『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 総説(Ⅳ)~了
川流 音無川、極樂寺川、稻瀨川、滑川、豆腐川、山内川、若水川。
崎 稻村ケ崎、靈山ケ崎、飯島ケ崎。
濱 由井ケ濱、七里ケ濱。
大社 鶴岡八幡宮、鎌倉宮。
五山 建長寺、圓覺寺、淨智寺、壽福寺、淨明寺。
七切通 朝比奈切通、名越切通、極樂寺切通、大佛切通、假粧阪通、龜ケ谷切通、巨福呂坂切通。
五名水 日蓮乞水、梶原太刀洗水、錢洗水、金龍水、甘露水。
十井 六角井、銚子の井、星の井、鐡の井、棟立の井、瓶の井、甘露の井、泉の井、扇の井、底脱の井。
十橋 亂橋、逆川橋、延命寺橋、琵琶橋、夷堂橋、筋違橋、歌の橋、勝の橋、十王堂橋、裁許橋。
[やぶちゃん注:名数は「鎌倉攬勝考卷之一」に載り、十全なる私の注を附してあるので、そちらを参照されたい。
「豆腐川」古い地図を見ると、材木座の弁ヶ谷の東の谷戸を水源とする川で、材木座海岸の和賀江の島近くで由比ヶ浜に流れ込んでいる。個人サイト「鎌倉の川と橋」の「豆腐川」を参照されたい。そこでは最早、流域全長を百メートルとしている。また、近年、市によって完全な暗渠化が企図されており、既に暗渠となってしまっている可能性もある。
「山内川」北鎌倉(旧山内(やまのうち))円覚寺前を流れる山之内川のことであろう。前に示したサイト「鎌倉の川と橋」の「小袋谷川(こぶくろやがわ)」に「山之内川」と出るが、この名称は恐らく現地でしか認識されていない気がする。
「若水川」これは現在は神奈川県横浜市金沢区朝比奈町の川。朝比奈峠を水源とし、同水源の侍従川の支流である。本誌の折込の「「鎌倉實測圖」の「峠村」の端に辛うじて川名を見出せた。]
[やぶちゃん注:以下の鎌倉総説の附記は、底本では「江の島」の前まで、頭の「○」のみ二字目位置にあって全体が二字下げ。]
○東京を距(さ)る十三里、滊車(きしや)の便(べん)あり、新橋發横須賀行の列車に乘込(のりこ)み、鎌倉停車場迄は僅々(きんきん)二時間を要せず、停車場を辭して鶴岡へ六町、更に長谷へ十數町、材木山座へ二十餘町、其日歸りても難からじ。
鎌倉に遊はゞ、先づ莊嚴なる鶴岡八幡宮に詣てよ、鎌府衰廢せしより唯是(ただこれ)巋然(きぜん)たり、舞殿を見ては文治の昔、靜女(しづか)が舞曲の悲哀なるを追懷し、石階の下、隱れ銀香樹(いてう)に公曉がせ實朝を弑せし、過きし昔の夢を訊ね鎌倉宮に詣でてゝは、足利氏が無道を憤り、大塔宮が多年幽閉の苦を偲び、遂に毒刄(どくじん)に罹り、刄(さいば)を含むて永く瞑(めい)せず、其巖窟に臨んでは徐ろに懷舊の涙を催し兩袖爲めに露けかるべし、去て賴朝の墳墓を探れは苔蒸して蔦(つた)封(ふう)し、見る影もなき五輪塔、山川依然たり、將軍爲めに奚(な)んぞ起(た)たざる、去て建長寺に行け、當時猶莊嚴(さうごん)の一斑(いつぱん)を觀るを得へし。
腕車(わんしや)を雇ふて長谷に赴け、觀音堂、大佛尊、孰れも一覽の値あるベし、見終れば材木座に走(は)せよ海水浴場の設あり、由井ケ濱邊の波は沙(いさご)を嚙み、曉凉(ばんれう)一番鮮鱗膳に上(のぼ)る、日の未だ落ちざるに、源氏山に鳴くかなかな蟬の聲を聞き夕滊(ゆふぎ)車にて歸京せよ。七百年來治亂興亡の夢眼前に髣髴として一日の行遊(こういう)足(た)る。
兩三日の暇(いとま)あらば、五山に歷詣(れきけい)し、五名水を掬(きく)し、七切通、古戰塲、古墳墓及び著名の諸舊蹟を訊ね、轉じて江の島に赴かは更に一層の興を添ふベし。
[やぶちゃん注:使用距離単位の一町は一〇九・〇九メートル。
「巋然」高く聳え立つさま。
「文治の昔」義経の愛人、静御前が母磯禅師とともに鎌倉に送られたのが文治二(一一八六)年の三月、頼朝の命により鶴岡八幡宮の回廊(当時は舞殿などはなかったので注意)で、
しづやしづしづのをだまきくり返し昔を今になすよしもがな
吉野山峰の白雪ふみわけて入りにし人の跡ぞ戀しき
と詠って舞ったのは同年四月八日のことであった。
「隱れ銀香樹」としばしば言われるが、その頃にはかの折れた公孫樹はあったとしても、ひょろひょろの苗木のような按配で、とても公暁を隠すべくもなかった。公暁が隠れていたとしても、それは公孫樹ではなく、周囲の植え込みか杉木立の木下闇であった。
「去て賴朝の墳墓を探れは苔蒸して蔦封し、見る影もなき五輪塔、山川依然たり、將軍爲めに奚んぞ起たざる」ここ、私が馬鹿なのか、どうも叙述がしっくりこない。「去つて、將軍爲めに奚(な)んぞ起(た)たざるの賴朝が墳墓を探れば、今は苔蒸して蔦封じ、見る影もなき五輪塔、山川依然たり」と直したいのだが。
「莊嚴(さうごん)」ここは「しやうごん」でないとおかしい。
「一斑」豹の毛皮にある沢山の斑(まだら)紋様の中の一つ、という意から、全体からみて僅かな一部分の意。
「腕車」人力車。
「七百年來」本誌の発行は明治三〇(一八九七)年八月二十五日であるから、その七百年前は建久八(一一九七)年で奇しくも頼朝による幕政が磐石となり、新都鎌倉が活況を呈した時期に一致する。]
江の島
江島は鎌倉を距(さ)る二里、片瀨の南にあり、蜿々(ゑんゑん)たる棧橋を蹈みて到るベし、數十丈の翠巖(すゐがん)海上に突兀(とつこつ)し、常に巨浪(きよらう)山址(さんし)を洗へり。東望(とうばう)すれば近くは七里濱、遠くは房總の山嶽を見渡し、南に伊豆大島、西に箱根の諸岳を望み、遙かに富嶽に對せり、眞に佳境と謂ふベし。
嚴窟及巖石 龍窟、白龍窟、飛泉窟、十二窟、魚板石。
崎及淵 鵜ケ鼻、大黑の鼻、不動鼻、泣面ケ崎、兒ケ淵。
屬島 聖天島、鵜島。
社祠 江島神社。
[やぶちゃん注:「數十丈」「十丈」は三〇・三メートルで、現在の江の島の最高点の標高は標高約六十メートル、しかも関東大震災で隆起した結果であるから、この「數十丈」は誇張に過ぎる。
「山址」島の山塊とその麓の謂いであろう。]
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