今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 80 月見せよ玉江の芦を刈らぬ先
本日二〇一四年九月二十六日(当年の陰暦では九月三日)
元禄二年八月 十三日
はグレゴリオ暦では
一六八九年九月二十六日
【その二】句の並びと句意からは(後注及び次の「あさむつや」の考証を参照)この日の未明に福井を発って、朝まだき、福井と麻生津の間にある「玉江の蘆」で知られた玉江(現在の福井県花堂(はなんどう)町の虚空蔵川の架かる橋で蘆を合わせて読むのを常とする歌枕)を過ぎたと思われる。地名は「奥の細道」に載るが句はない。
玉江
月見せよ玉江の芦(あし)を刈(から)ぬ先
[やぶちゃん注:「ひるねの種(たね)」(荷兮編・元禄七年自序)に載る句。
――月見をせよ!――古歌で知られた玉江の蘆は、いままさに丁度、穂を出したところ……さあ、この穂が刈られてしまう前に……その風雅な穂波の彼方に浮かぶ月影を!――
またしても強気の命令形である。敦賀の月見と洒落たところの自身の決めたその思いつきを下敷きにして、何か、妙に力んで詠んでいる感じがする。私はどうも好感が持てない。
「奥の細道」の敦賀到着までの段を示す(ここは自筆本では前の福井の旅立ちと連続していて、最初の行の頭には「立」が入っている)。
*
漸白根か嶽かくれて比那か
嵩あらはるあさむつの橋をわ
たりて玉江の芦は穗に出けり
鶯の關を過て湯尾峠を越れ
は火打か城かへる山に初鴈を聞
て十四日の夕暮つるかの津に
宿をもとむ
■異同
(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)
〇穗に出(いで)けり → ●穗に出でにけり
*
「漸」やうやう。
「白根か嶽」加賀白山。
「比那か嵩」「ひながたけ」と読む。日野山(ひのさん)。現在の福井県越前市と南条郡南越前町に跨る標高七九四・八メートルの山。養老二(七一八)年、泰澄によって開山された山岳信仰のメッカで、白山・越知山(おちさん:福井県福井市と丹生郡越前町の境にある)・文殊山(もんじゅさん:福井県福井市と鯖江市の境にある)・蔵王山(福井県永平寺町にある)と併せて越前五山の一つに数えられてきた霊山(ウィキの「日野山」及び同各リンク先に拠る)。『福井平野から眺める山容が秀麗な景観を見せることから、現在では俗に越前富士と呼ばれている』とある。
「あさむづの橋」現在の福井市浅水(あそうず)町を流れる浅水川に架した橋で、福井城下から南へ凡そ八キロメートルほどの位置にある、「枕草子」などにも出る歌枕。但し、位置関係からは次に出る玉江を過ぎて、浅水の橋に至る、と山本健吉氏の「芭蕉全句」にある。「橋」「渡る」「江」「蘆」という縁語順列というか、意識の景観配列の自然さを狙ったものか。
「鶯の關」新潮日本古典集成の富山奏氏の注には、現在の『福井県今庄町と南条町との間。この当時は歌枕の関跡を留めるのみ』、伊藤氏の「芭蕉DB」の「敦賀」では、現在の『福井県南条郡南越前町湯尾にあった歌枕』、安東次男氏は『南条郡鯖波(さばなみ)の旧関、当時は既になかった』とある。また、こちらの「福井県史」では『今宿・脇本続いて鯖波の宿を過ぎると関ケ鼻に着く。「帰鴈記」は関の原の名所の歌として、「うぐひすの啼つる声にさそはれてゆきもやられる関のはらかな」をとりあげ、鴬の関ともいい関ケ鼻をいい誤ったものとしている』とあって、これだと、南条郡南条町関ケ鼻が比定地となる。
「湯尾峠」福井県南条郡南越前町湯尾と同町今庄の間、東の三ケ所山と西の八ヶ所山の鞍部にある標高約二百メートルの峠。参照した個人サイト「街道の風景」の「湯尾峠」によれば、『峠名は峠下にある湯尾に由来しますが、昔は柚尾の峠とも書かれています。昔から北陸街道がこの峠を通り交通、軍事上の要地でした』。『江戸期には峠の』附近に四軒の『茶屋があって、にぎやかに商売を営み、また御利益の多い疱瘡神の孫嫡子御守札を配布していました』とある(後の句注で詳述する)。
「火打か城」燧(ひうち)が城。湯尾峠東南方(現在の南越前町今庄)にある芭蕉の好きな木曽義仲軍の砦跡。
「かへる山」帰山。南越前町湯尾にある歌枕で、続くように併せて雁を詠むのを常とした。
歌枕の羅列で、若い頃、父に車でそばを通ったきりの和歌嫌いの私には実景も浮かばず、ひたすら月見、月見と声高にして、「奥の細道」ではここ暫く、私には如何にもダルに感ずる箇所である。]
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