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2014/09/26

橋本多佳子句集「海彦」 長崎行(Ⅰ) 久女を弔ふ

 長崎行

 

[やぶちゃん注:年譜によれば、以下の「阿蘇」までは確実に昭和二九(一九五四)年五月の九州旅行の際の句群である。六日に津田清子と同伴で旅立ち(伊丹から板付まで航空機を利用した。冒頭異例の九句にも及ぶそれらから見ると、もしかすると多佳子はこの時初めて航空機に乗ったものかも知れない)、長崎に三泊の後、『十数年ぶりに阿蘇山に登』った。その後、『横山白虹らと共に、久女終焉の地、筑紫観音寺にある九大分院、筑紫保養院に行き、久女を弔』ったとある。]

 

夏雲航(ゆ)く地上のことを語りつゞけ

 

巣燕を見しこと遠し天(あま)翔けつゝ

 

灼くる翼その上に重き無限の碧

 

[やぶちゃん注:「上」は「へ」、「碧」は「へき」と読んでいるか。私は少なくともそう読みたくなる。]

 

夏の雲天航く玻璃に露凝らす

 

夏の雲翼とゞまるゆるされず

 

夏天航く四ツ葉プロペラ健かなり

 

灼くる翼ゆれつゝ平らたもちつゝ

 

双翼が地上の梅雨の暗さに入る

 

天降りて青野に車輪ぐゝと触る

 

  横山白虹氏と共に久女終焉の地を弔ふ、

  筑紫観音寺保養院にて

 

青櫨が蔽ひ久女の窓昏む

 

[やぶちゃん注:「青櫨」「あをはぜ」でムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum の新緑。]


鑰(かぎ)はづし入る万緑の一つの扉(と)

 

万緑やわが額(ぬか)にある鉄格子

 

[やぶちゃん注:「筑紫観音寺保養院」は現在の、福岡県太宰府市五条にある福岡県立精神医療センター太宰府病院の前身である。単科精神科病院福岡県立筑紫保養院の開院は昭和六(一九三一)年十一月二十五日で、当初は百床であった(同病院公式サイトの院長挨拶に拠る)。

 久女はここで八年前の昭和二一(一九四六)年一月二十一日、極寒の中、腎臓病悪化――精神科医でもある俳人平畑静塔は当時の極度に悪い食糧事情での栄養失調或いは餓死と推察している(坂本宮尾「杉田久女」一九八頁より孫引き)――のため、肉親に看取られることなく(敗戦直後の劣悪な交通事情に拠る)亡くなっている。満五十五歳と八ヶ月余りであった。

 多佳子は後の「自句自解」(『俳句』昭和三三(一九五八)年一月発行)で、この句に自注し、以下のように述べている(底本全集第二巻を底本とした)。

   *

 万緑やわが額にある鉄格子 (海彦)

 昭和二十九年筑紫保養院の作。

 杉田久女の終焉の地を弔ふことは長年の念願でしたが、なかなかその機に恵まれず、絶えず心にかかつてをりました。偶々「自鳴鐘」の好意によつて、それを実現することが出来ました。医学博士である横山自虹氏が同行されましたので、つぶさにその当時の模様を院長から伺へました。

 久女終焉の部屋は、櫨の青菜が暗いほど茂り、十字に嵌る鉄格子は、私の額に影を刻みつけました。

 久女に手ほどきを受けた弟子の一人として、いまなほ至らないわが身を、この時ほどつよく悔まれたことはなく、厳しい生涯を送つた久女の終焉の部屋のたたずまひは、私の生きる限り灼きついて離れないことでせう。

 夕暮、保養院の門を出ると、菜殻火が炎々と燃えてゐました。白虹氏に聴くと、久女の入院は昭和二十年の秋で、翌年の一月に逝つたのですから、久女はこの菜殻火を見てゐないのです。夕日の中に燃えてゐた菜殻火の炎の美事さ恐ろしさは、到底忘れることが出来ません。

   *

 この感懐はこれらの句に孕む非常に深い多佳子の思いを知らせているところの、厳粛な一文であると私は思っている。]

 

  保養院を出づれば菜殻火盛んなり

 

一切忘却眼前に菜殻火燃ゆ

 

[やぶちゃん注:如何にも意味深長な句である。自句自解ではこれは多佳子の心境というよりは、久女の意識に共時化した意識(菜殻火の燃えたつ如き久女の情念が憑依したと言ってもよい)に基づく感懐のように読める。孰れにせよ、この時確かな先師と再実感した久女に対する、恩讐の彼方の思い、であることは間違いない――間違いないが、しかし、私はここに、今一つ――多佳子が、久女没後のおぞましき「久女伝説」の形成に確信犯で自ら組したこと(と私は思っている)を――「一切忘却」しようとしている、と意地悪くも読みたくなるのである。多佳子以上に久女を愛している私はどうしてもこのことを言わずにはおれないのである――]

 

菜殻火の燃ゆる見て立つ久女いたむ

 

菜殻火の火蛾をいたみ久女いたむ

 

つぎつぎに菜殻火燃ゆる久女のため

 

菜殻火や入日の中に焰もゆ

 

  久女の終焉をみとりし末継はつみ女

 

万緑下浄き歯並を見せて閉づ

 

[やぶちゃん注:「末継はつみ女」明らかに久女門下の女流俳人と思われるが、不詳。敢えて言うと、「女流俳句を味讀す」(昭和七(一九三二)年三月発行『花衣』創刊号)に、

 

 さげ髮して床にあり風邪の妻  波津女

とある人物、また同『花衣』二号(昭和七年四月発行)に、

 

 うたゝねやさめて疊む花衣  波留女

 

とある人物がそれらしくは見える。是非とも識者の御教授を乞うものである。]

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