耳嚢 巻之八 赤貝和らか煮兩法の事
赤貝和らか煮兩法の事
赤貝を煮るに兎角かたく、或は能くたゝけば肉崩れて其形不宜(よろしからず)。是を和らかにせんに、別の趣法(しゆはう)なし、熱湯の上へ箸樣の者を渡し、其上にのせて蒸(むす)に、和らかに成る事奇妙の由、人のかたりぬ。其かたわらに有(あり)ける人のいえるは、敲(たた)く事つよく敲(たたく)ゆゑに内損(うちそん)じ見ぐるしく、箸にひとしきものを以て靜(しづか)に心永(こころなが)くたゝけば、和らかに成る由、ためし見しと語りぬ。いづれも手法はあるものなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。一般に貝類は長く煮れば堅くなる。さっと湯通しするのが普通だが、まさに第一の方は遠くから湯気を当てて緩やかに蒸す適法と言える。また、青柳などでもそうだが、強く叩き過ぎると逆に(というより俎板に叩きつけると)肉が締る(そこでお兄さんになって肉が緩んでしまったものをわざと叩きつけて新鮮なものに偽装する仕方を悪しき板前はよくする)ので、新鮮なものでは、軽く刺激を与えて血行をよくさせてやるならば、逆に柔らかになろうかとは思う。しかしこの話、訳しているうちに、人間のあらゆる直接的な粗暴行為に対する一種の換喩のようにも見えてくるから不思議である。
・「赤貝」アカガイ
Scapharca broughtonii であるが、当時の漁師はいざ知らず、一般の江戸庶民はアカガイと近縁のサルボウ
Scapharca kagoshimensis の区別は出来なかったものと考えてよかろう。因みに両者の判別のポイントは殻の凸方の肋にあり、アカガイの殻上の肋の数が四十二本前後であるのに対して、サルボウは三十二前後と有意に少ない。また、殻の輪郭がアカガイではすっきりと丸くなっているのに対して、サルボウは船形で開口部がアカガイに比すと直線状になっている。まあ、江戸っ子が殻の肋の数を数えているなんぞというのは、サマにならねえ、という気はする。但し、寺島良安は「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」(全巻完成は正徳二(一七一二)年頃)の「蚶(あかゞひ)」の項でちゃんと、この違いを述べて(『猿頰【一名、馬の甲(つめ)。】 蚶の小さき者にして、自(をのづか)ら此れ、一種なり。殻、圓く厚く、溝、亦深く粗し。大なる者、一~二寸。肥州〔=肥前〕長崎に最も多し』と区別している。
■やぶちゃん現代語訳
赤貝を柔らかく煮る二種の方法の事
赤貝を煮るに、とかく堅くなり、あるいは柔らかくしようとして調理の前に盛んに叩くと、これ、肉が崩れて、その形が如何にも不味そうに見え、よろしゅう御座らぬ。
さて、これを柔らかにするには、実はこれといった特別なる手の込んだ手法は必要で御座らぬ。
「熱湯の上へ箸のようなものを渡しておき、その上に赤貝を乗せて蒸せば、柔らかになること、請け合いで御座って、これ、実に不思議で御座る。」
とある人の語って御座ったが、その折り、傍らにあって、それを聴いた別のお人が付け加えて申したことには、
「よう、柔らかくせんものと、無暗に赤貝の肉を強く叩く御人があるが、これは度を越せば、必ず肉を打ち損じ、ぐたぐたとなって見苦しくなって仕舞いまする。こういう時は、箸に似たようなものを以って、静かに、とんとんと、心穏やかにして、しかも、少し長めにゆっくら叩いたならば、きっと赤貝は柔らこうなるものにて御座る。実際に拙者も試してみ申したが、確かに柔らかくなり申した。」
と語って御座った。
孰れの物事にも、かくも易しく、しかも確かなる手法と申すものが、これあるもので御座る。