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2014/09/10

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 69 山中や菊はたおらぬ湯の匂ひ

本日二〇一四年九月  十日(陰暦では二〇一四年八月十七日)

   元禄二年七月二十七日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月  十日

である。【その一】この日、芭蕉は山中温泉に到着、八月五日まで八日間も滞在した。山本健吉氏の「芭蕉全句」によれば、宿所は湯本十二軒(山中温泉草創より営む十二の旧家)の一つ和泉屋(現在の温泉街中心部である石川県加賀市山中温泉本町にあった温泉宿。現存しないものの、和泉屋に隣接していた現存する山中温泉最古の建築である宿屋扇屋別荘の建物を移築、芭蕉の資料を展示する芭蕉の館となっている。リンク先は公式サイト)、当主は未だ十四歳(満十三であろう)の久米之助(これは幼名で成人後は甚左衛門と名乗った)という少年で、彼の祖父及び父は貞門の俳人として知られていた。この時、少年久米之助も芭蕉に入門、桃妖(桃夭とも)という号を貰っている。本句はこの少年に与えた句である。

 

山中や菊はたおらぬ湯の匂(にほひ)

 

  山中ノ湯

山中や菊は手折らじ湯の薰(にほひ)

 

[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」、真筆懐紙(勝峰晋風編・昭和五(一九三〇)年刊の真蹟図録集「芭蕉翁遺芳」)には、

  北海の磯傳ひして、加州山中の涌湯(い
  でゆ)に浴ス。里人の曰、このところは
  扶桑三の名湯の其一なりと。まことに浴
  する事しばしばなれば、皮肉うるほひ、
  筋骨に通りて、心神ゆるく、偏に顏色を
  とゞむるこゝちす。彼(かの)桃源も舟
  を失ひ、慈童が菊を枝折(しをり)も知
  らず。

と前書し、文末に『元祿二仲秋日』とある(ここは角川文庫版頴原・尾形訳注「おくのほそ道」に拠った)。これは山中温泉をかの陶淵明の「桃花源之記」の深く迷い行った山中の桃源郷に擬え、更に周の穆(ぼく)王に仕えた侍童菊慈童をも引き出す。この侍童は罪あって南陽郡の酈(れき)県に流されてその地の山中で菊の露を飲み、遂には不老不死の仙童となったという。謡曲に「菊慈童」(観世流の題。他流では「枕慈童」と題する)があり、そこでは周から七百年後の魏の文帝がこの仙童に逢って、童子は菊枕を戴き、帝の七百年の長寿を言祝ぎ、菊を手折って山中へと消えてゆくというストーリーである。まさにこの「山中」温泉の湯は不老不死の妙湯で、かの漁師が桃源郷に行くべき舟などなんのその、菊慈童の手折る菊(古来より菊酒・菊枕など長寿や無病息災の霊能を持つ)の露も不要、というのである。しかもここから、句自体があからさまに「菊」慈童を久米之助に通わせて、しかもやはり見え見えの「菊」「たをらぬ」(正しい仮名遣は「たおらぬ」)「少年」からこれは久米之助少年への――クナーベンリーベ(Knabenliebe)――少年愛の句であることが分かるのである。「扶桑三の名湯の其一」とあるが、一般には「日本三名泉」は有馬温泉(兵庫)・草津温泉(群馬)・下呂温泉(岐阜)、「日本三古泉」は有馬温泉・道後温泉(愛媛)・白浜温泉(和歌山)〔白浜・道後の代わりに下呂や別府等を入れる説もある〕、「枕草子」第百十七段に載る「三大名泉」は榊原温泉(三重)・有馬温泉・玉造温泉(島根)で古来の名湯名数には挙がってこない(個人サイト「名湯・秘湯・立ち寄り湯」のこちらのページを参照させて戴いた)。ウィキの「山中温泉」によれば、開湯から千三百年とされ、『奈良時代行基による開湯伝説も存在する。しかしながら広く知られる開湯伝説は平安時代の開湯とされ、鎌倉武士、長谷部信連は傷を負った白鷺が傷を癒しているところから発見し、あらためて掘ってみたところ温泉が湧き出たと言われる』とあるから古湯であることは確かで、何よりまさに「奥の細道」のこの記載によっても、山中温泉は後世、芭蕉が訪れ、殊の外気に入った名湯として知られるようになったとも言えよう。しかも芭蕉は一見、温泉を好まないことが「奥の細道」全体を読んでいると分かる(但し、この芭蕉の「温泉嫌い」(ウィキにもそうある)というのは、恐らく当時の温泉地の持つ世俗的喧噪や、ある種の猥雑性に対する芭蕉の生理的嫌悪感に基づくものであると私は思っている)。

 第二句目は、「曾良俳諧書留」の句形で、これが初案。明確に、手折るまい、と語りかけた確信犯の強さはよいが、すると上五/中七/下五と三段に切れていかにも句意の優しさと合わない。

 以下、「奥の細道」の「山中の段」。ご覧のように、芭蕉はまたしても時系列操作を行って、あたかも那谷寺を山中へ向かう途中で参詣したかのように改変しているが、事実は山中を発った八月五日の句である。前半については後に「石山の」の句の注で再掲して注する。

   *

山中の温泉に行ほと白根か嶽

跡に見なしてあゆむ左の山際に

觀音堂有花山の法皇三十三所

の順礼とけさせ給ひて後大慈大悲の

像を安置し給ひて那谷と名付給ふと也

那智谷組の二字をわかち侍しとそ

-石さまさまに古-松植ならへて

萱ふきの小堂岩の上に造り

かけて殊勝の土地也

  石山の石より白し秋の風

温泉に浴す其功有明に次と云

  山中や菊はたおらぬ湯の匂

あるしとするものは久米之助とて

いまた小童也かれか父俳諧を好て

洛の貞室若輩のむかし爰に

來りし比風雅に辱られて洛

に歸て貞德の門人となつて世に

しらる功名の後此一村判詞の料を請す

と云今更むかしものかたりとは成ぬ

   *

 

■異同

(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)

〇那智谷組の二字    → ●那智・谷汲の二字

○好(このみ)て    → ●好み

○むかしものかたり   → ●昔語(むかしがたり)とはなりぬ

 

■やぶちゃんの呟き

「有明」有明は「有間」の誤字。これは決定稿でも残存している不思議な誤記である。有馬温泉のこと。

「貞室」安原貞室(ていしつ 慶長一五(一六一〇)年~延宝元(一六七三)年)は江戸前期の俳人。貞門七俳人の一人。名は正明(まさあきら)、通称、鎰屋(かぎや)彦左衛門、別号は腐俳子(ふはいし)・一嚢軒(いちのうけん)。京都の紙商であった。寛永二(一六二五)年、松永貞徳に師事して俳諧を学び、慶安四(一六五一)年四十二歳で点業(俳諧の点者として興行を生業とすること)を許された。貞門派では松江重頼と双璧を成したが、自分だけが貞門の正統派でその後継者であると主張するなど、同門、他門としばしば衝突した。主に参照したウィキの「安原貞室」によれば、『作風は、貞門派の域を出たものもあり、蕉門から高い評価を受けている』とある。

「久米之助」久米之助は如何にも若年で当主というのが気になるが、石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ「実高ふれ愛隊日記」の隊員NO.5あやかさんの報告になる西島明正氏の講演内容の要約によれば、『まだまだ若い久米之助の後見役をしていたのが、叔父の自笑(じしょう)で』、彼は『加賀の俳壇で人気のあった人で、芭蕉が金沢に着いたとき、金沢まで出かけ、山中温泉に芭蕉を誘ったとも言われてい』るとある。また桃妖は、宝暦元(一七五一)年十二月二十九日、満七十五歳で逝去、桃妖の墓は、今も医王寺にあるとある。高野山真言宗国分山医王寺は加賀市山中温泉薬師町の薬師山にあり、行基開創とし、温泉守護寺として薬師如来を奉っていることから、通称「お薬師さん」として親しまれている。芭蕉の忘れ杖などを所蔵している(山中温泉観光協会公式サイト内の医王寺」に拠る)。この「自笑」は「泉屋自笑」で、『笑江沼郡山中の俳人。桃妖の父又兵衞の弟。又兵衞が桃妖四歲の時死んだからその後見をしたので、春廉集にはいづみや隱居と記されて居る。寶水六年正月十日歿』と「加能郷土辞彙」(昭和一七(一九四二)年金沢文化協会刊。底本と同じ日置謙氏の編になる。国立国会図書館デジタルコレクション)にある。

「かれが父」角川文庫版頴原・尾形訳注には又兵衛豊連(「とよつら」と読むか)とあり、延宝七(一六七九)年没、『ただし、『書留』には「祖父」とする。祖父は又兵衛景連』といい、寛文七(一六六七)年没とある。「曾良俳諧書留」には、

   *

貞室若クシテ彥左衞門ノ時、未廿餘トカヤ、加州山中ノ湯ヘ入テ宿、泉や又兵衞ニ被ㇾ進、俳諧ス。甚恥悔、京ニ歸テ始習テ、名人トナル。一兩年過テ、來テ俳モヨホスニ、所ノ者、布而習ㇾ之。以後、山中ノ俳、點領ナシニ致遣ス。又兵ヘハ今ノ久米之助祖父也。

   *

とある(以上は岩波文庫版萩原恭男校注「おくのほそ道」のデータに、「奥の細道レビュー」の資料を突き合わせたものである)。

「貞徳」貞門俳諧の祖松永貞徳。

「判詞の料を請ずと云」は「はんじのれう(りょう)をうけずといふ」と読む。貞室が点者となって知られるようになってからも、この村からだけは俳諧指導の謝礼を受け取らなかったという、の意。単なる伝承の類いのようには思われる。

 最後に。十三歳の桃妖には、その雅号をつけるに際して詠まれた次に示す「桃の木のその葉散らすな秋の風」という句もあり、また、山中を去るに当たって芭蕉はやはり後掲する「湯の名殘(なごり)今宵は肌の寒からむ」を彼への留別吟としてものしている。これらは皆、恋情の確信犯である。この桃妖という雅号がまさに「妖」しい。山本健吉氏は『水上の』(山中温泉という山中の水上(みなかみ)の、という謂いであろう)『桃花源のあやしい童子』といった謂いであろうとされるが、別に「桃夭」とくれば、これはもう、嫁ぐ若い女性の美しさを桃の実のみずみずしさにたとえた「詩経」の同名の詩も直ちに想起される。ここではその破瓜のイメージを若衆道に反転させればこと足りる。「桃の木のその葉」を「散らすな」という呼びかけと言い、「湯の名殘り」から「今宵は肌の寒からむ」と語りかける妖艶な秋波のポーズといい――本「山中や」から初めて、徹頭徹尾、これはとんでもない十三の少年への禁断に近い危ない恋句群と私は感ずるのである。

 但し、私は個人的にこれらの句群が嫌いではない。但し、上手いとは思わない。それでも、世の俳諧の宗匠(当時、芭蕉は満四十五歳)である何とも浮世離れした壮年の男性から、十三の時にこれらの句を捧げられたら、これは私も天にも昇った気持ちになることは請け合う。芭蕉から句を頂戴するだけでも、凄いことだが、これはまさに恋歌なのだ。

 だが問題は別にある。

……この芭蕉の形振り構わぬホモセクシャルな恋句の連発を前にして……ここまで旅の辛酸や感動をともにしてきた、かの曾良が……とてものことに穏やかでいられたはずが――ない――のだ……

……事実……曾良はまさにこの山中を最後として芭蕉と別行動をとることになるのである……そこはまた、「今日よりは書付消さん笠の露」の句で考えてみたい――]

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