杉田久女句集 272 花衣 ⅩLⅠ 宇佐櫻花祭 三句
宇佐櫻花祭 三句
うらゝかや朱のきざはしみくじ鳩
三宮を賽しおはんぬ櫻人
櫻咲く宇佐の呉橋うち渡り
[やぶちゃん注:「宇佐」大分県宇佐市南宇佐にある宇佐神宮。公式サイトなどによれば、全国の四万社余りある八幡の総本宮で、祭神である八幡大神(はちまんおおかみ)は応神天皇の神霊で、欽明天皇の御代、五七一年に初めて宇佐の地に示顕したと伝えられ、神亀二(七二五)年に現在地に御殿を造立、八幡神を祀ったのを創建とするとある。天平三(七三一)年には神託により二之御殿が造立され、宇佐の国造が比売大神を祀っている。比売大神(ひめのおおかみ)は八幡神が現われる以前の古い地主神として祀られ崇敬されてきたもので、宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)に比定されている。二句目に出る応神天皇の母神功皇后(別名を息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)とも呼ぶ)を祀る三之御殿は弘仁一四(八二三)年の建立になり、母神として神人交歓・安産・教育などの守護を成すとされる。
「宇佐櫻花祭」公式サイトによると、桜花祭(おうかさい)は四月十日に行われる宇佐神宮の小例祭で巫女が桜の枝を手にして豊栄の舞を舞うとある。
「みくじ鳩」宇佐神宮の民芸品で御御籤を兼ねる。「観光館 文福」(昭和三一年創業の宇佐神宮の参道入り口に位置するレストラン)のこのブログ記事によれば、『本来は宇佐の溝口ひょうたん本舗の創業者(現在の溝口栄治社長の祖父にあたる方)の発明品』であったらしいとある。リンク先で新旧のみくじ鳩を見られ、『画像の右側に色鮮やかで、大きな張り子の鳩が二つあり』、それが『本来のみくじ鳩で』、『胸のところにみくじ鳩と書いてあり』、『この紙を剥ぐと中からみくじが出るような仕組みになってい』るとある。但し、『残念ながらこの張り子のみくじ鳩は今はもう作ってい』ないとあるので、久女が手にしたのは今の土鈴ではなく、この大きな張子の鳩であったと考えてよいであろう。
「賽し」「さいし」と読む。賽銭などを掲げて拝むの意。ここは巫女が舞いつつ桜の枝を奉じるように見えることをいうのであろう。
「呉橋」「くれはしと読む。宇佐神宮西参道にある屋根付きの木造橋。ウィキの「呉橋」によれば、『宇佐神宮の神域を画す寄藻川(よりもがわ)に架かる屋根付きで朱塗りの優美な橋である。この橋が位置する西参道は、昭和初期までは表参道であり、朝廷より派遣された宇佐使と呼ばれる勅使が通ったため勅使街道とも呼ばれていた』。現在の橋は元和八(一六二二)年に、豊前小倉藩第二代藩主細川忠利によって修築されたもので(但し、明治九(一八七六)年と昭和二六(一九五一)年に大改修されている)。上部は木造で、三基ある橋脚は石造り、屋根は向唐破風(むこうからはふ)造り(出窓のように独立して葺き下ろしの屋根の上に千鳥破風の如く造られたもの)で檜皮葺(棟は銅瓦葺)である。現在は渡ることはできず、十年に一度の勅使祭の時にのみ使用される。『創建年代は不詳であるが、鎌倉時代より前に存在していたといわれる。中国の呉の人が架けたと伝えられ、これが橋の名の由来となっている』。正安三(一三〇一)年には『勅使として宇佐神宮を訪れた和気篤成』(わけのあつしげ:医師。典薬頭・大膳大夫。「徒然草」第百三十六段に名が出る。)『が「影見れば
月も南に 寄藻川 くるるに橋を 渡る宮人」という歌を詠んでいることから、この頃にはすでに呉橋があったことを確認できる』とある。公式サイトに勅使祭は大正一四(一九二五)年から現在の十年に一度の臨時奉幣祭となったとあり、彼女が本句を詠んだ(坂本宮尾「杉田久女」一一九頁に拠る)昭和七(一九三二)年はこれに当たらない。もしや、この頃は呉橋を一般参詣人が渡ることが許されていたものか? 識者の御教授を乞うものである。私は行ったことがないが、リンク先の画像を見ると、とても素敵な橋である。]
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