『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 龍華寺
●龍華寺
龍華寺は。金澤の名刹にして。知足山と號す。洲崎村(すさきむら)と町屋村の間左側に在り。眞言古義の檀林にて。一宗の本寺たり。門には知足山と扁し。堂は箱棟作り草葺にて。龍華寺の額を掲く。本尊は大日如來。開山は法印融辨なり。寺記(じき)に明應年間。六浦(むつら)に淨願寺光德寺とてありしが。共に荒廢したるに因り。合して一寺となすと見ゆ。或は云ふ。太田道灌不動尊の靈像を寄附して。武運長久を祈れり。故に道灌の位牌を安す。表に春苑道灌庵主靈。裏に文明十八丙午七月二十八日とあるよし。
門内右の方に。布川玉尊の牌(ひ)あり。玉尊(ぎよくそん)は當寺の住職たりしが征淸(せいしん)の役に從ひ。戰死せし者なりといふ。
[やぶちゃん注:現在の金沢区洲崎町にある。公式サイトなどの記載によれば、元は文治年中(一一八五年~一一九〇年)に源頼朝と文覚が六浦山中に創建した浄願寺が、明応八(一四九九)年に住持(但し、兵火で焼亡していた)であった融弁上人(室町から戦国期にかけて弘法大師の再来と評された真言僧日融の、直弟子であった融弁と同一人物と思われる)によって現在の地にあった光徳寺(融弁が住持を兼帯していたが、当時は既に廃寺となっていた)と併合・移築されたものとされる。本山は京都御室(おむろ)の仁和寺とある。現在では元の浄願寺は頼朝の勧請した瀬戸神社の神宮寺として建立されたと考えられており、上行寺東やぐら遺跡にある建物遺構は、この浄願寺の跡と推定されている。縁起である「金澤龍華寺略縁起」はこちら。
「太田道灌……」前の縁起(公式サイト内リンク)に『諸人の信仰他にことなり、太田の道灌居士(傍注/本尊の壇主是也)、不動明王迄寄附して、武運の延長を祈り、靈牌を建立して、來際の追福を求らる』とある(恣意的に正字化した。「來際」は「尽未来際(じんみらいさい/ざい)」で、未来の果てに至るまで・未来永劫・永遠の意。「太田道灌」(永享四(一四三二)年~文明十八(一四八六)年)の生没年から、この位牌は元の浄願寺のものであることが分かる。因みに彼は主君扇谷定正に暗殺されているが、旧浄願寺本尊とされる彌勒菩薩坐像(室町期の作で横浜市指定文化財)には、大檀那として扇谷上杉家家臣の名が記されており、書かれているように、太田道灌寄進と伝える不動明王画像も所蔵されていることから、浄願寺及び龍華寺と扇谷上杉家との間には何らかの関係があったと考えられている。現在、道灌の位牌が存在するのかどうかは不明であるが、後ろめたさからであろうか、暗殺しておきながら主家はここに位牌を納めることを許したということになる。「春苑道灌菴主」とあるが、道灌の戒名は正しくは香月院殿春苑静勝道灌大居士(大慈寺殿心円道灌大居士とも)で、墓所は伊勢原市大慈寺及び同市洞昌院にある。また、太田道灌は文明一八(一四八六)年七月二十六日(この記載とは二日ずれる)、主家扇谷定正の糟屋館(現在の伊勢原市にあった)に招かれてそこで暗殺されている。この日付や戒名は「新編鎌倉志卷之八」の龍華寺の項の記載と同じである。一応、引いておく。
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〇龍華寺 龍華寺(りうげじ)は、知足山と號す。洲崎村(すさきむら)と町屋村との間にあり。眞言宗、仁和寺の末寺にて檀林なり。門には知足山、堂には龍華寺と額あり。開山は、法印融辨也。本尊、大日也。彌勒の像もあり。脇寮四个(か)院、其の外近邊に末寺二十个寺あり。寺領五石の御朱印あり。當寺の畧記に、明應年中に、金澤に、成願寺・光德寺と云て、二箇の眞言寺あつて敗亡したるを、融辨、二寺を合せて一寺と成すとあり。或人の云、太田道灌修復せらる。故に道灌の位牌あり。表に春苑道灌菴主の靈、裏に文明十八丙午七月二十六日とあり。
寺寶
両界の曼荼羅 貮幅 唐畫。
涅槃像 壹幅 唐畫。
十三佛の繡像 壹幅 中將姫の製といふ。
[やぶちゃん注:「中將姫」は藤原不比等の孫右大臣藤原豊成の娘(天平十九(七四七)年~宝亀六(七七五)年)とされる、謡曲「当麻」「雲雀山」、浄瑠璃・歌舞伎で知られる継子いじめの中将姫伝説の主人公。史書には登場せず、実存は疑われる。幼くして母を失い、継母に嫌われて雲雀山に捨てられ、後に父と再会、十三歳で中将の内侍、十六で妃の勅を受けたが、自身の願いで当麻寺に入り、十七で中将法如として仏門に入った。後、蓮茎から製した五色の蓮糸を繰って一夜にして一丈五尺(約四メートル)四方の曼荼羅を織り上げ、二十九の春に生身の阿弥陀如来と二十五菩薩が来迎、生きながらにして西方浄土へと旅立ったとされる。]
八祖の畫像 壹幅 弘法の筆、或は願の筆と云ふ。
[やぶちゃん注:真言八祖は、一般には竜樹・竜智・金剛智・善無畏・不空・恵果・一行の七祖に、本邦独自の宗派を齎した空海を加えたもの。]
不動の畫像 壹幅 弘法の筆なり。表褙の裏ウラ書に、太田道灌寄進と有。寺僧の云、東照宮御覽ありて、修複し給ふ。其の時十三佛の繡像も修復し給ふと也。
愛染明王の木像 壹軀 弘法五指量の作と云。一握の長(たけ)なり。
[やぶちゃん注:「五指量」は二寸五分で約七・五七センチメートル。]
鳳凰の頭 貮个 運慶が作。
龍の頭 十个 運慶が作。此二種、ともに木にて作。金箔を貼(を)したる物なり。灌頂の時、幡(はた)を掛る具也。
鈴(レイ) 一个 弘法の所持と云傳ふ。
已上
鐘樓 鐘の銘如左(左のごとし)。[やぶちゃん注:以下略。リンク先の私のテクストを見られたい。]
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「布川玉尊」「ふかはぎよくそん(ふかわぎょくそん)」と読む。日清戦争(明治二七(一八九四)年七月二十五日~明治二八(一八九五)年十一月三十日)に陸軍歩兵軍曹として従軍して戦死していることが野牛重兵衛氏のブログ記事「忠魂碑」で分かる。国立国会図書館の書誌データに明治期に刊行された蒲生重章「近世偉人伝 禮字集初編巻之下」に「布川玉尊伝」とあり、また同館蔵書に「故陸軍歩兵二等軍曹布川玉尊君送靈典儀費決算及寄贈金品人名報告書」(鈴木活版所発行・明治二八(一八九五)年三月序)がある。
最後に「江戸名所図会」の龍華寺の図を以下に示しておく。
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