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2014/09/18

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 72 今日よりや書付消さん笠の露――曾良との留別

本日二〇一四年九月 十八日(陰暦では二〇一四年八月二十五日)

   元禄二年八月  五日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月 十八日

【その一】この日、芭蕉は八日間滞在した山中和泉屋を発った。「奥の細道」では「曾良は腹を病みて、伊勢の國、長嶋と云ふ所にゆかりあれば、先き立ちて行く」とあるが、事実は以下に見るように「曾良随行日記」によって、金沢から見送りのために同道して山中温泉にも同宿していた立花北枝とともに同日の『晝時分』に先に那谷寺へと発ち、曾良はその後、程なく山中を発っている。これは何か、奇妙ではあるまいか?

 ともかくも、百二十五日目(「奥の細道」の旅は江戸深川から大垣まで全行程は百五十六日で約六百里、二千四百キロメートル相当)の曾良との別れの句である。

 

今日よりや書付消さん笠の露

 

今日よりは書付消さん笠の露

 

  同行(どうぎやう)なりける曾良、道より

  心地煩(わづらは)しなりて、我より先に

  伊勢の國へ行(ゆく)とて、「跡あらむ

  倒(たふ)れ臥(ふす)とも花野原」とい

  ふ事を書置(かきおき)侍るを見て、いと

  心ぼそかりければ

さびしげに書付消さんかさの露

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目は「芭蕉句選年考」(石河積翠著・寛政年間(一七八九年~一八〇一年)成立)の句形。第三句目は頴原・尾形訳注角川文庫版「奥の細道」の「発句評釈」に「湖中芭蕉翁略伝」に所収する真蹟懐紙の句形(現在は原物不明)として示されるもので、前書の「心地煩しなりて」はママ。

「書付」この場合は行脚僧や巡礼などが常に仏や弘法大師と一緒にいるという意を込めて笠の内側などに書きつけるところの「乾坤無住同行二人」(ともに天地の間を修行する一所不住の謂い)を指す。それを笠においた露をもって万感の思いの中、手ずから消す芭蕉の実写にのみ私は心打たれてきたのだが、流石は安東次男氏は岩波同時代ライブラリー「古典を読む おくのほそ道」で、そこを恐るべき博識を以ってディグしている。「奥の細道」に先行する曾良の句の句解を含め、引用するには長過ぎて、やや憚られるものの、引かずにはおれない(恣意的に西行の和歌や「曾良随行日記」の引用部分は正字化し、踊り字「〱」は「々」とした。太字「後追」は底本では傍点「ヽ」)。

   《引用開始》

○行々てたふれ伏とも萩の原曾良――「いづくにかたふれ伏共(とも)萩の原」として「書留」に見える。「元禄二年翁に供せられて、みちのくより三越路(後・中・前の三つ)にかゝり行脚しけるに、かゞの国にていたはり(労、病)侍りて、いせまで先達(さきだち)けるとて」と前書をつけ、同じ句形(「いづくにか」)で『猿蓑』にも収める。「行々て」は、元禄四年夏より後の句形である。『ほそ道』に入れるために、芭蕉が改めたものかもしれぬ。たぶんそうだろう。

 「無常の歌あまた詠みける中に、いづくにかねぶりねぶりてたふれ伏さんとおもふ悲しき道芝の露」(西行、山家集)

 この歌を下敷にした作りに相違ないが、初の形には更に別案があった。「原」の傍に「かゞ」と注目すべき書入が見られる(「いづくにかたふれ伏とも萩の加賀」)。これだと、加賀の地かもしくは其地での思出にうしろ髪を引かれる、留別の吟ということになる。通説は、西行歌に釣られて、曾良の行脚の覚悟と解しているようだが、改めた末の形はどうあれもとはそういうつもりで詠んだ句ではない、ということがわかる。「萩の原」が、同行の思出ひいては後に残す芭蕉の身を案ずる心の表現だ、とは続けて芭蕉の唱和の句を読めば納得がゆくのだ。

[やぶちゃん注:中略。]

○今日よりや書付消さん笠の露――「書付」の事実は知られていないが、貞享五(元禄元)年の春、万菊丸(杜国)を伴って吉野に遊んだときは、「乾坤無住同行二人」と笠の内にしるした(『笈の小文』)。今回も同じに考えてよいだろう。同行二人とは、もともと御仏と二人の意味である。一人旅でもよい。ならば消す必要はないわけだが、それを「消さん」と云っているところに、まず含のある句の趣向をさぐらせる。

 先行する者が、西行歌を使って留別の句を詠めば、跡に残った方は西住(さいじゅう)を思わぬはずがない。西住は西行が『山家集』のなかで、只一人「同行」の名を以て呼んでいる人物である。出自や経歴はよくわからないが、いうなれば影の形に添うごとき存在で、西行の無二の友だった。その西住を讃岐修行に伴ったときの歌が、『山家集』にある。

    四國の方へ具して罷りたりける同行、都へ歸りけるに、

  歸りゆく人の心を思ふにも離れがたきは都なりけり

    ひとり見をきて歸り罷りなんずるこそ

    哀れに、何時か都へは歸るべき、など

    申しければ、

 柴の庵のしばし都へ歸らじと思はむだにもあはれなるべし

とくにこの後の歌が、句作りのたねのようだ。前書に云う「見捨てて帰るさえつらいのに、いつ君は都に戻るのか」く問うのは西住である。「西行は都へ帰らぬだろうと、一瞬君が思うのさえあわれである」と慰めるのは西行だ。道心のなかにユーモアを覗かせる歌だが、前書共、一首はそのまま曾良に対する芭蕉の送別の口ぶりに置換えることができる。

 ここまで読むと、問答の意味がようやくはっきりする。「書付消さん」は、相手の心残りを断つ工夫だ(自分のためなら「同行二人」を消す必要はない)。安心して先に行け、と芭蕉は云っているのである。君は、「道芝の露」の歌を使って、深刻に別れを告げたがるが、この場にはむしろ「柴の庵」の歌の方が似合う、とはげましていると読んでもよい。近いうちに又合うではないか、とも慰めている。

 「いづくにか」を「行々て」に改めたのは、やはり芭蕉だった、と考えてよいだろう。その辺のことがわからぬと、読取はすっかり狂ってしまう。一句立なら甚だ無性格で、見送る人・送られる人どちらでもよいが、そうではない。第一、「消さん」とは、書かれたものが先あってのはなしである。同行を安堵させるための後追の興らしいということは、字遣いからも見当がつく。それを西住・西行の関係に是めれば、おのずと拠るべき情況と歌はうかんでくる。いかにも脇づとめの上手らしい目の付けどころだろう。この句は「書留」にはもうしるされていない。

 「五日(九月十八日)朝曇。晝時分、翁・北枝、那谷(なた)へ趣。明日於小松左駒萬子(まんし)(加賀藩士、知行千石。以後蕉門)爲出會也。…立、大正侍ニ趣。全昌寺へ申刻着、宿。夜中、雨降ル。」(日記)[やぶちゃん注:後略。「那谷」は現在の小松市那谷町の那谷寺。「奥の細道」では時系列変更によって山中の段の前にある。後日、評釈する。「大正侍」は「正」の右に『(聖)』と安東氏の傍注がある。現在の石川県加賀市大聖寺町のこと。前田家支藩七万石の城下町であった(「侍」の誤記については、やはり後日の評釈を待たれたい)。「全昌寺」加賀市大聖寺町の曹洞宗の寺。山中温泉の和泉屋の菩提寺であり、当時の住持月印は和泉屋若主人久米之助の伯父であったから、明らかに久米之助の配慮による紹介である。芭蕉もこの後日に同寺に泊している。なお以下、山中逗留中に興行された北枝・北枝・芭蕉三吟による七巡(二十一句。但し、二十二句目以降は北枝・芭蕉の両吟となる。安東氏によれば、『以後たぶん両人の別れ(松岡)までの間に歌仙満尾し、『卯辰集』に収められ』たとある)の解説と全句が載る。]

   《引用終了》

まさに安東節、再炸裂、彼の評は凡百の国文学者が総出でかかっても敵わない気がする。

  第三句について同引用元(頴原・尾形訳注角川文庫版)では、『「煩しなりて」のごとき不審の点もあるが、忽卒(そうそつ)』(「倉卒」に同じい。慌ただしい中で、の意)『の際に書いたものとすれば、誤脱もないとはいえない。とにかくまったくの偽作とも思えないようである。あるいはこれが実際初案であったのかも知れぬ。すると曾良の句も「跡あらむ倒れふすとも花野原」から、次第に推敲(すいこう)をかさねられたわけである』とある。これは傾聴に値する見解と思う。

 以下、「奥の細道」から山中温泉の曾良留別の段を引く。

   *

曽良は腹を病て伊勢の国長嶋

と云處にゆかりあれは先立て旅

立行に

  ゆきゆきてたふれ伏共萩の原

と書置たり行ものゝ悲しみ殘る

ものゝうらみ隻鴨のわかれて雲に

まよふかことし予も又

  けふよりや書付消さん笠の露

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇先立て旅行(たびゆく)に → ●先立て行くに

○隻鴨           → ●隻鳧

■やぶちゃんの呟き

「曽良は腹を病みて」確かに、「随行日記」を見ると曾良は金沢で、

 

一 十七日 快晴。翁、源意庵ヘ遊。予、病氣故不隨(したがはず)。今夜、丑ノ比ヨリ雨強降テ、曉止。

 

とあり、以下(■は判読不能の字)、

 

一 廿一日 快晴。高徹ニ逢、藥ヲ請(こふ)。翁ハ北枝・一水同道ニテ寺ニ遊。十德二ツ。〔■■〕十六四。

一 廿二日 快晴。高徹見廻(みまふ)。亦、藥請。此日、一笑追善會、於  寺興行[やぶちゃん注:空白はママ。願念寺。]。各朝飯後ヨリ集。予、病氣故、未ノ刻ヨリ行、暮過、各ニ先達而歸(さきだつてかへる)。亭主丿松(べつしよう)。

一 廿三日 快晴。翁ハ雲口主(あるじ)ニテ宮ノ越ニ遊。予、病氣故不行(ゆかず)。江戸ヘノ狀認(したたむ)。鯉市・田平・川源等ヘ也。徹ヨリ藥請。以上六貼也。〔今宵、牧童・紅爾等願滯留。〕

 

と、芭蕉との同行を何度も欠している。「高徹」(北枝と親交のあった金沢の医師)が処方もし、往診もしているから、体調不良のためであることは間違いない。次の滞在地である山中温泉は胃腸病に効くことでも知られるから、曾良の病態はまさに「腹を病」むというところの、急性か亜急性の胃腸障害であった可能性が窺われる。

 しかし、この翌七月二十四日に金沢を発ってから(北枝も同行)は、山中滞在中で、

 

廿九日 道明淵[やぶちゃん注:山中温泉の東方を流れる大聖寺川にある淵。]、予、不往(ゆかず)。

 

とある以外には(ところが翌『八月朔日』の記事には『快晴。道明が淵。』とあって恐らく曾良一人で同所に行っているのである)、実は芭蕉と分かれて先行すること、八月十五日の伊勢長島の大智院(現在の三重県桑名郡長島町の内)到着までの一人旅の日記には体調不良の記事は認められない。但し、この大智院に着いた翌日の条に、

 

十六日 快晴。森氏、折節入來(じゆらい)。病躰談(だんず)。

 

俳友ででもあったかと推測される、訪ねて来た大垣藩藩医森恕庵玄忠に病態の相談をしている。以上、ここでは事実のみを注して、私の推理は最後に述べることとする。本文への注を先に片づける。

 

「ゆきゆきてたふれ伏共萩の原」既に第三句形の前書や安東氏の引用にも出たが、これらを総合すると本句には以下、決定稿の他に三形が認められることになる。

 

 行き行きて倒(たふ)れ伏すとも萩の原

 

 跡あらむたふれ臥すとも花野原

 

 いづくにかたふれ伏(ふす)とも萩の加賀

 

 いづくにかたふれ伏とも萩の原

 

最初の句が「奥の細道」本文の句形(当然、芭蕉の斧正による決定稿)、第二句目が「湖中芭蕉翁略伝」所収の真蹟懐紙の句形、第三句目が「曾良俳諧書留」の句の傍らの書き入れを復元したもの(安東氏に拠る)、第四句目は「曾良俳諧書留」の決定稿(?)と「猿蓑」に載る句形である。但し、この句は実は「書留」の旅中の部分ではなく、「猿蓑」入集句をメモした部分に書かれてあると頴原・尾形角川版の発句評釈の補記に記されてある。それらを総合すると私の推理では、

 

 跡あらむたふれ臥すとも花野原

   ↓(曾良推敲若しくは芭蕉の初期斧正)

 いづくにかたふれ伏とも萩の原

   ↓(曾良改悪)

 いづくにかたふれ伏(ふす)とも萩の加賀

   ↓(芭蕉最終斧正)

 行き行きて倒(たふ)れ伏すとも萩の原

 

の推敲過程を経たものかと思う。決定句は私には曾良の句というより芭蕉の句という誤認印象の呪縛から私は逃れられないのである。

「隻鴨のわかれて雲にまよふかことし」「隻鴨」は「そうこう」と読み、雌雄つがいのカモのことをいう。通行本では「隻鳧」とし「せきふ」と読んでいるが、「鳧」は広義に、また芭蕉の当時は、カモ目カモ亜目カモ科 Anatidae に属するもののうち、ハクチョウ・ガン・アイサの仲間を除いた、中形の水鳥であるカモ類を総称するものであると考えてよい。具体的にはマガモ・コガモ・オナガガモ・ハシビロガモなどが含まれる(ここは主に「大辞林」の記載に拠った。狭義にはチドリ目チドリ亜目チドリ科タゲリ属ケリ Vanellus cinereus がおり、これに限定している評者が実は多いが私は従わない)。これは十九年の永きに亙って匈奴に捕われていた漢の蘇武が、両国の和睦によってついに帰国の途に就くこととなり、かつての盟友で匈奴に投降して厚遇されていた李陵(匈奴の右校王となった)の別れに際し詠んだ詩の一節にある(「蒙求」所収)、

 雙鳧俱北飛

 一鳧獨南翔

 子當留斯館

 我當歸故鄕

  雙鳧(さうふ) 倶(とも)に 北に飛び

  一鳧(いつふ) 獨り 南に翔(かけ)る

  子(し)は當に斯の館(たち)に留むるべし

  我は當に故鄕に歸るべし

に基づく。この「雙鳧」(私はこれも広義の鴨と採るものである)と「一鳧」から、芭蕉は「隻鳧」(=隻鴨)としたことは間違いなく、それについて安東次男氏は前掲書で、『一を隻に置替えて、隻の暗示(別れがあればいっしょになる日もある)としたところがうまい。一、二は単なる数だが、隻、雙は一躰という点が目付だ。隻は手(又)に一羽の鳥(隹)を、雙はつがいの鳥を持つ意味である』とまたしてもの安東節で剖り分ける。少し補足すると「隻」は「右手」を表わす「又(ユウ)」と「鳥」の意の「隹」の合字で、手に一羽の鳥の羽を握っているの意の会意文字で、そこから「一つ」の意となるのに対し、対義語である「雙」は二羽の鳥(「隹」+「隹」)を手(「又」)で持っている意の会意で、一対・一つがいの意となったものである(「双」は「雙」の俗字で二つの手で原意に通じたものである)。

 

 さて。

 「曾良随行日記」の芭蕉と曾良が別れた八月五日を再度見てみよう(安東氏の引用は省略がある。またこの箇所は判読不能の部分があり、諸本で異なる。そこは角川文庫版を参考にしながら独自のテクストとした。〔 〕は割注であるが全く判読出来ないものらしい)。

 

一 五日 朝曇。晝時分、翁・北枝、那谷ヘ趣。明日、於小枩ニ(こまつにおいて)、生駒萬子、爲出會也(しゆつくわいのためなり)。〔■■〕■〔■■〕聊從シテ歸テ、艮刻、立。大正侍ニ趣。全昌寺ヘ申刻着、宿。夜中、雨降ル。

 

 この判読不能の本文や割注部も実に怪しいが(続く「聊從」は「順從」や「輒談」と判読するものもある。私は那谷寺へ向かう道を少しだけ見送って山中温泉に帰ったと読む)、原本を見ることが出来ないのでそこは問題にしないこととしよう。「生駒萬子」は加賀藩士で蕉門の生駒万兵衛(後述する)。

 問題は芭蕉・北枝の出立が前で、それから程なくして(「艮」ではおかしいので、現在、「即」の誤字と考えられている)曾良が出発したという点なのである。

 芭蕉は曾良の胃腸の不具合を思い遣って、恐らく同病に効く山中温泉への今暫くの湯治を曾良に勧め、曾良もそれを肯んじたのではなかったか?

 ところが、いざ、別れて和泉屋で独りきりとなり、甲斐甲斐しく世話しようとする、芭蕉の耽溺した十三歳の美少年の主人久米之助と向き合ってみると、曾良は居ても立ってもいられなくなり、突発的に発つことに決せずにはいられなくなったのではなかったろうか? そう考えた時にのみ私は、この奇妙な曾良の行動の意味が初めて納得出来るのである。

 私は、先の山中滞在以降の評釈以降ずっと述べて来た通り、曾良は山中温泉での芭蕉の、桃妖久米之助に対する溺愛を見てきた。その彼にしてこの少年と居ることは出来ないことは言を俟たない。

 確かに山中直前の金沢から、曾良の胃腸の不具合は発生しているが、私は実はこれは暑気当たりや水や食物による中毒及び感染症ではなく、また内因的な病変による胃腸疾患でもなく、心因性の神経性の胃腸疾患ではないかと疑っている。

 則ち、この少し前から芭蕉との間には――少なくとも曾良には誠心籠めて付き従ってきた芭蕉に対する――ある種の精神的な意味での抑えがたい不満や不快感が募り初めてきていたのではなかったかと思うのである。

 それは私の推理では、恐らくあの躓きの多かった苦難の越後越中路辺りから兆し始めたものと考えている。「随行日記」を見ると例えば、六月二十七日の温海(あつみ)を発った条をみると、

 

廿七日 雨止。温海立。翁ハ馬ニテ直ニ鼠ケ關被趣(おもむかる)。予ハ湯本ヘ立寄、見物シテ行。半道計ノ山ノ奥也。今日モ折々小雨ス。及暮、中村ニ宿ス。

 

とあって、異例の別行動を取っているのである。――芭蕉は鼠ヶ関に直行したが、曾良は二キロメートルほど山に入ったところにある温海温泉の湯本へ日帰り湯をした――というのである。なお、これについて「腑に落ちない」と疑問を投げ掛けておられるのは管見する限り、「芭蕉奥の細道事典」の山本胥氏ぐらいなもの(当該書三六三頁)である)。この頃から、この「同行二人」の芭蕉―曾良の乖離現象は始まっていたのではなかったか?

 また、山本氏の同書の記載(四三三頁)によると、金沢を発って小松に向かった折り、松任(まっとう:現在の石川県南部の松任市)まで来たところ、「随行日記」の中に出る芭蕉の弟子で加賀藩士生駒万兵衛(芭蕉の金沢滞在中は勤めで会見出来なかった)が裸馬で追い駆けてきて、『白い絹と袷(あわせ)と金子(きんす)三両を餞別として差し出した』が、『芭蕉はかたくなに拒否している』事実が生駒万兵衛の日記によって分かっているとある。しかも『どうやらこのとき、芭蕉の路銀は底をついていたようだ。すべての会計をまかされている曾良は、それにも心を悩まされていた』とあるのである。どうも芭蕉は金銭の授受に対しては異常な潔癖感を持っていたらしい。但し、山本氏の『底をついていた』という表現は大袈裟で、それでは旅はここで終わってしまうから、ここは二人で敦賀――近江蕉門の出迎えがあるから大垣までではなく、ここまででよい――まで旅するにはあまりに心もとないものしか手元になかったということを意味するものであろう。しかしそれはまさに、胃が痛くなるような更なる現実的懊悩に曾良が苛まれていた事実が浮かび上がってくるのだ。

 曰く、私はそうした内憂外患が曾良の神経を一ヶ月余りに亙って苛み、神経性胃炎辺りを発症させ、漸次増悪した上に、山中温泉でアッシェンバッハ芭蕉(ヴィスコンティの映画版「ヴェニスに死す」の主人公。原作はあくまで「老作曲家」)がタドジオ久米之助を溺愛するさまを見るに及んで――やってらんねえ!!!――と、遂に曾良の堪忍袋の緒が切れたのではなかったかと、私は二十の頃からずっと信じて疑わないのである。少なくとも曾良が芭蕉と別行動をとることに決した背景にはそれ以外のしっくりくる説明を私は私自身に出来ないのである。――

……因みに、芭蕉は曾良のそうした精神変調に気づいていなかったのかといえば……芭蕉はとっくに気づいていたものと思う。

 芭蕉はしかし、それを指摘したり、それに合わせて自身の言動を変化させるタイプの人間ではない。

 曾良から先行する意志が明らかにされた時も芭蕉はそれを実に穏やかに受け入れたのであろう。

 そもそもが曾良は曾良で、その提案を、これ見よがしの本音の「やってらんねえ!」ケツ捲り方式で芭蕉に告げるとなどということはありえない。――腹の具合が悪いこと――思うところあって伊勢長島に急ぎたく思うこと(これについては安東氏が「古典をよむ おくのほそ道」(二六六頁)で『曾良は、あわよくば長嶋に新風を育てて、ゆくゆく伊勢路経営の拠点にするつもりだったのかも知れない。金沢の乙州の経営ぶりを面の当り見たことも、刺激になったと思う。例の先行の理由はここにも一つ見つかる』とされており、非常に示唆に富む)――向後も立花北枝という新しい同行者が途中(福井の旧知の等栽宅まで。但し、何故か、北枝はその僅か手前の丸岡で芭蕉と別れている。それはまた「物書(かい)て扇引きさく余波(なごり)かな」の句で考えてみたい)までは同道して呉れるであろうこと――等々の最もな理由をのみ淡々と並べ、芭蕉にやんわりと別行動の慫慂をしたものと考えてよい。

 但し、そこで曾良は芭蕉がそれを禁じ、慰留し、同行を続けるよう命じて呉れることをどこかで望んでいなかったかと言えば嘘になるような気はする。

 しかし、何と、芭蕉はここで笑みとともにそれを快諾し、逆に曾良を思いやって、

「今暫くこの山中の湯に入って養生致すがよかろうぞ――」

と労わって呉れたのではなかったか?

 曾良が結局、足早に山中を発ったのは、別な意味では、師に対する一時の違和感や桃妖への嫉妬心に駆られて、取り返しのつかない我儘(この後の行程から見れば、芭蕉は曾良の後をかなり忠実に追う形をとっているから、曾良が同行を再開することも容易ではあった。しかし縷々言い訳し、留別吟までも交わして別れた手前、途中で芭蕉を待って合流するのは、流石の根性なしの私でさえもやらぬ、如何にもおぞましい行為であることは言うまでもない)を通してしまったことへに一種の強烈な自己嫌悪が作用したから、と言えなくもないようにも思えてくるのである。……]

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