神農にたてまつる

 

初竈みづほの飯(いひ)は白かりき

 

ねこやなぎ草籠にして畔火ふむ

 

  富士川波木井のほとり

 

富士渡し姉妹の尼に淺き春

 

[やぶちゃん注:現在の山梨県南巨摩郡身延町波木井を流れる、日本三大急流富士川の支流域地名。大城川と相又川が合流して波木井川となり、身延町を南から北に大きく蛇行して富士川に合流する。]

 

  鰍澤古宿

 

春淺くやくざを泊むるはたごかな

 

[やぶちゃん注:「鰍澤」山梨県南巨摩郡旧鰍沢町(かじかざわちょう)。富士川に面し、江戸時代には富士川舟運の拠点であった鰍沢河岸が設置されて栄えた。近代には鉄道や道路など交通機関の発達に伴い、商業圏の拠点としての役割が低下、特に近年は過疎化が進行している。現在は北隣の増穂町と合併して富士川町(ふじかわちょう)となっている(ウィキの「鰍沢町」に拠る)。それにしても「やくざ俳句」とは傑作!]

 

國原の水縦横に彼岸鐘

 

絨毯に手籠の猫子はなたれぬ

 

壁爐冷え猫子あくまで白妙に

 

花祭みづ山の塔そびえたり

 

[やぶちゃん注:「花祭」灌仏会・仏生会のこと。釈迦の生誕とされる四月八日に行われる。「花祭」は明治以降の呼称。]

 

彼岸會の故山邃(ふか)まるところかな

 

暾にぬれて陸橋の梅さき滿ちぬ

 

[やぶちゃん注:「暾」朝日。「ひ」と訓じているか。]

 

梅ちりて蘭靑みたる山路かな

 

宿入の身をなよなよと會釋かな

 

[やぶちゃん注:「なよなよ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

花菜蔭蝶こぼれては地に跳ねぬ

 

夜嵐のしづまる雲に飛燕みゆ

 

  ころしも三月みそか

 

歸省子の擁すギターに宿雪盡く

 

[やぶちゃん注:「ころしも」とは「頃しも」(強意の副助詞「し」+詠嘆の係助詞「も」)で、その頃丁度の意。「宿雪」は「ねゆき」と訓じているか。]

 

  興津園試作場

 

暮春の娘柑樹の珠に戲れぬ

 

[やぶちゃん注:「興津農林省園藝試作場」は明治三五(一九〇二)年に静岡県庵原郡興津町(現在の静岡市清水区)に創られた農商務省農事試験場園芸部が大正一〇(一九二一)年に農林省園芸試験場として独立したもので、現在の茨城県つくば市藤本にある独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構の一つである果樹研究所の前身。ナシの豊水・幸水、リンゴのふじなどを育成、また、アメリカ合衆国首都ワシントンD.C.のポトマック河畔にある桜並木の桜は明治の末に当時の東京市長尾崎行雄が送ったものであるが、その桜の苗木の育成を担当したのは当時の農商務省農事試験場園芸部(現在独立分離したカンキツ研究興津拠点)でこのワシントンの桜と兄弟の桜が興津拠点に現在も植栽されており、薄寒桜と呼ばれて親しまれている、と参照したウィキの「果樹研究所」にある。「山廬集」の昭和一〇(一九三五)年の夏の句にも、

 

  興津農林省園藝試作場

白靴に場(には)の睡蓮夕燒けぬ

がある。]

 

春の雷白晝(まひる)の山を邃うせり

 

[やぶちゃん注:「邃う」は先行句にもある通り、「ふこう」(深う)と読む。]

 

風吹いて蝶杣山を迅くすぎぬ

 

   註――杣山は木を伐り出す山の稱

 

山墓の濡るむら雨に櫨子(しとみ)咲く

 

[やぶちゃん注:「櫨子(しとみ)」バラ目バラ科サクラ亜科リンゴ連ボケ属クサボケ(草木瓜) Chaenomeles japonica の別名。普通の木瓜のことである。通常は「しどみ」であるが、拡大してみても濁点が認められないので暫くママとする。「しどみ」とは、野焼きの際、これ以上延焼させたくない境にこれを植えて火を止める「火止め」から「しどめ」「しどみ」となったとも、また赤い花から「朱留(しゅどめ)」となりそれが転訛したものとも言われる(語源説は個人ブログ「爺ちゃんの花日記」のクサボケ(しどみ) 今日の誕生日の花は「クサボケ」を参照させて戴いた)。]

 

  大德坊句筵

 

松蟬に神山雲遠ざけぬ

 

[やぶちゃん注:「山廬集」の昭和五(一九三〇)年の句にも、

 

  大谷山大德坊

 

神山や風呂たく煙に遲ざくら

 

と出るのであるが、「大德坊」は不詳。識者の御教授を乞う。]

 

別れ霜音質花月光りさす

 

春驟雨迅く蕊しるき野茨かな

 

龍舌蘭夜は闌春の星下る

 

[やぶちゃん注:「闌春」は「らんしゆん(らんしゅん」で、春の中ほどの意。]

 

山櫻嶺々に靑草香をはなつ

 

風雨凪ぐ大巖山のなごり花

 

  四月十七日、粕谷の蘆花舊居を訪ふ

 

蘆花舊廬灰しろたへに春火桶

 

[やぶちゃん注:現在の東京都世田谷区粕谷にある徳富蘆花の旧宅。まさにこの直近の昭和一三(一九三八)年二月二十七日に、既に未亡人愛子氏によって東京都に寄附されていたものが、都立公園蘆花恒春園として開園していた。個人的に私の非常に好きな場所である。]

 

  山盧庭前

 

巖温く芽牡丹たわむ雨の絲

 

  某君経営の温室に遊ぶ

 

土蒸してメロン花咲く小晝時

 

  六峰氏より贈られたる觀世音を祀らんと

  するに折柄山上曹源師來庵、開眼供養せ

  らる

 

白木瓜に翳料峭と推古佛

 

[やぶちゃん注:「六峰氏」不詳。「山上曹源」(やまがみそうげん 明治一一(一八七八)年~昭和三二(一九五七)年)は曹洞宗の禅僧で仏教学者。佐賀県生まれ。号、霊岳。インド・セイロン(スリランカ)に留学、サンスクリット及びインド哲学を学び、帰国後は母校曹洞宗大学(現在の駒沢大学)教授・駒沢大学長などを勤めた。著作に「仏教思想系統論」など(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。「料峭」は春風が肌にうすら寒く感じられるさま。「れうせう(りょうしょう)」と読み、春風が肌に薄ら寒く感じられるさまをいう。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 鶴岡八幡宮(Ⅱ) ~ 了

丸山稲荷社(まるやまいなりしや) 本社の西山上〔丸山と號す〕にあり、古上宮の地に、稻荷の社あり、松ケ岡明神と號せしを、建久中賴朝卿、本社造營の時、此地に遷され、丸山明神と唱ふ、後(のち)星霜を經て、頽廢せしかば寛文《》中、二王門前にありし、稻荷社を爰に移す、則(すなはち)今の社是なり、其頃は十一面觀音と、醉臥人の木像(大工遠江里と云へる者、甚酒を好(このみ)て、此像を寄進すと云ふ)を安し、酒(さけ)の宮(みや)と號せしが、醉臥(すゐぐわ)の像は非禮なりとて、是を廢し、觀音を以て、本地佛とす云々風土記及鎌倉志に見えたり。

[やぶちゃん注:この稲荷は現在の鶴岡八幡宮上宮西側にある丸山と呼ぶ小高い丘の上にある鶴岡八幡宮末社丸山稲荷社本殿で、社殿によれば建久二(一一九一)年の本宮造営に先だって、現在地に移築された古来からの地主神と伝える。本殿は鶴岡八幡宮境内にある建造物の中では最も古く、国重要文化財に指定されている。「新編鎌倉志卷之一」の「鎌倉大意」中に、

松が岡に鎌を埋み給ふ事、松は木公と書く。是れ司東(東を司る)義也。彼此(かれこれ)金を兼る人君符合する者乎。鎌倉山に詠松(松を詠める)事、上古の作者末代を鑒(かんが)みるに非ずやと有。今按ずるに、大織冠、鎌を埋み給ひたる地は、今の上の宮の地なり。此を松が岡と名く。故に後(うしろ)の山を大臣(たいしん)山と云なり。此地に本は稻荷の社(やしろ)ありしを、賴朝卿、建久二年に、地主稻荷を西の方(かた)丸山に移して、八幡宮を此の所に勸請し給ふ。是の故に上宮(かみのみや)を松が岡の八幡宮と云ふ。【鶴岡社務次第】にも、松が岡八幡宮別當職とあるは、上の宮の事也。社務の云傳るにも、上の宮を松が岡と云、下(しも)の宮を鶴が岡と云ふ。又松が岡の明神と云て、鶴が岡にて御供具(そな)ふる神あり。丸山の稻荷明神なり。是れ舊に依て松が岡の明神と云なり。俗に傳ふる淨妙寺中の稻荷明神を、鎌を埋(うづ)みたる舊地と云ひ、又東慶總持寺を、松が岡の舊地と云は皆誤りなり。

とある。引用文中の「東慶總持寺」は東慶寺のこと。山号は松岡山で正しい寺号は東慶総持禅寺と称する。総持とは陀羅尼の訳語でもあるが、禅の初祖達磨大師の弟子尼総持に因んで禅の尼寺の意を含むものと推測される。植田は地名古称を誤りとするが、「相模風土記稿」には『里俗呼んで松岡と稱す』とあり、東慶寺は現地では古くから「松ヶ岡」と呼ばれ、歴史的な公文書にもそう書かれていることが多い。これがこの「東慶寺」の地名であった可能性は極めて高いと言ってよく、鎌倉には二つの「松ヶ岡」が存在したと考える方が自然である。

 本社は「新編鎌倉志卷之一」には「稻荷社」の項で出る。

稻荷社(いなりのやしろ) 本社の西の方、愛染堂の西の山にあり。二間に一間あり。井垣(いがき)三間四方也。此山を丸山と云なり。本社の地に、初は稻荷の社ありしを、建久年中、賴朝卿、稻荷の社を此山に移して、今の本社を剏建(さうけん)せらる。爾後頽破す。今の稻荷の社ろ、本は仁王門の前に有て、十一面觀音と、醉臥(すいぐは)の人の木像とを安じ、酒(さけ)の宮と號す。近き頃大工遠江(とをとをみ)と云者有。甚だ酒を好(このん)で此を寄進す。寛文年中の御再興の時、其體(てい)神道・佛道に曾て無き事也とて、酒の宮醉臥の像を取捨て、觀音ばかりを以て、稻荷の本體として、此丸山に社を立て、舊(ふる)きに依て松岡(まつがをか)の稻荷と號す。前の鎌倉の條下に詳なり。十一面觀音を稻荷明神本地と云傳る故に、此社内にも十一面を安ずる也。

この「酒の宮」については、恐らく本書以外に別ソースのデータはないように思われるが、まことに面白く興味深い話だけに惜しい。もし、御存知の方があれば、是非、御教授願いたい。]

 

下の宮 若宮と稱す、上宮石階の下、東方にあり、若宮大權現の額を掲ぐ、祭神四坐、中央は 仁德天皇、右は久禮、宇禮、左は若殿、本社(ほんしや)、幣殿、拜殿、向拜等(とう)あり、三十六歌仙の額を扁す、是(これ)元文御修理(ごしゆうり)の時、造らるゝ所なり、治承四《一一八〇》年十月、源賴朝由比郷より移して、建立ありし社なり、當國(たうごく)桑原郡を以て、供料所(くれうしよ)となす、十二月、鳥居を建(たつ)、養和元《一一八一》年正月、賴朝參宮して神馬を奉り、法華經を聽聞せらる、閏二月、立願に倚て、七ケ日參詣す、神託あり、此後參宮屢(しばしば)あらし事、東鑑其外記錄等に見えたり、五月、社頭營作の沙汰あり、六月材木由比濱に着岸す、七月、武州淺草の工匠(かうしやう)を召(めし)て、造營の事始あり、此月、上棟の儀を行ひ、八月正遷宮あら、壽永元《一一八二》年六月、社頭に怪異あり、八月賴家誕生によりて、龍蹄(りうてい)を奉納せらる、九月賴朝參宮の時、拜殿にて、僧圓曉に、別當職を命す、二年二月、當國高田、田島の二郷、及武州瓺尻郷を、社領に寄附あり[やぶちゃん注:「瓺尻郷」の「瓺」は底本では(へん)と(つくり)が入れ替わって、「瓦」の四画目の末が(つくり)の下まで(にょう)のように延びた字形。]、元曆元《一一八四》年四月、左馬頭能保參詣す、是(これ)新任拜賀の爲なり、文治二《一一八六》年五月、黄蝶(くわうえふ)の怪(くわい)あるをもて、臨時に神樂を行はれ、託宣の事に依て、神馬(しんめ)を奉納あり、八月賴朝參宮の時、西行(さいぎやう)鳥居の邊に徘徊す、依て其名を問(とは)しめられ、奉幣の後、謁見す可き由を命せらる、四年三月、梶原平三景時本願として、新寫の大般若經を供養す、八月、岡崎四郎義實をして、一百日の間、當社に宿直響衛(しゆくちよくけいゑい)せしめらる、十月、大庭平太景義、社頭警衛の爲、社地に小屋を搆へ、寓宿の所とす、賴朝來臨ありて、庭上(ていじやう)の霜葉を賞す十一月、馬塲の樹木倒るゝに依て、賴朝參宮、神馬を奉納あり、五年八月、奧州秀衡追討の祈禱として、夫人女房等をして、百度詣をなさしむ、十二月、奧州凱陣(がいじん)の報賽として、夫人參宮す、建久二《一一九一》年三月、神殿巳下回祿に罹る、賴朝參詣ありて、礎石を拜し、涕泣(ていきう)を催さる、十三日へ假殿に遷宮あり、八月、本殿上棟、十一月、落成して正遷宮の式を行ふ、三年正月、修正會を行はる、建仁三《一二〇三》年六月、鳩一羽、寶殿の棟上より落て死す、嘉祿二《一二二六》年、十月、神殿修理により、神體を竈殿に遷す、十二月、正遷宮の儀あり、嘉禎二《一二三六》年四月、社頭に羽蟻集る、寛元二《一二四四》年正月、天變(てんへん)に依り、祈(いのり)を命せらる、五月、世子乙若、病惱(びやうのう)の祈禱として、大般若經を轉讀す、寶治二《一二四八》年二月、足利伊豫守家時、若宮修正、及(および)兩界の用途料として、足利粟谷郷を寄進す、建仁三《一二〇三》年七月、怪異の事に依て、八講を行ふ、建長四《一二五二》年正月、神殿に怪異あり、文永二《一二六五》年三月管絃講(きわんげんかう)を行ふ、弘安四《一二八一》年七月蒙古退治の祈(いのり)あり、正和四《一三一五》年三月、炎に罹り、六月再建の事始あり、五年四月、正遷宮あり、元弘三《一三三三》年五月、北條高時滅亡の時、新田義貞拜殿にて首級を實檢し、神殿に入て重賓を披見あり、延元元《一三三六》年八月、惡徒等(ら)社頭に濫入し、神寶を奪(うばは)んとす、時に宿直に在し、小栗十郎防戰するに依て、惡徒等退散す、十郎創を被りて終(つひ)に死す、曆應元《一三三八》年五月、神殿鳴動す、二年八月、社頭にて、世上無爲(せじやうむい)の祈禱を修す、應永廿二《一四一五》年五月、社頭にて、最勝王經の講讀を始む、永正《一五〇四~一五二一》の頃は、宮殿大(おほい)に破壞せり、天文元《一五三二》年十月、中門を修理す、三年十一月、社邊に光り物あり、四年二月、奈良大工藤朝、寶前に常燈を寄附す、九年北條氏綱、神殿を再興す、天正二《一五七四》年閏十一月、北條左衛門大夫氏繁、神鏡及雲板を寄附す、例祭四月三日、東鑑には此(この)例祭を、臨時祭(りんじさい)とも記せり、當日流鏑馬、馬長、競馬、相撲等(とう)あり、今皆廢す、正月四日修正會(しうせいゑ)を行ふ、按ずるに天正十九《一五九一》年の修理圖に、當宮の前に樓門あり、其左右に續きて、廻廊を圖せり、東鑑にも、當社廻廊の事、往々見ゆ、元曆元《一一八四》年正月、廊中にて法華八講を行ふ、四月、三善康信入道善信、賴朝に謁す。文治二《一一八六》年四月、賴朝及夫人參宮の次、靜女の舞曲を見物す、四年二月、廻廊にて、流鏑馬を覽る、五年四月、廊内にして、神事の相撲あり、建久元《一二一九》年二月、大般若經を輪讀す、二年三月、囘祿に罹り、八月、上棟あり、建仁二《一二〇二》年八月西の廊に鳩來(きたり)て、數刻去らず、依て、問答講を修す、賴家來て是を聽聞す、三年七月、鴿鳥の怪あり、建長六《一二五四》年五月、神事(じんじ)の時鬪亂(たうらん)ありて、殺害(せつがい)に及ふ、是に依て造替(つくりかへ)あるべき由、評議あり、此餘、賴朝及泰幣の使等、廻廊に着座の事見えたれど、爰に略せり、社前に銅燈二基を置西方末社の傍に、槐樹あり、社傳に、應神天天皇、槐樹の下にして降誕ありし故、此社地にも植(うゑ)しなり、故に安産守護の樹と稱せりと云ふ。

[やぶちゃん注:「武州瓺尻郷を、社領に寄附あり」「瓺尻郷」の「瓺」は底本では(へん)と(つくり)が入れ替わって、「瓦」の四画目の末が(つくり)の下まで(にょう)のように延びた字形。これは「たけじり」と読むようで、現在の埼玉県熊谷市三ケ尻(みかじり)周辺に相当する。

「寶治二年二月、足利伊豫守家時、若宮修正、及(および)兩界の用途料として、足利粟谷郷を寄進す」の「家時」は「義氏」の誤り。しかも時系列に変調をきたしている。このデータは「吾妻鏡」ではなく鶴岡八幡宮文書に拠るデータであるから、筆者が複数の資料を元に本項を書き、その結果として錯入してしまったものと思われる。

「管絃講」仏前で読経とともに管絃を演奏して仏徳を讃える法会。「かげんこう」とも読む。]

 

白旗明神社  其以前は上宮の西にありて周圍に玉垣を築き、三間に二間の祠(し)なりしこと、鎌倉志に見えたり。新編相撲風土記稿云、賴朝を祀る、木像あり、左右に住吉、聖天を合祀す、賴家の造建(ざうけん)なりと云ふ、元旦に尊供あり、正月十三日、神事(じんじ)を行ふ、鎌倉管領年首の拜賀に、先當社を拜して、後(のち)本社に詣(まい)るを例とす、天文九年北條氏綱再建(さいえん)す、天正十八《一五九〇》年、小田原凱陣の時、豐臣秀吉當社に詣し賴朝影像を見る、當社も文政の災(さい)に烏有し、十一年御再建あり、御殿司職(ごでんしゝよく)司(つかさ)とれり、と今若宮の東に遷す武衛殿と號せり。

[やぶちゃん注:「文政の災」先に出た文政四(一八二一)年一月十七日の夜に襲った火災。上宮とともに全焼したものと思われる。]

 

馬場  東鑑、文治二《一一八六》年十一月條に、馬場本假屋(ばゞほんかりや)とあれは、其項既に開かれしなり、三年八月放生會の時、始て流鏑馬あり、此後(このゝち)鎌倉將軍、及夫人等、馬塲の棧舖にして、流鏑馬見物の事往々所見あれと、爰に省けり、四年十一月、馬塲の木、風なきに倒る、正治二《一二〇〇》年五月、神事(しんじ)の時、馬塲にて長江四郎明義か僕從(ぼくじゆう)、刄傷(にんじやう)に及ふ、承元四《一二一一》年八月、始て神事以前に、流鏑馬射手の堪否を試(こゝろみ)らる、建保六《一二一八》年六月、實朝左大臣の拜賀として參宮の時、北條義時の内室(ないしつ)以下、此邊に棧敷を搆へて、其行列を見物す、寶治元《一二四七》年六月、兵火の爲に、流鏑馬舍回祿す、十一月再建あり云々風土記に見えたる、今武衞殿の社前に馬塲あり、柵を繞(めぐ)らせり、池月(いけつき)の駒留石(こまとめいし)あり、(池月は武衛公(ぶゑいこう)の愛馬、後佐々木高綱に賜ふ)。

[やぶちゃん注:ここは境内を東西に貫通する流鏑馬馬場辺を指す。「鎌倉攬勝考卷之二」では「馬場迹」として異様に長い考証が載る。

「堪否」「かんぷ/かんぴ」と読み、堪能(かんのう:上手下手。)か否かの意。

「池月」「生月」「生喰」とも書く。頼朝が梶原景季に与えた摺墨と並ぶ名馬で、二頭ともに富士川先陣争いで知られる。]

 

柳原  昔此邊を柳原とも稱せり、白旗神社の池畔、枯株(こしゆ)今尚ほ存せり。

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之一」には、

○柳原 柳原(やなぎはら)は、八幡宮舞殿(まひどの)の邊より東、藥師堂の前までを云。昔し柳の多かりけるに因て也。枯株今尚を存せり。里俗傳ヘて古歌あり作者不知(知れず)。「年へたる鶴岡邊(つるがをかべ)の柳原、靑みにけりな春のしるしにと」。此の歌を、【歌枕の名寄】には、平の泰時と有て、柳原を松の葉のとあり。何れ是(し)なることを知らず。久しく此の所の歌也と云ならはしたることなれば、里俗の傳へ語れるを本とすべき歟。

とある。「年へたる鶴岡邊の柳原、靑みにけりな春のしるしに」の和歌は、「夫木和歌抄」に「春歌中、柳」、作者「平泰時朝臣」として、

 年へたる鶴のをかべの柳原靑みにけりな春のしるしに

植田が言う「歌枕名寄」鶴岡には、

 としへたるつるがをかべの松の葉のあをみにけりな春のしるしに

更に、「六花集註」春部には、

 年へたる鶴が岡邊の柳原靑みにけりな春のしるしに

と出る。]

耳嚢 巻之九 龍を捕るといふ説の事

 龍を捕るといふ説の事

 

 御府内(ごふない)は繁花にて人氣(じんき)さかんなれば、昇龍など見しといふも邂逅(たまさか)の事なり。國々にてはかゝる事度々ありし事なり。予佐州に居(をり)し時は、昇龍といふ樣子を見侍りし。又佐州には龍損(りゆうそん)と唱へ、風雨の損じの外、田畑の損じ家作の損じを書出(かきいだ)し候事時々ありしが、越後越前抔もまゝ龍損の事を唱ふる由、山崎宗篤へ咄しければ、宗篤此頃淸朝より渡來の書の内、刑錢新語(けいさんしんご)といへる書を見しが、專ら經濟の事を書(かき)たるものにて、右の内に龍の動靜にて田畑を損ざし、家屋を破る事あり。是に依(より)龍を捕へ刑する事あり。其手法は、雪の降りしころ、蟄龍(ちつりよう)ある處は其處(そこ)斗(ばかり)雪消へてつもらず。其所を見定めて、檜の材木を土中へ深く打込みぬれば、龍損の愁なしと、右書に見ゆる由語りぬ。予彼(かの)書は見ざれども、一事の奇法に付、爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:昇龍から暴龍封じ呪法で直連関で、しかも山崎宗篤談二連発。なお、ここで根岸も見たという「龍」とはもう、自然現象としての竜巻のことと考えてよい。ただ、そこに根岸も幾分かは超自然の「龍」をそこに感じていたのであろうことがこの叙述からは感じられる。

・「邂逅(たまさか)」「邂逅」は万葉時代の古語では「わくらば」と読み、たまたま・偶然に・まれにの意。「たまさか」は「偶さか」「適さか」などとも漢字表記する。私はこの「めぐり逢い」という語が好きなので、現代語訳ではひねって残した。

・「予佐州に居し時」根岸の佐渡奉行としての現地勤務は天明四(一七八四)年三月から

天明七(一七八七)年七月までの二年四ヶ月で、「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから二十二年前のこととなる。

・「刑錢新語」不詳。岩波長谷川氏注に、寛政七(一七九五)年に渡来した書の中に「刑銭必覧」があるとある。この「刑銭必覧」は、明清時代に数多く出版された地方官の官箴書(かんしんしょ:実務マニュアル本)の一冊で、内容は官道徳・訓戒格言・政績実録の他に地方の政治・経済・法律・社会・風俗に関する資料が含まれている。

・「檜の材木を土中へ深く打込みぬれば、龍損の愁なし」ただの直感に過ぎないのであるが、これは五行説の「相克」による呪術ではなかろうか? 龍は「水」である。五行の「相生」では直接には「水生木」(原義は木は水によって養われており水がなければ木は枯れてしまうというもの)であるものの、「相克」では「木剋土」(原義は木は根を地中に張って土を締め付けて養分を吸い取っては土地を痩せさせる)で「土」を支配し、支配された「土」は「土剋水」(原義は土は水を濁して水を吸い取ってしまい常に溢れんとする水を堤防や土塁などによって堰き止める)で「水」に克つ(以上の分かり易い(しかし実際の五行の相生相克はもっと記号論理学的なものであってこのように単純明快なものではない)意味はウィキの「五行」を参照した)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 龍を捕まえて罰を与えるという事

 

 江戸御府内(ごふない)は繁華にして人の気(き)も盛んなれば、「龍の昇天」なんどに邂逅したという者は、これ、稀れであるが、地方の国々にあっては、「龍の昇天」なんどはたびたびあることにて御座る。

 私が佐渡にあった時分にも、龍が昇天する様子をよく見かけて御座った。

 また、佐渡にては「龍損(りゅうそん)」と称して、風雨による金山関連の損害の他にも、民間の田畑の損害及び家作の損害などをこと細かに報告書として作成することが、これ、しばしば御座った。

 越後や越前などにても同様の災害を「龍損」と称しておるということを、たまたま来ったかの山崎宗篤(そうとく)殿に話し致いたところが、宗篤殿が、

「近頃のこと、清朝より渡来せる書の中(うち)に、「刑銭新語(けいせんしんご)」と申す書を見出し、披見致いて御座った――これ概ね、経済政策に就いて書かれるもので御座ったが――いや、その中に、

 

――龍が動静致すに依って、田畑を損ねては家屋を損壊せること、これあり……

――されば、龍を捕らえて、これを罰するという法、これあり……

――その仕儀は、雪の降ったる折り、地中深くに蟠ったる蟄竜(ちつりょう)の居る場所にては、そこばかり、降ったそばから雪の消え、積もること、これなし……

――さればそこを見定め、太き檜(ひのき)の材木を、しっかりと土中深くへ打ち込んだれば「龍損」の憂い、これなし……

 

と、その書に、確かに記されて御座った。」

と、語って御座った。

 私はその書は見て御座らぬが、一種の奇法なればこそ、ともかくもここに記しおくことと致す。

大和本草卷之十四 水蟲 介類 卷貝 ~ 大方の御批判を乞う

【和品】

卷貝 殼ノ長一寸許殻兩方不相向右片ノ殻左ニ向

ヒテ如卷左ノ方ヨリ殼少掩カ如ニシテ不卷首ハ卷軸

ノ如ク有囘旋之模樣末ハ矢ハズノ如シ細文多シ紋ハ

紫黑色殻色有光是貝子ノ類乎

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

卷貝 殼の長さ、一寸許り。殻、兩方相ひ向かはず、右の片の殻、左に向かひて卷くがごとく、左の方より、殼、少し掩〔(おほ)〕ふがごとくにして卷かず。首は卷軸のごとく、囘旋の模樣有り。末は矢はずのごとし。細文、多し。紋は紫黑色。殻の色、光り有り。是れ、貝子〔(たからがひ)〕の類いか。

[やぶちゃん注:どうもこの叙述は、腹足綱 Gastropoda の「巻貝」総体を指して語っているようには思われない。まず、全体を現代語訳して箇条書きにして注を附してみよう。

   *

巻貝

・殻(巻き方が特異であるからこれは必ずしも殻長とは言えず、長径と採るのが自然である)の長さは三・〇三センチメートルほどしかない。

・殻は、通常の貝のように左右の貝殻が相い対峙する形状を成していない。

・右の方の殻は、左方向(反時計方向)に向かって巻き込むようになっている。

・左の方の殻は、その巻き込んだ右の殻を微かに覆うようにあるだけで、巻き込みを全くしていない。

・首の部分(右の殻が巻いた巻き込みの部分、則ち、螺塔を指していよう)は軸物の巻物のようで、そこには旋回する紋様がある。

・先端部分(次の「矢はず」という表現からこれは殻頂ではなく、その反対の前溝部・臍孔部から突出した水管部を指すか、又は内唇部の歯状襞の凸凹を指していると考えてよかろう)は矢筈(矢の末端の弓の弦(つる)を受ける部分で、弓の弦につがえるための切り込みのある部分)によく似ている。

・その螺旋形になった部分には細かな紋様が多く見られる(螺肋部と結節部及び縫合部、更には縦に入る縦張脈も含んでの謂いであろう)。

・その紋様は紫がかった黒い色をしている。

・殻には光沢がある(以下でタカラガイとの類似性を述べていることから殻表面の光沢を言っているとまず採るが、しかしこれは殻の内面をも言っていないとは断言出来ない)。

・これは按ずるに宝貝(腹足綱直腹足亜綱下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ超科タカラガイ科 Cypraeidae に属するタカラガイ類)のたぐいであろうか?

   *

 問題は大きさと形状及び殻の色と光沢総てである。しかもそれはタカラガイ科 Cypraeidae に属するタカラガイ類に近似して見えるというのである。これはどれをとっても、逆立ちしても腹足綱 Gastropoda の巻貝に汎用出来る内容ではない。

 ところが、ここで一歩下がって見てみると、ここまでの「大和本草」で益軒の挙げている貝類は概ね(「タコブ子(ネ)」を除く)斧足類(二枚貝)綱 Bivalvia で、巻貝は少し後の「石決明」(アワビ:しかも益軒はこれを巻貝と認識していない可能性が大である)、ずっと後の「螺」(これが益軒ににとっての腹足類、巻貝である)以降にしか出ないのである。

 とすれば、ここに特に敢えてこの「卷貝」なるものを先行して出したのは、それが「螺」のような典型的な現在の我々に馴染み深い「巻貝」とは全く異なるものと益軒が認識していた「もの」であったと考えるのが至当である。

 そこで私なりにこれが如何なる種であるを推理して見たい。

 まずは陸産有肺類と淡水産は除外する。陸産は益軒自身が「陸蟲」に別掲している点、色彩と形状からピンとくるものが浮かばない点、及び後掲するように「田螺」「河貝子(ミナ)」といった淡水産種はちゃんと淡水産であることを明記して後に掲げているからである。

 一つのポイントは特異な巻き方の叙述部分にある。

 これは――一見すると、二枚貝の右殻のみが螺を成し、左殻が巻かずに殻口を半ば塞ぐようになっているだけ――に見える、というのである。私がまず想起したのは、

 

腹足綱直腹足亜綱アマオブネガイ上目アマオブネガイ目アマオブネガイ科 Nerita Theliostyla 亜属アマオブネ Nerita(Theliostyla)  albicilla

 

であった。多くの種を有するアマオブネガイ科 Neritidae は、ある意味、はなはだ特徴的な形態を持ち、素人はまさに(少なくとも小学校二年生の時に由比ヶ浜で拾った時の私は)『これって巻貝、なのかなぁ? タカラガイの出来そこないかなぁ?』と疑問に思う形をしている(見るに若かず。グーグル画像検索「Theliostyla albicilla)。

 ご覧の通り、殻は著しく腰高の感じを与える球形又は斜卵形を成し、螺塔も塔の形状を成さず、短小で低平で、種によっては全く平坦となって螺塔を形成しない。しかも体層がはなはだ大きく全殻の大部分を占めており、益軒の言うように――二枚貝の一方の殻が異常に肥厚してずんぐりむっくりの奇形となったような感じ――と言われれば、何となく信じてしまいそうなのである。しかも腹足類、巻貝の今一つの一般的な特徴とも言える螺管は二次的に吸収されてしまっていて痕跡を残さず、画像で見るように本来なら螺管や臍孔・臍索を有するはずの臍域に相当する箇所を見出せない。さらに、内唇が――二枚貝の残りであるかのように(螺を巻かない片貝であるかのように)平坦に殻口に中央から突き出て広く見え(しかも滑らかで光沢のある白い色を成すものが殆んどである)、しかもその内縁端には――まさしく「矢筈」と呼ぶに相応しい――著しい凹凸を成す歯状襞が形成されているのである(この解説部には吉良図鑑(教育社昭和三四(一九五九)年改訂版)の「アマオブネ科」の総説記載の一部を参考にしている)。

 アマオブネ Nerita(Theliostyla)  albicilla は殻がやや大きく馬蹄型の半球状を成し、螺塔は小さく巻き込まれて体層は大きい。吉良図鑑によれば、表面に螺状脈を形成し、『黒白の絣状または帯状斑があり、時に暗褐色さえ出現する』(益軒の「細文、多し」「紋は紫黑色」と類似する)。『殻口内外両内縁に歯状刻があり』(益軒の「矢はず」と一致)、『内唇滑層面に顆粒』状の突起を有する。大きさは長径が標準成体個体で凡そ三センチメートルで叙述「一寸」とも一致する(本邦の生息域は本州南部以南)。

 問題はこれをタカラガイの仲間のようだと評するかどうかであるが、私は小学生時代の時分自身の思い出の感懐を大切にしたい。確かに、そう、見える。

 他にも同定候補はあるであろう。大方の御批判を俟つものである。ただ、恐らく、容易に管見出来る記事でこの「大和本草」の「卷貝」を同定考証しているものは見当たらない。一つの議論のたたき台として拙考を提示するものである。]

僕は確かにジャミラであったという事実

そうか……

僕の体は二つあったのだな!……

しかも……

対科特隊のそれを見るがいい!……

左右の手の長さが異なるではないか!……

これは……

僕の腕が結核性カリエスのため左腕が五センチ短いのとそっくりではないか?!

……僕は……やっぱり……ジャミラであったのだ……


サイト「光跡」の「★更新情報★」にある「14.9.27第2研・ジャミラ」を参照されたい。ここは特撮オタクの僕には侮れないサイトである。私の定期チェック・サイトでもあり、これも昨日のアップ分である。

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 88 雨の仲秋無月の敦賀にて四句

本日二〇一四年九月二十八日(当年の陰暦では九月五日)

   元禄二年八月 十五日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十八日

【その一】この日は仲秋の名月であったが、雨で月見は出来なかった。以下、「奥の細道」通行本より、句前の前書風の章句を前書として一部読み易く直して示す。

 

  十五日、亭主の詞(ことば)にたがはず、雨、降る

名月や北國日和(ほつこくびより)定(さだめ)なき

 

[やぶちゃん注:「荊口句帳」では、

 

  うミ

名月や北國日和定なき

 

と不思議な前書がある。「荊口句帳」ではこの句の前にある二句(私は時系列に従って後に掲げる)を見ると、

 

  はま

月のミか雨に相撲もなかりけり

 

  ミなと

ふるき名の角鹿や戀し秋の月

 

とあることに気づく。これは芭蕉が敦賀の景を「浜」「湊」「海」の三景に分けて詠んだものであることがここから分かる。とすれば、本句を詠じている芭蕉は雨の降って、荒れて(だから浜での相撲も中止となった)波のほの白く立つ夜の敦賀の湾の全景を前にこの句を詠んでいるのだ。……そうして……そのような景として読む時、初めて、この句が「奥の細道」に採られた意味が、私には腑に落ちるのである。……これは恐らく、裏日本の海浜に住んだことがない方々には分からぬ――私の青春の記憶に基づく――感懐ではある。……

 自筆本は以下の通りで異同はない。

   *

十五日亭主の詞にたがはす雨降

  名月や北國日和定なき

   *

■やぶちゃんの呟き

 この日、曾良は大垣を午前八時に長島に向けて船出しているが、日記(最早、随行日記ではない)には(大垣の天候ではあるが)、

未ノ刻、雨降出

とある。

……そら、やっぱり雨でしたでしょう、芭蕉さま。だから言ったんです、殊更に芋名月の月見月見と拘っちゃだめですって。……「雨」と言挙げしてはだめですよってね。……芭蕉さま、いやさ、光殿……これは、もしや……曾良、いやさ、かの六条御息所の……その生霊の、成せる業(わざ)にては……これ、御座いますまいか?……]

  

*   *   *


【その二】仲秋の名月の見えぬ雨夜の今一つの句。伊藤洋氏の「芭蕉DB」の本句解説頁及びネット上の情報によれば、この晩方、廻船問屋天屋五郎右衛門(俳号は玄流子)の案内で金ヶ崎城(後注参照)の麓にある誓法山金前寺(こんぜんじ:真言宗。福井県敦賀市金ヶ崎町にある。宝暦一一(一七六一)年十月に建立された福井県最古の芭蕉句碑である芭蕉翁鐘塚(後注参照)が建つ。)に参詣して詠んだ句とされる。「奥の細道」には採られていない。

 

  中秋の夜は敦賀にとまりぬ。雨降(ふり)ければ

月いづく鐘はしづめる海の底

 

  おなじ夜あるじの物語に、此海に釣鐘の

  しづみて侍るを、國守(ノカミ)の

  海士(アマ)を入(いれ)てたづねさせ

  給へど、龍頭(りやうづ)のさかさまに

  落入(おちいり)て、引きあぐべき

  便(たより)もなしと聞(きき)て

月いづく鐘はしづみて海の底

 

[やぶちゃん注:第一句目は「俳諧草庵集」(句空編・元禄十三年自序)の、第二句目は「俳諧四幅対」の句形。

 「俳諧草庵集」には、

 

  敦賀の驛の屛風に侍り、北國行脚の時の吟なるべし

 

という注記があるとする。この句を認めた(真蹟でなくてはこうは書くまい)屏風が敦賀宿にあるのを句空は実見したということであろう。「荊口句帳」には、

 

   金が崎雨

月いつく鐘ハ沈める海の底

 

という前書が附されてある。「金が崎」は「かながさき」とも「かねがさき」とも読み、古跡金ヶ崎城で知られる、敦賀市北東部の金ヶ崎町。この城は別名、敦賀城とも呼ばれ、敦賀湾に突き出した海抜八十六メートルの小高い丘(金ヶ崎山)に築かれた山塞であった。源平合戦の折り、平通盛が南下する木曾義仲を防戦するため、ここに城を築いたのが最初と伝えられる。また同城跡の麓には足利氏と新田義貞の戦いで城の陥落とともに捕縛された恒良親王と、新田義顕とともに自害した尊良親王を祀った金崎宮(かねがさきぐう)がある。その後も戦国史上有名な織田信長の撤退戦である金ヶ崎の戦い(元亀元(一五七〇)年に起きた織田信長と朝倉義景との戦闘の一つ)でも知られる戦跡である(ここはウィキの「金ヶ崎城」とそのリンク先に拠った)。

 ここに示された沈鐘伝説とここの句碑が「芭蕉翁鐘塚」と呼ばれる所以は、先に示した通り、南北朝の延元元(一三三六)年に新田義貞らの南朝軍が後醍醐天皇皇子恒良親王・尊良親王を奉じて北陸路を下って金ヶ崎城に入ったものの、ここで足利軍との戦いに破れたため、義貞は義顕にその場を任せて脱出、杣山城から彼らの救出を試みたが失敗、遂に兵糧尽き、弱冠二十歳の若大将義顕は城に火を放って、尊良親王及び三百余人の兵とともに自害した(恒良親王は捕縛されて足利直義によって幽閉され、翌年に没した(毒殺されたとも言われる。この辺りはウィキの「新田顕」に拠る)。この最期に際し、義顕は陣鐘を海に沈めたとされ、「俳諧四幅対」の前書にあるように、後に当国の国守が海に海士を入れて探らせてみたが、陣鐘は逆さまになって沈んでおり、龍頭が海底にすっかり埋まって、しまっていて引き上げることが出来なかったという伝承に基づくもの。

 見えない沈鐘の海の底からの妖しい響きの夢幻音と、中秋雨夜の隠れて見えない月の光りの眩暈景とが無限遠で共鳴する。

 鬼趣好きの私としては、これ、もう少し、きゅっと来る慄然の締りがあったなら、佳句となると感ずる句である。]

 

*   *   *


【その三】同じく同夜、雨の敦賀の気比の浜での吟。時間的には前の二句よりも前、昼間の景であろうが、つまらぬ句なので後に回した。

 

  濱

月のみか雨に相撲もなかりけり

 

[やぶちゃん注:「ひるねの種」。「奥の細道菅菰抄附録」には『近江國長濱にて、此時觀進相撲有けるよし』と編者前書があるが、これでは琵琶湖畔の景となるので採らない(長浜には敦賀の次辺りに泊まってはいるが、この句、「芭蕉翁月一夜十五句」の中にあってのみ辛うじて生存し得る句である)。

 「相撲」現代の歳時記では相撲は初秋の季語とされる。奈良・平安時代には毎年七月に宮中で相撲節会(すまいのせちえ)が行われたことによる。江戸時代は奉納相撲や地方巡業の相撲興行が盛んに行われたが、地方各地の素人衆のそれは秋祭りの頃に開催されることが多く、草相撲・宮相撲(神社の「宮」の意)などと呼ばれた。相撲のルーツである力競べは、記紀の遙か昔から、豊作祈願の祭祀や、政(まつりごと)に於ける重要な裁定に際して神前で行われた吉凶占の場などで、盛んに催された、祝祭としての神事であった。

■やぶちゃんの呟き

……芭蕉さま……我儘なあなたへの罰は……月を隠した雨だけではありませんでしたね……神々の祝祭も……なくなったのですよ。……あなたは結局、自ら、精神の孤独を選んでしまったのです……]


*   *   *



【その四】同じく雨の敦賀の湊での仲秋無月の一句。

 

  みなと

ふるき名の角鹿(つぬが)や戀し秋の月

 

[やぶちゃん注:「荊口句帳」。

 「角鹿」は敦賀の古名(和銅年間(七〇八年~七一五年)に敦賀と改名された)。敦賀の湊は北陸の海路の、主に海産物の陸揚げ港としてはもとより、大陸交通の要港としても古代より栄え、北陸路陸路最初の拠点となる古い宿駅でもあった。

■やぶちゃんの呟き

 正直、この「芭蕉翁月一夜十五句」の痙攣的連作をこの句まで読んでくると、芭蕉のマニアックな未練がましさが、流石に鼻について厭になってくる。これら、少なくとも敦賀に至るまでの月見待望と無月の句は研究者以外の一般の芭蕉好きの方は、知らない方がましな部類に属する、という気が強くしてくる。]

2014/09/27

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 87 月淸し遊行の持てる砂の上

本日二〇一四年九月二十七日(当年の陰暦では九月四日)

   元禄二年八月 十四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十七日

【その六】この夜、芭蕉は気比神宮に参って、待宵の月を賞した。

 

  元祿二年つるがの湊(みなと)に月を見

  て、氣比の明神に詣(まうで)、遊行上人

  の古例をきく

月淸し遊行(ゆぎやう)の持てる砂の上

 

  氣比のみや

なみだしくや遊行のもてる砂の露

 

  氣比の宮べは遊行上人の白砂を敷ける古

  例ありてこの比(ころ)もさる事有(あ

  り)しといへば

月淸し遊行の持てる砂の露

 

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」「猿蓑」の句形。これと同形を載せる「俳諧四幅対」(東恕編・享保四年刊)には以下の長い前書が附されてある。

 

  元祿二年

  八月十四日敦賀の津(つ)に宿をもとめ

  て、氣比の宮に夜參す。むかし二世の遊

  行上人この道の泥土(でいど)をきよめ

  んとて、みづから砂をはこび玉ふより、

  砂持(すなもち)の神事とて今の代にも

  つたへ侍るとかや。社頭神さびたうあり

  さま、松の木の間の月の影もりて、信心

  やゝ骨に入(しむ)べし

月淸し遊行の持てる砂の露

 

 第二句目は真蹟短冊でこれが初案、第三句目は「其袋」(そのふくろ・嵐雪編・元禄三年自序)の句形で再案らしい。改作過程の抑制はよく分かる。光景もこれまでの月光のそれに比して格段に鮮やかである。であるがしかし、まさにこの長々しい前書なしには本句の荘厳さは味わえず、従ってこの句はやはり必ずしも優れた句とは私には思われないのである。

 以下、ここでは一つ、福井の等栽宅訪問からここまでの「奥の細道」自筆本を読み易く、整序補足して示しておくこととする。

   *

 福井は三里計なれば夕飯(ゆふめし)したためて出るに、たそかれの道たどたどし。爰に等栽と云ふ古き隱士有り。いづれの年にや、江戸に來りて、予を尋ぬ。遙か十とせ餘り也。

いかに老いさらぼひて有るにや、將(はた)死にけるにや、と人に尋ね侍れば、いまだ存命して、

「そこそこ。」

とをしゆ。市中ひそかに引き入りて、あやしの小家に、夕顏・へちまのはかゝり、雞頭・帚木に戸ぼそをかくす。扨(さて)は此うちにこそと門を扣(たた)けば、侘しげなる女の出でて、

「いづくよりわたり玉ふ道心の御坊にや。あるじは、このあたり何某(なにがし)と云ふものゝ方に行きぬ。もし用あらは尋ね玉へ。」

と云ふ。かれが妻なるべしとしらる。

『むかし物かたりにこそ、かゝる風情は侍れ。』

と、やがて尋ねあひて、其家に二夜(ふたよ)とまりて、名月はつるがの湊(みなと)に、と旅立つ。等栽も共に送らんと、裾(すそ)おかしうからげて、道の枝折(しをり)とうかれ立つ。漸(やうやう)白根が嶽かくれて、比那(ひな)が嵩(たけ)あらはる。あさむつの橋をわたりて、玉江の芦は穗に出でけり。鶯(うぐひす)の關を過ぎて、湯尾(ゆのを)峠を越(こゆ)れば、火打(ひうち)が城(じやう)。かへる山に初鴈(はつかり)を聞きて、十四日の夕暮、つるがの津に宿をもとむ。

 其夜、月、殊(こと)に晴れたり。

「あすの夜もかくあるべきにや。」

といへば、

「越路(こしぢ)のならひ、明夜(めいや)の陰晴、はかり難し。」

とあるじに酒すゝめられて、けいの明神に夜參(やさん)ス。仲哀(ちゆうあい)天皇の御廟(ごべう)也。社頭、神(かん)さびて松の木間に月のもり入りたる、おまへの白砂(はくさ)、霜を敷けるがごとし。

「徃昔(そのかみ)、遊行(ゆぎやう)二世の上人(しやうにん)、大願發起(たいがんほつき)の事ありて、みづから、葦を刈り、土石を荷(にな)ひ、泥渟(でいてい)をかはかせて、參詣徃來の煩(わづら)ひなし。古例、今にたえず、神前に眞砂(まさご)を荷ひ玉ふ。これを『遊行砂持』と申し侍る。」

と、亭主のかたりける。

  月淸し遊行のもてる砂の上

   *

■やぶちゃんの呟き

 明らかに芭蕉は文章を書く面白さに没頭しており、句作への専心度は急激に低下している(採用しなかった句群の拙劣さを見よ)。

 これは曾良と別れたことに端を発していると見てよい。ある意味で芭蕉自身の確信犯、半ばは意識的仕向けたとも言える曾良との留別の仕儀であったが、やはり芭蕉にはそれに対して微かな呵責と悔悟の念を持っていたのではなかったか?

 そうした対人心理的焦燥感の中では、芭蕉は会心の句が作れなくなる。

 作れても妙に投げ出したような、或いは「崩る」「裂く」といった棘のある語彙を選んで、それがどこか仄かに芭蕉独り門弟たちの中で浮いたような印象を残すものとなる(これは若き日の芭蕉から死に至る迄、一貫した特性であると私は考えている)。

 「月淸し遊行のもてる砂の上」の句が辛うじて静謐さを保っているのは、「なみだしくや」と「露」という如何にもな主情性を完全に殺ぎ落として、遂には芭蕉自身を滅却して(それが大袈裟なら他阿上人に擬えて)擬時代詠化したからに他ならない。

 「奥の細道」の句は残りたった四句、文章も自筆本の行で二十三行足らずである。――]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 86 國々の八景更に氣比の月

本日二〇一四年九月二十七日(当年の陰暦では九月四日)

   元禄二年八月 十四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十七日

【その五】この日、芭蕉は敦賀に到着、待宵の月を気比神宮に見た。

 

  氣比(けひ)の海

國々の八景更に氣比の月

 

國々や八景さらに氣比の月

 

[やぶちゃん注:第一句目は「荊口句帳」の、第二句目は「芭蕉翁句解参考」の句形。

――既にこの頃には諸国に八景の名数が作られてあったが、ここ越前の国でも私はそうした私の中の名勝歌枕を八景と成して数えつつ、この敦賀まで辿りついた。その「気比秋月」をここに八景の一として、待宵の名月を眺めている――という謂いであろう。駄句である。しかも待宵の月を名月として八景に数えてしまえば、翌くる十五夜の名月は臍を曲げて出ぬに決まっている。事実を文飾のために枉げて何ら恥じない芭蕉にして、そうした当たり前の言霊の様態を信じなかったというのは如何にも奇異だ。特にこの一連の如何にもな月の駄句の羅列はどうか? 月読命(つくよみのみこと)も鼻白んでしまうと私なら思う。

 以下、「奥の細道」敦賀の段。本句はないが、次の「月淸し」が出る(次の当句の評釈で再掲する)。

   *

其夜月殊晴たりあすの夜もかく

あるへきにやといへは越路のならひ

明夜の陰晴はかり難しとあるしに

酒すゝめられてけいの明神に夜參

仲哀天皇の御廟也社頭神さひて

松の木間に月のもり入たるおまへの

白砂霜を敷るかことし徃昔

遊行二世の上人大願發起の事

ありてみつから葦を刈土石を荷

泥渟をかはかせて參詣徃來の煩

なし古例今にたえす神前に

眞砂を荷ひ玉ふこれを遊行砂持

と申侍ると亭主のかたりける

  月淸し遊行のもてる砂の上

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇明夜の陰晴はかり難し → ●猶明夜の陰晴はかりがたし

〇葦          → ●草

〇遊行砂持       → ●遊行の砂持

■やぶちゃんの呟き

「其夜」八月十四日。待宵。

「けいの明神」現在の福井県敦賀市曙町にある北陸道総鎮守とされた氣比神宮。参照したウィキの「氣比神宮」によれば、記紀では早い時期に神宮についての記事が見えるが、特に第十四代仲哀天皇・神功皇后・第十五代応神天皇との関連が深く、『古代史において重要な役割を担う。また、中世には越前国の一宮に位置づけられており、福井県から遠くは新潟県まで及ぶ諸所に多くの社領を有していた』とある。

「夜參」「やさん」と読む。

「神さひて」「かんさびて」と読む。古びて如何にも神々しく見えて。

「徃昔」「そのかみ」と読む。

「遊行二世の上人」時宗開祖の一遍(遊行上人)の高弟で二世遊行上人となった他阿弥陀仏上人(他阿上人)。

「大願」新潮古典集成の富山奏氏の注に、当神宮の近くの『池沼に住む龍が明神を悩ませたのを、上人が埋立てて神慮を安んじたとの古事』を指すとある。

「荷」「になひ」と訓じている。

「泥渟」「でいてい」で、泥水の溜まった泥濘(ぬかるみ)・泥沼の謂い。

「煩」「わづらひ」と訓じている。

「古例」時宗では遊行上人を継ぐ歴代の者は、この気比神宮の神前に敦賀の浜砂を荷い来、敷きつめることを仕来りとし、それを「遊行の砂持」と称した。]

杉田久女句集 280 花衣 ⅩLⅨ 筑紫觀世音寺三句外九句

  筑紫觀世音寺三句外九句

 

さゝげもつ菊みそなはせ觀世音

 

菊の香のくらき佛に灯を獻ず

 

月光にこだます鐘をつきにけり

 

かゞみ折る野菊つゆけし都府樓址

 

道ひろし野菊もつまず歩みけり

 

こもり居の門邊の菊も時雨さび

 

菊の簇れ落葉をかぶり亂れ伏す

 

簇れ伏して露いつぱいの小菊かな

 

遂にこぬ晩餐菊にはじめけり

 

菊根分誰ぞわが鏝を使ひ失す

 

菊の根に降りこぼれ敷く松葉かな

 

日の菊に雫振り梳く濡毛かな

 

[やぶちゃん注:昭和九(一九三四)年秋に福岡県太宰府市にある観世音寺(「続日本紀」の記述によれば天智天皇が母斉明天皇(六六一年没)追善のために発願した寺であったが、完成したのは発願から約八十年も経った天平一八(七四六)年のこととされる。ここはウィキ観世音寺」に拠る)及び「都府楼趾」(とふろうあと)を訪れた。ここは大伴旅人・山上憶良・観世音寺別当沙弥満誓(さみまんぜい)らが集った筑紫万葉歌壇の舞台であった(坂本宮尾氏の「杉田久女」(一三七頁)の記載を参照した)。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 85 中山や越路も月はまた命

本日二〇一四年九月二十七日(当年の陰暦では九月四日)

   元禄二年八月 十四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十七日

【その四】西行の和歌と同名の越の中山を遠望した一句。木の目峠を過ぎた「奥の細道」本文に出る帰山(かえるやま)の西方に望見されたはずである。

 

  越(こし)の中山

中山や越路(こしぢ)も月はまた命

 

中山の越路も月は又いのち

 

[やぶちゃん注:第一句目は「荊口句帳の、第二句目は「芭蕉翁句解参考」の句形。

 西行の知られた一首、

 

年たけてまたこゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山

 

を本歌とした一句。但し、西行の詠んだ「小夜の中山」は遠江国で東海道の金谷宿と日坂宿の間、現在の静岡県掛川市佐夜鹿(さよしか)の峠。若き日の西行が奥州行脚の折りに越えたそこを、西行は六十九の高齢でまたしても越えた折りの感慨を詠んだもので、「命」は「運命」である。芭蕉はそれをインスパイアして、私もまた、この越の中山を再び越えることがあろうか――と詠んだものだが、これに先立つ十三年前の延宝四(一六七六)年夏、伊賀上野に帰郷した際に実際の小夜の中山で芭蕉が詠んだ名吟(これはやはり芭蕉が二度目に小夜の中山を越えたという感慨に裏打ちされたもの)、

 

命なりわづかの笠の下涼み

 

に遠く及ばぬ。遙かに自身の齢(よわい)からネガティブな響きを隠せない本句は、却って妙に作り物臭く感じられる。]

 

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 鶴岡八幡宮(Ⅰ)

 

   ●鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮は鎌倉の中央部に位(くらゐ)し、昔松ケ岡の地なり、北は大臣山を負ひ、西は源氏山、白旗山を望み、東は屛風山、絹張山に連り、南、由井濱を距る行程十八町、一帶の松原、第三の鳥居は遠く海濱にあり。

[やぶちゃん注:長いので、分割注する。読み易さを考え、各段落で分け、注がなくても一行空けを施す。年号の西暦換算は面倒なので文中で当該年の直下に《 》四桁で示した。また、「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」及び、「鎌倉攬勝考卷之二」(一巻総てが鶴岡八幡宮の記載に費やされてある)及び同「卷之三」(こちらも一巻総てが鶴岡八幡宮関連資料とその周辺施設旧跡の詳説)の本文及び私の注を参照されたい。本文はそれらに依拠している記載が多い。]

 

本社は康平六《一〇六三》年秋八月、伊預守源賴義勅を奉(ほう)して安部貞任征伐の時、丹祈の旨有て潛(ひそか)に石淸水八幡宮を勸請(くわんぜう)し、瑞籬を當國由比鄕に建つ、永保元《一〇八二》年二月陸奧守源義家修復を加ふ、其後治承四《一一八〇》年十月十二日、源賴朝祖宗(そゝう)を崇めんために、小林鄕松ケ岡今の地に遷し、舊地の名に仍(より)て鶴岡八幡宮と稱す、明治十六《一八八三》年勅して國幣中社に列せらる。

[やぶちゃん注:「鶴岡八幡宮年表」(鶴岡八幡宮編)によれば、「國幣中社に列せら」れたのは明治一五(一八八二)年九月十三日である。] 

 

蔚(うつ)たる社壇、古松老杉(こしようらうさん)深く鎖して神々(かうかう)しく、端なく想起(おもひおこ)す七百年來治亂興亡の夢、仰(おふ)げば朱殿碧瓦(しゆでんへきぐわ)の莊麗、瑞籬嚴めしく築ける、源氏山の烏の啼かぬ日はあるべきも、鶴岡に八幡宮のましまさぬ日ぞなき、まことに靈(くしび)の神なりけり。

[やぶちゃん注:「靈(くしび)」は「奇び」とも書き、バ行上二段活用の動詞「くしぶ」(霊ぶ/奇ぶ:霊妙に見える・不思議な状態になるの意)の連用形が名詞化したもので、不思議なこと・霊妙なこと、また、そのさまをいう上代語。] 

 

鳥居  治承四《一一八〇》年十二月、神前に始て鳥居を建てらる、今三基あり第三の鳥居は、由比の濱にあり、大鳥居と云ふ、建保三《一二一五》年八月、暴風により顚倒し、十月新造せらる、寛元三《一三〇五》年十月鳥居再造あり、延元元《一三三六》年七月、雷(らい)の爲に損(そん)す、延文三《一三五八》年四月、造營あり、嘉慶二《一三八八》年六月、上杉安房守憲方入道道合造建す、應永二十一《一四一四》年三月、管領持氏、上杉右衞門佐氏憲入道禪秀を奉行として建立あり、足利成氏の頃は、毎年二月、神殿に參籠の時、大鳥居を廻(めぐ)りて、七度詣をなせるを例とす、文明十八《一四八六》年、聖護院道興准后、鳥居の邊に逍遙して、倭歌(わか)を詠す、僧萬里が記に、兩楹の大さ三圍と載せ、又詠せし句あり、十九年、僧堯惠參詣の時、鳥居邊の風景を賞す、名所方角抄には、磯邊十八町に、大鳥居ありと記せり、天文四《一五三六》年正月名越安養院の僧玉連、瑞夢により、本願主(ほんぐわんしゆ)となり、再建(さいこん)の事を企つ、四月玉運北條氏綱の許(ゆるし)を得て、十方を募緣(ぼゑん)す、十月より六年七月に至り、材木運致(うんち)せし事見えたり、九年正月、釿始あり、其後匠作の事姑(しばら)く廢し、十二年を歷(へ)、二十一年十一月に至り、北條氏康再ひ匠功(せうこう)を興(おこ)し、翌二十二年四月落成す、按ずるに關東兵亂記、小田原記等には、氏康建立の年を謬(あやま)れり、古は三基共木にて造立せしを、寛文八《一六六八》年再建(さいこん)せられし時すべて石の鳥居とせらる、(新編鎌倉志云大鳥居兩柱の間下にて六間半、高さ三丈一尺五寸、石柱のめぐり一丈二尺五寸、笠石の長さ八間なり、一二の鳥居は兩柱(りやうちう)の間下にて四間、柱のめぐり七尺なり、又云赤橋の前の鳥居より間た四町十五間半にして又鳥居あり、二の鳥居と云ふ、二鳥居より間六町四十五間にして鳥居あり、三の鳥居なり是を大鳥居と云ふ、中畧大鳥居より波打際まで五町あり云云)東鑑に寶治元《一二四七》年五月、三浦若狹前司泰村、近日誅罰せらるべき由、木牌(もくはい)に記して、鳥居前に立しと見えしは、第一の鳥居を指(させ)るせなるべし、此餘橫大門の東西に、木鳥居各一基、〔四足あり〕上宮社地の西門内に、石鳥居一基あり、天正の修理圖(しゆりづ)を閲(けみ)するに、赤橋の内に又一基あり〔内の鳥居と記す、〕鎌倉年中行事にも、此鳥居の事見えたり、廢せし年代を知らず。

[やぶちゃん注:鳥居の名称が現在のものとは全く異なる点に注意されたい。本誌は「新編鎌倉志」と同様、古い呼称を用いている。現在、我々が一の鳥居と称している一番由比ヶ浜に近い鳥居は「大鳥居」「三の鳥居」であり、鶴ヶ岡八幡宮社頭の、現在、三の鳥居と呼んでいるものが、当時の「一の鳥居」である。なお、「一間」は約一・八メートル、「一丈」は三・〇三メートル、「一尺」は三〇・三センチメートル、「一寸」は三・〇三センチメートルである(この換算注は以下省略する)。

「聖護院道興准后、鳥居の邊に逍遙して、倭歌を詠す」「廻国雑記」のこと。「鎌倉攬勝考卷之二」の私の注に当該箇所全部を引用してある。

「萬里が記」「梅花無尽蔵」。「鎌倉攬勝考卷之二」に出、私が注で訓読してある。「句」とあるのは漢詩を指す。

「兩楹」「りやうはしら(りようはしら)」と読んでいよう。

「三圍」「みめぐり」と訓じていよう。大人が両手を一杯に広げた長さとしての「一尋」(一・八一八メートル)で換算すると五・四五メートルとなる。現在の石造の一の鳥居(最も海に近い鳥居)の左右の石柱円周は約三・八メートルしかないから、当時の木造のそれはとてつもなく大きなものであったことになる。

「僧堯惠參詣の時」堯恵「北國紀行」を指す。以下に「鎌倉攬勝考卷之二」に出る本文と私の校訂した和歌を示す。

   *

あくれば鶴が岡へ參りぬ。靈木長松つらなり森々たるに、玉をみがける社頭のたゝずまゐ、由比の濵の鳥居はるかにかすみわたりて誠に妙なり。

 吹殘す春の霞も奥おきつ洲に立てるや鶴が岡の松風

   *

「名所方角抄」宗祇作(後世の偽作であろう)と伝えられる成立年未詳(寛文六(一六六六)年版本刊)の国別に分類された歌枕の解説書。

「募緣」修復などのために浄財を募ること。

「運致」運搬搬入。

「釿始」「てうなはぢめ(ちょうなはじめ)」と読み、吉日を撰んで、大工が礼服を着用、天神地祇と職業神たる聖徳太子を祀り、神酒・鏡餅・肴などを供えて行なう起工祈願の儀式。

「匠功」建築作業。

「關東兵亂記」「相州兵亂記」とも言う。中世関東戦乱の戦記物。四巻。序によれば、後北条氏の家人が先祖の記録を編したものとする。鎌倉公方の歴史に始まって、永禄七(一五六四)年の国府台(こうのだい)合戦、武田氏の箕輪城攻めまでの関東の諸兵乱を記す。後北条氏勃興史が中心であるが、史料としての利用には厳密な史料批判が必要。次の「小田原記」の前半の内容と類似する(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「小田原記」「北條記」とも言う。小田原後北条氏の台頭から滅亡に至る五代、鎌倉幕府滅亡の元弘三(一三三三)年頃から天正八(一五九〇)年までを東国の隣接諸大名との関係を中心に記述した軍記物。六巻(類似書名に「小田原北条記」があるが、これは江戸期に江西逸志子が著した別書)。

「新編鎌倉志云……」「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」の「大鳥居」の条を見られたい。詳細既注済み。

「東鑑に寶治元年五月、三浦若狹前司泰村、近日誅罰せらるべき由、木牌に記して、鳥居前に立し」「吾妻鏡」宝治元(一二四七)年五月二十一日の条を引いておく。

〇原文

廿一日癸酉。若狹前司泰村獨步之餘。依背嚴命。近日可被加誅罰之由。有其沙汰。能々可有謹愼之旨。注簡面。立置鶴岡宮鳥居前。諸人見之云云。

○やぶちゃんの書き下し文

廿一日癸酉(みずのえとり)。若狹前司泰村、獨步の餘りに、嚴命に背くに依つて、近日誅罰(ちうばつ)を加へらるべきの由、其の沙汰有り、能々(よくよく)謹愼有るべきの旨、簡(ふだ)の面(をもて)に注し、鶴岡の宮の鳥居前に立て置く。諸人之を見ると云云。

「一の鳥居」社頭(太鼓橋前)の鳥居(現在の三の鳥居)。

「橫大門の東西」流鏑馬馬場の東西の神域結界を示す位置のことであろう。

「天正の修理圖」天正十九(一五九一)年秀吉が家康に命じた鶴岡の修理に関わる「紙本墨書 鶴岡八幡宮修営目論見絵図」のこと。鶴岡八幡宮公式サイト内の「宝物」のこちらを参照されたい。但し、この修理は文禄の役などの影響により、下の宮の工事のみで中断してしまい、上の宮も含めた全体の修理が終わるのは、江戸幕府成立後、家康・秀忠の二代に亙った造営による寛永元(一六二四)年のことであった(後半部は個人サイト「鎌倉史跡・寺社データベース」の「鶴岡八幡宮」に拠った)。]

 

池  一の鳥居を過ぎて、左右に蓮池(はすいけ)あり、石梁(いしばし)を架し踈水相通ず。東鑑に、壽永元《一一八二》年四月廿四日、鶴岡若宮の邊の水田〔號絃卷田〕三町あり、耕作の儀を停(とめ)られて池に堀(ほ)るとあるは此池なるべし池中(ちちう)に七島あり、相傳賴朝卿平家追討の時、御臺所政子の願ひにて、大庭平太景義を奉行として社前の東西池を掘(ほ)らしむ、池中の東に四島、西に四島、合て八島を東方よりこれを滅(ほろぼ)すと祝す東に三島を餘す、三は産なり、西に四島を置(をく)、四は死なり、と云心なりけるとぞ、又池の東に白蓮(しらはす)、西に紅蓮(あかはす)を植(うゑ)て源平の色を表す、是又厭勝の義なりと云ふ。元弘の亂に新田義貞首實檢の時、此池にて刄(やいば)の血を洗はしむ。天文二《一五三三》年北條氏鋼、社頭再建(しやとうさいけん)の時池中を踈鑿(そさく)す、十三年六月氏康か出せし社中の掟書に、二月八月の兩度、池中を掃除すべき由見ゆ。今は七島も全く埋もれて址を殘留(とゞめ)ねど、昨日今日曉靄(ぎやうあい)濛々(もうもう)せるの裡(うち)、忽ち聲ありて香の遠く心に沁みたらんいかに。

[やぶちゃん注:この源平池については、「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」の「辨才天社(べんざいてんのやしろ)」の注に附した享保十七(一七三二)年版の彩色の鶴岡八幡宮寺境内図をご覧になられることをお薦めする。

「壽永元年四月廿四日、鶴岡若宮の邊の水田〔號絃卷田〕三町あり、耕作の儀を停られて池に堀る」は「吾妻鏡」の養和二(一一八二)年四月二十四日の条(養和二年は一ヶ月後の五月二十七日寿永に改元されている)。

○原文

廿四日甲子。鶴岳若宮邊水田〔號弦卷田。〕三町餘。被停耕作之儀。被改池。專光。景義等奉行之。

○やぶちゃんの書き下し文

廿四日甲子(きのえね)。鶴岳若宮邊の水田〔絃卷田(つるまきだ)と號す。〕三町餘りの耕作の儀を停め、池に改めらる。專光(せんこう)・景能、之を奉行す。

「絃卷田」については、私が「吾妻鏡」の検索で参考にさせて頂くことの多い、サイト「鎌倉歴史散策加藤塾」の中の「源平池について調べてみよう」に、「三町」(約三万平方メートル弱に相当)という数値を現在の源平池と比較した際、約『三分の一しかない。かつては、流鏑馬馬場から南全体が池だった。なお、弦巻田というのは、苗を弦が巻きつくように渦巻きに植えていく神へ捧げる為の米を栽培する斎田のことであろう』と記されており、加藤氏は飛騨高山の民家園でこれを実見されており、その際の田植えの方法について、田圃を丸く作って、中央に棒を立てて縄を結び、伸ばしたきったその縄の一方の端に三〇センチ間隔で苗を植えながら柱の周りをぐるぐると回っていく、すると『自然と渦巻き状に苗は植えられていき、最後に縄の巻きついた柱を抜く』と述べられておられる。他にも、この辺りが古くから広大な湿地であり、そこに吉祥のシンボルである鶴がやってきては、稲籾を播いたからとか、神域として武将がここで弓弦を外したことによるといった由来説があるようだが、加藤氏のこの見解が最も腑に落ちるものである。リンク先は豊富な画像と、加藤氏の膨大な資料の渉猟によって成された、素晴らしいページである。一読をお奨めする。

「厭勝」は「えんしよう(えんしょう)」と読み、呪(まじな)い。また、呪いによって他者を屈服させることをいう。

「踈鑿」「そさく」(「踈」は「疎」の異体字)とは土地を切り開いて水や川を通すことをいう。

「忽ち聲ありて」この「聲」は何の声であろう? 風雅なる感懐のコーダながら、ちょっと気になる。「曉靄」とあるから鶏鳴かしらん? 

 

辨天社 東蓮池の中嶼に安置したりき其以前は琵琶橋の邊にありしを、養和元《一一八一》年爰に移せりと云ふ、神躰(しんたい)は運慶作、長三尺餘〔膝に琵琶を橫たへたり俗に云小松大臣の持たる琵琶なりと〕背に、文永三《一二六六》年九月の銘あり、天文九《一五四〇》年、北條氏綱再建す、伶人八員の預る所とぞ、新編鎌倉志に二間に一間の社なり云々今七島とともに基礎を絕ちぬ。

[やぶちゃん注:「小松大臣」平重盛。六波羅小松第に居を構えていたことに由来する呼称。

「今七島とともに基礎を絕ちぬ」実は当時は、おぞましい廃仏毀釈によって破壊されてしまっており、全く原型をとどめていなかった。後、戦後の昭和三一(一九五六)年になってやっと再興されたもので、現在の社殿に至っては鶴岡八幡宮創建八百年に当たる昭和五五(一九八〇)年になって、文政年間の古図を本に復元された極めて新しいものである。

「伶人」「れいじん」と読み雅楽を奏する楽人(がくにん/がくじん)のこと。] 

 

赤橋 社前、兩個蓮池の間に架す、穹窿(きうりう)虹の如し、石の反橋(そりはし)なり、〔長五間幅三間〕昔時(せきじ)板橋にして、朱を以て塗抹す、故に名く、壽永元《一一八二》年五月、新に架する所なり、建保元《一二一三》年五月、和田の亂に、土屋大學助義淸、橋邊(きやうへん)にて流矢に中り、命(めい)を殞(おと)す、鎌倉將軍社參の時は、此橋邊にて下乘(げじよう)あり、寶治元《一二四七》年六月、三浦泰村を誅する時、安達泰盛軍兵を率て、此橋を渡る、文永三《一二六六》年七月宗尊親王歸洛の時橋邊に輿を駐(とゞめ)て遙拜あり、且倭歌を詠せらる文和元《一三五二》年閏二月、橋邊にて三浦新田の輩(はい)、高掃部助、石堂左衛門助等と爭戰あり、永正十七《一五二〇》年七月、橋本宮内丞某再造す、天文八《一五三九》年より十一年に至て、修理(しゆり)の事あり。

[やぶちゃん注:「三浦新田の輩、高掃部助、石堂左衛門助等と爭戰あり」とは、新田義貞次男義興や三浦介高通(たかみち)らが後醍醐天皇皇子実良親王を奉じた南朝軍として、この年の閏二月十八日に鎌倉の一時攻略に成功したものの、敗走した足利尊氏が反撃に転じ、三月には鎌倉を奪還、三浦・新田勢が逆に鎌倉を追われたことを指す。「高掃部助、石堂左衛門助」は尊氏方の高師義(こうのもろよし)らか。] 

 

新橋  赤橋の側に架す、板橋なり、鎌倉年中行事に、此橋の事見ゆ。

二王門址  赤橋を渡り二百步、皇族下乘(くわうぞくげじやう)の掲示札(けいじふだ)あり、壇を築きて左に手洗鉢(てうづばち)あり、左右梅林(ばいりん)にして正面は拜殿なり、昔此地に二王門あり、額に鶴岡山と題す、曼殊院良恕法親王の筆(ふで)にして、兩傍に金剛力士の像を置く、今取拂はれぬ。其他輪藏、護摩堂、多寶塔、鐘樓、藥師堂も此近邊(あたり)にありしものか。樹蔭鬱せして啼鳥(ていちよう)聲(こゑ)幽(かす)かなり。

[やぶちゃん注:流鏑馬馬場の先にあって、当時の境内がここに更に結界を造っていたことが判る。ここにあった仁王像は廃仏毀釈後、寿福寺に移されたとされ、寿福寺本堂内には旧鶴岡八幡宮寺仁王門仁王像と伝える二体が現存する。「新編鎌倉志卷之一」に画像を配してある。以下の廃仏毀釈によって完膚なきまでに破壊された「輪藏、護摩堂、多寶塔、鐘樓、藥師堂」も「新編鎌倉志卷之一」に詳述されており、往時の写真も含めて注記してあるので是非とも参考にされたい。

「步武」は「ほぶ」と読み、厳密には距離単位で「歩」は六尺(一八一センチメートル)又は六尺四寸(一九三センチメートル)、「武」はその「歩」の半分の意であるが、転じて僅かの距離、咫尺(しせき)の意となる。ここも僅か二百歩あまりという用法であろう。

「曼殊院良恕法親王」(まんしゅいんりょうじょほうしんのう 天正二(一五七四)年~寛永二〇(一六四三)年)陽光院誠仁親王第三皇子で後陽成天皇の弟に当たる。曼殊院門跡(現在の京都市左京区一乗寺にある竹内門跡とも呼ばれる天台宗門跡寺院・青蓮院・三千院(梶井門跡)・妙法院・毘沙門堂門跡と並ぶ天台五門跡の一)。第百七十代天台座主。書画・和歌・連歌を能くした。]

 

拜殿  正面上の地へ登る石階(せきかい)の下にあり。

石階 六十二級、此石階を登り、北に向(むかひ)て本社へ行(ゆく)なり、是より上を上の地と云ふ、本社あり、是よら下を下の地と云ふ、若宮あり。

[やぶちゃん注:「級」言わずもがなであるが、階段を数える際の数詞である。

「若宮」とは下の宮のことである。源頼義が勧請した本社濫觴の地である由比若宮(元八幡。現在の材木座一丁目に現存)とは違うので注意が必要。]

 

銀杏樹 石階の四方に大なる銀杏樹(いてうのき)あり、東鑑に承久元《一二一九》年正月二十七日、今日將軍家〔實朝〕右大臣拜賀の爲め鶴岡八幡宮に御參刻也夜陰に及て神拜(じんはい)の事終て漸く退出せしめ給ふ處に、當宮別當阿闍梨公曉石階の際(きは)に窺來り、劔(けん)を取り丞相を奉ㇾ侵とあり。相傳ふ公曉、此銀杏樹の下に女服(ぢよふく)を著(つけ)て隱れ居て、實朝を弑すとなり、隱れ銀杏(いてう)の名あり。

[やぶちゃん注:先に述べた隠れ公孫樹は勿論、この女装なども私は後世の偽説と思っている。

「酉刻」午後六時頃。] 

 

樓門 石階盡くる所樓門あり、額に八幡宮と題し、左右に隨身を置き以て廻廊に通す、正面は本殿にして上の宮と稱す。

上宮 祭神三座、中央は崇神天皇、右は神功皇后、左は比咩大神、本社、幣殿、拜殿、建續(たてつゞ)けり、建久二《一一九一》年、新に勸請ありし社是なり、四月上棟(じやうとう)の儀あり、十一月、遷宮の式を行はる、六年二月、賴朝參宮の時、幣殿に著座、法華經供養を聽聞あり建曆二《一二一二》年十月、神前に羽蟻(はあり)羣飛し、建保元《一二一三》年八月、黃喋(くわうてふ)集る、嘉祿二《一二二六》年二月、神樂(かぐら)の時、神扉(しんひ)數刻開かず、十月、神殿修理により、神體を下宮に遷座す、程なく落成、正遷宮あり、建長二《一二五〇》年五月、修造の事始あり、四年五月、神戶開かず、正和五《一三一六》年十一月、再建成て正遷宮あり、延元元《一三三六》年、世上祈禱して、別當賴仲、六月より百日の間、神殿に參籠す、永德《一三八一~一三八四》の頃に至り、社地の舊名を以て、當社を松岡八幡宮と稱し、社務職も別に補任あり、應永、永享中《一三九四~一四四一》の物、尙松岡の號(がう)見えたり、其後は絕て所見なし、應永二十四《一四一七》年閏五月、管領持氏、常州北條郡宿鄕を、社領に寄進し、三十二年六月、武州河越の地を、供料に寄す、永享四《一四三二》年十月、小田原關隘の征錢(せいせん)を以て、當社修理の料に宛つ天文元《一五三二》年六月、神輿(しんよ)を拜殿に安し、諸人群參す、三年十月、北條氏鋼の命に依て、諸士募緣して寶前(ほうぜん)に燈明(とうめう)を置けり、八年十一月、轉經舞樂(てんきやうぶがく)等(とう)あり、北條氏綱父子聽聞す、天正二《一五七四》年閏十月、北條左衛門大夫氏繁、神鏡(しんきやう)及ひ雲板(くもいた)を寄附す、文政四《一八二一》年正月十七日の夜、囘祿(くわいろく)に罹り、十一年御再建あり例祭八十五日相撲(すまゐ)等(とう)あり、東鑑に據に、文治三《一一八七》年八月十五日、始て放生會(ほうぜうゑ)、及流鏑馬を行なはれ、弓馬堪能の輩(はい)を填て、射手(しやしゆ)に充(あて)らる、此時諏訪太夫盛澄に命して、流鏑馬其外射藝を施さしむ、四年八月よら舞樂(ぶがく)を興行す、五年の祭期(さいき)には、賴朝奧州の役に在へきを以て、七月放生會、舞樂、馬長、競馬、相撲等を行はれ、祭期に及て、亦例の如く放生會、舞樂、馬長、流鏑馬等あり、建久元《一一九〇》年に至り、祭事繁劇(はんげき)なるを以て、兩日に分たれ、十五日、放生會、舞樂、十六日、流鏑馬、競馬、相撲、田樂(でんがく)等(とう)行はる、此日流鏑馬の射手、一兩輩闕如(けつぢよ)するを以て、大庭平太景能吹擧(すゐいよ)して、囚人河村三郞義秀に射せしめられ、且三流の作物を射て失禮なきを以て、其罪を免さる而來兩日の神事、年每に歷々として記載す、又增鏡にも、當社放生會の事見えたり、按ずるに式月(しきげつ)障(さは)りある時は、九月或は十一月、十二月等に、行はれしなり、又法會のみにして、流鏑馬等を廢せし事あり、延文三《一三五八》年八月、放生會の用途として、社領武州鶴見郷より、十二貫文を送進す、永和三《一三七七》年八月亦然り、應永二《一三九五》十一年八月、管領持氏、常州那珂東、國井鄕を寄進す、是放生會料所、武州津田鄕の不足分を補ひしなり、享德《一四五二~一四五五》の頃は、十六日に猿樂(さるがく)を催し、管領の見物ありし由、成氏年中行事に見ゆ、天文中《一五三二~一五五五》、放生會の時、北條氏綱、神馬(しんめ)太刀等(とう)を獻(けん)す、其後放生會は廢して、流鏑馬相撲のみ、僅(わづか)に古例(これい)の萬一を存す、又年中の祈禱法會、是建久三《一一九二》年正月元日、始て行はれしなり、二月、十一月、初卯(はつう)の日、七月七日、八月十六日、此四度法華經供養あり、按ずるに東鑑正治二《一二〇〇》年二月、當宮にして經供養(きやうくやう)の事、始て見えしより往々記載す。

[やぶちゃん注:「關隘の征錢」「せきあいのせいせん」と読む。「隘」は道や土地などが塞がって細い意であるから、関所の通行税のことであろう。

「北條左衛門大夫氏繁」北条康成(氏繁)(やすしげ/うじやす 天文五(一五三六)年~天正六(一五七八)年)のこと。以下、ウィキ北条氏繁によれば、福島正成の子とされる北条綱成の嫡男で玉縄城主。後に岩槻城城代・鎌倉代官なども務めた。天文五(一五三六)年に後北条氏の家臣北条綱成の嫡男として誕生、『母方のおじにあたる北条氏康に仕え、偏諱を賜って康成と名乗る(生涯の大半はこの諱を名乗っている)。また、のちに氏康の娘で康成の従姉妹にあたる七曲殿を妻としている』。父同様、武勇に優れ、天文二三(一五五四)年の加島の戦い(駿河での北条氏康と武田晴信との激戦)では先鋒の一人を務め、功を立てた。『駿河国の今川氏を甲斐国の武田氏の侵攻から救援すべく氏康が出兵した際にも、陣頭に立って活躍』永禄四(一五六一)年に上杉謙信や永禄一二(一五六九)年に武田信玄が侵攻してきた際には、『玉縄城に籠城して守り抜いている。里見氏との第二次国府台合戦では父綱成や松田憲秀と共に奇襲をかけて里見軍を打ち破った。また、白河結城氏や蘆名氏との外交交渉にも携わっている。このように軍事・外交に長けた氏繁は氏康からの信任も厚く、下総国方面の軍権を任された』。元亀二(一五七一)年頃に父綱成が隠居したのを受けて、氏繁に改名、家督を継いだが、天正六(一五七八)年に父に先立って対佐竹氏の最前線であった下総飯沼城中に於いて病死している。『氏繁は自分の印判に『易経』からとった「顚趾利出否」という文を刻んだ。政治秩序が顚倒しており、旧弊を一掃するのに好都合だという時勢観を表したもので』、『武人画家としても知られ、『鷹図』(個人蔵)などの作品を残している。また、『北条記』の「北条常陸守氏重事」によれば、鷹を飼育する事にかけても名人だったという』とある。今、私の書斎から見えるのは玉縄城の城跡である。さすれば、特に彼については詳述するのが礼儀であろう。

「雲板」神棚などを設置する神棚板の上部に取り付けられている雲形に彫刻されている部材。

「囚人河村三郞義秀」(生没年不詳)相模国の住人で藤原秀郷の子孫波多野氏の一族。治承四(一一八〇)年の頼朝の石橋山挙兵の際に平家方に属して頼朝軍と戦い、後に捕らわれて大庭景能の許に預けられていた。斬罪になるところ、ここ記されるように鶴岡八幡宮放生会の際、景能の進言によって流鏑馬射手に召し出され、三尺・手挟(てばさみ)・八的(やつまと)(本文中に出る「三流の作物」)などの難しい的を見事に射抜き、頼朝より罪を許された。同年九月には本領河村郷(神奈川県山北町)を安堵され、以後、御家人として活躍、頼朝の二度の上洛や曾我兄弟の仇討で有名な富士野巻狩りにも随行、後の承久三(一二二一)年の承久の乱では幕府軍に属して、軍功を挙げている。現在のJR御殿場線山北駅の南に河村城址が残る(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

 以下の「神寶」は底本では有意にポイント落ちで全体が一字下げとなっている。]

 

        神 寶

弓  壹張。

靫  壹口。

直羽矢 十五本。

衞府太刀  壹振、長二尺餘、無銘鞘は梨地なり。

兵庫鍍太刀  貮振、共に二尺餘、無銘。

太刀  貮振、銘行光とあり、目釘穴なし、二尺餘あり。

大刀  壹振、銘綱家とあり、三尺餘あり。

太刀  壹振、銘泰國とあり、三尺餘あり。

太刀  壹振、銘綱廣とあり、三尺餘あり。

硯箱  壹合、梨地蒔繪籬に菊を金具にす、内に水入筆管あり、共に銀にて作る。

十二手匣  壹合。

十二單   貮襲。

院宣  壹通、應永二十一年四月十三日とあり。

賴朝書  貮通。

華嚴輕  壹卷、第五十一卷如來出現品、大職冠鎌足筆也。

菩提心論  壹卷、細字なり、智證大師の筆。

大般若經  壹卷、弘法筆也。

功德品  壹卷、菅丞相の筆なり。

心經  貮卷、共に紺紙金泥、一卷は源基氏、一卷は源氏滿の筆也。

袈婆坐具 各々一具。

五鈷杵  壹個、是を雲加持の五鈷と云ふ。

小五鈷杵  壹個、禪林寺宗叡僧正の持金剛杵と云ふ。

如意賽珠  壹顆。

牛玉  壹顆。

鹿玉  壹顆。

五指量愛染明王像  壹軀弘法作、四五寸許の丸木を蓋と身に引分け、身の方に愛染を作付たり、臺座ともに一木にて作る。

辨才天 壹軀、蛇形の自然石なり

藥師像 壹軀弘法の作、厨子に入、前に十二神をも小さく刻み、扉に四天王を彫る。

回御影 祕物にて昔より終に見たる人なし。

二舞面 貮枚。

陵王面 壹枚。

拔頭面 壹枚。

磯良面 壹枚、皆妙作也。

歌仙 上下の社内に之を掛く、上宮に懸たるは尊純法親王の墨蹟なり、下宮に掛たるは良恕法親王の墨蹟、繪は共に狩野孝信なり。

[やぶちゃん注:以上は「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」及び、「鎌倉攬勝考卷之二」・同「卷之三」に詳細を究めてある。そちらの私の注を参照されたい。ポイント落ち一字字下げはここまで。] 

 

每歲夏期に及べば、寶物展覽會と稱へ、神寶を縱覽に供す。

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 84 義仲の寢覺の山か月悲し

本日二〇一四年九月二十七日(当年の陰暦では九月四日)

   元禄二年八月 十四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十七日

【その三】芭蕉偏愛の木曽義仲が平家方を打ち破った砦の跡、燧(ひうち)が城を遠望しての吟詠。湯尾峠東南方(現在の南越前町今庄)にあり、敦賀へ進行する芭蕉の右手に見えた。

 

  燧山(ひうちやま)

義仲の寢覺(ねざめ)の山か月悲し

 

[やぶちゃん注:「ひるねの種」。

 峠越えが夜であったとは思われないから、この句は昼の景から時間を巻戻って陣中の義仲を詠んだ時代詠である。「平家物語」巻七「燧合戦」に詳しい。但し、この義仲平家追伐の緒戦に於けるここの城築を命じたのは義仲であるが、自身はまだその時には信濃にいたので注意されたい。孰れにせよ、破竹の勢いで南下した義仲がこの営中に辿りついた頃には、まさに寝覚めの名月を賞する余裕もあったに違いなく、しかしその英雄の兵(つわもの)も、みるみる夢の跡として露の如くに消えいったことを思えば、まさに芭蕉の「月悲し」はしみじみと生きてくるとは言える。「奥の細道」で何故か、語らなかった自身の愛する悲劇の英雄義仲の一句である。思い入れは伝わるものの、「寢覺」と「月悲し」の衝突が上手くいっておらず、句力が分散してしまい、義仲へのオマージュたり得ていないと私は思う。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 83 月に名を包みかねてやいもの神

本日二〇一四年九月二十七日(当年の陰暦では九月四日)

   元禄二年八月 十四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十七日

【その二】湯尾峠(ゆのおとうげ:福井県南条郡南越前町湯尾と同町今庄の間、東の三ケ所山と西の八ヶ所山の鞍部にある標高約二百メートルの峠。)にて。

 

  湯尾

月に名を包みかねてやいもの神

 

[やぶちゃん注:「ひるねの種(たね)」。「荊口句帳」には、

 

  木の目峠 いもの神やど札有

 

という前書がある。この「やど札」とは、姓名などを記して門口に掲げ、その人の住居であることを知らせる門札、今の表札の意で、ここは「いもの神」=疱瘡神が住まっていることをこの貼札で告げて、疱瘡の厄を払うための御札を指すものと思われる。

 「いも」は天然痘のこと。前に注した通り、当時、この峠附近には四軒の茶屋が賑やかに商売を営み、また、峠の西端にある疱瘡神を祀ったとされる孫嫡子神社があって、これらの茶屋ではその御守札も配布していた。 y_ogawa 氏のサイト「北陸の峠道」の「湯尾峠」によれば、『峠に老夫婦住みて子なきを嘆く、通りかかった役小角(えんのおづぬ)が哀れんで如意輪観音の七星の神呪を授けた。暫くして娘現れ子となり、光明童子の化身現れて娘と結ばれて子を授け云々とあ』り、後、『孫嫡子長じて奈良東大寺等に学び、この地に庵をむすび観音を祭り人々の災厄を除き開導せし』めたばかりか、『醍醐天皇疱瘡を患い当社に祈願したらたちまちに平癒したまう、それより疱瘡の神として世に伝わった』と記す。疱瘡神絡みの「いも峠」は諸国にあったと山本健吉氏の注にある。ここは「いも」に八月十五夜の月「芋名月」(里芋を供えることに由来)を掛けた如何にも軽い洒落句である。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 82 あすの月雨占なはんひなが嶽

本日二〇一四年九月二十七日(当年の陰暦では九月四日)

   元禄二年八月 十四日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十七日

【その一】宿泊地や旅程からの厳密な比定ではないものの、句意から、この十四日の句と採っておく。

 

  ひなが嶽

あすの月雨占なはんひなが嶽

 

[やぶちゃん注:「荊口句帳」。

「ひなが嶽」は前に注した「比那が嵩」で霊山日野山(ひのさん)のこと(現在の福井県越前市と南条郡南越前町、武生の南東に聳える)。その霊験あらたかな山の頂きにかかる雲を以って明日名月の晴雨を占おうというのであるが、芭蕉が「雨」と詠み込んでしまったことは、これ、悪しき言挙げとなってしまった。]

2014/09/26

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 おせち料理

 

 年の初めに、町々をさまよい歩き、装飾の非常に多数の変種を研究することは、愉快さの、絶えぬ源泉である。表示された趣味、松、竹その他の象徴的材料を使用することに依て伝えられる感情は興味ある研究題材をつくる。元旦、私は廻礼をしていて、店の多くが閉ざしてあるのに気がついた。町は動作と色彩との、活々した光景を現示する――年賀に廻る、立派な着物を着た老人、鮮かな色の着物を着て追羽子をする若い人々、男の子はけばけばしい色に塗った大小いろいろの紙鳶を高低いろいろな空中に飛ばせる。上流階級の庭園では、華美なよそおいをした女の子達が、羽子を打って長袖をなびかせると、何ともいえず美しい色彩がひらめくのである。非常に多数の将校や兵士が往来にいた。いたる所に国旗がヒラヒラし、殆どすべての家が、あの古風な藁細工で装飾されていた。子供が群れつどう町町を見、楽器の音を聞き、そこここに陽気な会合が、食物と酒とを真中に開かれているのをチラチラ見ることは、誠に活気をつける。私が訪問した所では、どこででも食物と酒とが、新年の習慣の一つとして出された。食物でさえも、ある感情と、それから満足とを伝達するのである。新年には必ず甘い酒が出されるが、それに使用する特別な器は、急須のような注口を持っており、鉉(つる)即ち磁器なり陶器なりの柄は、器の胴体と同一片である。これが急須の蒐集の中に混合しているのを、よく見受ける。

 

M487

 

図―487M488

図―488

 

 膳部は皿と料理に就ては、本質的にみな同一だから、その一つを写生したものを出せば、すべてに通用する。図487は酒、菓子、その他の典型的な膳部で、私が写生帳を取出してもよい程懇意にしていると感じた、日本人の教授の一人の家で出たもの。この絵はいろいろな品が、畳の上に置かれた所そのままを見せている。甘い酒を入れた急須は右手にあり、松の小枝と、必ず贈物に添えられるノシとが、柄についている。普通の酒は低い、四角な箱に納る瓶に入って給仕される。積み重ねた三つの、四角い漆塗の箱には、食物が入っている。食物というのは、魚から取り出したままの魚卵の塊、砂糖汁と日本のソースとに入った豆の漬物、棒のように固い小さな乾魚、斜の薄片に切り、そして非常に美味な蓮根(れんこん)、鋭い扇形に切ったウォーター・チェスナット〔辞書には菱とあるが慈姑(くわい)であろう〕、緑色の海藻でくるくる捲いて縛った魚、切った冷たい玉子焼、菓子、茶、酒(図488)。

[やぶちゃん注:「魚から取り出したままの魚卵の塊」数の子。

「砂糖汁と日本のソースとに入った豆の漬物」黒豆。図488最上部。

「棒のように固い小さな乾魚」田作り(ゴマメ)。図488上から二番目。

「斜の薄片に切り、そして非常に美味な蓮根」酢蓮。図488上から三番目。

「ウォーター・チェスナット」底本では直下に石川氏による『〔辞書には菱とあるが慈姑(くわい)であろう〕』割注が入る。原文“a water chestnut”。確かに英語辞書ではそう出るが、調べてみると別に、単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科ハリイ属シログワイ Eleocharis dulcis という種も英名で“Water chestnut”ということが分かった(ウィキの「シログワイに拠る。以下引用も)。シログワイ(別名イヌクログワイ)は根茎を食用とし、レンコンに似た食感と味があって美味である。インド原産の、多年生、水性の草本で、日本に広く分布するクログワイ
Eleocharis kuroguwai に似るが、より大型で、高さ一メートルを越え、穂が白っぽくなる。但し、注意して頂きたいのは、この「シロログワイ(白慈姑)」も「クログワイ(黒慈姑)」も根茎の形状がやや似ているために、かく呼称しているに過ぎず、実は本邦で正月に食す単子葉植物綱オモダカ目オモダカ科オモダカ属オモダカ品種クワイ Sagittaria trifolia 'Caerulea'とは別科の全く異なった植物で、根茎の食感も大きく異なる点である。ともかくもここ膳に出ているのはその真正の慈姑(クワイ)と考えてよかろう。但し、祝儀用に扇型に型抜きしたものらしいのだが、そうなると私は、これは目が出るに掛けたはずの芽出し慈姑としてはおかしく、寧ろ、大型の八つ頭(単子葉植物綱サトイモ目サトイモ科サトイモ Colocasia esculenta )なのではないかなどと考えた。識者の御教授を乞うものである。図488上から四番目。

「緑色の海藻でくるくる捲いて縛った魚」鰊の昆布巻きか。図488最下部。

「切った冷たい玉子焼」伊達巻。実は私はこれに目がない。]

羽蟲の羽 萩原朔太郎 (短歌三十三首)

 

[やぶちゃん注:以下は底本全集第二巻「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート)」に所収する短歌群の一つ、「羽蟲の羽」歌群。最後のクレジットによれば大正二(一九一三)年四月の作である。圏点「ヽ」(各首頭部)及び「○」(各首下)は、編者注に従って推定復元したものである(特に「○」の位置は「下」とのみあるので不確かである)。] 

 

 羽蟲の羽

        街の葉ざくら作

 

ヽおしなべて羽蟲の羽(はね)のさも白く

 ひかるをみれば夏は來にけり

 

 花がたみ艶(あで)なるひとを我が待てば

 遠里小野に月のぼるなり 

 

 足の爪すこしぬらして宵每の

 濱邊づたひを好む君かな 

 

ヽうち出でゝ濱邊にたてば月見草

 月かたむきてにほふなりけり

[やぶちゃん注:「」は判読不能字の抹消を示す。] 

 

ヽなわすれそ勿忘草の花つみに

 來よと言ひなばおどろきて來む 

 

 たれこめて物や思へとわがために

 雨ふりぐさの花咲きにけむ 

 

ヽいかにせんならんろべりや吹くときくだにも

 泣かまくほしくもの思ふ身は

[やぶちゃん注:「ろべりや」既注であるが、再掲する。キキョウ目キキョウ科ミゾカクシ(溝隠)属 Lobelia のロベリア・エリヌス Lobelia erinus 、和名ルリチョウソウ(瑠璃蝶草)及びその園芸品種をいう。南アフリカ原産の秋播きの一年草で、高さ二十センチメートルほどでマウンド状に広がる。四月から七月頃に青紫色の美しい花を咲かせ、花色は赤紫色やピンク・白色などがある(「weblio辞書」の「植物図鑑」にある「ロベリア・エリヌス(瑠璃蝶草)」に拠った。画像はグーグル画像検索「Lobelia erinusも参照されたい)。] 

 

 春日野の若菜いろぐさおきなぐさ

 けふわが來れば下萌えにけり

 

 さくらの實(み)さくらばなよりほの紅き

 そのくちびるをさしあてたまふ 

 

 ひとはいさ知るや知らめやみぢか夜の

 月の出窓にくちづけしこと

[やぶちゃん注:「みぢか夜」はママ。次の一首も同じ。] 

 

 ひとはいさ知るや知らめやみぢか夜の

 月の出窓にくちづけしこと 

 

ヽかくとだにえやは言へざるさりげなく

 夏來にけるとつげやりしかな 

 

 おしめども散りゆくものを花びらを

 くちにふくみて物おもふかな

[やぶちゃん注:「おしめども」はママ。] 

 

 うたかたの水の流れとさくらばな

 かひなきものは我身なりけり 

 

 かくとだにえやは言えざる女氣に

 夏くるとのみつげやりしかな

[やぶちゃん注:「言えざる」はママ。] 

 

 しめやかに舗石みちを步むとき

 さつきながあめふりそめにけり 

 

 電車みちよこぎりしとき靴さきを

 ぬらして過ぎし夏の雨かな 

 

 夏若葉つばめ飛び行き飛び來り

 めぢのかぎりを人あゆむなり 

 

 辻待ちの俥のほろも葉柳の

 しつくに濡れて嘆く夜かな 

 

 たそがれてゆくゑもしらに氣車みちの

 堤(つゞみ)のうへをたどるなりけり

[やぶちゃん注:「ゆくゑ」はママ。

「堤」のルビ「つゞみ」はママ。] 

 

 磯打浪(いそつなみ)小磯が濱の貝がらの

 かひなく濡れて物思ふころ 

 

 うれしきはその紅貝(べにがひ)のふたつみつ

 袂のすみにちゝと鳴ること

[やぶちゃん注:個人的に好きな一首である。] 

 

ヽつばくらめきのふかへりてかくばかり

 うれしきことを告げにけらしな 

 

 あすかやま年つきへても忘れねば

 いまは牡丹の花つみにけり       ○

[やぶちゃん注:「いまは」は原本では「いはま」。意味が通じないので校訂本文を採用した。] 

 

 憂きことはさらになけれど紅爪(べにづめ)を

 かめばあやふく涙するかな 

 

 かぶと蟲黑くひかりて音もなく

 くぬぎ林になげくなりけり       ○ 

 

 さくらさくらさくらちりかひみちもせに

 とりどりなれや春ゆかんとす      ○ 

 

 はらはらと柳ちりかひ忘れじの

 そのひとことはあかくにほひぬ

 

      きのふといひ、けふといひ

      あゝせんかたもなき日頃かな

 あさましき我がおこなひもいかばかり

 草もえ出でゝかなしかるらむ      ○ 

 

 とりつめし心ばかりは哀しけれ

 玉菜は梅雨(つゆ)にぬれてひかれど 

 

 ながらへてまたこの頃は若葉する

 木立の中を步むなりけり 

 

 見せばやなうすみどりせるそうぞくの

 ひとにつまれしゆすらごのはな

[やぶちゃん注:「そうぞく」(「裝束」)はママ。「ゆすらご」はサクランボに似た赤い小さな実をつけるバラ目バラ科サクラ属ユスラウメ
Prunus tomentosa の俗名。漢字表記では「梅桃」「山桜桃梅」。ウィキの「ユスラウメ」には『現在では『サクラ』を意味する漢字『櫻』は元々はユスラウメを指す字であった。ユスラウメの実が実っている様子を首飾りを付けた女性に見立てて出来た字である』とある。知らなかった(グーグル画像検索「ユスラウメの花」)。]

 

 やわらかにきみがおゆびをくちびるに

 ふくみて居れば花散りにけり

[やぶちゃん注:「やわらかに」はママ。] 

 

 いつの日かその石段に立ちしとき

 ぎんなんの實の落ちてきたりき

              (一九一三、四、)

 

橋本多佳子句集「海彦」 長崎行(Ⅰ) 久女を弔ふ

 長崎行

 

[やぶちゃん注:年譜によれば、以下の「阿蘇」までは確実に昭和二九(一九五四)年五月の九州旅行の際の句群である。六日に津田清子と同伴で旅立ち(伊丹から板付まで航空機を利用した。冒頭異例の九句にも及ぶそれらから見ると、もしかすると多佳子はこの時初めて航空機に乗ったものかも知れない)、長崎に三泊の後、『十数年ぶりに阿蘇山に登』った。その後、『横山白虹らと共に、久女終焉の地、筑紫観音寺にある九大分院、筑紫保養院に行き、久女を弔』ったとある。]

 

夏雲航(ゆ)く地上のことを語りつゞけ

 

巣燕を見しこと遠し天(あま)翔けつゝ

 

灼くる翼その上に重き無限の碧

 

[やぶちゃん注:「上」は「へ」、「碧」は「へき」と読んでいるか。私は少なくともそう読みたくなる。]

 

夏の雲天航く玻璃に露凝らす

 

夏の雲翼とゞまるゆるされず

 

夏天航く四ツ葉プロペラ健かなり

 

灼くる翼ゆれつゝ平らたもちつゝ

 

双翼が地上の梅雨の暗さに入る

 

天降りて青野に車輪ぐゝと触る

 

  横山白虹氏と共に久女終焉の地を弔ふ、

  筑紫観音寺保養院にて

 

青櫨が蔽ひ久女の窓昏む

 

[やぶちゃん注:「青櫨」「あをはぜ」でムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum の新緑。]


鑰(かぎ)はづし入る万緑の一つの扉(と)

 

万緑やわが額(ぬか)にある鉄格子

 

[やぶちゃん注:「筑紫観音寺保養院」は現在の、福岡県太宰府市五条にある福岡県立精神医療センター太宰府病院の前身である。単科精神科病院福岡県立筑紫保養院の開院は昭和六(一九三一)年十一月二十五日で、当初は百床であった(同病院公式サイトの院長挨拶に拠る)。

 久女はここで八年前の昭和二一(一九四六)年一月二十一日、極寒の中、腎臓病悪化――精神科医でもある俳人平畑静塔は当時の極度に悪い食糧事情での栄養失調或いは餓死と推察している(坂本宮尾「杉田久女」一九八頁より孫引き)――のため、肉親に看取られることなく(敗戦直後の劣悪な交通事情に拠る)亡くなっている。満五十五歳と八ヶ月余りであった。

 多佳子は後の「自句自解」(『俳句』昭和三三(一九五八)年一月発行)で、この句に自注し、以下のように述べている(底本全集第二巻を底本とした)。

   *

 万緑やわが額にある鉄格子 (海彦)

 昭和二十九年筑紫保養院の作。

 杉田久女の終焉の地を弔ふことは長年の念願でしたが、なかなかその機に恵まれず、絶えず心にかかつてをりました。偶々「自鳴鐘」の好意によつて、それを実現することが出来ました。医学博士である横山自虹氏が同行されましたので、つぶさにその当時の模様を院長から伺へました。

 久女終焉の部屋は、櫨の青菜が暗いほど茂り、十字に嵌る鉄格子は、私の額に影を刻みつけました。

 久女に手ほどきを受けた弟子の一人として、いまなほ至らないわが身を、この時ほどつよく悔まれたことはなく、厳しい生涯を送つた久女の終焉の部屋のたたずまひは、私の生きる限り灼きついて離れないことでせう。

 夕暮、保養院の門を出ると、菜殻火が炎々と燃えてゐました。白虹氏に聴くと、久女の入院は昭和二十年の秋で、翌年の一月に逝つたのですから、久女はこの菜殻火を見てゐないのです。夕日の中に燃えてゐた菜殻火の炎の美事さ恐ろしさは、到底忘れることが出来ません。

   *

 この感懐はこれらの句に孕む非常に深い多佳子の思いを知らせているところの、厳粛な一文であると私は思っている。]

 

  保養院を出づれば菜殻火盛んなり

 

一切忘却眼前に菜殻火燃ゆ

 

[やぶちゃん注:如何にも意味深長な句である。自句自解ではこれは多佳子の心境というよりは、久女の意識に共時化した意識(菜殻火の燃えたつ如き久女の情念が憑依したと言ってもよい)に基づく感懐のように読める。孰れにせよ、この時確かな先師と再実感した久女に対する、恩讐の彼方の思い、であることは間違いない――間違いないが、しかし、私はここに、今一つ――多佳子が、久女没後のおぞましき「久女伝説」の形成に確信犯で自ら組したこと(と私は思っている)を――「一切忘却」しようとしている、と意地悪くも読みたくなるのである。多佳子以上に久女を愛している私はどうしてもこのことを言わずにはおれないのである――]

 

菜殻火の燃ゆる見て立つ久女いたむ

 

菜殻火の火蛾をいたみ久女いたむ

 

つぎつぎに菜殻火燃ゆる久女のため

 

菜殻火や入日の中に焰もゆ

 

  久女の終焉をみとりし末継はつみ女

 

万緑下浄き歯並を見せて閉づ

 

[やぶちゃん注:「末継はつみ女」明らかに久女門下の女流俳人と思われるが、不詳。敢えて言うと、「女流俳句を味讀す」(昭和七(一九三二)年三月発行『花衣』創刊号)に、

 

 さげ髮して床にあり風邪の妻  波津女

とある人物、また同『花衣』二号(昭和七年四月発行)に、

 

 うたゝねやさめて疊む花衣  波留女

 

とある人物がそれらしくは見える。是非とも識者の御教授を乞うものである。]

杉田久女句集 279 花衣 ⅩLⅧ 出雲旅行 四十三句

 出雲旅行 四十三句

 

[やぶちゃん注:角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」によれば、昭和一〇(一九三五)年のことであるが、年譜には載らない。]

 

  一 出雲御本社

 

水手洗の杓の柄靑し初詣

 

雪解の雫ひまなし初詣

 

仰ぎ見る大〆飾出雲さび

 

巨いさや雀の出入る〆飾

 

神前に遊ぶ雀も出雲がほ

 

椿落ちず神代に還る心なし

 

斐伊川のつゝみの蘆芽雪殘る

 

斐伊川のつゝみの蘆芽萌え初めし

 

  二 宍道湖(松江大橋)

 

蘆芽ぐむ古江の橋をわたりけり

 

蘆の芽に上げ潮ぬるみ滿ち來たり

 

上げ潮におさるゝ雜魚蘆の角

 

若蘆にうたかた堰を逆ながれ

 

  三 美保關に向ふ途中

 

目の下に霞み初めたる湖上かな

 

立春の輝く潮に船行けり

 

春潮の上に大山雲をかつぎ

 

若刈干す美保關へと船つけり

 

  四 日の見磯に至る途上風景絶好

 

群岩に上るしぶきも春めけり

 

潮碧しわかめ刈る舟木の葉の如し

 

[やぶちゃん注:「日の見磯」前後の句から考えて、日御碕(ひのみさき)のことと思われる。私は不遜にも出雲に行ったことがないので、ウィキの「日御碕」から引用する。『島根県出雲市大社町日御碕に位置し、島根半島のほぼ西端で日本海に面する岬』で、『大山隠岐国立公園に含まれる』。『流紋岩から構成される山が沈降して海に浸かり、波に侵食された後にわずかに隆起し「海食台」と呼ばれる地形が形成された』。『周辺には柱状節理や洞穴が見られ、海上には小島や岩礁が点在する』。『海底にはサドガセとボングイと呼ばれる岩があり、人工的に彫られた階段や参道、祭祀跡が確認されている。これは沖縄県の南城市にある世界遺産斎場御嶽に似ているといわれ天照大神の神話によく似た神話が斎場御嶽に伝わっている。岬上には』明治三六(一九〇三)年初点灯の『出雲日御碕燈台が立つ』。この灯台は海抜六十三メートルに位置し、光達距離二十一海里(三十八・八九二キロメートル)、灯塔四十三・六五メートルと『石作りの灯台としては日本一の高さを誇り、また白亜の姿が美しい。参観灯台なので見学も可能である』。『日御碕駐車場近くには商店街があり、いか焼き、ソフトクリームなどの飲食店や土産店がある。季節にもよるが、「天日干し」のカレイやノドグロなどの干物も売っている』。『「日御碕の大ソテツ」及び南方に浮かぶ経島の「経島ウミネコ繁殖地」は、国の天然記念物』である。久女が辿ったと思われる島根県道二十九号大社日御碕線についても、『出雲大社(出雲市大社町杵築東)と日御碕を結ぶ海沿いの道。冬は、海が時化る(しける)と「潮被り」の道となり、安全に冬の日本海を体感できるコースとなっている。晴れると、出雲神話の舞台である、稲佐の浜や三瓶山が見渡せる。カーブが非常に多く急峻な場所も目立つ。トンネル等の付け替えにより路線改良は行われているが、現在でも時折、荒天等を原因とする法面等の崩落が起こりやすく、その度に交通規制が発生する場合があるので、走行には十分に注意されたい』とある。]

 

  五 出雲神話をよめる。稻佐の濱

 

群岩に春潮しぶき鰐いかる

 

虛僞の兎神も援けず東風つよし

 

春潮の渚に神の國讓り

 

[やぶちゃん注:「稻佐の濱」は「いなさのはま」と読み、島根県出雲市大社町にある砂浜海岸である。ウィキ稲佐の浜によれば、『国譲り神話の舞台でもあり、「伊那佐の小濱」(『古事記』)、「五十田狭の小汀」(『日本書紀』)などの名がみえる。また稲佐の浜から南へ続く島根半島西部の海岸は「薗の長浜(園の長浜)」と呼ばれ、『出雲国風土記』に記載された「国引き神話」においては、島根半島と佐比売山(三瓶山)とをつなぐ綱であるとされている』とあり、ここでは出雲大社の神事である神幸祭(八月十四日)と神迎祭(旧暦十月十日)が行われる、とある。以下、周辺の名跡として弁天島(稲佐の浜の中心にある。かつては弁才天を祀っていたが、現在は豊玉毘古命を祀る)・塩掻島(しおかきしま。 神幸祭に於いてはこの島で塩を汲み、掻いた塩を出雲大社に供える)・屏風岩(大国主神と建御雷神がこの岩陰で国譲りの協議を行ったといわれる)・つぶて岩(国譲りの際、建御名方神と建御雷神が力比べをし、稲佐の浜から投げ合った岩が積み重なったといわれる)を挙げてある。久女が詠んでいる知られた「稲羽の白兎」伝説との関連は書かれておらず、ウィキ因幡の白兎にも稲佐の浜は出ないが、如何にもそれらしい名でもあるので調べてみると、mlsenyou 氏のブログ「橙色の豚~旅と株と共に去りぬ~」の稲佐の浜(稲狭の浜) 国譲りの伝説と古代史に、『ちなみに、稲佐の浜は稲羽(因幡)の白兎の伝説の場所でもある。因幡の白兎の話は、白兎がワニを騙したせいでひどい目にあったというものだが、その後日談として、大国主は白兎を助けている』とある。]

 

  稻佐の濱國讓りの故事――高天原から天孫

  降臨の爲、この濱で出雲族と國讓りの議に

  ついて神々相會し、遂に亂を好まぬ大國主

  命は賢明にも國土を全部獻上。その爲、天

  照大神大いに喜び給ひ、御子を出雲につか

  はし、大國主の宮を造營して仕へせしめ給

  ふとある。

 

椿咲く絶壁の底潮碧く

 

春潮に眞砂ま白し神ぞ逢ふ

 

春潮からし虛僞のむくいに泣く兎

 

潮浴びて泣き出す兎赤裸

 

兎かなし蒲の穗絮の甲斐もなく

 

[やぶちゃん注:「穗絮」は「ほわた」。]

 

春潮に神も怒れり虛僞兎

 

春寒し見離されたる雪兎

 

ゆるゆると登れば成就椿坂

 

[やぶちゃん注:「椿坂」は固有名詞ではないと思われる。]

 

雪兎援けず潮にわがそだつ

 

[やぶちゃん注:この一句、連想の感懐ながら、私は掬すべき佳句と感ずる。]

 

  六 小泉八雲の舊居

 

春寒み八雲舊居は見ずしまひ

 

燈臺のまたたき滋し壺燒屋

 

[やぶちゃん注:島根県松江市北堀町にある。中海・宍道湖・大山圏域観光連携事業推進協議会公式サイト「山陰」の小泉八雲旧居(ヘルン旧居)を参照されたい。「壺燒屋」の「壺燒」は栄螺の壺焼きのことと思われる。ネットを管見すると当地の名物であることが分かる。]

 

  七 出雲御本社寶物

 

春光や塗美しき玉櫛屋

 

  八 八重垣神社

 

處女美(うま)し連理の椿髮に挿頭(かざ)し

 

[やぶちゃん注:島根県松江市佐草町にある神社で、ここには現在も二股の根をした連理玉椿(夫婦椿)がある。大木浩士氏のサイト「ぶらり神社めぐり」の八重垣神社」の写真が二股の根をよく写しておられる。]

 

  九 境内に鏡の池

 

みづら結ふ神代の春の水鏡

 

日表の莟も堅しこの椿

 

椿濃し神代の春の御姿

 

春の旅子らの緣もいそぐまじ

 

[やぶちゃん注:ウィキ八重垣神社」に、『「鏡の池」は稲田姫命が、スサノオノミコトに勧められ、この社でヤマタノオロチから身を隠している間、鏡代わりに姿を映したと伝えられるもので、良縁占い(銭占い)が行われる。社務所で売られている薄い半紙の中央に、小銭を乗せて池に浮かべると、お告げの文字が浮かぶという手法。紙が遠くの方へ流れていけば、遠くの人と縁があり、早く沈めば、早く縁づくといわれ』、『また、紙の上をイモリが横切って泳いでいくと、大変な吉縁に恵まれるという』とあるが、哀しいかな、一九七〇年代頃、『この「鏡の池」に賽銭泥棒が出没して以来、池の底には目の大きめな金網が張られるようになっ』てしまったともある。これ、世の末の鏡ならむや……]

 

  十 出雲八重垣

 

神代より變らぬ道ぞ紅椿

 

節分の丑滿詣降られずに

 

[やぶちゃん注:「節分の丑滿詣」というような仕来りは少なくとも現在は行われていないようである(ネット検索に拠る)。これは後の句に「夜汽車」とあり、出雲の旅の最後で、たまたま深夜の参拝(前の句群は明らかに昼景であるから、出雲出立の最後に再拝したものかと思われる)となったことを言っているものか。識者の御教授を乞う。]

 

東風吹くや八重垣なせる舊家の門(と)

 

煖房に汗ばむ夜汽車神詣

耳嚢 巻之九 潛龍上天の事

 潛龍上天の事

 

 文化五年六月十七日、淺草觀音の堂上、幷(ならびに)山門の屋根上に黑雲集り、其内燃(もゆ)る火のごときものたち登り強雨しきりなるを、人の語りしが、山崎宗篤が許へ來る髮結も顯然見し由咄しぬれば、虛談にもあらずやと、宗篤子の語りぬ。何れの御代や右樣の事有りしが、火の災ありしと申傳(まうしつたふ)る旨、土地の者恐れけるが、是を以(もつて)愼(つつしま)ば一德成(なる)べし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。但し、昇龍譚は先行する「卷之八」の最後から七、八番目に載り、見た目の強い連関性が窺える。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では本「卷之九」がほぼそっくり「卷之十」となっており、逆に本書の「卷之十」が「卷之九」のないようとなっていることは、頗る重要な相違点であるので、特にここで指摘しておくことにする。なお、この順序の齟齬はバークレー校版の書写者によるもの推測され(巻九と十の稿本の作成経緯に危急性があって巻号が記されず、跋文位置からこの順に判断されたものかという仮説が岩波版の長谷川強氏の解説にある)、記事内容の編年性から見て、底本の順序が正しいと考えられる。

 なお、底本の鈴木氏注に『此事、武江年表に記さず。(三村翁)』とあり、所謂、流言飛語で留まったところの怪しげな低レベル都市伝説の類いであることが分かる。根岸もそのようなものとして捉えながらも、最後に味な、しかももっともな台詞で結んでいる。流石は名町奉行! 鎭(ちん)さん! いいね!

・「文化五年六月十七日」本「卷之九」の執筆推定下限は鈴木氏によって文化六(一八〇九)年夏とされているから、ホットなアーバン・レジェンドではある。なお本話では、この超常現象と実際の火災発生の連関性に対し、人々が強く恐懼していることが分かるが、これには訳がある。実にこの年より二年前の文化三年三月四日(西暦一八〇六年四月二十二日)に明暦の大火・明和の大火とともに江戸三大大火の一つとされる文化の大火(丙寅(ひのえとら)の大火・車町火事・牛町火事)の記憶が生々しく残っていたからである。参照したウィキの「文化の大火」によれば、出火元は芝・車町(現在の港区高輪二丁目)の材木座付近。午前十時頃に発生した火は、『薩摩藩上屋敷(現在の芝公園)・増上寺五重塔を全焼。折しも西南の強風にあおられて木挽町・数寄屋橋に飛び火し、そこから京橋・日本橋の殆どを焼失。更に火勢は止むことなく、神田、浅草方面まで燃え広がった』。翌五日の降雨によって鎮火したものの、延焼面積は下町を中心に五百三十町に及び、焼失家屋は十二万六千戸、死者は千二百人を超えたと言われる。このため町奉行所では、被災者のために江戸八か所に御救小屋を建て炊き出しを始め、十一万人以上の被災者に御救米銭(支援金)を与えているとある。

・「山崎宗篤」不詳。「むねあつ/そうとく」と読むか。何となく医者っぽい名ではある。次の類話にも登場。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 潜みたる龍が昇天するという事

 

 文化五年六月十七日のこと、浅草観音堂の堂上及び、仁王門の屋根上に、これ、妖しき黒雲(くろくも)が生じ、それが夥しく蝟集致いたかと思うと、そのうち、そのおぞましき黒雲の中より、妖しき燃ゆる火の如きものが、真上の空に向こうて、しきりに飛び立ち昇ったるやいなや、どっと雨の降りしきって参った――とのこと、知れる人の語って御座ったが、知人山崎宗篤(そうとく)の所に来たる髪結いも、

「――へえ!――確かに『はっきりと明らかに見た』と、知れる者の申しておりやしたから、これ、嘘っぱちでも、ごぜえますめえ。」

と、宗篤殿御自身が語って御座った。

 『何時頃の御代で御座ったか、全く同じようなことのあったが、こうしたことが起こるは、これ、火の災いの前兆じゃと言い伝えておる』なんどと申し、浅草辺の民草はしきりに恐懼しておるとも伝えるが――

 私は、こうした出来事や流言飛語のあったを以って、人々が火の元にも、よう注意を致すようになるのであってみればこそ、これもまた一つの利得と言えようと思うておるので御座る。

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」附録 鎌倉實測圖

[やぶちゃん注:ここで、次の「鶴岡八幡宮」の記載の見開き「四」頁と「五」の間に挟み込まれている底本のオリジナルと思われる地図「鎌倉實測圖」を画像で示すこととする。前の「区分」から「十橋」に至る地名名跡が概ね記されており、実に今から百十七年以上前の鎌倉の面影を知り得る非常に貴重なものである。私は近代の鎌倉地図を何枚か見てきたが、これは侮れない一枚と認識している。ちょっと困るのは無理矢理一枚に収めるために、方位が四十五度弱西に傾むけてあることと、十二所及び峠村の部分が由比ヶ浜湾内に記されている点である。その辺りに注意してご覧になられたい。なお、大きさがA4を遙かに超えるので、中央部をダブらせて二枚で撮ってあるので注意されたい。
 
 鎌倉霊園に惨たらしく破壊され(実に自然に還るべき魂が自然を完膚無きまでに破壊するというおぞましい逆説である)る以前のこの一帯が知れるだけでも非常に貴重な地図と言えると私は思うのである。]

1

2

[やぶちゃん注:本ブログ版では規定容量ギリギリの1MB弱にしてあるので、十分細部まで判読出来ると思う。但し、その際、画像を直接左クリックで表示せずに(そうするとブラウザによっては右手が切れる)、右クリックで別なウインドウに表示されたい。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 81 あさむつや月見の旅の明けばなれ

本日二〇一四年九月二十六日(当年の陰暦では九月三日)

   元禄二年八月 十三日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十六日

【その三】前の「月見せよ」の冒頭で述べた通り、句柄からは、この日の未明に福井を発って、朝まだき、玉江を過ぎて歌枕浅水(あそうず)橋(現在の福井市浅水町)を明け六つ(午前六時頃)に通った(と仮想したものかも知れぬところの)吟詠。「奥の細道」での順序の逆転は前の「月見せよ」の注を参照されたい。

 

  淺水のはしを渡る時、俗あさうづといふ。

  淸少納言の橋はと有(ある)一条あさむ

  つとかける所也

あさむつや月見の旅の明(あけ)ばなれ

 

  阿曾武津(あそむつ)の橋

あさむつを月見の旅の明け離れ

 

[やぶちゃん注:第一句目は「其袋」の、第二句目は先に示した「荊口句帳」の句形。

「枕草子」六十一段の橋尽くしに、

 

 橋はあさむつの橋。長柄(ながら)の橋。天彦(あまびこ)の橋。濱名の橋。ひとつ橋。うたた寢の橋。佐野の舟橋(ふなはし)。堀江の橋。かささぎの橋。山菅(やますげ)の橋。をつの浮橋。一すじ渡したる棚橋(たなはし)、心狹(せば)けれど、名を聞くにをかしきなり。

 

と筆頭に掲げられてある。「心狹けれど」いかにも恣意的で私個人の偏向した感じを受けるかもしれないけれど、という謂いであろう。いやいや、芭蕉も私も「あさむつの橋」はなかなか「をかし」と思いますよ、清さん。

 芭蕉は「あさむつ」を「朝六つ」=「明け六つ」に掛けた。掛けたからには事実はどうであったかよりも、この景は十三夜月を堪能した明け方午前六時の浅水(あそうず)橋の景である。因みに、この日の当地での月没は午前二時八分であった。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 80 月見せよ玉江の芦を刈らぬ先

本日二〇一四年九月二十六日(当年の陰暦では九月三日)

   元禄二年八月 十三日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十六日

【その二】句の並びと句意からは(後注及び次の「あさむつや」の考証を参照)この日の未明に福井を発って、朝まだき、福井と麻生津の間にある「玉江の蘆」で知られた玉江(現在の福井県花堂(はなんどう)町の虚空蔵川の架かる橋で蘆を合わせて読むのを常とする歌枕)を過ぎたと思われる。地名は「奥の細道」に載るが句はない。

  玉江

月見せよ玉江の芦(あし)を刈(から)ぬ先

 

[やぶちゃん注:「ひるねの種(たね)」(荷兮編・元禄七年自序)に載る句。

――月見をせよ!――古歌で知られた玉江の蘆は、いままさに丁度、穂を出したところ……さあ、この穂が刈られてしまう前に……その風雅な穂波の彼方に浮かぶ月影を!――

 またしても強気の命令形である。敦賀の月見と洒落たところの自身の決めたその思いつきを下敷きにして、何か、妙に力んで詠んでいる感じがする。私はどうも好感が持てない。

 「奥の細道」の敦賀到着までの段を示す(ここは自筆本では前の福井の旅立ちと連続していて、最初の行の頭には「立」が入っている)。

   *

 漸白根か嶽かくれて比那か

嵩あらはるあさむつの橋をわ

たりて玉江の芦は穗に出けり

鶯の關を過て湯尾峠を越れ

は火打か城かへる山に初鴈を聞

て十四日の夕暮つるかの津に

宿をもとむ

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇穗に出(いで)けり → ●穗に出でにけり

   *

「漸」やうやう。

「白根か嶽」加賀白山。

「比那か嵩」「ひながたけ」と読む。日野山(ひのさん)。現在の福井県越前市と南条郡南越前町に跨る標高七九四・八メートルの山。養老二(七一八)年、泰澄によって開山された山岳信仰のメッカで、白山・越知山(おちさん:福井県福井市と丹生郡越前町の境にある)・文殊山(もんじゅさん:福井県福井市と鯖江市の境にある)・蔵王山(福井県永平寺町にある)と併せて越前五山の一つに数えられてきた霊山(ウィキの「日野山」及び同各リンク先に拠る)。『福井平野から眺める山容が秀麗な景観を見せることから、現在では俗に越前富士と呼ばれている』とある。

「あさむづの橋」現在の福井市浅水(あそうず)町を流れる浅水川に架した橋で、福井城下から南へ凡そ八キロメートルほどの位置にある、「枕草子」などにも出る歌枕。但し、位置関係からは次に出る玉江を過ぎて、浅水の橋に至る、と山本健吉氏の「芭蕉全句」にある。「橋」「渡る」「江」「蘆」という縁語順列というか、意識の景観配列の自然さを狙ったものか。

「鶯の關」新潮日本古典集成の富山奏氏の注には、現在の『福井県今庄町と南条町との間。この当時は歌枕の関跡を留めるのみ』、伊藤氏の「芭蕉DB」の「敦賀」では、現在の『福井県南条郡南越前町湯尾にあった歌枕』、安東次男氏は『南条郡鯖波(さばなみ)の旧関、当時は既になかった』とある。また、こちらの「福井県史」では『今宿・脇本続いて鯖波の宿を過ぎると関ケ鼻に着く。「帰鴈記」は関の原の名所の歌として、「うぐひすの啼つる声にさそはれてゆきもやられる関のはらかな」をとりあげ、鴬の関ともいい関ケ鼻をいい誤ったものとしている』とあって、これだと、南条郡南条町関ケ鼻が比定地となる。

「湯尾峠」福井県南条郡南越前町湯尾と同町今庄の間、東の三ケ所山と西の八ヶ所山の鞍部にある標高約二百メートルの峠。参照した個人サイト「街道の風景」の「湯尾峠」によれば、『峠名は峠下にある湯尾に由来しますが、昔は柚尾の峠とも書かれています。昔から北陸街道がこの峠を通り交通、軍事上の要地でした』。『江戸期には峠の』附近に四軒の『茶屋があって、にぎやかに商売を営み、また御利益の多い疱瘡神の孫嫡子御守札を配布していました』とある(後の句注で詳述する)。

「火打か城」燧(ひうち)が城。湯尾峠東南方(現在の南越前町今庄)にある芭蕉の好きな木曽義仲軍の砦跡。

「かへる山」帰山。南越前町湯尾にある歌枕で、続くように併せて雁を詠むのを常とした。

 歌枕の羅列で、若い頃、父に車でそばを通ったきりの和歌嫌いの私には実景も浮かばず、ひたすら月見、月見と声高にして、「奥の細道」ではここ暫く、私には如何にもダルに感ずる箇所である。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 79 名月の見所問はん旅寢せむ

本日二〇一四年九月二十六日(当年の陰暦では九月三日)

   元禄二年八月 十三日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十六日

【その一】諸資料から、この八月十三日辺りに、芭蕉は福井の旧知の俳人等栽宅から彼を伴って敦賀気比(けひ)の明神に十五夜の月見をせんものと旅立ったと考えられる(従って慫慂の作句であるから前日の十二日の吟かも知れぬが、タイミングとしてはここに配したい)。福井から敦賀までは二日ほどの旅程に相当する。

 

  福井洞栽子をさそふ

 

名月の見所(みどころ)問(とは)ん旅寢せむ

 

  越前福井等載に對して

名月の名どころ問ん月見せん

 

名月の名所問はむ旅寢せむ

 

[やぶちゃん注:第一句目は「荊口句帳」(荊口筆/路通序・元禄二年成立・この書名は仮称であって荊口の残した懐紙の綴りであり、その「芭蕉翁月一夜十五句」の冒頭に載る句。個人サイト「温泉ドライブのページ」の『「芭蕉翁月一夜十五句」(荊口句帖)』によれば、これは『大垣藩士宮崎荊口と、その子此筋・千川・文鳥を中心とする発句・連句の書留で』、昭和三四(一九五九)年になって、『大垣市で発見されて大垣市立図書館に寄贈された』という非常に新しく見出された資料である)の句形。「芭蕉翁月一夜十五句」は以下の通り(「十五句」としながら、実際には十四句しか載らないが、これは原資料が断裂して見えないためであることが以下の引用の後書で分かる。以下に上記サイトに載る「芭蕉翁月一夜十五句」を正字化して示した。無論、以降、順次各句を評釈する)。

 

芭蕉翁月一夜十五句

 

   福井洞哉子をさそふ   は(せを)

名月の見所問ん旅寢せむ

 

   阿曾武津の橋

あさむづを月見の旅の明離

 

   玉江

月見せよ玉江の蘆をからぬ先

 

   ひなが嶽

あすの月雨占なハんひなが嶽

 

   木の目峠いもの神也と札有

月に名をつゝミ兼てやいもの神

 

   燧が城

義仲の寢覺の山か月かなし

 

   越の中山

中山や越路も月ハまた命

 

   氣比の海

國々の八景更に氣比の月

 

   同明神

月清し遊行のもてる砂の上

 

   種の濱

衣着て小貝拾ハんいろの月

 

   金が崎雨

月いつく鐘ハ沈める海の底

 

   はま

月のミか雨に相撲もなかりけり

 

   ミなと

ふるき名の角鹿や戀し秋の月

 

   うミ

名月や北國日和定なき

   いま一句きれて見えず

 

「芭蕉DB」の「敦賀」の解説には、これらの句はこの元禄二年八月十四日の夜一夜にして詠んだと伝えられているとあるが、これは単なる伝承の類いであり、明らかにそれ以前、十三日のロケーションのもの(但し、これらを纏めて一気呵成に詠じたのは確かに十四日であったかも知れない。それだけにこれらの句は殆んどが戴けない句となっているとも言える)、最後の方や「名月や」の句は明らかな十五日の句で、私は先に述べた行路日程から見ても、やはり本句を十三日の句と採る。

 第二句目は「奥の細道菅菰抄附録」の句形。前書の「等載」はママ。

 第三句は「芭蕉翁句解参考」(何丸(なにまる)・文政一〇(一八二七)年)の句形。中七と下五の意志を重ねたぎくしゃくした口振りはまことに拙い。

 芭蕉が「奥の細道」の旅の最後の見所を敦賀の気比の名月とようとしたことがこれで分かる(その予定は山中で芭蕉によって決定されていたものと思われ、しかもそこで芭蕉は曾良とではなく、この等栽と、と曾良に提案した可能性を安東次男氏は述べる。これは実に面白い。まさにそれが桃妖の一件で悶々としていた曾良が最後にキレた瞬間であったという可能性は、私はすこぶる高いものと感じているのである)。しかし、後に「奥の細道」の本文に見るように、その期待は裏切られ、雨が降って月は見得なかった。

 響もきも匂いもない。芭蕉の旅程とその意図は知れるものの、私には駄句としか見えない。残しおかぬ方が芭蕉のためにはよかった部類の句と私は断ずるものである。]

2014/09/25

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 総説(Ⅳ)~了

川流  音無川、極樂寺川、稻瀨川、滑川、豆腐川、山内川、若水川。

   稻村ケ崎、靈山ケ崎、飯島ケ崎。

   由井ケ濱、七里ケ濱。

大社  鶴岡八幡宮、鎌倉宮。

五山  建長寺、圓覺寺、淨智寺、壽福寺、淨明寺。

七切通 朝比奈切通、名越切通、極樂寺切通、大佛切通、假粧阪通、龜ケ谷切通、巨福呂坂切通。

五名水 日蓮乞水、梶原太刀洗水、錢洗水、金龍水、甘露水。

十井  六角井、銚子の井、星の井、鐡の井、棟立の井、瓶の井、甘露の井、泉の井、扇の井、底脱の井。

十橋  亂橋、逆川橋、延命寺橋、琵琶橋、夷堂橋、筋違橋、歌の橋、勝の橋、十王堂橋、裁許橋。

[やぶちゃん注:名数は「鎌倉攬勝考卷之一」に載り、十全なる私の注を附してあるので、そちらを参照されたい。因みに、「鎌倉五山」は順列がおかしい。本誌の筆者は「山嶽」以降、地域区分的に個々の対象を並べる傾向があることから生じたものかも知れぬが、鎌倉に限らず五山には格があり、第一位建長寺・第二位円覚寺・第三位寿福寺・第四位浄智寺・第五位浄妙寺の順で示すのが正しい。

「豆腐川」古い地図を見ると、材木座の弁ヶ谷の東の谷戸を水源とする川で、材木座海岸の和賀江の島近くで由比ヶ浜に流れ込んでいる。個人サイト「鎌倉の川と橋」の「豆腐川」を参照されたい。そこでは最早、流域全長を百メートルとしている。また、近年、市によって完全な暗渠化が企図されており、既に暗渠となってしまっている可能性もある。

「山内川」北鎌倉(旧山内(やまのうち))円覚寺前を流れる山之内川のことであろう。前に示したサイト「鎌倉の川と橋」の「小袋谷川(こぶくろやがわ)」に「山之内川」と出るが、この名称は恐らく現地でしか認識されていない気がする。

「若水川」これは現在は神奈川県横浜市金沢区朝比奈町の川。朝比奈峠を水源とし、同水源の侍従川の支流である。本誌の折込の「「鎌倉實測圖」の「峠村」の端に辛うじて川名を見出せた。]

[やぶちゃん注:以下の鎌倉総説の附記は、底本では「江の島」の前まで、頭の「○」のみ二字目位置にあって全体が二字下げ。]

 

○東京を距(さ)る十三里、滊車(きしや)の便(べん)あり、新橋發横須賀行の列車に乘込(のりこ)み、鎌倉停車場迄は僅々(きんきん)二時間を要せず、停車場を辭して鶴岡へ六町、更に長谷へ十數町、材木山座へ二十餘町、其日歸りても難からじ。

鎌倉に遊はゞ、先づ莊嚴なる鶴岡八幡宮に詣てよ、鎌府衰廢せしより唯是(ただこれ)巋然(きぜん)たり、舞殿を見ては文治の昔、靜女(しづか)が舞曲の悲哀なるを追懷し、石階の下、隱れ銀香樹(いてう)に公曉がせ實朝を弑せし、過きし昔の夢を訊ね鎌倉宮に詣でてゝは、足利氏が無道を憤り、大塔宮が多年幽閉の苦を偲び、遂に毒刄(どくじん)に罹り、刄(さいば)を含むて永く瞑(めい)せず、其巖窟に臨んでは徐ろに懷舊の涙を催し兩袖爲めに露けかるべし、去て賴朝の墳墓を探れは苔蒸して蔦(つた)封(ふう)し、見る影もなき五輪塔、山川依然たり、將軍爲めに奚(な)んぞ起(た)たざる、去て建長寺に行け、當時猶莊嚴(さうごん)の一斑(いつぱん)を觀るを得へし。

腕車(わんしや)を雇ふて長谷に赴け、觀音堂、大佛尊、孰れも一覽の値あるベし、見終れば材木座に走(は)せよ海水浴場の設あり、由井ケ濱邊の波は沙(いさご)を嚙み、曉凉(ばんれう)一番鮮鱗膳に上(のぼ)る、日の未だ落ちざるに、源氏山に鳴くかなかな蟬の聲を聞き夕滊(ゆふぎ)車にて歸京せよ。七百年來治亂興亡の夢眼前に髣髴として一日の行遊(こういう)足(た)る。

兩三日の暇(いとま)あらば、五山に歷詣(れきけい)し、五名水を掬(きく)し、七切通、古戰塲、古墳墓及び著名の諸舊蹟を訊ね、轉じて江の島に赴かは更に一層の興を添ふベし。

[やぶちゃん注:使用距離単位の一町は一〇九・〇九メートル。

「巋然」高く聳え立つさま。

「文治の昔」義経の愛人、静御前が母磯禅師とともに鎌倉に送られたのが文治二(一一八六)年の三月、頼朝の命により鶴岡八幡宮の回廊(当時は舞殿などはなかったので注意)で、

 

 しづやしづしづのをだまきくり返し昔を今になすよしもがな

 

 吉野山峰の白雪ふみわけて入りにし人の跡ぞ戀しき

 

と詠って舞ったのは同年四月八日のことであった。

「隱れ銀香樹」としばしば言われるが、その頃にはかの折れた公孫樹はあったとしても、ひょろひょろの苗木のような按配で、とても公暁を隠すべくもなかった。公暁が隠れていたとしても、それは公孫樹ではなく、周囲の植え込みか杉木立の木下闇であった。

「去て賴朝の墳墓を探れは苔蒸して蔦封し、見る影もなき五輪塔、山川依然たり、將軍爲めに奚んぞ起たざる」ここ、私が馬鹿なのか、どうも叙述がしっくりこない。「去つて、將軍爲めに奚(な)んぞ起(た)たざるの賴朝が墳墓を探れば、今は苔蒸して蔦封じ、見る影もなき五輪塔、山川依然たり」と直したいのだが。

「莊嚴(さうごん)」ここは「しやうごん」でないとおかしい。

「一斑」豹の毛皮にある沢山の斑(まだら)紋様の中の一つ、という意から、全体からみて僅かな一部分の意。

「腕車」人力車。

「七百年來」本誌の発行は明治三〇(一八九七)年八月二十五日であるから、その七百年前は建久八(一一九七)年で奇しくも頼朝による幕政が磐石となり、新都鎌倉が活況を呈した時期に一致する。]

 

      江の島

江島は鎌倉を距(さ)る二里、片瀨の南にあり、蜿々(ゑんゑん)たる棧橋を蹈みて到るベし、數十丈の翠巖(すゐがん)海上に突兀(とつこつ)し、常に巨浪(きよらう)山址(さんし)を洗へり。東望(とうばう)すれば近くは七里濱、遠くは房總の山嶽を見渡し、南に伊豆大島、西に箱根の諸岳を望み、遙かに富嶽に對せり、眞に佳境と謂ふベし。

嚴窟及巖石  龍窟、白龍窟、飛泉窟、十二窟、魚板石。

崎及淵    鵜ケ鼻、大黑の鼻、不動鼻、泣面ケ崎、兒ケ淵。

屬島     聖天島、鵜島。

社祠     江島神社。

[やぶちゃん注:「數十丈」「十丈」は三〇・三メートルで、現在の江の島の最高点の標高は標高約六十メートル、しかも関東大震災で隆起した結果であるから、この「數十丈」は誇張に過ぎる。

「山址」島の山塊とその麓の謂いであろう。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 総説(Ⅲ) 谷

 扇ケ谷、龜ケ谷、梅ケ谷、泉ケ谷(以上扇ケ谷)。大御堂ケ谷、蛇ケ谷(以上西御門前)。佐々目ケ谷、佐助ケ谷、松葉ケ谷、比企ケ谷、名越ケ谷、花ケ谷、經師ケ谷(以上大町)。葛西ケ谷(小町)。尾藤ケ谷、瓜ケ谷、蛇居ケ谷(以上山之内)。桑ケ谷(長谷)。馬塲ケ谷、月影ケ谷(以上極樂寺)。辨ケ谷(亂橋)。桐谷(材木屋)。釋迦堂ケ谷、宅間ケ谷、犬懸谷、胡桃谷、十二郷谷、泉水谷(以上淨明寺)。泉ケ谷、明石ケ谷、七曲リ谷、牛蒡ケ谷、多々羅ケ谷、積善ケ谷、番塲ケ谷(以上十二所)。

[やぶちゃん注:鎌倉は谷戸(やと)の町である。そして通常は概ね「〇〇ヶ谷」と呼称し、しかも「〇〇がやつ」と読む。鎌倉時代から、ごく小さな谷戸に至るまで、名がついており、この同定だけでも鎌倉地誌研究の大きなテーマ足り得るものである。私はここに出る谷戸名は、終わりの方の十二所の二つを除いて、ほぼ総てについて認識しているものではあるが、なるべく初心者にも比定地が分かるように総てに注しておくことにする。同定には先に示した「鎌倉實測圖」の他、所蔵する複数の鎌倉地誌関連本、特に東京堂出版昭和五一(一九七六)年刊の白井永二編「鎌倉事典」を多く用いた。なお、山名と同じく読みは煩瑣なだけなので、ここでは現代仮名遣のみ示した。主な谷戸名と位置はこちら及びその作成サイト「いざ鎌倉」の「鎌倉の谷」が分かり易い。

「扇ケ谷」現在の扇ガ谷一丁目から扇ガ谷四丁目であるが、往時のそれはもっとその周縁へと及んでおり、しかもその中に以下に出る「梅ケ谷」「泉ケ谷」などの谷戸を含む。「鎌倉歩け歩け協会」の「鎌倉の谷戸」によれば、『時計回りに「無量寺ヶ谷」「智岸寺谷」「御前ヶ谷」「山王堂ヶ谷」「梅ヶ谷」「会下ヶ谷」「清涼寺ヶ谷」「法泉寺ヶ谷」「勝縁寺谷」「藤ヶ谷」「泉ヶ谷」とそれぞれに名前がついた』十一の谷戸を数えることが出来るとある。因みに名は、前記「鎌倉事典」によれば、先の「山嶽」で注した扇ヶ谷にある飯盛山の麓にある『扇の井にちなむと言うのが俗説』とあるものの、『鎌倉時代には『吾妻鏡』に「義朝の亀谷旧跡」』(次注参照)『とあるように、亀谷(かめがやつ)が総称で、扇ケ谷の名はみえない。後世、管領上杉定正がこの地に住み、家名をあげて扇ケ谷殿と称せられてから亀ケ谷の名がすたれ、扇ケ谷とよぶようになったといわれて』いる。尤も、最も古い部類では「太平記」巻十の新田義貞鎌倉攻めの「鎌倉兵火の事 付けたり 長崎父子武勇の事」の記事中に、『かかるところに、天狗堂(てんぐだう)と扇谷(あふぎがやつ)に軍(いくさ)有りと覺えて』とあり、鎌倉後期には既に定着していた地名であることが窺える。

「龜ケ谷」前注に示したように、元来は「扇ケ谷」の古称と考えてよい。名は位置からも恐らくは鶴岡八幡宮寺の対としてついたものと思われる。初出は「吾妻鏡」治承四(一一八〇)年十月七日の頼朝鎌倉初入城の条で、『七日丙戌。先奉遙拜鶴岡八幡宮給。次監臨故左典厩〔義朝。〕之龜谷御舊跡給。即點當所。可被建御亭之由。雖有其沙汰。地形非廣。又岡崎平四郎義實爲奉訪彼没後。建一梵宇。仍被停其儀云々』(七日丙戌。先づ鶴岡八幡宮を遙拜し奉り給ふ。次いで故左典厩〔義朝。〕の龜谷(かめがやつ)の御舊跡を監臨し給ふ。即ち當所を點じて、御亭を建てらるべきの由、其の沙汰有りと雖も、地形、廣きに非ず、又、岡崎平四郎義實、彼の没後を訪(とぶら)ひ奉らんが爲に、一梵宇を建つ、仍つて其の儀を停めらると云々)と出る。

「梅ケ谷」化粧坂下の北の谷を指すとされるが、比定地としては定まっていない。但し、現在は亀谷切通しを下った、薬王寺附近をこう呼称しているので本誌の記者の指すのはそこと考えてよい。

「泉ケ谷」英勝寺の東北、浄光明寺のある谷。「吾妻鏡」の建長四(一二五二)年五月二十六日の条に『廿六日己酉。晴。今日。被壞右兵衞督泉谷亭。爲御方違本所。依可有新造儀也』(廿六日己酉。晴る。今日、右兵衛督が泉谷(いづみがやつ)の亭を壞(こぼ)たる。御方違への本所として、新造の儀有るべきに依つてなり)と出、鎌倉中期にはあった谷戸名であることが分かる。

「大御堂ケ谷」大倉幕府の南方、長勝寿院(これが名の由来であろう)があった谷戸。尾根を隔てて西に「葛西ケ谷」、東に「釋迦堂ケ谷」がある。

「蛇ケ谷」「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄(やつなよせ)」(これは谷戸考証に貴重な史料である。是非、披見されたい)に、

   *

蛇ケ谷 鎌倉に蛇ケやつといふ所三ケ所あり。一は鶴ケ岡の東北にある谷をいふとあり。此事は【沙石集】にいえる如く、或者の女が兒(ちご)を戀病して死し、兒もまたやみて是も死けるゆへ、棺に納て山麓へ葬らんとせしに、棺の内に大蛇が兒の軀をまとひ居たる由、昔話にいひ傳ふとなん。又一ケ所は假粧坂の北の谷をいふとぞ。是は小蛇が爲に見入られ、何地へ行ても小蛇慕ひ、終にさらず。臥たる折ふし、陰門へ蛇入て女も死し、蛇もまたうせたりといふ。又一ケ所は釋迦堂谷より名越のかたへ踰る切通の邊なりといふ。其事を語れるを聞に、長明が【發心集】に書たると同じければ、此所の昔話を聞て長明がしるせしにや。其記に地名を忘れたりしとかけり、則爰の事なるべし。其事【發心集】にくわしければ共に略す。鎌倉は海岸の濕地にして、又山々谷々多きゆへ、今も猶蛇多しといふ。

   *

とある(以上の説話についてはリンク先及びそこにリンクさせたやはり私の「新編鎌倉志巻之七」の「〇蛇谷」の注に全文を掲示してあるのでご覧になられたい。私のすこぶる好きな説話群である。なお、前記「鎌倉事典」によれば、「相模国風土記稿」には衣張山(報告路の背後の山)には『「蛇屋敷」の地名があったことを伝え』、『鎌倉は湿地帯で山谷が入りくんでいるので、蛇が多く住んでいたことに因む地名であろう』と記す。私の住んでいるところ(鎌倉市植木)もかつての山深い場所でその山腹にあるのであるが、辺りはかつては蝮と百足の名所と言われていた。いや、三日ほど前にもアリスと散歩していたら、一メートル近い青大将が小道を過ぎっていった……。

「佐々目ケ谷」「佐助ケ谷」と尾根を隔てた西と長谷の間に位置する深く貫入した谷戸。「吾妻鏡」に出る鎌倉時代からの古い名である。

「佐助ケ谷」現在の鎌倉駅の西側にあって、南北に横たわって東西に口を開いた大きな谷戸である。内側東西にさらに細かな支谷が多数あり、かつてはそれらにもいちいち名がある。由来説としてはこの谷戸内に上総・千葉・常陸の三介(すけ)の屋敷があったその転訛という里伝の他、ここの隠れ里(現在の銭洗弁天)の神が翁の姿で夢に現われ、佐殿(すけどの)源頼朝に旗挙げを薦め助けたことによる、という如何にもな伝承もある。孰れにせよ、「吾妻鏡」のも出る古名である。

「松葉ケ谷」「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄」に、

   *

松葉ケ谷 名越の内なり。安國寺、長勝寺の境内を松葉ケ谷と唱ふ。日蓮安房小湊より當所へ渡りし時、三浦へ着岸し、夫より切通を踰て此邊に庵室を給ひ給ひし地なり。後に京都へ移されし本國寺の舊蹟の條を合せ見るべし。

   *

とあり、「立正安国論」絡みの、知られた日蓮の松葉ヶ谷法難で人口に膾炙する谷戸名である。因みに、ここに出る「本國寺」は鎌倉には現存しない。これは、現在の大光山本圀寺(ほんこくじ)として京都府京都市山科区にあるものである(かつては六条堀川であったが、第二次大戦後に経営難等の諸般の事情から堀川の寺地を売却し、現在の山科に移転した)。日蓮が松葉ヶ谷草庵に創建した法華堂が第二祖であった日朗に譲られ、元応二(一三二〇)年に更に堂塔を建立したが、それがこの「本國寺」の濫觴となり、その建立地が現在の石井山長勝寺のある場所であった)。

「比企ケ谷」妙本寺附近の谷戸名。諸本は、頼朝の乳母であった比企禅尼(比企の乱で亡ぼされた比企能員の養母)が住んだことを由来とするとする。これも古い谷戸名である。

「名越ケ谷」「松葉ケ谷」の東、現在の横須賀線名越トンネル手前とその北側一帯を指すものと考えられる。

「花ケ谷」「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄」に、

   *

花ケ谷 名越の佐竹第跡の東の方の谷をいふ。昔此所に慈恩寺といふ寺ありて、其寺の歌壇に數百種の草花を集て、春秋は色をまじえて咲けるゆへ、人々遊觀して賞しければ、花ケ谷と地名せしといふ。其寺もいつの昔にか廢跡となれりといふ。

   *

とある。この谷戸名の由来とされる慈恩寺については、「新編鎌倉志巻之七」の「〇花谷〔附慈恩寺の舊跡〕」に詳しく注した。そこには足利直冬の菩提寺であり、開山は桂堂聞公、京五山の名僧たちが、この風光明媚な寺を詩題として詠んだ詩群を掲載しており、それを読むと、この慈恩寺なる寺が由比ヶ浜(飯島)に近く、境内には多様な種類の草花樹木が植えられ、池塘や岩窟、何より七層の荘厳な塔を持った相応な規模の禅寺であったことが知られる。因みに、この慈恩寺、昭和五十五(一九八〇)年有隣堂刊の貫達人・川副武胤共著「鎌倉廃寺事典」によれば成立は鎌倉時代で、万里集九の「梅花無尽蔵」に『「脚倦不登慈恩塔婆之旧礎」とあって、文明末(一四八五)にはすでに廃絶していたこと』が知れる、とある。

「經師ケ谷」材木座の東北、「辨ケ谷」の北で「桐谷」の西北の、現在の長勝寺の東、名越にある谷。写経を行う経師たちがここに住していたか。「吾妻鏡」元久二(一二〇五)年六月二十三日の条に榛谷(はんがや)四郎重朝が、子の重季・秀重ともども三浦義村に討たれた(重朝が畠山重忠の乱で従兄弟であった重忠謀殺に荷担したことを主罪とし、また、三浦氏にとっては三浦義明討死の最後の恨みを晴らす格好となった)記事で、「於經師谷口」で謀殺とあり、鎌倉初期から存在した古い谷戸名であることが分かる。

「葛西ケ谷」宝戒寺の裏手東南方一帯の谷を指す。全体が東勝寺の寺域で幕府滅亡の地である。「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄」には、『治承以來、葛西三郎淸重に給ひし地ゆへ葛西ケ谷とは號せりとぞ。右大將家鎌倉へ移給ひし後は、淸重が事は【東鑑】に見へたる處稀なり』とあるのを由来とする(但し、清重は特に失脚した感じはしない。ウィキの「葛西清重」を参照されたい)。

「尾藤ケ谷」一説に山内(やまのうち)管領屋敷の向かいで、浄智寺の東の谷を指すとし、「尾頭谷」とも書くとするが比定地としては確かではない。一説に北条得宗家令であった尾藤左衛門将監景綱(北条泰時に若い頃から近侍して栄達、貞応三・元仁元(一二二四)年に内管領の前身ともいえる家令が新設されると、その初代として抜擢された。「吾妻鏡」の記述によれば、この時既に泰時の邸宅の敷地の内に住居を構えていたとされる。また泰時の後見人も務めていたと思われ、朝廷との折衝・御家人の統制に貢献、条例制定、義時追福の伽藍建立など、様々な行事の奉行を務めて、泰時の懐刀として活躍、病いを得て病没する前日である天福二(一二三四)年八月二十一日まで家令を務め、没後も尾藤氏は代々鎌倉幕府内で御内人を輩出する家系として繁栄した(ここはウィキの「尾藤景綱」に拠る)の邸跡と伝えるもかなり怪しい。私は北条得宗家令となった彼が「既に泰時の邸宅の敷地の内に住居を構えていた」点や、死の前日まで現職に就いていたことなどを考えると、彼がこんなところに自邸を構えていたとは少し信じ難いのである。事実、「吾妻鏡」の彼の関連叙述を見ると、彼の屋敷は大倉幕府のすぐ近くにあったとしか読めないからである。

「瓜ケ谷」「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄」の「比企ケ谷」の条の中には、比企『禪尼の瓜薗を作りけるゆへにや、此邊を瓜ケ谷と地名せしか、中古以來其唱へはなけれども、文明の頃迄は稱したるゆへ、道興准后【廻國雜記】にまづ谷とを人に尋ね侍りてよめる、うりが谷にて、   ひと夏はとまりかくなり暮過て、冬にかゝれる瓜かやつ哉』と記すのであるが、現在、この地名で比企ヶ谷が呼ばれることはなく、それに対して、秘かに私の愛しているやぐらの中に「瓜ヶ谷やぐら群」があり、鎌倉好きならば即座にここを思い浮かべるはずである。葛原ヶ岡から大仏へ抜けるハイキング・コースの葛原岡神社を過ぎて浄智寺へと向かう途中の踏み分け道を北側に下りた辺りにこのやぐら群はあり、ここが現在、知られているところの瓜ヶ谷である。筆者もここを比定しているものと考えてよい。このやぐら群は現認では五穴から成り、鎌倉期のやぐらとして認定されている(地蔵菩薩像が安置されている一穴を特に「地蔵やぐら」と呼称する)私は二十の頃、初めて八重葎をかき分けてここに行ったのだが、やぐらの内陣の壁面に鳥居や五輪塔などがはっきりと彫られてあって(当時は非常に明確に見てとれた)、その荒れ果て忘れられたような周囲との落差に(一応当時から市指定史跡ではあったが)、何んとも言えぬ激しいショックを受けたことを忘れない。

「蛇居ケ谷」これはこれで「じゃくがやつ」と読む。ハイキングコースの浄智寺と葛原岡の間、丁度、海蔵寺裏手に当る箇所にある古い切通しがある辺りの谷戸名である。サイト「鎌倉探索」の「海蔵寺」(但し、この切通しへは海蔵寺境内からは直接は行けず、少し迂回をする必要がある)を参照されたい(現況画像有)。

「桑ケ谷」「鎌倉事典」に露座の長谷大仏に向かって、左側にある小さな谷戸で、『かつて極楽寺忍性が』ハンセン『病患者のために施療院を建てた所と伝える』とある。

「馬塲ケ谷」極楽寺から大仏坂方面に向かう谷戸。山塊が左右から迫っており、現在は狭い道に民家が密集している。それでも、いや、それだからこそ車の喧しきなき鎌倉散策をするに私の好きな谷戸ルートの一つである。

「月影ケ谷」恐らく鎌倉の谷戸名で最も美しいものと私は思っている。極楽寺の西奥の谷で冷泉為相の母阿仏尼の「十六夜日記」にある、

   *

あづまにて住む所は、月影の谷(やつ)とぞいふなる。浦ちかき山もとにて風いとあらし。山寺のかたはらなれば、のどかにすごくて、浪の音、松の風絶えず。

   *

とある棲家はここと伝えられているのも、この名の由来に相違あるまい。

「辨ケ谷」紅ヶ谷とか別ヶ谷などとも表記する。材木座の東方、補陀落寺の東北を入った谷戸である。「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄」には、

   *

辨ケ谷 材木座の東なる谷をいふ。或記に別ケ谷ともいえりと。是は介の唐名を別駕といふ、千葉介の宅地の邊ゆへ、別駕を略し別ケ谷と稱すといえり。按ずるに千葉介は此邊には住せず、長谷小路より東の方に舊跡あり。爰よりは佐竹の舊跡へ近ければ、彼家にても常陸介又は上總介などを名乘りしかば、彼家は係りてのことにや覺束なし。千葉介にはあらず。又一説に言へば、紅ケ谷と唱えしゆへ、文明中道興准后の記に、べにが谷にてよめる。

 かおにぬるべにかやつより歸りきて早くも越るけはひ坂哉

   *

とある。この「廻国雑記」の歌は群書類従版では、

 

 顏にぬる紅が谷よりうつりきて早くも越ゆるけはひ坂かな

 

で、遙かにいい。

「桐谷」「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄」には、『經師ケ谷の東の谷をいふ』とのみある。これは「辨ケ谷」の南で、現在の材木座の光明寺から長勝寺の辺りに比定されるようだが、それらしい谷戸を現認出来ない。なお現在、「桐が谷」(きりがやつ/きりがや)と呼称する淡紅色で主に八重咲きの、最高級品種とされる桜があるのであるが、この花は実はここ桐ヶ谷にかつて植生していたことに由来するという(未確認であるが静岡県三島市にある遺伝学研究所発行の資料によるものらしく、確度は高い)。

「釋迦堂ケ谷」釈迦堂切通の北方の谷、「大御堂ケ谷」の東にあった小さな谷の、その東の谷とする(「鎌倉事典」)。ここには北条泰時が父義時の菩提を弔うために建立した釈迦堂があったと伝えられるが、現在ではその遺構その他は見つかっていない。(ここの本尊であった清凉寺式釈迦像は後に杉本寺へ移った後、今は東京の目黒行人坂にある大円寺に現存している)。

「宅間ケ谷」浄明寺地区の東方、現在、報国寺の建つ谷戸。報国寺自体、古くは宅間寺と呼ばれていた。「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄」には、『古え宅間左近將監爲行と稱し、將軍家の繪所なるものゝ住せし地なるゆへ地名に傳ふ。足利家の世となりて、宅間法眼淨宋と稱する佛師ありしも、爲行か子孫なるべし』と記す。「宅磨左近將監爲行」(生没年未詳)とは、文治元(一一八五)年、頼朝が勝長寿院本堂の壁画浄土瑞相及び二十五菩薩を描かせた、『無雙畫圖繪達者』と「吾妻鏡」が絶賛した宅間為久の子と考えられる人物で、将軍頼経に仕え、「吾妻鏡」寛喜三(一二三一)年十月六日の条に、頼経が五大堂建立予定地に於いて『宅磨左近將監爲行を召し、之を圖繪』させたという記載がある。人物。次の「宅間法眼淨宋」は不詳であるが、現在、杉本寺にある毘沙門天像は伝宅間法眼浄宏作とするが、この誤植であろうか。孰れにせよ、鎌倉中期以前からの古地名であったと考えてよい。

「犬懸谷」先の「山巓」に出た「衣張山」の東側に金沢街道方向から延びる谷。「鎌倉攬勝考卷之一」の「谷名寄」に、

   *

犬懸谷〔或ひは「駈」に作る。〕 釋迦堂谷の東に隣る。此所の山合に嶮路の間道有て、名越へ出る。【平家物語】に畠山が三浦を攻し時、三浦小次郎義茂鎌倉へ立寄りしに、合戰の事を聞て、馬に乘て犬懸坂を馳越し、と有は爰の事なり。或説に、此所に衣掛(キヌカケ)山といふあり。前篇に出せり。犬懸も實は衣掛なりといふ。相似たる事なれど、いまざ慥成説を聞ず。足利家の世となり、尊氏將軍の命に依て、上杉の庶流なる中務犬輔朝宗、初て此地に住し、地名をもて犬懸の上杉と稱せり。是は扇谷の始祖、上杉左馬助朝房の舍弟の家なり。

   *

とあり、私も「犬懸」と「衣掛」は同一の地名で、しかも「衣張山」の「衣張」も「衣掛」と同一と考えている。「【平家物語】に」とあるが、これは正確には「源平盛衰記」とすべきで、「畠山が三浦を攻し時」というのは「小坪合戦」若しくは「由比ヶ浜合戦」と呼ばれるものを指す(詳細はリンク先の私の当該注を参照のこと)。]

「胡桃谷」浄妙寺の東の谷戸。「山巓」で述べた、その北に位置する瑞泉寺南の胡桃山に由来。やはり述べた通り、宅地浸食によって自然景観は殆んど失われている。

「十二郷谷」「新編鎌倉志」のプロトタイプともいうべき「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」に、

   *

   十二郷谷〔十二所村トモ云〕

淨妙寺ヨリ東南ノ谷、民家三軒今ニアリ。川越屋敷ト云ハ十二郷谷ノ東隣也。

      *

とある。但し、この「十二所村トモ云」は誤認で、この位置は十二所のずっと下流の浄明寺川の上流部である。この「川越屋敷」の川越とは河越重頼(?~文治元(一一八五)年)のことと思われる。武蔵国入間郡河越館の武将で新日吉社領河越荘の荘官で、頼朝の命で義経に娘(郷御前)を嫁がせた結果、後の源氏兄弟の対立に巻き込まれて誅殺されている。但し、ここに彼の屋敷があったという事実を証明するものは全くない。

「泉水谷」浄妙寺の裏山の山腹にある熊野神社の東側の谷か。

「泉ケ谷」先に出たものと同名異谷。金沢街道が十二所神社を過ぎて、旧朝比奈切通しに分岐するところに泉橋があり、ここから北へ延びる細長い谷をこう呼称した。現在は……鎌倉霊園のど真ん中を流れる水路がその名残である。……

「明石ケ谷」光触寺に向かう右方の谷。現在、ここの胡桃川(滑川上流の呼称)に明石橋が架かり、この谷戸の尾根を越えた西方を抜け、東泉水を経て久木に抜ける道路が、完膚なきまでに宅地浸食とした景観とともにある。

「七曲リ谷」朝比奈旧切通しを鎌倉側から少し行ったところで、旧切通しルートから外れて直進した辺りの谷戸名。ここも知っている人は少ない。私も二度行ったきりである。現在は個人の果樹園がある。「鎌倉以降探索」の「十二所七曲」を参照されたい。私が行ったのは初春で私の心も屈託していたから、ここに見るような開けたしかも抜けるように明るい映像の記憶がない。必見。

「牛蒡ケ谷」十二所光触寺の北、十二所神社の社前まで広がる、かなり広域な谷戸名。以下に出る谷戸をも包含するものととった方がよいと思われる。「鎌倉事典」には、『牛蒡ケ谷はあて字で、一説には大慈寺の僧坊のあった所なので御坊ケ谷の転訛ともいう。谷入口には御坊の井がある』とある。

「多々羅ケ谷」不詳。次注参照。

「積善ケ谷」不詳。但し、この十二所に住んでおられる kawaiimuku 氏のブログ「一去一来 一日一歌」の「鎌倉ちょっと不思議な物語115回」に、

   《引用開始》

私が住んでいる鎌倉の十二所は、鎌倉時代には「山之内庄」「大倉郷」などと称したこともあったらしい。里人たちによると字の家数がたまたま12だったので十二所となったとか、当所の小字に和泉谷、太刀洗、七曲、タタラヶ谷、宇佐小路、明石、積善、二ヶ橋、稲荷小路、番場ヶ谷、吉沢、関ノ上の12箇所があるのでこの名がついたとか諸説ある。

   《引用終了》

とあり、「多々羅ケ谷」も「積善ケ谷」も確かに十二所に存在した谷戸名であったことが分かる。感触的にはやはり鎌倉霊園によって消失した幻の谷ではなかろうか?(但し、kawaiimuku 氏の記載順から見ると、胡桃側の南側のようでもある)……それにしても「タタラ」「積善」……何かいわくあり気で、ソソルヶ谷(やつ)也……

「番塲ケ谷」「ばんばがやつ」と読む。私の偏愛する十二所の谷戸。……ここなら、何時でもご案内しよう。……まず、「鎌倉アルプス」の団塊世代の百足のような塊の集団跋渉とは無縁な、幽邃な自然境である。ここには「お塔が窪」と呼ばれ、「北條高時の首やぐら」と伝えるやぐらがあり、内部には鎌倉で最も古式の形態を伝える宝篋印塔(籾塔と呼称される)がある。……しかし……ここについてのみは……具体的なルートと位置を明かさない。……濫りに多くの人には立ち入って欲しくない、鎌倉の最後の(と同時に驚くほど簡単に行ける)秘境と呼ぶに相応しい谷戸の一つだからである……]

耳嚢 巻之九 上手の藝其氣自然に通る事――電子化始動記念 附 謡曲「葵上」全曲

耳嚢 卷之九

 

 上手の藝其氣自然に通る事

 

 明和安永より天明の頃まで專ら亂舞(らつぷ)の上手と唱へし、金春太夫(こんぱるたいふ)、脇師(わきし)寶生新之丞(ほうしやうしんのじよう)兩人の事を人の語りけるは、金春太夫或時葵の上の能の時、新之丞脇をなせしが、葵の上のシテきぬをかづき、両手に持(もち)て立(たち)かゝりし有樣、面は見えざれども、襟元よりぞつとせし由。金春は上手成(なり)と、新之丞申(まうし)ける由。其頃の事にてありしか、怨靈事にて新之丞珠數押しもみて祈りしに、自然とシテの頭へ響(ひびき)、頭痛のごとく覺えける。新之丞はわきの名人なりと、金春かたりしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:卷之八末尾との連関はない。お馴染みの能役者の芸譚。短いが、個人的に非常に好きな話柄である。私の観た数少ない能の中でまさにこの金春流の「道成寺」の乱拍子を忘れられないのである。……あの時、私はまさに息を呑んで見、苦しくなって息をしたのを思い出す。……まさに能役者にドゥエンデが降りた時、観客も呑み込まれて、狂言方の一人となって、真に慄然とするのである。……「道成寺」は――役者を志したこともある私の観劇史の中の辛口印象にあっても――

――アントニオ・ガデスの「血の婚礼」

――転形劇場の「水の駅」

に並ぶ、数少ない忘れ難き震撼の目くるめく名舞台、いや、超自然の異空間であったと断言する。……

・「明和安永より天明の頃」西暦一七七二年から一七八九年。「明和」は一七六四年から一七七一年、「安永」は一七七二年から一七八〇年、「天明」は一七八一年から一七八九年にほぼ相当する。

・「亂舞」「らんぶ」と読んでもよい。狭義には中世の猿楽法師の演じる舞、また、近世では能の演技の合間に行われる仕舞などをいったが、ここは広義の能の意。

・「金春太夫」岩波版長谷川氏注によれば、金春信尹(のぶただ)とする。彼については「耳嚢 金春太夫の事」で底本の鈴木氏の注に金春十次郎信尹(天明四(一七八四)没)が出、これは先の「明和安永より天明の頃」に一致する。リンク先の私の注を見て戴くと分かるが、「古今の名人」と称されるに足る稀代の能役者であった。生年が分からないのが残念であるが、感触としては「寶生新之丞」よりも年上であろう。

・「脇師」能楽でワキの役を演ずる者。脇太夫(わきたゆう)。

・「寶生新之丞」宝生英蕃(ほうしょうひでしげ 宝永七(一七一〇)年~寛政四(一七九二)年)のこと。宝生流能役者ワキ方。四世新之丞。享年八十三歳。

・「葵の上」「源氏物語」の「葵」の帖に取材したもので、世阿弥が手を入れた古作の能とされる。主題の傑出さ・詞章や作曲の流麗さ・演出の変化のどれをとっても謡曲中人気第一の曲である。シテは六条御息所の生霊であって、題となっている葵の上自身は一切登場せず、彼女は生霊に祟られて寝込んでいることを、舞台正面先に延べられた一枚の小袖(「出し小袖」という)で表現するという能ならではの演出がなされる。ウィキの「葵上」によれば、『六条御息所は賀茂の祭の際、光源氏の正妻である葵の上一行から受けた侮辱に耐え切れず、生霊(前ジテ)となって葵上を苦しめているのである。薬石効なく、ついに修験者である』横川(よがわ)の小聖(こひじり)が呼ばれて祈禱が始まると、『生霊は怒り、鬼の姿(後ジテ)で現われるが、最後は般若の姿のまま、法力によって浄化される場面で終わる』というシノプシスである。最後に調伏された後、改めて御息所の魂が迷妄から得脱するというクライマックスが用意されており、原作とは激しく異なった頗る戯曲的な構成を持つ。なお、この注を書くためにも参考にさせて戴いた増田正造氏の「能百番 上」(平凡社一九七九年刊)によると、改作の結果、『当初前シテに伴って出ていた青女房の生霊の役が、舞台に登場しなくなっているのに、その謡をすべてツレに謡わせているため、戯曲的には混乱がある』とある。詞章を読む限り、確かにそれは疑問として感じた。実は私は生の本作の舞台を見たことが残念なことに、ないために、この新之丞が心底慄っとしたという決定的シーンが作中の何処であるかを明確に指示出来ないという痛恨の恨みがある。しかし、だからといってこの注をこのままに終わらせる訳にはいかない。……それは言うなら……御息所の執念のようなものである。……そこで、まずは、

――「葵上」本文(ほんもん) これ 掲ぐるに若くはなしてふ思ひを遂げざること能はず――

である(以下を読むのが面倒な方は個人サイト「和子 源氏物語」のこちらに、詞章と現代語訳などが載る)。

 本文の基準底本は新潮日本古典集成伊藤正義校注「謡曲集 上」のそれに拠り乍ら、恣意的に正字化し、読み表記も歴史的仮名遣とした。表記の一部も変更・省略(形(かた)の名その他)してある。特に読みは私が振れるものと判断したもののみに限り、初出の読みに変更のない場合は、再掲された語にはつけていない。底本の伊藤正義氏によるト書き部分は、それを参考にしつつ、【 】で一部を少しいじったものを出してある(著作権上の問題があるが、ここではどうしても考証に必要なので敢えて以上のようにした)。禁欲的に底本の頭注やネット上の「能楽用語事典」などを参考にしながら注を挟んだが、故実の基づく部分(例えば冒頭の「三つの車にのりの道 火宅の門(かど)をや出でぬらん」が、羊と鹿と牛に牽かせた三つの車が仏法の教えの換喩で、それに乗って火宅(迷いの世界)から解脱したという「法華経」に基づく章句でありながら、実は牛車に乗って登場する六條御息所生霊のその怨執の深さを逆に表象するものであることなど)などは底本注その他をお読み戴きたい。登場人物は以下の通り。

 

前シテ  上﨟 実は 六条御息所(ろきじょうのみやすどころ)生霊

後シテ  鬼女 六条御息所生霊

ワキ   横川の小聖

ワキツレ 朱雀院の臣下

ツレ   梓巫女(あずさみこ)たる照日(てるひ)の巫女(みこ)

アイ   左大臣の従者

 

[やぶちゃん注:梓巫女は、巫女の名称で、実際には関東地方から東北地方にかけて分布する。梓弓は万葉の古えより霊を招くために使われた巫術のための呪具で、この弓の弦を鳴らしつつ、「カミオロシ」「ホトケオロシ」(口寄せ)をしたことから、「アズサミコ」の名がおこった。津軽地方の「イタコ」は「いらたか念珠」を繰ったり、弓の弦を棒でたたいたりしてトランス状態になる。また、陸前地方の巫女である「オカミン」は「インキン」と称する鉦(かね)を鳴らしつつ入神する(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。「いらたか」は「葵上」本文にも出る語であるが、同じく「世界大百科事典」には、「最多角」「伊良太加」「刺高」などと書き、角(かど)のある百八つの珠を用いた数珠のことで、主に修験者が使用する。通常、仏教では数珠を揉む際には音を立ててはならないとされているが、修験道にあっては悪魔祓いの目的で読経や祈禱の際、この数珠を両手で激しく上下に揉んで音を立てる。「いらたか」とは角が多い意だ、とする説もあるが、一般には揉み摺る音の高く聞こえることに由来するとされる、とある。]

 

   *

 

 葵上

 

【後見、舞台正面に小袖を広げて敷く。ワキツレ、アイを従えて登場、常座に立つ】

ワキツレ

「そもそもこれは朱雀院(しゆじやくゐん)に仕へ奉る臣下なり さても左大臣のおん息女 葵上(あふひのうへ)のおん物(もの)の怪(け) もつての外にござ候ふほどに 貴僧高僧を請(しやう)じ申され 大法秘法(だいほふひほふ)醫療さまざまのおん事にて候へども 更にその驗(しるし)なし ここに照日の巫女と申して 隱(かくれ)なき梓の上手の候ふを召して 生靈死靈(いきりやうしりやう)の間(あひだ)を梓に掛けさせ申せとのおん事にて候ふほどに このよしを申し付けばやと存じ候

ワキツレ

「いかに誰(たれ)かある 照日の巫女を召して參り候へ」

【アイ、ツレを呼び出し、ツレ、登場して脇座に着座】

【「アヅサ」の囃子(本作に特長的な霊が憑依した梓巫女を表現するもの)始まる】

ツレ【着座のまま】

〽天淸淨(てんしやうじやう)地淸淨 内外(ないげ)淸淨 六根淸淨

〽寄り人(びと)は 今ぞ寄り來る長濱の 蘆毛(あしげ)の駒に 手綱搖り掛け

【「一セイ」(シテが登場する直後などに謡われる短い謠)でシテ登場、一ノ松に立つ。】

シテ【正面へ向き】

〽三つの車にのりの道 火宅の門(かど)をや出でぬらん

〽夕顏の宿の破(や)れ車 【涙を押さえつつ】遣る方なきこそ悲しけれ

【「アシライ」(「会釈」と表記。多様な場面で用いる能用語で基本的には「応対する」の意。演技では相手に身体を向けて正対する所作を、囃子方の用語ではその場の状況を見ながら比較的柔軟に付かず離れずの伴奏をすることをいう。ここは後者)で舞台に入る。】

シテ【常座に立ち】

〽憂き世はうしの小車(おぐるま)の 憂き世はうしの小車の 廻(めぐ)るや報ひならん

シテ【正面へ向き】

〽およそ輪廻は車の輪のごとく 六趣四生(ろくしゆししやう)を出でやらず 人間の不定(ふぢやう)芭蕉(ばせを)泡沫(はうまつ)の世の慣(な)らひ 昨日の花は今日の夢と 驚かぬこそ愚かなれ 身の憂きに人の恨みのなほ添ひて 忘れもやらぬわが思ひ せめてやしばし慰むと 梓の弓に怨靈(をんりやう)の これまで現はれ出でたるなり

シテ【面を伏せ】

〽あら恥かしや今とても 忍び車(ぐるま)のわがすがた

シテ【正面へ向き】

〽月をば眺め明かすとも 月をば眺め明かすとも 月には見えじかげろふの 梓の弓のうらはずに 【葵上に迫る体(てい)】立ち寄り憂きを語らん 立ち寄り憂きを語らん

シテ【右を向き、音を聴く体】

〽梓の弓の音(おと)はいづくぞ 【正面を向いてなお音を聴く】梓の弓の音はいづくぞ

ツレ

〽東屋(あづまや)の 母屋(もや)の妻戸(つまど)に居たれども

シテ

〽姿なければ 【涙を押さえる】問(と)ふ人もなし

ツレ【シテへ向き】

〽不思議やな誰とも見えぬ上﨟(じやうらふ)の 破(やぶ)れ車に召されたるに 靑女房と思しき人の 牛もなき車の轅(ながえ)に取りつき 【シテ、何度も涙を押さえる】さめざめ泣き給ふ痛はしさよ

ツレ【ワキツレに向かい】

「もしかやうの人にてもや候ふらん」【ワキツレには見えない】

ワキツレ【ツレを向き】

「大方は推量申して候 ただ包まず名をおん名乘り候へ」【シテ、涙を押さえていた手を下して、真中へ出る】

シテ【真中で小袖を見まわしつつ、坐す】

〽それ娑婆電光(しやばでんくわう)の境(さかひ)には 恨むべき人もなく 悲しむべき身もあらざるに 【涙を押さえ】いつさて浮かれ初(そ)めつらん【ツレ、シテへ向く】

シテ【着座のまま】

〽ただいま梓の弓の音に 引かれて現はれ出でたるをば 如何なる者とか思し召す 【シテ、ツレへ向く】これは六條の御息所(みやすどころ)の怨靈なり【ツレ、ワキツレへ向く】 われ世に在りしいにしへは【ワキツレ、ツレへ向く】 雲上(うんしやう)の花の宴(えん) 春の朝(あした)の御遊(ぎよいう)に馴れ 仙洞(せんとう)の紅葉(もみぢ)の秋の夜は 月に戲(たはぶ)れ色香(いろか)に染(そ)み 花やかなりし身なれども 衰へぬれば朝顏の 日影待つ間(ま)の有樣なり【面を伏せる】 ただいつとなきわが心【じっくりと面を上げ】 ものうき野邊(のべ)の早蕨(さわらび)の 萌え出で初めし思ひの露 かかる恨みを晴らさんとて これまで現はれ出でたるなり【シテはツレへ、ツレはワキツレへ向く】

〽思ひ知らずや世の中の 情は人のためならず

地【シテ、正面を向く】

〽われ人のため辛(つら)れければ われ人のため辛(つら)れければ 必ず身にも報ふなり【シテ、面を伏せるが】 なにを歎くぞ葛(くず)の葉の【キッと腰を上げて小袖を見据え】 恨みはさらに盡きすまじ 恨みはさらに盡きすまじ【腰を下ろして涙を押さえる】

シテ【涙を押さえた手を下ろし】

〽あら恨めしや。「今は打たでは叶ひ候ふまじ【腰を上げて小袖を見込み】

ツレ【座のまま、シテへ】

〽あらあさましや六條の御息所ほどの御身にて 後妻(うはなり)打ちのおん振舞ひ いかでさる事の候ふべき ただ思し召し止(と)まり給へ

[やぶちゃん注:「後妻打ち」前妻(こなみ)が後妻(うわなり)を嫉妬して打ちたたくこと及び、暗黙のうちに許容されていたそうした習俗を指すが、能の成立した室町期には、離縁になった先妻が後妻を妬んで親しい女たちと隊を組み、後妻の家に押しかけて乱暴狼藉を働く風習に発展している。そうした当代の習俗をも踏まえての謂いと考えてよかろう。]

シテ【シテ、ツレに向かい】

「いやいかに言ふとも 今は打たでは叶ふまじと【立ってツカツカと小袖に近づき】 枕に立ち寄りちやうど打てば【扇を以って打ち、常座へ戻って立つ】

ツレ

〽この上はとて立ち寄りて わらはは後(あと)にて苦(く)を見する

シテ

〽今の恨みはありし報ひ

ツレ

〽嗔恚(しんい)の炎(ほむら)は

シテ

〽身を焦がす

ツレ

〽おもひ知らずや

シテ

〽思ひ知れ【扇で小袖を指し、足拍子を踏む】

〽恨めしの心や【シテ、また数拍子を踏む】 あら恨めしの心や 人の恨みの深くして【目付へ出て】 憂き音(ね)に泣かせ給ふとも 生きて此世にましまさば【廻りながら扇を広げ】 水闇(くら)き澤邊(さはべ)の螢の影よりも【扇を翳して螢を追って見廻し】 光る君とぞ契(ちぎ)らん【正面の彼方を眺め】

シテ

〽わらはは蓬生(よもぎふ)の【扇を撥ね揚げ、騒ぐ心で】

〽本(もと)あらざりし身となりて【シテ、舞台を廻り】 葉末(はずゑ)の露と消えもせば それさへ殊に恨めしや【シテ、常座で恨みの心を嚙み締め】 夢にだに【シテ、数拍子】 返らぬものを我が契り【大小前から小袖の前へ進み】 昔語(むかしがた)りになりぬれば なほも思ひは増鏡(ますかがみ)【小袖を見廻し、舞台を廻り】 その面影も恥かしや【扇を抱えて面を隠す】 枕に立てる破(や)れ車【扇を捨て】 うち乘せ隱れ行かうよ うち乘せ隱れ行かうよ【真中へ出て小袖を見つめて魂を奪う体にて、着ている唐織(からおり)を被き、小袖に覆い被さって、そのまま、身を伏せ、後見座に行く】

[やぶちゃん注:「唐織」女役に用いる小袖の表着(裏地がついた袷)で能装束を代表する豪華絢爛なもの。]

【物着(次の段の間に後場の扮装を整える)】

ワキツレ

「いかに誰かある

アイ【真中で膝まずき】

「おん前に候

ワキツレ

「葵の上のおん物の怪いよいよ以ての外に御座候ふほどに 横川(よかは)の小聖(こひじり)を請じて來たり候へ

アイ

「畏(かしこ)まつて候

アイ【常座に立ち】

「やれさて 葵の上のおん物の怪 やうやうご本復(ほんぷく)なさるるかと存じたれば ご違例もつての外(ほか)な まづ急いで横川へ參り 小聖を請じて參らうと存ずる

アイ【一ノ松に立ち】

「いかにこの屋(や)の内へ案内し候

ワキ【幕を出、三ノ松に立ち】

〽九識(くしき)の窓の前 十乘(じふじやう)の床(ゆか)のほとりに 瑜伽(ゆが)の法水(ほつすゐ)を湛へ 三密(さんみつ)の月を澄ますところに 案内申さんとはいかなる者ぞ

アイ

「大臣(おとど)よりのおん使ひに參じて候【膝まづいて】 葵の上のおん物の怪 もつての外にござ候間 おん出でなされ加持ありて給はり候へ

ワキ

「この間は別行(べつぎやう)の子細あつて いづかたへも罷り出でず候へども 大よりのおん使ひと候ふほどに やがて參らうずるにて候

[やぶちゃん注:「この間は別行の子細あつて」この度は特別の修法(ずほう)を執り行っておったがために。]

アイ【舞台に戻り、ワキツレに】

「小聖を請じ申して候

ワキツレ【その場に立ち、ワキへ】

「ただいまのおん出でご大儀にて候

ワキ【常座に立ち】

「承り候。さて病人ないづくにござ候ふぞ

ワキツレ

「あれなる大床(おほゆか)にござ候

ワキ【小袖を見て】

「さらばやがて加持(かぢ)し申さうずるにて候

ワキツレ

「畏まつて候

【ワキツレは着座、ワキは大小前にて膝ずいて数珠をとり出して祈禱の準備を整える】

【「ノット」(祝詞(のりと)の意。神職や巫女の役が神を祭って祈るときに神前で謠うもの。本職の祝詞に似せたものともいわれ、謠では低音域を中心に拍子に合わせずに謠う。「ノット」を謠う際に奏する囃子方の手組(リズムとパターン)も同じ名称で、小鼓が拍を刻むように打ち続けるのが特徴的で、笛と大鼓が入る)の囃子が始まるとワキは真中へ出でて小袖の前に着座】

【ワキの謠が始まるとシテは唐織を被いて舞台に入り、ワキの後ろへ出て身を伏せる】

ワキ

〽行者(ぎやうじや)は加持に參らんと 役(えん)の行者の跡を繼ぎ 胎金両部(たいこんりやうぶ)の峰を分け 七宝(しつぱう)の露を払ひし篠懸(すゞかけ)に 「不淨を隔つる忍辱(にんにく)の袈裟(けさ) 赤木(あかぎ)の數珠(じゆず)のいらたかを さらりさらりと押し揉んで ひと祈りこそ祈つたれ 曩謨三曼縛曰羅赦(ナマクサマンダバサラダ)

【シテ、身を起こしてワキを見込み、ワキがシテに向かって祈ると身を伏せる】

【「祈リ」(怒り狂う鬼女(シテ)に対して僧又は山伏(ワキ)が法力で対抗、鬼女が祈り伏せられるまでをあらわす働き事(囃子を伴う所作のこと)の一つ。笛・小鼓・大鼓・太鼓で奏する。特に、太鼓が打つ「祈リ地」という手組と、ワキが数珠を擦って祈り続ける音が「祈リ」の雰囲気を作り出す)】

【シテ、立つ。鬼女の姿。唐織を腰に巻き、打杖(うちづえ:能では鬼・天狗・龍神などが神通力などを使うために持つ杖。)を振り上げ、ワキの祈りに対抗、一進一退の後、シテは葵上(小袖)に憑りつこうとするも、ワキがそれを数珠で打ち据えて、シテは膝をつく】

シテ【打杖を逆に構えて】

〽いかに行者はや歸り給へ 歸らで不覺し給ふなよ

ワキ

〽たとひ如何なる惡靈なりとも 行者の法力(ほふりき)盡くべきかと 重ねて數珠(じゆず)を押しもんで

【シテ、立ち上がる。以下、謠に合わせ、争いが続く】

ワキ

〽東方(とうばう)に降三世明王(がうざんぜみやうわう)

シテ

〽南方軍荼利夜叉(なんばうぐんだりやしや)

ワキ

〽西方大威德明王(さいはうだいゐとくみやうわう)。

シテ【数拍子】

〽北方(ほつぱう)金剛

〽夜叉明王

シテ【足拍子】

〽中央大聖(ちうあうだいしやう)

〽不動明王 曩謨三曼陀縛曰羅赦(ナマクサマンダバサラダ) 旋陀摩訶嚕遮那(センダマカロシヤナ) 娑婆多耶吽多羅※干*(ソハタヤウンタラタカンマン) 聽我説者得大智慧(チヤウガセツシヤトクダイチヱ) 知我身者即身成佛(チガシンシヤソクシンジヤウブツ)

[やぶちゃん字注:「※」=「口」+「乇」。「*」=「牟」+「含」。]

【シテ、ワキへ打ちかかる。しかし敗退し、常座に安座、打杖を、捨てる】

シテ【両手で耳を塞ぎ】

〽あらあら恐ろしの 般若聲(はんにやごゑ)や

地【シテ、ワキへ向き】

〽これまでぞ怨靈 この後(のち)またも來たるまじ

地【シテ、広げた扇をはね掲げつつ立ち】

〽讀誦(どくじゆ)の聲を聞くときは 讀誦(どくじゆ)の聲を聞くときは 惡鬼(あくき)心を和らげ 忍辱慈悲の姿にて 菩薩もここに【シテ、足拍子】來迎(らいがう)す 成佛得脱(じやうぶつとくだつ)の【シテ、常座で合掌して】 身となり行くぞありがたき【シテ、脇正面を向いて留拍子】 身となり行くぞありがたき

 

   *

 

 さて、幸い、私には、金春流の謠を習った教え子がいる(因みに彼は、私に先に示した驚愕の金春の「道成寺」へと招待して呉れた人物でもある)。そこで、本「耳嚢」の前半の「葵上」のシーンを読んで貰い、決定的なその箇所について考察して貰った。以下、それを本人の承諾を得て引用しておく。

 

   《引用開始》

 

 金春太夫(シテ)が、『きぬをかづき、両手に持て立かゝり』『面テは見え』ない状態なのに新之丞(ワキ)をぞっとさせた場面。それは、物着(一曲の前半と後半を分ける扮装変えの場面)の直後、シテの生霊とワキの横川の小聖の死闘が始まる段以外には考えられません。本性をあらわしたシテを、ワキが初めて眼にする瞬間です。それは、祈りの言葉が響く中でシテがゆっくり顔を上げたその一瞬のことでしかありません。しかも唐織の陰に隠された般若の面相は、ワキの眼にはっきり映らない。衣を被ぎ、両手に持って立ちかけたその姿の奥、暗い翳のうちに、ただ襟元が鈍く光るばかりです。顔も見えないのに、唐織の翳に恐ろしいものが潜んでいることが体感され、背筋を凍らせる――まさに……ここです。詞章で言いましょう。下記の段です。

 

ワキ

〽赤木(あかぎ)の珠數(じゆず)のいらたかを さらりさらりと押しもんで ひと祈りこそ祈つたれ 曩謨三曼縛曰羅赦(ナマクサマンダバサラダ)

【シテは身を起こしてワキを見込み、ワキがシテに向かって祈ると身を伏せる】

 

 この決定的な箇所が、いかなる緊張状態のうちに到来するかを知らねばなりません。次のような展開が前提にあります。怨霊折伏のために横川の小聖が呼ばれ、祈祷を依頼する云々のやり取りが進行する中、シテは後見座の前(舞台の左奥)で唐織を引き被ったまま後ろを向き、後見の助けを借りて面を泥眼から般若に掛け替えます。生霊が本性をあらわす準備です。直後に祈禱が始まります。と同時に、舞台の左奥で背中を向けて蹲っていたシテがゆっくりと腰を上げます。といっても唐織を被った姿勢を崩さず、上半身は屈んだままです。そうして、おもむろに正面に向き直ります。能の体捌きというものは身体の軸を滅多なことで捻ってはなりません。身体ごと彫像のようにゆっくり前に向き直るのです。そのあと、上体を伏せたまま、じわりじわりと前に出てきます。その間、唐織を引き被ったままですので、般若の面は衣の陰に隠れてまず見えません。何だか分からないけれども恐ろしいものが、病人と、横川の小聖と、そして我々にゆっくり着実に近づいてくるのです!そうして臥せっている葵上のすぐ手前、すなわち横川の小聖のすぐ横に達し、再び蹲ります。私が上記の通り同定した「葵上」の決定的な箇所は、これに続くものなのです。

 

 私は思います。能は、孤独な個々の見者に対し、強烈な自己投影を求める芸能だと。六条御息所の生霊がその鬼相をあらわし、臥せっている葵上に襲い掛かります。寝込んでいる葵上は舞台に置かれた小袖で表現されますので、そのつもりで観ないと何のことやらわかりません。また、六条御息所の生霊が病人と小聖に近づいてくるのも、ぼんやり眺める迂闊な観客にとっては、単に衣を被り顔を隠した鬼がゆっくり前に出てくるだけです。ところが、衣を引き被ってゆっくり近づいてくる顔の見えないシテを、憎悪と嫉妬と哀しみに凝り固まった人間であると信じて凝視し続ける。すると舞台上のシテが、情念そのものに感じられてくるはずです。そして、はっと気づくのです。自分が目前にしている何か恐ろしいものは、六条御息所であると同時に、実は自分のこころの中の憎悪、嫉妬、哀しみの投影なのだと。シテは別に何か派手な動作をするわけではない。決して喚いたり、激しい立ち回りを演じたりしない。ただ単に、しかし揺るぎなく立っているシテ……。そして……だからこそ、です。観る者が全力でシテに自分をぶつけたとき、どんなに恐ろしく、美しく、哀しい情念そのものが、舞台上にゆらりと立ち現れるか!――そう、能を観るとは、恐らく、舞台に映る自分のこころを観ること、なのです……。

 能は、あからさまに表現しようとしない瞬間にこそ、深い表現が成立することが多い。「井筒」に居グセという、シテが動かない一段があります。そこに匂い立つ懐旧の情趣たるや、シテが井戸の水鏡を覗き込む一曲のクライマックスに決して引けを取りません。また、「頼政」で床几に腰掛けたシテが合戦の物語をする場面があります。彼はただじっと座り昔を語るだけです。それなのに、見者の眼には飛び交う矢が見え、阿鼻叫喚の怒号が聞こえることがあります。何という深い表現! そうして、ひとつの極北の表現としての、「道成寺」(新之丞の祈りが金春太夫の魂に届いたという後半のエピソードに、私は金春流の「道成寺」を思いました)の乱拍子。長い長い無音の中に凝然と立ち尽くす白拍子……胸の内で恋心と執心と怒りがごちゃ混ぜになって、気も狂わんばかりの極めて激しい渦を巻いています。それにも関わらず、彼女の舞たるや……! 逆説的に全く微動だにしません。そうして、見る者は気づくのです。いつの間にか舞台の上に、人を死に誘うほど純粋で強烈な情念が、すっくと佇立していることに……。

 

   《引用終了》

 

 メールとともにリンクされてあったのが、中文動画サイト(彼は現在、北京在住)の喜多であった(調べてみると当該シーンはないものの、金春流の「葵上」の超短縮版がやはり中文動画サイトのにあった)。

 当該詞章は10:50辺りから始まる。

 11:15辺りで唐織を被ったシテが起き上がり始めるが、この間、ワキ僧は小袖を前にして正先に座位で修法を修している。

 惜しいことに11:27辺りでカメラがシテをアップにしてしまうのでよく分からないのだが、その直後に画面の右端をワキ僧の袖が翻るのが見える。

 シテはカメラがアップで照明も明るいため、視聴している我々にははっきりと鬼女の面が見えてしまうが、ワキ僧の立ち位置(次にカメラが引くと座って中腰で修法をしているから、振り返った際のワキ僧の視線位置は明らかに唐織より上であると考えられる)及び当時の暗い舞台から考えると、ワキ僧にはまさに「襟元面テは見えざれども、襟元」しか見えなかったと考えてよかろう。私と教え子は遂に「寶生新之丞」が「金春太夫」演ずる「葵の上」の六条御息所の「シテきぬをかづき、両手に持て立かゝりし有樣、面テは見えざれども、襟元よりぞつと」したと述懐するその瞬間を同定し得たのであった。

 

・「怨靈事」能で怨霊をテーマとする曲、強いそれを示す怨霊面を用い、ワキ僧によって調伏が行われる曲とすれば、この「葵上」以外では「道成寺」「黒塚」辺りであろう。わざわざこう語っているところをみると、これは同じ「葵上」ではないと考えるのが自然である。私個人としては偏愛する「道成寺」に違いないと勝手に思っているのである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 上手の芸にはその超自然の気が自然と通うという事

 

 明和・安永より天明の頃まで、専ら乱舞(らっぷ)の上手と称えられた、金春太夫(こんぱるたいふ)と、その脇師(わきし)をつとめたることの多御座った宝生新之丞(ほうしょうしんのじょう)両人のことにつき、さる御仁の語ったことで御座る。

 

……金春太夫がある時、「葵上(あおいのうえ)」を舞われた折りのこと。

 新之丞殿がそのワキ僧をなして御座ったが、葵の上のシテが衣を被(かつ)ぎ、両手に持って立ちかけた――

――その瞬間

――その時のワキ僧役新之丞殿の位置からは、これ、面(おもて)は全く見えず御座ったにも拘わらず……

「……あの時……シテの襟元を見ただけで――我ら、まさしく、生涯に感じたことがないほどに、これ――慄っと――致しまして御座います。……」

としみじみと語られたかと思うと、

「――いや! 金春殿は――これ、まっこと!――能の上手――にて御座る!――」

と、きっぱり申されたそうな。……

 

……はたまた……その同じ頃のことででも御座ったものか……

 

……怨霊事の能舞台にて、ワキ僧を演じておられた新之丞殿が、金春太夫演ずるところのシテ怨霊へ向かい、一心に数珠を押し揉んで祈る場面の、これ、御座った。

 舞台のはねて、下がってこられた金春太夫は、お傍のお付きの者に、

「……いや! 自然、シテの我らが頭(こうべ)へ……かのワキ僧の数珠の音(ねぇ)が……これ――シャァラ! シャラ! シャッツ! シャラッ! シャアラ!――と――響きに響いて、のぅ!――我が頭(ず)の芯(しん)を、痛とぅ貫く如――感じて御座ったわ!……」

と申さるるや、

「――いや! 新之丞は――これ、まっこと!――名能ワキ師――にて御座る!――」

と、如何にも感心なされたと申す。

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 78 福井 芭蕉、光源氏となる 

本日二〇一四年九月二十五日(当年の陰暦では九月二日)

   元禄二年八月 十二日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十五日

諸資料からこの八月十二日辺りに芭蕉は福井の旧知の俳人等栽宅に到着したものと推定出来る(敦賀の月見の予定から逆算)。まず、「奥の細道」の福井の段の通行の校訂本文を示す(但し、思いのあって、平仮名書きを増やし、直接話法及び心内語部分を改行してある)。

 

 福井は三里ばかりなれば、夕飯したためて出づるに、たそかれの道たどたどし。ここに等栽といふ古き隱士あり。いづれの年にか、江戸に來りて、予を訪(たづ)ぬ。はるか十とせあまりなり。いかに老いさらぼひてあるにや、はた死にけるにやと人に尋ねはべれば、いまだ存命して、

「そこそこ。」

と教ゆ。市中(いちなか)ひそかに引き入りて、あやしの小家(こいへ)に、夕顏・へちまの延(は)えかかりて、鷄頭・帚木(ははきぎ)に戸ぼそを隱す。さては、このうちにこそ、と門をたたけば、侘(わび)しげなる女の出でて、

「いづくよりわたり給ふ道心の御坊(ごばう)にや。あるじは此のあたり何某(なにがし)と云ものの方に行ぬ。もし用あらば訪ねたまへ。」

といふ。かれが妻なるべしとしらる。

『昔物語りにこそ、かゝる風情ははべれ。』

と、やがて尋ねあひて、その家に二夜(ふたよ)泊りて、名月は敦賀(つるが)の湊(みなと)に、と旅立つ。等栽もともに送らんと、裾(すそ)をかしうからげて、 路の枝折(しをり)と浮かれ立つ。

 

[やぶちゃん注:以下、自筆本を示す。

   *

福井は三里計なれは夕飯した

ためて出るにたそかれの道たと

たとし爰に等栽と云古き

隱士有いつれの年にや江戸に

     尋

來りて予を遙十とせ餘り也

いかに老さらほひて有にや將死け

るにやと人に尋侍れはいまた

存命してそこそことをしゆ

市中ひそかに引入てあやしの

小家に夕顏へちまのはかゝり雞

頭はゝ木ゝに戸ほそをかくす扨

は此うちにこそと門を扣は侘し

けなる女の出ていつくよりわたり

玉ふ道心の御坊にやあるしは

このあたり何某と云ものゝ方に行

ぬもし用あらは尋玉へと云かれか

妻なるへしとしらるむかし物

かたりにこそかゝる風情は侍れと

やかて尋あひて其家に二夜

とまりて名月はつるかの湊に

と旅立等栽も共に送らんと裾

            と

おかしうからけて道の枝折とうかれ

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇夕顏へちまのはかゝり → ●夕顏へちまの延(は)えかかりて

[やぶちゃん注:元は「夕顔・糸瓜の葉掛かり」(延び掛かって)であった可能性が窺えるか。]

■やぶちゃんの呟き

「等栽」「とうさい」と読む。洞哉とも書く。神戸氏。生没年未詳。福井俳壇の古老で、芭蕉と同じく北村季吟の流れを汲む。安東次男氏によれば、芭蕉が初めて江戸に下ったのは寛文一二(一六七二)年二十九歳頃のことであるが、元禄二年から「十とせ餘り」とすれば、延宝七(一六七九)年で芭蕉三十六頃より前ということになり、その頃は『まだ深川に庵を結んでいない』頃と記しておられる。

「道の枝折」案内役。古来、旅する者は後から来る人が道を違えぬよう、枝を折って道標べとしたことに由来する。この時、彼は芭蕉を敦賀まで見送っている。芭蕉の独り旅が実際には如何に短いものであったかが知れる。

 さても本段は高校生でも即座に「源氏物語」の「夕顔」の段のインスパイアであるとは気づく。しかし、それだけの曲のない流用によるパロディ化だけであるなら、これは当の高校生でさえも鼻白むに違いない。その辺りの深奥を美事に剔抉したのは、やはりかの安東氏の「古典を読む おくのほそ道」(岩波同時代ライブラリー)であった。補助部分も含めるとかなり長いが、私はこれ以上に腑に落ちる解釈はないと思うによって、そのままあえて引かせて戴く。

   《引用開始》

○むかし物がたりにこそかゝる風情は侍れ――意味は、いかにも物語にありそうな風情ということで、特定の物語を指すわけではないが、この云いまわしは『源氏物語』の「帚木」と「夕顔」に出てくる。

 「…いと物思ひ顔にて、荒れたる家の露しげきを眺めて、虫の音にきほへるけしき、昔物語めきておぼえはべりし。」(帚木)「…ただこの枕がみに、夢に見えつる容(かたち)したる女、面影に見えてふと消え失せぬ。昔物語などにこそかかることは聞けと、いと珍らかにむくつけけれど…」(夕顔)前の方は、久しく通わぬ女からの歌(「山がつの垣ほ荒るともをりをりにあはれはかけよなでしこの露」)にほだされた頭中将が、常夏の女を又尋ねた話を源氏に語る場面(雨夜の品さだめ)で、女はのちの夕顔、「なでしこ」は娘の玉鬘である。後の方は、八月十五夜の明方ちかく源氏に連出された夕顔が、その晩、六条御息所の生霊に取付かれて頓死するくだりである。

 福井訪隠の興は、それとさとらせる詞の借用ぶりにもよく現れているようだ。「帚木」をさすらいの初心として旅に出た男が(20ページ参照)、名月にちかく、ハハキギも既に老いた宿で(帚木の季は晩夏である)、ユウガオの実と出合えば、常(とこ)懐しさに駆られぬ方がおかしい。夕顔の恋は、芭蕉の俳譜に特別の因縁があったから、猶のことそう思う。

 「遥十とせ余り」の旧知を尋ねるという思付は、頭中将の夜ばなしにかさねて、玉鬘をいとおしむ源氏の懐旧が、面影になっているだろう。「なでしこのとこなつかしき色を見ばもとの垣根(夕顔)を人や尋ねん」(常夏)美しく成長した娘を実父内大臣(もとの頭中将)に、ふと、逢わせてみたくなって源氏が詠む歌だが、これは夕顔の死から十九年後だ。

 訪隠の心はどうやらこの歌らしい。そういう男は、案の定、等栽を敦賀の月見に連出している。通説は、「たそかれ」「あやしの小家」「夕貌」などの片言をとらえて、福井入の描写を「夕顔」の巻の書出に較べたがっているが、俳文の面白さはそんな幼稚な裁入にあるわけではない。「帚木」に見定めた漂泊の興がまずなければ、そして「常夏」という後日譚がなければ、福井のくだりは児戯に類する作文としか見えぬはずだ。

   《引用終了》

 この途中の『「帚木」をさすらいの初心として旅に出た男が(20ページ参照)』と『夕顔の恋は、芭蕉の俳譜に特別の因縁があった』についても当然、等閑には出来ぬ。まず、前者であるが、これは「奥の細道」の旅立ちの段のかの「月は有明にて……」の名文句の注を指す。

   《引用開始》

○月は在明にて光をさまれる物から――「月は有明にて光をさまれるものから、影さやかに見えて、なかなかをかしき曙なり。」(源氏物語、帚木)有明の描写など、古歌・古文には掃いて捨てるほどある。その中でこの『源氏』の描写がとくにすぐれているわけではな  い。光が穏やかになったから反(かえ)って月の形がはっきり見える、というのはいかにも夏の月らしい観察で、うまいといえばそこがうまいが、それとて特に云うべきほどのことではあるまい。芭蕉は、一字の変更も加えずに裁入(たちい)れている。芸のないことをしたものだと思いたくなるが、恋の遍歴も漂泊だと考えれば納得がゆく。「帚木の巻」は、光源氏のさすらいの第一歩である。援用箇所は空蝉(うつせみ)との後朝(ごちょう)の場面で、物語は先の文に続けて、「何心なき空の気色も、ただ見る人から、艶にも凄くも見ゆるなりけり。人知れぬ御心には、いと胸いたく、言づて入れむよすがだになきを、かへりみがちにて出で給ひぬ」とある。

 芭蕉はこれを、例の須磨流謫(るたく)につないで読んでいるらしい。「道すがら、おもかげにつとそひて、胸も塞(ふた)がりながら、御舟に乗り給ひぬ。日長きころなれば、追風さへそひて、まだ申(さる)の時ばかりにかの浦に着き給ひぬ。(中略)うち返り見給へるに、来し方の山は霞み、はるかにて、まことに三千里の外(ほか)の心ちするに、櫂のしづくもたへがたし。」(須磨)時分は弥生も末のことで、これも『ほそ道』の旅立と符合しているが、「前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝく」は瞭かに踏替(ふみかえ)だと気がつく。戻って、「上野谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし」も、「いつか又春のみやこの花を見む時うしなへる山がつにして」(須磨、春宮(とうぐう)への源氏の消息歌)を下に敷いているらしい。前年、須磨明石に吟興を尽したばかりであってみれば、それも当然と思われるが、紀行は旅じまいの種(いろ)の浜のくだりでも、「寂しさや須磨にかちたる浜の秋」の一句を書留めている。『ほそ道』の俳詣師は、自分を光源氏になぞらえて旅立妄った(雛流しにされるなら光源氏でゆこうという思付はうまい)、そう考えてよさそうだ。

 さすらいの手はじめは「帚木の巻」から、という趣向は俳諧がある。この道行のちょっとした興、浮かれ心に気がつかぬと、「月は在明にて光をさまれるものから」と、わざわざ無芸に、言葉を丸のまま裁入れた狙も見落すことになる。

   《引用終了》

 また、後者の『因縁』については補注があるので、これも引用させて戴く(太字は底本では傍点「ヽ」)。

   《引用開始》

 深川墓庵には素堂が命名した名物瓢(「四山」ノ瓢)があって、訪庵者たちをよろこばせたという話は有名だが、ヒサゴはユウガオの実である。夕顔の恋は挨拶の恰好のたねになった。貞享五年、更科の月見のあと、そのまま越人を江戸に連れ帰った芭蕉が、後の名月(九月十三夜)に寄せて興行した両吟の歌仙(発句は「雁がねもしづかに聞(きけ)ばからびずや 越人」、脇は「酒しゐ[やぶちゃん注:右に安東氏の『(ひ)』という傍注がある。]ならふこの此の月 芭蕉」)はまさにそれだったようだ。酒(瓢)好の越人を、今度は娘(玉鬘)に見立て替えて、前の名月(夕顔の恋)を偲ぼう、というしゃれた思付である(拙著『連句入門』の「後の月の恋」「夕顔の恋余聞」を参照されたい)。加えてこの歌仙は、出来映と云い趣向と云い、其後の蕉風俳諧の一手本になったと見えて、元禄六年初冬、越後屋の手代たちが芭魚庵に押掛けて請うた例の「夷講」の巻(『炭俵』所収)には、初折(しょおり)の月の扱をめぐつて、明らかに右の両吟を意識したと思われる転合(てんごう)な恋の仕掛が見られる(「解釈ということ」、289ベージ参照)。

 戻って、『猿蓑』の「夏の月」の巻にも「夕顔」の巻からの裁入がある(『連句入門』「連句の興 の起るとき、其三」)。

   《引用終了》

ここに示された参照注記の「後の月の恋」「夕顔の恋余聞」「解釈ということ」の孰れもがこれまた優れてディグされたものなので是非、それぞれお読みになられることを強くお薦めする(と記しておけば掟破りの長文引用も許されよう)。

 いや、凄い! 退屈極まりない典拠挙げの羅列でよしとするような凡百の国文学者の評釈とも言えぬ評釈と比べ、何というキれにキれた評言、否、俳言であろう!

……上野谷中の桜の梢……かさねという八重撫子……市振の萩……山中の菊……花尽しの蔭には恋があった。……

……何よりここに、夕顔(等栽)を訪う光(芭蕉)を心秘かに慕(しと)うている悶々たる六条御息所(曾良)もいるではないか?!……

……禁断の朧月夜(桃妖)との契りによって引き起こされた、失脚の寂しき羈旅は……

 

寂しさや須磨にかちたる濱の秋

 

……まさに……須磨への流謫であったのである…………]

2014/09/24

杉田久女句集 278 花衣 ⅩLⅦ 母の句 五句

  母の句 五句

 

八十の母てまめさよ雛つくり

 

母淋しつくりためたる押繪雛

 

娘をたよる八十路の母よ雛作り

 

扶助料のありて長壽や置炬燵

 

雛つくる老のかごとも慰めり

 

[やぶちゃん注:昭和一〇(一九三五)年の久女四十五歳の折りの句群。久女の母さよは三十六歳の時に久女を生んでいる(久女は明治二三(一八九〇)年五月三十日生まれ)かた、当時は満八十一。兵庫県出石(いずし)の出身で、坂本宮尾氏は「杉田久女」で、さよは『龍生派池之坊の稼働教授』で、『赤龍軒美玉と号し、最高職の関西家代理として八十八歳まで現役を務めた人だという。久女も華道、茶道、書道の心得があった』と記しておられる。母さよは戦局の悪化する昭和十九年七月に亡くなっている。因みに、この時の葬儀で上阪したのが、長女昌子が逢った最後となった旨の記載が年譜にある(久女の逝去は昭和二十一年一月二十一日)。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 総説(Ⅱ) 山嶽

山嶽 大臣山、狻躁峯、貝吹山、大堂山(以上西御門前)。鶯谷山、源氏山、諏訪山、飯盛山(以上扇谷)。衣張山、名越山、淺間山、佐竹山、天狗堂山、甲山、辨ケ谷山(以上大町村)。屛風山、小富士山(小町)。大丸山、天台山、大平山、獅子巖、鷲峯山(以上二階堂)。勝上嶽、明月山(以上山之内)。佐々目ケ谷山、長樂寺山、見越嶽、大佛坂山(以上長谷)。觀音山(坂之下)。親不知山、陣鐘山(以上極樂寺)。稻荷山、胡桃山、丸山(以上淨明寺)。明石山、天臺山、羽黑山、御坊山、林相山、岡松山、丸山(以上十二所)。權現山、石名畑山、大澤山、鈴野山(以上峠)。

[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:この山(というか、ただの丘やピークである)の名の中には私の知らないもの(知っていても即座に位置を名指せないもの)が幾つか含まれているので、それを中心に以下に注しておく。同定には後に画像で掲げる予定の底本に挟み込みで附いている底本のオリジナルと思われる地図「鎌倉實測圖」及びネット上の複数の地図サイトを用いた。なお、読みは煩瑣なだけなのでここでは現代仮名遣のみ示した。なお、主な(中にはかなりマイナーなものも含む)山巓位置は及びその作成サイト「いざ鎌倉」の鎌倉山」が分かり易い。

「狻躁峯」これは「さんろほう」と読む。現在の鶴岡八幡宮後背の神域大巨(たいしん/だいじん)山西北奥、二十五坊ヶ谷の最深部の直北上にあるピーク(或いは山塊)を指す。建長寺の回春院から南南西一一九メートルほどの位置と考えてよかろう。「鎌倉實測圖」には右に「昇仙臺」という別の(?)ピーク名も併置されている。

「貝吹山」名称から瑞泉寺裏の貝吹地蔵を連想するが、全く異なるので注意。本文にも「西御門前」とあるように、これは西御門にある来迎寺(鎌倉には材木座に同名異寺があるので注意)の裏手の山を指す。

「大堂山」これは釈迦堂切通しの西方直近のピークで、現在の浄明一三丁目と大町三丁目の境界上にあるように見受けられる。

「鶯谷山」これは現在の岩屋不動尊背後にあるピークである。

「諏訪山」不詳ながら、これは諏訪屋敷(跡)と呼ばれた現在の御成小学校の敷地の背後の山並の内で、南の方のピークを指すものではなかろうか?

「飯盛山」前注で私が諏訪山の同定候補地として挙げた、現在の御成小学校の敷地の背後の山並の南方の尾根には天狗堂という堂があったが、「新編鎌倉志卷之四」の「扇谷」には、『「太平記」に、天狗堂(てんぐだう)と、扇が谷に軍(いくさ)ありと有。又此の所に、飯盛山(いひもりやま)と云あり』とあることから、これも前の諏訪山と並ぶピーク若しくはここから源氏山に続く山塊を呼称しているものかも知れない(これらの「太平記」記載の地名についてはリンク先で私が考証をしているので参照されたい)。また、扇ヶ谷にある岩船地蔵近くの扇の井の背後にある山を現在、飯盛山と呼称してもいるので、本誌の記者はそこをかく呼んでいるものと考えてよいであろう。鎌倉にはこれとは別に、金沢街道の明王院(山号飯盛山(はんじょうざん))の手前の大慈寺跡の背後にあった山を同じく飯盛山と呼称しているので注意が必要。

「淺間山」現在の横須賀線の名越のトンネルの北直近の名越山の北北東七〇〇メートルほどの大町三丁目と浄明寺二丁目の町境上のピーク。

「佐竹山」不詳ながら、安養院の東方に佐竹屋敷(跡)という地名が残るから、その背後北西の山塊、現在の大寶寺の背後で妙本寺の南から延びた尾根の辺りを呼んでいる可能性がある。

「天狗堂山」不詳。錯綜があるのか、いや、もしかすると鎌倉には、明治頃まで、天狗堂及び天狗堂山と呼称する場所や山が複数存在した可能が高いとも私は考えている(煩瑣になるのでここでは個別に示さないが、実際、「太平記」を読み解いてゆくと、そうでないと辻褄の合わないことが多いのである)。「飯盛山」の注で示した「新編鎌倉志卷之四」の私の考証も参照されたい。

「甲山」不詳乍ら、記載位置から考えて私は妙法寺の東で松葉ヶ谷の北の山塊、若しくは、次に出る「辨ケ谷山」(これはその北の山塊と横須賀線を挟んで対称位置にある)の西、弁ヶ谷の奥にあった山塊(長勝寺の南で現在の鎌倉材木座霊園のある辺り)の呼称ではなかったかと考えている。「甲」はその山の形状(前者はやや長円、後者は成層的な独立峰であったと思われる)か。この辺りに例えば鎧兜の職人が住まっていた可能性も否定出来ない。実際、確か、この辺りにそうした職能集団がいたという記載を読んだように記憶する。

「屛風山」宝戒寺の背後の東にある山。

「小富士山」「新編鎌倉志卷之七」に「寶戒寺」に、

小富士 屏風山の傍の高き峯を云ふ。社あり。社中に富士の如くなる石あり。淺間大菩薩と銘あり。毎年六月一日男女參詣多し。

とある。

「大丸山」これは、現在の鎌倉アルプス(私はこの呼称は大嫌いである)の「天台山」と「太平山」の間にある、現在の天園(六国峠)のことである。

「明月山」の東の建長寺との間にある山。

「佐々目ケ谷山」佐々目ケ谷の最奥のピーク。東麓が佐助ヶ谷になる。

「長樂寺山」現在の鎌倉文学館背後の山。

「見越嶽」「長樂寺山」西の長楽寺ヶ谷を隔ててある甘繩神明社の背後の山。個人的に私の好きな場所である。

「大佛坂山」ピークは現在の大仏坂トンネルの南直近のはずだが、航空写真ではそこが平たく削られてコートのようになっている。

「觀音山」長谷寺の左背後の山。

「親不知山」番場ヶ谷奥の西北の、現在の極楽寺四丁目と笛田六丁目の境に位置した山。現在はかなり宅地浸食されている。

「陣鐘山」現在の江ノ電稲村ヶ崎駅の近く。個人サイト「戦国時代の城」の「陣鐘山(稲村ヶ崎)」を参照されたい。知らないし、行ったこともないなぁと思ったら、『現在は、民有地で山には登れない』とあった。

「稻荷山」浄妙寺背後の山。同寺の山号は稻荷山(とうかさん)である。

「胡桃山」瑞泉寺直近の南のピーク。「稻荷山」の北東約三八〇メートル。この間も激しく宅地浸食されている。

「丸山」不詳乍ら、前後の山及び位置的に見ると「大丸山」=天園に近いから、ここの近くの尾根のピークの可能性が高いようには思われる。以下、同名の山が出るので注意。

「明石山」光触寺の南西にある山。

「天台山」これは先の近くの鎌倉アルプスのそれとは異なるもので、光触寺の南奥にある山で、前の「明石山」との間に池子村に向かう山道があった。現在はこの道は地図上では確認出来ない。私は三十数年前、ここより少し北方の、朝比奈旧切通しの東側にある熊野神社の背後から、まさにこのルートに繋がっていたであろう池子方面への山の廃道を分け入ったことがあるが、暫く進むと、山中に有刺鉄線が張り巡らされてあって、すぐ近くに監視塔が聳え立っており、そこに自動小銃を持った米兵がいて、眼が合ってしまった。彼は凝っと私を見つめていた。私は静かに後退りして退散したことは言うまでもない。池子の弾薬庫であった。……私は神仏罰を恐れず、かつて大船の広大な荒地であった高野を分け入って有刺鉄線を越え、遂に出たのが普段は入場出来ない円覚寺の舎利殿の裏で、平然と中を見、何食わぬ顔をしてまた元の道を戻ったものだったが……この時、米兵の飛び道具には負けたのであった……

「羽黑山」南西から明石山・柏原山・羽黒山と連なる、鎌倉市と逗子市の境界をなす山の一つであるとネット上の情報にはある。

「御坊山」御坊ヶ谷は私が鎌倉で最も愛する場所であるが、そこから察するに御坊山とはこの谷戸の最奥部の左へ登ってゆく山ではなかったかと推測する(この山塊は現在は鎌倉霊園として無惨に抉りとられており、その周縁に名残の山道を残すばかりである)。

「林相山」不詳。ところが、あまでうす氏のブログ「あまでうす日記」の鎌倉ちょっと不思議な物語122回 十二所神社物語その7」に、『十二所神社の境内には、山ノ神を祀った石祀がある』が、その『右側の祠のものは宇佐八幡で、以前林相山の宇佐の宮にあったもの、その左は疱瘡神を祀ったものである』とある。これは明らかにこの山名である。しかしこの山名がネットでヒットしないのは、やはり消失してしまったからではあるまいか? とすれば非常に高い可能性でそれはやはり現在の鎌倉霊園のどこかに位置していた可能性が高いのではなかろうか?

「岡松山」不詳。やはり「林相山」と同じ運命を辿った山では?

「丸山」これは旧十二所村の南東のピーク。次の「權現山」の南南西五五〇メートルほどのピーク。

「權現山」朝比奈旧切通しの峠南側(若しくはこの山塊全体)の山名。

「石名畑山」「權現山」の北五五〇メートルほどの位置にあったピーク。それらしい場所は現在の鎌倉霊園の東縁にある。

「大澤山」「石名畑山」の東北二〇〇メートルほどにあったと思しい尾根のピーク。やはりそれらしい場所が現在の鎌倉霊園の東縁に残る。

「鈴野山」「大澤山」のさらに北四、五百メートルほどにあったと思しい尾根のピーク。これは現在の横浜市朝比奈と鎌倉市十二所の東北の角か若しくはそこから少し南下したところであろう。これらのピークを結ぶと、現在、天園に向かう霊園北迂回のハイキング・コースのルートの横浜側からの登りの山道にかなり近くなるように思われる。ああ、あそこも三十年以上歩いてないなぁ……]

2014/09/23

杉田久女句集 277 花衣 ⅩLⅥ 筑前大島 十二句

  筑前大島 十二句

 

大島の港はくらし夜光蟲

 

濤靑く藻に打ち上げし夜光蟲

 

足もとに走せよる潮も夜光蟲

 

夜光蟲古鏡の如く漂へる

 

海松(みる)かけし蟹の戸ぼそも星祭

 

[やぶちゃん注:坂本宮尾氏は「杉田久女」で、『この句の中七は「ホトトギス」(昭和9・9)、久女の草稿、いずれも「蜑の戸ぼそ」となっている。句集に「蟹の戸ぼそ」とあるのは蟹(かに)と蜑(あま)という文字の形が似ているいるために植字段階で生じた間違いではないだろうか』と述べておられ、私もそれを支持するものである。以下に正しい句形を読みを附して示しておく。

 

海松(みる)かけし蜑(あま)の戸ぼそも星祭

 

実は当初、海産無脊椎動物フリークの私は、真顔で、砂蟹などの巣の入り口に海松が懸っているのを擬人化したのだな、などと独り合点して読んでいたことを告白しておく。]

 

  大島星の宮吟咏

 

下りたちて天の河原に櫛梳り

 

彦星の祠は愛しなの木蔭

 

[やぶちゃん注:坂本宮尾氏は「杉田久女」で、本句について、『まず「愛(かな)し」と読んで、それにつづく「な」は「何(な)」ととって、「祠(ほこら)には深く心を惹かれるか、いったいこれは何の木の陰であろうか」という意味と解釈しておく。木陰にある彦星の祠を見つけた作者の気分の高揚が伝わってくる』と鑑賞されている。穏当なところであろう。私は『高揚』というより、年に一度、盥の面を介してしか語り合えぬ貴公子(彦星)への強い愛惜の思いを詠んだものと思う。]

 

口すゝぐ天の眞名井は葛がくれ

 

  玄界灘一望の中にあり

 

荒れ初めし社前の灘や星祀る

 

大波のうねりもやみぬ沖膾

 

星の衣(きぬ)吊すもあはれ島の娘ら

          星の衣は七夕の五色の紙を衣の形に

          切り願事をしるして笹に吊すもの

 

乘りすゝむ舳にこそ騷げ月の潮

 

[やぶちゃん注:これらは底本年譜で、昭和八(一九三三)年の八月末に、響灘と玄界灘の境界部に面する現在の福岡県宗像市に属する筑前大島のほしの宮の七夕祭りに詣でており、その折りの吟詠と考えてよい。この年の旧暦の七月七日は八月二十七日であった。この島の中央部にある最高峰の御嶽(標高二百二十四メートル)の山頂には宗像大社中津宮の奥の院に当る御嶽神社がある。この山の麓の丘の上にある中津宮(船着き場近くでもある)には宗像三女神が生まれたという伝承を持つ天の真名井(まない)があるが、同時にここは本邦での七夕伝説発祥の地としても知られる。宗像大社公式サイトの「夏のまつり」によれば、ここでの七夕祭は古く、鎌倉時代から行われており、宗像大社中津宮の境内に流れる「天の川」を挟んで牽牛神社と織女神社が祀られており、現在では旧暦の七月七日に近い八月七日に島内で盛大に七夕祭りが行われる、とある。そこにある「筑前大島天の川伝説」や坂本宮尾氏の「杉田久女」にある同伝説によれば――昔、貴公子が唐の国に遣いし、何人かの唐人の織女を伴って帰国の途次、その内の一人と深い愛し合ったが、それは果敢ない仮初の縁でしかなく、帰国するや、貴公子は無論、都に戻ってしまい離ればなれとなった。織女を忘れられぬ貴公子は鬱々と日を過ごしていたが、ある夜、夢枕に天女が現われ、この筑前大島の中津宮に行けと告げる。来職を擲った貴公子はその中津宮の神官となった。ある星の美し晩、「天の川」に盥(たらい)を浮かべて禊(みそぎ)をしていると、その盥の中の水の面に織女が映っていた。二人はそうして秘かに二人きりの逢瀬を楽しんだという。――]

杉田久女句集 276 花衣 ⅩLⅤ 横濱外人墓地 一句

  横濱外人墓地 一句

 

ばら薰るマーブルの碑に哀詩あり

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 始動 

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」

 

[やぶちゃん注:以下に電子化するのは明治三〇(一八九七)年八月二十五日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊第百四十七号「鎌倉江の島名所圖會」である。発行所は、『東京神田區通新石町三番地』の東陽堂、『發行兼印刷人』は吾妻健三郎(社名の「東」は彼の姓をとったものと思われる)。

 「風俗画報」は、明治二二(一八八九)年二月に創刊された日本初のグラフィック雑誌で、大正五(一九一六)年三月に終刊するまでの二十七年間に亙って、特別号を含め、全五百十八冊を刊行している。写真や絵などを多用し、視覚的に当時の社会風俗・名所旧蹟を紹介解説したもので、特にこの「名所圖會」シリーズの中の、「江戸名所圖會」に擬えた「新撰東京名所圖會」は明治二九(一八九六年から同四一(一九〇八)年年までの三十一年間で六十五冊も発刊されて大好評を博した。謂わば現在のムック本の濫觴の一つと言えよう。因みに先に電子化し注を附した、この一年後の明治三十一年八月二十日発刊になる同誌の「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」に先行する一年前のもので、「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」は謂わば本誌の補完号であった。

 挿絵の原画はすべて石板で、作者はこの『風俗画報』の報道画家として凡そ一三〇〇点に及ぶ表紙・口絵・挿絵を描いた山本松谷(しょうこく 明治三(一八七〇)年~昭和四〇(一九六五)年山本昇雲(本名は茂三郎。)である。優れた挿絵であるが、残念ながら著作権が未だ切れていない。私が生きていてしかも著作権法が変わらない限り、二〇一六年一月一日以降に挿絵の追加公開をしたいと考えている。

 底本は私の所持する昭和五一(一九七六)年村田書店刊の澤壽郎氏解説(以上の書誌でも参考にさせて戴いた)になる同二号のセット復刻版限定八〇〇部の内の記番615を用い、視認してタイプした。読みについては振れると私が判断したもの以外は省略した。濁点や句点の脱落箇所が甚だ多いがママとした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。大項目及び小項目見出しのポイントの違いはブログ版では無視して総て同ポイントで示した。ポイント落ちの割注は〔 〕で本文と同ポイントで示した。傍点「●」はブログ版では太字で示した(但し、冒頭の「鎌倉」(総説部)の傍点は「○」である)。踊り字「〱」「〲」は正字化した。一部のルビの誤字は注記せずに訂した。原則、各項の最後に注を附し(長い条の場合は途中に入れた)、その後は一行空けとした(但し、短いものは行空けを施さずにおいた部分もある)。私には「新編鎌倉志」と「鎌倉攬勝考」及び沢庵和尚の「鎌倉巡礼記」等のオリジナル注を附した全本文電子化テクストがあり、それを踏まえた上で、それでもカバー出来ない若しくはここでは再注が必要と思われた場合、私自身の智が読解するに不十分と思われる場合にのみ限定してあるので悪しからず。【ブログ始動:2014年9月23日】]

 

Img099_2

[やぶちゃん注:同誌表紙。せめても本電子テクスト化のためにも、ここに公開しておきたい。表紙絵「鎌倉停車場の圖 松谷」と右上方にある)ではなく、本を撮ったものとして、トリミングをせずにおく。]

 

Hgkamamokuji

 

[やぶちゃん注:表紙見開き。目次。この電子化は労多くして、益なきものなれば御勘弁願う。十分判読出来る大きさで撮ってある。]

 

[やぶちゃん注:ここに山本松谷の、掬すべき見開きの「七里ヶ濱より江の嶋を望むの圖」が入る(著作権存続のため省略)。大いなる雪を被った富士と、延びた砂洲とそこに一直線に続く細い弁天橋、その先の江の島の偉容(富士同様、かなり誇張されて大きめに描かれてある)を遠景に、可愛らしい裸の童子の一群が浜辺に遊び、多くの男女の観光客が描かれる。洋装は鞄にステッキの男性一人で他は皆、和装である。右手前には陸揚げされた漁師の舟が四艘並び(二艘は舳先のみ)、漁師たちは網を背負って仕舞ったり、舟内の垢を拭っており、周囲には蟹で遊んだりする地元漁師のそれと思しい半裸の子らが描かれてある。右手から左手前水際にかけて浅い極楽寺川と思しい川が海へ流れ込んでおり、そこを徒歩渡りする人々も描き込んである。左手手前にはかなり大きな岩場の端が覗いていることから、この絵が稲村ヶ崎からのロケーションであることを示しているように思われる(距離感覚は圧縮されてパースペクティヴにはデフォルメがある)。漁師の中央に菅笠を被って傘を刀のように挿した後姿の男がおり、右手には筆を持ち、画帳のようなものを開いて小動の鼻(先が弁天橋のたもと辺りまで延びており、少し実景とは異なる)と思しい右手陸の方を向いて頻りにスケッチしているように描かれているのは松谷自身であろうか。]

 

〔『風俗畫報』臨時増刊〕「鎌倉江島名所圖會」〔明治三十年八月廿五日〕

    ●總説

     鎌倉

鎌倉は相摸國鎌倉郡に屬し、当難は山嶺を以て武藏國久良岐郡相摸國三浦郡に隣り、北西又丘陵起伏して本郡の諸村と界(さかい)し、南は相摸灘に臨み、遙に伊豆の大島と相(あひ)對す。幅員(ふくゐん)東西二里、南北一里四丁、周圍六里餘、三方山を繞(めぐ)らし一面海に瀕(ひん)し、固(まこ)とに關東の一名區と爲す。

[やぶちゃん注:「久良岐郡」古代の郡衙(ぐんが)の名を継いだ旧郡名。ウィキの「久良岐郡」によれば明治一一(一八七八)年、『行政区画として発足した当時の郡域は、横浜市中区、南区、西区、磯子区、金沢区および南区の大部分(六ツ川四丁目を除く)、港南区の一部(芹が谷・東芹が谷・上永谷・下永谷・東永谷・丸山台・日限山・上永谷町・野庭町の各町を除いた地域)にあた』り、『行政区画として発足した当時に隣接していた郡は』橘樹郡(たちばなぐん:鶴見区・神奈川区全域と西区保土ケ谷区港北区の一部及び川崎市川崎区・幸区・中原区・高津区・宮前区・多摩区全域と麻生区の一部を含む郡。)・鎌倉郡・三浦郡(古代の郡域はさらに北の鶴見川まで広がっていたと考えられている)。『現在は、中村川と堀割川の分岐点の久良岐橋、久良岐公園、横浜市能楽堂(久良岐能舞台)にその名をとどめる』のみ。]

 

沿革 郡名の國史に見えしは、三代實錄を始めとす、古事記景行天皇の條に、足鏡別王は、鎌倉の別か祖と見えたれは、鎌倉の地名も、最舊き唱(せう)なり、倭名鈔にも郡名を載せ、加末久良(かまくら)と唱を附す、萬葉集中にも、しか記せり。古風土記殘本(ざんぽん)には、鎌倉は屍藏なりと見え、詞林釆葉抄には、大職冠鎌足、大藏(おほくら)の松岡に、鎌を埋めしよみ、鎌倉の唱(となへ)ありと云ふ、其(その)後裔、染屋太郎太夫時忠、此地に居住し、其後平將軍貞盛の孫上總介直方、此に居住し、伊豫守賴義、相摸守に任(にん)して、下向せし時、直方が婿となり、義家を設け鎌倉を讓りしより、源家相傳の地たり。斯(かく)て治承四年、賴朝兵を起すに當り、安達藤九部盛長、賴朝に申して、居を此地に移さん事を述(の)ふ、是年十月六日、賴朝遂ひに鎌倉に遷る、遂に平家を亡(ほろぼ)し、覇府(はふ)を開きしより繁榮の地となれり、貞應二年光行が紀行に、其頃の風景繁華を記す、古昔を想像するに足る。賴朝より相承(あひつい)て三世、威令(いれい)四方に行はれしかとも、老臣北條時政、執權の職(しよく)に任せしより、他に與奪せず、子孫其職を襲(つ)きしかは、遂に廢立(はいりつ)の事を恣にして、威權(ゐけん)自ら其一門に歸(き)し、九世高時に至り、奢侈殊に甚しく、元弘三年五月、新田義貞が爲に、敗亡しに及びて、一旦朝廷に歸し、建武二年足利尊氏叛(はん)して鎌倉に據り、再幕府を開き、其子左兵衞督基氏を、開東の管領(くわんれう)にして、此地に置かる、夫より左馬頭氏滿、左兵衞佐滿兼、左兵衞持氏、相繼(あひつい)て管領たり、其後左頭成氏、關東の主となるに至り、執事上杉右京亮憲忠と、矛盾に及ひしかば、寶德四年六月、京師(けいし)よる討手(うつて)として、今川上總介範忠、下向あり、成氏是か爲に沒落し、遂に武藏國菖蒲に遁れ、又下總國古河に移る、是よりして扇谷の上杉定正、山内の上杉顯定と數年戰爭の地となれり、斯て後星霜(せいさう)を經て、荒凉たる村落とはなりにけり、上杉氏衰微して三浦義同の所領となる、永正十五年義同北條早雲の滅す所となり、爾後同氏五世の間之を領す、小田原北條氏割據(かつきよ)の頃は、郡中の地を割(さい)て、諸士に附與せり、天正十八年北條氏亡びて德川氏之れに代り、御料及び松平大和守、大久保佐渡守か封邑(ほういう)、麾下(きか)の士の釆地と爲す、明治元年太政(たいせい)維新の際韮山縣所管に屬し、同年十二月神奈川縣管轄となりぬ。

[やぶちゃん注:「三代實錄」「日本三代実録」。六国史の第六番目。五〇巻。藤原時平・大蔵善行らが宇多天皇の勅をによって撰修した。昌泰四年・延喜元(九〇一)年完成。清和・陽成・光孝の三代(天安二(八五八)年から仁和三(八八七)年)の凡そ三十年間を編年体で記述したもの。

「景行天皇」伝承年代では西暦二七一~三一〇年相当。

「足鏡別王は、鎌倉の別か祖」「古事記」(和銅七(七一二)年成立)の「中つ巻」の景行天皇の倭建命(やまとたけるのみこと)の系譜を綴った条に、彼と山代の玖玖麻毛理比売(くくまもりひめ)との間に生まれた足鏡別王(あしかがみわけのみこ)について、

足鏡別王者、〔鎌倉之別、小津石代之別、漁田之別之祖也。〕

 足鏡別王は、鎌倉の別(わけ)、小津(をつ)の石代(いはしろ)の別、漁田(すなきだ)の別の祖(おや)なり。〕

と記す。この「別」とは古代の姓(かばね)の一つで、皇族の子孫で地方に封ぜられたと指す氏族の姓であるから、これは「鎌倉」氏というヤマトタケルの苗裔がいたことを意味しているのみであって、果たしてそれが事実、同地名として後に現われる相模の鎌倉と関わるかどうかは不明である。これを除けば、以下の記載は「新編鎌倉志卷之一」の冒頭の「鎌倉大意」や「鎌倉攬勝考卷之一」の「鎌倉總説」に記されてある。不明の箇所があれば、それぞれの本文及びそれぞれの私の注を参照されたい。十分にカバーしてあるつもりである。

「武藏國菖蒲」現在の埼玉県久喜市菖蒲町(しょうぶまち)。ここの新堀(旧武蔵国埼玉郡新堀村)には古河公方足利成氏が康正二(一四五六)年に築城させた菖蒲城があった(五月五日の菖蒲の節句に竣工したことによる命名)。また、成氏が室町幕府及び管領上杉憲忠との抗争過程で、鎌倉から古河へ転戦する際、享徳四(一四五五)年六月に『武州少府(しょうふ)』という場所に一時逗留した旨の記述もあり、この「少府」を「菖蒲」の地に比定する説も有力であると、参照したウィキの「菖蒲城」にある。

「松平大和守」江戸中期の大名で武蔵川越藩藩主であった松平朝矩(とものり)及びその曾孫で幕命により相模警護役となった第五代藩主松平典則か(ここまでの松平家は代々が大和守)。「新編相模国風土記稿」には朝矩の所領として鎌倉郡十三ヶ村が含まれている。因みに、江戸時代の鎌倉は幕府の直轄領であった。

「大久保佐渡守」下野烏山藩(現在の栃木県那須烏山市城山)第六代藩主大久保忠保か。同藩は大久保家が藩主となった享保年間以降、相模国鎌倉郡・高座郡・大住郡・愛甲郡の一部をも支配し、愛甲郡厚木町(現在の神奈川県厚木市)に厚木陣屋(厚木役所)を置き、相模国内支配の拠点としていたとウィキ下野烏山藩にある。

「封邑」封ぜられた領地。封地。

「麾下」大将の指揮の下(もと)の意から、将軍直属の家来(狭義には旗本)を指す。

「釆地」采地(さいち)領地。知行所。采邑(さいゆう)。

「太政」「おおまつりごと」で、天皇の政治の意。大政に同じ。

「韮山縣」慶応四(一八六八)年に駿河国・相模国・武蔵国・甲斐国内にあった幕府領・旗本領及び伊豆国一円(伊豆諸島も含む)を管轄するために明治政府によって設置された県。管轄地域は現在の静岡県・神奈川県・埼玉県・山梨県・東京都多摩地域など、非常に広域に分布している。但し、同年十二月には相模国鎌倉郡・三浦郡の管轄地域を新設の神奈川県に移管している明治四(一八七一)年の廃藩置県後の第一次府県統合に伴って廃止された(以上はウィキ韮山県」に拠る)。

 

區分 鎌倉を區劃(くくわく)して雪之下、小町、大町村、扇ケ谷、西御門前村、山之内村、二階堂村、長谷村、阪之下村、極樂寺村、亂橋材木座村、淨明寺村、十二所村、峠村となす。

 以下、底本では「峠村」まで、全体が一字下げで、且つ、村落の解説の二行目以降は五字下げ。]

 

雪之下 古幕府の下にして、諸士の邸宅を搆(かま)へし地なり。

大町村 鎌府隆盛の頃は目抜きの街衢(かいく)にして、人煙稠密(じんえんちうみつ)、商賈(しようこ)繁榮を極む、今や空しく稻田麥圃、悵然として懷古の念を深からしむ。

小町 其昔群臣の邸宅を賜はり、其間市鄽(してん)駢羅(べんら)して、頗る饒富(きやうふ)の地なりしとぞ。茅屋四五、當時の面影だになし。

[やぶちゃん注:「商賈」「賈」は商品を売り買いする。また、商人の意。「商估」「商沽」(「估」「沽」ともに売るの意)とも書き、商人・あきんど・商店のこと。

「市鄽」市(いち)の店。

「駢羅」沢山の物が並び連なること。

「饒富(きやうふ)」「ぜうふ(じょうふ)」が正しい。豊かなこと。

西御門前村 賴朝舊館、西門の所在地に基て村名に唱ふ。

扇ケ谷 山間の地なるも昔は諸士の餓邸宅多く、遊廓假粧坂も此内にありき、足利氏の頃、管領上杉定正爰に住す、山川依稀(さんせんいき)たり寂寞(せきばく)の境。

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之四」に、

◯扇谷〔附扇の井 飯盛山 大友屋敷〕 扇谷(あふぎがやつ)は龜谷坂(かめがやつざか)を越へて、南の方、西北は海藏寺、東南は華光院、上杉定政の舊宅、英勝寺の地を扇谷(あふぎがやつ)と云ふ。龜が谷の内なり。今里人扇が谷とばかり云ふ時は、藤谷(ふぢがやつ)の前、英勝寺の裏門前を、扇が谷と云。

とある(「定政」は誤記)。]

山之内村 往古首藤刑部丞義通莊園として此地に住す、其頃より山内と稱せり、後上杉顯定住す。草深く苔封ず。

[やぶちゃん注:「首藤刑部丞義通」山内首藤俊通(やまのうちすどうとしみち ?~平治元(一一六〇)年)は平安後期の武将。藤原秀郷の後裔首藤義通の子で山内首藤氏の祖。ここ相模国鎌倉郡山内荘に住んだ。保元・平治の乱では子俊綱とともに源義朝に従い、京都四条河原の戦いで討ち死にした(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。]

二階堂村 文治年中源賴朝奧羽凱旋の後、奧の大長壽院の二階堂に擬(ぎ)して、當所に二階堂を建立し、永福寺と號す、此地其寺域の内なるが故に名づく。

長谷村 觀音堂起立ありしより、寺號によりて村名となす。

極樂寺 當村極樂寺所在の地なるにより、即村名となれり。

坂之下村 村名の起りは傳へされど、山麓の村落にて、隣村(りんそん)極樂寺切通(きりどほし)の坂下は、當村の聚落なり、されば村名是に起れるなるべし。

亂橋材木座村 其昔一村たりしを元祿の頃分て二村とし、亂橋村、材木座村と別稱す、村人舊に因(より)て一村の如く村名も二名を合して唱呼す。

淨明寺村 五山の一淨明寺所在の地なる故、村の稱となれるなり、古刹雨に寠(やつ)れて萬骨(ばんこつ)枯(か)る。

[やぶちゃん注:「萬骨枯る」は故事成句「一将功なりて万骨枯る」(一人の成功が成就するためには、その背後に数多の犠牲がある)を寺域の衰亡のさまに用いたもの。]

十二所村 同所に熊野十二所の社(やしろ)あり、是を村鎭守とす、されば是より村名も起りしなるへし。

峠村 鎌倉の東北隅にあり、峯高く溪(たに)深し、武州久良岐郡に界(さかい)し金澤往還なり、村名考ふるまでもなし。

[やぶちゃん注:「峠村」朝比奈切通しから朝比奈峠を越えたさらに現在の金沢区朝比奈町一帯を含む。現在の六浦側の朝比奈一帯も古くはずっと鎌倉郡に含まれていた。新編鎌倉志卷之八の「朝夷名切通」には、
   *

《峠坂》此の坂道を峠の坂と云ふ、坂の下六浦(むつら)の方を峠村(とうげむら)と云ふ。

   *

とあり、しかも同書では六浦側の「鼻缺(はなかけ)地藏」の項で、

   *

鼻缺地藏は、海道の北の岩尾(いわを)に、大ひな地藏を切り付てあり。是より西は相州、束は武州なり。相・武の界にあるを以て、界(さかひ)の地藏と名く。

   *

とあることからも、この「峠村」が鎌倉郡内の独立した一村であったことが分かる。これについては、kanageohis1964 氏がブログ「地誌のはざまに」の【武相国境】峠村は何故鎌倉郡に属していたのか?で詳細な考察をなさておられる。優れた引用なので失礼してお借りすると(一部の新字を正字に直させて戴いた)、まず、以上の記載以降では、「新編相模國風土記稿 卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」に、

   *

峠村[多不牙牟良]

江戸より行程十二里小坂鄕に屬す、家數十八、東西七町半南北八町許[東、寺分村、南、平分村、北、宿村、以上三村、皆武州久良伎郡の屬、西、郡内十二所村、]新田[高六石七斗九升二合、]……

◯鼻缺地藏 金澤往還の北側なる、岩腹に鐫たる像を云[長一丈許]是より東方纔に一間許を隔て武相の國界なり、故に【鎌倉志】にも界地藏と唱ふと記せり、又【志】に此像の鼻缺損せし如くなれば鼻缺地藏と呼とあり、土俗は傳へて古此像を信ずる者多く香花を供すること絶えざりし故、花立地藏と云つるを後訛りて鼻缺とは唱へしなりと云、

   *

とあり、また、「皇國地誌 村誌 相模國鎌倉郡峠村」には、

   *

本村往古ヨリ本郡ニ屬シ鎌倉大倉郷ノ内ニアリ此地鎌倉ヨリ六浦ニ出ル坂路[即チ朝夷奈切通是ナリ]アリテ之ヲ峠坂ト呼ブ其下方ニアル部落ナルヲ以テ峠村ト名クト云鎌倉府ノ頃ハ大倉ノ内ノ小名ナリシヲ德川幕府ノ初ヨリ獨立ノ一村トハナレリト云……

地味
灰色ノ腐壚多ク間々細砂ヲ混スル所アリ其質瘠薄諸植物ニ宜シカラズ水旱ノ兩災ハ甚稀ナリ……

戸數
本籍平民     十八戸
社         一戸
寺         一戸

人口
本籍平民男   五十七人
同   女   六十六人
總計    一百二十三人
寄留平民男     一人
同   女     四人
總計        五人……

   *

とあるとする(……はブログ筆者による省略を示すものと思われる)。以下、朝比奈町内会編になる「朝比奈の歴史」(二〇〇四年刊)からの引用で、その後、『戦乱に明け暮れた中世の時代背景の下で、この国境いの山地に人が住みついて、村落が形成されるまでにはいた』らなかったこと、『朝比奈の地に、小さいながらも農耕を主業とする村落が生まれたのは、関が原の役(慶長五年、一六◯◯年)を節目として戦乱の世が終わり、平安な江戸時代に入ってから』であったこと、先の天正一九(一五九一)年の秀吉による天正検地に基づいて、『一箇の行政村「峠村」が誕生』、『相模国鎌倉郡峠(とうげ)村として、幕藩体制下の独立した一村として認知された』ことが述べられある。しかしこの『峠村の誕生には、一般の村にくらべて異例ともみられるほどのきわだった』『特色が指摘される』とし、それは『検地によって線引きされた峠村の位置で』、『通例の境界線は自然地形の河川または山脈・丘陵の尾根』が指標とあるはずであり、『そのような線引きの通例原則からすれば、自然地形上は武蔵国久良伎郡に所属すべき位置の峠村が相模国鎌倉郡に編入線引きされたのは』それから外れた『異例の扱い』と言える点であるとする。『これについては、この土地の鎌倉時代いらいの鎌倉との密接な歴史的関連性が重視されたものとおもわれ』ると当該書にはある。そこからkanageohis1964 氏は、

   《引用開始》

つまり、天正検地によって初めて「峠村」が行政上の実体を持ったという解釈です。それまではどうやら一時的にはともかく、この辺での集落の形成はあまり進まなかったために、空白地の様になっていたということでしょう。そして、実体が持たされると同時に峠村がその時代には鎌倉との結び付きが強かったために、結果的に相模国鎌倉郡と認知されるに至った、という訳です。

   《引用終了》

お推定なさっておられる。最後に同書にある『鎌倉郡から久良岐郡へと転籍して当時の六浦荘村、現在の横浜市金沢区と合併した経緯について』の引用も転記させて戴くと、

『江戸時代初期から約二百七十年間、独立した一個の行政村として存続してきた峠村は、御一新の改革によって制度上は姿を消しました』。『江戸時代の峠村は、異例の特殊事情から村請制を最大限に活用した自主独立の村づくりと組織づくりを進め、小さいながらも安定した完全自給自足の平和な農村として存立していました。これにたいして御一新の地方制度の改革は、村請制といった村落共同体の自治を否定し、全国のすべての村を一串いっし整然とした強力な中央集権国家の下部組織に組み込むことを目指したのです』。『明治二十二年に創設された東鎌倉村の東のはずれに位置する旧峠村の村民にとっては、大区小区制いらいの新しい村役場も村行政も、旧時代にくらべてあまりにもよそよそしい間柄に様変わりしたと目に映ったことでしょう。そしてそのことが、明治三十年(一八九七年)にいたって東鎌倉村(当時は町)大字峠が、地理的に近く、また経済的なつながりを強めつつあった東京湾側の隣村久良伎郡六浦荘村に、さしたる抵抗感なく郡を超えてまで編入されていく背景をなしていたといえましょう』とある。kanageohis1964 氏は最後に、『江戸時代には六浦藩の重税振りを尻目に旗本領の一ヶ村として自立した生活を営むことができたため、鎌倉郡に属していたことは峠村に相応にメリットがあった様ですが』、『それが失われてしまった以上、地の利が優先される行政区に所属する様になったのは時間の問題だった、というとになるのでしょうか』と推理されておられる。リンク先では地図などもあって非常に分かり易い。必見である(何故、長々とこの「峠村」について述べたかというと、私のこの地誌テクストを楽しみにしている教え子が一人おり、その彼女は、ここ朝比奈の出身だからである。特に kanageohis1964 氏、お許しあれかし。

 なお、ここまでが一字下げ。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 77 永平寺

本日二〇一四年九月二十三日(当年の陰暦では八月三十日)

   元禄二年八月  十日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十三日

この前の松岡(「奥の細道」は「丸岡」と誤記)辺りでの北枝との別れを私は取り敢えず個人的な欲求から八月九日としたが、この後の福井の等栽宅到着は、諸資料から八月十二日辺りと推定されている(敦賀の月見の予定から)。「奥の細道」ではその間に芭蕉は永平寺を訪れていることになっている。以下、「奥の細道」の永平寺の段。まず、通行の校訂本文を示す。

 

 五十町山に入りて、永平寺を禮(らい)す。道元禪師の御寺(みでら)也。邦畿(はうき)千里を避けて、かかる山陰に跡を殘したまふも、貴(たふと)きゆゑ有りとかや。

 

[やぶちゃん注:以下、自筆本を示す。

   *

        平

五十丁山に入て永寺を礼す道元

禅師の御寺也邦機千里を避て

かゝる山陰に跡を殘し玉ふも貴き

故有とかや

   *

■やぶちゃんの呟き

「五十丁(町)」約五・五キロメートル。これは現在のえちぜん鉄道勝山・永平寺線の永平寺口附近から寺までの距離に相当する。これは広大な永平寺の境内地からの距離という。後注「奥細道菅菰抄(すがごもしょう)」(蓑笠庵梨一著・安永七(二七七八)年刊)参照のこと。

「邦機(畿)千里」本邦の王城の地である京を中心とした四方千里。「詩経」にある、『邦畿千里、惟民所止』(邦畿千里、惟(こ)れ民の止(とど)まる所)の俗塵の域の謂いである。

 「奥細道菅菰抄」に、

 

永平寺ハ、越前國、志比村ニ立。(福井ヨリ三里。丸岡ヨリ四里)吉祥山ト號ス。後深草院建長五年ノ草創。北条時賴ノ修願ニテ、曹洞禪宗ノ本山ナリ。コヽニ五十町山ニ入トハ、此寺領ノ入口ヨリ、山中ノ寺マデノ行程ヲ云。(山へ登ル事ニハアラズ)道元禪師、姓ハ源氏、京師ノ人、宋ニ入テ天童如淨禪師ニ謁シ、曹洞宗ヲ傳フト云。邦機千里とは、機ハ畿ノ字ノ誤ニテ、邦畿ハ帝都ノ稱。詩ニ、邦畿千里、維民所ㇾ止、ト云是ナリ。貴きゆへありとは、相傳ふ、はじめ寺地を京師にて給らんと有しを、禪師の云、寺堂を繁華の地に營ては、末世に至り、僧徒或は塵俗に堕するものあらん歟、と固く辭して、終に越前に建立すと云。此事なり。

 

とある。

 さて。

 永平寺の位置及びそこを芭蕉が一人で往復したというのは、事実としては、独り旅の苦手な芭蕉にして、寧ろ考え難いとも言える気はする。

 立枝との別れは実はこの永平寺訪問の後であったと考えた方が自然な気もするし(私が立枝なら必ずそれを望む)、独り旅を芭蕉が例によって虚構したというのも如何にもありそうなことではある。因みに、松岡を起点とすると、永平寺までは約十四・五キロメートル、そこから直に福井に向かうとやはり同程度の距離があって、足すと三十キロメートルほどになる。

 しかも「奥の細道」にはご覧の通り、短い詞を述べるだけで句はなく、諸資料にも現存する中に永平寺で作句したと思われる句は不思議にも存在しない。

 実は、本当に芭蕉は永平寺に行ったのだろうかと疑いたくなる気持ちを、私はどうしても抑えられないでいる。

 いや……そう考えれば考えるほど、この独り行く芭蕉の後ろ影が……否応なく謎めいて見えてくるからでもある。……]

2014/09/22

落葉 ヹルレエヌ 上田敏譯

 落葉(らくえふ)
 
秋(あき)の(ひ)日の
ヸオロンの
ためいきの
身(み)しみて
ひたぶるに
うら悲(かな)し。
 
鐘(かね)のおとに
胸(むね)ふたぎ
色(いろ)かへて
涙(なみだ)ぐむ
過(す)ぎし日(ひ)の
おもひでや。
 
げにわれは
うらぶれて
こゝかしこ
さだめなく
とび散(ち)らふ
落葉(おちば)かな。
 
           〔ヹルレエヌ――『詩集(ししふ)』〕
   ~~~~~~~~~~~
 
佛蘭西の詩はユウゴオに繪畫の色を帶び、ル
コント・ドゥ・リイルに彫塑の形を具へ、ヹルレ
エヌに至りて音樂の聲を傳へ、而して又更に
陰影の匂なつかしきを捉へむとす。
                「譯者」
 
[やぶちゃん注:「ヸオロン」の方の「ヹ」は底本では「井」に濁点、「身にしみて」の「し」は「志」の崩し字。]
 
 
訳詩集「海潮音」上田敏訳 本郷書院 明三八(一九〇五)年十月刊より――
 
国立国会図書館蔵 同近代デジタルライブラリーより視認してタイプ――

耳嚢 巻之八 懸角 一名 訶黎勒の事

 懸角一名訶黎勒の事

 

 上古は禁中にて節會(せちゑ)行はるゝ時、天子高御座(たかみくら)といふに坐(ま)し給ふ御帳臺(みちゃうだい)の左の柱に、鬼角(をにづの)といふ器を懸け置(おく)事有り。是を犀角(さいかく)にて造りたるものなり。百鬼邪鬼瘴氣(しやうき)諸毒を解(げ)する功勝れたるものなれば、貴人の座右には必(かならず)置く事なり。中古亂世打(うち)つゞきけるころ、此器絶(たえ)けるにや、今は御帳臺の柱にも、木にて作り、むかしのかけ角に擬(なずら)へ置(おく)事、足利義政公此懸角(かけづの)を寫し、象牙にて訶黎勒(かりろく)の實(み)の形ち、則(すなはち)かりろくと名付(なづけ)、押板(おしいた)の柱に懸(かけ)て座上の飾(かざり)となせり。象(ざう)も毒を解し、其外の功も犀角におとらざるもの故也。かりろくは西土嶺南の産物にて、殊に食傷等に用藥なるゆゑ、常に座上に置べき物なり。稜(かど)六筋(ろくすじ)有るをよしとす。八筋より十三筋、品々も有を、椰精勒(らうせいろく)といふ。藥に用ひず。訶黎勒の功、食を下し、胸隔(きようかく)の結氣を破るゆゑ、嶺南にては茶の如く煎じ、常に客にもてなすといへり。天竺にても殊に用(もちゐ)る藥なるゆゑ、金光明經(こんかうめいきやう)にも熱病を下す藥に用ゆる事を載(のせ)たり。

 

Kakeduno

 

[やぶちゃん注:図の右上に「懸角一名 訶黎勒」とある。]

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。但し、二つ前の「かづき」の考証から有職故実物で連関すると言える。図を配したという点でも根岸の意識では強く結びついていたものと思われる。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版には墨塗りの同図があって、非常に見易いので以下に示す。

 

Kakeduno2

 

・「懸角一名訶黎勒の事」「かけづの いちめい かりろくのこと」と読む。

・「懸角」岩波の長谷川氏注には、『御帳台の入口の柱に掛けた犀の角』とある。

・「訶黎勒」底本の鈴木氏注に、『訶黎勒、翻して天主持来といふ、万病に効あるを以て、諸軌に、加持して飲む事を説けり、金比羅童子経の如きは、金経此樹の効能を説けりとぞ。(三村翁)』とある。これはバラ亜綱フトモモ目シクンシ科ミロバラン Terminalia chebula を指す(英名:Myrobalan)。「「訶黎勒」は仏典での漢訳名。個人サイト「タイの植物 チェンマイより」の「Terminalia chebula /ミロバラン」によると、『インド・熱帯アジア大陸部』を原産とし、『南伝仏典の伝えるところ「ブッダは成道後、激しい腹痛を患われたが、それを見たインドラ神(帝釈天)がミロバランの果実を捧げられ、ブッダは忽ちにして快癒された。」北伝仏典も同様の伝えである。ミロバランの梵語名はハリタキ』とある。その『果実は整腸・下痢止め』として用いられ、『抗菌作用があ』り、『我が国への伝来は古く、正倉院の種種薬帳に記載の呵梨勒(カリロク)は、このミロバランとされている』(以上、引用はコンマを読点に変えさせて戴いた)。樹皮・果実から『繊維を黄緑色/灰色に染色する』染料を作り、また、家具・車両などの木材原料とするとある。岩波の長谷川氏注には、『その実の形を象牙等で作って飾りにする』とある。仏典の伝承を受けたものであろう。

・「高御座」即位や朝賀などの大礼の際に使用される天皇の座所。当初は大極殿(だいごくでん)の中央に常置されていたが、その廃亡とともに紫宸殿(ししんでん)に置かれた。唐制を模したもので、南を正面とし、西東北の三方に階段をつけた約五メートルの方形を成し、高さ約一メートルの基壇上に、高さ約三メートルの八面の屋形を組む。屋根は神輿の形に似た八角で、中央に大きな鳳凰、おのおのの隅に蕨手(わらびて)の飾りを出だし、その上に小さな鳳凰を立てて玉旛(ぎょくはん:玉幡。この高御座や御帳台(みちょうだい。後注参照)の棟の下に懸ける装飾で、玉を鎖で繋ぎ、先端に薄金の杏葉(ぎょうよう:杏(あんず)の葉に似た装飾具。)をつけたもの。)を下げる。破風の南北に各五面、その他六方には各三面の鏡と、その間に白玉を唐草で囲んだ彫物を立て並べる(以上は主に平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

・「御帳台」宮中や寝殿造の母屋内に設けられる調度の一つ。浜床(はまゆか)という正方形の台の上に畳を敷き、四隅に柱を立てて帳(とばり)を垂らしたもの。貴人の寝所又は座所とした。

・「瘴氣」中国で熱病を起こさせるとされた山川の毒気。

・「足利義政」(永享八(一四三六)年~延徳二(一四九〇)年)は室町幕府第八代将軍。

・「押板」中世の座敷飾りの名で、壁下に作り付けた奥行きの浅い厚板。現在の床の間の前身。

・「嶺南」中国で古く南嶺山脈(五嶺山脈とも呼ぶ)から南の地域を指した広域地方名。主として現在の広東省と広西チワン(壮)族自治区に当たる。

・「金光明經」四世紀頃に成立したと見られる仏教経典の一つ。大乗経典に属し、本邦では「法華経」「仁王経」とともに護国三部経の一つに数えられる。詳細は参照したウィキの「金光明経を読まれたい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 懸け角(づの)――一名、訶黎勒(かりろく)――の事

 

 上古は、禁中に於いて節会(せちえ)が行はるる際、天子は高御座(たかみくら)という御座(おんざ)に坐(ま)しまされたが、その御帳台(みちょうだい)の左の柱に、「鬼角(おにづの)」と呼ばるる祭器を懸けおくことを、これ、式として御座った。これは、犀の角で造ったものである。百鬼・邪鬼・瘴気(しょうき)・諸毒を悉く退け癒し、効の勝れたるもので御座ったによって、貴人の座右には必ず、これを置くを礼として御座った。

 中古、乱世のうち続いておった頃に、この祭器は失われ、その礼式も途絶えてしまったものか、現在は、御帳台の柱には木で出来た、往古の懸け角(づの)に擬(なぞら)えたものを、懸けおいておくと聴く。

 かつて、足利義政公は、この懸け角を模し、象牙にて、「訶黎勒(かりろく)」の実(み)の形に彫らせたものを造らせなさって、そのままにそれを「かりろく」と名付けられ、押板(おしいた)の柱に懸けては、座上の飾りとなされたと伺って御座る。象(ぞう)の牙も、これ、解毒の効あって、その他の種々の効能も犀の角に劣らざるものなるが故で御座る。

 「かりろく」と申すは、これ、西土(さいど)は嶺南(れいなん)地方の産物にして、殊に食当りなどに服用するものであるゆえに、常に貴人の座上には常備すべき品で御座る。

 稜(かど)が六筋(ろくすじ)あるものを上品となす。八筋より十三筋に至る品々もあるが、これは「椰精勒(ろうせいろく)」と称する。但し、これらは薬用とはしない。

 「訶黎勒」の効能は、不消化の変成物を速やかに下(くだ)し、鬱屈した胸隔(きょうかく)の悪しき気の結滞を鮮やかに破るものであるによって、嶺南にては茶の如くに煎(せん)じ、常に客にもてなすとも聴いて御座る。天竺にても、特に妙薬として用いる薬であるによって、伝来の古き仏典の「金光明経(こんこうめいきょう)」にも、熱病を快癒する薬として用いる、ということをはっきりと載せて御座る。

 

耳嚢 巻之八 完

耳嚢 巻之八 雷死を好む笑談の事

 雷死を好む笑談の事

 

 近き頃にや、茶屋四郎次郎家來に、大酒をなすといふにはあらねどあくまで酒を好みし老人有(あり)しが、我は雷にうたれ死(しな)ん事をねがふと常に言ひしを、いかなる物好(ものずき)にやと笑ひければ、さればとよ我(われ)數年酒を好み、或(ある)は欝を散じあるは寒暑をしのぎて、酒の恩を請(うく)る事報ずるに所なし、しかるに我(われ)何病にて死するとも、自害して死するとも、酒ゆゑなりと、子弟は勿論酒に科(とが)を負(おは)せん、恩は報ひずとも、酒に惡名付(つけ)んこそ心うけれ、雷にうたれ死なば其(その)愁(うれひ)なし、是(これ)によりてねがふなりといゝし。可笑(をかしき)事ながら、尤(もつとも)の一言(ひとこと)と人のかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。奇人譚。

・「茶屋四郎次郎」底本の鈴木氏注に、『幕府の呉服所。初代四郎次郎(清延)は家康に属して戦功あり、二代清忠以後幕府調達を家職とした』とある。呉服所とは幕府・禁裏・大名家などに出入りして衣服類などを調達した呉服屋をいい、別に金銀の融通もした。呉服師。ウィキに「茶屋四郎次郎があり、それによれば、『安土桃山時代から江戸時代にかけての公儀呉服師を世襲した京都の豪商。当主は代々「茶屋四郎次郎」を襲名する習わしであった』とあり、『正式な名字は中島氏。信濃守護小笠原長時の家臣であった中島明延が武士を廃業』大永年間(一五二一年~一五二七年)に『京に上って呉服商を始めたのがはじまりとされる。茶屋の屋号は将軍足利義輝がしばしば明延の屋敷に茶を飲みに立ち寄ったことに由来する。茶屋家は屋敷を新町通蛸薬師下る(現在の京都市中京区)に設け』、実に百六十年に亙って本拠としたとある。『初代清延が徳川家康と接近し、徳川家の呉服御用を一手に引き受けるようになった。三代清次は家康の側近や代官の役割も務め、朱印船貿易で巨万の富を築いた。また角倉了以の角倉家、後藤四郎兵衛の後藤四郎兵衛家とともに京都町人頭を世襲し、「京の三長者」と言われた。しかし鎖国後は朱印船貿易特権を失い、以後は呉服師・生糸販売を専業とするようになる』。但し、十代目の延国(延因)時代の寛政一二(一八〇〇)年には納入価格を巡って呉服御用差し止めを受けてしまい、文化七(一八〇七)年に『禁を解かれたものの以降はふるわず、明治維新後間もなく廃業した』とあるから、執筆推定下限を文化五(一八〇八)年夏とする本巻執筆当時は、まさにその差し止めを受けていた当時であることが分かる。『江戸時代初期の豪商に多い「特権商人」の典型とされる』とある。また、蛸薬師下ルにあった本邸は宝永五(一七〇八)年の『大火によって焼失し、上京区小川通出水上るに移転した。このためこの付近は茶屋町と呼ばれ』、また、『左京区北白川の瓜生山に別荘を持っていたことから、一帯の丘陵を古くは「茶山」と称した』とあって、さらに『清延三男の新四郎長吉(長意)は尾張藩に下り、尾張茶屋家(新四郎家)を創設した。尾張茶屋家は尾張藩主の御側御用と、本家同様公儀呉服師も勤めた。また新田開発に従事し、茶屋新田・茶屋後新田を拓いた。蓬左文庫には尾州茶屋家文書が収録されている』とあるから、本家が幕府差し止めを受けていても、こうした分家子孫が本家を支え、相応の家格を維持し得たものか。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 雷死(らいし)を好むという冗談の事

 

 近き頃のことであろうか、旧幕府呉服所で御座った茶屋四郎次郎家の家来に、大酒(おおざけ)を呑む、という訳ではないものの、ともかくも酒を好める老人があった。

 この老人、常日頃より、

「我らは雷に打たれて死なんことを願(ねご)うて御座る。」

と真顔で申しておったを、ある人、

「……それはまた、奇体。……如何なる謂いの物好きか?」

と、笑って訊ねたところが、

「さればとよ。我ら永年、酒さまを好み、或いはそれで気欝を散じ、或いは寒暑を凌いで、実に深き酒さまの恩を請けて御座った。されど、それに報いる法、これ、御座らぬ。然るに、あろうことか、周囲にては言うにこと欠いて、身共が何かの病いにて死するとも、自害して死するとも、これ、須らく酒の所為(せい)、なんどと申すによって、我らに孝を尽くす子弟には勿論のこと、何より、酒さまに、どうして科(とが)を負わせ申しあぐること、これ、出来よう?! さればこそ、恩は報いずとも、酒さまに悪名(あくみょう)をつけ奉らんことこそ、心憂きことじゃ! ゆえに、酒さまとは無縁と誰もが請けがうところの、雷に打たれて死ぬるならば、そうした愁い、これ、御座らねばの! これによって、我ら、雷死を願(ねご)うておるのじゃて!」

と、言い放った。

 

「……いやいや、もう、おかしきことで御座れど……しかしこれ、聴きようによっては、もっともなる一言(いちごん)では御座いますまいか。」

と、ある御仁の語って御座った。

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 76 物書きて扇引きさく余波(なごり)哉

本日二〇一四年九月二十二日(陰暦では二〇一四年八月二十九日)

   元禄二年八月  九日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十二日

【その二】金沢からついて来た立花北枝が芭蕉と別れたのは何時であるかは判然としないが(曾良と別行動となったために、山中以降は事実を推測するための一次資料が失われている)、芭蕉にはここで出来るだけ辛く孤独な旅をして貰おうと思う(但し、推定では福井の等栽宅までの、その手前の越前丸岡(現在の福井県吉田郡永平寺町。以下に見るように芭蕉は総ての箇所で「松岡」「丸岡」と徹底的に誤っている)から凡そ十キロメートルばかりの短い間のみとは思われるのであるが、これについては、山本胥氏が「芭蕉 奥の細道事典」(講談社α文庫)で述べておられるように、『芭蕉の生涯で、ひとり旅の初体験といえる。旅好きの芭蕉だが、ひとり旅は苦手のようだった。苦手というより、できない人だった、といったほうがよい』(四四九頁)という見解に私は激しく同意するものである。芭蕉が同行者なしに覚悟の旅に出たのは――他には実に――死出の旅路きりであったのだ……)。

 

物書(かき)て扇引(ひき)さく余波(なごり)哉

 

もの書て扇子引きさく名殘(なごり)哉

 

  松岡にて翁に別(わかれ)侍(はべり)し

  時、あふぎに書て給(たまは)る 

もの書て扇子へぎ分(わく)る別(わかれ)哉

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目は「泊船集」(風国編・元禄十一年)の、第三句は「卯辰集」(楚常(そじょう)撰・北枝補・元禄四年刊)。の句形で、この第三句が初案。「卯辰集」巻三には、

 

  松岡にて翁に別侍りし時、あふぎに書きて

  給はる。

もの書て扇子へぎ分る別哉    翁

    笑うて出づる朝きりの中 北枝

  となくなく申し侍る。

 

と北枝が脇を付けている。

 「へぎ分くる」というのは、扇の両面を骨で合わせてあるのを、剝(へ)ぎ分ける、剝いで二つとするの謂いである。諸家はこの改案をそれぞれにあからさまとか、意に寓するとか、なんだかんだと言っているが、私はこの「へぐ」も「わくる」も遺体を剖検しているような、甚だ不快な響きを感じるので、純粋に音韻的に初案を支持しない。本句の「引き裂く」を尋常でないとして、この折りの北枝との関係を詮索する方(山本胥氏など)もいるが、寧ろ、芭蕉は曾良との痛恨の訣別の後、自身を殊更に孤客とせんとした意識を強く感じるものである。少なくとも、私は「扇引きさく」に、立枝との人間関係の不具合を読む気には全くならないとだけ言っておこう。実際には扇を裂いて分け合ったのではなく、芭蕉が一筆ものした扇を与えたものであろうが、そこには寧ろ、これも一種の公案の応答の一つの所作と私には読める。安東氏も「古典を読む おくのほそ道」で、『無(白扇)を捨てることはできぬが、さりとて書けば捨扇(無)にならぬ、という絶対的矛盾に禅機をもとめた句である。つまり、「物書て扇引さく」とは別れずに済す工夫である』と禅問答風に分かったような分からぬような(公案を出されて「作麼生」(そもさん)と促されたその答えとはそもそもがそのようなものである)評釈を述べておられて小気味よい。

 「奥の細道」の汐越の松から北枝との別れの段。

   *

越前の境吉崎の入江を舟に

棹指て汐越の松を尋

          西行

  終宵嵐に波をはこはせて

   月をたれたる汐越の松

この一首にて數景盡たり若一

辨を加ルものは無用の指を立るかこ

とし

丸岡天龍寺の長老古き因あれは

尋ぬ又金澤の北枝と云ものかりそ

 したひ

めに見送りて此處まて來ル所々

の風景過さすおもひつゝけて

折節あはれなる作意なと聞ゆ

今既別に望みて

  物書て扇引割名殘哉

   *

「吉崎」現在の福井県金津町。蓮如が開いた吉崎御坊があり、浄土真宗の聖地としても知られていた。

「汐越の松」「しほこしのまつ」と読む。吉崎の対岸の浜坂にある岬にあった松で、名は海浜に延びた枝が潮をかぶったことに由来する歌枕。現存しない。伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「汐越の松」に苦労された探訪記と無惨な跡の画像が載る。

「終宵(よもすがら)嵐(あらし)に波を運ばせて月を垂れたる汐越の松」これは西行の和歌ではなく、蓮如の作であるが、芭蕉の頃には西行作という俗伝も行われていた、と新潮日本古典集成「芭蕉文集」の富山奏氏の注にある。

「丸岡」冒頭に述べた通り、松岡の誤り。

「天龍寺の長老」清涼山天龍寺は現在の福井県吉田郡永平寺町松岡春日にある曹洞宗永平寺末寺。藩主松平家菩提寺でもある。当時の松岡は松平昌勝五万石の城下町であった。「長老」は禅寺の住持を指す語。当時は大夢(たいむ)和尚で、彼はかつて江戸品川にある曹洞宗寺院、瑞雲山天龍寺の住職であったことから芭蕉とは旧知の仲であった。

「北枝」立花北枝(生年不詳~享保三(一七一八)年)。ここで詳細を注しておく。通称は研屋源四郎。金沢に住み、刀の研師を業とする傍ら、俳諧に親しんだ。元禄二年のこの時、蕉門に入り、後、加賀蕉門の中心人物として活躍したが、無欲な性格で俳壇的な野心はなかった。自分の家が丸焼けになった際には、

 燒にけりされども花はちりすまし


と詠んで芭蕉の称賛を得たエピソードは有名で、世俗を離れて風雅に遊ぼうとする姿勢が窺える(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

耳嚢 巻之八 かつ著往古の形樣の事

 かつ著往古の形樣の事

 

 かつぎは、歩障(ほしやう)行障(かうしやう)被衣(ひい)といふ。代々うつりかわるさまにて、今のかつぎは左(さ)の圖に記せし通りにもなく、被衣を差略(さりやく)して綿帽子といふものを用ゆ。近來に至りて、練(ねり)の帽子、又は紫の絹帽子などあり。何れも婦女の面(をもて)を覆ふの具なり。鄙賤の者に至りては、東都の女、袖頭巾(そでづきん)といふ物を用ひ、甚敷(はなはだしき)に至りては米屋かぶりなど號(がうし)、新敷(あたらしき)手拭ひにて髮をつゝむ。是等も左に記す被衣の餘風ならんか。左の書付は或人の携(たづさへ)來るまゝ、今昔風俗のうつりかはる事を思ひつゞけて爰に記す。

 

Katugi

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。衣類風俗考現学物。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版には二図についてのキャプションがあり(これがもしかすると本文の「左の書付」と称するものではなかろうか?)、しかも二つの図ともに墨塗りがあって非常に見易い。補足を正字化して以下に示し、両図も併置する。

 

歩障 行障 被衣 綿帽子

此圖はふるき土佐家の畫がける

物語にありけるをうつす。

是は靈光院法皇の御屛風

の繪にありけるを、うつ

しけるよし。

 

Katugi2

Katugi3

 

因みに、同岩波版長谷川氏注に、この「土佐家」とは『大和絵の一派土佐派の画師』、「靈光院」は、『霊元院か。百十二天皇。寛文三年(一六六三)即位、貞享四年(一六八七)譲位、正徳三年(一七一三)落飾』とある(霊元天皇の崩御は享保一七(一七三二)年八月)。

・「かつ著往古の形樣の事」「かつぎわうこのけいやうのこと」と読む。「かつぎ」は「かづき」とも呼び、「被」「被衣」と書く。外出時に頭ら懸けた衣服(古くは主に女性が用いた)を指す。

・「差略」作略とも書く。本来は対象や行為を適当に取り計らう謂いであるが、ここは簡略化・簡素化しての謂い。

・「綿帽子」は真綿を薄く引き伸ばし広げ、フノリで固めて丸形や船形にした被り物。現在は神前結婚式に於いて花嫁の被りもとしてしか見かけることはないが、もともとはここに出るところの、室町後期から安土桃山時代にかけて武家婦人の外出着として小袖を頭から被って着られていた「被衣(かづき)」を起源とし、元来は外出する際の埃除けや防寒具として男女ともに用いられていたものが、江戸時代になってこの綿帽子が若い女性の被り物として定着していった。綿帽子には丸綿・舟綿・古今綿・促綿(うなぎわた)などの形の違いによる種類がある、と参照した「ウエディング用語辞典」の「綿帽子」にある。

・「袖頭巾」江戸時代に女性が用いた着物の袖の形をした頭巾。袖口から顔を出すようにして被る。後に御高祖(おこそ)頭巾となった。画像は「風俗博物館」の「袖頭巾をかぶる婦人」を参照されたい。

・「米屋かぶり」「こめやかむり」とも呼び、本来は米屋・搗き屋などが糠のかかるのを防ぐためにした手拭いの被り方。手拭いで頭をすっぽりと包み、両端を後頭部で結ぶもの、と辞書にはあるが、喜多川守貞「近世風俗志(守貞謾稿)」(一九九七年刊の宇佐美英機校訂の岩波文庫版を使用したが、恣意的に正字化した。図も同書より引いた。一部の原文の誤りは校訂指示によって訂した)には、

   《引用開始》

 

Keihankome

[やぶちゃん注:京阪の米屋かぶりの図。]

 手拭のあるひは左あるひは右の端より頭に卷き、上の方を寄せて卷き終りの端前隅を挾むなり。京坂は初め眼を覆ふばかりに卷き、被り終りに隅を額に出し、眼を覆ひたるを上に引き返し挟むなり。すなはち上圖のごとし。

Edokome

[やぶちゃん注:江戸の米屋かぶりの図。]

 江戸は初めより目上に卷き被り、終りに前隅を上圖のごとく額に挾む。

 米屋と云ふことは、圖のごとく被りて埃を除くを專とし、米屋は特に埃多き賈なる故に、專らこれをなす故に名とす。その他にも業に應じてこれをなすなり。

   《引用終了》

とある。ネット上を調べるうちに、詞己(しき)氏がブログ「右月左月」の「手ぬぐいで米屋かぶり」に於いて、やはりこの「近世風俗志」を引用され、次のように述べておられるのを見出した。『つまり、手ぬぐいの端を頭の前からぐるっと巻いて、終りを前に挟み込む。上方(京都・大阪)では前を眼に被るぐらい深く巻いて、巻き終わったら外に折り返す。江戸では巻き終わりを内側に挟み込む。ということで』あろうとされ、以下のように正確に定義されておられる。

   《引用開始》

◇米屋かぶり(こめやかぶり)

手ぬぐいの右または左端を額から頭に巻き、巻き終わりを前に挟み込む。上方(京都・大阪)では前を眼に被るぐらい深く巻いて、巻き終わったら外に折り返す。江戸では巻き終わりを内側に挟み込む。

米屋・搗き屋(つきや)などが、精米作業中に頭に糠(ぬか)がかかるのを防ぐためにする手ぬぐいのかぶり方。

米屋冠(こめやかむり)。

   《引用終了》

・「今昔風俗のうつりかはる事を思ひつゞけて爰に記す」この異例の根岸の感想や、本文中の「差略」「甚敷」という批判的な物言いからは、明らかに彼が「袖頭巾」や「手拭ひにて髮をつゝむ」「米かぶり」を下品なものと意識し、こんなものなどは「被衣の餘風」なりとは認められぬという思いが透けて見えるように思われる。根岸の女性の嗜みに対する美意識が現れた非常に珍しく、興味深い章と私は読むのである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 被衣(かつぎ)の往古の形様(けいよう)に就いての事

 

 「かつぎ」は、「歩障(ほしょう)」「行障(こうしょう)」「被衣(ひい)」などとも申す。

 世々、その形態は移り変わっており、現在の「かつぎ」と申すものは、左図に示したような原形とは、これ、かなり異なってきており、いわば、本来の被衣(かつぎ)を簡略化して「綿帽子」と申すものを用いるようになっておる。

 近年に至っては「練絹(ねりぎぬ)の帽子」または「紫の絹帽子」などと申すものもある。

 孰れも婦女の面(おもて)を覆い隠すための装着具であることに変わりはない。

 江戸近在の田舎や低き身分の女などにあっては「袖頭巾(そでづきん)」と申すところの雑なる物を用い、また、はなはだしきに至っては、「米屋かぶり」など称し、ただの何の変哲もなき新しき手拭いを以って髪を包んだだけのものも見受けらるる。

 これらも左に示した被衣(かづき)の余風ででもあるのであろうか。

 左図と書付(かきつけ)はと、とある御仁の携え来った、そのままを手を加えずに示したもので、今昔の風俗、その移り変わるさまに、我ら、少しばかりしみじみと感じたるところのあったによって、ここに特に記しおくことと致いた。

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 75 庭掃いて出でばや寺に散る柳

本日二〇一四年九月二十二日(陰暦では二〇一四年八月二十九日)

   元禄二年八月  九日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十二日

【その一】山中温泉で芭蕉と別れた曾良は、当然のことながら、芭蕉のメインの行路をほぼ先行する形で大垣まで旅している(恐らくは大垣(推定ではほぼ同時に曾良は大垣に着いた可能性もある)芭蕉の到着を迎えた後、路通・木因(ぼくいん)らともに芭蕉従って伊勢長島に向かい(この事実は曾良の単独行の当初の理由と齟齬していてやはり怪しい)、更に伊勢神宮参宮へと向かった)。後掲するように「奥の細道」では『曾良も前の夜此寺に泊(とまり)て』とあって、本句を詠んだのは曾良がここ全昌寺(加賀市大聖寺神明町に現存。曹洞宗、山号は熊谷山(「ようこくざん」と読むか)。前に注した通り、山中和泉屋若主人久米之助桃妖の心遣いによる二人への紹介によったもの。和泉屋の菩提寺であり、当時の住持月印が和泉屋若主人久米之助の伯父であった)に泊まった翌日と記している。曾良の日記は曾良の独り旅となった後も記されており、山中を発った八月五日は全昌寺に午後四時頃に着、翌六日は雨のため同寺に滞留、翌七日の午前八時頃に発っているから、芭蕉の言葉が正しいとすれば、芭蕉が全昌寺に着いたのは八日、発つに際しての挨拶吟として本句を詠んだのはこの九日朝のことということになるのである。

 

庭掃(はい)て出(いで)ばや寺に散(ちる)柳

 

庭はきて出ばや寺に散柳

 

庭掃て出(いづ)るや寺に散柳

 

[やぶちゃん注:第一句目は通行本の「奥の細道」の句形。第二句目は「島之道」(玄梅編・元禄十年序)及び「東西夜話」(支考編・元禄十四年成立)の句形で、後者には、

 

  なにがし前昌寺といふ寺は先師一夜の秌(あき)をわびて

 

という支考の前書を記す。第三句目は井筒屋本「奥の細道」の句形。他に、「宇陀法師」(許六ら編・元禄十五年刊)に、

 

庭拂て出ばや寺に散柳

 

と載るが、私はこの「拂」は「掃」の誤字と断じて採らない。

 禅寺に一夜の宿を求めて翌朝行脚に発つ折りには、境内を払掃するのが礼式。

 「奥の細道」の全昌寺の段。

   *

大聖持の城外全昌寺と云寺に

泊る猶かゝの地也曽良も前の

夜此寺に泊て

  終夜秋風聞やうらの山

と殘ス一夜の隔千里におなし

我も秋風を聽て衆寮に臥

明ほのゝ空ちかふ讀經聞ユルニ板鐘

鳴て食堂に入けふは越前の

國へと心早卒にして堂下に下

若き僧共紙硯をかゝへて階の

もとまて追來ル折節庭中の

柳散れは

   庭掃て出はや寺に散柳

とりあへぬ一句草鞋なから書捨

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇終夜    → ●終宵

(但し、読みは孰れも「よもすがら」。)

○板鐘    → ●鐘板

〇堂下に下る → ●堂下に下るを

■やぶちゃんの呟き

「大聖持」現在の加賀市大聖寺町。当時は加賀藩前田利明七万石の支城であったが、伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「奥の細道 曾良との別れ」の語注によれば、『幕府ににらまれることを嫌って、金沢とは一体的に経営しなかったという』とある。山中温泉の北西約八キロメートルに位置する。町名はかつてあった大聖寺という寺名によるか(現存しない)。「持」は誤字ではなく、寺名を憚って地名の字を変えたものであろう(鎌倉の浄妙寺と地名浄明寺などよく見られる)。

「全昌寺」冒頭の私の注を参照。

「終夜秋風聞やうらの山」「よもすがらあきかぜきくやうらのやま」と読む曾良の句。秋夜孤客の常套の奥に、私は山中で芭蕉と別れたことへの曾良の自責の念が強く響く。芭蕉が敢えてここに曾良の句を挿入したのには、そうした曾良の心境を芭蕉が既にして汲み取っていた――その上で、しかも敢えて曾良と決別したのだったという事実を私には伝えるものでもある。芭蕉の孤愁も、実は深かったことが次の「一夜の隔だて千里に同じ」の語彙選びからも窺える。

「一夜の隔だて千里に同じ」――ただ一夜(ひとよ)だけの違いだのに、まるで千里も彼と隔たったいるような断腸の思いが我が身を引き裂く――というのである。以下の熙寧(きねい)四(一〇七一)年九月の蘇東坡の五言古詩を、曾良との離別(更には私に言わせれば哀しい意識の齟齬をさえ)インスパイアしていることは最早、明白である。

 

  頴州初別子由二首 其二

 

近別不改容

遠別涕霑胸

咫尺不相見

實與千里同

人生無離別

誰知恩愛重

始我來宛邱

牽衣舞兒童

便知有此恨

留我過秋風

秋風亦已過

別恨終無窮

問我何年歸

我言歳在東

離合既循環

憂喜迭相攻

悟此長太息

我生如飛蓬

多憂髪早白

不見六一翁

 

  頴州(えいしふ)にて初めて子由(しゆう)に別る 其の二

 

 近き別れは  容(かほ)を改めざるも

 遠き別れは  涕(なんだ) 胸を霑(うるほ)す

 咫尺(しせき)にして相ひ見ざれば

 實は千里と同じ

 人生 離別が無くんば

 誰(たれ)か恩愛の重きを知らん

 始め我(われ)  宛邱(ゑんきう)に來たりしとき

 衣()を牽()きて  兒童舞ふ

 便(すなは)ち知(しん)ぬ 此の恨うらみ有るを

 我を留めて 秋風を過ごさしむ

 秋風 亦 已に過ぎ

 別れの恨みは 終に窮きわまり無し

 我に問ふ 「何(いづ)れの年に歸る」と

 我は言ふ  「歳(さい)の東(ひんがし)に在るとき」と

 離合 既に循環すれば

 憂喜 迭(たが)ひに相ひ攻む

 此れを悟りて 長太息(ちやうたいそく)す

 我が生は飛蓬(ひはう)のごとし

 憂ひ多ければ 髪 早く白からん

 見ずや 六一(りくいつ)の翁(おう)を

 

本詩は蘇軾三十六歳の熙寧(きねい)四(一〇七一)年九月の作。王安石の新法党を批判していた彼が、弾圧が強まる中、この年、自ら地方官を望んで、通判杭州(現在の浙江省杭州市の副知事)となって赴任した、その途次の師との再会であった。詩の内容は弟蘇徹の頑是ない子らととの一時の対面と別れのシークエンスを語っているが、遂に最後となった師との別れをもさりげなく、最後の一句に暗示させる造りともなっている(かのように私は感じられる)。

●「頴州」現在の安徽省阜陽県。

●「子由」欧陽脩。科挙試を監督した際、蘇軾を見い出したのは彼であった。王安石の抜擢も彼であったが、彼の起こした新法には反対派の先頭に立ち、そのままこの前年に政界を引退して、ここ頴州に隠棲していた。当時六十五歳。この翌年同地にて没している。

●「咫尺不相見」「咫」は周尺の八寸(約十八センチメートル)、「尺」はその一尺、十寸で、二二・五センチメートル。転じて、距離の極めて近いことをいう。

●「宛邱」陳州(現在の河南省淮陽(わいよう)県)の異称。頴州の西北百キロメートルほどに位置する。蘇軾の弟蘇徹が陳州学官(教授職)の任にあったのを、赴任の途次、訪ねて同道して欧陽脩に謁したのであった。

●「兒童」蘇徹の子どもたち。「問我何年歸」はこの子どもの台詞である。

●「歳」注の参考にした岩文庫小川環樹・山本和義選訳「蘇東坡詩選」の語注によれば、『歳は太歳(たいさい)。太歳は十二年で天球を西から東へ一巡する歳星(さいせい)(木星)を十二支に位置づけ、その対角にある十二支で呼ぶもの。この詩が作られたのは辛亥(しんがい)の歳で、太歳は亥(がい)にある。それが東すなわち寅(いん)に位置するのは、杭州の任期が満了する三年後の甲寅(こういん)の歳(熙寧七年)である』とある。

「迭」代わる代(が)わる。

●「悟」「語」とするテクスト有り。

●「飛蓬」同じく「蘇東坡詩選」の語注によれば、『蓬はアカザ科の植物で、砂漠地帯に生え、根を吹きちぎられて、風のままに転びゆく』(これは本邦の「蓬」、キク科キク亜科ヨモギ Artemisia indica とは全く異なるので注意。この説明から想起出来るように、西部劇でしばしば見るところの、あのころころと転がる草、ナデシコ目ヒユ科オカヒジキ属 Salsola 、英名“Tumbleweed”の類であると思われる。アカザ科とあり、実際に多くの植物分類学者はアカザ科を独立の科として扱っているものの、二〇〇三年版の被子植物新分類体系APG“Angiosperm Phylogeny Group”(被子植物系統グループ)第二版の略称)では認められておらず、ヒユ科 Amaranthaceaeの中に含まれている。ここは主にウィキの「アカザ科」の記載に拠った)『古来、飛蓬・転蓬に比喩して人生の不安定さが嘆かれた』とある。なお、以上の私のタンブルウィード(ロシアアザミとも言う)の同定に疑義のある方は、例えば個人ブログ「書迷博客」の「李白/送友人(三)」の比定などを参照されたい。

●「六一翁」欧陽脩の号。「蘇東坡詩選」の語注によれば、彼は『蔵する書物一万巻・金石遺文一千巻・琴一張・碁一局・酒一壺に自らの一老翁を加えて六一居士(りくいつこじ)と号した』とある。

「衆寮」禅寺の雲水らの宿寮のこと。

「板鐘」「ばんしよう」と読んでいよう。鐘板(しょうばん)。雲板。禅寺で食事の合図に打ち鳴らす板。少なくとも私の目にした多くは木製で、口に珠を銜えた長身の魚形(主に鯉という)をしていて、食堂(じきどう)若しくはその近くの軒下に吊られてあった。

「心早卒にして」「こころさうそつにして」と読む。気がせくままに急いで。

「とりあへぬさまして」差し当たっての即応吟として。謝意の他に、禅の公案の答えを諧謔化したもののようにも私には読める。特に、直前の「若き僧共、紙・硯をかゝへて階(きざはし)のもとまて追ひ來たる」というドタバタとした滑稽で俗な〈動〉に対して、「庭掃いて出でばや寺に散る柳」のあくまで澄んだ〈静〉が、そのような対位法的コール・アンド・レスポンスを醸成しているように私は感ずるのである。]

2014/09/21

橋本多佳子句集「海彦」 淡路島

 淡路島

 

   七曜同人朝倉十艸氏宅に滞在

 

みどりの島へ舷梯懸るわたりけり

 

[やぶちゃん注:「七曜」は昭和二五(一九五〇)年一月に『天狼』系の俳誌として多佳子が主宰していた(多佳子没年の昭和三八(一九六二)年に堀内薫が継承)。「朝倉十艸」不詳。]

 

あぢさゐのくれなゐ潮路来りけり

 

地にのこる鮮血鱝(えひ)を競りしあと

 

月光来る靴がばがばと搾乳夫

 

月光(て)る桶びしびし奔る牛乳享け

 

月光濃き搾乳の桶股ばさみ

 

  天女丸

 

思ひ切り西日の舵輪まきかへす

 

 

[やぶちゃん注:「天女丸」摂陽商船株式会社が大正一五(一九二六)年に大阪と淡路島の洲本間に運行を開始した急行線で就航したディーゼル・エンジン搭載の新造船天女丸四九五トン。個人サイト「~ぶらり散歩~淡路島 歴史の小径」の記載によれば、運行当時は大阪―洲本間を二時間三十分で運行、『その姿と快速ぶりが人気をよんだ。さらに、昭和5年にはディーゼルの此花丸』『による兵庫洲本急行便を加え、天女丸とともに春から初秋の淡路島観光を盛り上げた』とある。リンク先には優雅な船体の写真もある。]

耳嚢 巻之八 赤貝和らか煮兩法の事

 赤貝和らか煮兩法の事

 

 赤貝を煮るに兎角かたく、或は能くたゝけば肉崩れて其形不宜(よろしからず)。是を和らかにせんに、別の趣法(しゆはう)なし、熱湯の上へ箸樣の者を渡し、其上にのせて蒸(むす)に、和らかに成る事奇妙の由、人のかたりぬ。其かたわらに有(あり)ける人のいえるは、敲(たた)く事つよく敲(たたく)ゆゑに内損(うちそん)じ見ぐるしく、箸にひとしきものを以て靜(しづか)に心永(こころなが)くたゝけば、和らかに成る由、ためし見しと語りぬ。いづれも手法はあるものなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。一般に貝類は長く煮れば堅くなる。さっと湯通しするのが普通だが、まさに第一の方は遠くから湯気を当てて緩やかに蒸す適法と言える。また、青柳などでもそうだが、強く叩き過ぎると逆に(というより俎板に叩きつけると)肉が締る(そこでお兄さんになって肉が緩んでしまったものをわざと叩きつけて新鮮なものに偽装する仕方を悪しき板前はよくする)ので、新鮮なものでは、軽く刺激を与えて血行をよくさせてやるならば、逆に柔らかになろうかとは思う。しかしこの話、訳しているうちに、人間のあらゆる直接的な粗暴行為に対する一種の換喩のようにも見えてくるから不思議である。

・「赤貝」アカガイ Scapharca broughtonii であるが、当時の漁師はいざ知らず、一般の江戸庶民はアカガイと近縁のサルボウ Scapharca kagoshimensis の区別は出来なかったものと考えてよかろう。因みに両者の判別のポイントは殻の凸方の肋にあり、アカガイの殻上の肋の数が四十二本前後であるのに対して、サルボウは三十二前後と有意に少ない。また、殻の輪郭がアカガイではすっきりと丸くなっているのに対して、サルボウは船形で開口部がアカガイに比すと直線状になっている。まあ、江戸っ子が殻の肋の数を数えているなんぞというのは、サマにならねえ、という気はする。但し、寺島良安は和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部(全巻完成は正徳二(一七一二)年頃)の「蚶(あかゞひ)」の項でちゃんと、この違いを述べて(『猿頰【一名、馬の甲(つめ)。】 蚶の小さき者にして、自(をのづか)ら此れ、一種なり。殻、圓く厚く、溝、亦深く粗し。大なる者、一~二寸。肥州〔=肥前〕長崎に最も多し』と区別している。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 赤貝を柔らかく煮る二種の方法の事

 

 赤貝を煮るに、とかく堅くなり、あるいは柔らかくしようとして調理の前に盛んに叩くと、これ、肉が崩れて、その形が如何にも不味そうに見え、よろしゅう御座らぬ。

 さて、これを柔らかにするには、実はこれといった特別なる手の込んだ手法は必要で御座らぬ。

「熱湯の上へ箸のようなものを渡しておき、その上に赤貝を乗せて蒸せば、柔らかになること、請け合いで御座って、これ、実に不思議で御座る。」

とある人の語って御座ったが、その折り、傍らにあって、それを聴いた別のお人が付け加えて申したことには、

「よう、柔らかくせんものと、無暗に赤貝の肉を強く叩く御人があるが、これは度を越せば、必ず肉を打ち損じ、ぐたぐたとなって見苦しくなって仕舞いまする。こういう時は、箸に似たようなものを以って、静かに、とんとんと、心穏やかにして、しかも、少し長めにゆっくら叩いたならば、きっと赤貝は柔らこうなるものにて御座る。実際に拙者も試してみ申したが、確かに柔らかくなり申した。」

と語って御座った。

 孰れの物事にも、かくも易しく、しかも確かなる手法と申すものが、これあるもので御座る。

耳嚢 巻之八 貫之の書ける月字の事並日野資枝和歌の事

 貫之の書ける月字の事日野資枝和歌の事

 

 土佐の國野田郡水田村、松山寺の土中より出し由。門前に八十餘の老婆ありて、此字貫之といふ人書(かき)たりとて、此寺の堂の上に釘にてしめ置(おき)たりと語りしに付、夫(それ)より敬し侍ると也。其圖左にしるしぬ。近頃日野一位資枝(すけき)卿其品を見て、

 世々遠く有るかなきかの影とめて月をかたみのみづぐきのあと

 

Tuki

 

□やぶちゃん注

○前項連関:狂句譚から和歌譚で連関。この段以降、急に図が増える。

・「野田郡水田村松山寺」郡名村名ともに不審。底本鈴木氏注に『野田、水田村の地名は見当らず、松山寺も現存しない』と記すが、岩波版の長谷川氏注には、高知県幡多(はた)郡大方町黒潮町伊田『にあった真言宗の寺。清岸山東光院松山寺。月字の額が寺宝として伝え羅られていた』とある。この寺は、開基は空海とか、本尊地蔵菩薩像は行基作とか、聖武天皇勅願所とかいった伝承が残っていたらしいが、明治初年頃に廃仏毀釈により廃寺となって、現在は黒潮町文化財史跡に指定されている(情報は同町の記事のキャッシュによる。但し、この寺の後身が観音寺と名を変えて無住ながら現存するらしい。後文参照)。また鈴木氏注は前に三村竹清の注を引いて、土佐幡多郡瀬海という地に松山寺という寺があり、そこに扁額にした「月」の字が残っている。言い伝えによればこれは紀貫之公が書き残したものであるとされるが、僻地なれば未だこのことを知れる人もない。この事蹟が徒らに忘れられて朽ち埋もれることを惜しんで、天明年中(一七八一年~一七八九年)に土佐藩士で和歌を好まれた春水尾池翁が顕彰した旨の引用記載(原文漢文。但し、最後に『文政十三年記』とあってこの記載自体は本「耳嚢」の記載よりずっと後の一八三〇年である)があり、ここに出る『尾池春水は名を敬永といい、日野資枝門の歌人国学者。紀貫之を崇拝し、藩主山内豊薙に書を請い、紀子旧跡の碑を建てた。文化十年歿、六十四』とある。

 さて、ところがネット上で検索した結果、この「月の字」の扁額は現存することが分かった。個人サイト「私の大方町」の月字の額は恐らく、これについての現在望みうる最も詳細な情報である。それによると(引用ではコンマを読点に変えさせて戴いた)、伊田の松山寺というのは『明治初年の廃仏棄釈で廃寺となり、その後復興して観音寺と称し、国道沿線に移って』おり、そこに、『紀貫之の書と言われている月字の額が残ってい』るとあり、幡多郡黒潮町伊田に現存する『観音寺は無住の寺であるため、月字の額とそれに関係した文書類は、現在、伊田部落の区長宅に保管されている』とある。さらに、『この「月字の額」は、紀貫之が土佐守として比江の国府に在住していた時、自ら書して庁舎に掲げてあったものが松山寺に移されたと伝えられてきたが、貫之が幡多路へ巡察の足を伸ばしたことがあって、そのおり、松山寺へ立ち寄って書き残したものかもしれない』と考証され、『ある年の暮れ、松山寺の煤掃きの際、梁上に片付けてあったこの扁額を寺僧の誰かが不用物と思って塵焼き場で焼き棄てようとして気がつき、その焼け残りの「月」の一文字のみを取り上げて置いてあったものを、たまたま「尾池春水」が見出したものである』。『「尾池春水」は、後に幡多郡奉行となった政治家であり又歌人でもあるが、天明元年(1781)の春、高知への道中に松山寺に立ち寄って一泊』、そこで『住持台浄に、かねがね聞き及んでいた「月字」を見せてもらった春水は、これは紀貫之の真筆に相違ないと言って、その搨本(とうほん)を作り、京都の日野大納言資枝に送って鑑定してもらったのである。資枝は確かに貫之の筆になるものであるとして、所懐を一首和歌に託して送ってきた』とあって、まさに本話にある日野資枝の和歌が載っている(「搨本」は拓本のこと)。また『春水が寛政3年(1791)に書いた「月字額之記」と、同年篆刻(てんこく)の副本を作成した作成したおり書いた「月字墨本後序」も現在も伊田の区長宅に保存されている。また、月字の額を天下に顕彰した春水の徳を讃えて松山寺の住持龍昌がその遺歯を埋めて建てた「えい歯の碑」が、松山寺の後身である観音寺に現存』するともあって、『尾池春水は文化10年(1813)に没したが、それより後30年余りを経た弘化2年(1845)の貫之没後900年忌にあたり、一橋家の執事野々山市郎左衛門包弘という人が、貫之の月字の搨本(とうほん)を手に入れて感激し、更にそれを模刻して諸方の文筆愛好家に贈って、それらの人々から和歌を求めて一帖を作り、これに「月字和歌集」と題して松山寺に奉納した。上質の紙に筆写したその和歌集が、現在色なお新しくこれも伊田区長宅に保管されている』という現況の委細が記されてあって、実に緻密な事蹟記載に頭が下がる思いがする必読の頁である。また、検索で見つけたページでは松山寺跡とその後身である観音寺の現況写真が見られる。

・「日野一位資枝」「耳嚢 巻之五 日野資枝卿歌の事」「耳嚢 巻之五 鄙賤の者倭歌の念願を懸し事」等、本書では多く既出する。再注しておく。日野資枝(元文二(一七三七)年~享和元(一八〇一)年)は公家。日野家第三十六代当主。烏丸光栄の末子で日野資時の跡を継ぐ。後桜町天皇に子である資矩とともに和歌をもって仕えた。優れた歌人であり、同族の藤原貞幹(さだもと)・番頭土肥経平・塙保己一らに和歌を伝授した(著書に「和歌秘説」日)。画才にも優れ、本居宣長へ資金援助をするなど、当代一の文化人として知られた(以上はウィキの「日野資枝」に拠る)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 紀貫之の書きたる「月」の字の事並びに日野資枝(すけき)卿の和歌の事

 

 土佐国野田郡水田村と申すところに松山寺という寺があるが、その境内の土の中より出でたるところの、紀貫之の書きたる「月」の字の扁額がある由。

 門前に八十余りの老婆が住んでおるが、その者の話によれば、

「この字はの、貫之というお人が書いたものじゃ。この寺の堂の上に、釘にて打ち付けおいたものなんじゃ。」

と語ったによって、それよりこの方、ずっと敬し奉っておる旨、聴いておる。

 その扁額の拓本から写した図を左に記しおいた。

 近頃、日野一位資枝(すけえ)卿が、その品(拓本にとったるもの)を御覧になられて、

 

 世々遠く有るかなきかの影とめて月をかたみのみづぐきのあと

 

と詠まれた、とのことで御座った。

耳嚢 巻之八 連歌其心自然に顯るゝ事

 連歌其心自然に顯るゝ事

 

 古物語にあるや、また人の作り事や、夫(それ)はしらざれど、信長秀吉、乍恐(おおそれながら)神君御參會の時、卯月のころ、いまだ郭公(ほととぎす)を聞(きか)ずとの物語り出けるに、信長、

  鳴ずんば殺して仕まへ時鳥

とありしに秀吉、

  鳴ずとも鳴せて聞ふ時鳥

とありしに、

  なかぬなら鳴時聞ふ時鳥

とあそばされしは神君の由。自然と其御德化の温順なる、又殘忍、廣量なる所、其自然をあらはしたるが、紹巴(ぜうは)も其席にありて、

  鳴ぬなら鳴ぬのもよし郭公

と吟じけるとや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。本話のソースをネット上に松浦静山の「甲子夜話」とするものを見かけたが、この「耳嚢」の方が遙かに早い。岩波版長谷川氏注には「百草露」(著者は含弘堂偶斎とも小野高潔ともされ、成立は天保一一(一八四〇)年頃か)の「九」にも載る、とある(これは所持しないので未見)。「甲子夜話」の「第五十三 八」から引いておく(底本は東洋文庫版を用いたが、恣意的に正字化した)。

 

夜話のとき或人の云けるは、人の假托に出る者ならんが、其人の情實に能く協へりとなん。

  郭公を贈り參せし人あり。されども鳴かざりければ、

  なかぬなら殺してしまへ時鳥   織田右府

  鳴かずともなかして見せふ杜鵠  豐太閤

  なかぬなら鳴まで待よ郭公    大權現樣

このあとに二首を添ふ。これ悼る所あるが上へ、固より假托のことなれば、作家を記せず。

 なかぬなら鳥屋へやれよほとゝぎす

 なかぬなら貰て置けよほとゝぎす

 

 因みに、

 

織田が搗(つ)き羽柴が捏(こ)ねし天下餠座して喰らふは德の川

 

という落首もあるが、これは幕末の天保期(一八三〇年~一八四四年)或いは嘉永期(一八四八年から一八五四年)に作られたとされるものである。

・「紹巴」戦国期の連歌師里村紹巴(さとむらじょうは 大永五(一五二五)年~慶長七(一六〇二)年)。以下、ウィキの「里村紹巴」によると、里村姓は後世の呼称で、本姓は松井氏ともいわれる。号は臨江斎・宝珠庵。奈良の生まれ。連歌を周桂(しゅうけい)に学び、周桂没後は里村昌休(しょうきゅう)につき、後に里村家を継いだ。その後公家の三条西公条条(さんじょうにし きんえだ)をはじめ、織田信長・明智光秀・豊臣秀吉・三好長慶・細川幽斎・島津義久・最上義光など、多数の武将とも交流を持ち、天正一〇(一五八二)年に明智光秀が行った「愛宕百韻」に参加したことは有名で、本能寺の変の後には豊臣秀吉に疑われるも、難を逃れたとある。四十歳の時、連歌界の第一人者であった宗養(そうよう:「東国紀行」の作者として知られる連歌師宗牧の子。)の死でスターダムにのし上がるも、文禄四(一五九五)年の豊臣秀次が秀吉に謀反の疑いをかけられて切腹した一件に連座し、近江国園城寺(三井寺)前に蟄居させられた。『連歌の円滑な進行を重んじ連歌論書『連歌至宝抄』を著したほか、式目書・式目辞典・古典注釈書などの著作も多く、『源氏物語』の注釈書『紹巴抄』、『狭衣物語』の注釈書『下紐』などが現存している。近衛稙家に古今伝授をうけた。門弟には松永貞徳などがいる』。「逸話」の項には、『辻斬りに遭遇したが、逆に刀を奪い取って追い払ったことがあり、これを信長に賞賛された、と、弟子の貞徳が伝えている』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 連歌にはその心の自然に顕わるる事

 

 古き物語にでも記されてあるものか、はたまた、誰かの作り話てもあるものか、それは定かではないが――信長公、秀吉公、そうして――お畏れながら――神君家康公の御三方が御参会なされたる砌り、卯月四月の頃おい、いまだ郭公(ほととぎす)の音を聴かず、との御物語りが場に出でたりけるところ、信長公は、

 

  鳴ずんば殺して仕まへ時鳥

 

と詠まれたところが、秀吉公にては、

 

  鳴ずとも鳴せて聞ふ時鳥

 

とものされた。すると、

 

  なかぬなら鳴時聞ふ時鳥

 

と遊ばされたは神君家康公であられた由。

 自然と、神君家康公の広大無辺なる御徳化の温順であらせられること、また、信長公の残忍たりしこと、秀吉公の巧妙なる智をめぐらしつつも度量の広きところなど、その自然を句に顕わして御座ったが、たまたま、かの連歌師紹巴(じょうは)も、その席にあって、

 

  鳴ぬなら鳴ぬのもよし郭公

 

と吟じたとか。

耳嚢 巻之八 石中蟄龍の事

 

 石中蟄龍の事

 

 江州の富農石亭(せきてい)は、名石を集め好むの癖あり。既に雲根志(うんこんし)といへる愛石を記したる書を綴りし事は、誰(たれ)しらぬ者なし。或年行脚の僧、是(これ)がもとに泊り、石亭が愛石の分(ぶん)を一見しけるゆゑ、石亭も御身も珍石や貯へ給ふかと尋(たづね)しに、我等行脚の事ゆゑ更に貯(たくはふ)る事なけれど、一つの石を拾ひ得て常に荷の内に藏す、敢て不思議もなけれど、水氣を生ずるゆゑに愛する由語るを聞(きき)、もとより石に心を盡す石亭なれば、强(しい)て所望して是を見るに、其色黑く一拳斗(ひとこぶしばかり)の形にて、窪(くぼ)める所水氣(すいき)あり。石亭感心無限(かぎりなく)、何卒お僧に相應の代(しろ)もの與(あたへ)ん間、給(たまは)るべきやと深切にもとめければ、我(わが)愛石といへども、僧の事敢て輪𢌞(りんね)せん心なし、打鋪(うちしき)にても拵へ給はらば、頓(とみ)に與へんといゝしゆゑ、石亭大に歡びて金𮉚(きんらん)の打鋪を拵へ與へて、彼(かの)石とかへぬ。扨(さて)机上に置(おき)、硯の上におくに、淸淨の水硯中に滿(みち)てそのさまいはんかたなし。厚く寵愛なしけるを、或る老人つくづく見て、かく水氣を生ずる石には果して蟄龍有(ある)べし、上天(しやうてん)もなさば大きなる憂(うれひ)もあらん、遠く捨(すて)給へと申けれど、常に最愛なしける石なれば曾(かつ)て其異見に隨はざりしが、有時曇りて空さへきる折柄、右石の中より氣を吐(はく)事尋常ならざれば、大きに驚きて、過(すぎ)し老人の言(いひ)し事思ひ出(いで)て村老近際の者を集めて、遠き人家なき所へ遣すべしといゝしに、其席に有(あり)ける老人、かくあやしき石ならばいかなる害をやなさん、燒(やき)捨(すつ)べしと云(いひ)しを、左(さ)はすまじきとて、人離れたる所に一宇の社堂有し故、彼(かの)處へ納置(をさめおき)て皆々歸りぬ。然るに其夜風雨雷鳴して彼(かの)堂中より雲起(おき)、雨烈敷(はげしく)、上天せるものありしが、跡にて右堂に至り見しに、彼(かの)石は二つにくだけ、右堂の樣子、全(まつたく)龍の上天なしける體(てい)なりと、村中奇異の思ひをなしぬ。其節彼(かの)やきうしのふべしと發意(ほつい)せし者の宅は、微塵(みじん)になりしと人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:硯中の龍の話柄で連関するが、こちらは本格物である。但し、ストーン・フリークの石亭がこうした実体験をしていたら、「雲根志」に書かぬはずもなく、刊行後なら、これだけで単独の奇瑞として書き残して世に喧伝されるレベルの奇譚であればこそ、全くの都市伝説に過ぎぬ。そもそもが話柄の後半は真正博物学者たる石亭なら絶対にしない行為であることは言を俟たない。彼なら危険を冒してでも堂の近くに仮小屋を建てて成り行きを観察するからである。私もそうする。そうして、そういう話柄を作ってこそ本話のホントらしさは生まれてくる。私なら絶対にそう創り変える。それが怪談のリアリズムのキモになる部分だと言ってもよいからである。なお、この話は先行する「耳嚢 巻之三 玉石の事」を容易に想起させ、私はそこで参考に引いた「雲根志 後編卷之二」にある「生魚石 九」の類話を直ちに連想したが、そこで久し振りに「雲根志」を手に執ってそこを開いてみると、何とまあ、その次に「龍生石 十」の項があるではないか!……それを一読したところが、何のことはない、本話はこの「雲根志」の記載から(但し、それは硯石ではなく、石の形状も全く異なる有意に大きなものである)文才のない誰かが主人公を安易に作者石亭に変え、如何にもな、入手奇譚を添えて作り出したところの、まっこと安っぽい都市伝説の類いであったことが判明したのである。以下に引用するので方々、御自身で御判断なさるるがよい(底本は昭和五四(一九二九)年現代思潮社復刻になる「日本古典全集」版を用いたが、句読点がなく、やや読みづらいので独自に諸記号を加えてある。一部ルビに衍字があるので除去した)。 

   *

     龍生石(りやうせうせき)

或縉紳家(しんしんか)に御珍藏の一石あり。五色を備へて、大さ、升(ます)のごとく、尤も美觀なり。故に、御愛賞、甚だ厚し。其初、何方(いづかた)より得給ふや產所もさだかならず。當時、伊藤仁齋(いとうじんさい)を召してこれを見せ給ふに、仁齋云、「是、龍を生するの石なり。高貴の御手にふれさせらるゝ物にあらず。遠くすてさせらるべき」よし申上らるれとも、一かたならぬ御祕藏なれば不興氣(ふけうげ)にて下賀茂(しもがも)より壹丁北の野中に小祠(ほこら)を建て、をさめ給ふ。其後十年余過(すぎ)て、彼(か)の小祠、微塵(みぢん)に碎て龍上天したりと。其時、仁齋、已に沒せられて後也と。漢書(かんじよ)に載る、新豐後湖觀音寺(しんほうごこくわんおんじ)西岸に得たるといふ「龍石」なるもの、是なるべし。

   *

 簡単に語注しておく。

●「縉紳家」笏(しゃく)を紳(おおおび=大帯)に搢(はさ)む(=挟む)者の意で高位高官身分の高い人のこと。

●「伊藤仁齋」(寛永四(一六二七)年~宝永二(一七〇五)年)は江戸前期の儒者。名は維楨(これえだ)。京都の商家の出。朱子学を批判して「論語」「孟子」の原義への回帰を主張した。寛文二(一六六二)年、京都堀川の自宅に塾古義堂を開いて古義学派(堀川学派)の祖となった。自由で実践的な学風で、広い階層にわたる門弟三千人をあつめた。著作に「論語古義」「孟子古義」等(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

●「壹丁」約百九メートル。

●『新豐後湖觀音寺西岸に得たるといふ「龍石」』「新豐」は現在の広東省韶関市新豊(しんほう)県か。「後湖觀音寺」は不明。但し、中文サイトの「大紀元文化網」の「古籍中關於龍的記載:五色石」によれば、「梁四公記」に出るとして(一部の記号と字体を変更した。下線やぶちゃん)、

   *

天目山人全文猛、在新豐後湖觀音寺的西岸、得到一塊如鬥大的五色石頭。石頭的紋彩盤旋緊蹙、好像有夜光。全文猛認爲它是神異之物、就把它獻給了梁武帝。

樑武帝很高興、把五色石放在大極殿旁邊。將近一年多一點的時間、這塊石頭忽然光芒四射、發出雷一樣的響聲。樑武帝以爲這是不祥之物、就召來傑公、把這石頭給他看。傑公説、「這是上界的活龍變成的石頭、不是人間的東西。如果用洛水的赤礪石和上酒、合成一種藥、用這藥把這石頭煮沸一百次、這石頭就變得柔軟可食了。把它雕琢成飲食器皿、能使人延長壽命。只有有福有德的人才享用得了的。如果有聲、龍就要下來取它了。」

梁武帝派人去取來赤色礪石、就像傑公的那樣,命工匠把石頭雕琢成五斗大的盆、用來盛御膳。用這種盆盛的飯菜、格外香美、與眾不同。把雕琢剩下的石頭、又放到原來的地方。

忽然有一天、一條紅色的龍、張牙舞爪地掉進大極殿、抱著那些石頭就騰躍而去。梁武帝派人推求驗此事、原來這塊五色之石是普通二年、始平郡石鼓村、鬥龍競賽用的石頭。雕成的那個盆、侯景之亂以後、也不知道去哪兒了。

   *

とあるのを指すのであろう(言っておくが私はこの漢文が読めている訳ではない)。

・「石中蟄龍」「せきちうちつりやう(せきちゅうちつりょう)」と読んでおく。老婆心乍ら、「蟄龍」とは普通は地面の下に凝っと潜んでいる龍の謂いで用いるのであって「蟄龍」という種を指すものではない(龍の種については私の電子テクスト寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」を参照)。これも言わずもがな乍ら、一般には活躍する機会を得ずに世に隠れている英雄を喩える語として用いる。

・「石亭」木内石亭(きうち/きのうち せきてい 享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年四月六日)。奇石収集家で本草学者。幼名は幾六。諱は重暁(しげあき)。近江国志賀郡下坂本村(現在の滋賀県大津市坂本)の捨井家に生まれるが、母の生家である木内家の養子となった。安永四(一七五一)年に大坂に赴き、津島如蘭(桂庵)から本草学を学んだ。津島塾では稀代の本草学者でコレクターの木村蒹葭堂(けんかどう)と同門であった。宝暦六(一七五六)年には江戸に移って田村元雄(藍水)に入門、平賀源内らと交流した。十一歳の頃から珍石奇石に興味を抱き、諸国を精力的に旅して、二千種を超える石を収集した。収集した奇石の中には鉱物・石製品・石器・化石も含まれており、分類や石鏃の人工説をも唱えていることから考古学の先駆者とも評される。また、弄石社を結成して諸国に散らばっている愛好家達の指導的役割をも果たした。著作に「雲根志」(十六巻。(安永二(一七七三)年に前編を、安永八(一七七九)年に後編を、享和元(一八〇一)年に三編を刊行)「奇石産誌」などがあり、シーボルトが著書「日本」を記すに当っては石器や曲玉についての石亭の研究成果を利用している(以上は主にウィキの「木内石亭」に拠った)。「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏である。彼の亡くなった日付を見て戴きたい。私はこの話柄、石亭が亡くなったことを聴き知った誰彼が、最早、本人もおらずなったればこそとて、作り出したまさに出来立てのホットな都市伝説であった可能性を感ずるのである。

・「打鋪」仏前の仏具などを置く卓上に敷く敷物。

・「さへ」底本は右に『(冴)』と傍注する。

・「やきうしのふ」底本は右に『(燒失)』と傍注する。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 石の中に潜みし龍の事

 

 近江国の富農に木内石亭(きのうちせきてい)と申すは、これ、名石を集めては好むところの、奇体なる性癖の持ち主で御座った。既にして「雲根志」と申す、己れの愛石やそれに就いての薀蓄を、こと細かに記したるところの奇書を綴ったることは、これ、誰(たれ)一人知らぬ者とてない。

 さて、とある年のことで御座った。

 行脚の僧の、この石亭が元に泊ったるが、石亭のその異様なる愛石の思い入れに、よう、耳傾け、その集めたるところの品々をも、これ、如何にも興味深(ぶこ)う見て御座ったったによって、石亭、すかさず、

「……御身も、これ、珍石を蔵しなさるるか?――なさるる、ナ?!」

と尋ねたところが、

「……いや……我ら、行脚の身の上なれば……さらに何かに惹かれて貯うると申すことは御座らねど……ただ……実は……一つの石を拾い得て……これ、常に荷の内に蔵しては……御座ってのぅ。……これと申して、格別なる不思議も御座らねど……その石、これ、いつ何時も……水気(すいき)を生ずるがゆえに……いや、お恥ずかしいことに……秘かに偏愛致いては、御座る……」

と語ったるを聴くや、これはもう、もとより、石に執心尽くしたる、執心が石のように堅固なる石亭のことなれば、殊更に切に一見せんことを請いては、半ば強引に引き出させて、しげしげ、見たところが……

――その色、黒うして、まずは大人の一拳(ひとこぶし)分ほどの大きさと形を成せるものにして、表面に窪んだるところあって、そこには、これ、はっきりと、水気(すいき)のあるが見てとれた。

 石亭、深く感心致すこと、これ、尋常ならず、

「何卒! そうさ! 御僧に相応しきところの、これ、如何なる代物(しろもの)にてもよい! これ、必ず、差し上ぐるによって! 一つ、この石! これ、給はることは出来ませぬかッ?!」

と、半ば目を血走らせつつ、その石を請うた。

 すると、僧は、

「……我が愛石とは申せ、そもそも我ら、僧なればこそ、敢えて妄執存念因縁によって六道(ろくどう)を輪廻せんという心は、これ毛頭、御座らねばこそ……それでは……そうさ、ただの打敷(うちしき)なんどを、これ、拵えて下さったを頂戴致いたならば、これ、仏の道にも外るること、御座いますまい。……今直ぐにても、この石、貴殿に進ぜんと思うて御座る。」

ときっぱりと請けがったによって、石亭、大きに歓び、即座に金襴(きんらん)の打敷を拵えさすると、それを僧に与え、かの石と交換致いたと申す。 

 

 さてその翌日のこと、石亭、この石を文机(ふみづくえ)の上に置き、また、それを取って、横に置いた硯の上に、徐ろに移し置いたところが……これ……

――如何にも清浄なる水の

――硯の池の中(うち)に満ち満ち

――そのさま

――全く以って曰く言い難き

――一種の奇瑞……

……とてものこと、あれこれ評すべきことも憚らるるほどの奇跡の石にて御座ったと申す。 

 

 石亭はそれ以後、この石を格別なものと見做し、懇ろに扱っては、殊の外、偏愛致いて御座ったと申す。 

 

 ところが、近隣に住もうて御座った、とある老人が石亭を訪ねた折り、件(くだん)の水気を出だす愛石をつくづくと見るや、

「……かくも水気を生ずるところの石には、これ、果して龍の封じ込められておるに相違ない!……昇天なんど成したならば、これ、貴殿にとって大いなる憂いともならんかと存ずる!……されば、言い難きことなれど、これ、何処か遠くへ捨てらるるに、若くは御座らぬ!」

と、語気強く言うたと申す。

 されど、流石に、寵愛一方ならぬ石にてあったればこそ、石亭、遂にその忠言には随わずに過ぎたと申す。 

 

 ところが、その後の、とある日のことで御座った。

 黒雲俄かに湧き起こって、空の隅々に至るまで、遮り覆って御座った折柄……

――かの石

――その中(うち)より

――尋常ならざる気を

――大きに吐き始めた……

……されば、石亭を始め、屋敷内の下々の者に至るまで、これ一人残らず、その異様なる噴気のさまに大いに驚いた。

 石亭は、過ぎし日の、かの老人の忠告を思ひ出だいて、取り敢えず、村の老人やら近際の者やらを屋敷に集めて、

「……ともかくも、これ、遠き人家のなき所へ、うち遣らずばなるまい……」

と申したところが、その席にあった、さる老人、

「――かくも妖しき石ならば、これは、如何なる恐ろしき害を齎すか、分かったものではない! 即座に燒き捨つるに若くはなし!」

と乱暴に言い捨てた。

 されど、ここに至っても石亭、未練のあったものか、 

「……いいや……それはいくらなんでも……出来ぬ相談じゃてのぅ……」

と押し止め、「ともかくも」と、同地より暫く行ったところの、人離れたる所に、一宇(いちう)の小さき無人なるお社(やしろ)のあったによって、「とりあえずは」とて、その御堂(おどう)へ納めおいて、皆して帰ったと申す。 

 

 然るに、その夜のこと、激しき風雨の中に、尋常ならざる雷鳴の致いたかと思うと、かの堂中より、もくもくと雲の起こって、天海の海底(うなぞこ)に大穴の空いたかと思わるるほどの、土砂降りの雨、これ、激しく降る!……と……

……何やらん

……天へと昇って行く……

……うねりつつ……

……長々としたるものの……

……影の……

……見えた…… 

 

 翌日は晴れた。

 されば石亭と村人の何人かが、かの堂へと参って見てみたところが……

――かの石は……

――二つに砕け散っており……

――堂前の扉(とぼそ)はばらばらに吹き飛び……

――堂の天井の真ん中には……

――これ、大きなる穴の……

――内側から、何ものかが突き破ったように開いて……

――真っ青な空が……のぞいておった…… 

 

「……いや! かの石の、かの御堂のさまから見て、これは全く以って、龍の昇天致いたに相違なき体(てい)じゃった!」

と誰彼の噂にて、村中の者は皆、奇異の思いをなしたと申す。……

……因みに……かの折りに「焼き捨つべし」と発意(ほつい)致いたる老人の屋敷は……これ……何ものかが上より押し潰したかのように……粉微塵となって……御座ったそうな…… 

 

 これ、さる知人の語って御座った話である。

2014/09/20

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 注連飾りいろいろ

M480

図―480

M481484

図―481[やぶちゃん注:右端の図。]

図―482[やぶちゃん注:右から二番目の図。]

図―483[やぶちゃん注:左上方の図。]

図―484[やぶちゃん注:左下方の図。]

M485_2

図―485

M486

図―486

 

 新年用の装飾品は稲の藁で出来ていて、いろいろな方法にひねったり、編んだりしてある。それ等を家の入口の上と、家庭内の両の上とにかける慣(ならわし)がある。意匠の多くは美しく、そのある物は構造上に多分の手並を示している。最も意匠が美しくまた最も普通なものの一つは、図480に示したものである。現物は長さ二フィート以上、下に下った部分は三フィートもあった。捲いた場所は舟を現しているらしいが、若し然りとすれば、この舟の墳荷は、稲の藁でつくった球三箇、松の小枝、及び鮮紅色の漿果(み)若干である。下には稲の束がすこし下り、球の極には小さな金被せの葉がつき立ててあり、全体として華美で人の目を引く。別の物(図481)は藁の花輪で、稲の束と藁とが下っている。図482は戸の上にかける物で、藁をより合せて、最後に一つの点にまで細くしたものである。これ等のある物は、長さ六フィートに達し、この形式は神道の社でよく見受ける。図483は戸口の上にかける流蘇(ふさ)、図484は五インチの距離をおいて繩の股(こ)が一つ下るように撚った、藁繩である。これは、巨大な玉総(たまふさ)のように捲いておくが、捲きを戻して部屋の側壁にかけ、象徴的な形に切った白い紙を、垂下する股の間々で、縄に結びつける。ある場合、この種の装飾は、非常に手が込んでいる。図485は門の上にかける、複雑な構造物を現す。中央には乾燥した海藻を下につけた海老、その両側には乾した柿があり、羊歯(しだ)の葉を懸垂させ、神道の様式に切った紙をつけ、そして全部が松の木によって支持される。色を使わないで、その花々しい外見を示すことは困難である。図486は、門の前にある装飾を示している。濃緑色の切り竹は高さ十二フィートで、巨大な風琴管(オルガン・パイプ)のように見えた。これ等は松の小枝の群叢から聳え立ち、底部は藁繩でしっかりとくくられ、下には奇麗に盛土がしてあって、その土の散逸を防ぐ為に、藁の環があった。

[やぶちゃん注:注連繩(しめなわ)・注連飾りのいろいろである。ネット上の諸データ(グーグル画像検索「注連縄 種類で出るもの)を参考に解説しておく。

●図480は一般には神棚に附けるさいに附される前垂れ附きの「鼓胴注連(つづみどうじめ)」と呼ばれるものに蓬莱が載ったもので、この太いタイプで一方が細くなっているもの(私のいる神奈川では「一文字」と呼ばれる。通常は向かって左が細くなるが、伊勢神宮のある三重県伊勢地方では逆向きになる)は「大根注連(だいこんじめ)」と呼ばれる。

●図481は「輪注連(わじめ」「輪飾り」と呼ばれるもので、東日本でよく玄関先に見られる。

●図482は図480に類するものを立てに描いたものであるが、これは有意に細いので「牛蒡注連(ごぼうじめ)」と呼ばれるものである。

●図483は注連縄の種類というよりも豊穣を齎す雨を模した注連縄の下に下げる藁の「〆(しめ)の子」と呼ばれるものであるが、これにやはり雨を齎す雷を模した例の紙垂(かみだれ。モースが言う「象徴的な形に切った白い紙」のこと)を間に垂らした簡素なタイプも一般的によく見られる。

●図484は一見奇体だが、これはどうも、先の「大根注連」とそれに付随させて垂らす〆の子を附けた本体に横に並行して配すべきそれを、製造した際の置かれたままに描いたもののように私には見える。そうでなく特殊なものであるのであれば、是非とも御教授を乞うものである。

●図485かなり豪勢だが、これが一番我々にとって馴染みのある注連飾りである「玉飾り」あろう。

 注連繩は無論、正月飾りだけではない。ウィキ注連縄」によれば、『現在の神社神道では「社(やしろ)」・神域と現世を隔てる結界の役割を持つ。また神社の周り、あるいは神体を縄で囲い、その中を神域としたり、厄や禍を祓ったりする意味もある。御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)として神がここに宿る印ともされる。古神道においては、神域はすなわち常世(とこよ)であり、俗世は現実社会を意味する現世(うつしよ)であり、注連縄はこの二つの世界の端境や結界を表し、場所によっては禁足地の印にもなる』。『御旅所や、山の大岩、湧水地(泉水)、巨木、海の岩礁の「奇岩」などにも注連縄が張られる』。『また日本の正月に、家々の門や、玄関や、出入り口、また、車や自転車などにする注連飾りも、注連縄の一形態であり、厄や禍を祓う結界の意味を持ち、大相撲の最高位の大関の中で、選ばれた特別な力士だけが、締めることができる横綱も注連縄である。現在でも水田などで雷(稲妻)が落ちた場所を青竹で囲い、注連縄を張って、五穀豊穣を願う慣わしが各地に残る』。日本神話では『天照大神が天岩戸から出た際、二度と天岩戸に入れないよう太玉命が注連縄(「尻久米縄」)で戸を塞いだのが起源とされ』、稲作信仰にあって『神道の根幹をなす一つであり、古くから古神道にも存在し、縄の材料は刈り取って干した稲藁、又は麻であり、稲作文化と関連の深い風習だと考えられる』。古神道にあっては、『神が鎮座する(神留る・かんづまる)山や森を神奈備といい信仰した。後に森や木々の神籬(ひもろぎ)や山や岩の磐座(いわくら)も、神が降りて宿る場所あるいは神体として祀られ、その証に注連縄がまかれた』とある。同ウィキの「巻き方・注連方(しめかた)」の項には『縄を綯(な)う=「編む」向きにより、左綯え(ひだりなえ)と右綯えの二通りがある。左綯えは時計回りに綯い、右綯えは逆で、藁束を星々が北極星を周るのと同じ回転方向(反時計回り)で螺旋状に撚り合わせて糸の象形を作』り、『左綯え(ひだりなえ)は、天上にある太陽の巡行で、火(男性)を表し、右綯えは反時計廻りで、太陽の巡行に逆行し、水(女性)を表している。祀る神様により男性・女性がいて、なう方向を使い分ける場合がある』とし、『大きなしめ縄は、細い縄を反時計回り(又は逆)にまわしながらしめ、それを時計回り(又は逆)に一緒にしていく』と記す。また注連飾りの『本来の意義は、各家庭が正月に迎える年神を祀るための依り代とするものである。現在でも注連飾りを玄関に飾る民家が多く見られる。形状は、神社等で飾られる注連縄の小型版に装飾を加えたもので、注連縄に、邪気を払い神域を示す紙垂をはじめ、子孫の連続を象徴するダイダイの実やユズリハの葉、誠実・清廉潔白を象徴するウラジロの葉などのほか、東京を中心にエビの頭部(のレプリカ)などが添付されることが多い』とある。また、『これとは別に、東日本を中心に、長さ』数十センチほどの細い注連縄を直径数センチ程度の『輪形に結わえて、両端を垂らした簡易型の注連縄が広く見られる。これは京言葉で「ちょろ」、東京方言などで「輪飾り」、東海地方などで「輪締め」などと呼ばれている。近畿地方では台所の神の前に飾る程度だが、東日本では、門松に掛ける(東京周辺など)、玄関先に掛ける、鏡餅に掛けるなど、非常に広く用いられる。一般家庭では、本来の注連縄の代用とされる場合も多い』とある。

 図486は言わずもがなの門松である。ウィキ門松」によれば、『門松(かどまつ)とは、正月に家の門の前などに立てられる一対になった松や竹の正月飾りのこと。松飾りとも。古くは、木のこずえに神が宿ると考えられていたことから、門松は年神を家に迎え入れるための依り代という意味合いがある』。『神様が宿ると思われてきた常盤木の中でも、松は「祀る」につながる樹木であることや、古来の中国でも生命力、不老長寿、繁栄の象徴とされてきたことなどもあり、日本でも松をおめでたい樹として、正月の門松に飾る習慣となって根付いていった。能舞台には背景として必ず描かれており(松羽目・まつばめ)、日本の文化を象徴する樹木ともなっている』。『新年に松を家に持ち帰る習慣は平安時代に始まり、室町時代に現在のように玄関の飾りとする様式が決まったと言われる』とある。最近はこれを立てる家も少なくなった(かくいう貧しい私の家では松のか細い枝葉を門に結び付けるだけであるが)。何か寂しい気がするのは私だけか。

「二フィート」六〇・九六センチメートル。

「三フィート」九一・四四センチメートル。

「漿果」の「み」は二字に対するルビ。原文は“berries”。無論、ムクロジ目ミカン科ミカン属ダイダイ Citrus aurantium を指している。

「流蘇」本来は「りゅうそ」と読み、中国の装身具の一種で清代満州族の女性が大拉翅(だいろうし:髪飾りの一種で高くそびえ立つ帽子様のもの)にぶら下げる房をいう。ここは単にそうした垂れ下がった房状に見える「〆の子」を指している。

「五インチ」一二・七センチメートル。

「十二フィート」約三メートル六十七センチ。]

橋本多佳子句集「海彦」  青あらし

 青あらし

 

  苦楽園誓子居に於て天狼同人会 一句

 

老い髪の仲間隅まで青あらし

 

斑猫が紅青をもて惑はせり

 

[やぶちゃん注:「斑猫」は鞘翅(コウチュウ)目オサムシ亜目オサムシ上科ハンミョウ科ナミハンミョウ Cicindela japonica 、所謂、ミチオシエである。人が近づくと一、二メートル程飛んで直ぐ着地するという行動を繰り返し、その過程で度々、後ろを振り返るような動作をする本種の習性をうまく詠み込んでいる。なお、「斑猫」全般については、私の「耳嚢 巻之五 毒蝶の事」の注で詳細を述べておいた。是非、参照されたい。]

 

馴れざる水に金魚の尾鰭ひらく

 

[やぶちゃん注:この句、中七と下五のブレイクが私は好きだ。]

 

踊り唄遠しそこよりあゆみ来て

 

百足虫の頭(づ)くだきし鋏まだ手にす

 

[やぶちゃん注:多佳子の名句と私は信じて疑わぬ句である。美しい多佳子ならではの映像のマジックだ。多分、これを演じられる――拮抗出来る――のは他には私の偏愛するジャンヌ・モローぐらいしかいない。]

杉田久女句集 275 花衣 ⅩLⅣ 附 草稿の恐るべき事実

  花の旅 六句

 

まだ散らぬ帝都の花を見に來り

 

[やぶちゃん注:以下六句は角川書店昭和四四(一九六九)年刊「杉田久女句集」では昭和八(一九三三)年のパートにあるが、富士見書房平成一五(二〇〇三)年刊の坂本宮尾「杉田久女」によれば、総て翌九年の四月の句である。同書の一四七~一四八頁に載る草稿メモによれば、四月十七日に東上、同月二十八日に東京を出立とあり、その間は横浜の長女昌子の山王寮に滞在している(以下の注もそのメモによる)。それによると、この句は四月十八日に昌子とともに『ホトトギス』発行所に高浜虚子を訪問した、その日の詠である。]

 

  茅舍庵

 

訪れて暮春の緣にあるこゝろ

 

[やぶちゃん注:四月二十五日に大田区池上の俳人川端茅舍を訪れた際の句(二十七日にも昌子とともに再訪している)。この年に彼は『ホトトギス』同人となっている。当時、茅舎は三十七歳(久女は四十四歳)であった。茅舎はこの七年後、肺結核のために亡くなった。]

 

  鎌倉虚子庵

 

虚子留守の鎌倉に來て春惜む

 

[やぶちゃん注:草稿メモによれば四月二十六日の訪問である。無論、句集序文の懇請のためであるが、虚子はすでにこの時、久女を疎んじていた。この不在も確信犯であろう。]

 

  由比ケ濱

 

身の上の相似でうれし櫻貝

 

[やぶちゃん注:同四月二十六日。久女はこの比較主体は虚子の長女星野立子(たつこ 明治三六(一九〇三)年~昭和五九(一九八四)年)である。虚子が留守であったことから、同じ鎌倉に住んでいた立子を訪ない、ともに由比ヶ浜を散策した。その際の句である。立子は昭和五(一九三〇)年に父虚子の後ろ盾によって初の女性による主宰誌『玉藻』を創刊しており、虚子にとって久女はある意味で目の上のたんこぶの存在であったと考えてよい。それが虚子の久女忌避の核心にあったのだと私は信じて疑わない。この句は後に出るように実は草稿では、

 

身の上の相似てうれし櫻貝

 

という真逆の句であった。宮本氏によれば、草稿は『最初は「似て」とあったものを、上から「似で」と濃く墨で直してある』とある。しかも余白には『朱筆で窮屈に小さな字で書き込みがあ』り、それは『「立子などと似てたまらないよ」と読める』という驚天動地の記載があるとする(「杉田久女」二二八~二二九頁)。この追記は後のものと思われるが、情念の人久女の、親の七光りの立子に対する、強烈な妬心がもろに出ていて読む者を震撼させる。]

 

種浸す大盥にも花散らす

 

[やぶちゃん注:草稿の同じ鎌倉訪問の四月二十六日の条に、前の「身の上の相似てうれし櫻貝」(「て」である)と並べて、

 

種浸す大盥にも花數片

 

とある句の再案であろう。この後、草稿メモによれば同二十六日には水原秋桜子に面会もしている。]

 

  茅舍庵

 

水そゝぐ姫龍膽に暇乞ひ

 

[やぶちゃん注:四月二十七日。草稿メモには、この句の草稿と思われる、

 

水そゝぐ姫りんどうにいとま乞ひ

 

(「りんどう」はママ)とある。

 因みに、宮本氏によれば、この草稿メモの東京を失意のうちに発った四月二十八日の条の余白には、やはり後日に書き記したと思しい、

 

この時久女の句集出版の邪マせし者は何人か。何かハワカつてゐる。

 

という恐るべき朱筆(!)の書き込みがなされているとある!]

杉田久女句集 274 花衣 ⅩLⅢ 昌子歸省 二句

  昌子歸省 二句

 

元旦の阜頭に瀨戸の舟つけり

 

北風寒き阜頭に吾子の舟つけり



[やぶちゃん注:昭和八(一九三三)年年初。長女昌子の帰省の折りの句。前に注したように、この前年の昭和七年八月に長女昌子は横浜税関監視部長中村重善氏夫妻の世話で同税関長官房文書係雇として就職していた。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」 附録画像 表紙及び見返しと「風俗画報」発刊の主旨

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」


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[やぶちゃん注:『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」表紙。絵(石板)はこの『風俗画報』の報道画家として凡そ一三〇〇点に及ぶ表紙・口絵・挿絵を描いた山本松谷=山本昇雲(明治三(一八七〇)年~昭和四〇(一九六五)年:本名は茂三郎。)である。優れた挿絵であるが、残念ながら著作権が未だ切れていない。私が生きていてしかも著作権法が変わらない限り、二〇一六年一月一日以降に本書の挿絵の追加公開をしたいと考えているが、せめて本表紙は本電子テクストのためにも、ここに公開しておきたい。表紙絵ではなく、本を撮ったものとして、トリミングをせずにおく。]


Mokuji
[やぶちゃん注:表紙見開き。目次(及び下部に「風俗画報」の売捌(うりさばき)所の一覧と同誌定価と広告料そして奥付相当のものが記されてある。この電子化は労多くして、益なきものなれば御勘弁願う。]


Hakkannsyusi
[やぶちゃん注:見開き。やや薄い萌黄色の紙に印字されてある(容量が大きくなるのでモノクロームで撮った)。「風俗画報発刊の主旨」の記載であるが、これも本鎌倉周縁地誌とは無縁なれば、電子化はしない。十分に画像で読める。]



以上を以って僕の『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」の電子化作業を完遂した。

去年の7月に開始したものがやっと終わったのだが……いや! まだまだ、だ!――もう一冊――実はこれに先行する明治三〇(一八九七)年八月二十五日発行の――『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」があるんだった!…………トホホのホ……と言いつつ、実は――マダマダタノシメル――と内心、喜んでいる僕がいるのであった…………

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」 おまけ画像

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[やぶちゃん注:『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」最終頁(「四十」]
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[やぶちゃん注:続く広告頁「一」。]

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[やぶちゃん注:続く広告頁「二」。]
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[やぶちゃん注:裏表紙裏の広告。]


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[やぶちゃん注:裏表紙の広告。右欄外に本誌についての、
明治二十五年三月二十六日遞信省認可 明治二十二年二月十二位初號發兌
の認可と創刊号発行のクレジットが見える。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 旅館 ~ 『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」附やぶちゃん注 完

   ●旅館

    ◎千代本

千代本は瀨戸明神の傍にあり、海に面して層樓欄干長く、影は水に蘸(ひた)して、一酌に適す。

むかしは諸侯方歷々の御遊覧もありて、有名なる料理店なりしも一たび火を失ひ、爲に自燒(じせう)す、後ち廢業せしかど、今より二十一二年前再び新築して、更に輪奐の美を盡くし、金澤の景致をそへたり。

三階造りの、淸く拭はれたる客室廣く、離れて新坐敷あり、軒近き岸の姫松、圓窓(まるまど)に墨繪の影を描くも雅、美酒呼ぶべく、鮮鱗溌溂膳に盛るベし、醉餘欄に凭れて簾(れん)を捲(ま)け、磨きいでたる月光白く波に映じ、野島の山は近く浮びて、烏帽子岩、沖の白帆の影見ゆる、瀨戸の月、秋はことさら眺めよし。

樓の後背、三島明神の傍なる丘上(きうじやう)に、四阿(あづまや)を設け、石段を疊むなど、目下(もつか)頻りに普請中なり、眺望打ち開けて、金澤の全景畫圖の如く浮び、風景又一段の美を加へむ、無名の丘(をか)なれば、ゆくゆくは秋月山と命名(なづ)くる由、丘に沿ふて下るに、巖(いわほ)を切拔(きりぬ)き山塞(さんさい)めきたる樓門あり、舊千葉氏の宅地趾(たくちあと)なりと云ふ。

[やぶちゃん注:現在は料亭としてあり、恐らくは横浜一の老舗の一つである。文化文政期(一八〇四年~一八四〇年)には既にあった旅宿。JapanTravel.com の Tomoko Kamishima 氏の「金沢八景 異人たちの足跡7 料亭千代本」に、三百年前に『創業した千代本は、江戸後期にはすでに老舗の名声を得て』おり、百八十年前の『広重八景図の中の『瀬戸秋月』に描かれている。画面中央の松の右手が千代本、松の向こうに平潟湾と野島が見える。仲秋の名月に照らされた、瀬戸橋からの幻想的な光景である。一方』、百五十年前に写真家フェリーチェ・ベアト(Felice Beato 一八三二年~一九〇九年:イタリア生まれのイギリス人。後に英語風にフェリックス・ベアト(Felix Beato)と名乗った。一八六三年から二十一年に亙って横浜で暮らし、一時期は幕末から明治初期に本邦で活躍した挿絵画家チャールズ・ワーグマンと「ベアト・アンド・ワーグマン商会」を経営している)が『撮った千代本と平潟湾の写真『平潟湾の風景』は、反対側に視点を置いている。こんもりとした山を背に、千代本ともう一軒の茶屋が並んでおり、手前の小島(半島のように見えるが)には琵琶島神社の社殿が見える。現在も千代本と琵琶島神社は変わらぬ位置にあるが、周囲に建物が林立しているため、満々と水をたたえた平潟湾の雄大さは失われてしまった』と述べておられ、『江戸時代の千代本は、宿屋を兼ねた茶屋で、船遊びを楽しむ客や、寺社仏閣巡りを終えて羽を伸ばす旅人などで賑わった。江戸市民の人気コース、大山江ノ島鎌倉詣での巡礼の旅の最後を締めくくるのが、金沢での羽目を外した大宴会だったという。明治時代になると、遠来の客よりも、伊藤博文や山本五十六を始め、政治家や海軍関係者が多く訪れるようになる。千代本の女将の話によると、お偉い方々は、平潟湾から(軍艦?や)自家用船を乗り付けて座敷に上がり、歓談(や密談?)の後、また静かに船で帰って行くのが常だったとか』と記されておられる。その内、当該記事にある「銀河鉄道」の風景を見に行きたいものである。なお、以下の「野島館」の私の注も参照のこと。

「今より二十一二年前」本誌の発行(明治三十一(一八九八)年八月二十日)からだから明治二十、二十一年に相当する。

「輪奐」は「りんくわん(りんかん)」と読み、「輪」は高大、「奐」は大きく盛んなの意で、建築物が広大で立派なことをいう語。

「姫松」既出。既注済み。

「千葉氏」不詳。識者の御教授を乞う。

 それにしても、この書きっぷりは本誌の後半では、また以下の「東屋」と「野島館」に比して、かなりオリジナルに凝って書かれてある。当時の千代本さん、昭陽堂(『風俗画報』の発行元)に相当に祝儀を振る舞いましたね。]

【2016年1月13日追加:本挿絵画家山本松谷/山本昇雲、本名・茂三郎は、明治三(一八七〇)年生まれで、昭和四〇(一九六五)年没であるので著作権は満了した。】

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山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 金沢八景旅館千代本の図

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年八月二十日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」(第百七十一号)の挿絵。画中上部に「金澤千代本の圖」というキャプションが手書き文字で入る。]【2016年1月13日追加はここまで】
 
 

    ◎東屋

洲崎にあり、瀨戸の斷橋の袂、橋を隔てゝ千代本と相對峙(あひたいじ)す、當時金澤にある旅館は、この東屋のほか、千代本と野島館(のじまくわん)あるに過ぎず、野島館は近年の開業にて、未だ幾日も經ず、千代本とても、一時(じ)火災に遇ふて廢業せしゆへ、他に旅館と稱すべきものなければ、此地(このち)に遊ぶの客は、必ず東屋に投宿するを例とせり、さなきだに、土地に名高き料理店なれば、活魚鮮肉(かつぎよせんにく)美味、低唱淺酌の興亦把るに可なり、況んや風景の如きも、洲崎の晴嵐を占め、金澤に行かば東屋に宿せよと渡し守さへすゝむるも、名うての旅館なればなるべし。

[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年に廃業して現存しない。既注の通り、瀬戸橋を渡って野島方向に百七十メートルほど行った洲崎町三叉路附近にあった。創業年は不詳乍ら、「江戸名所図会」にはその繁盛ぶりが活写されている(最後に同書から図を引いておく)。明治二〇(一八八七)年に伊藤博文を中心に井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎四名がこの東屋で明治憲法草案を作成したことで知られる旅館。瀬戸神社の琵琶島弁天社近くに「金沢総宜楼に題す」という詩碑が建つが、これはもと東屋の庭内にあったもので、「小市民の散歩に行こうぜ」『ようこそ「金沢・時代の小波  金沢地区2」へ!』によれば、作詩者は桐生の織物商佐羽淡斎(さばたんさい)で、文化三(一八〇六)年頃、『漢学者で詩人である大窪詩仏や書家の市川米庵ら』とともにこの東屋に来遊した際に詠まれたもので、その『平淡で情緒豊かなことに感激した詩仏』が文化五年十月に、『詩文を石に刻んで東屋の邸内に建て』たものとある。「総宜(そうぎ)」『とは、東屋の料理、酒、酌などの接客接遇のほかに、八景の景色、土地の人情も総(すべ)て宜(よろ)しいという意味で』、詩は『鱸(すずき)の活けづくりや真っ赤な蟹が目の前に盛られている それにもまして地酒の清らかな香りがただよってなんとも言えず楽しい 同席の友人諸君と大いに飲んだ 酔って倒れそうになるのをようやく助け起こされる人もある 自分も前後不覚となり眠ってしまったが 酔いが覚めたときはすっきりとして自然にこの詩が出来た 眠っていて知らぬ間に一雨降ったらしく瀬戸橋もすっかり濡れている 夢の中でこの詩が出来たのははげしい瀬戸の引き潮の音が自分を呼んでいたからだろうか』といった内容である由(但し、『当初のものは、半分ほど落剥してしまったので、復元し、彫り直したもの』とある。なお、以下の「野島館」の私の注も参照のこと。

「低唱淺酌」浅酌低唱。ほどよく酒を味わい飲みながら、小声で詩歌を口ずさんで楽しむことをいう。

「把る」「とる」で、感興に筆を執って詩歌にするの謂いか。

「金澤に行かば東屋に宿せよと渡し守さへすゝむる」野島の渡し(野島の南、室木(むろのき)村へ入る江戸時代の渡しで江戸から浦賀に入る近道であった)の渡し守か、八景遊覧の舟の水主か。何とも風情のある謂いで、失われた八景の美観が髣髴としてくるではないか。

 最後に「江戸名所図会」から瀬戸橋の図二枚を引く。

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一枚目の左上方から「其二」にかけて描かれているのが旅亭東屋である。]

 

    ◎野島館

野島にあり、近年開業せる新旅館なり、其日未だ淺かるも樓は宏壯にして、遠く大海を望み、白帆の沖に浮べるさま、波浪來つて岸を洗ひ、烏帽子岩近く、夏島は傍らにあり、避暑には適當の地なるべく、冬は暖かなれば、避寒にと出かくる氣樂な御客樣もあるべし。

[やぶちゃん注:以下の引用記載から明治三五(一九〇二)年に火災により廃業している。本誌の発行が明治三十一年で、以下に出る内閣総理大臣伊藤博文による夏島での日本帝国憲法の草案作業は明治二十(一八八七)年六月からであるから、野島館は恐らく二十五年ほどと短命であったことが窺われる。「野島」公式サイトの「野島公園 伊藤博文公金沢別邸」の解説中に、

   《引用開始》

 この東屋には伊東己代治と金子堅太郎が泊まっていた。そして井上毅は野島館に逗留してそこから歩いて、伊藤博文は夏島から船でこの東屋に集まって四人で明治憲法の審議を始めた。当時この東屋は金沢では最も名高い料理店で、活魚料理が美味しく、部屋から眺める洲崎の清嵐は素晴らしく、金沢に行けば必ず東屋に投宿せよといわれるほど人気があった。伊藤博文はこのような雰囲気の場所が大好きであったのである。この東屋の創業年は詳らかではない。千代本と同じ江戸時代からあったが、この由緒ある旅館は昭和30年に廃業した。また、井上毅が逗留していた野島館は野島山の東側にあった。今の青少年研修センターと稲荷神社の中間あたりにあって、かなり広い敷地を持ち、多くの女中さんを抱えた料亭で、泥亀の牡丹見や潮干狩りの客で賑わっていたという。この料亭も明治35年ころ火災に合い、その営業を閉じたと伝えられる。

  《引用終了》

とある(下線やぶちゃん。太い下線部分が野島館の関連記載)。文中の伊東己代治(みよじ)・金子堅太郎は孰れも当時の伊藤博文の秘書官、井上毅(こわし)は伊藤のブレーンで当時は臨時官制審査委員長であった。リンク先には日本帝国憲法草案のエピソードが満載で楽しめる。是非、読まれたい。]

         ~~~~~~~~~~~

 ●本誌江の島案内の中佐羽淡齋七律結末

  不須幽倩仙童は不須幽討倩仙童の誤謬

  に付爰に正誤す

[やぶちゃん注:以上を以って『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」は終わっている。以下、最終頁(「四十」頁)の残りと次の頁(新たに「一」と起こし、裏側の「二」、その次が裏表紙の裏及び裏表紙まで総てが広告となっている。以下、続くブログで画像でそれを配することとする。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 金澤文庫

  ●金澤文庫

金澤文庫は。傳へいふ。北條越後守顯時の營建(えいけん)せる所に和漢の軍書を藏め。儒書には黑印。佛書には朱印を押捺せり。印文、階字(かいじ)にして。竪に金澤文庫の四字を注す。其の後衰廢せしを。上杉安房守憲實執事たりし時再興せしが。又遂に廢絶して群書散失せり。下野の足利學校は。現存せるに。此金澤文庫のみは。寸壁尺障(すんぺきしやくしよう)を剰さずして。稱名寺に遊ひて尋ぬれは。蔓草寒煙の空しく其の舊地を鎖(とざ)せるあるのみ。文士は皆徘徊顧望(こばう)して嘆息したり。然るに頃者伊藤侯爵の斡旋にて。平沼專藏氏負擔(ふたん)し。新に文庫を築造せり。其の地舊址にあらす。又古書の蒐集はいかになりしか、未だ之を聞かさるも。先つ其の跡を表せるは。實に喜ぶべきことにこそ。

[やぶちゃん注:分割して注する。金沢文庫の元は、鎌倉時代中後期に、北条氏一族で当時の文化人として知られた金沢北条氏北条実時が武蔵国久良岐郡六浦荘金沢の邸宅内に造った、武家の私設図書館であった。創設時期は不確か乍ら、実時晩年の建治元(一二七五)年頃と推定されている。蔵書は政治・文学・歴史等、多岐に渡り、収集方針は後の子孫顕時・貞顕(金沢文庫古文書には六百通になんなんとする彼の書状が残され、その中に文庫の荒廃を嘆いていたとされる文書も残り、中には貞顕を文庫創建者とした文書も見られることから貞顕が文庫の再建を行っている可能性が指摘されている)・貞将の三代に受け継がれたが、金沢氏は元弘三(一三三三)年に鎌倉幕府滅亡とともに絶え、文庫は隣接した金沢氏菩提寺称名寺によって管理された。本文にもあるように室町期には関東管領上杉憲実が再興したが、当時の文庫建物はその後、失われてしまった。現在の同名の金沢文庫は、それらの残存資料を元に昭和五(一九三〇)年に県施設として復興された全く新しい中世歴史博物館である。

「寸壁尺障を剰さずして」「剰さず」は「あまさず」で余さずに。「寸壁尺障」は薄い壁や障子に至るまで残る隈なく失われたという謂いであろう。

「伊藤侯爵」伊藤博文。

「平沼專藏」(天保七(一八三六)年~大正二(一九一三)年)は実業家。武州入間郡飯能村(飯能市)に生まれ、開港後に横浜に出、海産物売込商明石屋で働き、慶応元(一八六五)年に独立、横浜本町四丁目に羅紗・唐桟(とうざん:江戸以降にヨーロッパ船によってもたらされた綿織物及びそれを模倣して作った綿織物)などの引取商を開業、明治一一(一八七八)年、生糸売込商芝屋清五郎の業務を継承し、土地売買・株式投機にも手を染めて発展、実業界にその地位を確立した。明治二十三年には金叶貯蓄銀行を設立、同四十四年一月に平沼銀行を創立して生糸売込商の機関銀行として発展させた。政治家としても県会議員・市会議員・同参事会員、明治三十三年に貴族院議員,同三十五年には衆議院議員(政友会)、同四十四年、横浜市水道局長などをも歴任した。極端な勤倹蓄財で壮士らの迫害を受けたが伊藤博文に助けられた。これが縁で伊藤の勧めで明治三十年に金沢文庫復興に二千円の建設資金を寄付、私立平沼小学校を設立するなど晩節を飾ったとある立志伝中の人物である(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。]

 

近藤守重の金澤文庫考は。右文故事に載せて。人の皆知る所なり。佐藤忠藏氏の金澤名勝題詠集の冊末に。金澤文庫略考を附せり。是亦近藤氏の考案と稱名寺所藏の古記等に據つて略記したるものにして。甚た簡明なれは。左に抄出して氏の名を傳ふといふ。

[やぶちゃん注:「近藤守重」近藤重蔵(じゅうぞう 明和八(一七七一)年~文政一二(一八二九)年)は江戸後期の幕臣で探検家。守重は諱。間宮林蔵や平山行蔵と共に〈文政の三蔵〉と呼ばれる。明和八(一七七一)年に御先手組与力近藤右膳守知三男として江戸駒込に生まれ、山本北山に儒学を師事した。幼児かより神童と賞され、八歳で四書五経を諳んじて十七歳で私塾「白山義学」を開くなど、並々ならぬ学才の持主であった。生涯、六十余種千五百余巻の著作を残した。父の隠居後の寛政二(一七九〇)年に御先手組与力として出仕、火付盗賊改方をも勤めた。寛政六(一七九四)年には、松平定信の行った湯島聖堂での学問吟味に於いて最優秀の成績で合格、寛政七(一七九五)年に長崎奉行手付出役、寛政九(一七九七)年)に江戸へ帰参して支払勘定方・関東郡代付出役と栄進した。寛政一〇(一七九八)年に幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱となり、四度、及ぶ蝦夷地へ赴き、最上徳内・千島列島・択捉島を探検、同地に「大日本恵土呂府」の木柱を立てた。松前奉行設置にも貢献し、蝦夷地調査・開拓に従事、貿易商人の高田屋嘉兵衛に国後から択捉間の航路を調査させてもいる。享和三(一八〇三)年に譴責により小普請方となったが、文化四(一八〇七)年にはロシア人の北方侵入(文化露寇(ぶんかろこう):文化三(一八〇六)年と文化四(一八〇七)年にロシア帝国から日本へ派遣された外交使節だったニコライ・レザノフが部下に命じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件。事件名は日本の元号に由来し、ロシア側からはフヴォストフ事件と呼ばれる。)に伴い、再び松前奉行出役となって五度目の蝦夷入りを果たした。その際、利尻島や現在の札幌市周辺を探索、江戸に帰着後には将軍家斉に謁見を許され、その際には札幌地域の重要性を説いて、その後の札幌発展の先鞭を開いた。文化五(一八〇八)年、江戸城紅葉山文庫(後注で詳述する)の書物奉行となったが、自信過剰で豪胆な性格が咎められて、文政二(一八一九)年に大坂勤番御弓奉行に左遷させられた。因みにこの時、大塩平八郎と会ったことがあり、重蔵は大塩に「畳の上では死ねない人」という印象を抱き、大塩もまた重蔵を「畳の上では死ねない人」という印象を抱いたという。文政四(一八二一)年には小普請入差控を命じられて江戸滝ノ川村に閉居した。重蔵は本宅の他に三田村鎗ヶ崎(現在の中目黒二丁目)に広大な遊地を所有しており、文政二(一八一九)年に富士講の信者たちに頼まれて、その地に富士山を模した山(富士塚)を造園、目黒新富士・近藤富士・東富士などと呼ばれて参詣客で賑い、門前には露店も現れたという。しかし文政九(一八二六)年に上記の三田の屋敷管理を任せていた長男近藤富蔵が、屋敷の敷地争いから町民七名を殺害、八丈島流罪となり、父の重蔵も連座して近江国大溝藩に預けられた。文政十二年六月十六日(一八二九年七月十六日)に逝去、享年五十九。死後の万延元(一八六〇)年になって赦免された。実に数奇な才人である(以上はウィキの「近藤重蔵」に拠った)。

「金澤文庫考」書物奉行として近藤重蔵が記した考証書。ネット上の書誌情報を見る限りでは、それ自体が和刻本として出るのは明治末頃のようだが、以下の「右文故事」に転載されているものらしい。

「右文故事」「いうぶんこじ(ゆうぶんこじ)」と読む。近藤重蔵が「御本日記附注」(家康没後に江戸城に移された書籍について林羅山が記した「御本日記」の解説)・「御代々文事表」(家康から吉宗までの歴代将軍の学芸関連年表)など、紅葉山文庫の沿革と貴重書に関する考証を纏めた書。文化一四(一八一七)年に幕府に献上された(国立公文書館公式サイト内のこちらの書誌データに拠る)。

「佐藤忠藏」瀬戸神社公式サイト内の「瀬戸神社と郷土金沢の歴史あれこれ」「金澤名勝題詠集」の頁があり、そこに「金澤名勝題詠集」は明治二〇(一八八七)年に『刊行された和装本で』、『著者・出版人は三分村』(久良岐郡内で明治初年に社家分村・寺分村・平分村が合併して成立した村で、明治二二(一八八九)年に釜利谷村や飛地の泥亀新田と合併して六浦荘村となった。現在は全域が金沢区)、『に住所をもつ士族佐藤忠蔵』とある。

「金澤名勝題詠集」前に掲げた瀬戸神社公式サイト内の「瀬戸神社と郷土金沢の歴史あれこれ」「金澤名勝題詠集」の頁には、「金澤名勝題詠集」は明治二〇(一八八七)年に『刊行された和装本で』、『著者・出版人は三分村』(久良岐郡内で明治初年に社家分村・寺分村・平分村が合併して成立した村で、明治二二(一八八九)年に釜利谷村や飛地の泥亀新田と合併して六浦荘村となった。現在は全域が金沢区)、『に住所をもつ士族佐藤忠蔵』とある。『発兌人として東京日本橋の北畠茂兵衛、横濱弁天通りの吉川伊兵衛とならび、金澤の東屋安右衛門、千代本茂左衛門の名前が列記されてゐ』るとあり(東屋と千代本は後掲される金沢の老舗旅館である)、その『東屋、千代本に遊ぶ行楽客に金澤の風景とそれを詠んだ詩歌を紹介した書物で』あるとある。『内容は金澤八景の絵図に続き、心越禅師の八景の漢詩に続き、丁野丹山、巖谷古梅、の八景の詩、また矢土錦山、岡本黄石、大島怡齋、細川十洲、大給亀崖、神波即山、日下部鳴鶴、横田竹泉による八景分詠の詩それに続き和歌は、先ず無性居士京極兵庫の八首に続けて、間宮八十子、細川潤、中村秋秀、小中村清矩、黒川真頼、佐々木弘綱、鈴木重嶺、山澤與平、久米幹文らの和歌を掲載する。さらに付録として、「金沢文庫略考」を巻末に載せてゐる』そして――そこで何と!――「金澤名勝題詠集」全文のPDF画像――が入手出来る!! 必見必ダウンロード!(因みに同書は早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のここでもHTML及びPDFでダウンロード出来る)。]

[やぶちゃん注:以下、前注に示した「金澤名勝題詠集」原本画像と照合(原典は漢字カタカナ書き)、「稱名寺第三世湛睿」(底本は「二世」)や訓点等の明らかな誤りを予め訂してあることを言い添えておく。各段ごとに注を入れ、その後を一行空けた。]

 

金澤文庫略考

金澤文庫の遺址(ゐし)は。武藏久良岐郡金澤稱名寺の傍にあり。今稱して文庫ヶ谷と曰ふ。古は稱名寺中より洞門ありて。文庫へ通行すと云ふ。〔洞門今尚存す〕

[やぶちゃん注:以下「……修圖とあり。」までは底本では全体が一字下げ。]

 

今寺中所藏の古圖にも。亦洞門あり。鎌倉志にも阿彌陀院〔稱名寺中〕後の切通(きりとほ)し前の畑を以て。金澤文庫の遣址なりとす。此古圖に據りたるなるべし。圖は元享三年二月二十四日稱名寺第三世湛睿結界修法圖とあり。

[やぶちゃん注:「鎌倉志にも阿彌陀院後の切通し前の畑を以て。金澤文庫の遣址なりとす」「新編鎌倉志卷之八」の「稱名寺」の「金澤文庫の舊跡」の項には、

   *

金澤文庫の舊跡 阿彌陀院の後(うしろ)の切通(きりとをし)、其の前の畠(はたけ)、文庫の跡なり。昔北條越後の守平顯時、此所に文庫を建てて、和漢の羣書を納め、儒書には墨印、佛書には朱印を押す。印文は楷字(かいじ)にて、金澤文庫の四字を竪(たて)に書す。後に上杉安房の守憲實執事の時、再興す。【鎌倉大草子】に、武州金澤の學校は、北條九代の繁昌の昔、學問ありし舊跡也。上州足利の學校は、承和六年に、小野篁(をのゝたかむら)上野(かうづけ)の國司たりし時の建立なり。今度安房の守憲實、足利は、公方御名字(をんみやうじ)の地なれば、學領を附し、諸書を納め、學徒を憐愍す。されば此の比諸國大に亂れて、學道も絶たりしかば、此の金澤の文庫を再興し、日本一所の學校となる。西國北國よりも、學徒多く集るとあり。管領源の成氏の時なり。其後は頽破して書籍皆散失す。一切經の切れ殘りたる彌勒堂にあり。

   *

とある。

「元享三年」西暦一三二三年。

「湛睿」(たんえい 文永八(一二七一)年~貞和二(一三四七)年)は鎌倉末から南北朝にかけての学僧。以下、ウィキの「湛睿」によれば、本如房と号し、律僧で華厳学の大家であった。幼くして東大寺凝然に戒律・華厳を学び、永仁元(一二九三)年、般若寺の真円について戒律の研究に励んだ。その後東下、徳治元(一三〇六)年には鎌倉の極楽寺で、延慶三(一三一〇)年には称名寺で三宝院流真言を学んだ。正和二(一三一三)年に上洛、東大寺の華厳教学の名僧凝然(ぎょうねん)の高弟であった和泉国の久米田(くめだ)寺の禅爾(ぜんに)に学んで、華厳・戒律の教学を確立した。文保二(一三一八)年に鎌倉に戻って、嘉暦元(一三二六)年から鎌倉幕府滅亡の混乱の最中、下総国東禅寺の住持を勤め、さらに暦応二(一三三九)年には金沢北条氏という大檀越を失って危機に直面した称名寺の住持となるなど、『激動のなかを生き抜いた学僧であった』。『関東での律や華厳経学の普及につとめ、称名寺と東禅寺をしばしば往復して講筵を開き多くの学僧を養成した。「華厳五教章纂釈」、「大乗起信論義記教理抄」、「四分律行事鈔見聞集」など多くの著作があり、金沢文庫保管の聖教に大量の稿本を残し』ているとある。]

 

文庫は。北條越後守平實時〔金澤侍所を稱す法名稱名寺〕其釆邑に就て創立する所なり。今考(かんがふ)るに蓋し其邸第の近傍にありしなるべし。

[やぶちゃん注:「釆邑」は「さいいふ(さいゆう)」と読み、領地・知行所の意。采地。]

[やぶちゃん注:以下「……五十六とあり。」までは底本では全体が一字下げ。]

 

關東評定傳に。實時建治元年五月六浦に籠居す。依所勞也。〔金澤は六浦の莊と云ふ〕同二年十月廿三日於六浦別業卒年五十六とあり。

[やぶちゃん注:「關東評定傳」著者・成立年代ともに不詳。二巻。「関東評定衆伝」「関東評定家伝」とも称す。鎌倉時代の嘉禄元年から弘安七年(一二二五年から一二八四年)につき(但し、途中の一二二六年から一二三一年相当の部分は記載がない)、一年毎にその年の主な事件を冒頭に載せ、執権・評定衆・引付衆の現任者を列記して併せて彼らの公武の官職の異動や略歴を記した歴史書。鎌倉幕府執権政治の中核であった幕府意思決定機関としての評定衆の人員構成の変遷などを知る上で貴重な史料である。「群書類従」に所収(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「建治元年」西暦一二七五年。]

 

其別業の地は未詳と雖も。稱名寺の境内(けいない)なるべし。境内に實時及其子顯時其孫貞時の墳墓あり。稱名寺現(げん)に實時顯時貞顯貞時四人の肖像を藏す。黝然として古色凡ならず。當時名家の手に成る知るベし。其年月款識を缺(か)く眞(しん)に惜むベし。

[やぶちゃん注:「黝然」は「いうぜん(ゆうぜん)」と読み、薄蒼黒く、幽静なこと。

「款識」は「くわんし(かんし)」又は「くわんしき(かんしき)」と読み、「款」は陰刻の銘、「識」は陽刻の銘が原義で、本来は鐘や鼎(かなえ)などの鋳造物に刻した文字や銘文を指すが、転じて広く書画に筆者が署名捺印すること及びその署名捺印を指す。落款(らっかん)と同じい。]

 

文庫創建の歳月未詳と雖も。庫中の書實時貞顯等の題署(だいしよ)は。皆建長五年以後に係る。即ち建長の初年たる疑なし。而して鎌倉兵燹の時も。其(その)此地(このち)に僻在(へきざい)せるを以て。幸に烏有(ういう)を免かれ。儒佛典籍朱墨の印色(いんしよく)を以て之を分ち。殆んど二酉の富に駕(か)せり。

[やぶちゃん注:「建長五年」西暦一二五三年。

「文庫創建の歳月未詳と雖も。庫中の書實時貞顯等の題署は。皆建長五年以後に係る。即ち建長の初年たる疑なし」とあるが近藤の判断は乱暴に過ぎる。これは恐らく文書の収集の開始時期に相当するものであって、文庫自体の実質的創設はやはり実時の六浦隠居の建治元(一二七五)年頃(次の「法然語燈錄」以下の私の注も参照されたい)のとすべきであろう。

「兵燹」は「へいせん」と読み、「燹」は野火の意で、戦争による火災・兵火の意。無論、元弘三(一三三三)年の鎌倉幕府滅亡を指す。

「僻在」都市から遠く離れた所にあること。僻遠の地にあること。

「二酉の富に駕せり」「二酉」は「にいう(にゆう)」と読み、中国にある大酉(だいゆう)山・小酉山という二つの山の石窟から千巻の古書が出てきたという故事に基づき、蔵書の多いこと或いはそれを収める書庫をいう語で、汗牛充棟の豊かな書籍をよく蔵した、の謂いである。]

[やぶちゃん注:以下和歌までは底本では全体が一字下げ。]

 

法然語燈錄の跋に。建武(けんぶ)四年更寫一本武藏金澤稱名寺文庫者也とあり。

又僧義堂空華集に。觀金澤藏書而作ると云ふ題にて。玉帳修ㇾ文講ㇾ武餘。遣ㇾ人來覓舊藏書。牙籤映ㇾ日窺蝌斗一。縹帙乘ㇾ晴走蠹魚。圯上一篇看不ㇾ足。鄴侯三萬欲何如。照ㇾ心古教君家有。收在胸中五車の詩あり。

[やぶちゃん注:「法然語燈錄」浄土宗の宗祖法然房源空の遺文・消息・法語などを集成した道光(望西楼了慧)編「黒谷上人語灯録」のこと。文永一一(一二七四)年十一月から翌年一月の間に成立。全十八巻。漢文体と和文体のものに分かれており、第一~十巻までが漢語、第十一巻~十五巻までが和語で、別に拾遺三巻がある。法然滅後六十余年の時期に於いて法然の遺文などの定本を策定し、教義信仰上の準拠たらしめんとしたもの(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「建武四年」西暦一三三七年。成立から鎌倉幕府滅亡を経て、六十三年後のことである。

「更寫一本武藏金澤稱名寺文庫者也」書き下すと、「更に一本を寫して武藏は金澤稱名寺が文庫に藏する者なり。」である。

「僧義堂」「空華集」瑞泉寺住持でもあった鎌倉禅林の指導者義堂周信(正中二(一三二五)年~元中五・嘉慶二(一三八八)年)の漢詩集。以下の金沢文庫を詠んだ漢詩は「新編鎌倉志卷之八」の「稱名寺」の「金澤文庫の舊跡」の項に載る。以下に私の書き下しを含めて示す。

   *

  觀金澤藏書而作    義堂

玉帳修文講武餘

遣人來覓舊藏書

牙籤映日窺蝌斗

縹帙乘晴走蠧魚

圯上一編看不足

鄴侯三萬欲何如

照心古教君家有

收在胸中壓五車

 

  金澤の藏書を觀て作る 義堂

玉帳 文を修す 講武の餘

人をして來たり覓めしむ 舊藏書

牙籤 日に映じて 蝌斗を窺ひ

縹帙 晴に乘じて 蠧魚を走らしむ

圯上の一編 看るに足らず

鄴侯の三萬 何如とか欲す

心を照らす 古教 君が家に有り

收めて 胸中に在りて 五車を壓す

 

 以下、漢詩の語注を示す。

・「牙籤」は「げせん」又は「がせん」と読み、和書の部品名。象牙で出来た小さな札で、書名を記して書物の帙の外に下げて目印とする。

・「蝌斗」は「蝌蚪」でオタマジャクシ。称名寺堂前の浄土庭園蓮池の景であろう。

・「縹帙」は「へうちつ(ひょうちつ)」と読み、和書のこと。

・「蠧魚」は「とぎよ(とぎょ)」と読み、昆虫綱シミ目 Thysanura のシミ類のこと。

・「圯上」は「いじやう(いじょう)」と読み、本来は土橋の上のことであるが、ここは漢の高祖の名臣張良が若き日に圯上老人黄石公から授かった兵法書を指すと思われる。禅宗の彼が何故、兵書をここに口にしたか。義堂が求めた仏典がなかったことを暗に指すか。いや、――私には義堂が心を痛めた円覚寺と建長寺の門徒抗争などが皮肉に浮かんでくるのである――。

・「鄴侯」は「げふこう(ぎょうこう)」と読み、「鄴」は春秋時代斉の地名で、漢代の県名、三国時代は魏の都の一つとなり、三曹(曹操・曹丕・曹植)父子によって文学が栄えた。現在の河北省臨漳(りんしょう)県。ここでは唐代の鄴県侯であった李泌りひつの蔵書が多かった故事(蔵書の多いことを「鄴架」と言う)に基づく謂いであろう。ここは既に文庫の蔵書が多く散失してしまっていたことを指すか。

・「心を照らす 古教」「照心古教」とは禅で言う「妙法の曼荼羅」(生そのものの様態の全体性)で、只管打坐、即ち禅の要諦を言う。

 なお、義堂の金沢文庫の訪問は上杉憲実の再興以前であるから、この詩によって鎌倉幕府滅亡後の文庫の衰微の様が知られると言える。]

 

又太田道灌慕京集に。二月釋典を金澤文庫にて行ふよし。三好日向守勝之のもとより申越(まをしこし)けれは。隣家梅花と云ふ題を。聖供に添(そへ)て遣し侍るとて。

 春なれや夜に友かきの近き庭遠きも通ふ梅の下風

[やぶちゃん注:「慕京集」「ぼけいしふ(ぼけいしゅう)」は太田道灌の歌集。早稲田大学図書館古典総合データベースのこちらで原本画像が手に入る。当該の歌はここ(HTML画像)。

「釋典」仏典講読のことであろう。

「三好日向守勝之」不詳。阿波細川家の被官であった三好氏所縁の人物か。]

 

右等の書に據れは。鎌倉兵燹の後も。年久しく尚廢せざりしに。兩上杉の亂より。漸く頽廢に屬せしなるべし。北條氏政の金澤文庫本を。足利學校へ寄附せしも。葢し其散亂を惜むの意に出てしなるべし。

[やぶちゃん注:「兩上杉の亂」一般には第五代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺に端を発して山内と扇谷の両上杉方及び幕府方と鎌倉公方(古河公方)方が争った享徳の乱(享徳三(一四五五)年~文明一四(一四八三)年)とそれに続く、山内上杉家の関東管領上杉顕定と扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥朝良に引き継がれた)の間で行われた長享の乱(長享元(一四八七)年~永正二(一五〇五)年)を指すが、私はそのプレとしての山内上杉家と犬懸上杉家の対立を根とする前関東管領上杉氏憲(犬懸上杉家で禅秀は法名)が山内上杉家の上杉憲基を関東管領に置いた鎌倉公方足利持氏に対して起した上杉禅秀の乱(応永二三(一四一六)年)をも含むべきと考えている。

「北條氏政」(天文七(一五三八)年~天正一八(一五九〇)年)戦国から安土桃山初期の武将。小田原城主。氏康と今川氏親の娘(瑞渓院)の子。左京大夫。相甲駿(相模・甲斐・駿河)三国同盟成立後の天文二三(一五五四)年十二月に武田晴信(信玄)の娘(黄梅院)を妻として永禄二(一五五九)年十二月には家督を継いだとみられている。翌三年の二月から三月にかけては飢饉と疫病の流行に対処するための徳政を実施、また同年六月には貨幣法ともいうべき代物法度を改定して精銭と地悪銭の法定混合比率を七対三と定めるなどの優れた経済政策を実施成立させている。同四年三月には長尾景虎(上杉輝虎・謙信)の小田原攻城を退けてこれを契機に一向宗容認に転じた。同七年、第二次国府台合戦で里見義弘を破り、七月には太田氏資の内応を得、岩槻城を手中に収めて武蔵国全域をほぼ征服した。永禄十一年十二月に晴信が今川領国の駿河へ侵攻すると今川氏真支援のために出陣して遠江懸川にも援軍を派遣している。この事件によって北条氏と上杉氏との講和交渉が促進されて翌十二年の閏五月には相越(相模・越後)同盟が成立した。同年十月、武田晴信が小田原を来襲、三増峠で合戦したが、元亀二(一五七一)年十月に父氏康が死んで名実ともに当主の座に着くと、晴信との講和交渉を開始、同年十二月には相甲(相模・甲斐)同盟が成立、対して相越同盟は破れた。ところが天正六(一五七八)年になって輝虎没後の上杉家に継嗣紛争が起きるや、上杉景虎(氏政の弟で輝虎の養子)支持を巡って武田氏との間に不和が生じ、相甲同盟も破綻した。翌七年九月に徳川家康と結んで武田勝頼挟撃を約して駿河黄瀬川に出陣、同八年八月に再び勝頼と黄瀬川に対峙するが、その陣中にあって子氏直に家督を譲って引退した。これは従来の武田氏との関わりを捨てて改めて親織田と武田撃滅の姿勢を示すためのものと見られる。引退後は「御隠居様」などと敬称されて氏直の政務を助けた。その後は天下統一を進める豊臣秀吉の上洛要求を受けるも、遂に応じず、天正十八年の秀吉による小田原攻めに際しては最終的に彼が籠城を決断したといわれている。降伏後、切腹を命じられて自刃した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った。私は戦国史に疎いので自身の勉強のために長々と事蹟を記した。悪しからず)。

「足利學校」以下、足利市公式サイトの「足利学校の歴史」に拠って記す。「日本最古の学校」「日本最古の総合大学」などと称せられる足利学校の創建説については、いくつかの説がある。古くは、

・奈良時代の国学の遺制であるという説

・平安時代初期の天長九(八三二)年に小野篁が創建したという説

・鎌倉時代の初期に鑁阿寺(ばんなじ:現在の栃木県足利市家富町にある真言宗大日派の本山)を開いた足利義兼(足利尊氏六代の祖)が建てたという説

・室町中期の永享一一(一四三九)年に関東管領上杉憲実によって開かれたという説

などがあるが、学校の歴史が明らかになるのは室町時代中期以後で、最後に示した上杉憲実が学校を整備し、学校領とともに五経の内の四経を寄進、鎌倉から禅僧快元を招いて初代庠主(しょうしゅ:校長)とし、学問の道を興して学生の養成に力を注いだ事実ははっきりしている(その後は代々、禅僧が庠主となっている)。また憲実の子憲忠は五経の内の残りの易経「周易注疏(しゅうえきちゅうそ)」を、子孫の憲房も貴重な書籍を寄進するなど、戦乱の世にも拘わらず学問に意を注いで学校の基礎を固めた。室町期には儒学特に易についてここに学んだ僧が非常に多く、永正年間(一五〇四年~一五二〇年)から天文年間(一五三二年~一五五四年)には学徒三千といわれ、事実上日本の最高学府となり、第七世玉崗瑞璵九華(ぎょっこうずいよきゅうか 明応九(一五〇〇)年~天正六(一五七八)年:臨済僧。大隅生まれ。儒学にも通じ、特に詩文に優れた。天文(てんぶん)一九(一五五〇)年に足利学校の学頭となり北条氏政の帰依を受けて戦乱で荒廃した同校の復興につとめた。玉崗は字(あざな)。号を九華老人と称した。ここは講談社「日本人名大辞典」に拠る)の三十年間に亙る在任中も大いに発展した(天文十八年のフランシスコ・ザビエルの母国の教会宛の書簡中には「日本国中にあって最も大にして最も有名なる坂東の大学」とあると記されてある)。室町時代最後の庠主は第九世閑室元佶(げんきつ)三要で徳川家康の信任厚く、『徳川家康が京都伏見に建立した瑞巖山圓光寺の開山となり、徳川家康の下で「詩経」の講義、漢籍の出版、近畿地方の寺院の統制、外交文書の作成等に活躍』、『このようなことから閑室元佶と家康との結び付きが強く、足利学校は幕府より百石の朱印地を賜』っている。江戸時代の庠主は将軍の一年の運勢を占って将軍に献上し、江戸時代の最初の庠主で優れた学僧であった第十世龍派禅珠寒松は名が分かっているだけでも、百名の弟子があった、とある。]

[やぶちゃん注:以下「……書物なりとあり。」までは底本では全体が一字下げ。]

 

慶長年錄に。慶長六年六月。江戸富士見の亭へ金澤の文庫を御移しなされ、御文庫御建立(おんこんりう)なり云々。又古筆の書物は。多分北條九代の時分。金澤へ納申候書物なりとあり。

[やぶちゃん注:「慶長年錄」は大槻玄沢の大槻家旧蔵になる慶長一四(一六〇九)年から元和九(一六二三)年の記録で戦国末から江戸初期の重要史料とされる。

「慶長六年」西暦一六〇六年。前年の慶長五年に関ヶ原の戦いがあり、この二年後の慶長八年に徳川家康は江戸幕府を開幕している。

「江戸富士見の亭へ金澤の文庫を御移しなされ」主語は無論、家康。「江戸富士見の亭」とは後の紅葉山文庫(もみじやまぶんこ)の前身(但し、紅葉山文庫という名称は明治以降に用いられたものであって(現存する蔵書印も明治以降に押印されたもの)江戸時代には単に「御文庫」或いは「楓山(ふうざん)文庫」「楓山秘閣」などとも呼ばれた)。以下、参照したウィキの「紅葉山文庫」によると、『将軍のための政務・故実・教養の参考図書とすべく、江戸時代初期から設けられていたもので、その膨大な蔵書の蒐集・管理・補修・貸借および鑑定などは、若年寄配下の書物奉行が行った。将軍の利用を基本とするが、それだけでなく老中・若年寄はじめ幕府の諸奉行、学者、旗本、および一部の藩へも貸し出しを許可された(ただし書物奉行に申請する必要があった)』。すでに幕府の成立以前の慶長七(一六〇二)年から、『徳川家康は江戸城本丸の南端にあった富士見の亭に文庫を建て、金沢文庫などの蔵書を収めさせた』。『好学な家康は、古今の漢籍・和書を蒐集して伏見版・駿河版などを出版させていたが、そのうちの三十部を』慶長一九(一六一四)年に『江戸城の将軍秀忠に贈』っている。元和二(一六一六)年の『家康の死去にともない、遺言により蔵書は将軍家・尾張家・駿府家(のち紀州家)の御三家に分配されたが、「日本の旧記及び希世の書冊は江戸へ献ずべし」との家康の遺志により、重要な書籍五十部が選ばれ、以前の書物と合わせ富士見亭御文庫に収められた。これらを特に「駿河御譲本(するがおゆずりぼん)」「駿河御文庫本」などと呼ぶ』。寛永一〇(一六三三)年には『富士見亭御文庫に書物奉行を設置し、蔵書の整理・保管、目録の編纂などを司らせることと』なり、同一六(一六三九)年七月、『具足蔵(武器庫)とともに歴代将軍の霊廟があった江戸城内の紅葉山廟の隣に移された。翌年には会所・書庫各一棟が完成』、その後の増改築で『東西の書物蔵が揃』い、第六代将軍『家宣が所蔵していた書籍が収められ(桜田御本)、さらに一棟追加されて「新御蔵」と呼ばれる』書物蔵が追加されて合計三棟となった。第八代将軍徳川吉宗は就任前後に『儒者林家に命じて書籍目録を提出させ、常に座右に置いて頻繁に文庫から書を借りたという。さらに、吉宗時代には寺社奉行配下青木昆陽による徳川家旧領の家蔵文書収集など、諸国に命じて集めさせた各地の古文書や、さらに長崎奉行に命じて輸入させた新刊の漢籍(地方志・医書・随筆・詩文集)や、明末から清初にかけて隆盛した戯曲・通俗小説なども広く求め、収蔵させた。これら初版本は中国文学史研究、とくに『水滸伝』『西遊記』等の小説成立史の基本史料として、保存状態の良さと相まって現在に至るまで珍重されている』。『上記のほかに、『本朝通鑑』『寛永諸家系図伝』『徳川実紀』など、幕府官撰書の献上も行われ、また諸藩の大名や林家からの献上本なども収蔵され』、特に文政一一(一八二八)年には豊後佐伯藩主毛利高標が八万冊に及ぶ自身の蔵書の中から二万冊もの書籍を献上しており、幕末の元治年間に編纂された「元治増補御書籍目録」によれば、総蔵書数は十二万三千冊に及んだとある(内、六十五%が漢籍であった由)。以下、同ウィキの近藤守重も務めた「書物奉行による徹底管理」の項目(彼の名も出る)。『歴代の書物奉行には深見有隣、高橋景保、近藤重蔵、林復斎らの学者も名を連ね、文庫の貸借・管理のみならず、蔵書の鑑定・蒐集・目録の編纂などを行っている』。『蔵書の保守作業として、毎年晩夏から秋にかけて数ヶ月に及ぶ大規模な曝書(虫干し)が行われ、天候や湿度に注意しつつ、日光や風にさらされた。また蔵書は本箱に収められて保管され、破損した書籍の補修もしばしば行われた。このような徹底した管理が行われたため、蔵書の保存状態は極めて良好で、発刊当時の書物の雰囲気がそのまま保存された』。『これら書物奉行らの実務の記録は『御書物方日記』(一部『大日本近世史料 幕府書物方日記』として刊行)として残されており、また文庫内蔵書の変遷についてはその伝来・由緒とともに『御書籍来歴志』に記されている』。『明治維新後は幕府の崩壊、江戸城の接収にともない、紅葉山文庫は太政官の管轄に移され、宮城内の書庫に保存された。のちに内閣文庫に継承され』、昭和四六(一九七一)年に『総理府の附属機関として国立公文書館が設置された(現在は独立行政法人)のにともない、他の内閣文庫本とともに移管、一般公開された』とある。

「北條九代」北条時政から高時に至る、第一代将軍頼朝亡き後の鎌倉幕府を、実質支配したところの北条得宗家九代(時政①・義時②・泰時③・時氏・経時④・時頼⑤・時宗⑧・貞時⑨・高時⑭。名前の後の数字は執権次第で時氏は二十八歳で早世しており、執権にはなっていない)を指す。]

 

此れに據れは。兵亂の久しき。文庫漸く頽廢に屬す。故に德川氏其殘を採收せしなるへし。然れは文庫の全く廢せしは。慶長年間たる明なり。今稱名寺に現存する五臣注文選十二卷の古寫本は。北條氏政の足利學校へ寄附せし金澤文庫本と全く相同し。

[やぶちゃん注:「慶長年間」西暦一五九六年から一六一五年。前注で述べたが、ウィキの「慶長」から引くと、文禄五(一五九六)年七月に伊予国・豊後国・畿内一円で一連の大地震や大津波が発生して『慶長に改元されたが、慶長年間ではその後も巨大地震が相次いで発生』、軌を一にするかのように慶長五年に関ヶ原の戦いが起こり、徳川家康による慶長八年の江戸幕府開幕、慶長十九年から翌二十年にかけての『大阪冬の陣・夏の陣を経て大坂城の落城(豊臣氏滅亡・元和偃武)などがあり、この年間で時代が大きく動くこととなった』。

「五臣注文選十二卷」知られる「文選」の李善注(唐。顕慶三(六五八)年成立)に送れること凡そ半世紀後の開元六(七一八)年に玄宗の家臣で学者である呂延済(りょえんせい)・劉良・張銑・呂向(りょきょう)・李周翰ら五人の「文選」注を集成したもの。全三十巻。

「相同し」「あひおなじ」と読んでいる。]

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]

 

右は近藤正齋の金澤文庫考、及稱名寺所藏の古記等に據り、金澤文庫の顛末を略記す。

                   佐 藤  忠 識

[やぶちゃん注:「近藤正齋」近藤守重(重蔵)の号。

「佐藤忠」「金澤名勝題詠集」の著者佐藤忠蔵。]

2014/09/19

どうも

孤独に隠棲することは確かに難しい――人と喋らぬことは実に強迫神経症的な事態に自分を追い込むことがよく分かる――しかし同時にそうした会話が自身を俗に付和雷同させる救い難い愚劣さの誘惑に追い込むことも――同時に分かる――

本日早仕舞い

本日は髪結いに参るによってこれにて閉店――心朽窩主人軽薄 基 敬白

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 稱名寺(Ⅴ)~了

〇金澤顯時同貞顯墓

 當寺の大檀那(おほだんな)たりし金澤氏の墓は。後山の中腹に在り。共に五輪の石塔にして。高さ七尺餘なり。金澤文庫の創建者なれは文學に志あるもの士は。一辨の香を拈して可なり。

[やぶちゃん注:金沢貞顕は元弘三・正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)に高時とともに北条得宗家菩提寺であった鎌倉の東勝寺に移り、自刃した。享年五十六であった。

「七尺」二・一二メートル。「江戸名所圖会」に載る同父子の墳墓の図を掲げておく。

Akitokisadaakihaka

「一辨の香を拈して可なり」拈華微笑に引っ掛け、香華を供えつつ、その学究の遺志を遙かに思い致すのもよいというのである。]

 

○當時の什寶甚だ多し。今一〻摘記(てきゝ)せず。其の中の古文書を擧れは左の如し。

[やぶちゃん注:「當時」の「時」は「寺」の誤植であろう。割愛は明らかに紙数が尽きてきたから。本誌本文は残り、二頁ほどしかない。更に言えば、この資料は「江戸名所図会」の引き写しに過ぎない(それを参考に一部の訓点を修正した)。以下、古文書部分は底本ではポイント落ちで全体が一字下げ。一部に読み易さを考慮して底本にない字空けを施した。各書状を分離させて注を施した。]

 

北條陸奥守制札

 金澤阿彌陀堂稱名寺敷地幷垣場等之事

右於當所軍勢幷甲乙人等、不ㇾ可ㇾ致濫妨狼藉、若於違犯者、爲ㇾ被ㇾ處罪科一、可ㇾ致ㇾ注申交名之狀、依ㇾ仰執達如ㇾ件、

  康安二年五月二十四日   陸奥守 華押

[やぶちゃん注:書き下す。

 

北條陸奥守制札

 金澤阿彌陀堂稱名寺敷地幷びに垣場等の事

右、當所に於いて軍勢幷びに甲乙人等、濫妨(らんばう)狼藉致すべからず。若し違犯せしむる輩に於いては、罪科に處せられ、交名(けうみやう)を注申致さるべきの狀、仰せに依つて執達、件(くだん)のごとし。

  康安二年五月二十四日   陸奥守 華押

 

「交名」は該当の処罰者の名を書き連ねた報告書のこと。氏名をこの制札どうも不審でしょうがない。「康安二年」は西暦一三六二年で幕府崩壊後の南北朝期であるが、当時「北條」姓で「陸奥守」であった人物を探し得ないのである。この資料は現在の金沢文庫蔵資料データの康安二 (一三六二) 年のクレジットを持つ「関東管領高師有制札」(整理番号201資料)ではないかとも思われるが、高師有(こうのもろあり)は「北條」姓ではない。但し、彼の関東執事在任期間は一三六二年四月から一三六三年二月までで合致し、「陸奥守」ででもあった模様である(厳密には彼は関東執事であるがこの当時は関東管領と同称していた模様である)。現在、自宅で調べるにはここまでが限度である。「神奈川県史」(4414番資料)に載るらしいので、その内、調べてみるつもりではあるが、出来れば識者の御教授を乞いたい。]

 

永享十一年稱名寺領結解狀

 註 進

  稱名寺領赤岸十四ケ村御年貢錢〔永寛十〕結解狀事

  合八十一貫文内

 六十九貫六百文   寺 納

 八貫文       代官給

 一貫文       德妙衣料

 八百文       夫領路錢〔兩度四人分 年貢運上時〕

 三百文       今津問方酒直

 三百文       六浦六郎方禮儀替錢之時

  已上八十貫文

 右所勘定狀如ㇾ件

  永享十一年三月三日   政所憲意 判

[やぶちゃん注:「永享十一年」西暦一四三九年。以下の割注の「永寛」は原本の永享の誤記と思われる。

「結解狀」「闕解」は「けちげ/けつげ/けけ」と読む。原義は勘定の始末をつけること・決算することの謂いであるが、多くの場合は荘園の経営に当った荘官が、現地で年貢及び公事の収支決算を行うことを「結解を遂ぐ」と称し、現地から領家に対してそれを報告した文書を「結解状」と言った。平安時代には官物の結解作法があって郡司や郷司が作成した結解状を税所→目代→国司へと上呈して国判を受けた例がみられる。鎌倉時代中期からは年貢収納が代官による請負となったり、現地の未進分増加・支出増加によって荘園内に於ける決算を要するようになった結果、代官から注進状の形式で領家に対して決算報告の結解状を送るようになった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。これはそうした収益としての年貢の支出内訳らしいが、小項目「德妙衣料」(寺僧の僧衣代?)・「夫領路錢〔兩度四人分 年貢運上時〕」(寺領から年貢を四名で運搬した際の手間賃か?)・今津問方酒直(「今津」は姓か? 「問方」は査察官で「酒直」とは饗応代?)・「六浦六郎方禮儀替錢之時」(平凡社「世界大百科事典」によれば「替錢」は「かえぜに」(「「かはし」とも)で、鎌倉・室町期に於ける送金手段をいう。鎌倉中期辺りに発生した現代の為替(かわせ)の始りで現金輸送が極めて困難な時期に年貢などを遠隔地の荘園から京都の荘園領主に送る場合や、社寺参詣の旅費を調達する場合などの遠隔地に対する支払手段として発達、さらに室町時代に入ると商品取引の決済手段として利用された。ここは年貢運上の取り纏めをした現地の有力者である六浦六郎なる人物(廻船業?)への礼金ということか?)のがよく分からない。識者の御教授を乞うものである。

「右所勘定狀如件」は「右、勘定する所の狀、件のごとし」と読む。

「政所憲意」この当時は永享の乱の余波の混乱期であった(将軍足利義教が調停役関東管領上杉憲実の助命嘆願も聞き入れずに鎌倉公方足利持氏及び嫡子義久を攻め滅ぼしたのが本状の発行された一月前の永享十一年二月であることに着目されたい)。この「憲意」は「憲實」の誤読(若しくは子の「憲忠」とも似る)であろう(「江戸名所図会」も「意」)。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 稱名寺(Ⅳ)

[やぶちゃん注:以下、「〇金澤顯時同貞顯墓」の前までの引用は底本では、総てが有意なポイント落ちで、一字半下げである。各引用の中では、更に二行目以降が一字下げ(但し、和歌は下げない)となっている。ここでは読み易くするため、「江戸名所図会」の各引用や箇条で行空けし、そこに注も附した。一部の誤植誤字錯字脱字(ここは訓点を含む)を訂した。]

 

青葉楓樹 本堂の前鐘樓の傍にあり。舊樹は枯れて今弱樹を植たり。金澤八木と稱するものゝ一なり。謠曲にも是を作れり。

[やぶちゃん注:「謠曲」は「六浦(むつら)」を指す。粗筋を示した上で、原作を示す(底本は「謡曲三百五十番集入力」の電子データを用いたが、台詞ごとに改行、「【中入】」を挿入、ページ記号番号を除去した。また多くを恣意的に正字に直し、気持ちの悪い濁音踊り字「%\」は正字に直した)。

長月のある日、東国行脚の僧が称名寺を訪れると、今を盛りと紅葉している中にあって、一葉も紅いに染まっておらぬ青葉の楓を見出だす。するとそこに一人の里女が現れ、楓の不審を訊ねた僧に、古え、鎌倉の中納言爲相卿がこの寺をお尋ねになられた際、山々の楓に先立って、実はこの木だけが美事に紅葉に染まっていたので、卿はそれをお讃えになって歌にお詠みになられた。その誉れを受けて、この木は『功なり名遂げて身退くは天の道なり』という故事を信じ、紅葉することをやめて常盤木の楓となった、と語る。僧がかくも木心を知る御身は、と女人の素姓を問うたところ、われはこの楓の精にて、尊き貴僧に逢わんがために出で参ったと告げて秋草の中に消え失せる。(中入)――その夜、称名寺にて僧が誦す読経の声に楓の精が現れ、「草木国土悉皆成仏」という経文の功徳を讃えて神楽を舞い、夜明けと共に消えて行く。

 

   六浦

 

ワキ三人次第「思ひやるさへ遙かなる。/\。東の旅に出でうよ。

ワキ詞「これは洛陽の邊より出でたる僧にて候。われいまだ東國を見ず候ふ程に。此秋思ひ立ち陸奧の果までも修行せばやと思ひ候。

道行三人「逢坂の。關の杉むら過ぎがてに。/\。行くへも遠き湖の。舟路を渡り山を越え。幾夜な幾夜なの草枕。明け行く空も星月夜鎌倉山を越え過ぎて。六浦の里に着きにけり/\。

ワキ詞「千里の行も一步より起るとかや。遙々と思ひ候へども。日を重ねて急ぎ候ふ程に。これははや相模の國六浦の里に着きて候。此渡をして安房の淸澄へ參らうずるにて候。又あれによしありげなる寺の候ふを人に問へば。六浦の稱名寺とかや申し候ふ程に。立ちより一見せばやと思ひ候。なう/\御覽候へ。山々の紅葉今を盛と見えて。さながら錦を晒せる如くにて候。都にも斯樣の紅葉の候ふべきか。又これなる本堂の庭に楓の候ふが。木立餘の木に勝れ。唯夏木立の如くにて一葉も紅葉せず候。いかさまいはれのなき事は候ふまじ。人來りて候はゞ尋ねばやと思ひ候。

シテ呼掛「なう/\御僧は何事を仰せ候ふぞ。

ワキ「さん候これは都より始めて此處一見の者にて候ふが。山々の紅葉今を盛と見えて候ふに。これなる楓の一葉も紅葉せず候ふ程に。不審をなし候。

シテ「げによく御覽じとがめて候。いにしへ鎌倉の中納言爲相の卿と申しゝ人。紅葉を見んとて此處に來り給ひし時。山々の紅葉いまだなりしに。この木一本に限り紅葉色深くたぐひなかりしかば。爲相の卿とりあへず。いかにして此一本にしぐれけん。

詞「山にさきたつ庭のもみぢ葉と詠じ給ひしより。今に紅葉を停めて候。

ワキ「面白の御詠歌やな。われ數ならぬ身なれども。手向のためにかくばかり。古りはつる此一本の跡を見て。袖の時雨ぞ山にさきだつ。

シテ詞「あらありがたの御手向やな。いよいよ此木の面目にてこそ候へ。

ワキ「さてさてさきに爲相の卿の御詠歌より。今に紅葉を停めたる。いはれはいかなる事やらん。

シテ「げに御不審は御理。さきの詠歌に預かりし時。此木心に思ふやう。かゝる東の山里の。人も通はぬ古寺の庭に。われ先だちて紅葉せずは。いかで妙なる御詠歌にも預かるべき。功成り名遂げて身退くは。

詞「これ天の道なりといふ古き言葉を深く信じ。今に紅葉を停めつつ。唯常磐木の如くなり。

ワキ「これは不思議の御事かな。此木の心をかほどまで。しろしめしたる御身はさて。いかなる人にてましますぞ。

シテ「今は何をか包むべき。われは此木の精なるが。御僧たつとくまします故に。唯今現れ來りたり。今宵はこゝに旅居して。夜もすがら御法を説き給はゞ。重ねて姿を見え申さんと。

地「夕の空も冷ましく。この古寺の庭の面。霧の籬の露深き。千ぐさの花をかき分けて。行くへも知らずなりにけり/\。

【中入】

ワキ三人上歌待謠「處から心に適ふ稱名の。/\。御法の聲も松風もはや更け過ぐる秋の夜の。月澄み渡る庭のおも寢られんものか面白や。/\。

後シテサシ一聲「あらありがたの御弔やな。妙なる値遇の緣に引かれて。二度こゝに來りたり。夢ばしさまし給ふなよ。

ワキ「不思議やな月澄み渡る庭の面に。ありつる女人とおぼしくて。影の如くに見え給ふぞや。草木國土悉皆成佛の。この妙文を疑ひ給はで。猶々昔を語り給へ。

シテクリ「それ四季をり/\の草木。己々の時を得て。

地「花葉さまざまのその姿を。心なしとは誰かいふ。

シテ「それ靑陽の春の初。

地「色香妙なる梅が枝の。かつ咲きそめて諸人の心や春になりぬらん。

シテ「又は櫻の花盛。

地「唯雲とのみ三吉野の。千本の花に如くはなし。

クセ「月日經て。移ればかはる眺かな。櫻は散りし庭の面に。咲きつゞく卯の花の。垣根や雪にまがふらん。時移り夏暮れ秋も半になりぬれば。空定なきむら時雨。昨日は薄きもみぢ葉も。露時雨もる山は。下葉殘らぬ色とかや。

シテ「さるにても。東の奧の山里に。

地「あからさまなる都人の。哀も深き言の葉の露の情に引かれつつ。姿をまみえ數々に。言葉をかはす値遇の緣。深き御法を授けつゝ。佛果を得しめ給へや。

シテ「更け行く月の、夜遊をなし。

地「色なき袖をや。返さまし。

序ノ舞。

シテワカ「秋の夜の。千夜を一夜に。重ねても。

地「詞殘りて。鳥や鳴かまし。

シテ「八聲の鳥も。かず/\に。

地「八聲の鳥も。かず/\に。鐘も聞ゆる。

シテ「明方の空の。

地「處は六浦の浦風山風。吹きしをり吹きしをり散るもみぢ葉の。月に照り添ひてからくれなゐの庭の面。明けなば恥かし。暇申して。歸る山路に行くかと思へば木の閒の月の。/\。かげろふ姿と。なりにけり。

 

実は次に出る「堯惠」の金沢訪問が本謡曲「六浦」のもととなっていると言われる。なお、この青葉の楓の子孫は今から凡そ四十年前に枯死してしまい、現在植わっているものは普通の紅葉する楓であるという。]

 

北國紀行 金澤にいたり。稱名寺といへる律の寺あり。

むかし爲相卿の

いかにして此一本の時雨けん山にさきたつ庭の紅葉葉

と侍りしより後は。此樹靑葉にて。玄冬まても侍るよし聞ゆる。楓樹朽のこりて佛殿の軒にはへり。             堯 惠

さきたゝは此ひともとも殘らじとかたみの時雨靑葉にそ降

[やぶちゃん注:「北國紀行」天台僧にして歌人であった尭恵(永享二(一四三〇)年~?)の紀行文。称名寺訪問は文明十九(一四八七)年五月末。

「爲相」冷泉為相(れいぜいためすけ 弘長三(一二六三)年~嘉暦三(一三二八)年)公卿で歌人。藤原為家三男、母は阿仏尼。冷泉家祖。正二位・権中納言。家領の相続を廻って異母兄二条為氏と争そい、しばしば鎌倉へ出向き、関東歌壇の指導者として重きをなした。通称、藤谷(ふじがやつ)中納言(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

 本文に引かれている二首の和歌の意味を以下に示す。

 

 いかにして此一本の時雨けむ山にさきだつ庭のもみぢ葉  冷泉爲相

 

●やぶちゃんの現代語訳

 ……どうしたらこの一木(いちぼく)にだけ、それを紅葉させる時雨が降るなどということがあり得よう……そんなことはあり得べきもないはず……しかし事実、周囲の山々の木々に先だって確かにこの庭の一木だけが紅いに染まっていることよ……

 

 さきだたばこの一本も殘らじとかたみの時雨靑葉にぞ降る  堯惠

 

●やぶちゃんの現代語訳

 ……この朽ち残った青葉の楓と伝える一木……いや……もしもこの楓が、その後も山々の木々に先だって紅いに染まっていた――他の木々に先だって早晩、朽ち果ててこの世からあっさりと消え去っていたならば……かく「青葉の楓」という名の一木として今に残ることもなかったであろう……と古えの為相卿の風雅な物語りを偲ばせる形見して……かの時雨がこの青葉に降りしきっていることよ……]

 

東國記行 稱名寺に到りてみれは。靑葉の紅葉事問へき人たになし。しはらくありて。一室とやらん老僧出て。爲相卿詠る物語して。紅葉も老樹になりて櫨植かへられし庭の跡なとをしへられ。我坊の花けふを待出てたるやうなれはとて。こゝろありけにさかつき出されて。此花をいかゝなとあれは。

けふそ思ふみぬ世の秋の色まても此一本の花の匂ひに  宗牧

なと申たれは。またかたはらより。發句ひとつせよかし。此老僧興行のこゝろざしあるべけれど。こゝほとの見苦しさはゝかりなきにしもあらぬは。なとわりなきやうにて。

 秋もいさ靑葉に匂ふ花の露     同

[やぶちゃん注:「東國記行」戦国時代の連歌師宗牧(そうぼく ?~天文一四(一五四五)年)の紀行文。宗牧は宗長・宗碩に師事して各地を旅した。また、公家で歌人の三条西実隆の邸宅や摂関家の一つ近衛家に出入りし、天文五(一五三六)年には連歌宗匠となった。天文一三(一五四四)年に宗養とともに東国の旅に出た(途中で後奈良天皇から委託された奉書を尾張の織田信秀に届けている)が、京都への帰還途上の下野国佐野で没した。この折りの記録が「東国紀行」であり、当時の地方豪族の状況を伝える資料の一つとして重要。連歌の相伝書を集大成し、後世の連歌や俳諧に大きな影響を与えた人物である(以上はウィキの「宗牧」に拠る)。

 一首は、

今日(けふ)ぞ思ふ見ぬ世の秋の色までも此の一本(ひともと)の花の匂ひに  宗牧

と読む。句は、

秋もいざ靑葉に匂ふ花の露     宗牧

である。]

 

鎌倉記行 池のほとりに。一本のかへてあり。いにしへ爲相卿いかにして此一本の時雨けん山に先たつ庭の紅葉ばとよみ給ひしより。此木時雨にもそめぬとて靑葉の紅葉と申しならはすよしかたりぬ。むかしのぬしに手向とて。澤庵

世々になる其言の葉の時雨より染ぬに色はふかきもみち葉

[やぶちゃん注:「鎌倉紀行」は沢庵宗彭の「鎌倉巡禮記」のこと。こちらの私の同書の電子テクストを参照されたい。]

 

西湖梅 同しく鐘樓の脇にあり。重瓣にして潔白なり。種類いまた考ヘす。是も八木の其一なり。

 

梅花無盡藏 貼西湖栴詩序云

丙午小春。余入相州金澤稱名律寺。西湖梅以ㇾ未ㇾ開爲遺恨。富士則本邦之山。而斯梅則支那之名産也。唯見蓓蕾一。而雖ㇾ未見其花。豈非東遊第一之奇觀乎哉。金澤盖先代好是事之庄。屬南舶杭州西湖之梅花於稱名之庭背。以西湖呼ㇾ之。余作ㇾ詩云。前朝金澤古招提。遊□十年遲雖ㇾ噬ㇾ臍。梅有西湖指ㇾ枝拜、未ㇾ開之遺恨、翠禽啼、及今餘恨未ㇾ盡。巨福山有識面、丁未之春。摘其花數十片。爲一包見ㇾ惠焉。己酉夏五。余皈濃之舊廬。奉献彼一包於春澤梅心翁。翁借余手枝條其花。近而見ㇾ之。則造化所ㇾ設。遠而見ㇾ之。則趙昌所ㇾ畫。幷以出於春翁之新意矣。掛高堂一。一日招ㇾ余令ㇾ觀焉之次。要贅語軸上、漫從揚水末章云。〔詩見別卷一。

                萬里居士

[やぶちゃん注:「梅花無尽蔵」は戦国期の五山の学僧(後に還俗)万里諸九(生没年未詳。没年は永正初年(元年は一五〇四年)頃とする)の詩文集。「新編鎌倉志卷之八」でも引用したが、今回、新たにグーグル・ブックスで管見出来た市木武雄編「梅花無尽蔵注釈4」の本文に拠って厳密な本文校訂を行った(□は市木版の判読不能字であるが、氏は「遲」と判じているのに書き下しでは從った。割注の追加も同版による)。以下、一部私独自の読みも交えながら書き下す。これが現在の私の最良のテクストと思って頂いて構わない。

 

●やぶちゃんの書き下し文(適宜、記号を加え、難読字にはルビを振った)

  西湖(せいこ)の梅を貼(は)る詩の序

 丙午(へいご)の小春、余、相州金澤の稱名律寺に入る。西湖の梅、未だ開かざるを以つて遺恨と爲(な)す。富士は則ち本邦の山にして、斯の梅は則ち支那の名産なり。唯だ、蓓蕾(ばいらい)を見て未だ其の花を見ずと雖も、豈に東遊第一の奇觀に非ずや。金澤は、盖(けだ)し先代好事(こうず)の庄にして、南舶(なんぱく)に屬(しよく)して、杭州(かうしう)西湖の梅花(ばいくわ)を稱名の庭背に移し、西湖を以つて之を呼ぶ。余、詩を作りて云ふ、「前朝(ぜんてう)の金澤の古招提(こせうだい)、遊ぶこと十年遲し、臍(ほぞ)を噬(か)むと雖も、梅に西湖有り、枝を指(ゆびさ)して拜す。未だ開かざるは遺恨なりと、翠禽、啼く。」と。今に及ぶも餘恨(よこん)未だ盡きず。巨福山(こふくさん)に識面(しきめん)有り。丁未(ていび)の春、其の花、數十片を摘みて一包と爲して惠(めぐ)まる。

 己酉(きいう)の夏五(なつご)、余、濃(のう)の舊廬(きうろ)に皈(かへ)り、彼(か)の一包を春澤梅心翁に献じ奉る。翁、余の手を借り、枝條(しでう)を描(ゑが)き、其の花を貼る。近くして之を見れば、則ち造化(ざうくわ)の設(まう)くる所、遠くして之を見れば、則ち趙昌(てうしやう)の畫(ゑが)く所なり。幷(あは)せて以つて、春翁の新意に出づ。高堂(かうだう)に掛く。一日(いちじつ)、余を招きて、焉(これ)を觀せしむるの次(つい)で、贅語(ぜいご)を作りて、軸上に題せんことを要(もと)む。漫(みだ)りに揚水(やうすい)の末章(まつしやう)に從ふと云ふ。〔詩は別卷を見よ。〕

 

以下に「西湖の梅を貼る詩の序」の語注を配す(一部で先のグーグル・ブックの市木武雄「梅花無尺蔵注釈」の部分画像を視認して参考にさせて頂いた)。

・「西湖の梅を貼る詩の序」これは、以下の本文で分かるように、実際に実物の西湖梅の花びらを押し花様にして画紙に貼って絵としたことを謂う。

・「丙午の小春」は文明十八(一四八六)年十月。

・「蓓蕾」畳語。「蓓」も「蕾」に同じく「つぼみ」の意。

・「是の事を好むの主」市木武雄「梅花無尺蔵注釈」には『是の事を好むの庄』とあり、「庄」は『庄は莊の別字。別荘。』とあり、この方が「金澤」に始まる文脈では自然で、これが正しいものと思われる。

・「巨福山」建長寺山号。

・「識面」顔見知り(の僧)。

・「丁未」翌年の長享元(一四八七)年。市木氏によれば、この時、著者諸九は江戸城にいたとある。因みに、彼は(その頃は既に故人となっていたが)江戸城を築いたかの太田道灌と昵懇であった。

・「濃」美濃。鵜沼に諸九の旧居があった。

・「春澤梅心翁」(?~明応五(一四九六)年?)現在の岐阜県各務原市にあった臨済宗五山派の名刹承国寺(美濃国守護土岐持益もちますの創建、現在は廃寺)春沢軒に居した五山文学の英僧梅心瑞庸。美濃国守護土岐政房弟。諸九の最大の理解者であった。

・「造化の設くる所」全くの自然のまま(の梅の如き様)。

・「趙昌」北宋の画家で花鳥画の名人。

・「漫りに揚水の末章に從ふと云ふ」市木氏によれば、これは「詩経」の「揚之水」唐風の末尾の「我聞有命、不敢以告人」(我、命有るを聞くも、敢へて以て人に告げず)に基づく謂いで、人には見せられぬ、という意であるとする。謙辞である。

 漢詩は、本文中の一首と別に一首ある。以下に示す。

 

  西湖梅貼軸詩            萬里居士

 前朝金澤古招提  遊十年遲雖噬臍

 梅有西湖指枝拜  未開遺恨翠禽啼

 

  同

 一橫枝上粘西湖  名字斯花別不呼

 意外春風眞假合  傍人定道盡成圖

 

 漢詩は書き下すと、

 

   西湖梅軸に貼する詩        萬里居士

 前朝 金澤の古招提

 遊ぶこと 十年遲し 臍を嗟むと雖も

 梅に西湖あり 枝を指して拜す

 未だ開かざるの遺恨 翠禽 啼く

 

    同

 一橫 枝上 西湖を粘(ねん)ず

 名字 斯の花 別に呼ばず

 意外の春風 眞假合(しんけがふ)

 傍人 定めて道(い)ふ 畫圖を成すと

 

 但し、二番目の漢詩は今一つ、私には意味が読み取れない。識者の御教授を頂けると嬉しい。

……私もいつか、この――亡き母聖子の名と同音の梅を――見に行きたいと思っている。]

 

櫻梅 同所にあり。花は重瓣なり。八木の一なり。

普賢像 本堂の前左の脇にあり。一品に怡顏齋の櫻品にも見えたり。

文殊櫻 同所にあり。普賢像に對しての稱なるべし。共に八木の一なり。

[やぶちゃん注:「怡顏齋の櫻品」儒家で本草学者の松岡恕庵(じょあん 寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年:名は玄達、「怡顏齋」(いがんさい)は号)が動植物や鉱物を九品目に分けて書いた「怡顔斎何品」の中の桜の図譜「怡顔斎桜品(いがんさいおうひん)」のこと。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 稱名寺(Ⅲ)

境内(けいない)には。ふるくより靑葉楓樹、西湖梅、櫻梅、幷に普賢文殊の兩樹あり。今は枯れ或は存(そん)し。住僧に問ふにあらされは知る能はず。左に名所圖會に載する所を錄して。其の香影を傳ふ。

[やぶちゃん注:「靑葉楓樹、西湖梅、櫻梅、幷に普賢文殊の兩樹」と五つを挙げているが、黒梅が抜けている。これら六木が金沢八名木の中の六種である(原木は現在、総て枯れている)。横浜市公式サイト内の「金沢の四石・七井・八名木」の解説を以下に引いておく(表形式であるので「*」で分割した。残りの三木(名数の8番目に別説があるので四木)も併せて載せた)。

   《引用開始》

青葉楓

 称名寺本堂前阿字ヶ池のほとりにあって冬でも紅葉しない楓として伝えられていました。金沢ゆかりの能「六浦」はこの楓に由来します。境内に長らくありませんでしたが、第12回称名寺薪能の当日に植樹されました。

   *

西湖梅

 北条実時が、中国の杭州西湖から取り寄せたと言われています。昭和20年頃まで称名寺に古木がありました。区制60周年記念事業として泥亀公園に植樹されました。

   *

黒梅 桜梅

 「名所和歌物語」に「この両木称名寺にあり。ただし今絶えてなし」とありどの木か不明です。区制60周年記念事業として泥亀公園に桜梅が植えられています。

   *

文珠桜 普賢象の桜

 称名寺にあった八重桜の一種と言われています。文珠桜は左近の桜になぞらえて階前の金堂の左に、普賢象の桜は右近の橘になぞらえて階前の金堂の左にありました。

   *

蛇混柏

 瀬戸神社境内にあった柏槇のことで、延宝8年(1680)大風で立ち枯れてしまいました。現在その太い幹が境内に横たわっています。

   *

8番目の名木 一つ松

 室の木の追浜近く景勝地の「雀が浦」にありました。別に一葉松とも呼ばれていました。

   *

8番目の名木三本杉

 瀬戸神社、蛇混柏の南にあり、この三本杉が金沢ゆかりの能「放下僧」の舞台となりました。

   《引用終了》

 なお、「新編鎌倉志卷之八」には、

金澤の八木と云て、靑葉の楓・西湖梅(せいこむめ)・黑梅(くろむめ)・櫻梅(さくらむめ)・文殊櫻(もんじゆさくら)・普賢象櫻(ふげんぞうざくら)・蛇混柏(じやびやくしん)・雀浦一松(すゞめがうらのひとつまつ)とてあり。五木は此の處にあり。蛇混柏は、瀨戸の明神にあり。雀浦の一つ松は其の所にあり。黑梅は絶てなし。其跡は爰にあり。

と「八木」の項を設けている(この記載時点で既に黒梅は枯死していたことが分かる)。「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」には詳細な記載と西湘桜・桜梅・普賢象桜・青葉楓の図が載るので、図のみここに引用しておく。

Hatiboku

2014/09/18

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 稱名寺(Ⅱ)

東屋の側(わき)より折れて北に行くこと數町。衝路(しやうろ)に當りて。朱塗草葺(しゆぬりくさふき)の門あり。是そ有名なる稱名寺なり。門に久良岐。橘樹兩郡八十八ケ所靈場第五十二番稱名寺と貼題す。門内左に事務所。右に新築の金澤文庫あり。正面は二王門にして。金澤山の扁額を掲く。門を入れは蓮池ありて石矼を架せり。彼の金澤(かなさは)四石の中に算する美女石姥石在る處を知らず。左に金澤文庫古地之牌あるを見る。寛政六年甲寅春二月江戸倉澤安貞の撰文なり。本堂は二重組上天井(にぢうくみあげてんぢやう)。素木造(しらきつく)り。開き戸にて。内に三鱗(さんりん)の紋打たる幕を張れり。金澤八景の一なる「稱名寺鐘」の鐘樓は。堂の東に在り。鐘銘は左の如し。

[やぶちゃん注:「東屋」「あづまや」で旅館の名。後掲される。瀬戸橋を渡って野島方向に百七十メートルほど行った洲崎町三叉路附近にあった。明治二〇(一八八七)年に伊藤博文を中心に井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎四名がこの東屋で明治憲法草案を作成したことで知られる旅館。

「數町」一町は一〇九・〇九メートル。洲崎三叉路から称名寺山門前までは凡そ一・二キロメートルある。

「新築の金澤文庫」
ウィキの「金沢文庫」に、明治三〇(一八九七)年に伊藤博文らによって称名寺大宝院跡に金沢文庫が再建されたとあるから、これは本誌発行(明治三十一年八月二十日)の前年である。その後この建物は関東大震災で失われ、その後、昭和五(一九三〇)年になって『神奈川県の運営する文化施設として復興』、平成二(一九九〇)年に『新築され、現在は鎌倉時代を中心とした所蔵品を展示公開する歴史博物館と、国宝や重要文化財を含む金沢文庫の蔵書を分析・研究する施設が設置運営している』とある。因みに同記載には、『歴史・慣例的に「金沢文庫」は「かねさわぶんこ」と読むのが本来であり、金沢を「かねさわ」と読んだ』。『江戸時代に加賀藩の金沢が著名になり「かなざわ」という読みが広まり、公共機関の読みも金沢区や京急電鉄「金沢文庫駅」は「かなざわ(ぶんこ)」となり、神奈川県立金沢文庫も同様に「かなざわぶんこ」となっている。そのため、今日では「金沢文庫」についても「かなざわぶんこ」と読まれることが多くなった』という呼称の経緯が記されてある。

「石矼」「いしばし」と読む。石橋。

「美女石」「姥石」本誌が書かれた頃は、両石ともに同定されていなかったものらしい。これらは北条貞顕が称名寺園地を整備した際に阿字ヶ池に配置したと思われるもので、現在は美女石のみが同池の中に残っている(但し、これを姥石とする説もある)。個人サイト「横浜金沢みてあるき」の「美女石と姥石(称名寺境内)」に、昭和一四(一九三九)年の「金沢文庫案内」に載る池中に並ぶ美女石と姥石の写真が載るので必見。それを見ると、現在の美女石は正しく美女石と思われるものの(右の石が有意に小さく屈んだようで姥と比しておかしくない)、右半分が大きく損壊しているように見受けられる。また、同リンク先には、昭和六二(一九八七)年に『年阿字ヶ池の改修が行われた時、池底の浚渫が行われましたが、それらしい石は発見できず、どこに消えたか謎のままで』あるとあり、『この石はもともと庭園に奥深く静かな雰囲気を加えるために水辺に配置された庭石で元享2年(1323)に作られた称名寺結界図にも描かれていますが、美女石・姥石の名前は江戸初期につけられたようで』あるともある。また、『その昔、北条の姫と乳母が称名寺の池のまわりを散歩していたとき、姫が足を踏み外して池に落ち』、『乳母は姫を助けようと池に入』たものの、『二人とも溺れ死に、やがて石になったという伝説があ』ると記し、『また溺れた二人を供養するために、その場所に二つの石を立てたという言い伝えもあ』って、

  稱名のみのりの池の美女石も姥もろともに蓮のうてなに

という歌が言い伝えられていると記す。「新編鎌倉志卷之八」には、

美女石(びじよせき)幷に姥石(うばいし) 堂の前蓮池の中、西の岸の方にあり。共に金澤四石の内なり。

とあって「せき」と「いし」で差別化しているのが分かる。

「寛政六年」西暦一七九四年。

「倉澤安貞」詳細不詳。

「三鱗の紋」金沢氏本家北条氏の家紋。

打たる幕を張れり。金澤八景の一なる「稱名寺鐘」の鐘樓は。堂の東に在り。鐘銘は左の如し。]

[やぶちゃん注:以下の鐘銘二種は底本では全体が一字下げ。一部に明らかな誤植誤字錯字脱字と思われるものが散見されるので、「新編鎌倉志卷之八」に載る鐘銘で補正した。]

 

  大日本國武州六浦莊稱名寺鐘銘

伏魔力怨。除ㇾ結盡無ㇾ餘。露地撃楗槌。菩薩聞當ㇾ集。諸欲法聞人。度流生死海。聞此妙響音。盡當ㇾ雲集此。諸行無常。是生滅法。生滅滅已。寂滅爲樂。一切衆生。悉有佛性。如來常住、無ㇾ有變易。一聽鐘聲。當ㇾ願衆生。斷三界苦。頓證菩提。文永己巳仲冬七日奉爲先考先妣結緣人等同成正覺鑄之。大檀那越後守平朝臣實時

  改鑄鐘銘幷序〔入宋沙彌圓種述宋小比丘慈洪書〕

此鐘成乎文永。虧乎正應。寺而不ㇾ可ㇾ無ㇾ鐘矣。因勵微力幷募士女。更捨赤金。重營靑鑄者也。伏乞先考。超越三有。同德於寶應聲。逍遙十地。並位於光世音。曁乎四生九類。與于一種餘響。銘曰。洪鐘之起。其始渺焉。載于周典。稱于竺篇。質備九乳。形象圓天。聲聲觸處。聞聞入ㇾ玄。三界五趣。八定四禪。醒長夜夢。驚無明眠。之朝之夕。無ㇾ愚無ㇾ賢。凡厥聽者。同見金仙。正安辛丑仲秋九日大檀那入道正五位下行前越後守平朝臣顯時法名慧日當寺住持沙門審海行事比丘源阿大工大和權守物部國光山城權守同依光

[やぶちゃん注:以下、二種の鐘銘を底本本文の訓点ではなく、「新編鎌倉志」の影印訓点に従って書き下したものを示す。

   *

  大日本國武州六浦莊稱名寺鐘の銘

魔力の怨を降伏し、結を除て盡く餘り無し。露地、楗槌を擊つ。菩薩、聞きて當に集まるべし。諸々聞法せんと欲する人、生死海を度流す。此の妙響音を聞きて、盡く當に此に雲集すべし。諸行は常無し、是れ生滅の法。生滅、已つて滅し、寂滅を樂と爲(す)。一切の衆生、悉く佛性有り。如來は常住して、變易有ること無し。一たび鐘聲を聽きて、當さに願ふべし、衆生、三界の苦を斷ち、頓に菩提を證せんことを。文永己巳、仲冬七日、先考先妣の奉爲(ををんため)に結緣人等同成正覺之を鑄る。大檀那 越後の守平の朝臣實時

   *

  改め鑄る鐘の銘幷に序〔入宋沙彌、圓種述す。宋の小比丘、慈洪書す。〕

此の鐘、文永に成り、正應に虧く。寺にして鐘無きにはあるべからず。因りて微力を勵し、幷に士女を募り、更に赤金を捨て、重ねて靑鑄を營む者なり。伏して乞ふ、先考、三有を超越して、德を寶應聲に同じくし、十地に逍遙して、位を光世音に並べ、四生九類の曁びて、一種の餘響に與すらん。銘に曰く、洪鐘の起る、其の始め渺焉たり。周典に載せられ、竺篇に稱せらる。質、九乳を備へ、形、圓天に象る。聲聲、處に觸れ、聞聞、玄に入る。三界五趣、八定四禪、長夜の夢を醒し、無明の眠を驚かす。之コの朝之(こ)の夕べ、愚と無く、賢と無く、凡そ厥の聽く者、同じく金仙を見ん。正安辛丑 仲秋九日 大檀那 入道正五位下行前の越後の守平の朝臣顯時法名慧日 當寺の住持沙門審海 行事の比丘源阿 大工大和の權の守物部の國光 山城の權の守同依光

   *

●前の銘の語注

・「結を除て盡く餘り無し」は不詳。識者の御教授を乞う。

・「楗槌」は「けんつい」と読み、撞木のことであろう。

・「生滅、已つて滅し」の「已つて」は、「もつて」と訓じていると思われる。

・「先考先妣」「先考」は亡き父、「先妣」は「せんぴ」と読み、亡き母。

・「文永己巳」は文永六(一二六九)年。

●後の銘の語注

・「正應」は西暦一二八八年から一二九三年で、次の「虧く」は「かく」と読み、欠損したことを謂うから、前の鐘はたった二十年で鐘として要を成さなくなったことになる。龍頭が損壊して垂下出来なくなったか、鐘身そのものに亀裂が入ったかしたのであろう。

・「鐘無(き)にはあるべからず」影印は「無」の送仮名の最初が「シ」のようにも見えるが、一応、以上のように訓読した。

・「赤金」赤銅。厳密には銅に数%の金を含めた合金のことであるが、ここは単に鉄や銅のことを言っているものと思われる。壊れた旧鐘の錆びた様態を言っているのであろう。

・「三有」は「さんぬ」と読み、三界(欲界・色界・ 無色界)の生存の様態を言う欲有・色有・無色有を指す。

・「寶應聲」ある種の経典では観音菩薩を宝応声ほうおうしょう菩薩と呼び、衆生の苦しみや歎きの声を観じて余すところなくそれに応じて宝(功徳)を恵むことを言う。

・「十地」菩薩が修行によって得られる菩薩五十二位の下位から数えて第四十一から五十番目の位。十廻向の上位、等覚の下位。上から法雲・善想・不動・遠行・現前・難勝・焔光・発光・離垢・歓喜。

・「光世音」やはり観音菩薩の古名。

・「四生九類」生物をその発生の様態から分類した胎生・卵生・湿生・化生(業により忽然と出生するもの)を四生ししょうというが、九類は不詳。何れにせよ、総ての生きとし生くる衆生総ての謂いであろう。

・「曁びて」は「およびて」と訓じた。「ビ」(若しくは「ヒ」)の送仮名の訓読はあまり自信がない。

・「與(す)らん」は取り敢えず「くみすらん」と訓じたが、自信がない。

・「渺焉」遙かに果てしなく響き渡る謂いであろう。

・「周典」礼記の周礼のことか。若しくは周易、易経のことかも知れない。

・「竺篇」サンスクリット語原典の一切経か。

・「五趣」応報によって輪廻する天上・人間・餓鬼・畜生・地獄の初期仏教の五悪趣。修羅を含めて六道とするのは後のことである。

・「八定四禪」一般的な禅の瞑想の十二段階を言う。因みにこれを越えて想滅受定なる域に至った後に解脱が来るとされる。

・「厥の」は「その」。

・「正安辛丑」は正安三(一三〇一)年。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 稱名寺(Ⅰ)

    ●稱名寺

金澤に游びて。先つ尋ねべき者は稱名寺なり。寺は町屋村に在り金澤山と號し。彌勒院と稱す眞言律宗にして。南都の西大寺に屬す。當寺は文永年間。

亀山天皇の勅願所にして。北條越後平實時の本願。其の子顯時の創立せし所に係る。

[やぶちゃん注:次の段落「卒とあり」までは底本では全体が一字下げ。]

實時を稱名寺と號し。又法名を正慧(せうけい)といふ。此地に居住せらる。顯時より金澤を家號とす。顯時法名を慧日と號す。靈牌に弘安三年三月二十八日に卒(そつ)とあり。

本尊彌勒菩薩は。西土傳來にして。立像五尺五寸あり。傍に運慶の作の地藏尊の木像二軀を安す。開基は審海和尚なり。

昔時(むかし)北條氏繁榮の時は魏然たりし伽藍なりしも歳月を經(へ)るに隨ひ。金澤文庫も終に頽廢し。佛宇も自ら蕭條(しやうぢやう)に歸せり。唯(ただ)古來の名刹なるを以て。此地に遊ふ者は必らず杖を曳くを例とす。其の現況を叙せむに。

[やぶちゃん注:長いので、分割して注を附す。

「文永年間」西暦一二六四年~一二七四年。称名寺は正嘉二(一二五八)年、金沢流北条氏の実質的な初代金沢実時が六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂(阿弥陀堂)がその起源とされるが、後の文永四(一二六七)年に鎌倉の極楽寺の忍性の推薦により、下野薬師寺(現在の栃木県下野市にあった戒壇を持った真言律宗の寺院)僧審海を開山に招いて正式な真言律宗寺院となった。

「弘安三年三月二十八日」正安三(一三〇一)年の誤り。

「五尺五寸」約一メートル六七センチ。]

 

【2016年1月13日追加:本挿絵画家山本松谷/山本昇雲、本名・茂三郎は、明治三(一八七〇)年生まれで、昭和四〇(一九六五)年没であるので著作権は満了した。】

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山本松谷「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」挿絵 称名寺の図

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年八月二十日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」(第百七十一号)の挿絵。左欄外に手書き文字で「稱名寺の圖」とキャプションがある。]

杉田久女句集 273 花衣 ⅩLⅡ 宇佐神宮 五句 附 杉田久女「息長帶姫命の瓊のみ帶について」

 

  宇佐神宮 五句

 

うらゝかや齋(いつ)き祀れる瓊(たま)の帶

 

藤挿頭(かざ)す宇佐の女(によ)禰宜は今在さず

 

丹の欄にさへづる鳥も惜春譜

 

雉子鳴くや宇佐の盤境(いはさか)禰宜ひとり

 

春惜む納蘇利の面は靑丹さび

 

[やぶちゃん注:坂本宮尾氏の「杉田久女」によれば、本五句は昭和八(一九三三)年七月号『ホトトギス』の久女二度目の雑詠欄巻頭を飾ったものである。従ってこれは前の「宇佐櫻花祭 三句」の翌年の再訪と吟詠であることが分かる。久女には、発表誌年月不詳の「息長帶姫命(おきながたらしひめのみこと)の瓊(たま)のみ帶(おび)について」という文章があり、本歌及びこの参拝吟行を細かに語っているので以下に引用する。底本全集第二巻を用いたが、恣意的に正字化した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。太字は底本では傍点「ヽ」。

   *

 息長帶姫命の瓊のみ帶について

 

 おたづねの宇佐神官と宇佐八幡とは同一のものに御座います。

 宇佐本殿は三殿合祀で中央三比賣(ヒメ)大神(多岐津姫命、市杵島姫命、多岐理姫命)、右殿神功皇后(御名息長帯姫命(オキナガメラシヒメ))、左殿応神天皇(御名譽田別尊)、この三神を合して宇佐神官と申します。昔は宇佐八幡と申し上げたのですが明治四年五月官幣大社に列せられ、同六月から宇佐神官と申す様になりました由。

 さて瓊(タマ)の帶は、(聖武天皇奉獻による)神功皇后の御物と申し奉る古い唐錦の御帶で、禰宜の語るところによりますと、こげ茶の地に、草花模樣があり、それに五色の小い瓊を所々にぬひつけた誠に高貴なおみ帶でございますとか。もつとも地色も模樣も、かしこけれど、すでにぼろぼろで、ほんの四五寸の布地だといふのみでございます由。これが今は神功皇后の御神殿中に秘藏される宇佐第一の神宝でございますが、一説には応神天皇樣の御袴腰とも申され、いづれが正しいかは、判じませぬが。

 三比賣大神及神功皇后がいづれも女神におはしまされ、また宇佐神官が、うらゝかな朱(アケ)宮居でいらせられる事も、玉のみ帯といふ感じの方が私にはふさはしく思はれました。殊に又此の日の透るばかりな好晴のうらゝかさも、只もう瓊のやうな感じがピンと私にはきました。尚玉を單にうつくしい帶といふ意のみではなく、瓊をまつりつけたおん帶の意で用ひました。

 中央宇佐神宮が兵火にあひ御寶庫中の神宝も大かたうばひ去られた中に、此瓊の御帶のみが、今の彌勒神宮寺跡におちてゐましたのを、禰宜の一人が見出して取もどし、その後はずつと、神殿の朱の御扉中に奉安してあるものゝ由。宮司以外は(宮司も一年一度例祭開扉の外は)立入るを絶對にゆるされぬ神殿中故、実際拜觀したものは殆どないとかいふ事です。此手紙の大帶姫命といふ事は私は一向存じませんが、神功皇后の御名息長帶姫命の事とはちがひませうか。

 私は今春宇佐へまゐり、古実にくはしい禰宜から以上の話を承つた丈けです。

 尚おたづねの藤かざすは、別に宇佐神宮の古事からえたわけでもなく、私の創始でございます。

 宇佐の女禰宜(ニヨネギ)は昔は大変な勢力があつたけれども、鎌倉時代に廢絶したものゝ如く、今も女禰宜の屋敷跡などいひつたへるものが宇佐の古い築地町の中などにはさまつてゐます。

 丁度私が宇佐に詣つた時は、神苑の藤が咲くころで、あの濃紫色の花房から、私は奈良朝時代や源氏物語中の古典の舞樂、丹の欄にぬかづく、淸そな女禰宜の藤をかざしてでもゐる樣な面影をふと思ひうかべました。神苑の森ふかく老樟そびゆるところ、昔の宇佐の宮居は、さぞ藤がいつぱいうち垂れてゐはしなかつたらうかなどとも考へまして。

 尚宇佐の盤境は、神宮発祥の地として現今の宮から数十丁奥の、人跡まれな宇佐山にあり、三比賣大神天降の地。三比賣神にかたどつて三体の、一丈餘の大岩をたて、其めぐり岩でかこんだ、つまり石器時代の神祇の古跡で、しめを張り、常はたつた一人の禰宜が居ます。

 古事記等にある盤場の一つで、御承知とは在じ上ますが申添ます。尚宇佐の鎭疫祭奉納の雅楽の蘭陵納蘇利のつけます二つの面は宝物で千年以上のもの。之をかぶり、古剣をふるひつつ、神宮寺跡の大地で土地の古老が毎年まひます。此蘭陵、なそりと二つの悠長な面に眺め入つてますと、千年といふ永い歳月の流れ、幾変遷してゆく悠長の時代といふものを私は今更らながら感じ、自分自身もどんどん時代の波に洗ひ流されてしまふのだといふ心地がしみぐしました。

   *

 簡単に語注を附しておく。

・「譽田別尊」応神天皇の諱で「ほむたわけのみこと」と読む。

・「四五寸」十三~十五センチメートル程。

・「女禰宜(ニヨネギ)」巫女。めねぎ。

・「盤境」底本には編者による『(ママ)』注記が右につくが、問題ない。これは「いわくら」又は「いわさか」と読み(盤座とも書く)、祭祀に際して神が降臨する岩石若しくは石を築き廻らした一定の場所を指す語で、本邦に於いては社殿建築以前の古代祭祀の結界祭場と考えられるものをいう。後の「盤場」(「ばんじょう」若しくは「いわば」と読んでいるか)も同じ。

「数十丁」十丁(町)は一キロ強。「宇佐山」というのは宇佐神宮の東南約六キロメートルに位置する御許山(おおもとやま:神宮では「大元山」と書く)のこと。個人サイト「戸原のトップページ」の「社寺巡拝記」の宇佐信仰山(三女神降臨伝承)」によると、これは八幡宇佐宮の元宮という意味を含み、久女の述べているように三女神降臨の伝承があり、山頂に三女神が依代(よりしろ)として降臨したとする三個の立石から成る磐座があるという(現在の頂上部は禁足地となっていて実見不能)。『資料によれば、中央の石が最も大きく高さ一丈五尺』(約四・五メートル)『の烏帽子型、右の石はこれに次ぐ大きさで形はほぼ同じ、左の石は高さ四尺』(約一・二メートル)と有意に『小さく、人の手が加えられた痕跡があるという』とある。

・「鎭疫祭」「ちんえきさい」と読み、「御心経会(おしんぎょうえ)」とも呼ぶ。公式サイトによれば、二月十三日に宇佐神宮で行われる大祭。疫病災禍を祓い鎮める祭で、『前日の宵祭、当日の本殿祭に続き八坂神社前で祭典が行われ』、『幣越神事・陵王の舞・鳩替神事があり』、『境内に浄火が焚かれ、古神札を焼納』するとある。

・「蘭陵納蘇利のつけます二つの面」坂本氏の「杉田久女」に、『納蘇利(なそり)の面は蘭陵(りょうおう)の面ともに池畔の宝物館に展示してある。これは龍を象(かたど)ったインド系の雅楽面で、鎌倉時代の作とされる。盛る句飛び出した大きな眼、吊り顎、白い牙をもち、深い皺は刻まれていて、おおらかなユーモアをたたえた表情である。全体に黒に近いくすんだ色で、目の周囲などに朱が残っている』とし、句の『青丹とは染料や画材に用いる青黒い土』と注されておられる。グーグル画像検索「納蘇利

 

 坂本宮尾氏はこれら五句について、「杉田久女」で特に「宇佐神宮五句」という章を設け、諸家の評とともに美事な評釈をなさっておられるので是非お読み戴きたい(一一八~一二二頁)。坂本氏は最後に、これらの五句は『久女の俳句が、日常を抜けてはるか古代の浪漫の世界へ突き抜けたことを示す記念すべき作品群といえる』と讃えておられる。蓋し、名評である。]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 74 那谷寺 石山の石より白し秋の風

本日二〇一四年九月 十八日(陰暦では二〇一四年八月二十五日)

   元禄二年八月  五日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月 十八日

【その三】既に述べた通り、この日、曾良と別れ、立花北枝とともに山中温泉を発った芭蕉は現在の石川県小松市那谷町にある自生山那谷寺(じせいざんなたでら)を訪れ、再び先に泊した小松へ向かった。本名句はその那谷寺での句。

 

石山の石より白し秋の風

 

[やぶちゃん注:「奥の細道」。

 那谷寺は寺伝によれば養老元(七一七)年に泰澄法師が越前国江沼郡に千手観音を安置したのが始まりとされる。その後寛和二(九八六)年に花山法皇が行幸の折り、岩窟で輝く観音三十三身の姿を感じて、観音霊場三十三カ所は総てこの山に凝縮されるとして、西国三十三観音の一番「那智」と三十三番「谷汲」の山号から一字ずつを取って「自主山厳屋寺」から「那谷寺」へと改名した。南北朝時代に戦乱に巻き込まれ荒廃したが、近世になって加賀藩藩主前田利常が再建、この時の大工は気多大社拝殿を建てたのと同じ山上善右衛門であった。前田利常は、江沼郡の大半を支藩の大聖寺藩に分置したが、この那谷寺がある那谷村付近は自身の隠居領としたため、その死後も加賀藩領となった(後に領地交換で大聖寺藩領となっている。以上はウィキの「那谷寺」に拠った。私は行ったことがないが、なかなかに美しい「那谷寺」公式サイトも必見である)。

 本句は、その境内にある太古の海底噴火の跡と伝えられる流紋岩を主とする凝灰岩から成る奇岩霊石がそそり立つ「遊仙境」の岩肌に臨んだ嘱目吟である。陰陽五行説によれば白秋で秋は白であるが、ここは白く晒された奇景を秋の白い風が山の緑の色彩をも奪って精神のハレーションを起こさせる。この画像の飛びは、まさについ今しがたあった、同行二人の曾良を手ずからの露(涙)を以って指で押しのごってしまった、芭蕉自身の精神の空白を伝えて余りある。

 この名吟を最後として以後の「奥の細道」には最後まで遂に、少なくとも人口に膾炙するような佳句は生まれなかった。ただ、その分、芭蕉は旅を純粋に旅として、彼の人生の中での数少ない侘しい魂の独り旅を味わったのだった、とは言えよう。

 以下、「奥の細道」那谷寺の段を出すが、前に述べた通り、山中温泉の段とひっくり返してある。煩を厭わず先に出したものと同じく山中までを再掲する。

   *

山中の温泉に行ほと白根か嶽

跡に見なしてあゆむ左の山際に

觀音堂有花山の法皇三十三所

          大慈

の順礼とけさせ給ひて後大悲の

像を安置し給ひて那谷と名付給ふと也

那智谷組の二字をわかち侍しとそ

-石さまさまに古-松植ならへて

萱ふきの小堂岩の上に造り

かけて殊勝の土地也

  石山の石より白し秋の風

温泉に浴す其功有明に次と云

  山中や菊はたおらぬ湯の匂

あるしとするものは久米之助とて

いまた小童也かれか父俳諧を好て

洛の貞室若輩のむかし爰に

來りし比風雅に辱られて洛

に歸て貞德の門人となつて世に

しらる功名の後此一村判詞の料を請す

と云今更むかしものかたりとは成ぬ

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇那智谷組の二字    → ●那智・谷汲の二字

○好(このみ)て    → ●好み

○むかしものかたり   → ●昔語(むかしがたり)とはなりぬ

■やぶちゃんの呟き(那谷寺の段のみ。山中の段はつぶやき済)

「白根が嶽」加賀白山。現在の石川県白山市と岐阜県大野郡白川村に跨る標高二七〇二メートルの山。富士山・立山とともに日本三名山(日本三霊山)の一つ。北陸地方では標高が高く、一年中、山頂が雪に覆われているところから、遠くから見てもその白さから一目で判別出来ることからかく呼ばれた。

「花山の法皇、三十三所の順礼」第六十五代花山天皇は愛する后が死んだ悲しみから落髪して法皇となって西国巡礼の旅に出、そして長徳元(九九五)年六月一日にこの那谷に来たという伝承がある(諸データは史実とするものが多いが、私は全く信じていない)。

「大慈大悲の像」同寺の本尊である千手観音菩薩像。那谷寺本殿にある。

「那智・谷組の二字」「谷汲」が正しい。「那智」本邦の観音信仰巡礼でも最も古ものの一つとされる西国三十三所の最初、第一番札所である紀伊の那智山青岸渡寺の「那」と、最後の第三十三番札所で現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲(たにぐみ)にある谷汲山(たにぐみさん)華厳寺の「谷」をのそれぞれの一字を取って、の意。
 
「殊勝」神々しく霊験あらたかなさま。]

杉田久女句集 272 花衣 ⅩLⅠ 宇佐櫻花祭 三句

  宇佐櫻花祭 三句

 

うらゝかや朱のきざはしみくじ鳩

 

三宮を賽しおはんぬ櫻人

 

櫻咲く宇佐の呉橋うち渡り

 

[やぶちゃん注:「宇佐」大分県宇佐市南宇佐にある宇佐神宮。公式サイトなどによれば、全国の四万社余りある八幡の総本宮で、祭神である八幡大神(はちまんおおかみ)は応神天皇の神霊で、欽明天皇の御代、五七一年に初めて宇佐の地に示顕したと伝えられ、神亀二(七二五)年に現在地に御殿を造立、八幡神を祀ったのを創建とするとある。天平三(七三一)年には神託により二之御殿が造立され、宇佐の国造が比売大神を祀っている。比売大神(ひめのおおかみ)は八幡神が現われる以前の古い地主神として祀られ崇敬されてきたもので、宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)に比定されている。二句目に出る応神天皇の母神功皇后(別名を息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)とも呼ぶ)を祀る三之御殿は弘仁一四(八二三)年の建立になり、母神として神人交歓・安産・教育などの守護を成すとされる。

「宇佐櫻花祭」公式サイトによると、桜花祭(おうかさい)は四月十日に行われる宇佐神宮の小例祭で巫女が桜の枝を手にして豊栄の舞を舞うとある。

「みくじ鳩」宇佐神宮の民芸品で御御籤を兼ねる。「観光館 文福」昭和三一年創業の宇佐神宮の参道入り口に位置するレストラン)このグ記事によれば、『本来は宇佐の溝口ひょうたん本舗の創業者(現在の溝口栄治社長の祖父にあたる方)の発明品』であったらしいとある。リンク先で新旧のみくじ鳩を見られ、『画像の右側に色鮮やかで、大きな張り子の鳩が二つあり』、それが『本来のみくじ鳩で』、『胸のところにみくじ鳩と書いてあり』、『この紙を剥ぐと中からみくじが出るような仕組みになってい』るとある。但し、『残念ながらこの張り子のみくじ鳩は今はもう作ってい』ないとあるので、久女が手にしたのは今の土鈴ではなく、この大きな張子の鳩であったと考えてよいであろう。

「賽し」「さいし」と読む。賽銭などを掲げて拝むの意。ここは巫女が舞いつつ桜の枝を奉じるように見えることをいうのであろう。

「呉橋」「くれはしと読む。宇佐神宮西参道にある屋根付きの木造橋。ウィキ橋」によれば、『宇佐神宮の神域を画す寄藻川(よりもがわ)に架かる屋根付きで朱塗りの優美な橋である。この橋が位置する西参道は、昭和初期までは表参道であり、朝廷より派遣された宇佐使と呼ばれる勅使が通ったため勅使街道とも呼ばれていた』。現在の橋は元和八(一六二二)年に、豊前小倉藩第二代藩主細川忠利によって修築されたもので(但し、明治九(一八七六)年と昭和二六(一九五一)年に大改修されている)。上部は木造で、三基ある橋脚は石造り、屋根は向唐破風(むこうからはふ)造り(出窓のように独立して葺き下ろしの屋根の上に千鳥破風の如く造られたもの)で檜皮葺(棟は銅瓦葺)である。現在は渡ることはできず、十年に一度の勅使祭の時にのみ使用される。『創建年代は不詳であるが、鎌倉時代より前に存在していたといわれる。中国の呉の人が架けたと伝えられ、これが橋の名の由来となっている』。正安三(一三〇一)年には『勅使として宇佐神宮を訪れた和気篤成』(わけのあつしげ:医師。典薬頭・大膳大夫。「徒然草」第百三十六段に名が出る。)『が「影見れば 月も南に 寄藻川 くるるに橋を 渡る宮人」という歌を詠んでいることから、この頃にはすでに呉橋があったことを確認できる』とある。公式サイトに勅使祭は大正一四(一九二五)年から現在の十年に一度の臨時奉幣祭となったとあり、彼女が本句を詠んだ(坂本宮尾「杉田久女」一一九頁に拠る)昭和七(一九三二)年はこれに当たらない。もしや、この頃は呉橋を一般参詣人が渡ることが許されていたものか? 識者の御教授を乞うものである。私は行ったことがないが、リンク先の画像を見ると、とても素敵な橋である。]

橋本多佳子句集「海彦」  吉野青し

 吉野青し

 

急流を泳ぎ切り若き全身見す

 

青き吉野泳ぐ百姓淵に透き

 

尻あげて泳ぎ吉野の川に育つ

 

吉野青し泳ぐとぬぎし草刈女

 

泉の底明し顔浸(つ)け眼ひらけば

 

待つ長し電線つかみ仔燕等

          (二十八年)

 

[やぶちゃん注:「吉野」は奈良の吉野。「吉野の川」は奈良県から和歌山県へと流れて紀伊水道に注ぐ紀の川。河川法上の名称は「紀の川」で、国土地理院二万五千/一地形図では「紀川」、奈良県内では奈良県南部の地名「吉野」に因んで「吉野川)」と呼ばれるが、河川名を案内する標識などには水系名である「紀ノ川」が併記されてある(以上はウィキの「紀の川」に拠る)。底本年譜の昭和二八(一九五三)年の条に、『七月三十日、吉野へ吟行、静塔、多佳子、清子』(津田)、『美代子、薫』(堀内)『参加。多佳子は吉野川の青淵』(和歌山県新宮市から奈良県吉野郡十津川村に跨る峡谷瀞八丁(どろはっちょう)か? 十津川村観光協会公式サイト内の瀞峡を参照)『をのぞき込んだり、大岩に腰かけて句作にふける。雷雨の中、静塔は濡れて着く。下市』(しもいち:奈良県吉野郡下市町大字下市)『の「吉野山水」』(奈良県吉野郡十津川村平谷にある離れ一軒宿。現在は「小料理宿 山水」と称する。十津川温泉の源泉地下湯温泉にあり、本年で創業三十五年の和風旅館。公式サイトは)『にて夜、土地の俳人等を交えて句会。夜中、泥棒入り大騒ぎ。翌三十一日、未明に起き、鮎釣を觀。午前中句会。作品「吉野青し」。』とある。]

今日の「奥の細道」シンクロニティは三本

……あと一つありますよ……「石より白し」……です……12:00に公開予定――お待ちあれ――

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 73 湯の名残今宵は肌の寒からむ ――タドジオとの別れ――

本日二〇一四年九月 十八日(陰暦では二〇一四年八月二十五日)

   元禄二年八月  五日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月 十八日

【その二】「その一」で述べたように、この日、芭蕉は八日間滞在した山中和泉屋を発った。本句は、その十三歳の若主人で門人となった久米之助桃妖への留別吟である。

 

湯の名殘(なごり)今宵(こよひ)は肌の寒からむ

 

  山中湯上(ゆあが)りにて桃妖に別るゝ時

湯の名殘今宵は肌の寒からぬ

 

[やぶちゃん注:第一句目は句空の「柞原(ははそはら)集」(元禄五年奥書)の句形で、

 

  此句ハ、はせを翁山中上湯の時、やどりの

  あるじ桃妖に書てたぶ。まへがきありしか

  どわすれ侍り

 

という附記がある。「上湯」や次の句の前書の「湯上り」はともに湯治明けのこと。第二句目は「立圃花めぐり」(岸芷(がいし)編・文化五(一八〇八)年刊)の句形。「今宵」の「宵」は底本(岩波文庫版中村俊定校注「芭蕉俳句集」)では「※」=「雨」(かんむり)+「月」。

 温みが今宵まで持つか持たぬか、それぞれに解釈は可能であるが、これは湯ではなく美少年の肌のぬくもりを通わせる確信犯の稚児愛憐、クナーベン・リーベの恋句であるから、断然、その肌へに触れることが最早出来ぬ今宵は「どんなにか寒いことであろうよ」という第一句でなくてはならぬ。

 こりゃ、やっぱ、ヤバいよねぇ、曾良さん……]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 72 今日よりや書付消さん笠の露――曾良との留別

本日二〇一四年九月 十八日(陰暦では二〇一四年八月二十五日)

   元禄二年八月  五日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月 十八日

【その一】この日、芭蕉は八日間滞在した山中和泉屋を発った。「奥の細道」では「曾良は腹を病みて、伊勢の國、長嶋と云ふ所にゆかりあれば、先き立ちて行く」とあるが、事実は以下に見るように「曾良随行日記」によって、金沢から見送りのために同道して山中温泉にも同宿していた立花北枝とともに同日の『晝時分』に先に那谷寺へと発ち、曾良はその後、程なく山中を発っている。これは何か、奇妙ではあるまいか?

 ともかくも、百二十五日目(「奥の細道」の旅は江戸深川から大垣まで全行程は百五十六日で約六百里、二千四百キロメートル相当)の曾良との別れの句である。

 

今日よりや書付消さん笠の露

 

今日よりは書付消さん笠の露

 

  同行(どうぎやう)なりける曾良、道より

  心地煩(わづらは)しなりて、我より先に

  伊勢の國へ行(ゆく)とて、「跡あらむ

  倒(たふ)れ臥(ふす)とも花野原」とい

  ふ事を書置(かきおき)侍るを見て、いと

  心ぼそかりければ

さびしげに書付消さんかさの露

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目は「芭蕉句選年考」(石河積翠著・寛政年間(一七八九年~一八〇一年)成立)の句形。第三句目は頴原・尾形訳注角川文庫版「奥の細道」の「発句評釈」に「湖中芭蕉翁略伝」に所収する真蹟懐紙の句形(現在は原物不明)として示されるもので、前書の「心地煩しなりて」はママ。

「書付」この場合は行脚僧や巡礼などが常に仏や弘法大師と一緒にいるという意を込めて笠の内側などに書きつけるところの「乾坤無住同行二人」(ともに天地の間を修行する一所不住の謂い)を指す。それを笠においた露をもって万感の思いの中、手ずから消す芭蕉の実写にのみ私は心打たれてきたのだが、流石は安東次男氏は岩波同時代ライブラリー「古典を読む おくのほそ道」で、そこを恐るべき博識を以ってディグしている。「奥の細道」に先行する曾良の句の句解を含め、引用するには長過ぎて、やや憚られるものの、引かずにはおれない(恣意的に西行の和歌や「曾良随行日記」の引用部分は正字化し、踊り字「〱」は「々」とした。太字「後追」は底本では傍点「ヽ」)。

   《引用開始》

○行々てたふれ伏とも萩の原曾良――「いづくにかたふれ伏共(とも)萩の原」として「書留」に見える。「元禄二年翁に供せられて、みちのくより三越路(後・中・前の三つ)にかゝり行脚しけるに、かゞの国にていたはり(労、病)侍りて、いせまで先達(さきだち)けるとて」と前書をつけ、同じ句形(「いづくにか」)で『猿蓑』にも収める。「行々て」は、元禄四年夏より後の句形である。『ほそ道』に入れるために、芭蕉が改めたものかもしれぬ。たぶんそうだろう。

 「無常の歌あまた詠みける中に、いづくにかねぶりねぶりてたふれ伏さんとおもふ悲しき道芝の露」(西行、山家集)

 この歌を下敷にした作りに相違ないが、初の形には更に別案があった。「原」の傍に「かゞ」と注目すべき書入が見られる(「いづくにかたふれ伏とも萩の加賀」)。これだと、加賀の地かもしくは其地での思出にうしろ髪を引かれる、留別の吟ということになる。通説は、西行歌に釣られて、曾良の行脚の覚悟と解しているようだが、改めた末の形はどうあれもとはそういうつもりで詠んだ句ではない、ということがわかる。「萩の原」が、同行の思出ひいては後に残す芭蕉の身を案ずる心の表現だ、とは続けて芭蕉の唱和の句を読めば納得がゆくのだ。

[やぶちゃん注:中略。]

○今日よりや書付消さん笠の露――「書付」の事実は知られていないが、貞享五(元禄元)年の春、万菊丸(杜国)を伴って吉野に遊んだときは、「乾坤無住同行二人」と笠の内にしるした(『笈の小文』)。今回も同じに考えてよいだろう。同行二人とは、もともと御仏と二人の意味である。一人旅でもよい。ならば消す必要はないわけだが、それを「消さん」と云っているところに、まず含のある句の趣向をさぐらせる。

 先行する者が、西行歌を使って留別の句を詠めば、跡に残った方は西住(さいじゅう)を思わぬはずがない。西住は西行が『山家集』のなかで、只一人「同行」の名を以て呼んでいる人物である。出自や経歴はよくわからないが、いうなれば影の形に添うごとき存在で、西行の無二の友だった。その西住を讃岐修行に伴ったときの歌が、『山家集』にある。

    四國の方へ具して罷りたりける同行、都へ歸りけるに、

  歸りゆく人の心を思ふにも離れがたきは都なりけり

    ひとり見をきて歸り罷りなんずるこそ

    哀れに、何時か都へは歸るべき、など

    申しければ、

 柴の庵のしばし都へ歸らじと思はむだにもあはれなるべし

とくにこの後の歌が、句作りのたねのようだ。前書に云う「見捨てて帰るさえつらいのに、いつ君は都に戻るのか」く問うのは西住である。「西行は都へ帰らぬだろうと、一瞬君が思うのさえあわれである」と慰めるのは西行だ。道心のなかにユーモアを覗かせる歌だが、前書共、一首はそのまま曾良に対する芭蕉の送別の口ぶりに置換えることができる。

 ここまで読むと、問答の意味がようやくはっきりする。「書付消さん」は、相手の心残りを断つ工夫だ(自分のためなら「同行二人」を消す必要はない)。安心して先に行け、と芭蕉は云っているのである。君は、「道芝の露」の歌を使って、深刻に別れを告げたがるが、この場にはむしろ「柴の庵」の歌の方が似合う、とはげましていると読んでもよい。近いうちに又合うではないか、とも慰めている。

 「いづくにか」を「行々て」に改めたのは、やはり芭蕉だった、と考えてよいだろう。その辺のことがわからぬと、読取はすっかり狂ってしまう。一句立なら甚だ無性格で、見送る人・送られる人どちらでもよいが、そうではない。第一、「消さん」とは、書かれたものが先あってのはなしである。同行を安堵させるための後追の興らしいということは、字遣いからも見当がつく。それを西住・西行の関係に是めれば、おのずと拠るべき情況と歌はうかんでくる。いかにも脇づとめの上手らしい目の付けどころだろう。この句は「書留」にはもうしるされていない。

 「五日(九月十八日)朝曇。晝時分、翁・北枝、那谷(なた)へ趣。明日於小松左駒萬子(まんし)(加賀藩士、知行千石。以後蕉門)爲出會也。…立、大正侍ニ趣。全昌寺へ申刻着、宿。夜中、雨降ル。」(日記)[やぶちゃん注:後略。「那谷」は現在の小松市那谷町の那谷寺。「奥の細道」では時系列変更によって山中の段の前にある。後日、評釈する。「大正侍」は「正」の右に『(聖)』と安東氏の傍注がある。現在の石川県加賀市大聖寺町のこと。前田家支藩七万石の城下町であった(「侍」の誤記については、やはり後日の評釈を待たれたい)。「全昌寺」加賀市大聖寺町の曹洞宗の寺。山中温泉の和泉屋の菩提寺であり、当時の住持月印は和泉屋若主人久米之助の伯父であったから、明らかに久米之助の配慮による紹介である。芭蕉もこの後日に同寺に泊している。なお以下、山中逗留中に興行された北枝・北枝・芭蕉三吟による七巡(二十一句。但し、二十二句目以降は北枝・芭蕉の両吟となる。安東氏によれば、『以後たぶん両人の別れ(松岡)までの間に歌仙満尾し、『卯辰集』に収められ』たとある)の解説と全句が載る。]

   《引用終了》

まさに安東節、再炸裂、彼の評は凡百の国文学者が総出でかかっても敵わない気がする。

  第三句について同引用元(頴原・尾形訳注角川文庫版)では、『「煩しなりて」のごとき不審の点もあるが、忽卒(そうそつ)』(「倉卒」に同じい。慌ただしい中で、の意)『の際に書いたものとすれば、誤脱もないとはいえない。とにかくまったくの偽作とも思えないようである。あるいはこれが実際初案であったのかも知れぬ。すると曾良の句も「跡あらむ倒れふすとも花野原」から、次第に推敲(すいこう)をかさねられたわけである』とある。これは傾聴に値する見解と思う。

 以下、「奥の細道」から山中温泉の曾良留別の段を引く。

   *

曽良は腹を病て伊勢の国長嶋

と云處にゆかりあれは先立て旅

立行に

  ゆきゆきてたふれ伏共萩の原

と書置たり行ものゝ悲しみ殘る

ものゝうらみ隻鴨のわかれて雲に

まよふかことし予も又

  けふよりや書付消さん笠の露

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇先立て旅行(たびゆく)に → ●先立て行くに

○隻鴨           → ●隻鳧

■やぶちゃんの呟き

「曽良は腹を病みて」確かに、「随行日記」を見ると曾良は金沢で、

 

一 十七日 快晴。翁、源意庵ヘ遊。予、病氣故不隨(したがはず)。今夜、丑ノ比ヨリ雨強降テ、曉止。

 

とあり、以下(■は判読不能の字)、

 

一 廿一日 快晴。高徹ニ逢、藥ヲ請(こふ)。翁ハ北枝・一水同道ニテ寺ニ遊。十德二ツ。〔■■〕十六四。

一 廿二日 快晴。高徹見廻(みまふ)。亦、藥請。此日、一笑追善會、於  寺興行[やぶちゃん注:空白はママ。願念寺。]。各朝飯後ヨリ集。予、病氣故、未ノ刻ヨリ行、暮過、各ニ先達而歸(さきだつてかへる)。亭主丿松(べつしよう)。

一 廿三日 快晴。翁ハ雲口主(あるじ)ニテ宮ノ越ニ遊。予、病氣故不行(ゆかず)。江戸ヘノ狀認(したたむ)。鯉市・田平・川源等ヘ也。徹ヨリ藥請。以上六貼也。〔今宵、牧童・紅爾等願滯留。〕

 

と、芭蕉との同行を何度も欠している。「高徹」(北枝と親交のあった金沢の医師)が処方もし、往診もしているから、体調不良のためであることは間違いない。次の滞在地である山中温泉は胃腸病に効くことでも知られるから、曾良の病態はまさに「腹を病」むというところの、急性か亜急性の胃腸障害であった可能性が窺われる。

 しかし、この翌七月二十四日に金沢を発ってから(北枝も同行)は、山中滞在中で、

 

廿九日 道明淵[やぶちゃん注:山中温泉の東方を流れる大聖寺川にある淵。]、予、不往(ゆかず)。

 

とある以外には(ところが翌『八月朔日』の記事には『快晴。道明が淵。』とあって恐らく曾良一人で同所に行っているのである)、実は芭蕉と分かれて先行すること、八月十五日の伊勢長島の大智院(現在の三重県桑名郡長島町の内)到着までの一人旅の日記には体調不良の記事は認められない。但し、この大智院に着いた翌日の条に、

 

十六日 快晴。森氏、折節入來(じゆらい)。病躰談(だんず)。

 

俳友ででもあったかと推測される、訪ねて来た大垣藩藩医森恕庵玄忠に病態の相談をしている。以上、ここでは事実のみを注して、私の推理は最後に述べることとする。本文への注を先に片づける。

 

「ゆきゆきてたふれ伏共萩の原」既に第三句形の前書や安東氏の引用にも出たが、これらを総合すると本句には以下、決定稿の他に三形が認められることになる。

 

 行き行きて倒(たふ)れ伏すとも萩の原

 

 跡あらむたふれ臥すとも花野原

 

 いづくにかたふれ伏(ふす)とも萩の加賀

 

 いづくにかたふれ伏とも萩の原

 

最初の句が「奥の細道」本文の句形(当然、芭蕉の斧正による決定稿)、第二句目が「湖中芭蕉翁略伝」所収の真蹟懐紙の句形、第三句目が「曾良俳諧書留」の句の傍らの書き入れを復元したもの(安東氏に拠る)、第四句目は「曾良俳諧書留」の決定稿(?)と「猿蓑」に載る句形である。但し、この句は実は「書留」の旅中の部分ではなく、「猿蓑」入集句をメモした部分に書かれてあると頴原・尾形角川版の発句評釈の補記に記されてある。それらを総合すると私の推理では、

 

 跡あらむたふれ臥すとも花野原

   ↓(曾良推敲若しくは芭蕉の初期斧正)

 いづくにかたふれ伏とも萩の原

   ↓(曾良改悪)

 いづくにかたふれ伏(ふす)とも萩の加賀

   ↓(芭蕉最終斧正)

 行き行きて倒(たふ)れ伏すとも萩の原

 

の推敲過程を経たものかと思う。決定句は私には曾良の句というより芭蕉の句という誤認印象の呪縛から私は逃れられないのである。

「隻鴨のわかれて雲にまよふかことし」「隻鴨」は「そうこう」と読み、雌雄つがいのカモのことをいう。通行本では「隻鳧」とし「せきふ」と読んでいるが、「鳧」は広義に、また芭蕉の当時は、カモ目カモ亜目カモ科 Anatidae に属するもののうち、ハクチョウ・ガン・アイサの仲間を除いた、中形の水鳥であるカモ類を総称するものであると考えてよい。具体的にはマガモ・コガモ・オナガガモ・ハシビロガモなどが含まれる(ここは主に「大辞林」の記載に拠った。狭義にはチドリ目チドリ亜目チドリ科タゲリ属ケリ Vanellus cinereus がおり、これに限定している評者が実は多いが私は従わない)。これは十九年の永きに亙って匈奴に捕われていた漢の蘇武が、両国の和睦によってついに帰国の途に就くこととなり、かつての盟友で匈奴に投降して厚遇されていた李陵(匈奴の右校王となった)の別れに際し詠んだ詩の一節にある(「蒙求」所収)、

 雙鳧俱北飛

 一鳧獨南翔

 子當留斯館

 我當歸故鄕

  雙鳧(さうふ) 倶(とも)に 北に飛び

  一鳧(いつふ) 獨り 南に翔(かけ)る

  子(し)は當に斯の館(たち)に留むるべし

  我は當に故鄕に歸るべし

に基づく。この「雙鳧」(私はこれも広義の鴨と採るものである)と「一鳧」から、芭蕉は「隻鳧」(=隻鴨)としたことは間違いなく、それについて安東次男氏は前掲書で、『一を隻に置替えて、隻の暗示(別れがあればいっしょになる日もある)としたところがうまい。一、二は単なる数だが、隻、雙は一躰という点が目付だ。隻は手(又)に一羽の鳥(隹)を、雙はつがいの鳥を持つ意味である』とまたしてもの安東節で剖り分ける。少し補足すると「隻」は「右手」を表わす「又(ユウ)」と「鳥」の意の「隹」の合字で、手に一羽の鳥の羽を握っているの意の会意文字で、そこから「一つ」の意となるのに対し、対義語である「雙」は二羽の鳥(「隹」+「隹」)を手(「又」)で持っている意の会意で、一対・一つがいの意となったものである(「双」は「雙」の俗字で二つの手で原意に通じたものである)。

 

 さて。

 「曾良随行日記」の芭蕉と曾良が別れた八月五日を再度見てみよう(安東氏の引用は省略がある。またこの箇所は判読不能の部分があり、諸本で異なる。そこは角川文庫版を参考にしながら独自のテクストとした。〔 〕は割注であるが全く判読出来ないものらしい)。

 

一 五日 朝曇。晝時分、翁・北枝、那谷ヘ趣。明日、於小枩ニ(こまつにおいて)、生駒萬子、爲出會也(しゆつくわいのためなり)。〔■■〕■〔■■〕聊從シテ歸テ、艮刻、立。大正侍ニ趣。全昌寺ヘ申刻着、宿。夜中、雨降ル。

 

 この判読不能の本文や割注部も実に怪しいが(続く「聊從」は「順從」や「輒談」と判読するものもある。私は那谷寺へ向かう道を少しだけ見送って山中温泉に帰ったと読む)、原本を見ることが出来ないのでそこは問題にしないこととしよう。「生駒萬子」は加賀藩士で蕉門の生駒万兵衛(後述する)。

 問題は芭蕉・北枝の出立が前で、それから程なくして(「艮」ではおかしいので、現在、「即」の誤字と考えられている)曾良が出発したという点なのである。

 芭蕉は曾良の胃腸の不具合を思い遣って、恐らく同病に効く山中温泉への今暫くの湯治を曾良に勧め、曾良もそれを肯んじたのではなかったか?

 ところが、いざ、別れて和泉屋で独りきりとなり、甲斐甲斐しく世話しようとする、芭蕉の耽溺した十三歳の美少年の主人久米之助と向き合ってみると、曾良は居ても立ってもいられなくなり、突発的に発つことに決せずにはいられなくなったのではなかったろうか? そう考えた時にのみ私は、この奇妙な曾良の行動の意味が初めて納得出来るのである。

 私は、先の山中滞在以降の評釈以降ずっと述べて来た通り、曾良は山中温泉での芭蕉の、桃妖久米之助に対する溺愛を見てきた。その彼にしてこの少年と居ることは出来ないことは言を俟たない。

 確かに山中直前の金沢から、曾良の胃腸の不具合は発生しているが、私は実はこれは暑気当たりや水や食物による中毒及び感染症ではなく、また内因的な病変による胃腸疾患でもなく、心因性の神経性の胃腸疾患ではないかと疑っている。

 則ち、この少し前から芭蕉との間には――少なくとも曾良には誠心籠めて付き従ってきた芭蕉に対する――ある種の精神的な意味での抑えがたい不満や不快感が募り初めてきていたのではなかったかと思うのである。

 それは私の推理では、恐らくあの躓きの多かった苦難の越後越中路辺りから兆し始めたものと考えている。「随行日記」を見ると例えば、六月二十七日の温海(あつみ)を発った条をみると、

 

廿七日 雨止。温海立。翁ハ馬ニテ直ニ鼠ケ關被趣(おもむかる)。予ハ湯本ヘ立寄、見物シテ行。半道計ノ山ノ奥也。今日モ折々小雨ス。及暮、中村ニ宿ス。

 

とあって、異例の別行動を取っているのである。――芭蕉は鼠ヶ関に直行したが、曾良は二キロメートルほど山に入ったところにある温海温泉の湯本へ日帰り湯をした――というのである。なお、これについて「腑に落ちない」と疑問を投げ掛けておられるのは管見する限り、「芭蕉奥の細道事典」の山本胥氏ぐらいなもの(当該書三六三頁)である)。この頃から、この「同行二人」の芭蕉―曾良の乖離現象は始まっていたのではなかったか?

 また、山本氏の同書の記載(四三三頁)によると、金沢を発って小松に向かった折り、松任(まっとう:現在の石川県南部の松任市)まで来たところ、「随行日記」の中に出る芭蕉の弟子で加賀藩士生駒万兵衛(芭蕉の金沢滞在中は勤めで会見出来なかった)が裸馬で追い駆けてきて、『白い絹と袷(あわせ)と金子(きんす)三両を餞別として差し出した』が、『芭蕉はかたくなに拒否している』事実が生駒万兵衛の日記によって分かっているとある。しかも『どうやらこのとき、芭蕉の路銀は底をついていたようだ。すべての会計をまかされている曾良は、それにも心を悩まされていた』とあるのである。どうも芭蕉は金銭の授受に対しては異常な潔癖感を持っていたらしい。但し、山本氏の『底をついていた』という表現は大袈裟で、それでは旅はここで終わってしまうから、ここは二人で敦賀――近江蕉門の出迎えがあるから大垣までではなく、ここまででよい――まで旅するにはあまりに心もとないものしか手元になかったということを意味するものであろう。しかしそれはまさに、胃が痛くなるような更なる現実的懊悩に曾良が苛まれていた事実が浮かび上がってくるのだ。

 曰く、私はそうした内憂外患が曾良の神経を一ヶ月余りに亙って苛み、神経性胃炎辺りを発症させ、漸次増悪した上に、山中温泉でアッシェンバッハ芭蕉(ヴィスコンティの映画版「ヴェニスに死す」の主人公。原作はあくまで「老作曲家」)がタドジオ久米之助を溺愛するさまを見るに及んで――やってらんねえ!!!――と、遂に曾良の堪忍袋の緒が切れたのではなかったかと、私は二十の頃からずっと信じて疑わないのである。少なくとも曾良が芭蕉と別行動をとることに決した背景にはそれ以外のしっくりくる説明を私は私自身に出来ないのである。――

……因みに、芭蕉は曾良のそうした精神変調に気づいていなかったのかといえば……芭蕉はとっくに気づいていたものと思う。

 芭蕉はしかし、それを指摘したり、それに合わせて自身の言動を変化させるタイプの人間ではない。

 曾良から先行する意志が明らかにされた時も芭蕉はそれを実に穏やかに受け入れたのであろう。

 そもそもが曾良は曾良で、その提案を、これ見よがしの本音の「やってらんねえ!」ケツ捲り方式で芭蕉に告げるとなどということはありえない。――腹の具合が悪いこと――思うところあって伊勢長島に急ぎたく思うこと(これについては安東氏が「古典をよむ おくのほそ道」(二六六頁)で『曾良は、あわよくば長嶋に新風を育てて、ゆくゆく伊勢路経営の拠点にするつもりだったのかも知れない。金沢の乙州の経営ぶりを面の当り見たことも、刺激になったと思う。例の先行の理由はここにも一つ見つかる』とされており、非常に示唆に富む)――向後も立花北枝という新しい同行者が途中(福井の旧知の等栽宅まで。但し、何故か、北枝はその僅か手前の丸岡で芭蕉と別れている。それはまた「物書(かい)て扇引きさく余波(なごり)かな」の句で考えてみたい)までは同道して呉れるであろうこと――等々の最もな理由をのみ淡々と並べ、芭蕉にやんわりと別行動の慫慂をしたものと考えてよい。

 但し、そこで曾良は芭蕉がそれを禁じ、慰留し、同行を続けるよう命じて呉れることをどこかで望んでいなかったかと言えば嘘になるような気はする。

 しかし、何と、芭蕉はここで笑みとともにそれを快諾し、逆に曾良を思いやって、

「今暫くこの山中の湯に入って養生致すがよかろうぞ――」

と労わって呉れたのではなかったか?

 曾良が結局、足早に山中を発ったのは、別な意味では、師に対する一時の違和感や桃妖への嫉妬心に駆られて、取り返しのつかない我儘(この後の行程から見れば、芭蕉は曾良の後をかなり忠実に追う形をとっているから、曾良が同行を再開することも容易ではあった。しかし縷々言い訳し、留別吟までも交わして別れた手前、途中で芭蕉を待って合流するのは、流石の根性なしの私でさえもやらぬ、如何にもおぞましい行為であることは言うまでもない)を通してしまったことへに一種の強烈な自己嫌悪が作用したから、と言えなくもないようにも思えてくるのである。……]

2014/09/17

「奥の細道」シンクロニティ公開予約現況

「奥の細道」シンクロニティはとりあえず敦賀(九月末日)まで公開予約を完了した。何とか、最後まで無事、芭蕉と辿りつけそうだ――

耳嚢 巻之八 硯中龍の事

 硯中龍の事

 

 世に繪かけるも、硯の内より龍の出るをかける多し。或人かたりしは、屋代弘賢、松平羽州の隱居不昧(ふまい)の館へ至りし時、咄しの序(ついで)右龍の事出たりしが、右は漢土の事や又は日本の事にや、其古事(こじ)覺へ候ものなしといひし。不昧の云(いへ)るは、我はしらず、しかし右の繪に千蔭(ちかげ)が讚の歌詠(よみ)し事あれば、千蔭はしる事あらんとの事ゆゑ、千蔭が歌にて、

  かくなれば硯の海をすみかにて雲井をわたるたつぞあやしき

といへる事を以て(硯の海の歌を)尋しに、千蔭こたへけるは、我等もしる事侍らず、右硯より龍の上る繪に讚せよと、人のせちにせめける故詠(よめ)ると。尤(もつとも)戰國大阪方中村豐前守が子孫のあめる由、奇異雜談集(きいざうだんしふ)と云(いふ)書に、硯の海に龍の蟄(ちつ)して出たる事見しと語りし由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。

・「屋代弘賢」(やしろひろかた 宝暦八(一七五八)年~天保一二(一八四一)年)は国学者。江戸生まれの幕臣。既注であるが再掲しておくと、国学を塙保己一に、儒学を山本北山(ほくざん)に学び、柴野栗山(りつざん)の「国鑑(くにかがみ)」や塙の「群書類従」の編集を輔けた。天明二(一七八二年)年に幕府の表右筆として出仕、天明六年には本丸附書役、寛政五(一七九三)年、奥右筆所詰支配勘定格となった。文化元(一八〇四)年には勘定格として御目見以上に昇進した。翌文化二年にはロシアに対する幕府の返書を清書している。幕府右筆として「寛政重修諸家譜」「古今要覧稿」などの編集に従事している。蔵書家で、上野不忍池池畔に不忍文庫をたてた。享年八十四歳(以上は講談社「日本人名大辞典」及びウィキの「屋代弘賢」に拠った)。

・「松平羽州の隱居不昧」出雲松江藩第七代藩主で代表的茶人の一人として知られた松平出羽守治郷(はるさと 寛延四(一七五一)年~文政元(一八一八)年)。不昧は号。ウィキの「松平治郷によると、明和四(一七六七)年に父の隠居により十六歳で家督を継ぎ、当時の第十代将軍徳川家治からの偏諱と祖父宣維の初名「直郷」の一字とにより治郷を名乗った。『この頃、松江藩は財政が破綻しており、周囲では「雲州様(松江藩の藩主)は恐らく滅亡するだろう」と囁かれるほどであった。そのため治郷は、家老の朝日茂保と共に藩政改革に乗り出し、積極的な農業政策の他に治水工事を行い、木綿や朝鮮人参、楮、櫨などの商品価値の高い特産品を栽培することで財政再建を試みた。しかしその反面で厳しい政策が行なわれ、それまでの借金を全て棒引き、藩札の使用禁止、厳しい倹約令、村役人などの特権行使の停止、年貢の徴収を四公六民から七公三民にするなどとした。これらの倹約、引き締め政策を踏まえ』、安永七(一七七八)年には防砂林事業を完成させ、天明五(一七八五)年には佐陀川の治水事業も完了、『これらの政策で藩の財政改革は成功した。これにより空、になっていた藩の金蔵に多くの金が蓄えられたと言われる』。『ただし、財政が再建されて潤った後、茶人としての才能に優れていた治郷は』、千五百両もする天下の大名物「油屋肩衝(あぶらやかたつき)」(漢作唐物の肩衝の茶入れ〈「肩衝」は肩の部分が角ばっている形をいう〉で、名は堺の町人油屋常言(じょうごん)とその子常祐(じょうゆう)が所持したところからこの名がある。現在、畠山記念館蔵。ここは個人サイト「茶の湯の楽しみ」の茶道用語集を参照した)を初め、三百両から二千両もする茶器を『多く購入するなど散財した。このため、藩の財政は再び一気に悪化した』。これについては、実はこうした改革自体は主に家老朝日茂保の主導による功績であって、治郷は政治に口出ししなかったことに起因すると記す。文化三年三月に『家督を長男の斉恒に譲って隠居』して不昧と号し、茶道不昧派の祖となった(この最後の部分は底本の鈴木氏注によって補った)。「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるから、この話柄は凡そその二年の閉区間のホットな話ということになる。

・「千蔭」国学者で歌人・書家としても知られた加藤千蔭(享保二〇(一七三五)年~文化五(一八〇八)年九月二日)。本姓を橘氏とすることから橘千蔭とも称する。参照したウィキの「加藤千蔭」によれば、歌人で江戸町奉行の与力であった父加藤枝直(えなお)の後を継いで、『吟味役となったが、寛政の改革にあたり』、天明八(一七八八)年に『町奉行与力を辞し、学芸に専念した』。『若くして諸芸を学んだが、特に国学を賀茂真淵に学び、退隠後、師真淵の業を受け継ぎ、同じく真淵の弟子であった本居宣長の協力を得て『万葉集略解』を著した』。『和歌については、千蔭の歌風は『古今和歌集』前後の時期の和歌を理想とする高調典雅なもので、村田春海と並び称され、歌道の発展に大きく貢献し、万葉学の重鎮として慕われた』。『また書にも秀で、松花堂昭乗にならい和様書家として一家をなし、仮名書の法帖を数多く出版した。しばしば、江戸琳派の絵師酒井抱一の作品に賛を寄せて』おり、『絵は、はじめ建部綾足に漢画を学んだが、その後大和絵風の絵画に転じた』とある。前注で述べた通り、「卷之八」の執筆推定下限は文化五年夏であるから、彼の逝去前後に本章は書かれた可能性が高いということになる。 

・「かくなれば硯の海をすみかにて雲井をわたるたつぞあやしき」「かく」は「斯く」に、墨で「書く」・絵を「描く」・讃を「書く」を掛け、「すみか」には「棲処」の「すみ」と「墨」を掛け、「雲井」は下の「たつ」で「雲井起つ」(雲が湧き上がる)を導くとともに「龍(たつ)」を掛けて引き出している。狂歌の類いである。

・「(硯の海の歌を)」底本には右に『(專經閣本)』によって補った旨の傍注があるが、これは寧ろ、ない方がよい。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も『といへる事を以(もつて)尋しに』である。現代語訳では排除した。

・「奇異雜談集」江戸初期の怪談集。貞享四(一六八七)年刊。六巻。成立は古く、天正元(1573)年頃かとされる。序文によれば、江州佐々木氏に仕えた中村豊前守の子が編集したとあって(本文の「大阪方」というのは誤りと思われる。底本の鈴木氏もかく注する)、諸国の怪談三十話、中国の「牡丹燈記」で知られる「剪灯(せんとう)新話」等から四話を収める。本書は江戸怪異小説の先駆的作品と目されるものである(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。ここに挙げられた硯から龍が昇天する話は「巻五の一」に載る。現代語訳の後に附しておいた。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 硯の中の龍の事

 

 世に絵を描いたものの中に、硯の内より龍が出ずるを描けるものが、これ、多くある。

 ある人の語ったことには、

――屋代弘賢(こうけん)殿が松平出羽守治郷(はるさと)殿の隠居であられた不昧(ふまい)の館(やかた)へ参った折り、話の序でに、この硯中(けんちゅう)の龍のことに及んだと申す。

 弘賢殿が、

「これは中国のことで御座いますか、はたまた、本邦でのことで御座いますか、これ、確かなその故事については、拙者、見し覚え、これ、御座いませぬが……」

と申し上げたところが、不昧公は、

「……みどもは、よう、知らぬ。……しかし、そうした昇り龍を描いた絵に橘千蔭(たちばなのちかげ)が讃して詠んだ和歌を記したるもの、これ、見たことがあるによって、千蔭ならば、何か知っておるかも知れん。」

との仰せで御座った由。

 その後、弘賢殿が調べてみると、千蔭の歌に、

 

  かくなれば硯の海をすみかにて雲井をわたるたつぞあやしき

 

と申す和歌があったによって、後日、直接、千蔭を訪ね、硯の昇り龍の謂われを訊いたところが、千蔭が答えたことには、

「……実は……我らもその故事につきては、これ、よぅ存じませぬ。……かくも硯より龍の昇れる絵があって、それに讃を書けと、さる御仁から執拗に求め責められましたによって……これ、仕方のぅ、詠みましたる戯れ歌にて御座いまして……。」

と、如何にも申し訳なさそうに弁解致いたと申す。

 もっとも、戦国の世の大阪方の中村豊前守とか申す者の子孫が編んだとか申す、「奇異雑談集(きいっぞうだんしゅう)という書に、小さなる硯の海に龍が蟄居致いておったものが出でて昇天致いたをつぶさに見たと語られてある、とのことで御座る。――

 

□参考「奇異雑談集」より

[やぶちゃん注:底本は岩波文庫一九八九年刊高田衛編・校注「江戸怪談集 上」を用いたが、恣意的に正字化し、読みは歴史的仮名遣に直し、私の判断で増やした。「竜」は字形が嫌いなので「龍」とした。〔 〕は割注)。後に簡単な語注を附したが、その幾つかは同底本にある高田氏のものを参考にしてある。]

 

   硯われて龍の子出で天上せし事

 

 武藏の國の人語りていはく、武藏に金河(かねがは)の宿と云ふ大所(おほどころ)あり。國の兵亂に滅却して、今は亡びしなり。昔、金河全盛のとき、禪宗の寺あり〔寺號忘却〕。僧廿人ばかり、沙渇(しやかつ)あり。寺の靈寶に硯一面あり。水常に湧き出でて、よきほどにしてあり。奇特なる硯といふて、昔より祕藏の靈寶なり。

 ある年の夏のころ、方丈廣く開け通し、書院の押板に、かの硯を置き、前の障子を開けて、長老、侍者、沙彌(しやみ)、喝食(かつしき)等、數人座敷にゐて涼むに、午(うま)の時ばかりに、人も近づかざるに、かの硯割るる音して、二つに割れて、一、二分(ぶ)離れ退くなり。みな人立つて見れば、硯の中ほど豎(たて)にわれて蟲出でたり。栗蟲(くりむし)の如くにして、二分ばかりなるが板の上にあり、水もこぼれて板の上にあり。沙彌喝食この蟲を殺さんとす。長老制して、「殺すべからず」といふて、扇の上へはねのせて、庭の蓮池に投げ入るるなり。沙喝等庭におりて、池にのぞみみれば、かのむし水中にて屈伸(かがみのびつ)すれば、見る見る大になる。五寸になり一尺になり、すでに三、四尺になりて、勢ひ恐しきゆへに、みな逃れさつて一座敷に居れば、晴れたる空、にはかに曇り、黑雲(くろくも)くだりて、蓮池の水騷ぐゆへに、長老、僧衆みな逃げされば、電雷庭におちて、鳴動し、黑雲寺中におほふ。

 他郷には寺燒くると見て、人みな走りきたれば、寺衆門外に有りて、肝を消し迷惑して、雲雷落ちたるゆゑを語る。數刻あつて、雲中に龍の頭見え隱れ、雲天にのぼれば、龍の手足見え、あるひは尾の先、時々見えて昇りゆく。遙かにあがりて見えず。寺中雲晴れたるゆへに、人みな寺にかへり、方丈の庭をみれば、石木も池水もみだれはて、荒田を耕すがごとし。淤泥(どろ)、垣につき、座に入る。方々にちり正體もなくなりて、客殿の垣も破るるなり。

 漸々(やうやう)とり靜まつて、かの硯を見れば、そのままあり、以後は水出でず。割れ目そのまま置きて、蟲の出でたる跡を人に見するなり。

 古老の人のいはく、「およそ龍子は海に千年、山に千年、里に千年、三千年すぎて、龍となりて天に上ると云ひ傳へたり。知(しん)ぬ海底の石に、龍子自然に生まれて、千年すぎて、その石山に在ること。千年の後又里にある事、千年の内に、此の石を硯にきる時、龍子その中興にあたる。奇異不思議なり。たとへば六條の道場歡喜光寺の靈寶、箸木の名號のごとく也」。

 

□やぶちゃん注

●「金河」神奈川。現在の横浜市内。

●「大所」元来は勢力をもった人や大家を指すが、ここは繁華な町の謂いであろう。

●「沙渇」沙弥(しゃみ)と喝食(かっしき:禅寺の稚児のこと)。

●「奇特なる」不思議な。

●「押板」書院の床の間。 

●「午の時」正午頃。

●「一、二分」三~六ミリメートル。

●「栗蟲」栗に産卵し、内部から蚕食する鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ゾウムシ上科ミツギリゾウムシ科クリシギゾウムシ Curculio sikkimensis 

●「淤泥(どろ)」二字で「どろ」と読んでいる。音は「オデイ」で溝や池に溜まった汚泥のこと。

●「中興」底本注に、『ここでは、中心、の意』とある。

●「歡喜光寺」底本注に、『一遍上人の従弟聖戒上人開祖の時宗道場。六条河原にあり紫苔山河原院歓喜光寺といった』とある(聖戒は「しょうかい」と読む)。移転して京都市山科区に現存する。

●「箸木の名號」不詳。箸の材となる檜か檜葉(ひば=翌檜(あすなろ))の樹に「南無阿彌陀佛」の文字が自然、浮き出たものか? 識者の御教授を乞う。

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 龍華寺

    ●龍華寺

龍華寺は。金澤の名刹にして。知足山と號す。洲崎村(すさきむら)と町屋村の間左側に在り。眞言古義の檀林にて。一宗の本寺たり。門には知足山と扁し。堂は箱棟作り草葺にて。龍華寺の額を掲く。本尊は大日如來。開山は法印融辨なり。寺記(じき)に明應年間。六浦(むつら)に淨願寺光德寺とてありしが。共に荒廢したるに因り。合して一寺となすと見ゆ。或は云ふ。太田道灌不動尊の靈像を寄附して。武運長久を祈れり。故に道灌の位牌を安す。表に春苑道灌庵主靈。裏に文明十八丙午七月二十八日とあるよし。

門内右の方に。布川玉尊の牌(ひ)あり。玉尊(ぎよくそん)は當寺の住職たりしが征淸(せいしん)の役に從ひ。戰死せし者なりといふ。

[やぶちゃん注:現在の金沢区洲崎町にある。公式サイトなどの記載によれば、元は文治年中(一一八五年~一一九〇年)に源頼朝と文覚が六浦山中に創建した浄願寺が、明応八(一四九九)年に住持(但し、兵火で焼亡していた)であった融弁上人(室町から戦国期にかけて弘法大師の再来と評された真言僧日融の、直弟子であった融弁と同一人物と思われる)によって現在の地にあった光徳寺(融弁が住持を兼帯していたが、当時は既に廃寺となっていた)と併合・移築されたものとされる。本山は京都御室(おむろ)の仁和寺とある。現在では元の浄願寺は頼朝の勧請した瀬戸神社の神宮寺として建立されたと考えられており、上行寺東やぐら遺跡にある建物遺構は、この浄願寺の跡と推定されている。縁起である「金澤龍華寺略縁起」はこちら

「太田道灌……」前の縁起(公式サイト内リンク)に『諸人の信仰他にことなり、太田の道灌居士(傍注/本尊の壇主是也)、不動明王迄寄附して、武運の延長を祈り、靈牌を建立して、來際の追福を求らる』とある(恣意的に正字化した。「來際」は「尽未来際(じんみらいさい/ざい)」で、未来の果てに至るまで・未来永劫・永遠の意。「太田道灌」(永享四(一四三二)年~文明十八(一四八六)年)の生没年から、この位牌は元の浄願寺のものであることが分かる。因みに彼は主君扇谷定正に暗殺されているが、旧浄願寺本尊とされる彌勒菩薩坐像(室町期の作で横浜市指定文化財)には、大檀那として扇谷上杉家家臣の名が記されており、書かれているように、太田道灌寄進と伝える不動明王画像も所蔵されていることから、浄願寺及び龍華寺と扇谷上杉家との間には何らかの関係があったと考えられている。現在、道灌の位牌が存在するのかどうかは不明であるが、後ろめたさからであろうか、暗殺しておきながら主家はここに位牌を納めることを許したということになる。「春苑道灌菴主」とあるが、道灌の戒名は正しくは香月院殿春苑静勝道灌大居士(大慈寺殿心円道灌大居士とも)で、墓所は伊勢原市大慈寺及び同市洞昌院にある。また、太田道灌は文明一八(一四八六)年七月二十六日(この記載とは二日ずれる)、主家扇谷定正の糟屋館(現在の伊勢原市にあった)に招かれてそこで暗殺されている。この日付や戒名は「新編鎌倉志卷之八」の龍華寺の項の記載と同じである。一応、引いておく。

   *

〇龍華寺 龍華寺(りうげじ)は、知足山と號す。洲崎村(すさきむら)と町屋村との間にあり。眞言宗、仁和寺の末寺にて檀林なり。門には知足山、堂には龍華寺と額あり。開山は、法印融辨也。本尊、大日也。彌勒の像もあり。脇寮四个(か)院、其の外近邊に末寺二十个寺あり。寺領五石の御朱印あり。當寺の畧記に、明應年中に、金澤に、成願寺・光德寺と云て、二箇の眞言寺あつて敗亡したるを、融辨、二寺を合せて一寺と成すとあり。或人の云、太田道灌修復せらる。故に道灌の位牌あり。表に春苑道灌菴主の靈、裏に文明十八丙午七月二十六日とあり。

寺寶

両界の曼荼羅 貮幅 唐畫。

涅槃像 壹幅 唐畫。

十三佛の繡像 壹幅 中將姫の製といふ。

[やぶちゃん注:「中將姫」は藤原不比等の孫右大臣藤原豊成の娘(天平十九(七四七)年~宝亀六(七七五)年)とされる、謡曲「当麻」「雲雀山」、浄瑠璃・歌舞伎で知られる継子いじめの中将姫伝説の主人公。史書には登場せず、実存は疑われる。幼くして母を失い、継母に嫌われて雲雀山に捨てられ、後に父と再会、十三歳で中将の内侍、十六で妃の勅を受けたが、自身の願いで当麻寺に入り、十七で中将法如として仏門に入った。後、蓮茎から製した五色の蓮糸を繰って一夜にして一丈五尺(約四メートル)四方の曼荼羅を織り上げ、二十九の春に生身の阿弥陀如来と二十五菩薩が来迎、生きながらにして西方浄土へと旅立ったとされる。]

八祖の畫像 壹幅 弘法の筆、或は願の筆と云ふ。

[やぶちゃん注:真言八祖は、一般には竜樹・竜智・金剛智・善無畏・不空・恵果・一行の七祖に、本邦独自の宗派を齎した空海を加えたもの。]

不動の畫像 壹幅 弘法の筆なり。表褙の裏ウラ書に、太田道灌寄進と有。寺僧の云、東照宮御覽ありて、修複し給ふ。其の時十三佛の繡像も修復し給ふと也。

愛染明王の木像 壹軀 弘法五指量の作と云。一握の長(たけ)なり。

[やぶちゃん注:「五指量」は二寸五分で約七・五七センチメートル。]

鳳凰の頭 貮个 運慶が作。

龍の頭 十个 運慶が作。此二種、ともに木にて作。金箔を貼(を)したる物なり。灌頂の時、幡(はた)を掛る具也。

鈴(レイ) 一个 弘法の所持と云傳ふ。

   已上

鐘樓 鐘の銘如左(左のごとし)。[やぶちゃん注:以下略。リンク先の私のテクストを見られたい。]

   *

「布川玉尊」「ふかはぎよくそん(ふかわぎょくそん)」と読む。日清戦争(明治二七(一八九四)年七月二十五日~明治二八(一八九五)年十一月三十日)に陸軍歩兵軍曹として従軍して戦死していることが野牛重兵衛氏のブログ記事「忠魂碑」で分かる。国立国会図書館の書誌データに明治期に刊行された蒲生重章「近世偉人伝 禮字集初編巻之下」に「布川玉尊伝」とあり、また同館蔵書に「故陸軍歩兵二等軍曹布川玉尊君送靈典儀費決算及寄贈金品人名報告書」(鈴木活版所発行・明治二八(一八九五)年三月序)がある。

 最後に「江戸名所図会」の龍華寺の図を以下に示しておく。

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飯田蛇笏 山響集 昭和十二(一九三七)年 Ⅴ 生命と風景

 生命と風景

 

   九月一日、醫家汀庵に滞在する長男急性盲腸炎との急使來る

 

倥偬如鬱々如たる秋日影

 

[やぶちゃん注:「醫家汀庵」樋水昌策(といずみしょうさく)。俳号は汀波。妻静枝は蛇笏の妹。樋水家は山梨県田富町(現在は中央市に吸収)東花輪駅近くの清川という小川の畔りにあり、その東座敷は「汀(みぎわ)の庵(いおり)」と呼ばれていた、と「山梨・まち[見物]誌ランデブー 第6号 特集・田富町」の花輪と『雲母』 大正9年の「笛吹川観月句会」再現ドキュメントにある。

「倥偬」は「こうそう」と読み、慌ただしいこと。]

 

 

地に草に秋風の吹く影法師

 

   タクシイの同乘、途すがら野本博士を訪ひ同車して急行す

 

國原の日輪顫ふ秋を駛す

 

[やぶちゃん注:「野本博士」不詳。外科医か。「國原」は広く平らな土地という意の一般名詞であろう。「駛す」は訓で「はす」か(音は「シ」)。]

 

   博士の嚴診を經て即時入院、斷然腹部切開の大手術を決す

 

秋灯下觀念す吾子(あこ)たゞひとり

 

驚破(すは)や醫が執刀す秋の灯の光り

 

氷山に子はひそむこの秋夜かも

 

秋の灯に見まじとす子の血がみゆる

 

   手術後、第一病舍に退き絶對安靜の手當をうく

 

秋一夜掌(て)を觸れもして玉額

 

  翌、手術を知り急遽妻來る

 

秋の晝泣く母に子は眼をつぶる

 

吾子睡り病窓秋の光(かげ)溢る

 

  經過頗る良好

 

吾子に購ふ鉢鬼灯のゆれあへり

 

園の花卉幽らからぬ秋の日覆かな

 

[やぶちゃん注:「幽らからぬ」は「くらからぬ」と訓じているか。]

 

郷(さと)がへり病舍通ひに露の秋

 

  室内看護の間に於ける訪客

 

青柚活く錦繡の娘が薰衣香

 

内牕(うちまど)の紗がくれに攝るメロンかな

 

白樺にかなかな鳴きて大花壇

 

[やぶちゃん注:「かなかな」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

十字架祭看護婦(つきそひ)いでて秋花剪る

 

[やぶちゃん注:「十字架祭」十字架挙栄祭。ウィキ十字架挙栄祭によれば、正教会と東方諸教会に於いて祝われる祭事の一つで、亜使徒聖大帝コンスタンティン(コンスタンティヌス一世)の母である聖太后エレナ(母太后ヘレナ)によって、エルサレムでイエス・キリストが掛けられた聖十字架が発見され、未信者であったペルシア人の手からそれを取り戻したことを記念する日。両教会では九月二十七日に祝われる(修正ユリウス暦使用教会では九月十四日に祝われる)が、カトリック教会では十字架称賛祝日として九月十四日に祝われる。ここは九月十四日。秋の季語である。病みあがりの長男をキリストに見立てた諧謔である。]

 

落月に媾曳の影さす花壇

 

[やぶちゃん注:「媾曳」は「あひびき」で逢引。入院患者を見舞った恋人の景か。]

 

   病閑一宵、娯楽室に靑年宰相の放送を聽く

 

快調の近衞の君に壁爐冷ゆ

 

[やぶちゃん注:「靑年宰相」「近衞」近衛文麿。この昭和一二(一九三七)年の、六月四日に第一次近衛内閣が発足、ウィキ近衛文麿」によれば、この九月には第二次上海事変が全面戦争へと発展したことを受けて九月二日に「北支事変」を「支那事変」と変更する閣議決定がなされ、九月十日には『臨時軍事費特別会計法が公布され、不拡大派の石原莞爾参謀本部作戦部長が失脚し』ている。当時、近衛は満四十五歳。「冷ゆ」が蛇笏の時勢への不安をよく響かせている。政治性を孕む蛇笏句では珍しい句であろう。]

 

  絶食後はじめて摂取

 

匙をめで重湯甘ましと今朝の秋

 

起牀する窓の秋草繚亂す

 

女醫優に吾子のしゆびんを翳(かざ)す秋

 

[やぶちゃん注:「優に」は「いうに(ゆうに)」で、余裕のあるさまの謂いであろう。]

 

花卉の晝海老フライ喰ぶ子を讃ふ

 

  全く快癒退院

 

あらがねの土踏む草履秋涼し

 

  盲腸手術長男退院

 

廬をさせば野山のにしきさしそめぬ

 

[やぶちゃん注:佶屈聱牙の蛇笏の句の中で珍しく頗る分かり易い句群である。彼もまた子の父であった。]

杉田久女句集 272 花衣 ⅩL 昭和八年光子東上 三句

  昭和八年光子東上 三句

 

子のたちしあとの淋しさ土筆摘む

 

降り出でし傘のつぶやき松露とる

 

娘がゐねば夕餉もひとり花の雨

 

[やぶちゃん注:既に注したが、一部を再掲する。昭和八(一九三三)年の「日記抄2」を見ると、小倉高等女学校を卒業後すぐに次女光子は合格していた東京の女子美術専門学校(現在の女子美術大学)に遊学している(坂本氏の「杉田久女」によれば夫宇内の強い『反対を押し切って』『送り出した』とある。以下の日記でもそれが分かる)。そしてその日記には冒頭(この部分は日付が入っていないが二月三日以前)から彼女の学資のための倹約の誓いが記され、

 

遊學の春まつ娘なり靴みがく

 

遊學やかゝとの高き春のくつ

 

という句が載る一方、三月五日に『ホトトギス』雑詠欄へ投句したものの一句として、

 

ひなかざる子の遊學は尚ゆりず

 

とある(「ゆりず」は「許りず」で下二段活用「許る」は、許される・許可が下りるの意味の古語である)。次に続く日附不詳(三月六日から十二日の間)の項に、『此頃光子出立のしたくのフトンわたぬき』『洗濯、テガミ、セン句、歳時記しらべ等にて、十二時前ねし夜はまれ也。多忙多忙』とか、『光子』『フトン布地五円也』とあり、三月二十日の条には『光子遊學の三年間は世とたち、習字と藝術著作等自分も勉強して暮さう。一点に集中すべし。』、続く三月二十一日の条では『光子の遊學問題を中心にして、夫との爭ひますます深刻。金も百円以上に入用なのに、夫はがみがみ叱言と朝夕の怒罵叱言のみにて、一銭も出してくれぬから私はしかたないなけなしの預金をはたいて皆出してやらねばならぬ。私はどこまでも光子の味方だ。いのりてすゝむ所、よき方法あらんか?』と綴る。光子の東京への「遊學の旅」立ちは三月二十八日であったが、『光子東上。/夜來より風雨はげしくかつ夫の異議出たれば、光子もしくしくなく。』『「いんきな出立ね」と光子のしづむもあはれ也。』光子を送った後、『誰もゐぬ家へ十二時歸宅して心うつろ、淋しさにたへず。』とある。

「松露」菌界ディカリア亜界 Dikarya 担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ハラタケ亜綱イグチ目ヌメリイグチ亜目ショウロ科ショウロ Rhizopogon roseolus 。以下、ウィキの「ショウロ」によれば、『子実体は歪んだ塊状をなし、ひげ根状の菌糸束が表面にまといつく。初めは白色であるが成熟に伴って次第に黄褐色を呈し、地上に掘り出したり傷つけたりすると淡紅色に変わる。外皮は剥げにくく、内部は薄い隔壁に囲まれた微細な空隙を生じてスポンジ状を呈し、幼時は純白色で弾力に富むが、成熟するに従って次第に黄褐色ないし黒褐色に変色するとともに弾力を失い、最後には粘液状に液化する』。『胞子は楕円形で薄壁・平滑、成熟時には暗褐色を呈し、しばしば』一、二個の『さな油滴を含む。担子器はこん棒状をなし、無色かつ薄壁、先端には角状の小柄を欠き』小、六~八個の胞子を生ずる。『子実体の外皮層の菌糸は淡褐色で薄壁ないしいくぶん厚壁、通常はかすがい連結を欠いている。子実体内部の隔壁(Tramal Plate)の実質部の菌糸は無色・薄壁、時にかすがい連結を有することがある』。『子実体は春および秋に、二針葉マツ属の樹林で見出される。通常は地中に浅く埋もれた状態で発生するが、半ば地上に現れることも多い。マツ属の樹木の細根に典型的な外生菌根を形成して生活する。先駆植物に類似した性格を持ち、強度の攪乱を受けた場所に典型的な先駆植物であるクロマツやアカマツが定着するのに伴って出現することが多い。既存のマツ林などにおける新たな林道開設などで撹乱された場所に発生することもある』。『安全かつ美味な食用菌の一つで、古くから珍重されたが、発見が容易でないため希少価値が高い。現代では、マツ林の管理不足による環境悪化に伴い、産出量が激減し、市場には出回ることは非常に少なくなっている。栽培の試みもあるが、まだ商業的成功には至っていない』。食材としての松露は『未熟で内部がまだ純白色を保っているものを最上とし、これを俗にコメショウロ(米松露)と称する。薄い食塩水できれいに洗って砂粒などを除去した後、吸い物の実・塩焼き・茶碗蒸しの具などとして食用に供するのが一般的である。成熟とともに内部が黄褐色を帯びたものはムギショウロ(麦松露)と呼ばれ、食材としての評価はやや劣るとされる。さらに成熟が進んだものは弾力を失い、色調も黒褐色となり、一種の悪臭を発するために食用としては利用されない』とある。]

シンクロニティ「奥の細道」の旅は明日、山中温泉へ

明日やで! 芭蕉めが、曾良を袖にするんやで! わては許さへんのや!! これからのわての評釈、よう、見とき!

2014/09/16

気がついたら

僕は酔って、フェイスブックやミクシィやツイッターで言いたい放題に――怒っていたわい……♪ふふふ♪

祝 小泉八雲怪談ビールラベルデザインコンテスト 第5回 最優秀賞

この子は私の舞岡時代の最初の教え子なり――

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耳囊 卷之八 相馬家の家風非常の事

 

 相馬家の家風非常の事

 

 四ツ谷大木戶に、相馬小太郞とて食祿七百石程の御旗本あり。相馬將門(まさかど)の嫡孫にて、諸侯なる相馬因幡守よりは却(かへつ)て本家の由。依之(これによつて)因幡の守(かみ)家とは不和にて今は通路(つうろ)もせざる由。神田明神にては神緣て社家社人(しやけしやじん)も甚(はなはだ)尊崇して、年々に祭禮の節は代々罷越(まかりこし)、ことなる饗應をなしけるとなり。先代左衞門は異人にてありしが、當主は左(さ)もなきよし。彼(かの)家に奇成(なる)家風有(あり)。每年正月十一日には、主人麻上下(あさかみしも)を着し、嫡子は其脇に並び、酒の役人、墨附(すみつけ)役人といふあり。其日門前を通る者男女となく屋敷内へ呼入(よびいれ)、豆腐里いも牛蒡人參などいへる正月樣の煮物を拵(こしらへ)、右を肴(さかな)に酒を爲吞(のませ)、さて跡にて額(ひたひ)又は手抔、惣身(そうみ)の内へ墨を付(つく)る事家法なり。近郊の者も今は其事知りて、如何(いかん)と思ふ者はその屋敷前を不通(とほらず)、當時其節爭論の事もなく濟(すみ)來(きた)る由。予が一族成(なる)者、相(あひ)支配の世話取扱(とりあつかひ)をなして正月十一日に彼家へ至りて、まのあたり其式を見たりしと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前話が内藤新宿の奇譚であったが、四谷大木戸は直近である。奇体家訓譚という変格武辺物。私はただの直感であるが、この饗応墨塗り儀式は厄除けを含んだ、生前の将門の事蹟若しくはその御霊信仰と関係するのではないかと思われる。そもそもが本話に於いて相馬氏のルーツとする将門の話が平行して編まれている点がそれを感じさせるし、単なる奇態な習俗の都市伝説であるなら、その風習のみを記せば足りるからである。この奇習はかなり知られたものであったらしく、後でも引くサイト「千葉一族」の「下総相馬氏」の本話の主人公是胤(これたね)の二代後の第三十四代相馬家当主繋胤(つぐたね)の事蹟に、『江戸時代には「四谷大木戸片町北側相馬左近屋敷」で行われている「相馬家嘉例の黒塗り」が知られていた(『遊歴雑記』:十方庵大浄敬順著)』(「遊歴雑記」は文化・文政の頃に隠居僧十方庵大浄敬順が江戸内外の名所旧跡を訪ね歩いて記した随筆)とあって、川崎健著「常総戦国誌」(二〇〇二年崙(ろん)書房出版刊)から次の部分が引用されている(恣意的に正字化し、仮名遣を一部訂した)。『例年正月十五日は家例として、門前を通る往來の人を呼び入れ、酒を振舞ひ、飽きるまで無理強いして、その者がもはや飮みがたしといふを合圖に、かねて用意し置きたる蘿蔔(=大根)の切り口を油墨に浸し、酒を飮みたる男女の額に押して、門前へ突き出し歸しむ。この戲れによつて、門内わあわあ笑ひ聲がしければ、往來の者が立ち止まり、何事かと門の潛りより顏差し出し覗くと、そのまま徒者を引き捕らへて玄關前にて、また、酒を強いてのち又額に墨を押す也。その者は額の墨を拂はんと手で撫でるがゆへ、墨が顏一面に廣がり、各々顏異人に似たり。また、一興と言ふべし。いつごろより始まつたか、これを相馬左近の家の吉例として、今も違はざる事、昔の如し』とあり、その後にサイト筆者によって、この奇習は『相馬家内での何らか嘉例または、平将門関係の何らかの神儀がもととなっていると思われ、それが家の行事として定着したと思われる』と私の印象と同様の感想を述べておられる。他に是胤の父相馬矩胤の事蹟の中にも、下総国守谷にあった下総相馬家の菩提寺であった大雄山海禅寺(現在の茨城県守谷市高野に現存)の将門堂供養などを見出せる。サイト「千葉一族」の「海禅寺」の記載を見ると、この寺は寺紋も相馬氏と同じ九曜紋を用いており、承平元(九三一)年に将門が父良持(知られる「良将」は誤りとする強い意見があるのでこちらを採る)の菩提を弔うために創建したという伝承があり、相馬氏は将門を祖神として崇め、海禅寺にも将門とその影武者七人の墓とされる八基の石塔が残るとあって(但し、その殆んどは江戸期の作成とされるとある)、相馬家が将門の血を引くと強く信じられていたことが分かる。私は特にこの墨塗り(それによって面が割れ難くなる)部分は、この影武者七人の伝承と何らかの関係があるように思われるのだが。これにつき、是非、識者の御教授を乞うものである。

・「四ツ谷大木戶」大木戸は街道上の江戸内外の境界に設置された簡易な関所である。人間や物品の出入りの管理を目的とした(木戸は江戸市中の町境などにあった防衛・防犯用の木製扉で、その大規模なものを大木戸と呼んだ)。主な大木戸は高輪大木戸(現在の港区高輪二丁目にあった東海道の大木戸)・四谷大木戸(新宿区四谷四丁目交差点にあった甲州街道のそれ)・板橋大木戸(板橋区本町にあった中山道のそれ)である(ここまではウィキの「大木戸」に拠り、以下は「四谷大木戸」の記載)。四谷大木戸は元和二(一六一六)年に幕府により甲州街道に於ける江戸出入口として設けられた。『地面には石畳を敷き、木戸の両側には石垣を設けていた。初めは夜になると木戸を閉めていたが』、寛政四(一七九二)年以降は木戸が撤去された。但し、『木戸がなくなった後も四谷大木戸の名は変わらなかった』(従って本話のそれはその地名で、「卷之八」の執筆推定下限の文化五(一八〇八)年には大木戸はなかったので注意されたい)。文政一二(一八二九)年成立の『「江戸名所図会」には、木戸撤去後の、人馬や籠などの行き交う様子が描かれている』。大木戸附近には承応二(一六五三)年に完成した『玉川上水の四谷水番所が設けられ、ここから江戸市中へ配水していた』。また、元禄一二(一六九九)年には『大木戸の西に甲州街道最初の宿場となる内藤新宿が開設されている』。『明治維新後、石畳や石垣は交通の障害となったため』、明治九(一八七六)年に『撤去されてしまい、現在では何も残っていない。ただし、現在の交差点上が「四谷大木戸跡」として東京都指定旧跡となっている。なお、新宿御苑の出入り口のひとつである大木戸門の名前は、四谷大木戸に因むものである』。『新宿区立四谷区民センターの脇には四谷大木戸門跡の碑が立っている』とある。

・「相馬小太郞」底本の鈴木氏注に、相馬是胤(元文四(一七三九)年~(一八〇四)年)とあり、『天明六年(四十八歳家督。廩米』(りんまい:原義は倉庫に蓄えてある米、倉米で、特に幕府や諸侯の蔵に蓄えた米を指すが、ここは扶持米の異称。)『八百俵』とある。サイト「千葉一族」の「下総相馬氏」によれば、彼は相馬家第三十二代当主・旗本相馬家十一代である(屋敷が四谷大木戸とあるから間違いない)。一橋徳川家と親交があったとある。

・「相馬將門」平将門。

・「相馬因幡守」底本の鈴木氏注に、『祥胤(ヨシタネ)。相馬中村城主、六万石。同家は義胤の長男胤綱の系』統とある。先の「下総相馬氏」からリンクされた「相馬氏」の「相馬中村藩主」の頁の事蹟を読むと、この相馬祥胤(明和二(一七六五)年~文化一三(一八一六)年)なる人物は第九代中村藩主として、民政に尽力した名君であったことが窺われる。

・「因幡の守家とは不和にて今は通路もせざる由」本家傍流の主張によるものらしい。先の「下総相馬氏」の相馬矩胤の事蹟に『相馬家が十三世紀末に一族同士の争いによって分流してから五百年余、江戸時代初期に一度は顔を合わせた両家も再度対立して絶縁したが』、この主人公信胤の父矩胤によって関係修復が始まったと推定されてある。

・「神田明神」神田明神は「一ノ宮」に大己貴命(おおなむちのみこと:大黒。)を、「二ノ宮」に少彦名命(すくなひこなのみこと:恵比須。)を、そして「三ノ宮」に平将門の三柱を祀っている。参照したウィキの「神田明神」によると、社伝によれば天平二(七三〇)年に武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が大己貴命を祖神として祀ったのに始まるとされ、神田は元は『伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した』とある。また、承平五(九三五)年、『乱を起こして敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、将門の首塚は東国(関東地方)の平氏武将の崇敬を受けた』。嘉元年間(十四世紀初頭)には疫病が流行、『これが将門の祟りであるとして供養が行われ』、延慶二(一三〇九)年になって新たに『当社の相殿神とされた。平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれる』。因みに、明治七(一八七四)年に『明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門が祭神から外され、代わりに少彦名命が茨城県の大洗磯前神社から勧請された。平将門神霊は境内摂社に遷されたが』、戦後の昭和五九(一九八四)年になって『本社祭神に復帰した』とある。

・「神緣」底本の鈴木氏注に、『神田明神杜(いま神田神社)の祭神は大己貴命と平親王将門の霊とされていた。もと神田橋御門外に当る柴崎村にあった。遊行上人第二世真教坊[やぶちゃん注:他阿(他阿弥陀仏)とも呼ぶ。]が、荒廃した社に将門の霊を合祀して、その傍らに草庵を結んで芝崎道場と呼んだのが、後の浅草日輪寺のもとであるという』とある。ここに書かれた内容は「神田明神」公式サイトの「神田明神の歴史」にも、『出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村―現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建され』たとあり、『その後、天慶の乱で活躍された平将門公を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、それが将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊を』慰めた上、延慶二(一三〇九)年に祀ったとある。

・「社家社人」「社人」は「しゃにん」とも読む。神主及び神人(じにん)を指す。神人とは社家に仕えて神事・社務の補助や雑役に当たった下級神職・寄人(よりゅうど)のこと。

・「先代左衞門」鈴木氏の注によれば、是胤の父矩胤(のりたね)で、『大番、新番を勤め天明六年没、七十七。同家の知行はもと千二百石であったが、信胤のとき非違』(ひい:不法行為。)『あって四百石を削られ、残り八百石を廩米に改められたもの。家祖胤継は将門から十二代義胤(北条義時ころの人)の次男』とある。先の「下総相馬氏」によれば、この相馬信胤というの是胤の曽祖父で二十八代当主・旗本相馬家七代で鉄砲玉薬奉行であったが、宝永六(一七〇九)年に所領の山崎村民衆が幕府に領主悪政の訴えがあり、相馬家代官谷上勘兵衛の悪事が露見、翌宝永七に当主として罰せられて改易・謹慎となり、五ヶ月後に許されたものの、『相馬家の知行地は戻らないまま幕末に至った。小普請では松平主計頭組に属した』とある。

・「異人」奇矯な人物。但し、「下総相馬氏」の相馬矩胤の事蹟を読む限りでは、そうした印象は全くない。直接過去の「き」が用いられているところは、根岸の感想ともとれないことはない。彼は根岸より二十七歳年上で天明六(一七八六)年に死去しているのであるが、一つ、リンク先の同事蹟の中に、安永四(一七七五)年に六十六歳で大番を辞して隠居したが、その直後の十一月十四日に「相馬左近殿御次男不慮之儀」があって父矩胤が「町奉行所へ御渡仰付候」ことがあった(「相馬御実記」)という記載に目が止まった。これは『矩胤は次男が何か事件を起こして町奉行所へ出頭する羽目になった』ということである。この時、根岸は三十八歳で、勘定所の勘定組頭であった。審理に関わった可能性はないが、情報は耳に入っていたとして不自然ではない。

・「爲吞(のませ)」は底本の編者によるルビ。

・「相支配の世話取扱」何の職務かは不明であるが、同じ上司の支配する組の同僚であったことを言うものか。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 相馬家の家風の一つがひどく変わった儀式なる事

 

 四ッ谷大木戸に、相馬小太郎是胤(これたね)と申さるる食禄七百石ほどの御旗本が御座る。

 相馬小次郎平将門嫡流の子孫にして、諸侯であられる中村藩主相馬因幡守(いなばのかみ)祥胤(よしたね)殿よりも、かえって正統なる将門本流本家であらるる由にて、これによって因幡守家とは不和にして、今では両家の間、これ、一切の関係が断たれ、行き来することも相いなき由。

 神田明神にては、将門公神霊の神縁として、神主から下々の社人(しゃじん)に至るまで、皆々はなはだこの相馬家を尊崇致いて、年々(としどし)の祭礼の節にあっては、代々の当主が詣で、格別なる饗應がなさるると聞く。

 先代の相馬左衛門矩胤(のりたね)殿は変人であったが、当主は左程でもないと聴く。が、かの相馬家には、これ、まっこと、奇体なる家風が、ある。

 毎年、正月十一日になると、当家主人は麻裃(あさかみしも)を着し、当家嫡子はその脇に並び、別に「酒の役人」・「墨附(すみつけ)の役人」と申す者が設けらるる。

 そうして、屋敷門には見張りが複数立たされ、その日、門前を通る者――男女を問わず――強引に屋敷内へと呼び入れ、豆腐・里芋・牛蒡・人參などと申す、正月の御節様(よう)の煮物に拵えたものを饗し、これを肴(さかな)にして酒を呑ませ、さて、その後(のち)、額または手(てぇ)なんど、総身の肌の出でたるところならば、これ――委細構わず――そこたら中(じゅう)に墨を塗りつくることを、これ、厳格なる家法として、おる。

 近在の者も、今はこの奇風をよく存じておって、『かの仕儀は御免蒙る』と思う者は、その日は、かの相馬屋敷の門前を決して通らず、永年この節、この仕儀を受けて争論となったと申すこと、これ一切なく、ずっと無事にこの奇習は続き来たっておる由。

 私の一族であるある者が、小太郎殿と同僚であったによって、正月十一日、かの相馬家へうっかり参ってしまったところが、目の当たりにその儀式を見、

「……いやあ、美事、全身に墨を塗られました。……」

と、語って御座ったよ。

 

年頭抱負修正のお詫び

年頭のブログ記事で「自己拘束のための覚書」とした最初の、
 
残すところ、289話となった――「耳嚢」全1000話完全電子テクスト化オリジナル訳注附――を今年中に完成させることを目標の一つとして年頭に掲げておきたい――

というのは、4月におっぱじめてしまった「奥の細道」シンクロニティに思いの外、時間を割かれてしまい(後、一ヶ月ほどで終了する)、「耳嚢」が疎かになり、本年中の完成は凡そ不可能となった(現在、残り209話)。ご期待の向きには、来年までお預けと致す。面目ない。師芭蕉ともども深謝仕りまする――

ブログ・アクセス620000突破記念 定本 やぶちゃん版芥川龍之介全句集 全五巻 PDF縦書版

ブログ・アクセス620000突破記念として「定本 やぶちゃん版芥川龍之介全句集」全五巻のPDF縦書版の

一 発句

二 発句拾遺

三 書簡俳句

四 続 書簡俳句 附 辞世

五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏

を「やぶちゃんの電子テクスト:俳句篇」に公開した。

本「やぶちゃん版芥川龍之介全句集」 (全五巻)はネット上はもとより、現在まで発行されている如何なる芥川龍之介俳句関連本よりも多くの我鬼俳句を渉猟しているという確信に近い自負がある。
芥川我鬼の目くるめく全句の世界を縦書で十二分に堪能されんことを――

620000アクセス突破

今見たら、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、620000アクセスを突破した。これより記念テクスト公開作業に入る。

2014/09/15

萩原朔太郎 歌 七首 (「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート)」より)

 

[やぶちゃん注:以下は底本全集第二巻「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート)」に所収する短歌群の一つ、「歌」歌群。] 

 

 歌

 

襟脚もみうらのえんなる君にふる雪は

えやは消えざるものをこそ思へ 

 

手のひらに練おしろひのときみづの

にほひにぢめる若き人妻 

 

うくらゐん春の夜に鳴くうぐひすか

「哀傷篇」の歌のこゝろか 

 

猫の子に頰すりよせて泣くばかり

女ほしさに氣も狂ふなり 

 

東京の朝は悲しや川蒸氣

ポーと氣笛の鳴るが悲しや 

 

心ぼそきかぎりのことは言はであれ

君また更にくちづけをせよ 

 

あきうどの若き息子の元吉が

そろばん玉をはぢき居るかな

              (高橋君に)

 

[やぶちゃん注:「おしろひ」「にぢめる」「川蒸氣」「氣笛」「はぢき」は総てママ。

 底本の初出本文の最後に『三首目「うくらゐん」は上田敏の『みをつくし』所収「南露の春宵」から。「哀傷篇」は北原白秋の歌集『桐の花』に所收。』とあり、また、『七首目の獻辭は、前橋市の書店煥乎堂の高橋元吉のこと。』と編者注がある。なお、本「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート)」の書写年代は大正二(一九一三)年の二月から九月と推定されている。

 「うくらゐん」ウクライナのこと。正しくは上田敏の訳詩集「みをつくし」所収のゴーゴリ原作の「南露春宵」である。以下に国立国会図書館近代デジタルラブラリ当該詩集の当該詩篇から視認して起こしたものを以下に示す(句点の後の有意な余白及び繰り返し記号「ヽ」はママ。踊り字「〲」は正字化した。一部の判読推定字には直下に【?】を附した)。

 

      南露春宵

 ウクラインのよるをしれりや。 あはれ美しきかの夜をしらすば、はやくゆきても見た給へかし。 なかぞらに月はてらしぬ。 みるがまにひろがりたる靑空(あをそら)の穹窿は今や、てりわたりて、息するやうなり。 白銀の波、大地にたヾよひてうるはしく、空氣はあやしくも息ぐるしきまでかぐはし。 やさしきいたはりはあたりにみちてにほひのうみのふるひ動ける。

 かうがうしきよるのけしきかな、物くるほしう美しきはこよひなり。 靜なるこの夕にも、命は曾良にみちねりとおぼしく、をくらき森は、やみにそよぎて、田の面に落せるかげくろし。 池のおもてには音なくて、おぼろおぼろのみながみは花園のわか葉にかくれぬ。

 泉には、つめたき水ながれて、櫻のわか枝、梅の老木など臆【?】せるさまに岸をほひたり。 葉がくれに幽なるさヽやきありて怒るが如く訴ふるが如きは花の神たちのむづかりならむ。さ丁てはいたづらの夜の風やみにまぎれて接吻(くちづけ)せしか。

 よものけしきはなべてねむりぬ。そらも、つちもあやしきいきにつつまれていと神さびたり。かしこみの心ゆくりなく起りぬ。 誰れかこの幽玄を曉らむ。 たれかこの崇高を仰がむ。 幻はしろがねの光よりあらはれたり。物の音の調とヾのひたる如くあなたこなたの深みより生れぬ。 あヽかうがうしき春の夜や、わが心うれしさに亂れむとす。

忽にしてよろづ蘇生(よみがへ)りぬ。 森も池も原もおしなべて生きたり。ウクラインの野邊に鶯なきぬ。玉を轉がす音の雷となりてひヾけば、月はみそらの胸によりてこの美しきこゑをすひつヽ。

 ながめやる遠里小野は、あやしき眠につヽまれて音なし。 月かげをあびたる小屋のむれは、さながら浮彫をみる如く、暗とてりあひて眩むばかりなるは、そが壁なり。鶯はなきやみぬ。 あたりはまた靜なり。信心の農夫は、はやねむりしころならむ。をちこちの窻に、なほあかしのもるヽは、小屋の戸口に遲【?】なはりたる家族どもが夕げたうべつヽあるなんめり。          (ゴゴル) 

 

「遲【?】なはりたる」は「遲」にしか見えないが、読みが分からず、意味も不明である。識者の御教授を乞う。因みに、不学にしてこの散文詩は初めて読んだが、個人的に、すこぶる気に入った。

 「哀傷篇」北原白秋歌集「桐の花」はで全篇が読める。「哀傷篇」は巻末にある。

 「高橋元吉」(たかはしもときち 明治二六(一八九三)年~昭和三〇(一九六五)年)は詩人で書店「煥乎堂」社長。群馬県前橋市生まれ。前橋中学校(現在の群馬県立前橋高等学校)卒業後に上京、『偶成の詩人』と称され、朔太郎の他、武者小路実篤・柳宗悦らと交友があった。書店経営をする傍ら、大正一三(一九二四)年に高田博厚・尾崎喜八らと雑誌『大街道』を創刊、昭和一〇(一九三五)年『歴程』同人。昭和三八(一九六三)年には「高橋元吉詩集」で高村光太郎賞を受賞している。没後に『高橋元吉文化賞』が制定されている。朔太郎より七つ年下(以上はウィキ高橋元吉及び講談社「日本人名大辞典」を参考にした)。書写年代からが作歌時とするなら、当時の元吉は丁度、二十歳である。]

2014/09/14

耳囊 卷之八 小笠原鎌太郞屋敷蟇の怪の事

 

 小笠原鎌太郎屋敷蟇の怪の事

 

 内藤宿に小笠原鎌太郞といへる小身の御旗本あり。かの家の流し元にて、小豆洗(あづきあらひ)といへる怪あり。時として小豆をあらふ如き音しきりなれば、立出て見るに、さらに其物なし。常になれば强(しひ)てあやしむ事なし。年を經(ふ)る蟇の業(わざ)なりと聞(きき)しと、人の語りしが、其傍(かたはら)に有(あり)し人、外にも其事ありと親しく聞しが、是ひきの怪なりといひき。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。私には、怪異が最早、日常と化して、怪異自体が怪異として認知されなくなるという現象、古えに神であったに違いないそれが、妖怪に零落し、さらに煩瑣な近代的日常に吸収・埋没させられ、さらに急速な文明進捗の中で、妖怪総体が抹消されるという経緯のとば口に悄然と小豆洗いが立ち竦んでいるように思えてならないのである。

・「内藤新宿」江戸中期に設けられた宿場の一つ。現在の新宿区新宿一丁目・二丁目・三丁目一帯。甲州街道に存在した宿場の内では江戸日本橋から数えて最初の宿場で、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の起点でもあった。参照したウィキの「内藤新宿」によれば、慶長九(一六〇四)年に『江戸幕府により日本橋が五街道の起点として定められ、各街道で』一里(約三・九三キロメートル)ごとに『一里塚を設けたほか、街道沿いに宿場が整備された。甲州街道最初の宿場は』、慶長七(一六〇二)年に『設けられていた高井戸宿』であったがここは、日本橋から約四里(十六キロメートル弱)と『遠く離れ、徒歩を主な手段とする当時の交通には不便であった』。『東海道の品川宿・中山道の板橋宿・日光街道(奥州街道)の千住宿は、いずれも日本橋から』約二里(七・八キロメートル)の『距離にあり、五街道の内で甲州街道のみが江戸近郊に宿場を持たなかった。このため、日本橋―高井戸宿間での公用通行に対して人馬の提供を行う必要があった日本橋伝馬町と高井戸宿は、負担が大きかったとされる。幕府成立』から凡そ百年が経過、江戸の急速な発展に相俟って『甲州街道の通行量も増加を続けていた』ことから、元禄一〇(一六九七)年、幕府に対して、『浅草阿部川町(現在の台東区元浅草三、四丁目の一部)の名主であった高松喜兵衛など』五名の『浅草商人が、甲州街道の日本橋 - 高井戸宿間に新しい宿場を開設したいと願い出る。請願を受けた幕府では、代官・細井九左衛門や勘定奉行・荻原重秀などが審査にあたっ』たが、翌年六月、幕府は五千六百両の上納を条件に宿場の開設を許可、日本橋から二里弱の距離で、『青梅街道との分岐点付近に宿場が設けられることとなった。宿場予定地には信濃国高遠藩・内藤家中屋敷の一部や旗本の屋敷などが存在したが、これらの土地を幕府に返上させて宿場用地とした』。『高松喜兵衛らは新たに』五名の『商人を加えて宿場の整備に乗り出し』、彼等十人は特に『「元〆拾人衆」「内藤新宿御伝馬町年寄」などと呼ばれた。元〆拾人衆の手で街道の拡幅や周辺の整地が行なわれ、』元禄一二(一六九九)年に遂に『内藤新宿が開設された。宿場名である内藤新宿は、以前よりこの付近にあった「内藤宿」に由来する』。『なお、浅草商人が莫大な金額を上納してまで宿場開設を願い出た理由としては、この地を新たな繁華街・行楽地として開発し、商売によって利益を上げる計画だったとする説が有力である』とある。ところが賑わいを誇りながらその後、たった二十年足らずの享保三(一七一八)年十月、内藤新宿は幕府の命によって突如、廃止されてしまう。『幕府が表向きに廃止の理由として上げたのは、「甲州街道は旅人が少なく、新しい宿でもあるため」不要、というものだった。しかし、この時期は』第八代将軍『吉宗による享保の改革の最中であっ』て、同じ十月には「江戸十里以内では旅籠屋一軒につき、飯盛女は二人まで」という『法令が出されていることもあり、宿場としてより岡場所として賑わっていた内藤新宿は、その改革に伴う風紀取締りの一環として廃止されたと考えられている』。その後、再会運動が起こり、明和九(一七七二)年四月、実に、五十数年ぶりに内藤新宿は再開され、『「明和の立ち返り駅」と呼ばれた。『これまで却下され続けた再開が認められた背景には、品川宿・板橋宿・千住宿の財政悪化があった。各街道で公用の通行量が増加し、宿場の義務である人馬の提供が大きな負担となっていたのである。幕府は宿場の窮乏に対し、風紀面での規制緩和と、宿場を補佐する助郷村の増加で対応することになる(後者は伝馬騒動[やぶちゃん注:明和元(一七六四)年閏十二月下旬から翌年一月にかけて起こったの翌年の日光東照宮百五十回忌の過重負担などに基づく助郷村の不満による一揆。]を引き起こして失敗に終わる)』。幕府は明和元(一七六四)年に、それまでの先の「旅籠屋一軒附飯盛女二人迄」という『規制を緩め、宿場全体で上限を決める形式に変更』。品川宿は五百人、板橋宿・千住宿は百五十人までと改訂されて、結果として各宿場の『飯盛女の大幅な増員が認められた。これにより、各宿場の財政は好転し、同時に内藤新宿再開の障害も消滅した。また、この時、第十代将軍『徳川家治の治世に移り、消費拡大政策を推進する田沼意次が幕府内で実権を握りつつあったことも、再開に至る背景にあるとする説もある』とある。この宿場再開によって町は賑わいを取り戻し、文化五(一八〇八)年には旅籠屋五十軒・引手茶屋八十軒との記録が残る(本「卷之八」の執筆推定下限は文化五年の夏である)。『江戸四宿の中でも品川宿に次ぐ賑わいを見せ、その繁栄は明治維新まで続いた。現在では内藤新宿という地名は残っていないが、新宿の名はこの内藤新宿に由来するものである』と記す。

・「小笠原鎌太郞」底本の鈴木氏注に『貞三(サダカズ)。五百石。天明二年遺跡を継ぐ。二十八歳』とあるから、生年は天明二(一七八二)年から遡って宝暦五(一七五五)年となる。因みに根岸の生年は元文二(一七三七)年で、宝暦八(一七五八)年には一五〇俵取りの下級旗本根岸家当主衛規の末期養子となって根岸家の家督を継いでいる(当時二十二歳)。

・「小豆洗」知られた妖怪で「小豆とぎ」とも呼ぶ。以下、ウィキの「小豆洗い」に依って記載する。呼称は『山梨県笛吹市境川、藤垈の滝付近、新潟県は糸魚川、秋田県、群馬県、京都府、東京都、愛媛県など、出没地域は全国多数。日本全国で知られる妖怪だけあって別称も多岐にわたり、広島県世羅郡、山口県美祢郡(現・美祢市)、宇部市、愛媛県広見町(現・鬼北町)などでは小豆とぎ、岩手県雫石村(現・雫石町)では小豆アゲ、長野県長野市川中島では小豆ごしゃごしゃ、山梨県北巨魔郡では小豆そぎ、鳥取県因幡地方では小豆こし、岡山県都窪郡や阿哲郡(現・新見市)では小豆さらさら、香川県坂出地方では小豆ヤロなどと呼ばれ』、『長野県松本市では、木を切り倒す音や赤ん坊の泣き声をたてた』、『群馬県邑楽郡邑楽町や島根県では、人をさらうものと』いわれた。『『白河風土記』巻四によれば、鶴生(つりう・福島県西白河郡西郷村大字)の奥地の高助という所の山中では、炭窯に宿泊する者は時として鬼魅(きみ)の怪を聞くことがあり、その怪を小豆磨(あずきとぎ)と呼ぶ。炭焼き小屋に近づいて夜中に小豆を磨ぐ音を出し、其の声をサクサクという。外に出て見てもそこには何者も無いと伝えられている』。『茨城県や佐渡島でいう小豆洗いは、背が低く目の大きい法師姿で、笑いながら小豆を洗っているという。これは縁起の良い妖怪といわれ、娘を持つ女性が小豆へ持って谷川へ出かけてこれを目にすると、娘は早く縁づくという』。『大分県では、川のほとりで「小豆洗おか、人取って喰おか」と歌いながら小豆を洗う。その音に気をとられてしまうと、知らないうちに川べりに誘導され落とされてしまうとも』され、『音が聞こえるだけで、姿を見た者はいないともいわれる』。『この妖怪の由来が物語として伝わっていることも少なくない。江戸時代の奇談集『絵本百物語』にある「小豆あらい」によれば、越後国の高田(現・新潟県上越市)の法華宗の寺にいた日顕(にちげん)という小僧は、体に障害を持っていたものの、物の数を数えるのが得意で、小豆の数を一合でも一升でも間違いなく言い当てた。寺の和尚は小僧を可愛がり、いずれ住職を継がせようと考えていたが、それを妬んだ円海(えんかい)という悪僧がこの小僧を井戸に投げ込んで殺した。以来、小僧の霊が夜な夜な雨戸に小豆を投げつけ、夕暮れ時には近くの川で小豆を洗って数を数えるようになった。円海は後に死罪となり、その後は日顕の死んだ井戸で日顕と円海の霊が言い争う声が聞こえるようになったという』。『東京都檜原村では小豆あらいど(あずきあらいど)といって、ある女が小豆に小石が混ざっていたと姑に叱られたことから川に身を投げて以来、その川から小豆をとぐ音が聞こえるようになったという』。以下、「正体」の項(注記記号と改行を除去した)。『小豆洗いの正体を小動物とする地方もあり、新潟県刈羽郡小国町(現・長岡市)では山道でイタチが尻尾で小豆の音を立てているものが正体だといい、新潟県十日町市でもワイサコキイタチという悪戯イタチの仕業とされる。長野県上水内郡小川村でも小豆洗いはイタチの鳴き声とされる。大分県東国東郡国東町(現・国東市)でもイタチが口を鳴らす音が正体とされ、福島県大沼郡金山町でも同様にイタチといわれる。岡山県赤磐郡(現・岡山市)では小豆洗い狐(あずきあらいぎつね)といって、川辺でキツネが小豆の音をたてるという。長野県伊那市や山梨県上野原市でもキツネが正体といわれる。京都府北桑田郡美山町(現・南丹市)ではシクマ狸という化けダヌキの仕業とされるほか、風で竹の葉が擦りあう音が正体ともいう。香川県観音寺市でもタヌキが小豆を磨いているといわれ、香川県丸亀市では豆狸の仕業といわれる。広島県ではカワウソが正体といわれる。津村淙庵による江戸時代の随筆『譚海』ではムジナが正体とされる。秋田県では大きなガマガエルが体を揺する音といわれる。福島県ではヒキガエルの背と背をすり合わせることで疣が擦れ合った音が小豆洗いだともいい、根岸鎮衛の随筆『耳嚢』でもガマガエルが正体とされている。新潟県では、糸魚川近辺の海岸は小砂利浜であり、夏にここに海水浴に来る人間が砂浜を歩く「ザクザク」という音が小豆を研ぐ音に酷似していたため、これが伝承の元となったともいう。山形県西置賜郡白鷹町でも、小川の水が小豆の音に聞こえるものといわれる。また江戸時代には小豆洗虫(あずきあらいむし)という昆虫の存在が知られていた。妖怪研究家・多田克己によれば、これは現代でいうチャタテムシのこととされる。昆虫学者・梅谷献二の著書『虫の民俗誌』によれば、チャタテムシが紙の澱粉質を食べるために障子にとまったとき、翅を動かす音が障子と共鳴する音が小豆を洗う音に似ているとされる。また、かつてスカシチャタテムシの音を耳にした人が「怖い老婆が小豆を洗っている」「隠れ座頭が子供をさらいに来た」などといって子供を脅していたともいう。新潟県松代町では、コチャタテムシが障子に置時計の音を立てるものが小豆洗いだという。長野県下諏訪などではこうした妖怪の噂に乗じ、男性が仲間の者を小豆洗いに仕立て上げ、女性と連れ立って歩いているときに付近の川原で小豆洗いの音を立てさせ、怖がった女性が男性に抱きつくことを楽しんだという話もある』とある。長々と引用したのは、蟇蛙の化けた妖怪とする説を検証するためと、最後の実際のチャタテムシ(昆虫綱咀顎目(Psocodea)の内で寄生性のシラミ・ハジラミ以外の微小昆虫の総称チャタテムシ(茶立虫))の立てる音というのが、殊の外、私にはすこぶる腑に落ちるからである。現在の家を新築した年、寝室の畳にヒラタチャタテ( Liposcelis bostrychophila と推定)が大発生、寝ていると、畳の上を、「フツ、フツ、」と飛び歩く音がしたが、直後に同年(一九九〇年)出版の多田克己氏「幻想世界の住人たち」を読み、これが「小豆洗い」の音であったか! と妙に感動したのが忘れられないからである。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 小笠原鎌太郎殿御屋敷の蟇蛙の怪の事

 

 内藤新宿に小笠原鎌太郎と申さるる小身の御旗本が居らるる。

 かの御仁の屋敷の厨外の流し元にては、「小豆洗い」と呼ぶ怪がある由。

 時にその辺りにて、小豆を洗っておるような音が、これ、頻りに致すによって、下人が立ち出でてこれを見てみても、はて、誰も、何も、御座らぬ。

 これ、実はかなり日頃、頻繁に起こることなれば、屋敷内の者は皆、これを最早、怪しまずなっておるとも申す。

「……この『小豆洗い』と申すは……ご存知か?……実はこれ――年を経たる蟇(ひき)の仕業――と我らは聴いて御座る。……」

ととある人の語って御座ったが、その話の輪にあった別な御仁はそれを受けて、

「……いや! その通りじゃ。……我ら、他にも似たような怪異を聴き及んで御座るが、それもやはり、これ――蟇蛙(ひきがえる)の成す怪なり――とのことで御座った。……」

と申された。

 

祝祭劇としての文楽――双蝶々曲輪日記――

昨日見た文楽「双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)」。

私は恐らく「伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)」に次いで、面白い外題と感じた。

それは本作全体が壮大な宗教的祝祭として構成された、徹頭徹尾、驚くべき誠心とそれを包み込む吉祥に支えられた磐石の芝居であると感じたからに他ならない。

 

〈堀江相撲場の段〉

言うまでもなく、相撲は「相撲(すまい)の節会」に由来する祝祭である。実は本段の前〈相撲の段〉で濡髪(濡紙が原義)長五郎がわざと放駒長吉に負けるという設定は、それ自体が一見、卑怯な行為として見えながら、その実、後に二人が義兄弟の契りを結ぶ「結縁」の動機となるのであり、二人の「長」=「蝶」の若衆道の物語という作品全体の有意な「額縁」としてこの八百長相撲が機能していることは言を俟たぬ。

とすれば、この長五郎の八百長は実は「仏の方便」として既にして許されてあるのである。だからこそ話柄は波瀾万丈のうねりを持ちながらも、孝心と忠義に生きる主要人物らを大きな慈悲の網に掬いとってゆくことになるのである。

そうした意味からも私は演じられることの少ない(今回もない)この前段の相撲の場面は是非欲しいとも考えている。

〈大宝寺町米屋の段〉

姉お関と同行衆によるフェイクが長吉を改心させるサブ・ストーリーの、本外題最初ののクライマックスであるが、ここに出る可愛い色気を失わぬ老尼妙林がミソである。「同行衆」とは通常、浄土真宗の信者の会衆や講中を指す。ここでも尼妙林が「アヽとかく何事も御開山のお蔭、なんまみだなんまみだ」と念仏を繰り返すことからもそれは判然とする。しかもその直後に妙林が長五郎を見て頬を赤らめ、「アノ、私がもう二十若けりゃな」「あの前髪さんに、ヲヽ恥づかし」と述べるチャリは、まさに「御開山」親鸞の肉食妻帯の許しに基づく、既にして許された素直な感懐なのであり、この段もやはり阿弥陀の大慈大悲によって祝祭されていることが明白となる。

因みに、最初に長吉の愚連隊仲間二人が訪ねてきて、酒肴に及ぶシーンを見ながら、実は浄瑠璃には思いの外、酒食饗宴の場が少ないということに今頃、気づいた。

〈難波裏喧嘩の段〉

本公演の段で人が死ぬのはこの段だけである(時代物としては死者の数が少ないのは、まさに本作が祝祭劇であることの証左であろう)。しかも長五郎に殺される吾妻に横恋慕している平岡郷左衛門(ごうざえもん)と同輩三原有右衛門(ありえもん)という二人は、まさに「郷」=「業」「有」る救い難き悪人である。さすれば、彼らの惨死は総ての観客の喝采を浴びるものとなり(普通は惨たらしく感じられるとどめの一刺しでさえもすこぶる痛快ではないか。私は内心、『早くとどめを!』と心の中で叫んでいたことを告白しよう)、それはとりもなおさず、この斬殺自体が神仏によって許された祝祭の生贄(祝祭にサクリファイスは不可欠である)としてあることを意味すると言える。

その祝(ほう)りとしての屠(ほう)りがあるからこそ、ここに与五郎と吾妻の男女の契りは勿論、寧ろ、本話の主題である濡髪と放駒の強靭な男の契りこそが決定(けつじょう)するのである。

ここまで、大夫の長五郎は明白に「吾妻さん」と呼んでいる。この「さん」が気になった。床本では「殿」である。この後段では「さま」となった。どうもその辺りの些細な部分が気になった。少なくとも「さん」は浄瑠璃では異様に響く(新作文楽を聴いているような違和感があった)。何とかなるまいか。私は「殿」で何ら問題ないと思うのだが。

〈橋本の段〉

確か私の記憶では、幕前から御題目の太鼓が鳴り響く。即ち、この三つ巴くんずほぐれつの強烈な父子愛の場には、今度は「父」権性を強く保持した日蓮が蔭に登場して祝祭しているのだと私は合点した。

また、ここと次段の登場人物の異様に似た名前が気にもなった。

与五郎の妻お照の父が「治部衛門(じぶえもん)」、与五郎の父の名が「与次兵衛(よじべえ)、吾妻の父の名が「甚兵衛(じんべえ)」、次の〈八幡里引窓の段〉の長五郎の実母の継子がこの場で改名して「十次兵衛(じゅうじべえ)」――皆、「じ」音を含む。その結果として彼等の名が呼ばれる際、この「じ」が殊更に耳に残る仕掛けになって、しかも彼らが皆、どこかで繋がった何ものかに導かれているという不思議な共感共時性を醸し出す。無論、これらは当時ありきたりな名ではあったに違いない。しかし、普通の作劇者ならば、彼らを観客が誤認せぬようにもっと有意に異なった名にすると考えてよいのではあるまいか? そうしなかったのは、これは私は確信犯の仕儀と考えるのである。――この「じ」は「慈」である。――即ち、彼等の名前自体が総て本祝祭のシンボルなのだ――と私は感じたのであった。

〈八幡里引窓の段〉

引窓や手水の作劇上の遣い方がまっこと、面白い。そうしてその見えない「月」は「待宵」の月であり、手水の水面に映る長五郎の面の背後にもその「月」があるはずである。さすればここには見えない円(まる)い月がある。名月は名鏡である。真実の心を映し出すところの鏡である。舞台装置のその外縁に祝祭の装置が既にしてセットされてあると私は読む。

ここはまた、実母(珍しく名が示されず、台詞にも出ない)と実子長五郎の母子愛、継母(長五郎実母と同一人)と継子(南与兵衛(なんよへい)改め十次兵衛)の母子愛、義娘(十次兵衛妻おはや)とその義母の母子愛という、前段の父子愛の構造を反転させた鏡像のような関係にあって、その総ての人物(途中に出る仇討のための平岡と三原の如何にも軽い兄弟は無論、除いてである)が鮮やかな月光に照らされた誠心の持ち主として如何にも美しく透明に映るのである。

而して、クライマックスは自ら母に引窓の繩で縛らせ、孝と義に生きようとする覚悟の長五郎――しかも、その繩を断って長五郎を逃がすところの孝と慈悲に満ちた十次兵衛――切った繩で引窓が落ち、月光が室内を照らす――(ここは折角、照明装置があるのだから、私は室内全体の照明をやや落として月光のスポットを当てるぐらいの近代的手法が採られてよいと思う。少なくとも私はそれをどこかで期待していたことをも告白しておく)――それがまさに二人の男の誠心をあぶり出す「明鏡の文学」としての、「聖なる後光の祝祭」なのである。

そして駄目押しの祝りもちゃんと用意されているではないか!

十次兵衛「南無三宝夜が明けた。身共が役は夜の内ばかり。明くれば即ち放生会(ほうじょうえ)。生けるを放す所の法。恩に着ずとも勝手にお往きやれ」

これらが祝祭でなくて、何を祝祭と言おう?!

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 71 いさり火にかじかや波の下むせび

本日二〇一四年九月 十四日(陰暦では二〇一四年八月二十一日)

   元禄二年八月  一日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月 十四日

八日間滞在した山中での句。中間のここに配しておく。

 

  山中十景 高瀨漁火(たかせのいさりび)

いさり火にかじかや波の下むせび

 

  此地に十景あり。先師むかし高瀨の漁火という題をとりて

かゞり火にかじかや波の下むせび

 

[やぶちゃん注:第一句目は「卯辰集」の、第二句目は支考編「東西夜話」(元禄十四年成立)の句形と支考による前文。

 「山中十景」『山中かわら版』第十九号(二〇一一年十二月発行・PDF版の中の医王寺住職鹿野恭弘氏の記事「山中十景と素晴らしき先人達」によれば、彦根の俳人中村湧西(ようゆう)なる人物が享保十(一七二五)年に山中温泉に逗留、その時医王寺薬師堂に参詣して十景絵馬奉納句の扁額を見たことが記されているとあり、その時、湧西は桃妖甚左衛門(当時、四十九歳)にも会っているとある。以下、同記事に出る十景を正字化して記しておく(読みも記事にあるもの)。

 桂淸水螢(かつらしょうずぼたる)

 醫王林花(いおうりんか)

 湯屋烟雨(ゆやえんう)

 水無啼猿(みずなしていえん)

 小富士暮雪(こふじぼせつ)

 大巖紅葉(おおいわこうよう)

 黑谷城跡(くろだにじょうせき)

 道明秋月(どうめいしゅうげつ)

 蜻蚓橋霜(こおろぎきょうそう)

 高瀨漁火(たかせいさりび)

ありがちな名数であるが、音読みの中に訓読みを含むというのは比較的珍しいのではあるまいか。

 「芭蕉DB」の本句のページによれば、『山中温泉旅館の主桃妖の説明で、この山中温泉には十景があって、その中に「高瀬の漁火」というものがあると聞いて芭蕉は作句したといわれている。それゆえ、この句は題詠であって嘱目吟ではない』とする。確かに「東西夜話」の前文からはそうなる。しかし、八日の滞在で凝っと温泉にばかり浸っていた(そもそも芭蕉は温泉好きでは実はないと思う)とは考えられぬから、ここは嘱目ととっても構わないと思われるのだが。……それともちょっとした外出の意欲をも殺いでしまうような事態が、芭蕉と同行者曾良との間に起っていたのか?……

 「かじか」ここは「漁火」と出るから、魚の条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ Cottus pollux及び同カジカ属 Cottus の仲間を指す。山中温泉辺りということになれば、降海しない河川型(湖沼陸封型)の種であろう。金沢では幻となってしまったゴリ料理のゴリである。但し、無論、彼らは発声器官持たない。ここは同名を持つ山地の渓流に棲息する両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属 Buergeria buergeri の鳴き声との混同誤認によるものである(たちの悪いことに古い歳時記には「鳴く」と出る)。大変、美しい声で鳴く。AKIRA OOYAGI氏のカジカガエルの美声Japanese Stream Frog songでお聴きあれ。

 十景全部に句をつけたのなら俳諧の興もあろうというもの乍ら、その気配はない。しかも漁網に絡め捕られんとする鰍(かじか)が我が身の儚さを思って咽び泣くという如何にもな(しかもダルでネガティヴな)句柄、山本健吉氏は『総じて山中の句は低調である』と断ずる。それは年甲斐もなく芭蕉が桃妖にほだされてしまったからだけではあるまい。その反作用によって曾良との関係が破綻寸前まで悪化していたからに他ならないと私は考えている。]

2014/09/13

杉田久女句集 271 花衣 ⅩⅩⅩⅨ 遠賀川 十一句

  遠賀(をんが)川 十一句

 

[やぶちゃん注:標題は確かに「をんが(おんが)」とルビを振っているが、本句群の句中に於いては「遠賀」を恐らくは後注する古地名の「おか」から「おが」と読んでいる可能性が高いか。坂本宮尾氏は「杉田久女」でそう断定しておられる。

 

菱蒸(うむ)す遠賀の茶店に來馴れたり

 

すぐろなる遠賀の萱路をただひとり

 

[やぶちゃん注:「すぐろ」末黒。野焼きの跡が一面に黒くなっているさまをいう語。春の季語。]

 

生ひそめし水草の波梳き來たり

 

添ひ下る塢舸(おか)の運河はぬるみけり

 

[やぶちゃん注:崗(おか)の水門(みなと)。遠賀川河口付近の古えの地名。神武東征の際に皇子や水主を率いて到着した所という。崗津・崗の浦ともいう。「おか」は「おほこ」(大河)→「おうこ」→「おか」と転訛したもので、古代語で川のことを「こ」と言ったと宮崎康平氏の「まぼろしの邪馬台国」(昭和四二(一九六七)年講談社刊)にはある。]

 

土堤長し萱の走り火ひもすがら

 

風さそふ遠賀の萱むら焰(ほ)鳴りつゝ

 

[やぶちゃん注:「焰鳴り」「日本国語大辞典」に「ほなる」の項があり、そこでは方言として火が起こる(山梨県南巨摩郡奈良田)、熱を・ほてる(伊豆三宅島)とある。坂本宮尾氏は「杉田久女」で、他の句の「ひもすがら」「風さそふ」という措辞と並べて、確信犯で『あきらかに和歌の調べを取り入れている』と述べておられる。]

 

蘆むらを燒く火はかなく消えにけり

 

焰迫れば草薙ぐ鎌よ野燒守

 

もえ迫る野燒の草を薙ぎ拂ひ

 

蘆の火の燃えひろがりて消えにけり

 

蘆の火に天帝雨を降(くだ)しけり

 

蘆の火の消えてはかなしざんざ降り

2014/09/12

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 野島 附平潟・金澤原・乙艫浦

    ●野島 附平潟、金澤原、乙艫浦

瀨橋(せはし)より七八町東に出崎あり。之を野島といふ里民(りみん)の舊諺に云此所民屋百軒あり。外に一軒たりとも多く作れは。必らず災(わざわい)有りて。又舊の如く百軒の數となる。因て百軒島(けんしま)とも稱すと。紀伊大納言賴宣公鹽風呂(しほふろ)の舊地あり。山の岬角に稻荷神社。中腹に天滿宮。山下に善應寺、正覺院あり。頃者海岸に野島館新築成りて。旅客を待てり。又泥龜(でいき)新田には。有名なる牡丹園ありて晩春の候杖を曳くもの多し。金澤の牡丹と稱するは是なり。野島(のしま)の少し北の沙斥を平潟といふ。八景の一とせる平潟の落雁は。其の實雁にあらず。海藻を採る者の群居せるを遠望して。形容せしものなりといへり。此邊鹽竃(しほがま)あり。平潟の西町屋村の東を金澤原といひ。野島の東濱(とうひん)を乙艫の浦と稱す。夕陽(せきやう)斜(なゝめ)に映する處。白帆(しらほ)影(かげ)を弄して歸る。亦奇觀あり。

[やぶちゃん注:「鎌倉志卷之八」の「野島」の条。

〇野島村〔附平方 金澤原 乙鞆浦〕 野島村(のじまむら)は、瀨戸橋(せとばし)の東の出崎なり。里民の云はく、此處、民屋百軒あり。外に一軒も家を造れば、必災ひ有て、又元の如く百軒の數となる。之に依つて百軒島とも云ふなり。此の所の出崎に、紀州大納言賴宣(よりのぶ)卿、塩風呂(しほふろ)の舊地有。山の出崎に稻荷の宮あり。山の中段に天神の宮あり。野島の少し北を平方(ひらかた)と云ふ。平方の西、町屋村の東を、金澤原(かなざはばら)と云、野島の東濵を乙鞆浦(をつともうら)と云ふ。

 野島は古くは文字通り島であったが、乙舳海岸の砂嘴が伸びて洲崎と陸繋島となったものである。

「瀨橋」「瀨戸橋」の脱字であろう。

「七八町」凡そ七六四~八七三メートル。現在の瀬戸橋から野島に繋がる帰帆橋を渡り切ったところまでで七五〇メートル弱、夕照橋や野島公園口までは凡そ一キロメートルに相当する。

「百軒島」この伝承は、ここでの海洋狩猟が恐らく非常に古い時代から営々と続いてきた(山頂近くの野島貝塚からは縄文時代早期後半の凡そ八〇〇〇年前とされる野島式土器が出土)ことを考えると、外部からの流入による漁業従事者の増加による水産資源の減少を抑止するための目的がまず挙げられ、また近世には活鯛を将軍家に供給する御用達として幕府から手厚い保護を受けていた野島漁師の特権性を維持することをも目的としていたように思われる。

「紀州大納言賴宣卿」徳川頼宣(慶長七(一六〇二)年~寛文十一(一六七一)年)のこと。徳川家康十男。紀州徳川家祖。和歌山藩藩主。第八代将軍吉宗の祖父。また、伝承によれば万治年間(一六五八~一六六〇)には野島浦南端に頼宣の別邸があって、これを通称「塩風呂御殿」と称したとする。何故こう呼ばれたのかを記載する資料がないが、龍神温泉を痛く気に入っていた頼宣のこと、潮を沸かして塩水浴でもしていたものか。

「稻荷神社」野島稲荷神社。野島総鎮守で、安貞元(一二二七)年に阿波守長島維忠の発願によって子の修理佐頼勝なる者が創建したと伝える。

「天滿宮」天神社。

「善應寺」現在の野島山染王寺。この寺は寺名や本尊が錯綜しており、「江戸名所図会」では「善應寺」と記す。小市民氏の「散歩行こうぜ」の『ようこそ「金沢・時代の小波 野島コース」へ』によれば、文政十三(一八三〇)年に成った「新編武蔵国風土記稿」によれば『「この寺は、もとは野島の山頂にあったが、南方からの強風を受けて堂舎を破損したため、山麓の現在地に移った、山頂には今でも善応寺屋敷の地名が残っている」と寺伝を記して』おり、同書では続いて本堂の規模を記した上、本尊観音は約八寸程の立像であるとし、『昔は愛染明王が本尊だったのであろう、火災に遭って改めたものだ』と記されているとある(小市民氏は寺号もこのときに変更されたものと推測されている)。更に寺伝によれば、開山とされる源朝なる僧の示寂は永禄九(一五六六)年とあることから、その頃の創建とされているけれども、境内の墓地入口に『古びた宝篋院塔があり、安山岩の基礎石正面には「比丘尼角意、永徳二年六月十八日」と刻まれて』いるとする。永徳二・弘和二(一三八二)年であるから、この尼が本寺関係があるとすれば、この寺の創建は開山とされる源朝の存命期よりもずっと前(百五十年以上前)に遡る可能性がある、と記されておられる。『野島には染王寺のほかにも夕照山正覚院や円明院という寺院があって、いずれも洲崎町龍華寺の末寺で』あったが、『円明寺は早くから廃寺となり、正覚院の過去帳の一部などが染王寺に伝えられて』おり、現在、『染王寺は、金沢札所第八番であるとともに、新四国東国八十八所霊場第七十七番にもなってい』るとある。

「正覺院」現存しない模様。前注の引用部を参照。

「頃者」音は「ケイシヤ(けいしゃ)」。このごろ。近ごろ。頃日。

「野島館」料亭。現存しない。「野島」公式サイトの「野島公園 伊藤博文公金沢別邸」に、『野島館は野島山の東側にあった。今の青少年研修センターと稲荷神社の中間あたりにあって、かなり広い 敷地を持ち、多くの女中さんを抱えた料亭で、泥亀の牡丹見や潮干狩りの客で賑わっていたという』。しかし明治三五(一九〇二)年頃、『火災に合い、その営業を閉じたと伝えられる』とあるから、新築なって数年、本誌の刊行から四年も経ずに回禄に見舞われたことになり、恐らくはこの記載が最後の面影を伝えるものの一つということになろう。

「又泥龜新田には。有名なる牡丹園ありて晩春の候杖を曳くもの多し。金澤の牡丹と稱するは是なり」しばしばお世話になっている楠山永雄氏の「ぶらり金沢散歩道」の「NO.58 泥亀新田と泥亀の牡丹」に、『江戸・湯島聖堂の儒官であった永島祐伯(号を泥亀といった)は、晩年を金沢の野島に移り住んだ。やがて新田開発に乗り出し』、寛文八(一六六八)年に『走川と平潟の二ヶ所を埋め立て』て、二町六反(凡そ二五八〇〇平方メートル)余を拓いた。これ『が泥亀新田の始まりである。のち、永島家は代々段右衛門を襲名し、明治に至るまで、実に』九代二百年に亙って『干拓事業に取り組んだ』。その間、大地震や大洪水などで甚大な被害を被っている。特に寛政元 (一七八九) 年の洪水では干拓部分が『元の入江に戻ってしまい、新田内を舟が往来し漁が行われるという有様だった。しかし、永島家の復旧への苦闘は屈することなく続』けられた。干拓事業がようやく軌道に乗ったのは九代目忠篤(号は亀巣)の嘉永二(一八四九)年の時で、遂に新田六十七町(七・三平方キロメートル)余、平潟に塩田二町(六〇〇〇坪・一九八〇〇平方メートル)余が完成、『永島家は製塩の成功で近郷に並ぶもののない大富豪となった』(この塩田とその製塩施設が本文の「鹽竃」)しかし、明治四三(一九一〇)年に明治政府が製塩地整理法を施行、実に鎌倉時代から七百年も続いてきた金沢の製塩は『廃止の対象となって幕を閉じた。これにより永島家の経営は決定的な打撃を受け』、大正五(一九一六)年には『泥亀新田を博文館社主・大橋新太郎に売却という結末を迎え』た。『旧永島邸内に建つ巨大な根府川石の「亀巣翁功徳の碑」に、その歴史が刻まれ栄華の時代を偲ばせている。永島一族の墓所は洲崎の龍華寺にある』とある。また同リンク先にはこの「牡丹園」のことも載り、『金沢の牡丹として有名な「泥亀の牡丹」は、花見の時になると屋敷内の牡丹園は一般に公開され、近郷近在からの見物客で賑った。著名人の来訪も多く、逗子に住んでいた徳富蘆花も牡丹見にきたことが著書「自然と人生」に出てくる』。『泥亀新田が大橋新太郎に譲渡された後、泥亀新田は大橋新田と呼ばれ、牡丹も「大橋の牡丹」として引き継がれた。金沢町の大橋別邸にあった牡丹園も有名で、花の盛りにはボンボリが灯され大勢の客が訪れたという』とあり、現在、『「金沢区の花」が牡丹であるのは、永島・大橋の牡丹園に由来』するもので、区制四十五周年記念に一般公募で選定されたとある。『大橋新太郎は金沢文庫の再興に貢献し、八景園や養鶏場などを経営したが、終戦後の農地改革によって広大な土地を失い金沢を去った。栄枯盛衰、永島家も大橋家も金沢の地に大きな足跡を残したことを忘れることはできない』とある。引用元には「旧永島邸牡丹園 手彩色古写真(明治二十年代)」及び「大橋別荘の牡丹園 絵葉書(昭和十年代)」の画像が載る。是非、ご覧戴きたい。

「沙斥」砂の干潟。漢和辞典に「斥」は「潟」(セキ)に通ず、とある。

「八景の一とせる平潟の落雁は。其の實雁にあらず。海藻を採る者の群居せるを遠望して。形容せしものなりといへり」目から鱗!]

ゲリラの語源その他

「ゲリラ豪雨」という言葉が気になって調べてみた……
ゲリラ(英語: guerrilla )は独立した武装集団によって行われる不正規戦をいうが、現在ではそれに参加する者或いはその団体を指すことが多い。ナポレオンが1808年にイベリア半島に出兵した際、スペイン軍やスペインの農民たちは各地で抵抗、ナポレオン軍を5年にわたって半島に釘付けにした。この半島戦争はナポレオンのヨーロッパ征服を初めて中断させ、ひいてはナポレオン退位(1814)に繋がる予想外の政治的収穫を挙げたことから、スペイン語で「土匪(どひ:土着民で武装して集団となって略奪・暴行を行う賊集団。)式の小戦闘」を意味する「ゲリリャ」( guerilla 〉という言葉が広く普及、転じてそうした待伏せ攻撃などの遊撃戦闘行為を行う者のことも「ゲリラ」と呼ぶようになった(ここまでは主に平凡社「世界大百科事典」に拠る)。ウィキの「ゲリラ」には「ゲリーリャ」guerrilla = guerra(戦争)+-illa (縮小辞)で「小さな戦争」を意味するスペイン語の単語とある。なお、スペイン語で普通規模の戦争は「ゲラ」( guerra )という(ここはネットの「語源由来辞典」)。但し、戦術としてのゲリラ戦はこの語が生まれる以前の古代(例えば「孫子」)から存在していた(主にウィキ)。「ゲリラ」の本邦での使用は昭和に入ってから(「語源由来辞典」)で、「ゲリラ豪雨」は2008年の流行語大賞にランクインしているが、使用例は意外に古く、例えば「読売新聞」では、1969年8月の夕刊社会面での「新潟県中部上空には、ゲリラ豪雨の黒雲が不気味に広がっている」という使用が最初とある。無論、この「ゲリラ豪雨」は一般の気象用語ではなく、正しくは「局所的大雨」「局所豪雨」と言う(以上は『調べてみると結構深い「ゲリラ豪雨」という言葉の意味』に拠る)。

2014/09/11

北條九代記 卷第六 武藏守泰時執権 付 二位禪尼三浦義村を諫めらる〈北条泰時の第三代執権就任及び伊賀氏の変Ⅰ 北条泰時の帰鎌と北条政子の英断と大江広元の懇請、鎌倉の不穏と謀略の真相〉

      ○武藏守泰時執権  二位禪尼三浦義村を諫めらる

京都に飛脚を遣されしかば、相摸守時房、武藏守泰時、取物(とるもの)も取(とり)敢えず六波羅を立ちて、同二十六日の晩景(ばんけい)に下著あり。二位禪尼、對面あり。將軍家の御事、御後見に於いては陸奥守に相替らず、時房、泰時、取行(とりおこな)はるべき由、仰出さる。觸穢(しよくゑ)の砌、楚忽(そこつ)の構(かまへ)、憚(はゞかり)あるの旨、御返事を申されたり。前〔の〕大膳大夫入道覺阿、申しけるには「世の安危(あんき)、人の疑ふべき時なり。兩人執権の議定あらば、靜謐すべし。早くその沙汰御受け申し給へ」とあり。去ぬる十三日より、今日に及びて、世上の巷説(かうぜつ)、區々(まちまち)なり。武藏守泰時は弟等(おとゝら)に打滅(うちほろぼ)さるべき運命にて、京都を出でて下向せらる。淺ましきことを見んと風聞あり。元久二年より以來(このかた)、義時の執権たること二十年に及べり。然るに義時の後室は伊賀守朝光が娘なり。此後室の爲、武藏守泰時は繼子(まゝこ)にて、當腹(たうふく)に政村を生みたりければ、後室は泰時を惡(にく)まれ、我が生みたる四郎政村を世に立てばやと常々に思はれたり。後室の弟(おとゝ)伊賀式部丞光宗に心を合せ、三浦駿河〔の〕前司義村を語(かたら)ひ、若君賴經公を押退(おししりぞ)け、泰時を打殺し、義村が婿宰相中將藤原實雅(さねまさの)卿を關東の將軍とし、政村を執権になし、我が弟光宗に武家の成敗を致させばやとぞ思企(おもひくはだ)てらる。是に依て、四郎政村の館の邊(あたり)、物忩(ぶつそう)なり。されども泰時は少も驚騷ぎ給はず。二位禪尼、聞付(きゝつ)けて使を以て政村が館の騷動をぞ靜められける。相摸守時房の一男、掃部助(かもんのすけ)時盛、武藏守泰時の一男武蔵〔の〕太郎時氏を京都に上洛せしめらる。「世の中、靜ならず、畿内近國の人の心、計(はかり)難き折節なり。早く洛中を守護すべし」とて差上(さしのぼ)せられたり。鎌倉中、何とは知らず、近國の武士馳集(はせあつま)り、大名小名の家々に群參す。

 

[やぶちゃん注:〈北条泰時の第三代執権就任及び伊賀氏の変Ⅰ 北条泰時の帰鎌と北条政子の英断と大江広元の懇請、鎌倉の不穏と謀略の真相〉「吾妻鏡」巻二十六の貞応三(一二二四)年六月二十六日・二十八日・二十九日、七月十七日・十八日等に基づく。以下、分割して示す。

「京都に飛脚を遣されしかば」義時逝去の報知の飛脚。

「相摸守時房、武藏守泰時、取物も取敢えず六波羅を立ちて」時房は八つ年下であった泰時(当時は既に四十一歳)の叔父に当たり、ともに承久の乱では大将軍として上洛、戦後新たに都に設置された六波羅探題(当時は実際には単に「六波羅」と呼ばれており、「探題」と名づけられたのは鎌倉末期である)の南方として就任、同じく北方に泰時が就いて、以降二人ともに京にあって朝廷の監視や戦後処理、未だ不穏な要素を孕んでいた畿内近国及び京以西の武士団の監察に従事していた。

「晩景」夕方。晩方。「ばんげい」「ばんげ」とも読む。

「陸奥守に相替らず」「陸奥守」は北条義時。第二代執権義時が成したのと全く変わらぬように。

「時房、泰時、取行はるべき」これでは二人が取り敢えず同等の地位で執権相当職を成せと命じているような誤解を与える(実質的には政子の物謂いにはそうしたニュアンスが言外にあったとは思われるが)が、これは「吾妻鏡」を少し誤読したか、若しくは筆者の好きな仁人泰時を持ち上げる意識が起動したものと思われる。後に見るように「吾妻鏡」では政子の命は、『相州。武州爲軍營御後見。可執行武家事之旨。有彼仰云々』(相州、武州軍營の御後見(ごこうけん)として、武家の事を執り行ふべきの旨、彼の仰せ有りと云々)で、相州時房が執権職の武州泰時の軍師役となって、幕政を執り行うようにとの、かの有り難き仰せが下された、である。

「觸穢の砌、楚忽の構、憚あるの旨、御返事を申されたり」直接話法で「觸穢の砌、楚忽の構、憚ある」か、と返事をしたのは泰時ということになるのであるが、どうもこれも筆者の「吾妻鏡」の誤読の可能性が疑われる。後に見るように、この部分は政子と泰時の対面シーン及び続く大江広元(本文の「前大膳大夫入道覺阿」)の助言シーンという、異なった場面の形容表現を無理矢理、カップリングしているからである。頭の「觸穢の砌」は政子が喪中であるはずの推参した泰時と直に会った場面、『武州始被參二位殿御方。觸穢無御憚云々。』(武州、始めて二位殿の御方へ參らる。觸穢(しよくゑ)、御憚り無しと云々。)とあるのを用いたもので、ここは父義時の死の穢れを一切躊躇することなく大倉幕府に上がって政子以下に対面したという、泰時の良い意味でのプラグマティクな性格上の果敢さを語っている「吾妻鏡」筆録者による感想部分である。ところがそれに完全に並列で配された「楚忽の構、憚あるの旨」というのは、実は前の政子の、時房を幕政後見人(具体的には連署)として執権となられよ、と泰時が命を受けたのに対して、泰時としては急な重役就任の命にやや躊躇(というのが相応しくないとすれば謙遜)があって、広元にその不安をあからさまに相談したシーン(前に見たように「云々」が前にあるので、「吾妻鏡」の表現法ではこれは場面の転換を意味するのだが、私は実際には政子・広元・泰時同座で前のシーンと連続していたと思っている)である以下、『而先々爲楚忽歟之由。被仰合前大膳大夫入道覺阿。』(而るに、「先々楚忽たるか」の由、 前の大膳大夫入道覺阿に仰せ合はさる。)に出る泰時の生(ナマ)の台詞なのである。しかもこれは恐らく――「執権就任とは、これ、向後のことを考えますると、憚りながらあまりに拙速なる御判断では御座いますまいか?」という極めて慎重冷静な泰時の疑義の表明なのである。増淵勝一氏も現代語訳(教育社新書版)ではお困りになったものと思われるが、『父義時の逝去に際会しまして、軽はずみな謀略の生じますことを恐れつつしんでおります』と驚嘆する名訳を施されておられる。確かにうまい訳ではあるがしかし、これでは残念ながら、政子の命―泰時の疑義―広元の慫慂の助言という「吾妻鏡」の切迫した人登場人物らのダイナミズムが全く伝わってこない。私はこうは採れない。寧ろやはり泰時は――「死穢に触れておりまする今、また御聖断の畏れ乍ら、拙速なればこそ、これは即座に受け入るること憚りあることかと存じまする。」――と一度、辞退しかけたと採るべきである。大方の御批判を俟つ。

「世の安危、人の疑ふべき時なり。兩人執権の議定あらば、靜謐すべし。早くその沙汰御受け申し給へ」「吾妻鏡」原文は『覺阿申云。延及今日。猶可謂遲引。世之安危。人之可疑時也。可治定事者。早可有其沙汰云々。』(覺阿、申して云はく、「延びて今日に及ぶ、猶ほ遲引と謂ひつべし。世の安危、人の疑ふべき時なり。治定(ぢぢやう)すべき事は、早く其の沙汰有るべしと云々。)で、明らかに前の泰時の台詞の「楚忽」(「吾妻鏡」)を受けているのであって、「拙速どころか遅過ぎるくらいだ!」と反論しているのである。――「この世、安寧ならんか危ならんかと、まさに只今、世の人々があれこれと疑心暗鬼致いておる時節で御座る! 御両人が幕政を統轄するという議定がなされましたならば、世は如何にも静謐に鎮まりまする! 早う、二位の禅尼の御命令をお受け申し上げ遊ばされよ!」と焦燥とともに慫慂しているのである。

「去ぬる十三日」義時の逝去の時日。

「武藏守泰時は弟等に打滅さるべき運命にて、京都を出でて下向せらる。淺ましきことを見んと風聞あり」これも「吾妻鏡」の誤読ではなく、筆者による泰時の仁心を強調するための表現操作が行われていると私は見る。「吾妻鏡」では、『武州者爲討亡弟等。出京都令下向之由。』(武州は弟等を討ち亡ぼさんが爲に、京都を出でて下向せしむるの由。)、と、噂の主客のベクトルが完全に真逆であるからである。

「元久二年」西暦一二〇五年。「吾妻鏡」ではこの年の閏七月二十日の条に父時政を伊豆に追放すると同時に代わって義時が執権(政所別当)の地位に就いた旨の記載がある。但し、ウィキの「北条義時」の注の七によれば、「吾妻鏡」『は義時がこの時に政所別当・執権に就任したとしているが、岡田清一は』承元三(一二〇九)年十二月以前の『政所文書に政所別当(執権)である義時の署判が』一通も見られないことを指摘、この執権就任記事は「吾妻鏡」の編者の脚色とし、実際の就任は承元三(一二〇九)年であったとしている、とある。

「義時の執権たること二十年に及べり」厳密には元久二(一二〇五)年からこの貞応三(一二二四)年までは十九年。

「伊賀守朝光が娘」北条義時の後妻(継室)であった伊賀の方(生没年未詳)。以下、ウィキの「伊賀の方」によれば、伊賀朝光(いがともみつ ?~建保三(一二一五)年:藤原秀郷流の関東の豪族で伊賀氏の祖。蔵人所に代々使えた官人の出身で朝光が伊賀守に任じられて以降に伊賀氏を称した。建久元(一一九〇)年十一月の源頼朝の上洛に供奉している。正治年間に左衛門少尉、承元四(一二一〇)年三月に伊賀守に任じられた。娘婿(後妻)である北条義時が幕府第二代執権となったことから、朝光の子らは義時の外戚として活躍、建保三(一二一五)年九月十四日に朝光が死去して翌十五日に山城前司行政の家の後ろの山に埋葬された際には義時も参列している。長男光季は既に見た通り、承久の乱で京方の襲撃を受けて自害している。ここはウィキの「伊賀朝光」に拠る)の娘。兄弟に光季・光宗。子に北条政村の他、実泰・時尚・一条実雅室などがいる。義時が前妻の姫の前(比企氏の出で、建仁三(一二〇三)年九月の比企能員の変では夫義時が率いた軍勢によって実家が滅ぼされた。ウィキの「姫の前」によれば、「吾妻鏡」はその後の姫の前の消息を載せないが、「明月記」の嘉禄二(一二二六)年十一月五日の条によると、和歌所寄人で従四位下左近少将であった源具親(ともちか)の、その子である公卿源輔通(すけみち)は北条朝時の同母弟で、幕府から任官の推挙があったと記しており、輔通は元久元(一二〇四)年生まれであることから、姫の前は比企の乱の直後に義時と離別して上洛、源具親に再嫁して輔通を生んだものと見られるとある)と離別したのちに継室となったと見られ、元久二(一二〇五)年六月に政村を出産、 承元二(一二〇八)年には実泰を出産、この貞応三(一二二四)年七月に夫義時の急死後、兄光宗とともに実子である政村を幕府執権に、娘婿の一条実雅を将軍に擁立しようと図ったが、北条政子が政村の異母兄泰時を義時の後継者と決したことにより失敗、伊賀の方と光宗・実雅は流罪となった(伊賀氏の変)。子の政村は事件に連座せず、のちに第七代執権となっている(彼は得宗家ではないので本「北條九代記」の「九代」には含まれないので注意されたい)。本文にも出るように八月二十九日に伊賀の方は政子の命によって伊豆北条へ配流となって幽閉された。四ヶ月後の十二月二十四日、危篤となった知らせが鎌倉に届いており、その後死去したものと推測される、とあり、『なお、藤原定家の『明月記』によると、義時の死に関して、実雅の兄で承久の乱の京方首謀者の一人として逃亡していた尊長が、義時の死の』三年の後に『捕らえられて六波羅探題で尋問を受けた際に、苦痛に耐えかねて「義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫んで、武士たちを驚かせている』とある。まさしく妖しい烈女と言えよう。

「政村」北条政村(元久二(一二〇五)年~文永一〇(一二七三)年)。当時は満十九歳。以下、ウィキの「北条政村」により記載する(一部、補正した部分がある)。義時五男で泰時の異母弟。母は継室伊賀の方。政村流北条氏の祖で、幼少の得宗家北条時宗(泰時の曾孫)の代理として第七代執権に就任、辞任後も連署を務めて蒙古襲来の対処に当たり、一門の宿老として嫡流の得宗家を支えた。第十二代執権北条煕時は曾孫に当たり、第十三代執権北条基時も血縁的には曾孫である。元久二(一二〇五)年六月二十二日、畠山重忠の乱で重忠親子が討伐された日に誕生、義時には既に四人の男子(泰時・朝時・重時・有時)がいたが、当時二十三歳の長男泰時は側室の所生、十三歳の次男朝時の母は正室姫の前であったが離別しており、政村は当代の正室伊賀の方所生では長男であった。建保元(一二一三)年十二月二十八日、七歳で第三代将軍源実朝の御所で元服、四郎政村と号した。『元服の際烏帽子親を務めたのは三浦義村だった(このとき祖父時政と烏帽子親の義村の一字をもらい、政村と名乗る)。この年は和田義盛が滅亡した和田合戦が起こった年であり、義盛と同じ一族である義村との紐帯を深め、懐柔しようとする義時の配慮が背景にあった。『吾妻鏡』は政村元服に関して「相州(義時)鍾愛の若公」と記している』。『義時葬儀の際の兄弟の序列では、政村と同母弟実泰はすぐ上の兄で側室所生の有時の上位に位置し、異母兄朝時・重時の後に記されている。現正室の子として扱われると同時に、嫡男ではなくあくまでも庶子の一人として扱われている』ことが分かる。『しかし母伊賀の方が政村を執権にする陰謀を企てたという伊賀氏の変が起こり、伊賀の方は伯母政子の命によって伊豆国へ流罪となるが、政村は兄泰時の計らいで累は及ば』ず、『その後も北条一門として執権となった兄泰時を支え』た(因みに三歳年下の『同母弟実泰は伊賀氏事件の影響か、精神のバランスを崩して病となり』、天福二(一二三四)年に二十七歳の若さで出家している)。延応元(一二三九)年、三十四歳で評定衆となり、翌年には筆頭となった。宝治元(一二四七)年、四十三の時、二十一歳の『執権北条時頼と、政村の烏帽子親だった三浦義村の嫡男三浦泰村一族の対立による宝治合戦が起こり、三浦一族が滅ぼされるが、その時の政村の動向は不明』である。建長元(一二四九)年十二月に引付頭人、建長八(一二五六)年三月には兄重時が出家して引退してしまったために兄に代わって五十二歳で連署となっている(執権経験者が連署を務めた例は他になく、極めて異例であって政村が得宗家から絶大なる信頼を受けていたことの証左である)。文応元(一二六〇)年十月十五日、『娘の一人が錯乱状態となり、身体を捩じらせ、舌を出して蛇のような狂態を見せた。これは比企の乱で殺され、蛇の怨霊となった讃岐局に取り憑かれたためであるとされる。怨霊に苦しむ娘の治癒を模索した政村は隆弁に相談』、十一月二十七日には『写経に供養、加持祈祷を行ってようやく収まったという。息女の回復後ほどなくして政村は比企氏の邸宅跡地に蛇苦止堂を建立し、現在は妙本寺となっている。このエピソードは『吾妻鏡』に採録されている話で、政村の家族想いな人柄を反映させたものだと評されている』。第七代執権当時、『時宗は連署となり、北条実時・安達泰盛らを寄合衆のメンバーとし、彼らや政村の補佐を受けながら、幕政中枢の人物として人事や宗尊親王の京都更迭などの決定に関わった。名越兄弟(兄・朝時の遺児である北条時章、北条教時)と時宗の異母兄北条時輔が粛清された二月騒動でも、政村は時宗と共に主導する立場にあった。二月騒動に先んじて、宗尊親王更迭の際、奮起した教時が軍勢を率いて示威行動を行った際、政村は教時を説得して制止させている』。文永五(一二六八)年一月に蒙古国書が到来すると、『元寇という難局を前に権力の一元化を図るため』に、同年三月に執権職を十七歳の時宗に移譲、既に六十三歳であった政村は『再び連署として補佐、侍所別当も務め』た。『和歌・典礼に精通した教養人であり、京都の公家衆からも敬愛され、吉田経長は日記『吉続記』で政村を「東方の遺老」と称し、訃報に哀惜の意を表明した。『大日本史』が伝えるところによると、亀山天皇の使者が弔慰のため下向したという。連署は兄重時の息子北条義政が引き継いだ』、とある。ある意味で非常に賢明かつ誠実に得宗独占の時代の中を生き抜いた人物と言えよう。

「伊賀式部丞光宗」伊賀光宗(いがみつむね 治承二(一一七八)年~康元二(一二五七)年)は幕府御家人。伊賀朝光の次男。姉妹である伊賀の方が義時の後室となり、自身も政所執事を務めるなど、有力御家人として重用されたが、伊賀の変で信濃国に流された。この時既に四十六歳であったが、その後、政子の死後に罪を許されて所領を回復、寛元二(一二四四)年には評定衆に就任して幕閣への完全な返り咲きを果たした。参照したウィキの「伊賀光宗」の注によれば、『伊賀氏謀反の風聞については北条泰時が否定しており、『吾妻鏡』でも伊賀氏が謀反を企てたとは一度も明言しておらず、政子に伊賀氏が処分された事のみが記されている。伊賀氏の変は、影響力の低下を恐れる政子が義時の後妻の実家である伊賀氏を強引に潰すために創り上げた事件とする見方もある(参考文献:永井晋『鎌倉幕府の転換点 「吾妻鏡」を読みなおす』日本放送出版協会)』とあり、恐らく泰時もそうした真相を知っていたが故に、彼の所領を安堵したものであろう。

「三浦駿河前司義村を語ひ」「政村」の注で示した通り、政村の烏帽子親であったことが謀略への加担の理由の一つではある。

「藤原實雅」公卿一条実雅(さねまさ建久七(一一九六)年~安貞二(一二二八)年)。一条能保の子で従三位・参議。姉婿であった西園寺公経の猶子。先に出た通り、建保七(一二一九)年の実朝の右大臣就任の鶴岡八幡宮参詣に随従、その暗殺を目の当たりにした。『その後、姉の孫にあたる九条頼経が次の将軍に決まったためにそのまま鎌倉に滞在してその補佐を行うこととな』り、貞応元(一二二一)年には『参議に任じられ、執権北条義時の娘を妻に迎えた』が、この伊賀氏の変で、『実雅を頼経に代わる新将軍に立てようとしていたことが発覚、妻と離別させられた上で越前国に流刑となった』。四年後、『配流先で変死を遂げたとされる』(注に「尊卑分脈」では「河死」とあるとあり、河川で溺死したものか? 孰れにせよ、怪しい変死ではある)。頭に「義村が婿」とあるのは誤り。

「二位禪尼、聞付けて使を以て政村が館の騷動をぞ靜められける」この記事、出所不明。「吾妻鏡」にはない。不審。

「相摸守時房の一男、掃部助時盛、武藏守泰時の一男武蔵太郎時氏を京都に上洛せしめらる」以下にあるように、時房・泰時の代わりの六波羅探題南北両方の統轄職として派遣されたことを指す。

「大名小名」鎌倉時代には既にあった呼称で、「大名」は大きな所領を有し、多くの家の子・郎党を従えた有力武士や御家人を指し、「小名」は平安中期以降に小さな名田(荘園や国衙領の構成単位を成す田地で、開墾・購入・押領などによって取得した田地に取得者の名を冠して呼んだ)を持つものの、名の知られていない中弱小の武家や武士集団を指す。

 

 以下、「吾妻鏡」貞応三(一二二四)年六月二十六日から二十九日までを総て連続して示す。ここでは簡単な私の割注を《 》で書き下し文に入れた。

 

〇原文

廿六日壬辰。天晴。二七日御佛事被修之。大進僧都觀基爲唱導云々。今日未尅。武州(泰時)自京都下著。先宿于由比邊給。明日可被移正家云々。去十三日飛脚。同十六日入洛之間。十七日丑尅出京云々。又相州〔時房。十九日出京〕幷陸奥守義氏等同下著云々。

廿七日癸巳。天晴。依爲吉日。武州被移鎌倉亭。〔小町西北〕日者所被加修理也。關左近大夫將監實忠。尾藤左近將監景綱兩人宅。在此郭内也。

廿八日甲午。武州始被參二位殿御方。觸穢無御憚云々。相州。武州爲軍營御後見。可執行武家事之旨。有彼仰云々。而先々爲楚忽歟之由。被仰合前大膳大夫入道覺阿。覺阿申云。延及今日。猶可謂遲引。世之安危。人之可疑時也。可治定事者。早可有其沙汰云々。前奥州禪室卒去之後。世上巷説縱横也。武州者爲討亡弟等。出京都令下向之由。依有兼日風聞。四郎政村之邊物忩。伊賀式部丞光宗兄弟。以謂政村主外家。内々憤執權事。奥州後室〔伊賀守朝光女〕亦擧聟宰相中將實雅卿。立關東將軍。以子息政村。用御後見。可任武家成敗於光宗兄弟之由。潜思企。已成和談。有一同之輩等。于時人々所志相分云々。武州御方人々粗伺聞之。雖告申。武州稱爲不實歟之由。敢不驚騷給。剩要人之外不可參入之旨。被加制止之間。平三郎左衞門尉。尾藤左近將監。關左近大夫將監。安東左衞門尉。萬年右馬允。南條七郎等計經廻。太寂莫云々。

廿九日乙未。寅刻。掃部助時盛。〔相州一男〕武藏太郎時氏〔武州一男〕等上洛。〔去廿七日出門〕兩人共就世上巷説。雖稱可在鎌倉之由。相州。武州被相談云。世不靜之時者。京畿人意。尤以可疑。早可警衛洛中者。仍各首途。相州。當時於事不被背武州命云々。」今日。無六月秡。依觸穢也。天下諒闇之時不被行之由。及御沙汰云々。

廿九日乙未。寅刻。掃部助時盛〔相州一男〕、武藏太郎時氏〔武州一男〕等上洛〔去廿七日出門〕。兩人共就世上巷説。雖稱可在鎌倉之由。相州。武州被相談云。世不靜之時者。京畿人意。尤以可疑。早可警衞洛中者。仍各首途。相州。當時於事不被背武州命云々。今日。無六月祓。依觸穢也。天下諒闇之時不被行之由。及御沙汰云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿六日壬辰。天、晴る。二七日の御佛事、之れを修せらる。大進僧都觀基、唱導たりと云々。

今日、未の尅《午後二時頃。》、武州、京都より下著す。先づ由比の邊に宿し給ふ。明日、正家(しやうか)に移らるべしと云々。

去ぬる十三日の飛脚、同じく十六日に入洛するの間、 十七日、丑の尅《午前二時頃。》、出京すと云々。

又、相州〔時房。十九日に出京す。〕幷びに陸奥守義氏《足利義氏。》等、同じく下著すと云々。

 

廿七日癸巳。天、晴る。吉日たるに依つて、武州、鎌倉亭〔小町の西北。〕に移らる。日者(ひごろ)、修理を加へらるる所なり。關左近大夫將監實忠・尾藤左近將監景綱兩人の宅、此の郭内に在るなり。

 

廿八日甲午。武州、始めて二位殿の御方へ參らる。觸穢(しよくゑ)の御憚り無しと云々。

相州、武州軍營の御後見として、武家の事を執り行ふべきの旨、彼(か)の仰せ有りと云々。

而るに、

「先々(さきざき)、楚忽たるか。」

の由、 前の大膳大夫入道覺阿に仰せ合はさる。覺阿、申して云はく、

「延びて今日に及ぶ、猶ほ遲引と謂ひつべし。世の安危、人之疑うべき時なり。治定(ぢぢやう)すべき事は、早く其の沙汰あるべし。」

と云々。

前の奥州禪室《義時》卒去の後、世上の巷説、縱横なり《流言飛語の甚だしきをいう。》。

「武州は弟等を討ち亡ぼさんが爲(ため)に、京都を出でて下向せしむるの由、兼日の《以前からの。》風聞有るに依つて、四郎政村の邊、物忩(ぶつそう)《物騒に同じ。》。伊賀式部丞光宗兄弟、政村主(ぬし)の外家《外戚。》と謂ふを以つて、内々執權の事を憤り、奥州後室〔伊賀守朝光が女(むすめ)。〕亦、聟の宰相中將實雅卿を擧(こ)して、關東將軍に立て、子息政村を以つて、御後見を用ゐ、武家の成敗(せいばい)を光宗兄弟に任(まか)すべきの由、潜かに思ひ企つ。已に和談を成し、一同するの輩等(やからら)有り。時に人々の志すところ、相ひ分かると云々《最後の部分は謀叛方の内実が一枚板ではなかったこと、それぞれの思惑に激しい温度差があったことを語っている。》。

武州の御方の人々、粗(ほ)ぼ之を伺ひ聞きて、告げ申すと雖も、武州、

「不實たるか。」《「それは事実ではあるまいよ。」》

の由を稱し、敢へて驚き騷ぎ給はず。剩(あまつさ)へ、要人の外、參入すべからざるの旨、制止を加へらるるの間、平三郎左衞門尉《平盛綱。》・尾藤左近將監《尾藤景綱。》・關左近大夫將監《関実忠。》・安東左衞門尉《安東光成。》・萬年右馬允《不詳。》・南條七郎《南条時員(ときかず)。》等、計(ばか)り經廻(けいくわい)し《だけを側におかれたばかりで》、太(はなは)だ寂莫(じやくまく)《すこぶるひっそりとして寂しい限りであることを謂うが、ここは謀叛勃発の危機管理から見て異例なことに警護が手薄であることを指していよう。》と云々。

廿九日乙未。寅の刻《午前四時頃。》、掃部助時盛〔相州一男。〕、武藏太郎時氏〔武州一男。〕等、上洛す〔去る廿七日、出門す。〕。兩人共に世上の巷説に就きて、鎌倉に在るべきの由稱すと雖も、相州・武州、相ひ談じられて云はく、

「世、靜かならざる時は、京畿(けいき)の人意、尤も以つて疑ふべし。早く、洛中を警衞すべし。」

てへれば、仍つて各々首途(かどで)す。相州、當時、事に於いて武州の命に背かずと云々。

今日、六月祓(みなづきはらへ)無し。觸穢に依りてなり。天下諒闇(りやうあん)《狭義には天皇がその父母の死に対して喪に服する期間をいう。》の時は行はれざるの由、御沙汰に及ぶと云々。]

2014/09/10

大和本草卷之十四 水蟲 介類 貝子(タカラガイ)

 

貝子 其大サ大拇指ノ如ク長サ一寸ハカリ白キ小貝ナリ

腹兩方に開キテ相向フ處齒ノ如シ熊野浦ニアリ本草

ニノセタリ説文曰古者貨貝至秦癈貝行錢。

○やぶちゃんの書き下し文

貝子(たからがい) 其の大いさ、大拇指〔(だいぼし)〕のごとく、長さ一寸ばかり、白き小貝なり。腹、兩方に開きて相ひ向ふ處、齒のごとし。熊野浦にあり。「本草」にのせたり。「設文」に曰く、『古〔いにし〕への貨貝。秦に至りて貝を癈して錢を行ふ』と。

[やぶちゃん注:腹足綱直腹足亜綱 Apogastropoda 下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ超科タカラガイ科 Cypraeidae に属するタカラガイ類の総称。

「大拇指」親指。

「一寸」三・〇三センチメートル。タカラガイの小型種では長軸が五ミリメートルほどのものもあるが、本邦で貝細工として最も見かけることの多いタカラガイ属ホシダカラ Cypraea tigr などの大型種の成体個体のそれは標準で十一センチメートルほどで、時には十五センチメートルを超えるものもある。

「白き小貝」やや気になる。全くの白色のタカラガイというのは実はあまりない。敢えていうならタカラガイ上科ウミウサギガイ科ウミウサギ属マメウサギ Calpurnus ( Procalpurnus ) lacteus 辺りであるが、ウミウサギ類は殻口縁(歯)が刻まれなかったり、刻まれても外唇(底部正面向かって右側)のみで、しかも殻口がタカラガイのように中央位置ではなく外唇側、右に著しく偏って開口する点で、少なくとも本種と合致しない(成長過程の子貝の可能性はあるか)。私が最初に考えた同定候補は大きさと見た目の白さという点、私も本州中部以南のいろいろな所で採取したことがある馴染みという体験からタカラガイ科コモンダカラ亜科 Erosariini 族キイロダカラ Monetaria moneta であったが、もしこれだとすると、殻表にある特有の瘤や背面にある灰黒色の三本の横帯模様が記されて然るべきとは思うのである(但し、益軒は実際の貝殻標本を見ていない可能性も高い)。

「説文」後漢の許慎作の最古の部首別漢字字典「説文解字」。

「古への貨貝。秦に至りて貝を癈して錢を行ふ」ウィキの「タカラガイ」には、『キイロダカラなどの貝殻は、アフリカ諸国では何世紀にも渡って貨幣(貝貨)として用いられてきた。特に西欧諸国による奴隷貿易に伴い、モルディブ諸島近海で採集された大量のタカラガイがアフリカに持ち込まれた』。『現在のガーナの通貨であるセディ(cedi)は、現地の言葉(Akan)でタカラガイ(の貝殻)を意味する。最古の貝貨は中国殷王朝時代のもので、タカラガイの貝殻やそれを模したものが貨幣として使われていた』。『国内の通貨としてのみならず、タカラガイはインドとの交易にも利用された。漢字の「貝」はタカラガイに由来する象形文字であり、金銭に関係する漢字の多くは部首として貝部を伴う』とある。但し、『古代中国のタカラガイは貨幣ではなく、相手の繁栄を願って遣り取りされた宗教的な意味での贈与物であったとする異説もある』という附記もあるので注意されたい。以下、非常に興味深く、コンパクトながら勘所を摑んだ記載なので、最後まで「利用」の部を引用しておく。『北アメリカのインディアンの部族であるオジブワ族は、タカラガイの貝殻を "Megis Shells" もしくは "whiteshell" と呼んで神聖なものとみなし、ミデウィウィン(Midewiwin)という部族組織の儀式で用いていた。カナダマニトバ州にあるホワイトシェル州立公園(Whiteshell Provincial Park)はこの whiteshell にちなんで名付けられている。しかしタカラガイの産地から遠く離れているオジブワ族が、どうやってタカラガイを得ていたのかという点については議論がある。口伝や同族の巻物(Wiigwaasabak)によれば、地中から掘り出されたり湖や川の辺に打ち上げられたものであるという。このように産地から離れた場所で貝殻が発見されることは、その土地の先住民族が非常な広域に渡る交易網を持っており、貝殻を得て利用していたことを示唆している。ホワイトシェル州立公園の岩盤面に残された居住痕はおよそ8000年前のものと言われている。この土地でどれくらいの間、タカラガイが使われていたのかは定かでない』。『タカラガイの貝殻はまた女性、繁栄、生誕、富などの象徴とされ、装身具やお守りとして身に着けられる』。『こうしたタカラガイに対するシンボリズムは、貝殻の形状が妊婦の腹のようであることや、下面から見ると女性器や目を連想させることに由来している』。『フィジー諸島では、ナンヨウダカラの貝殻に穴を開けて紐を通し、首長・族長はこれを身分証として首から提げた』。『単に貝殻の形状を利用する例として、ボードゲームや占いにおいてサイコロのような使われ方をする場合もある。複数個の貝殻を投げ、開口部が上を向いたものの数を乱数として利用する。またホシダカラのような大型のタカラガイの貝殻は、近代までヨーロッパにおいて靴下のかかとを修繕する際の内枠として使われていた。タカラガイの滑らかな表面が、布地の下に置いて針を通す位置を決めるのに都合が良かったとされる』。『日本でも、縄文時代の遺跡から装身具として用いられたものが出土している。また、沖縄諸島の祝女が首にかけて宗教的な意味を持つ呪物として用いたほか、『竹取物語』にも珍宝「燕の子安貝」として登場している』。『タカラガイの貝殻は何層にも重ねられた殻層によってその種に特有の色彩や斑紋が現れるため、海岸に打ち上げられて摩滅したり塩酸で処理された貝殻では、下の色層が露出して全く別の種に見える場合がある。これを利用して成長の過程を観察したり、様々な深さに殻表を彫ることで色調を変えたカメオのような装飾品とすることもある』。『キイロタカラガイを加工して、特に黄色は好運、幸福を意味するとして、お守りとして沖縄県で、販売されている』。なお、私のような貝類コレクター(今は多くを教え子にあげてしまい、殆んど所持していないが)では、タカラガイだけをコレクションする人もいるほど、人気の貝である。]

飯田蛇笏 山響集 昭和十二(一九三七)年 冬 Ⅳ 季節の窓

 季節の窓

 

   田盧和樂圖

 

ひめむかふわうじに蚊帳の靑がすみ

 

[やぶちゃん注:「田廬」は「デンロ」と音読みしていようが、これは「たぶせ」(田伏せ)のことで、田の傍らに設けた見張り番の番小屋のことをいう。in*ok*5*0氏の「句集『山響集』(21)(飯田蛇笏全句集より)昭和十二年年(18)冬(10)」に角川書店発行の新編「飯田蛇笏全句集」よりとして、

 

ひめむかふ王子に蚊帳のあをがすみ

 

とあるから、この「ひめむかふわうじに」は「姫迎ふ皇子(又は王子)に」であろう。前書は如何にも何かの画題と思しいが、今一つ、句柄のシチュエーションを私は想起出来ない。古代万葉の時代詠なのか、それとも自身と妻を擬えたものか。識者の御教授を乞うものではある。]

 

   苑囿花卉

 

聖鐘に休息(やすらひ)の窓茄子咲けり

 

[やぶちゃん注:「苑囿」は「ゑんいう(えんゆう)」と読む。園囿。「囿」は鳥獣を放し飼いにする所の意で、草木を植えて鳥や獣を飼っている所。これもロケーションが特定出来ない。]

 

柳絮追ふ家禽に穹は夕燒けぬ

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「柳絮」は「りうじよ(りゅうじょ)」と読み、白い綿毛のついた柳の種のこと。また、それが春に飛び漂うことをいう。春の季語。「穹」は「そら」と読む。]

 

家畜倦み山風なごむ韮畠

 

鐵扉透く樹々黝(あをぐろ)く夏の花卉

 

蘭を愛で薄暑の葉卷くゆらする

 

草にねて山羊紙喰めり紅蜀葵

 

[やぶちゃん注:「紅蜀葵」は「こうしよくき(こうしょっき)」と読み、アオイ目アオイ科フヨウ属モミジアオイ Hibiscus coccineus の別名。ウィキの「モミジアオイ」によれば、北米原産で、背丈は一・五~二メートルほどになり、ハイビスカス(日本ではこのフヨウ属 Hibiscus の熱帯性・亜熱帯性の幾つかの種が特に「ハイビスカス」と呼ばれて南国のイメージを持った植物として広く親しまれているが、ご覧の通り、フヨウ属 Hibiscus の属名が「ハイビスカス」の語源である。ウィキの「ハイビスカス」の注に、このフヨウ属の属名 Hibiscus については、『hibiscum (ヒビスクム)または hibiscus (ヒビスクス)は古いラテン語で、タチアオイの仲間を指す言葉であった』が、近代に入ってアオイ科ビロードアオイ属タチアオイ Althaea rosea 『と同じアオイ科に属する別の仲間』である『フヨウ属を指す学名へと転用された』とある)のような花を夏に咲かせる。茎はほぼ直立し、触ると白い粉がつく。木の様に硬い。同じ科のフヨウ Hibiscus mutabilis に似るが、花弁が離れている点が異なる。和名のモミジアオイは、葉がモミジのような形であることによる。花をイメージ出来ない方はグーグル画像検索「モミジアオイ」を参照されたい。]

 

山梔子の花咲き閨の月羸(や)せぬ

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「山梔子」は「くちなし」と読み、リンドウ目アカネ科サンタンカ亜科クチナシ連クチナシ Gardenia jasminoides のこと。]

 

  凶土哀曲

 

夜陰より癩者(かつたい)も出て雨祈る

 

[やぶちゃん注:「凶土」とは元来は中国で征服者に恭順しない民や地方のことをいうが、ここは現に恐るべき旱魃に襲われているところの、蛇笏の棲める甲府の地方を指していよう。「癩者(かつたい)」ハンセン病患者の古称。差別用語で現在は使用すべきではない。ウィキの「かったい」によれば、『ハンセン病に感染し、明らかにそれとわかる「らい腫」(らい結節)が現れ、あるいは末梢神経の知覚異常によって外傷を避けられず繰り返し受け、その瘢痕によって健康な頃に比べて風貌が著しく変わってしまった人を呼んだ、古典的呼称である。明治期になり、政府が法令によって隔離政策をとるようになると、漢語由来の医学用語としての「癩病」が普及するようになるが、戦後まで「かったい」が用いられていた地方もあ』った(鎌倉時代、忍性はハンセン病患者を中心にした救済活動に従事したが、彼が住持であった鎌倉の極楽寺は永く「かったいぼ寺」と呼称され、私も小さな時分、その呼称を大人たちの会話の中で耳にしている)。『この病気は感染症ではあるが、感染から発症までに数十年かかったり、一生キャリア(保菌者)として発病しない人もある。また感染力も低く病気の致死性もほとんどないものの、身体の外見上の変形を伴う重い後遺症を残すため、何かと特別視されることの多い疾患であった。そのため江戸時代以前の伝統社会では、一般の感染症のように「はやり病」の概念ではとらえられず、仏教がインド思想から日本に持ち込んだ六道輪廻説、あるいは日本古来の穢れ思想などの影響から、業病、つまり前世における悪業の報いでなるとする考えが、社会通念化していた』。『江戸いろはがるたの「か」は、「かったいのかさうらみ」で、これは齋藤孝『声に出して読みたい日本語』にも載っている(ただしこの項目だけ解説なし)が、意味は、鼻が曲がり、目も潰れてしまった重症のハンセン病患者は、健康な人よりも、むしろ鼻がかけたくらいですんでいる梅毒の患者のほうを、より恨めしく、あるいはねたましく思うという意味である』とある。]

 

田子の膳社日の德利たちにけり

 

[やぶちゃん注:「田子」は「たご」で田を耕す農夫のこと。「社日」は「しやにち(しゃにち)」で雑節の一つ。産土神(生まれた土地の守護神)を祀る日のこと。ウィキの「社日」によれば、春と秋にあり、春のものを春社(しゅんしゃ/はるしゃ)、秋のものを秋社(しゅうしゃ/あきしゃ)ともいう。『社日は古代中国に由来し、「社」とは土地の守護神、土の神を意味する』。『春分または秋分に最も近い戊(つちのえ)の日が社日となる』。但し、『戊と戊のちょうど中間に春分日・秋分日が来る場合(つまり春分日・秋分日が癸(みずのと)の日となる場合)は、春分・秋分の瞬間が午前中ならば前の戊の日、午後ならば後の戊の日とする。またこのような場合は前の戊の日とする決め方もある』。『この日は産土神に参拝し、春には五穀の種を供えて豊作を祈願し、秋にはその年の収獲に感謝する。また、春の社日に酒を呑むと耳が良くなるという風習があり、これを治聾酒(じろうしゅ)という。島根県安来市社日町などが地名として残っている』。本句に「德利」が出るのもこの治聾酒に関わる。]

 

早乙女の小鈴を鳴らす財布かな

 

耕耘に曇るつゆ草瑠璃褪せず

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「耕耘」は「こううん」、耕運機のそれで、「耘」は草を刈る意。田畑を耕して雑草を取り去ること(転じて、広く、耕して作物を作ること全般を言うようになった)。]

 

蠅とびて笹葬ひの枕經

 

[やぶちゃん注:「笹葬ひ」は「ささとむらひ」と読むのであろうが、不詳。これは酒の女房詞の「笹」で、酒を酌み交わす弔問の謂いか。識者の御教授を乞うものである。「枕經」は「まくらきやう/ぎやう(まくらきょう/ぎょう)」で、本来は臨終に近い人に不安にならぬように案内(あない)として枕元で死を看取りつつ、経をあげることを言う。近現代では死後最初に行われる仏事として死者に初めて経を聞かせる儀式となっている。]

 

麥秋の米櫃におく佛の燈

 

  水陸輪奐

 

爬蟲らに嶽麓の花つゆむすぶ

 

[やぶちゃん注:「輪奐」は「りんくわん(りんかん)」と読み、「輪」は高大、「奐」は大きく盛んな意で、一般には建築物などが広大で立派なことをいう語。但し、ここは「嶽麓」(がくろく)とあるから、峨々たる高山の川も含めた麓からの広角の全景の形容であろうかと思われる。]

 

船旅の灯に聖母像と濃紫陽花

 

[やぶちゃん注:中七の読みが不審で調べると、jin*ok*5*0氏のブログ「日々の気持ちを短歌に」の「句集『山響集』(23)(飯田蛇笏全句集より)昭和十二年(二十)冬(十二)」に角川書店発行新編「飯田蛇笏全句集」を底本とした本句が載り、そこには、

 

船旅の燈にマドンナと濃紫陽花

 

とある。しかしルビなしで「聖母像」をマドンナと読めというのは少し無理があるように思われる。]

 

水浴に綠光さしぬふくらはぎ

 

種痘針きみこまかなる娘をさしぬ

 

綾羅着て隱亡の娘が出かけけり

 

[やぶちゃん注:「綾羅」は「りようら(りょうら)」綾絹と薄絹。転じて美しい衣裳の意。「隱亡」戦後まで火葬場において死者を荼毘に付し、遺骨にする仕事に従事する作業をなす人を指した差別語。「隠坊」「御坊」とも表記し、地域によっては「オンボ」とも呼称した。参照したウィキの「隠亡」によれば、『一昔前は、この職業は現在で言う被差別部落出身者が大半だったため、軽蔑的に用いられることも多く、現在は差別用語とされ用いられなくなっている。一般には、『斎場職員』もしくは『火夫(かふ)』と呼ばれている』。『中世から江戸時代までは、えた(穢多)やひにん(非人)とはまた違った賤民階級で、寺院や神社において、周辺部の清掃や、墓地の管理、とくに持ち込まれる死体の処理などに従事する下男とされていた』とある。本句も確信犯で「隱亡」に差別的視野が働いており、一読、厭な感じの句である。]

 

胡弓とる牧婦火に寄る梅雨入かな

 

[やぶちゃん注:「梅雨入」は「ついり」と読む。]

 

近山に奥嶺は梅雨の月盈ちぬ

 

[やぶちゃん注:「近山(ちかやま)に奥嶺(おくね)は梅雨(つゆ)の月(つき)盈(み)ちぬ」と読むか。]

 

莨すふ燐寸の火おもき白蚊帳

 

大串に山女魚(やまめ)のしづくなほ滴るゝ

 

  山廬立夏

 

三日月に淸宵の鷺巣ごもりぬ

 

[やぶちゃん注:昭和一二(一九三七)年の立夏は五月六日であった。老婆心乍ら、「淸宵」は「せいせう(せいしょう)」で、夜気のさわやかな宵(よい)を指す。]

橋本多佳子句集「海彦」 夏書の筆

 夏書(げがき)の筆

 

[やぶちゃん注:「夏書」とは本来は夏安居(げあんご:インドの僧伽に於いて雨季の間は行脚托鉢を休んで専ら阿蘭若(あらんにゃ:寺院)の内に籠って座禅修学することを言った。本邦では雨季の有無に拘わらず行われ、多くは四月十五日から七月十五日までの九十日を当てる。これを「一夏九旬」と称して各教団や大寺院では種々の安居行事がある。安居の開始は結夏(けつげ)といい、終了は解夏(げげ)というが、解夏の日は多くの供養が行われて僧侶は満腹するまで食べることが出来る。雨安居(うあんご)若しくはただ安居ともいう。ここは平凡社「世界大百科事典」の記載をもとにした。)の期間中に経文を書写すること、また、その書写した経文をいう語。第三句から実際の経文の書写を多佳子がしていた事実があるのであろうが、それ以上にそらくは以下の句作をその書写に擬えたものででもあったのであろう。]

 

炎天や笑ひしこゑのすぐになし

 

踊り唄終りを始めにくりかへし

 

夏書の筆措けば乾きて背くなり

 

ひしひしと声なき青田行手に満ち

 

舷燈の一穂(すゐ)に火蛾海渡る

 

万緑や石橋に馬乗り鎮むる

 

   誓子先生と名張の藤堂氏を訪ふ 三句

 

トンネルに眼つむる伊賀は万緑にて

 

明けて覚めをりひとの家の蚊帳に透き

 

螢火の一翔つよく月よぎる

 

[やぶちゃん注:年譜の昭和二八(一九五三)年六月の条に『名張へ螢狩に行く。女性らのほかに、誓子、静塔、薫参加、藤野弥生居に一泊』とある。「薫」は堀内薫、藤野弥生は俳人(詳細不詳。しかし「藤堂氏」というのと「藤野」の齟齬が気に掛かる)。「一翔」は「ひととび」と訓じているか。]

杉田久女句集 270 花衣 ⅩⅩⅩⅧ  水郷遠賀 三句 菱採ると遠賀の娘子裳濡づも 他

  水郷遠賀 三句

 

菱實る遠賀の水路は縱横に

 

菱採ると遠賀の娘子(いらつこ)裳(すそ)濡(ひ)づも

 

菱摘むとかゞめば沼は沸く匂ひ

 

[やぶちゃん注:菱採りの乙女の裳裾が「濡」れるというのは、坂本宮尾が「杉田久女」で述べておられるように、万葉以来の官能的な美の慣用表現で、情熱の女人久女の面目躍如たる三句である。宮尾氏のよれば、名吟「菱採ると」の句は、何度も推敲を重ねているとある。それらを宮尾氏の記載に従って復元してみると、

 

菱採ると遠賀の乙女は裳濡づも

 ↓

菱採ると遠賀の乙女ら裳濡づも

 ↓

菱採ると遠賀の娘子裳濡づも

 

はとなる。宮尾氏は『「乙女は」は説明的だ。「乙女ら」よりも「娘子」の方が字面がいい。そのため久女は最終的に娘子を採用したのであろう』とされ、但し、『久女は「娘子」に「いらつこ」のルビをふっているが、辞書には「いらつこ」とは若い男のこと、若い女は「いらつめ」とある。そうなるとこの読みには無理がありそうだ』と附記しておられる。しかし、この句、その瑕疵を補って十分に素晴らしいと私は思う。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 モースの明治の帝都東京考現学(Ⅳ)歳の市にて

 今月(十二月)は、各所の寺院の近くで、市がひらかれる。売買される品は、新年用の藁製家庭装飾品、家の中で祭る祠、子供の玩具等である。大きな市はすでに終り、今や小さい市が、東京中いたる所で開かれる。このような屋外市につどい集る人の数には、驚いて了う。我々は屋敷から余り遠くないお寺で開かれた市に行って見た。路の両側には小舎がけが立ち並び、人々はギッシリつまり、中には買った物を僧侶に祝福して貰うべく、それがつぶされるのを防ぐ為に、頭上高くかかげてお寺へ向う者も多い。このような祭で売られる物が、すべて子供の玩具か、宗教的又は半宗教的の装飾物か、彼等の家庭内の祠に関係のある物かであるのは、興味が深かった。米国から来る新聞に、宣教師達が寄稿した、寺院は荒廃し、信仰は死滅しつつあるという手紙が出ているのを読み、そこで寺院に毎日群衆が参詣し、寺院は瓦を葺きかえられ、修繕され、繁栄のあらゆる証拠を示しているという実際の事実を目撃する時、私はこんな虚偽の報告に、呆れ返って了う。

[やぶちゃん注:キリスト嫌いのモース先生の皮肉、炸裂! いいね!]

生物學講話 丘淺次郎 第十一章 雌雄の別 四 外觀の別 (1)

     四 外觀の別

Mtamagokani

[卵をつけた「かに」]

 

[やぶちゃん注:底本よりも細部が確認出来る、国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、補正をした。謂わずもがなであるが、右下のひっくり返った個体の抱卵しているのがよく分かる。]

 

 動物の中には、雌雄の色、形などが著しく違うて、そのため遠方からでも容易に性の識別の出來るものが尠くない。獸類では鹿・獅子、鳥類では「くじやく」・雞などが最も人に知られた例であるが、他の類からもこれに似た例を幾らも擧げることが出來る。しかしてかやうなものを集めて通覽すると、雌雄の異なる點が生殖の作用と直接に關係する場合としからざる場合とがあつて、相違の最も著しいものは却つて交接とは直接關係せぬ方面に多い。鹿の角、「くじやく」の尾などはすべてこの部に屬する。

[やぶちゃん注:ここで丘先生が最後に指摘されておられのは、直接の物理的な狭義の交尾行為に限定したもので、所謂、求愛ディスプレイを含めずに述べておられるのであるが、果たしてそれを「相違の最も著しいものは却つて交接とは直接關係せぬ方面に多い」と言い得るのであろうか? 求愛ディスプレイは成功すれば交尾ディスプレイに直ちに移行し、そこでは視覚的なその有意差が交接の完遂に非常に重要な役割を果たすと私は考えるのだが?]

 

 生殖の作用に稍々直接の關係を有する器官が、雌雄によつて著しく相違する例を擧げれば次の如きものがある。淡水に産する「みぢんこ」類を取つて廓大して見るに、雄の顏の前面には嗅感器なる鼻の毛が束を成して長く突き出て居るが、雌ではこれが極めて短いから、鼻の毛の突出する程度を見れば雌雄は直に識別が出來る。いふまでもなく、雄は嗅覺によつて雌の居るところを知りこれに近づくのである。「ひげこめつき」といふ甲蟲もこれと同樣で、雄の觸角が櫛狀を成して著しく立派であるから、鬚さへ見れば雌か雄かは直にわかる。池や沼に住む「げんごらう」といふ甲蟲は、雄の前足は吸盤があつて幅が廣いが雌のは細いから、この點で直に雌雄の識別が出來る。雄はこの吸盤を用ゐて雌の背面に吸ひ著き、體を離さぬやうにする。「きりぎりす」・「くつわむし」の類では雌の體の後端からは長い産卵管が突出し、雄にはこれがないから子供でもその雌雄を知つて居る。「かに」の腹部は前へ折れて體の裏面に密著して居るが、これを俗に「かにの褌」といふ處で、雄は褌の幅が狹く、雌は褌の幅が廣いから、褌の幅さへ見れば「かに」の雌雄は誰にでもわかる。「かに」は卵を産むと、これを體と褌との間に挾み孵化するまで離さぬが、雌の褌の幅の廣いのはそのために都合が宜しい。かやうな雌雄の相違は、或は雌に近づくため或は雌を離さぬため、或は卵を産むため、或は卵を保護するためで、皆生殖の作用と直接關係あるものばかりである。

[やぶちゃん注:「嗅感器」この呼称は現在、用いられていない模様である。というより、ミジンコの有性生殖についての記載はすこぶる少ない(以前に注で述べたように通常のライフ・サイクルでは無性生殖の方が一般的なせいもあるが)。現在、この器官の名称と機能、及び雄による雌の具体的な探索行動(有性生殖のために雄が出現するのにフェロモンが関係している以上、この「嗅感器」もそれを探知するものと思われるのだが)について、識者の御教授を乞うものである。

「ひげこめつき」鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目コメツキムシ上科コメツキムシ科ヒゲコメツキ亜科 Pityobiinaeやオオヒゲコメツキ亜科 Oxynopterinae に属するコメツキムシの仲間。オオヒゲコメツキ亜科ヒゲコメツキ Pectocera fortunei の画像はこちらで(和名ヒゲコメツキは、不審であるが、ヒゲコメツキ亜科ヒゲコメツキ属(実際にある)ではなくてオオヒゲコメツキ亜科であるらしい。ややこしい。「なんじゃ、こりゃ!?」――ジーパン刑事風に――)。

「かにの褌」甲殻亜門軟甲(エビ)綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目 Brachyura に属するカニ類の腹節とそれに続く尾節部分の通称。カニ類ではエビ・ヤドカリ類と異なり、腹部の筋肉が発達せず小さくなって、アサヒガニ等の一部の分類群を除くと頭胸甲の下側に折り畳まれ、有意な運動器官としての尾部先端の尾扇も形成されず、腹肢も交尾と幼生を孵化させる際以外には動かされることはない。それが褌のように見えることからかく呼称する。ここで述べられているように、♂では腹部は幅が狭く、ここに一対の交尾器(腹肢が変形したもの。♂の腹肢は第一節と第二節のみが残る)あるのに対し、♀の腹部は必ず抱卵するために幅が広くなっており、卵を保持支持するために腹脚は第二節から第五節に四対あって内枝外枝が発達し、毛が密生して卵の附着保護に適応している。丘先生の言うようにカニ類の性識別はこの褌と腹肢の有意な違いによって極めて容易である。]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 洲崎

    ●洲崎

洲崎(すさき)は。野島の西瀨戸橋の東の漁村をいふ。太平記及び鎌倉年中行事等の書に洲崎と有は。山内の西に在る者にして。此にはあらずと云。

[やぶちゃん注:現在の金沢区洲崎町一帯。心越の「洲崎晴嵐」の地(晴嵐は晴れた日に山にかかる霞や快風をいう)で江戸時代は名の通り、海に迫り出した崎であったが、現在は都市開発で平坦な海岸線となってしまい、マンションや釣り舟屋が立ち並ぶ(ここの記載は現在の「金沢八景」の写真が並ぶジョシュア氏のブログ「よこはまさんぽ」の金沢八景を訪ねる 後篇に拠った。同氏の金沢八景を訪ねる 前篇と併せて当地所縁の方は必見)。

「太平記及び鎌倉年中行事等の書に洲崎と有は。山内の西に在る者にして。此にはあらず」言わずもがなの、おかしな記事である。こちらは元弘三(一三三三)年五月の鎌倉攻めの激戦地、洲崎の古戦場で、現在の鎌倉市の山崎・寺分・梶原一帯の地域を指す。ちゃんと、金沢の洲崎を描写しなはれや!]

道 遼寧省朝陽郊外にて――教え子が今送ってくれた一枚――

Miti

耳嚢 巻之八 大森村奇民の事

 大森村奇民の事

 

 大森に茶漬やを渡世にせし者の子に市左衞門と云有(いふあり)。往來の遊客賤人に給仕して茶漬を商ふ事を恥(はぢ)て、右茶漬屋の株は人に讓り、聊(いささか)の田畑を調ひ百姓の業(わざ)して貧敷(まづしく)暮しける。茶事(ちやじ)を好み或は歌など讀(よみ)て、誠に泥中の小金(くがね)ともいふべきこゝろ有。人共名を聞(きき)て尋ねけるに、表の茶漬屋に賴みて、高貴の人又は心ある人の尋給はゞしらせくれべし、左(さ)もなき者尋候はゞ留守とこたへよと、かたくいましめ置(おき)ける。或人尋問(たづねとひ)ければ、彼(かの)茶漬やの脇にて差(さし)この半てんを着(ちやく)し藁を打居(うちゐ)たりしが、手ぬぐひを取(とり)、こなたへ入(いら)せ給へと案内せしが、草葺の家ながらいかにもきれいにて、爐には釜もたぎりしが、表の茶漬やより食事は取寄せ會席となし、是(これ)のみ御馳走なりとて、大き成(なる)かれいを煮て給(きふ)し、牡丹餅を菓子として薄茶を奉りしゆゑ、彼人々甚だ感心して厚く禮謝して歸りしが、炭をば彼つゞれ半てんのまゝにて斷をのべて取計(とりはから)ひ、さて後座(ござ)と云べき時は木綿の袷(あはせ)を着替(きがへ)けると也。内田近江守隱居泰山は此道に數寄(すき)なれば、是を聞て尋(たづね)しに、右の通りにてもてなしければ、泰山もことなく感じて厚(あつく)禮謝して、歌一首詠(よみ)て短册を與へける由。これは去る寅年の事にて、文化四年卯年泰山身まかりしを聞て詠(よめ)るよし、かれが認(したため)しを人の見せけるゆゑ、しるし置(おく)。

   春の日のくるゝを見せぬ花のもとにけふは旅寢の宿やからなん、

   とあばらやに御入りの時詠じ給ひしが、はや今年は御筆の跡のみ

   殘り侍りぬ。恐ながら御追善をいとなみ申て

  春の日はくるれば明るたのみあれど君が旅寢のさめぬはかなさ

                         田夫樗月拜

 

□やぶちゃん注

○前項連関:根岸が好きらしい、しばしば掲載される隠棲の数寄の奇人譚の一つ。この市左衛門樗月(ちょげつ)なる人物は不詳乍ら、如何にも羨ましき風流人ではある。こういう心静かに住みなす隠者が大都会の江戸市中にも沢山いた。そういう人々を醸成することを許す、醸成し得る、醸成出来るところの雰囲気、世界、哲学的精神的な時空間が、まだこの江戸後期にはあったということがさらに羨ましい(私は江戸の市井にあって、只管、博物学の随筆でもものしていられたら、どんなにか愉しいだろうと時々妄想することがある)。最後の追善歌も私には素直な和歌と映り、好感が持てる。

・「大森村」東京都大田区大森。東京湾に臨み、古くから農業と漁業(特に海苔)の盛んな地域で、品川宿と川崎宿を結ぶ東海道の街道沿いの村落として賑わった(ウィキの「大森」に拠る)。

・「泥中の小金」底本では「小金」の右に『(黄金)』と補注するので、敢えて「くがね」と読んでおいた。

・「差この半てん」刺子の袢纏。綿布を重ね合わせて一針抜きに細かく刺し縫いにした半纏(半天とも書く。羽織に似ているが、わきに襠(まち)を作らない丈の短い上着。胸紐を附けず、襟を折り返さないで着る。仕事着や防寒着とした他、火消しの法被(はっぴ)などに用いられた。

・「會席」会席料理であるがここは現在の意味としては懐石料理に近い。ウィキの「会席料理」によれば、『会席料理は宴席に供される料理である。本膳料理が廃れた現在、日本料理に於いては、儀式などで出される最も正統な料理形式である。会席とはもともと連歌や俳諧の席のことであり、呼称の似た「懐石料理」と混同されがちだが、ルーツは同じであるものの、近世以降は明確に区別されている。懐石料理は茶を楽しむためのものだが、会席料理は酒を楽しむためのものである。江戸時代には会席が料理茶屋(りょうりぢゃや)で行われるようになり、酒席向きの料理が工夫されるようになった』とある。但し、狭義の「懐石」の原義から見れば、茶漬け屋からの仕出しで、しかも大きな鰈の煮付けとでんとした牡丹餅とあるからには、これ、「懐石料理」というより、やはり正しく「会席料理」というべきか。そのまま後座のそれに早変わりするという、私のような酒好きにはなかなか粋な趣向である。

・「菓子」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『茶子(ちやのこ)』であるが、これも茶菓子の意。

・「後座」茶の湯で、茶事が一通り済んだ後に別室で客に酒肴を出してもてなすこと。

・「内田近江守隱居泰山」底本の鈴木氏注に、『正良。享保十五年生。下総国小見川で一万石。主殿頭、天明二年致仕、泰山と号す。伊勢守はその子正純』とある。同人のウィキには、内田正良(享保一五(一七三〇)年~文化四(一八〇七)年)は下総小見川藩第三代藩主で小見川藩内田家第六代。官位は従五位下・主殿頭(とのものかみ)・近江守。『内田氏の分家である内田正記の次男として生まれる。はじめ同じ分家の内田正伝の養子となっていたが』、宝暦三(一七五三)年に『本家の藩主・内田正美が早世したため、その養子となって跡を継いだ』。同年十二月に叙任、宝暦八(一七五八)年、大坂加番となり、天明二(一七八二)年に長男正純に家督を譲って隠居、文化四年十月十二日に享年七十八で逝去した、とある。「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であり、本文に「去る寅年の事」とあるから、ここに記された泰山の訪問は遡る二年前の文化三年丙寅(ひのえとら)の出来事であったことが分かり、しかも泰山追善の和歌吟詠は文化四年十月十二日以降で、しかも和歌前書に「はや今年は」とあって、和歌がまた「春の日は」とあることから(調べてみると文化五年の立春は一月に入ってすぐ)、このエピソード全体は記載半年程前の非常にホットな内容であったことも判明するのである。因みに岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、この「去る寅年の事」の部分が『去々寅年の事』となっていて、本話の執筆が極めて正確に文化五年のことであったことも逆算出来るのである。

・「春の日のくるゝを見せぬ花のもとにけふは旅寢の宿やからなん、とあばらやに御入りの時詠じ給ひしが、はや今年は御筆の跡のみ殘り侍りぬ。恐ながら御追善をいとなみ申て」和歌は訳すに及ぶまい。しかしこれは和歌だけを取り出して黙って並べたならば、相聞に見紛う。和歌嫌いの私でも、すこぶる附きで好きである。

 春の日の暮るるを見せぬ花の下に今日は旅寝の宿や借らなむ

――と我らが茅屋にお入り遊ばされた折り、忝くも御詠じ遊ばされた――しかし早や、今年は、殿の御筆の跡のみの残って――殿は白玉楼中の人となられました。畏れ乍ら、御追善を営み申し上げて一首――

 春の日は暮るれば明くる頼みあれど君が旅寝の醒めぬ儚さ

                         田夫樗月拝

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 大森村の数寄(すき)の奇人の事

 

 大森に茶漬け屋を渡世致いて御座った者の子(こぉ)に市左衛門と申す者があった。

 往来を行き交(こ)う旅人や民草に給仕など致いて御座ったれど、ある時、かくも賤しき茶漬けなぞを商うことを恥じ、その茶漬け屋の権利は人に譲って、僅かばかりの狭き田畑を、かの茶漬け屋の裏方へ購(あがな)って、そこに己れの食い扶持ばかり、百姓の業(わざ)をなしては貧しく暮して御座ったと申す。

 されどこの市左衛門、殊の外、茶事(ちゃじ)を好み、或いはまた、独学乍らも和歌なども詠みて、まことに――泥中の黄金(くがね)――とも申すべき数寄の心の持ち主で御座った。

 その名を噂に聴きつけ、多くの人どもが彼を尋ねて参ったれど、市左衛門は表の茶漬け屋に、

「――高貴の御仁――或いは心あらん人の、これ、尋ね給はば、お知らせ下され。――また――そのようにも見えざる――噂好みのただの物見の御方の――これ、尋ねて御座ったならば――屹度――留守と――お応えあれかし。よろしいかな。」

と、堅く言い添えて頼みおいたとも申す。

 さて、とある数寄の御仁らが、この市左衛門を訪ねてみたところが、市左衛門は、かの茶漬け屋の脇の空き地にて、刺子の袢纏を着、藁を打ちおったれど、この御仁らの風体を見るや、即座に被って御座った手拭いをとり、

「――さても、こちらへ――入らせ給へ――」

と案内(あない)致いた。

 そこは茶漬け屋の直近に建ったる草葺きの家乍ら、如何にも小綺麗に住みなし、爐には既にして茶の釜も滾(たぎ)って御座った。

 市左衛門、表の茶漬け屋に声を掛け、そこより食事を取り寄せて会席の饗応となし、

「――いや、もう、こればかりが馳走で御座る――」

と、これ、大きなる鰈(かれい)を煮たを一座に給(きゅう)し、また、大きなる牡丹餅(ぼたもち)をば茶菓子となし、薄茶をたてて、各人に奉ったによって、かの数寄の客人らもはなはだ感心致いて、厚く礼謝して帰ったと申す。

 なお、その茶席にては、炭をば、

「――かくも粗末なる綴れ袢纏のままにて失礼仕りまする――」

と接いで、いとも静かに茶事取り計らい、さて、後座(ござ)ともなれば、質素乍らも清き木綿の袷(あわせ)に着替えなして饗応致いたとも申す。

 さても、かの内田近江守正良殿――泰山と号され、その折りには既に隠居なさっておられたが――は茶の湯の道、これ、數寄(すき)の御仁であられたが、この市左衛門がことをお聞き遊ばされ、わざわざ自らお訪ねになられたと申す。

 すると、噂に違わず、まさにその通りのもてなしをし申し上げたによって、泰山殿も殊の外、感銘なされ、手厚き礼謝をなした上、和歌一首をお詠み遊ばされ、短冊をお与えになられたと申す。

 この泰山殿御訪問の儀は、さる二年前の寅年のことで御座って、昨文化四年卯年の十月、泰山殿が身罷られたが、市左衛門、これを承って、悼亡の一首を詠み奉ったと申す。

 市左衛門自身が認(したため)たものを、人の見せて呉れたによって、以下に記しおくことと致す。

   春の日のくるるを見せぬ花のもとにけふは旅寝の宿やからなん、

   とあばらやに御入りの時詠じ給ひしが、はや今年は御筆の跡のみ

   残り侍りぬ。恐ながら御追善をいとなみ申して

  春の日はくるれば明くるたのみあれど君が旅寝のさめぬはかなさ

                         田夫樗月拝

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 70 桃の木の其の葉ちらすな秋の風

本日二〇一四年九月  十日(陰暦では二〇一四年八月十七日)

   元禄二年七月二十七日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月  十日

である。【その二】山中温泉での宿所和泉屋当主満十三歳の久米之助(後、甚左衛門)少年に桃妖の号を与えた際に少年へ与えた句。

 

  加賀山中、桃妖(たうえう)に名をつけ給ひて

桃の木の其葉(そのは)ちらすな秋の風

 

[やぶちゃん注:「泊船集」。「菅菰抄附録」には前の「山中や」の句に続けて載せ、 

  おなじ時期桃妖に名をあたへて

と前書する。底本(岩波文庫中村俊定校注「芭蕉句集」)では『七月廿七日か』と推測してある。

 俳号については前の句の注を参照にされたいが、これが如何に尋常でない格別の計らいであることに、お気づきになられただろうか?……「桃妖」の「桃」は……同時に……芭蕉庵松尾桃青という自身の俳号の一字を取ってもいるのである。「桃青」と「桃妖」……「秋の風」は老年を迎えた芭蕉を容易に通わす……その風に「其」の「葉」を「ちら」してはなるまいよ、と呼びかける芭蕉……「ちら」すまいとする芭蕉の心が動く……

 無論、ここまで芭蕉が惚れ込んだ理由には聡明な美少年であった意外にも、この直前に芭蕉が体験した小杉一笑の死の事実による激しい心傷(トラウマ)が相当に強く影響を与えているものと考えてよい。その尋常ならざる老少不定の心的複合(コムプレクス)が、芭蕉をして「秋の風」を通してダイレクトに響き合うのである。二つの句を並べて見るがよい
 

塚も動け 我が泣く聲は  秋の風

桃の木の 其の葉散らすな 秋の風


――芭蕉切実の愛の命令形――
である……]

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 69 山中や菊はたおらぬ湯の匂ひ

本日二〇一四年九月  十日(陰暦では二〇一四年八月十七日)

   元禄二年七月二十七日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月  十日

である。【その一】この日、芭蕉は山中温泉に到着、八月五日まで八日間も滞在した。山本健吉氏の「芭蕉全句」によれば、宿所は湯本十二軒(山中温泉草創より営む十二の旧家)の一つ和泉屋(現在の温泉街中心部である石川県加賀市山中温泉本町にあった温泉宿。現存しないものの、和泉屋に隣接していた現存する山中温泉最古の建築である宿屋扇屋別荘の建物を移築、芭蕉の資料を展示する芭蕉の館となっている。リンク先は公式サイト)、当主は未だ十四歳(満十三であろう)の久米之助(これは幼名で成人後は甚左衛門と名乗った)という少年で、彼の祖父及び父は貞門の俳人として知られていた。この時、少年久米之助も芭蕉に入門、桃妖(桃夭とも)という号を貰っている。本句はこの少年に与えた句である。

 

山中や菊はたおらぬ湯の匂(にほひ)

 

  山中ノ湯

山中や菊は手折らじ湯の薰(にほひ)

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」、真筆懐紙(勝峰晋風編・昭和五(一九三〇)年刊の真蹟図録集「芭蕉翁遺芳」)には、

  北海の磯傳ひして、加州山中の涌湯(い
  でゆ)に浴ス。里人の曰、このところは
  扶桑三の名湯の其一なりと。まことに浴
  する事しばしばなれば、皮肉うるほひ、
  筋骨に通りて、心神ゆるく、偏に顏色を
  とゞむるこゝちす。彼(かの)桃源も舟
  を失ひ、慈童が菊を枝折(しをり)も知
  らず。

と前書し、文末に『元祿二仲秋日』とある(ここは角川文庫版頴原・尾形訳注「おくのほそ道」に拠った)。これは山中温泉をかの陶淵明の「桃花源之記」の深く迷い行った山中の桃源郷に擬え、更に周の穆(ぼく)王に仕えた侍童菊慈童をも引き出す。この侍童は罪あって南陽郡の酈(れき)県に流されてその地の山中で菊の露を飲み、遂には不老不死の仙童となったという。謡曲に「菊慈童」(観世流の題。他流では「枕慈童」と題する)があり、そこでは周から七百年後の魏の文帝がこの仙童に逢って、童子は菊枕を戴き、帝の七百年の長寿を言祝ぎ、菊を手折って山中へと消えてゆくというストーリーである。まさにこの「山中」温泉の湯は不老不死の妙湯で、かの漁師が桃源郷に行くべき舟などなんのその、菊慈童の手折る菊(古来より菊酒・菊枕など長寿や無病息災の霊能を持つ)の露も不要、というのである。しかもここから、句自体があからさまに「菊」慈童を久米之助に通わせて、しかもやはり見え見えの「菊」「たをらぬ」(正しい仮名遣は「たおらぬ」)「少年」からこれは久米之助少年への――クナーベンリーベ(Knabenliebe)――少年愛の句であることが分かるのである。「扶桑三の名湯の其一」とあるが、一般には「日本三名泉」は有馬温泉(兵庫)・草津温泉(群馬)・下呂温泉(岐阜)、「日本三古泉」は有馬温泉・道後温泉(愛媛)・白浜温泉(和歌山)〔白浜・道後の代わりに下呂や別府等を入れる説もある〕、「枕草子」第百十七段に載る「三大名泉」は榊原温泉(三重)・有馬温泉・玉造温泉(島根)で古来の名湯名数には挙がってこない(個人サイト「名湯・秘湯・立ち寄り湯」のこちらのページを参照させて戴いた)。ウィキの「山中温泉」によれば、開湯から千三百年とされ、『奈良時代行基による開湯伝説も存在する。しかしながら広く知られる開湯伝説は平安時代の開湯とされ、鎌倉武士、長谷部信連は傷を負った白鷺が傷を癒しているところから発見し、あらためて掘ってみたところ温泉が湧き出たと言われる』とあるから古湯であることは確かで、何よりまさに「奥の細道」のこの記載によっても、山中温泉は後世、芭蕉が訪れ、殊の外気に入った名湯として知られるようになったとも言えよう。しかも芭蕉は一見、温泉を好まないことが「奥の細道」全体を読んでいると分かる(但し、この芭蕉の「温泉嫌い」(ウィキにもそうある)というのは、恐らく当時の温泉地の持つ世俗的喧噪や、ある種の猥雑性に対する芭蕉の生理的嫌悪感に基づくものであると私は思っている)。

 第二句目は、「曾良俳諧書留」の句形で、これが初案。明確に、手折るまい、と語りかけた確信犯の強さはよいが、すると上五/中七/下五と三段に切れていかにも句意の優しさと合わない。

 以下、「奥の細道」の「山中の段」。ご覧のように、芭蕉はまたしても時系列操作を行って、あたかも那谷寺を山中へ向かう途中で参詣したかのように改変しているが、事実は山中を発った八月五日の句である。前半については後に「石山の」の句の注で再掲して注する。

   *

山中の温泉に行ほと白根か嶽

跡に見なしてあゆむ左の山際に

觀音堂有花山の法皇三十三所

の順礼とけさせ給ひて後大慈大悲の

像を安置し給ひて那谷と名付給ふと也

那智谷組の二字をわかち侍しとそ

-石さまさまに古-松植ならへて

萱ふきの小堂岩の上に造り

かけて殊勝の土地也

  石山の石より白し秋の風

温泉に浴す其功有明に次と云

  山中や菊はたおらぬ湯の匂

あるしとするものは久米之助とて

いまた小童也かれか父俳諧を好て

洛の貞室若輩のむかし爰に

來りし比風雅に辱られて洛

に歸て貞德の門人となつて世に

しらる功名の後此一村判詞の料を請す

と云今更むかしものかたりとは成ぬ

   *

 

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇那智谷組の二字    → ●那智・谷汲の二字

○好(このみ)て    → ●好み

○むかしものかたり   → ●昔語(むかしがたり)とはなりぬ

 

■やぶちゃんの呟き

「有明」有明は「有間」の誤字。これは決定稿でも残存している不思議な誤記である。有馬温泉のこと。

「貞室」安原貞室(ていしつ 慶長一五(一六一〇)年~延宝元(一六七三)年)は江戸前期の俳人。貞門七俳人の一人。名は正明(まさあきら)、通称、鎰屋(かぎや)彦左衛門、別号は腐俳子(ふはいし)・一嚢軒(いちのうけん)。京都の紙商であった。寛永二(一六二五)年、松永貞徳に師事して俳諧を学び、慶安四(一六五一)年四十二歳で点業(俳諧の点者として興行を生業とすること)を許された。貞門派では松江重頼と双璧を成したが、自分だけが貞門の正統派でその後継者であると主張するなど、同門、他門としばしば衝突した。主に参照したウィキの「安原貞室」によれば、『作風は、貞門派の域を出たものもあり、蕉門から高い評価を受けている』とある。

「久米之助」久米之助は如何にも若年で当主というのが気になるが、石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ「実高ふれ愛隊日記」の隊員NO.5あやかさんの報告になる西島明正氏の講演内容の要約によれば、『まだまだ若い久米之助の後見役をしていたのが、叔父の自笑(じしょう)で』、彼は『加賀の俳壇で人気のあった人で、芭蕉が金沢に着いたとき、金沢まで出かけ、山中温泉に芭蕉を誘ったとも言われてい』るとある。また桃妖は、宝暦元(一七五一)年十二月二十九日、満七十五歳で逝去、桃妖の墓は、今も医王寺にあるとある。高野山真言宗国分山医王寺は加賀市山中温泉薬師町の薬師山にあり、行基開創とし、温泉守護寺として薬師如来を奉っていることから、通称「お薬師さん」として親しまれている。芭蕉の忘れ杖などを所蔵している(山中温泉観光協会公式サイト内の医王寺」に拠る)。この「自笑」は「泉屋自笑」で、『笑江沼郡山中の俳人。桃妖の父又兵衞の弟。又兵衞が桃妖四歲の時死んだからその後見をしたので、春廉集にはいづみや隱居と記されて居る。寶水六年正月十日歿』と「加能郷土辞彙」(昭和一七(一九四二)年金沢文化協会刊。底本と同じ日置謙氏の編になる。国立国会図書館デジタルコレクション)にある。

「かれが父」角川文庫版頴原・尾形訳注には又兵衛豊連(「とよつら」と読むか)とあり、延宝七(一六七九)年没、『ただし、『書留』には「祖父」とする。祖父は又兵衛景連』といい、寛文七(一六六七)年没とある。「曾良俳諧書留」には、

   *

貞室若クシテ彥左衞門ノ時、未廿餘トカヤ、加州山中ノ湯ヘ入テ宿、泉や又兵衞ニ被ㇾ進、俳諧ス。甚恥悔、京ニ歸テ始習テ、名人トナル。一兩年過テ、來テ俳モヨホスニ、所ノ者、布而習ㇾ之。以後、山中ノ俳、點領ナシニ致遣ス。又兵ヘハ今ノ久米之助祖父也。

   *

とある(以上は岩波文庫版萩原恭男校注「おくのほそ道」のデータに、「奥の細道レビュー」の資料を突き合わせたものである)。

「貞徳」貞門俳諧の祖松永貞徳。

「判詞の料を請ずと云」は「はんじのれう(りょう)をうけずといふ」と読む。貞室が点者となって知られるようになってからも、この村からだけは俳諧指導の謝礼を受け取らなかったという、の意。単なる伝承の類いのようには思われる。

 最後に。十三歳の桃妖には、その雅号をつけるに際して詠まれた次に示す「桃の木のその葉散らすな秋の風」という句もあり、また、山中を去るに当たって芭蕉はやはり後掲する「湯の名殘(なごり)今宵は肌の寒からむ」を彼への留別吟としてものしている。これらは皆、恋情の確信犯である。この桃妖という雅号がまさに「妖」しい。山本健吉氏は『水上の』(山中温泉という山中の水上(みなかみ)の、という謂いであろう)『桃花源のあやしい童子』といった謂いであろうとされるが、別に「桃夭」とくれば、これはもう、嫁ぐ若い女性の美しさを桃の実のみずみずしさにたとえた「詩経」の同名の詩も直ちに想起される。ここではその破瓜のイメージを若衆道に反転させればこと足りる。「桃の木のその葉」を「散らすな」という呼びかけと言い、「湯の名殘り」から「今宵は肌の寒からむ」と語りかける妖艶な秋波のポーズといい――本「山中や」から初めて、徹頭徹尾、これはとんでもない十三の少年への禁断に近い危ない恋句群と私は感ずるのである。

 但し、私は個人的にこれらの句群が嫌いではない。但し、上手いとは思わない。それでも、世の俳諧の宗匠(当時、芭蕉は満四十五歳)である何とも浮世離れした壮年の男性から、十三の時にこれらの句を捧げられたら、これは私も天にも昇った気持ちになることは請け合う。芭蕉から句を頂戴するだけでも、凄いことだが、これはまさに恋歌なのだ。

 だが問題は別にある。

……この芭蕉の形振り構わぬホモセクシャルな恋句の連発を前にして……ここまで旅の辛酸や感動をともにしてきた、かの曾良が……とてものことに穏やかでいられたはずが――ない――のだ……

……事実……曾良はまさにこの山中を最後として芭蕉と別行動をとることになるのである……そこはまた、「今日よりは書付消さん笠の露」の句で考えてみたい――]

2014/09/09

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 モースの明治の帝都東京考現学(Ⅲ)羽根突き

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 遊戯は我国に於ると同様、時季に適っていて、只今の所では紙鳶あげ、独楽廻し、追羽子が最もよく行われる。歩いていても、車に乗っていても、よく羽子板で叩かれるが、必ず微笑と謝罪の言葉とがそれに伴う。道具は我々のとは違っている。羽子板は板で出来ていて、その一面には有名な英雄か、あるいは俳優に主題をとった、色あざやかな縮緬のこみ入った押絵がある。羽子板のある物の装飾は、非常に数奇をこらしてある(図476)。羽子はソープベリイの種子の種子(ムクロジ)で出来ていて、その一端では五木の羽毛が羽冠を形成する。これ等は五個を一組とし、竹のへげにはさんで売られる(図477)。これ等を売る店では、目もくらむばかりに美しく羽子を展観し、店外には普通、看板として大きな羽子板が出してある。図478は、好運の神ダイコクである。これは金銀の糸を織り込んだ、美しい色の錦繡の布地から出来上っているが、非常に安い玩具なので、粗末につくってある。図479は、追羽子をしている女の子の態度である。我我の羽子板は、サム、サム、サムという音を立てるが、日本のは固い種子を木の羽子板で打つので、クリック、クリック、クリックと聞える。

[やぶちゃん注:「紙鳶あげ」原文“Kite-flying”。

「独楽廻し」原文“topspinning”。

「追羽子」原文“battledore and shuttlecock”。この二語で現在も「バトミントン」さらには英和辞典自身に本邦の「羽根突き」の訳が載る。“battledore”は元来は古代のラケット・ゲームや十六世紀にフランスの貴族が行った日本の羽子板のように小さなラケットと羽根を突いてプレイしていたものから派生したイギリスのゲームを指し、現在、そこから生まれたバドミントンのプレーヤーが使う柄の長い軽いラケットを指す後者の“shuttlecock”は羽根突きの羽子(はご)やバトミントンのシャトルの意で、コルクにガチョウの羽根を刺して作った羽根が飛ぶさまを、雄鶏(cock)譬えた語である。

「ソープベリイ」原文“soapberry”。底本では直下に石川氏の『〔米国産無患子の一種〕』という割注が入る。“soapberry”はサポニンを多く含み、古くから石鹸として用いられてきたムクロジ目ムクロジ科 Sapindaceae 若しくは同科ムクロジ属 Sapindus の仲間を広く指す語。

「ムクロジ」ムクロジ科ムクロジ Sapindus mukorossi 。英名は“Indian soapberry”。本邦でも石鹸代わりに用いられ、種子は羽根突きの羽根の材料の他、古くより数珠玉に用いられたことから、特に寺院に植えられることが多い。

「我我の羽子板は、サム、サム、サムという音を立てるが、日本のは固い種子を木の羽子板で打つので、クリック、クリック、クリックと聞える。」原文は“Instead of the thum, thum, thum sound of our battledore, the sound of the Japanese game is click, click, click, as the hard seed is struck by the wooden battledore.”。“thum”の方はモースの擬音語のようで、一般的な単語としてはないが、ミツバチのブーンやブンブンに相当する“hun”があり、これに拠るか。“click”は「かちり」「カチッ」に相当する汎用的擬音語。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 モースの明治の帝都東京考現学(Ⅱ)美しい蜜柑籠/不思議な蜜柑の切り方

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 昨日今日市場に出ている蜜柑(みかん)は、すべて我々がタンジェリンと呼ぶ変種で、皮は非常に薄くて容易にむけ、房は殆どバラバラに散る。房が中心で出会っていないので、蜜柑のある物は皮ごしに中心を覗き見ることが出来る。大きさは英国の胡桃(くるみ)位の物から、我国の普通のオレンジ位のものに至る迄、いろいろある。小さい方には種子が無く、非常に大きいのはうまくなくて、装飾として用いられる。蜜柑を進物とする時には、竹製のすかし籠に、非常に奇麗に詰める。これ等の籠には竹の脚が三本ついており、また竹の条片は蜜柑から二フィートも上るまで延びていて、そこで二つの竹の輪によって、一緒にされる(図473)。上には常緑樹の小さな枝をのせ、緑の竹の繊美な薄板の間から蜜柑の濃い色をのぞかせた、かかる典雅な蜜柑容器を、趣深く並べた店は、誠に美しい。蜜柑を切る、面白くて、また解するに苦しむような一方法は、図474で示してある。図475はその半分を、末端から見た所で、点線は切りようを示す。皮がやわらかで、且つ離れやすいから、これをやるのはそれ程六つかしくないが、而も我国では、友人の一人が、あの皮の固いオレンジでこれをやった。

[やぶちゃん注:「タンジェリン」原文“tangerines”。底本では直下に石川氏の『〔モロッコの港市ダンジール産のもの〕』という割注が入る。「ダンジール」はタンジェ(ベルベル語 Tanja ・ポルトガル語 Tânger ・英語 Tangier )。モロッコ北部にあるジブラルタル海峡に面した港町で「タンジール」の表記も一般に行われる。ウィキマンダリンオレンジによればムクロジ目ミカン科ミカン属マンダリンオレンジ Citrus reticulata のうち、成熟した果実の果皮の表面が黄色からやや橙色のかかったものを「マンダリン」と呼び、強い橙色から赤色のものを特に「タンジェリン」と呼ぶとある。また、『マンダリンの原産地はインドのアッサム地方で、これが交雑などで変化しながら世界各地に伝播したものと考えられている。中国経由で日本に伝わったものからウンシュウミカン、一方中東を経て地中海沿岸に伝わったものから地中海マンダリンやクレメンティン(クレメンタイン、英: Clementine)、さらにモロッコからフロリダに伝わったものからダンシータンジェリンといった栽培種が発生している。タンジェリンはマンダリンよりも実が大きく味は薄いが、香りが強い』ともあり、さらに最近では普通に我々が食べる『ポンカンやデコポン(不知火)もreticulata の仲間である』とあるから、モースの言説は全くの的外れではないことが分かる。

「大きさは英国の胡桃位の物から、我国の普通のオレンジ位のものに至る迄、いろいろある。小さい方には種子が無く、非常に大きいのはうまくなくて、装飾として用いられる」「小さい」ものはミカン科キンカン属 Fortunella (但し、種がないわけではない)を、後者の「非常に大き」く「うまくなくて、装飾として用いられる」というのは正月飾り用に用いられるミカン科ミカン属ダイダイ Citrus aurantium を指していよう。

「二フィート」凡そ六十一センチメートル。

 この図474と475を初めて見た時、正直私は、エッシャーの騙し絵か、難解な位相数学の図形かと疑ったものだが、これ、よ~く考えて見ると、出来そう! ネット上にはこんな切り方を実際に写した画像はないんだけれど、今度、やってみようと思う。うまくいったら、写真、アップするね!]

『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 大寧寺

    ●大寧寺

大寧寺は。瀨崎村に在り。海藏山と號す。源範賴の菩提寺なり 開山は千光國師にして。建長寺に屬し。本尊は藥師十二神將とす。當寺の書院は北に向ひ瀨戸の入海を俯瞰して。風光殊に佳なり。

範麓の靈牌は。堂中に置けり。表面に大寧寺殿道悟大禪定門神儀。裏面に範賴公。建久四癸丑年八月と彫刻せり。墓は堂後の山麓にあり。高さ二尺六七寸。五輪の石塔なり。生害の事實は人のよく知る所なれは略す。

[やぶちゃん注:太寧寺の誤り。「新編鎌倉志」「鎌倉覽勝考」「江戸名所図会」孰れも『太寧寺』と標記し、現在も太寧寺である。臨済宗建長寺派。現存するが位置が異なる。本来あったのは平潟湾と野島に面した現在の関東学院大学人間環境学部校舎のある付近(旧地は丘陵部が完全に突き崩されて原型を全く留めていない)。源範頼が瀬ヶ崎に創建した真言宗寺院の薬師寺が元と伝えられ、この寺が後に移転して薬王寺(金沢区寺前に現存)となり、この薬師寺のあった場所に範頼の菩提を弔うために鎌倉時代に範頼の戒名に因んだ太寧寺が開かれたとされている。戦中の昭和十八(一九四三)年に横須賀海軍航空隊追浜飛行場拡張に関わる格納庫の建造目的で、現在ある金沢区片吹に強制移転させられている(以上は主に金沢区観光協会による)。楠山永雄氏の「うらり金沢散歩道」のNO.35 太寧寺の“へそ薬師”」(通称は後述)によれば、昭和一八(一九三三)年、戦局が激化する中、海軍は追浜飛行場の大規模な拡張を強行、当時、瀬ケ崎の山の手にあった太寧寺は、地元民とともに緊急強制疎開の命令を受け、現在地へ慌ただしく移転させられた。範頼の墓は移せたものの、建長寺管長菅原時保の書になる「範頼公七百五十年紀念碑」も、また「赤ひげ」のモデルとして知られる江戸小石川療養所の仁医小川笙船(しょうせん)の当寺にあった墓(遺言による分骨墓)も現在は所在不明のままで(現在ある墓は戦後に新たに建てられたものであるらしい)、『飛行場の埋め立ての際、海にでも沈められたのだろうか』とある。また、戦後も『太寧寺の旧地は、関東学院女子短大の南端の山腹にあったが山全体が丸ごと切崩されてしまい、もはや跡地さえ見ることはできない』というなんとも悲惨な事実が語られてある。楠山氏は『太寧寺にまつわる数々の伝承も、寺の移転とともに次第に忘れ去られてゆく。戦争被害の後遺症はこんなところにまで及んでいたのだ。金沢の伝承が、一つでもわれわれの世代で途切れるとすれば、何んとも残念なことである』と結んでおられる。本文の「當寺の書院は北に向ひ瀨戸の入海を俯瞰して。風光殊に佳なり」という言葉が哀しい。

「源範賴」(久安六(一一五〇)年?~建久四(一一九三)年)の最後については、ウィキの「源範頼」によると、建久四(一一九三)年五月に、『曽我兄弟の仇討ちが起こり、頼朝が討たれたとの誤報が入ると、嘆く政子に対して範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と述べた。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされる。(ただし政子に謀反の疑いがある言葉をかけたというのは『保暦間記』にしか記されておらず、また曾我兄弟の事件と起請文の間が二ヶ月も空いている事から、政子の虚言、また陰謀であるとする説もある)』とあり、その後、八月二日になって『範頼は頼朝への忠誠を誓う起請文を頼朝に送る。しかし頼朝はその状中で範頼が「源範頼」と源姓を名乗った事を過分として責めて許さず、これを聞いた範頼は狼狽』、十日の夜半には範頼家人の当麻太郎が頼朝の寝所の縁の下に潜入、『気配を感じた頼朝は、結城朝光らに当麻を捕らえさせ、明朝に詰問を行うと当麻は「起請文の後に沙汰が無く、しきりに嘆き悲しむ参州(範頼)の為に、形勢を伺うべく参った。全く陰謀にあらず」と述べた。次いで範頼に問うと、範頼は覚悟の旨を述べた。疑いを確信した頼朝』によって十七日、範頼は伊豆国修禅寺に幽閉される。「吾妻鏡」ではその後の範頼の消息は記されないが、「保暦間記」などによれば誅殺されたとし、その可能性は高い。しかし異説として、『修禅寺では死なず、越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説や武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)の吉見観音に隠れ住んだという説などがある。吉見観音周辺は現在、吉見町大字御所という地名であり、吉見御所と尊称された範頼にちなむと伝えられてい』たり、『武蔵国足立郡石戸宿(現埼玉県北本市石戸宿)には範頼は殺されずに石戸に逃れたという伝説がある』ともあり、実はこの墳墓についても、修善寺奇襲から逃れた範頼が何とか兄の疑いを解こうとして戻った範頼は浦郷(現在の横須賀市浦郷町)辺に潜伏したが、討手に発見されて太寧寺の前身で彼の創建になる薬師寺に入って自害したという伝承がある。なお、この墳墓に関わっては範頼の法名を「太寧寺殿道悟大禪定門」とするが、これは後につけられたものか。ウィキでは範頼の正式な戒名を「名巖大居士」としている。

 「新編鎌倉志には、

〇太寧寺 太寧寺(たいねいじ)は、瀨崎村(せがさきむら)の南にあり。海藏山と號す。蒲御曹司(かばのをんざうし)源の範賴の菩提寺(てら)也。開山は千光國師、今建長寺の末寺なり。本尊藥師・十二神、是をへそ薬師と云ふ。【勧進帳】の畧に云、昔し伏見帝、永仁年中に、此村に貧女あり。父母の忌日にあたれども貧しふして佛に供養すべき樣なし。絲をくり、へそとして、これを賣て、父母忌日の佛餉(ぶつしやう)に備へんと思ふ。然れどもたやすく買ふ人なし。或る時童子一人來てこれを買ふ。其の價(あたひ)を以て父母忌日の供養を勤む。不思議の思ひをなしゝ所に、此藥師佛の前に、其へそ多くあり。始て知ぬ如來童女純孝(ぢゆんかう)の志(こころざし)を感じてしかることを。自爾以來、へそ薬師と云ふとあり。鶴が岡の鳥居の前より、此寺まで關東路十里あり。

とある。この「へそ」は「綜麻・巻子」と書き(注:「臍」とは無関係)、「へ」は糸を揃えて合わせる意の動詞「綜(へ)る」の連用形に「麻(そ)」が附いたもので、紡いだ糸を中空の球状に幾重にも巻いたもの。苧環(おだまき)のことで、紡いだ麻糸を織機にかけ易いように巻きつけた糸玉のことを指す。孝心の少女、少年となって現われた薬師如来、貧窮の民を平等に療治した赤ひげ……彼らが、後にこの寺を襲った数奇な運命を知ったら、一体、どう思うであろうか…………

「千光國師」栄西の諡号。

「二尺六七寸」七十九~八十二センチメートル。

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 68 ぬれて行くや人もおかしき雨の萩

本日二〇一四年九月  九日(陰暦では二〇一四年八月十六日)

   元禄二年七月二十六日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月  九日

である。この日、小松滞在中の芭蕉は堤八郎右衛門歓水(「歓水」は連歌の雅号で、俳号は享子)の屋敷に招かれて連句五十韻を興行した。その発句。

  廿六日 同歡水亭會 雨中也

ぬれて行(ゆく)や人もおかしき雨の萩

 

  かゞ小松にて

ぬれて行く人もおかしや雨の萩 

 

  同國小松觀水亭雨中の會

ぬれて行く人もやさしや雨の萩

 

[やぶちゃん注:第一句目は「曾良俳諧書留」の、第二句は「泊船集」の、第三句は「菅菰抄附録」の句形。

 脇句は亭主が、

ぬれて行や人もおかしき雨の萩         芭蕉

  すゝき隱(がくれ)に薄葺(すすきふく)家 享子

と付けている。「人」は自身を含んだ連座の俳衆の客観表現。雨もまた奇なりと歓水の前庭を雨中に巡って濡れつつうち興ずる自身の姿を「おかしや」と詠んだのである。前日二十五日の鼓蟾と同じく連歌畑の相手であることを意識して脇が付けやすいようにした素直な挨拶句である。]

2014/09/08

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 67 小松 しほらしき名や小松吹く萩すゝき

本日二〇一四年九月  八日(陰暦では二〇一四年八月十五日)

   元禄二年七月二十五日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月  八日

である。【その二】この日、芭蕉は日枝神社神主藤村伊豆(俳号鼓蟾(こせん))の屋敷で、以下を発句とする世吉(よよし:百韻の初折と名残の折とを組み合わせた四十四句で満尾する古形の連歌由来の連句形式。山本健吉氏によれば、この亭主鼓蟾が連歌畑の俳人であったことを考慮したものとある。)一巻を巻いている。

 

  小松と云所にて

しほらしき名や小松吹(ふく)萩すゝき

 

[やぶちゃん注:「奥の細道」。以下に見るように、ここは珍しく本文も以上の前書と句のみである。「曾良俳諧書留」では、

 

  七月廿五日 小松山王會

しほらしき名や小松吹萩薄

 

と載る。「山王會」は山王権現の例祭を指すが時期的におかしい。ここは本当の祭ではなく、山王を祀った日枝神社での連句の句会名に神事のそれを洒落れて言祝いだものと思われる。後の曾良「雪まろげ」では、

 

  北國行脚の時、いづれの野にや侍りけん、

  あつさぞまさるとよみ侍りしなでしこの花

  さへ盛過行(さかりすぎゆく)頃、萩薄に

  風のわたりしを力に旅愁をなぐさめ侍りて

しほらしき名や小松吹萩薄

 

という長い前書がある。

 鼓蟾の脇は、

 

しほらしき名や小松吹萩すゝき  芭蕉

  露を見しりて影うつす月   鼓蟾

 

であった。

 平安時代に始まる「小松引き」という正月初めの子()の日に、野に出でて小松を引き抜いて娘子供らが遊んだ「子の日の遊び」というのがあり、芭蕉はそれに通うこの地の名「小松」を「しほらし」い(正しくは「しをらし」で、愛らしい・可憐だの意)と言祝ぎ、それが下五「萩」「すゝき」にも掛かり、「吹く」は同時に小松にも萩や薄にも掛かる。恐らくは庭前にも姫小松が萩が芒が如何にも秋庭らしく配されてあり、そこを渡ってゆく涼やかな秋風もまた実景である。俳諧というより連歌的な風雅を通わせた挨拶句で、脇付も連歌風でスラーのように音楽的になめらかでしかもしっとりとしている。]

シンクロニティ新作文楽「不破留寿之太夫」 おまけ 桜の花弁

醜く、腹の出た、異形の、根性なしの、好色な、無知で愚昧な、戦さ嫌いの不破留寿之太夫(ふぁるすのたいふ)たぁ……俺のことかぃ?……

……エンディング……均等に琴柱を張った箏で奏でられる「グリーン・スリーヴス」の曲とともに……
……最前列の俺のすぐ左手の花道を淋しく去ってゆく不破留寿…………

……その俺の肩にも同時に舞い散った……

桜の花弁…………



Firusutaffusakura

清姫に魅入られる真の安珍としての清姫の遣い手の瞬間

日高川入相花王 渡し場の段――

冒頭――
安珍への思いが炉心溶融の限界を超えて遂にチェレンコフ光を放つ――あの瞬間――

……清姫の遣い手の顔を……清姫が右手からさっと振り返って見つめる!――

あの一瞬だけを見るためだけに僕はこの舞台を見る!…………
 

夢魔としての文楽「近江源氏先陣館」

昨日見た「近江源氏先陣館」――

……これは少年と老婆の純愛譚である――
……フィリッパ・ピアスの「トムは真夜中の庭で」を思い出す――

……これは実母子が目の前でサディスティックに「蘆垣」に遮断されてある中の―……疑似母子によるインセスト・タブーである――
……コーダで腹を抉る少年小四郎はエディプス以外の何者でもない――
だからこそ永遠にここに父高綱は登場しない――

手繰った蔓の先に思いも寄らぬ異花の咲くのは関係妄想的トンデモナンデモの浄瑠璃の常套乍ら、この痙攣的深謀術数フェイクの堆積の果てに配される一箇の美少年の切腹は――余りに愴にして悲――魅にして惑である…………

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 66 小松 あなむざんやな甲の下のきりぎりす

本日二〇一四年九月  八日(陰暦では二〇一四年八月十五日)

   元禄二年七月二十五日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月  八日

である。【その一】この前日、芭蕉は金沢(ここでもう一人、立花北枝が随行者として加わった)を発って小松に到着、翌日の今日、三人が旅立とうとしたところを、小松の俳人連が北枝を介して頻りに慰留した。そこで更に一泊することとし、芭蕉の偏愛する木曽義仲の命の恩人齋藤別当実盛所縁の多太(ただ)八幡(現在の石川県小松市上本折町にある多太神社)を訪れてかの名吟をものした。

 

  加賀の小松と云(いふ)處、多田の神社の

  寶物として、實盛が菊から草のかぶと、

  同じく錦のきれ有(あり)。遠き事ながら

  まのあたり憐(あはれ)におぼえて

むざんやな甲の下のきりぎりす

 

  多田の神社にまふでゝ、木曽義仲の願書

  幷實盛がよろひかぶとを拜ス

あなむざんや甲の下のきりぎりす

 

あなむざんやな甲の下のきりぎりす

 

[やぶちゃん注:第一句目は「猿蓑」。「奥の細道」も同句形。「陸奥鵆」(むつちどり・桃隣編・元禄十年跋)には、

 

  太田神社寶物實盛鎧

 

と記す。

 第二句目は「卯辰集」の句形。

 第三句目は「花実集」(かじつしゅう・秋色(しゅうしき)編。安永二(一七七三)年序)の句形で、「去来抄」に、

 

魯町曰、先師も基より不ㇾ出(いでざる)風侍るにや。去來曰、奥羽行脚の前はまゝ有り。此行脚の内に工夫し給ふと見へたり。行脚の内にも、あなむざんやな甲の下のきりぎりすと 云ふ句あり。後にあなの二字を捨られたり。是のみにあらず、異體の句どもはぶき捨給ふ多し。此年の冬はじめて、不易流行の教を説給へり。

 

とある。『出でざる風』とは俳諧連歌の古形を元としない新しい自由な破調句を指すが、私は芭蕉自身が改作しようがなにしようが、何と言っても直覚的に「狂句木枯しの身は竹齋に似たるかな」と同様に、破格の第三句目「あなむざんやな甲の下のきりぎりす」を断然、支持するものである(私は中学時代に自由律俳句の『層雲』から出発した人間である)。

 なお、「曾良随行日記」を見ると、

 

一 廿五日 快晴。欲小松立。所衆聞テ以北枝留。立松寺ヘ移ル。多田八幡ヘ詣テ、眞盛が甲胃・木曾願書ヲ拜。終テ山王神主藤井伊豆宅ヘ行。有ㇾ會。終テ此ニ宿。申ノ刻ヨリ雨降リ、夕方止。夜中、折ゝ降ル。

[やぶちゃん字注:「立松寺」は「建聖寺」の誤記と考えられる。「眞盛」は「實盛」の誤記(「廿七日」も同じ誤りであるが、「奥の細道」本文でも「眞盛」とあり、通行する決定稿でも二箇所の内の後者が「眞盛」のままである。ということは実は当時は「實盛」は「眞盛」とかく書いて通用したのかとも思わせる。無論、「實」と「眞」の崩し字は近似するが、これだけ改稿されたものがそこだけ最後の最後までたまたま誤字が残ってしまったと言うのは私には考えにくいのである)。「藤井」は「藤村」の誤り。]

一 廿六日 朝止テ巳ノ刻ヨリ風雨甚シ。今日ハ歡生方ヘ被ㇾ招。申ノ刻ヨリ晴。夜ニ入テ、俳、五十句。終テ歸ル。庚申也。

一 廿七日 快晴。所ノ諏訪宮祭ノ由聞テ詣。巳ノ上刻、立。斧ト・志格等來テ留トイヘドモ、立。伊豆畫甚持賞ス。八幡ヘノ奉納ノ句有。眞盛が句也。予・北枝隨ㇾ之。

 

とあって、実はこの句が実際に齋藤別当実盛の供養のために、多太八幡神社に奉納されたのは小松を発つ、二十七日であった。しかし、御覧の通り、実際の多太神社参詣は二十五日であり、感懐のシンクロニティとしては二十五日以外にはない。

 因みに『予・北枝之に隨ふ』とあるのは「卯辰集」に、

 

  多田の神社にまうでゝ、木曾義仲の願書、

  並に實盛がよろひかぶとを拜す

   三句

 

あなむざん甲の下のきりぎりす   芭蕉

 

幾秋か甲にきへぬ鬢の霜      曽良

 

くさずりのうら珍しや秋の風    北枝

 

と載るものを指す。

 

 斎藤実盛(天永二(一一一一)年~寿永二年六月一日(グレゴリオ暦一一八三年六月二十二日)は藤原利仁の流れを汲む斎藤則盛(斎藤実直とも)の子。越前国の出で、武蔵国幡羅郡長井庄(現在の埼玉県熊谷市)を本拠としたことから長井別当と呼ばれた。以下、参照したウィキの「斉藤実盛」より引用する(アラビア数字は漢数字に代えた)。『武蔵国は、相模国を本拠とする源義朝と、上野国に進出してきたその弟・義賢という両勢力の緩衝地帯であった。実盛は始め義朝に従っていたが、やがて地政学的な判断から義賢の幕下に伺候するようになる。こうした武蔵衆の動きを危険視した義朝の子・源義平は、久寿二年(一一五五年)に義賢を急襲してこれを討ち取ってしまう(大蔵合戦)』。『実盛は再び義朝・義平父子の麾下に戻るが、一方で義賢に対する旧恩も忘れておらず、義賢の遺児・駒王丸を畠山重能から預かり、駒王丸の乳母が妻である信濃国の中原兼遠のもとに送り届けた。この駒王丸こそが後の旭将軍・木曾義仲である』。『保元の乱、平治の乱においては上洛し、義朝の忠実な部将として奮戦する。義朝が滅亡した後は、関東に無事に落ち延び、その後平氏に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用される。そのため、治承四年(一一八〇年)に義朝の子・源頼朝が挙兵しても平氏方にとどまり、平維盛の後見役として頼朝追討に出陣する。平氏軍は富士川の戦いにおいて頼朝に大敗を喫するが、これは実盛が東国武士の勇猛さを説いたところ維盛以下味方の武将が過剰な恐怖心を抱いてしまい、その結果水鳥の羽音を夜襲と勘違いしてしまったことによるという』。『寿永二年(一一八三年)、再び維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、加賀国の篠原の戦いで敗北。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた』。『この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた。そのため首実検の際にもすぐには実盛本人と分からなかったが、そのことを樋口兼光から聞いた義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、ついにその死が確認された。かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。この篠原の戦いにおける斎藤実盛の最期の様子は、『平家物語』巻第七に「実盛最期」として一章を成』す(以下で私が原文を掲げてある)。以下、「史跡・伝承について」の項の「『前賢故実』による斎藤実盛」、『室町時代前期の応永二一年(一四一四年)三月、加賀国江沼郡の潮津(うしおづ)道場(現在の石川県加賀市潮津町に所在)で七日七夜の別時念仏を催した四日目のこと、滞在布教中の時宗の遊行十四世太空のもとに、白髪の老人が現れ、十念を受けて諸人群集のなかに姿を消したという』。『これが源平合戦時に当地で討たれた斉藤別当実盛の亡霊との風聞がたったため、太空は結縁して卒塔婆を立て、その霊魂をなぐさめたという。この話は、当時京都にまで伝わっており、「事実ならば希代の事也」と、醍醐寺座主の満済は、その日記『満済准后(まんさいじゅごう)日記』に書き留めている。そしてこの話は、おそらく時宗関係者を通じて世阿弥のもとにもたらされ、謡曲『実盛』として作品化されている。以来、遊行上人による実盛の供養が慣例化し、実盛の兜を所蔵する石川県小松市多太神社では、上人の代替わりごとに、回向が行われて現代に至っている』。『実盛が討たれる際、乗っていた馬が稲の切り株につまずいたところを討ち取られたために、実盛が稲を食い荒らす害虫(稲虫)になったとの言い伝えがあ』り、そこから稲の害虫として知られる『稲虫(特にウンカ)は実盛虫とも呼ばれ』て怖れられた。享年七十三。

 最後の伝承は鎌倉権五郎景政と同様に剛腕の荒武者は死してもそのパワーが残り、祭祀を疎かにすると禍いを起こすというタイプの御霊(ごりょう)信仰であるが、私は実盛の事蹟を考える時、彼を短絡的にかのおぞましいウンカ(御存じない方が多いが植物吸汁性ながら人を刺す)如きに喩えたこの習俗としての虫送りが今一つ好きになれないのであるが、逆に言えば、そうした伝承の中で実盛への民草の畏敬の念は続いていたのでもあった。

 私の偏愛する「平家物語」の当該のシークエンスを引く。底本は昭和四七(一九七二)年講談社刊高橋貞一校注「平家物語」を一応の底本にしたが、句読点や改行などを適宜追加した。まずは「「巻第七 篠原合戰」の冒頭(実盛が登場、味方を試して一味同心を確かめる最後に「むざん」が既にして出る。最初にこの多田八幡神社も義仲の神領寄進に登場している。下線はやぶちゃん)。

   ※

 木曾殿やがて其處にて諸社へ神領を寄せらる。多田八幡(ただのやはた)へは蝶屋(てふや)の庄(しやう)、菅生社(すがふのやしろ)へは能美(のみ)の庄、氣比社(けひのやしろ)へは飯原(はんばら)の庄、白山社(はくさんのやしろ)へは横江(よこえ)、宮丸二箇所を寄進す。平泉寺(へいせんじ)へは藤島七郷(ふぢしましちがう)をぞ寄せられける。

 去んぬる治承四年八月石橋山の合戰の時、兵衞佐殿、射奉りし武士ども、皆、逃げ上つて、平家の御方にぞ候ひける。

 宗徒(むねと)の者には長井(ながゐの)齋藤別當實盛、浮巣三郎重親、俣野五郎景久、伊藤九郎助氏、眞下(ましもの)四郎重直なり。これらは皆、軍(いくさ)のあらん程、暫く休まんとて、日毎に寄り合ひ寄り合ひ、巡酒(じゆんしゆ)をしてぞ慰みける。先(ま)づ長井齋藤別當が許に寄り合ひたりける日、實盛申しけるは、

「つらつら當世の體(てい)を見候に、源氏の方はいよいよ強く、平家の御方(おんかた)は負色(まけいろ)に見えさせ給ひて候。いざ、各(おのおの)木曾殿へ參らう。」

と云ひければ、皆、

「さんなう。」

とぞ同(どう)じける。

 次の日、また浮巣三郎が許に寄り合ひたりける時、齋藤別當、

「さても昨日、實盛が申しし事は如何に、各(おのおの)。」

と云ひければ、その中に俣野五郎景久、進み出でて申しけるは、

「さすがわれらは、東國では人に知られて、名ある者でこそあれ。吉について彼方(あなた)へ參り、此方(こなた)へ參らん事は、見苦しかるべし。人々の御心(おんこころ)をば知り參らせぬ候(ざふらふ)。景久に於ては、今度平家の御方(おんかた)で討死せんと思ひ切つて候ふぞ。」

と云ひければ、齋藤別當、あざ笑つて、

「誠には各(おのおの)の御心どもを、かな引かんとてこそ申したれ。實盛も今度(こんど)、北國(ほくこく)にて、討死せんと思ひ切つて候へば、二度(ふたたび)命(いのち)生きて、都へ歸るまじき由、大臣殿(おほいとの)へも申し上げ、人々にもその樣(やう)を申し置き候。」

と云ひければ、皆、又、この儀にぞ同(どう)じける。その約束を違(たが)へじとや、當座(たうざ)にありける二十餘人の侍どもも、今度、北國にて皆、死ににけるこそ無慙(むざん)なれ

   ※

 因みに、ただの思いつきなのだが、この一同が声を合わせる「さんなう」というのは「そうだなあ」という意の感動詞である。小松で芭蕉を迎えて人々が参集して開かれた「山王會」(さんわうくわい)という名称には、もしかするとこの「平家物語」の「さんなう」が掛けられているのではあるまいか? 「大臣殿」は平宗盛。

 次に「巻第七 實盛最後」全段。

   *

 落ち行く勢の中に、武藏國の住人、長井齋藤別當實盛は、存ずる旨ありければ、赤地の錦の直垂(ひたたれ)に萌黄縅(もよぎをどし)の鎧着て、鍬形打つたる甲の緒をしめ、金(こがね)作りの太刀を帶き、二十四差(さ)いたる切斑(きりふ)の矢負ひ、滋籐(しげどう)の弓持つて、連錢葦毛(れんぜんあしげ)なる馬に、金覆輪(きんぷくりん)の鞍を置いて乘つたりけるが、御方の勢は落ち行けど、唯一騎返し合はせ、返し合はせ、防ぎ戰ふ。

 木曾殿の方より、手塚太郎、進み出でて、

「あな、やさし、いかなる人にてわたらせ給へば、御方の御勢は、皆、落ち行き候に、唯一騎殘らせ給ひたるこそ優(いう)に覺え候へ。名乘らせ給へ。名乘らせ給へ。」

と、詞をかければ、

「先(ま)づかういふわ殿は誰(た)そ。」

「信濃國の住人、手塚太郎金刺(かなざしの)光盛。」

とこそ名乘つたれ。

 齋藤別當、

「さては互(たがひ)によき敵(かたき)、但し、わ殿を下(さ)ぐるにはあらず。存ずる旨があれば、名乘る事はあるまじいぞ。寄れ、組まう、手塚。」

とて馳せ竝(なら)ぶる處に、手塚が郎等(らうどう)、主(しゆ)を討たせじと中に隔たり、齋藤別當に押(おし)竝べて、むずと組む。實盛別當、

「あつぱれ、おのれは、日本一(につぽんいち)の剛(かう)の者と組んでうずなうれ。」

とて、わが乘つたりける鞍の前輪(まへわ)に押し付けて、ちつとも動(はたら)かさず、首搔き切つて捨ててけげる。

 手塚太郎、郎等が討たるるを見て、弓手(ゆんで)に廻り合ひ、鎧の草摺(くさずり)引上げて、二刀(ふたかたな)刺し、弱る處を組んで伏す。齋藤別當、心は猛(たけ)う思へども、軍(いくさ)にはしつかれぬ、手は負うつ、その上、老武者(おいむしや)ではあり、手塚が下にぞなりにける。

 手塚太郎、馳せ來(きた)る郎等に首取らせ、木曾殿の御前に參り、畏(かしこま)つて、

「光盛こそ奇異の曲者(くせもの)と組んで、討つて參つて候へ。侍(さぶらひ)かと見候へば、錦の直垂を着て候。又大將軍かと見候へば、續く勢も候はず。名乘れ、名乘れと責め候ひつれども、遂に名乘り候はず。聲は坂東聲(ばんどうごゑ)にて候ひつる。」

と申しければ、木曾殿、

「あつぱれ。これは、齋藤別當にてあるごさんなれ。それならんには、義仲が上野(かうづけ)へ越えたりし時、をさな目に見しかば、白髮(しらが)のの糟尾(かすお)なつしぞかし。今は早(はや)七十にも餘り、定めて白髮にこそなりぬらんに、鬢鬚(びんひげ)の黑いこそ怪しけれ。樋口次郎兼光は、年來(としごろ)馴れ遊んで、見知りたるらん。樋口召せ。」

とて、召されけり。

 樋口次郎、唯一目見て、

あな無慚(むざん)、齋藤別當にて候ひけり。」

とて涙を流す。

 木曾殿、

「それならんには、早七十にも餘り、白髮にもなりぬらんに、鬢鬚の黑いは如何に。」

と宣へば、ややあつて樋口次郎、涙を押へて申しけるは、

「さ候へば、その樣(やう)を申し上げんと仕り候ふが、餘りに哀れに覺え候うて、先づ不覺の涙、こぼれ候ひけるぞや。されば弓矢取る身は、聊かの所にても、思出(おもひで)の言(ことば)をば、かねて遣ひ置くべき事にて候ひけるぞや。實盛別當、常は兼光に逢(あ)うて、物語りにし候ひしは、

『六十に餘つて、軍の陣へ向はん時は、鬢鬚を黑う染めて、若(わか)やがうと思ふなり。その故は若殿ばらに爭うて、先を驅けんもおとなげなし。又、老武者とて人の侮られんも口惜しかるべし。』

と申しければ、木曾殿、さもあるらんとて、洗はせて御覧ずれば、白髮にこそなりにけれ。

 又、齋藤別當、錦の直垂を着ける事も、最後の暇(いとま)申しに大臣殿(おほいどの)の御前に參つて、

「かう申せば、實盛が身一つにては候はねども、先年、坂東へ罷り下り候ひし時、水鳥の羽音に驚き、矢一つだに射ずして、駿河の蒲原より逃げ上つて候ひし事、老の後(のち)の恥辱、只この事候。今度(こんど)、北國へ罷り下り候はば、定めて討死仕り候ふべし。實盛元は越前國の者にて候ひしが、近年、御領につけられて、武藏國長井に居住仕り候ひき。事の譬(たとへ)の候ぞかし。『故郷へは錦を著(き)て歸る』と申す事の候へば、何か苦しう候べき。錦の直垂を御免候へかし。」

と申しければ、大臣殿、

「優しうも申したりけるものかな。」

とて、錦の直垂を御免ありける、とぞ聞えし。

 昔の朱買臣(しゆばいしん)は、錦の袂を會稽山(くわいけいざん)に飜し、今の齋藤別當は、その名を北國の巷(ちまた)に揚(あ)ぐとかや。朽ちもせぬ、空しき名のみ留め置いて、骸(かばね)は越路(こしぢ)の末の塵となるこそ哀れなれ。

 去(さ)んぬる四月十七日、平家十萬餘騎にて、都を出だでし事柄は、何面(なにおもて)を向かふべしとも見えざりしに、今、五月下旬に都へ歸り上るには、その勢、僅(わづか)に二萬餘騎、

「流れを盡くして漁(すなど)る時は、多くの魚(うを)を得るといへども、明年(めいねん)に魚なし。林を燒いて獵(か)る時は、多くの獸(けだもの)を得るといへども、明年に獸なし。後(のち)を存じて、少々は殘さるべかりけるものを。」

と申す人々もありけるとかや。

   ※

 次にこの「平家」を下敷きとした芭蕉の第二の本歌で、直接の上五の引用である謡曲の伝世阿弥作「実盛」をダイジェストしておく。これは先の実盛の引用に出た室町前期の応永二一(一四一四)年三月、加賀国江沼郡の潮津道場にて時宗遊行十四世他阿太空が七日七夜に及ぶ別時念仏を催した際に白髪の老人(実盛の霊)が現れて十念を受けて群衆の中に消えて行ったという伝承をもとにした夢幻能である。

 加賀の篠原。遊行の他阿彌上人(ワキ)の説法の場に老翁(前シテ)が近づき、聴聞の法悦を詠嘆するが、この老翁が周囲の人々には見えていない(その怪異は冒頭の聴聞を聴きに来た狂言方の里の男(アイ)の口開けよって初めから示されている。これは現在能の手法で夢幻能では異例)ことから、その素性を問うと、古えここで討たれた実盛の執心の霊と名乗って池畔に消える。

 里の男によって実盛の最期が語られ、池畔で上人による別時念仏の弔いが修されると、実盛の霊(後ジテ)が現われて、弥陀を讃仰、白き鬢鬚の華やかな出立ちの老武者の霊は、修羅道の苦患(くげん)の救済を乞い、弥陀の大慈悲心による往生を信じて安堵、以下、生前の慚愧(ざんき)を懺悔(さんげ)するという形で、かの「平家」の最期の場面が実盛の霊自身によって語られるのである。

 引用は新潮日本古典集成「謡曲集 中」(伊藤正義校注新潮社昭和六一(一九八六)年刊)を参考にしながら、正字で示した。下線はやぶちゃん。

   *

シテ「時いたつて今宵逢ひ難き御法(みのり)を受け」

地 「慚愧懺悔の物語。なほも昔を忘れかねて。忍ぶに似たる篠原の。草の蔭野(かげの)の露と消えし。有樣語り申すべし」

シテ「さても。篠原の合戰(かせん)破れしかば。源氏の方に手塚の太郎光盛。木曽殿の御前に參りて申すやう。光盛こそ奇異の曲者と組んで首取つて候へ。大將かと見れば續く勢もなし。又侍かと思へば錦の直垂を着たり。名のれ名のれと責むれども終に名のらず。声は坂東声にて候ふと申す。木曾殿あつぱれ長井の齋藤別當實盛にてやあるらん。しからば鬢鬚の白髮たるべきが。黑きこそ不審なれ。樋口の次郎は見知りたるらんとて召されしかば。樋口參り唯一目見て。涙をはらはらと流いて。あな無慚やな。齋藤別當にて候ひけるぞや。實盛常に申ししは。六十に餘つて戰をせば。若殿ばらと爭ひて。先をかけんも大人氣なし。又老武者とて人々に侮(あなづ)られんも口惜しかるべし。鬢鬚を墨に染め。若やぎ討死すべきよし。常々申し候ひしが。誠に染めて候。洗はせて御覧候へと。申しもあへず首を待ち」

地「おん前を立つてあたりなる。この池波の岸に臨みて。水の綠も影映る。柳の糸の枝たれて」

地 〽気(き)霽(は)れては 風(かぜ)新柳(しんりう)の髮を梳(けづ)り 氷消えては 波(なみ)舊苔(きうたい)の 鬚を洗ひて見れば 墨は流れ落ちてもとの 白髪となりにけり げに名を惜しむ弓取りは 誰(たれ)もかくこそあるべけれや あらやさしやとて 皆(みな)感涙をぞ流しける

地 〽また実盛が 錦の直垂を着る事 私(わたくし)ならぬ望なり 実盛都を出でし時 宗盛公に申すやう 故郷へは錦を着て 歸るといへる本文(ほんもん)あり 実盛生國は 越前の者にて候ひしが 近年御領に附けられて 武藏の長井に居住つかまつり候ひき 此度北國に 罷り下だりて候はば 定めて討死つかまつるべし 老後の思出これに過ぎじ 御免あれと望みしかば 赤地の錦の直垂を下し賜はりぬ

シテ〽然れば古歌にももみぢ葉を

地 〽分けつゝ行けば錦着て 家に歸ると 人や見るらんと詠みしもこの本文の心なり さればいにしへの 朱買臣は 錦の袂を會稽山に翻へし 今の實盛は名を北國の巷に揚げ かくれなかりし弓取りの 名は末代に有明の 月の夜すがら 懺悔物語申さん

地 〽げにや懺悔の物語 心の水の底淸く 濁りを殘し給ふなよ

シテ〽その執心の修羅の道 巡り巡りてまたここに 木曾と組まんとたくみしを 手塚めに隔てられし 無念は今にあり

地 〽続く兵(つはもの)たれたれと 名のる中にもまづ進む

シテ〽手塚の太郎光盛

地 〽郎等は主を討たせじと

シテ〽驅け隔たりて實盛と

地 〽押し並べてくむところを

シテ〽あつぱれ おのれは日本一(につぽんいち)の 剛の者と組んでうずよとて 鞍の 前輪に押しつけて。首 搔き切つて捨ててんげり。

地 〽其後手塚の太郎 實盛が弓手に囘(まは)りて 草摺りを疊み上げて 二刀刺すところを むずと組んで二匹が間(あひ)に どうと落ちけるが

シテ〽老武者の悲しさは

地 〽戰には爲疲(しつか)れたり 風にちゞめる 枯木(こぼく)の力も折れて 手塚が下に なるところを 郎等は落ちあひて 終に首をば搔き落とされて 篠原の 土となつて 影も形もなき跡の 影も形もなむあみだぶ 弔ひて賜(た)び給へ 跡弔ひて賜び給へ

   *

「きりぎりす」現在のコオロギ。山本健吉氏は直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科コオロギ科コオロギ亜科ツヅレサセコオロギ Velarifictorus micado に種同定されている(といってもこれは特別な種ではなく、実が我々が「コオロギ」と呼んでいる種の正式和名である)。和名は「綴れ刺せ蟋蟀」で、古くはコオロギ全般の鳴き声が「肩刺せ、綴れ刺せ」と聞きなし、冬に向かって衣類の手入れをせよとの意にとったことに由来すると参照したウィキの「ツヅレサセコオロギ」にある。

 本句は首実検をする見立てである。さればこそ「あなむざんやな」と歎く主体は実際の証人たる義仲四天王の一人で乳兄弟ではなく、それを認めたところの木曽義仲自身である。即ち、本句は実は芭蕉が義仲であり、句背にある芭蕉の愛した義仲へのオマージュこそが「あなむざんやな」の感懐の真実の対象である。「奥の細道」はどうしても旅程の関係上、芭蕉が好きだった今一人の悲劇の武将義経に絡みがちであり、芭蕉も判官贔屓は文字通り義経でそれを前面に押し出す方が読者の共感も遙かに得られるものと胸算用したものとは思われる。そうした偏向の不満を謂わば自身の心内で補正する働きが、この句には潜んでいるように思われる。

 孰れにせよ、私は実盛が好きで、さればこそ、この句も芭蕉の好きな句を想起せよと言われると、五番以内に挙がってくる句なのである。

 しかし、私は俳諧的諧謔性を伝家の宝刀とする安東次男氏のように、私と同様、首実検の思付としながらもそこに、『見得が生じ、滑稽も現れる』という風にはとれないし、『こういう句をいたずらに感傷的に読むと解釈を誤る』(以上は「古典を読む おくのほそ道」)という言説にはやはり承服し得ない。

 寧ろ、山本健吉氏が「芭蕉全句」の評釈で述べるように、実盛の『亡霊の化身かのように冑のほとりにはきりぎりすが』鳴き、『実盛が虫に化したという伝承』が連動して、『不気味で無慙な感じを深め』、『前に平泉の光堂で』「螢火の晝は消つゝ柱かな」(以前に述べた通り、この句は結局は捨てられたが)『と、柱にとまる昼の蛍を詠んだのも、歴史を蘇らせた白日夢であった』という覚悟の武者(もののふ)らをイメージした「直き」解釈(少なくとも私はこの句に諧謔を感じないからである)に強く惹かれるのである。

 「奥の細道」の小松の段を示しておく。

   *

   小松と云處にて

  しほらしき名や小松吹萩薄

此所太田の神社に詣齋藤別

當眞盛が甲錦の切あり往昔

源氏に

属せし時義朝公より給はらせ給ふとかや

けにも平士のものにあらす目庇より

吹返しまて菊から艸のほりもの金

をちりはめ龍頭に鍬形打たり

眞盛討射死の後木曾義仲願

狀にそへて此社にこめられ侍る

よし樋口の次郎か使せし事共

まのあたり緣起にみえたり

  むさむやな甲の下のきりぎりす

   *

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇齋藤別當眞盛が甲錦の切 → ●實盛が甲錦の切

[やぶちゃん字注:「齋藤別當」の除去と、「眞」が「實」となっている二箇所。]

○往昔源氏に屬せし時   → ●其(その)昔源氏に屬せし時

[やぶちゃん字注:「往昔」は「そのかみ」と訓じている可能性が強く、ここは実際には異同とは言えぬ。]

○射死          → ●討死

■やぶちゃんの呟き

「錦の切」「平家物語」に出た、宗盛に願い出て賜わった鎧の下に着用する赤地錦の鎧直垂。

「目庇」「まびさし」と読む。眉庇。鉢から正面に庇のように張り出された額の防護部。

「吹返し」可動性を高めるための、兜の側面の錏(しころ:兜の鉢の左右・後方に垂らして首から襟の防御とするもの。一般には札(さね)又は鉄板を三段乃至五段下りとして縅し附ける。)の両端が上方へ折れ返っている部分。

「菊から草」菊唐草。菊の花に唐草模様をあしらった文様。

「龍頭」兜の前面に附ける飾り。立物(たてもの)。

「鍬形」元は鍬を象ったところから、兜の前部に附けて威厳を添える前立物の一つで、金属や練り革で作った二枚の板を眉庇つけた台に挿して角状に立てたお馴染みのもの。

 この実際の兜は修復されたものが神社公式サイトで見られ、そこには兜正面にある祓立(はらいだて)には八幡大菩薩の神号が浮彫りにされているのが分かる。

「木曾義仲願狀にそへて、此社にこめられ侍るよし、樋口の次郎か使せし事共、まのあたり緣起にみえたり」「木曾義仲願狀」義仲が実盛の兜や鎧直垂といった遺品とともに多太神社に供養の趣旨を認めて奉納した文書。「緣起にみえたり」とあるが、これは誤りで、実際にはその「木曽義仲願狀」の中に、

 

磋乎苦哉、某甲與公執父子之約僅七日、罔極悲其爲誰哉、乃爲公菩提及義仲祈禱、所被甲錦直垂幷某甲表指箭、納于能美郡多田神社

〇やぶちゃんの勝手自在書き下し文

磋呼(ああ)、苦なるかな、某甲(なにがし)、公と父子の約を執るも、僅か七日にして、罔極(まうきよく)の悲しび、其れ、誰か爲さんや、乃ち公の菩提及び義仲の祈禱を爲し、被れる所の錦・直垂並びに某甲(なにがし)の表指(うはざし)の箭(や)、能美郡(のみのこほり)多田神社に納む。

 

と載るものを指す。

・「罔極」は極まりがない、果てしないこと。ここは幼き日に命を救ってくれた義父たる実盛に対し、報いよにも報いきれぬ恩を言った。「詩経」の「小雅」の「蓼莪」(りくが)篇に基づく語で、通常は「罔極之恩」で父母への大恩を指す。

・「表指の箭」とは、二本の鏑矢を他の矢より少し高く箙や胡簶(やなぐい)に差して置くこと。

 以上の引用文は御橋悳言(みはしとくごん)氏の続群書類従完成会刊行と思われる「平家物語證注下 第四巻」の注に出るものをグーグル・ブックスで視認したもので、訓読は力技の我流で自信がない。私の持つ関連書では見つからず、同神社公式サイトにも載らないので不本意な箇所もあるがさらけ出しておくこととする。是非、識者の御教授を乞う。

 

 斉藤実盛は如何にも芭蕉好みの武者(もののふ)であった。

 現在の研究では、芭蕉の出自である松尾家は平氏の末流を名乗る一族で、当時は苗字・帯刀こそ許されていたものの身分は農民であったとされ、異説も多いものの、伊賀国上野の侍大将藤堂新七郎良清の嗣子主計良忠(かずえよしさだ:俳号、蝉吟。)に仕えていた若き日の彼は、その厨房役か料理人であったとされる(ここはウィキの「松尾芭蕉」に拠る)。

 しかしそれでもなおかつ、芭蕉自身は一種の「直くたくましきもの」としての「たけきもの」を志向し、自らをそのような意味に於ける地位や身分としての「武士」ではなく、精神的な意味に於ける武者(もののふ)として自認していたものと考えている。

 実盛・義仲・義経という存在は謂わば、そうした芭蕉の理想像として鏡像関係にあった。「奥の細道」にあっては――まさにウィトゲンシュタインが言うように――鏡像である彼らこそが――実に〈孤独者としての芭蕉という孤高の人〉を――説明している――と言い得るのであると私は思うのである――]

2014/09/07

定本 やぶちゃん版芥川龍之介全句集全五巻のPDF化に着手

今度は、まさに我、鬼となって創ったライフ・ワークの「定本 やぶちゃん版芥川龍之介全句集 全五巻」(リンク先は第一巻)のPDF化にとりかかろうと思っている。

2014/09/06

尾崎放哉全句集 やぶちゃん版新版正字體PDF縦書版

「尾崎放哉全句集 やぶちゃん版新版正字體PDF縦書版」をサイト・トップに公開した。

本テクストはネット上はもとより、現在、出版されている如何なる尾崎放哉の句集・全句集よりも多く彼の句を渉猟したものと秘かに自負しているものである。

2014/09/05

こは何事云ふ貧窮にかあらむ、屁をやはひりかけぬ――

こは何事云ふ貧窮にかあらむ、屁をやはひりかけぬ――

ツイッターは馬鹿に出来ない

驚くべきサイトを知った――これらのタルコフスキイのメイキングの写真は数枚を除いて、今まで見たことがない! 凄い!!!

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 65 金沢 塚も動け我が泣く聲は秋の風

本日二〇一四年九月  五日(陰暦では二〇一四年八月十二日)
   元禄二年七月二十二日
はグレゴリオ暦では
  一六八九年九月  五日
である。芭蕉は「奥の細道」の旅に出でて以来、金沢でまだ見ぬ愛弟子小杉一笑に逢うことを一番の楽しみとしていた。

ところが既に示した「曾良随行日記」の金沢着の十五日の末に『一笑、去十二月六日死去ノ由』と記す通り、やはり書簡で教えを乞うばかりであった師芭蕉と直に逢うことを心待ちにしていた一笑は、既に半年以上も前、病いのためにとっくに幽冥境を異にしていたのであった。享年三十六歳。芭蕉は彼の死を知らずに「奥の細道」の旅に出、松島・象潟に感じ入った後の彼は、只管、難渋の越路を一笑に逢うことを心の拠りどころとして金沢を目指していたとも言えるのであった。

小杉一笑(承応二(一六五三)年~元禄元(一六八八)年)は茶葉商人で元禄期の加賀を代表する俳人。通称、茶屋清七(新七とも)。「俳諧時勢粧」(いまようすがた・松江重頼(維舟)編・寛文一二(一六七二)年成立)・「山下水」(梅盛編・寛文一二(一六七二)年刊)・「大井川集」(重頼編・延宝二(一六七四)年)・「俳枕」(高野幽山編・山口素堂序・延宝八(一六八〇)年刊)・「名取河」(重頼編・延宝八(一六八〇)刊)・「孤松」(ひとりまつ・江左尚白編・貞亨四(一六八七)年刊)・「阿羅野」(山本荷兮編・元禄二(一六八九)年刊の芭蕉俳諧七部集の一。但し、一笑死後の刊行)などに続々と句が採られた。特に近江大津で刊行された「孤松」には実に百九十三句も入集、上方でもその名が広く知られるようになったが、そうした中でも芭蕉が最も注目した若手俳人であった。貞門から談林を経、この二年前の貞亨四年頃には蕉門に入門している。追善集は兄丿松編の「西の雲」で芭蕉の本句を始めとして諸家の追悼句及び一笑の作百四句を収める(ここまでは諸資料を参照したが、最も詳細と判断した石川県金沢市東山にある「茶房 一笑」の「小杉一笑」のデータを一応のベースとさせて戴き、諸データを追加してある)。

金沢到着から七日目のこの七月二十二日、小杉家菩提寺の金沢市野町(のまち)にある浄土真宗大谷派願念寺に於いて兄の小杉丿松(べっしょう)によって一笑追善供養が催され、本句はその席で詠まれた。

 

塚も動け我(わが)泣(なく)聲は秋の風

 

[やぶちゃん注:「奥の細道」。真蹟詠草に、

  とし比(ごろ)我を待ちける人のみまかりけるつかにまうでゝ

つかもうごけ我泣聲は秋の風

と前書したものが残る。「曾良俳諧書留」には、

  一笑追善

塚もうごけ我泣聲は秋の風   同

玉よそふ暮のかざしや竹露   曾良


と載る(「竹露」は無論「たけのつゆ」)。なお、後者の曾良の句は曾良の真蹟があり、

   一笑居士のつかに詣侍りけるに、いと
   やさしき竹の墓のしるしになびきそひ
   たるも哀まさりぬ

 玉よそふ暮のかざしや竹露   曾良

と前書、「西の雲」では、

   翁供して詣でけるに、やさしき竹の墓
   のしるしとてなびき添たるもあはれま
   さりぬ

 玉よそふ暮のかざしや竹露   曾良

とあってこれらの前書によって句意が判然とする。ネット上に「雪まろげ」には、

    一笑追善

 玉よばふ墓のかざしや竹の露  曾良

という有意な異形句が載るという複数情報にあるが、少なくとも私が管見した同書には前書のみで句がない。一応、記しおくこととする。

 一笑の句を示さないわけにはいかない。まず、伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「小杉一笑」から引いておく(恣意的に正字化した)。最後の辞世以外は「阿羅野」に採られた句である。リンク先のリンクで句意も解る。

元日は明すましたるかすみ哉    一笑

さし柳たゞ直なるもおもしろし   一笑

すがれすがれ柳は風にとりつかむ  一笑

蚊の瘦て鎧のうへにとまりけり   一笑

いそがしや野分の空の夜這星    一笑

火とぼして幾日になりぬ冬椿    一笑

  辭世

心から雪うつくしや西の雲     一笑

 次に安東次男氏が「古典を読む おくのほそ道」に引用するもの。

雨ぬるゝ壁に喰ひつく燕かな    一笑

みをつくし小鮎身をうつ夕日かな  一笑

さびしさに壁の草摘五月哉     一笑

いつとなくおとがひだるき火燵哉  一笑

ふらぬ日や見たい程見る雪の山   一笑


この安東氏の引用する句はどれもまことに掬すべき佳句である。

 以下、「奥の細道」金沢の段を示す。

   *

卯の花山くりからかか谷をこえて金

澤は七月中の五日也爰に大坂より

かよふ商人何處と云ものありそれか

旅宿をともにす

一笑と云ものは此道にすける名の

ほのほの聞へて世に知人も侍しに去年

の冬早世したりとて其兄追善

を催スに

  塚もうこけ我泣聲は秋の風

   ある草庵にいさなはれて

  秋すゝし手毎にむけや瓜天茄

   途中唫

あかあかと日は難面もあきの風

[やぶちゃん字注:「天茄」は厳密にはナス目ヒルガオ科ハリアサガオ(針朝顔)Calonyction muricatum の漢名であるが、ここは「なすび」(ナス目ナス科ナス Solanum melongena )と訓じている。]

   *

■やぶちゃんの呟き

「卯の花山」本来は卯の花の咲いている山の意で、固有名詞ではないが、後世、越中の歌枕となった。旧源氏山。旧富山県西砺波郡砺中(とちゅう)町(現在は小矢部市)の砺波山(となみやま)。標高二六三メートル。倶利伽羅峠直近にある。芭蕉の偏愛する木曽義仲の倶利伽羅合戦に於ける陣所であった。

「何處」(?~享保一六(一七三一)年)「かしよ(かしょ)」と読む。伊勢出身の大阪の薬種問屋主人。この時、事実、偶然の同宿をして蕉門に入った。「芭蕉DB」の「何処」によれば、『以後、芭蕉が上方にある時はしばしば訪れていたもようである。『猿蓑』などに入集されている』とある。

 他の二句はこの前に既に掲げてある。そこでの私の注も参照されたい。

 最後に(以下の文中のリンク先は孰れも私の電子テクストである)。

 私は、この句を芭蕉の辞世「旅に病で夢は枯野をかけ廻以上の、芭蕉畢生の絶唱として記憶している。

 人間芭蕉痛恨の一句は、これ以外にはない。

 因みに、芭蕉の死後二年後の元禄九年春に義仲寺の墓前を訪れた丈草の句に、

陽炎(かげろふ)や塚より外に住むばかり

という名吟があるが(同句の私の通釈は宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(5)の私の注を参照)、この芭蕉の一笑を失った激しい慟哭と比べてしまった時、私は芥川龍之介の「枯野抄」の、「法師じみた」「老實な禪客の丈艸」の姿を想起して、鼻白んでしまうのを常としている――]

2014/09/03

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 64 金沢 秋涼し手毎にむけや瓜茄子

本日二〇一四年九月 三日(陰暦では二〇一四年八月十日)

   元禄二年七月二十日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月 三日

である。金沢滞在中のこの日の、犀川畔にあった齋藤一泉の松玄庵句会での半歌仙の発句。ありがちな挨拶吟である。

 

  ある草庵にいざなはれて

秋涼し手毎(てごと)にむけや瓜茄子

 

  松玄庵參會即興

殘暑しばし手毎にれうれ瓜茄子

 

  訪草庵

秋さびし手毎にむけや瓜茄子

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目は次の句で詳述する小杉一笑の兄で俳号ノ松(べっしょう)が一笑追善に編んだ「西の雲」(元禄四年跋)の、第三句目は「韻塞」(いんふたぎ・許六ら編・元禄九年自序)の句形。

 一泉の脇句は、

 

殘暑しばし手毎に料理れ瓜茄子  芭蕉

  みじかさまたで秋の日の影  一泉

 

と付けている。「奥の細道」に載せたのは、次に掲げる芭蕉の絶唱「塚も動け我泣聲は秋の風」と先に掲げた「あかゝと日は難面もあきの風」の、慟哭/炎熱・寂寥を配した複式夢幻能の間狂言といった感じでここに配したもののように私には思われる。]

2014/09/02

では

明日、甲府に入院している妻を迎えに行く。随分、御機嫌よう――

やぶちゃん版鈴木しづ子句集〈抄出217句〉 PDF版

「やぶちゃん版鈴木しづ子句集〈抄出217句〉」PDF版を「やぶちゃんの電子テクスト:俳句篇」に公開した。

2014/09/01

生物學講話 丘淺次郎 第十一章 雌雄の別 三 局部の別 (5) ヘクトコチルス

 

 

Takokousetu

[「たこの交接」]

[やぶちゃん注:「 」位置はママ。底本よりも細部が確認出来る、国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、補正をした。]

 

 

Takobunesiyuu 

[「たこぶね」の雄]

[「たこぶね」の雌]

 

[やぶちゃん注:底本では明度を上げ過ぎて白く飛んでしまって見難いので、国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、細部が確認出来、且つ他の箇所が白く飛ばないぎりぎりのところまで補正をした。] 

 

 「たこ」「いか」類の雄も精蟲を雌の體内に移し入れるためには足を用ゐる。八本または十本ある足の中の或る一本は、産卵期が近づくと形が少しく變じ、先端に近い部分の皮膚が柔くなり、表面に皺などが出來て他の足とは餘程異なつたものとなるが、交接するに當つては、雄はまづ自分の輸精管から出した精蟲をこの變形した足の先に受け入れ、次いで雌に近づき、雌の頭と胴との間の割れ目にこの足を插し込み、輸卵管の内へ精蟲を移し入れるのである。すべて「たこ」・「いか」の類では胴は外套膜と名づける厚い肉の嚢で包まれ、輸卵管でも輸精管でも肛門でも皆その内側に開いて居る故、外面からは少しも見えず、隨つて雌雄がその生殖器の開き口を互に相接觸せしめることは到底出來ぬ。圖に示したのはフランスの或る水族館で、普通の「たこ」の雄がその變形した足の先を、小さな雌の外套膜内へ挿し入れて居る所である。「たこ」の一種に「たこぶね」と名づけるものがある。雄は普通の「たこ」の如く全身裸であるが、雌には奇麗な船形の殼があつて、卵を産むとその奧に入れて保護する。この殼も他の貝類のと同じく、體の外面に生じたものであるが「はまぐり」・「あさり」や「たにし」・「さざえ」のとは違ひ、肉と繫がつた處がなく全く離れて居るから、生きた「たこぶね」の雌を餘りひどく突つつくと、終には殼を捨てて中身だけが水中を游ぎ逃げて行く。かく裸になつた雌は如何にも不安の樣子で頻に游ぎ廻るが、そこへ元の空殼を持つて行くと忽ちこれに摑み附き、體をその内へ入れ舊の如き姿となる。書物には往々「たこぶね」の雌が貝殼に乘り、二本の扁平な足を帆の如くに上げ、殘り六本の足を橈の如くに用ゐて水を漕ぎながら水面を進んで行く所の圖が掲げてあるが、これは全くの想像であつて、實際には決してさやうな藝は出來ぬ。なぜかといふに、特に扁平になつて居る二本の足は殼を造り、且常にこれを支へて居るための道具で、もしこれを離して帆の如くに上へ向けたならば、殼を保つものが何もなくなつてしまふ。さて「たこぶね」は如何にして受精するかといふに、雄の足の中の一本が特に變形して交接の器官となることは普通の「たこ」と同じであるが、「たこぶね」では雄が雌に近づき、この足で雌に吸ひ附くと足は中途から離れ、雄は足の先を捨て置いてどこかへ泳いで行く。即ち雌に近づき足で吸い著くまでが雄の役目で、これが濟めば雄は隨意に泳ぎ去り、その後はたゞ殘つた足の先と、雌との間に交接が行はれるのである。この足は雄の體から離れた後にも急には死なず、吸盤で吸ひ著きながら外套膜の中へ匍ひ入り、輸卵管の奥へ精蟲を移し入れた後は、自然に生活の力が消えて廢物となり終るのである。假に人間に譬へて見れば、男が手の指の間に精蟲の塊を挾み、通り掛りの娘の肩を敲くと、その手は手頸の所から切れ離れ、手をなくした男は勝手な方へ行つて了ひ、後に殘つた手だけが自分の力で匍うて、腰卷の内まで潛り込んで行くのに相當する。初めて雌の體内にこの足を見附けた人は、雄の足の切れたものとは無論心附かず、その伸縮する樣子から一種の寄生蟲であらうと判定して、これに「百の吸盤を有する蟲」といふ意味の學名を附けた。この學名は、その寄生蟲でないことの明になつた今日でも、「いか」・「たこ」類の交接用の足をいひ表す名稱として常に用ゐられて居る。

[やぶちゃん注:私の博物学的に大好きな、交接腕=ヘクトコチルス(Hectocotylus)の話である。これについては既に「生物學講話 丘淺次郎 七 共食ひ」の注で触れたが、補足して再注しておくと、ここに記されたように、オスのタコは交接腕という特化した触手を持ち、交尾の際にはその先端の吸盤のない溝の部分に精子の入った精莢(せいきょう)を挟み込んで、その腕をメスの生殖孔に突き刺す(この際、メスはかなり暴れるので相当な痛みがあるものと思われる)。その後、頭足綱鞘形亜綱八腕形上目八腕(タコ)目マダコ亜目アミダコ科アミダコ Ocythoe tuberculate 八腕(タコ)目アオイガイ科アオイガイ属アオイガイ(葵貝/カイダコ) Argonauta argo 及びここで語られるタコブネ(後注参照)などの種では交尾を完全なものとするために、オスはその先端部を自切する。一八五九年、この交接腕の先端断片をアミダコの解剖中に発見したフランスの博物学者キュビエは、これをタコに寄生する寄生虫の一部と考え、ご丁寧に Hectocotylus Octopodis(ヘクトコチルス・オクトポイデス:百疣虫)と学名まで附けてしまった。丘先生も述べられているように、現在でも生物学では、誤認ながら、キュビエの交接腕断片の原発見の功績に敬意を表し、タコの交接腕をのことを「ヘクトコチルス」と呼称するのである。因みに、私の好きな萩原朔太郎ない蛸」で知られるように、しばしば世間ではタコは自身の足を喰らうと信じられているが、もしかすると漁師たちは経験上、タコの腕の先端の一部が切れている個体があることを知っており(それはこのヘクトコチルスのそれよりもウツボなどの天敵襲われた際の自切現象によるものの方が目立つが)、そこから誤認して彼らが自然界で容易に自分で自分の足を食うと錯覚したのではないか私は考えている(水族館で見られるというタコの自身の足の自食行動(本当にそういう現象が多発しているとは私は実は信じておらず、これも朔太郎の詩辺りからの都市伝説の部類の話と考えている)は現在の知見では狭い水槽で飼育するために生じるストレスから生じた自傷行為と考えられている(軟体動物でもイカ・タコの類はナイーヴで、水族館でも飼育しづらい生物である)。

「たこぶね」頭足綱八腕形上目八腕(タコ)目アオイガイ科アオイガイ属タコブネ Argonauta hians 。別名フネダコ。ウィキの「タコブネ」によれば、『太平洋および日本海の暖海域に分布する。同様の殻を生成する近縁種としては、アオイガイやチヂミタコブネがよく知られている』。『タコブネのメスが生成する貝殻は、他の生物が住み処として再利用することがあり、また、繊細で美しいフォルムを有することから、工芸品のように扱われたり』、『アンモナイトの化石のように収集趣味の対象になっている』(私も大小三個を所持している)。『タコブネは、主として海洋の表層で生活する。メスは第一腕から分泌する物質で卵を保護するために殻をつくるのに対し、オスは殻をつくらない。生成される殻はオウムガイやアンモナイトに類似したものであるが、外套膜からではなく特殊化した腕から分泌されるものであるため、これらとは相同ではなく構造も異なる』。『食性は、タコと同様肉食性であり、稚魚や甲殻類(エビ・カニのなかま)を食べる。通常は海中を浮遊するが、取り込んだ海水を噴射することによって海中を前進することもできる』。成長した♀は七~八センチメートル前後になるが、♂はその二〇分の一ほどの大きさにしかならない。オスは八本の足のほかに交接腕(Hectocotylus:ヘクトコチルス)を有し、交接腕には精嚢が格納されていて、交尾はオスが交接腕をメスの体内に挿入した後切断されるかたちで行われ、受精はメスの体内で行われる。メスは貝殻の内側に卵を房状に産みつけ、新鮮な海水を送り込むなどしてこれを保護する、とある。

「假に人間に譬へて見れば、男が手の指の間に精蟲の塊を挾み、通り掛りの娘の肩を敲くと、その手は手頸の所から切れ離れ、手をなくした男は勝手な方へ行つて了ひ、後に殘つた手だけが自分の力で匍うて、腰卷の内まで潛り込んで行くのに相當する」丘先生のトンデモないユーモアが炸裂! 丘先生、これって戦後のカストリ雑誌なみに面白いっす!] 

 

 雄のほうに交接器がある以上は、雌の身體にこれを受け入れるだけの裝置のあるは當然のことと思はれるが、小さな蟲類を調べて見ると必ずしもさやうとは限らぬ。輪蟲と名づける淡水産の小蟲のことは已に前の章で述べたが、この蟲の或る類では雄には體の外面に突出した錐狀の交接器があるが、雌にはこれを受けるべき何らの構造もない。それ故、交接するときには雄は尖つた交接器を以て、どこでも構はず雌の體を突き通し、その内へ精蟲を注ぎ入れる。その有樣は皮下注射の器械で「モルヒネ」や血淸を注射するのと少しも違はぬ。精蟲は後に組織の間の空隙を潜り歩いて、終に卵細胞に達し、これと相合するのである。

[やぶちゃん注:「輪蟲」は二 食はぬ生物の本文と私の注を参照されたい。ワムシの交尾器官の形態については詳述したサイトがなく、恐らくこのトンデモなくエイリアンっぽい特異な雄性器挿入の事実は、あまり知られているとは思われないので、特に注に喚起しておきたい。]

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