杉田久女句集 273 花衣 ⅩLⅡ 宇佐神宮 五句 附 杉田久女「息長帶姫命の瓊のみ帶について」
宇佐神宮 五句
うらゝかや齋(いつ)き祀れる瓊(たま)の帶
藤挿頭(かざ)す宇佐の女(によ)禰宜は今在さず
丹の欄にさへづる鳥も惜春譜
雉子鳴くや宇佐の盤境(いはさか)禰宜ひとり
春惜む納蘇利の面ンは靑丹さび
[やぶちゃん注:坂本宮尾氏の「杉田久女」によれば、本五句は昭和八(一九三三)年七月号『ホトトギス』の久女二度目の雑詠欄巻頭を飾ったものである。従ってこれは前の「宇佐櫻花祭 三句」の翌年の再訪と吟詠であることが分かる。久女には、発表誌年月不詳の「息長帶姫命(おきながたらしひめのみこと)の瓊(たま)のみ帶(おび)について」という文章があり、本歌及びこの参拝吟行を細かに語っているので以下に引用する。底本全集第二巻を用いたが、恣意的に正字化した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。太字は底本では傍点「ヽ」。
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息長帶姫命の瓊のみ帶について
おたづねの宇佐神官と宇佐八幡とは同一のものに御座います。
宇佐本殿は三殿合祀で中央三比賣(ヒメ)大神(多岐津姫命、市杵島姫命、多岐理姫命)、右殿神功皇后(御名息長帯姫命(オキナガメラシヒメ))、左殿応神天皇(御名譽田別尊)、この三神を合して宇佐神官と申します。昔は宇佐八幡と申し上げたのですが明治四年五月官幣大社に列せられ、同六月から宇佐神官と申す様になりました由。
さて瓊(タマ)の帶は、(聖武天皇奉獻による)神功皇后の御物と申し奉る古い唐錦の御帶で、禰宜の語るところによりますと、こげ茶の地に、草花模樣があり、それに五色の小い瓊を所々にぬひつけた誠に高貴なおみ帶でございますとか。もつとも地色も模樣も、かしこけれど、すでにぼろぼろで、ほんの四五寸の布地だといふのみでございます由。これが今は神功皇后の御神殿中に秘藏される宇佐第一の神宝でございますが、一説には応神天皇樣の御袴腰とも申され、いづれが正しいかは、判じませぬが。
三比賣大神及神功皇后がいづれも女神におはしまされ、また宇佐神官が、うらゝかな朱(アケ)宮居でいらせられる事も、玉のみ帯といふ感じの方が私にはふさはしく思はれました。殊に又此の日の透るばかりな好晴のうらゝかさも、只もう瓊のやうな感じがピンと私にはきました。尚玉を單にうつくしい帶といふ意のみではなく、瓊をまつりつけたおん帶の意で用ひました。
中央宇佐神宮が兵火にあひ御寶庫中の神宝も大かたうばひ去られた中に、此瓊の御帶のみが、今の彌勒神宮寺跡におちてゐましたのを、禰宜の一人が見出して取もどし、その後はずつと、神殿の朱の御扉中に奉安してあるものゝ由。宮司以外は(宮司も一年一度例祭開扉の外は)立入るを絶對にゆるされぬ神殿中故、実際拜觀したものは殆どないとかいふ事です。此手紙の大帶姫命といふ事は私は一向存じませんが、神功皇后の御名息長帶姫命の事とはちがひませうか。
私は今春宇佐へまゐり、古実にくはしい禰宜から以上の話を承つた丈けです。
尚おたづねの藤かざすは、別に宇佐神宮の古事からえたわけでもなく、私の創始でございます。
宇佐の女禰宜(ニヨネギ)は昔は大変な勢力があつたけれども、鎌倉時代に廢絶したものゝ如く、今も女禰宜の屋敷跡などいひつたへるものが宇佐の古い築地町の中などにはさまつてゐます。
丁度私が宇佐に詣つた時は、神苑の藤が咲くころで、あの濃紫色の花房から、私は奈良朝時代や源氏物語中の古典の舞樂、丹の欄にぬかづく、淸そな女禰宜の藤をかざしてでもゐる樣な面影をふと思ひうかべました。神苑の森ふかく老樟そびゆるところ、昔の宇佐の宮居は、さぞ藤がいつぱいうち垂れてゐはしなかつたらうかなどとも考へまして。
尚宇佐の盤境は、神宮発祥の地として現今の宮から数十丁奥の、人跡まれな宇佐山にあり、三比賣大神天降の地。三比賣神にかたどつて三体の、一丈餘の大岩をたて、其めぐり岩でかこんだ、つまり石器時代の神祇の古跡で、しめを張り、常はたつた一人の禰宜が居ます。
古事記等にある盤場の一つで、御承知とは在じ上ますが申添ます。尚宇佐の鎭疫祭奉納の雅楽の蘭陵納蘇利のつけます二つの面は宝物で千年以上のもの。之をかぶり、古剣をふるひつつ、神宮寺跡の大地で土地の古老が毎年まひます。此蘭陵、なそりと二つの悠長な面に眺め入つてますと、千年といふ永い歳月の流れ、幾変遷してゆく悠長の時代といふものを私は今更らながら感じ、自分自身もどんどん時代の波に洗ひ流されてしまふのだといふ心地がしみぐしました。
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簡単に語注を附しておく。
・「譽田別尊」応神天皇の諱で「ほむたわけのみこと」と読む。
・「四五寸」十三~十五センチメートル程。
・「女禰宜(ニヨネギ)」巫女。めねぎ。
・「盤境」底本には編者による『(ママ)』注記が右につくが、問題ない。これは「いわくら」又は「いわさか」と読み(盤座とも書く)、祭祀に際して神が降臨する岩石若しくは石を築き廻らした一定の場所を指す語で、本邦に於いては社殿建築以前の古代祭祀の結界祭場と考えられるものをいう。後の「盤場」(「ばんじょう」若しくは「いわば」と読んでいるか)も同じ。
「数十丁」十丁(町)は一キロ強。「宇佐山」というのは宇佐神宮の東南約六キロメートルに位置する御許山(おおもとやま:神宮では「大元山」と書く)のこと。個人サイト「戸原のトップページ」の「社寺巡拝記」の「宇佐の原信仰/御許山(三女神降臨伝承)」によると、これは八幡宇佐宮の元宮という意味を含み、久女の述べているように三女神降臨の伝承があり、山頂に三女神が依代(よりしろ)として降臨したとする三個の立石から成る磐座があるという(現在の頂上部は禁足地となっていて実見不能)。『資料によれば、中央の石が最も大きく高さ一丈五尺』(約四・五メートル)『の烏帽子型、右の石はこれに次ぐ大きさで形はほぼ同じ、左の石は高さ四尺』(約一・二メートル)と有意に『小さく、人の手が加えられた痕跡があるという』とある。
・「鎭疫祭」「ちんえきさい」と読み、「御心経会(おしんぎょうえ)」とも呼ぶ。公式サイトによれば、二月十三日に宇佐神宮で行われる大祭。疫病災禍を祓い鎮める祭で、『前日の宵祭、当日の本殿祭に続き八坂神社前で祭典が行われ』、『幣越神事・陵王の舞・鳩替神事があり』、『境内に浄火が焚かれ、古神札を焼納』するとある。
・「蘭陵納蘇利のつけます二つの面」坂本氏の「杉田久女」に、『納蘇利(なそり)の面は蘭陵(りょうおう)の面ともに池畔の宝物館に展示してある。これは龍を象(かたど)ったインド系の雅楽面で、鎌倉時代の作とされる。盛る句飛び出した大きな眼、吊り顎、白い牙をもち、深い皺は刻まれていて、おおらかなユーモアをたたえた表情である。全体に黒に近いくすんだ色で、目の周囲などに朱が残っている』とし、句の『青丹とは染料や画材に用いる青黒い土』と注されておられる。グーグル画像検索「納蘇利」。
坂本宮尾氏はこれら五句について、「杉田久女」で特に「宇佐神宮五句」という章を設け、諸家の評とともに美事な評釈をなさっておられるので是非お読み戴きたい(一一八~一二二頁)。坂本氏は最後に、これらの五句は『久女の俳句が、日常を抜けてはるか古代の浪漫の世界へ突き抜けたことを示す記念すべき作品群といえる』と讃えておられる。蓋し、名評である。]
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