飯田蛇笏 山響集 昭和十三(一九三八)年 夏
〈昭和十三年・夏〉
瀧おもて雲おし移る立夏かな
田水滿ち日出づる露に蛇苺
胡桃生(な)る瀧川よどみ鮠とびぬ
アカシヤの耕馬にちりて薄暑かな
天目山勝賴夫人墳墓
山墓に薄暑の花の鬱金かな
[やぶちゃん注:「天目山」現在の山梨県甲州市(旧大和村)木賊(とくさ)及び田野(たの)にある峠。元は木賊山(とくさやま)と呼ばれていたが、後に山中に棲雲寺が創建され、その山号から天目山と改称した。武田氏二度の滅亡の地である。ウィキの「天目山」によれば、まず応永二四(一四一七)年に室町幕府に追われた武田氏第十三代当主武田信満がこの山中の木賊村で自害して甲斐武田氏は一時断絶、その後に再興された甲斐武田氏も百六十五年後の天正一〇(一五八二)年に以下に見るように、この山麓の田野村で自害して甲斐武田氏は滅亡したとある。後、『武田氏滅亡後に甲斐を領した徳川家康は、領民懐柔政策の一環として麓に勝頼主従の菩提を弔うため景徳院を建立している。付近には武田氏関係の史跡が点在し、景徳院の境内の勝頼親子』三人の墓の近くには、この勝頼正室北条夫人の以下に示す最初の一首の辞世の『が刻まれた石碑が立っている』とある。
「勝賴夫人」甲斐国主武田勝頼の継室北条夫人(永禄七(一五六四)年~天正一〇(一五八二)年四月三日)。北条氏康六女とされる。ウィキの「北条夫人」によれば、天正一〇(一五八二)年二月一日、勝頼は『織田・徳川連合軍の甲斐侵攻を受け、河内領主の穴山信君ら一部家臣団の離反も招いた』。彼女は同年二月十九日に『勝頼のために武田家の安泰を願い、武田八幡宮』(現在の山梨県韮崎市神山町北宮地にある武田家の氏神)『に願文を奉納している』(現存し、県指定有形文化財)。しかし同年三月になると『戦況は悪化し、勝頼は相模国と接する郡内領主小山田信茂の居城の岩殿城を目指して落ち延びたが、信茂が離反すると笹子峠において織田軍に襲撃され、一行は天目山に逃れた』。三月十一日、豊穣夫人は『日川渓谷の天目山の近くの田野で、滝川一益の軍に発見され、勝頼らと共に自害した』。享年十九であった。辞世は、
黑髪の亂れたる世ぞ果てしなき思ひに消ゆる露の玉の緒
で、「小田原北条記」によると、『「先年、わが弟の越後三郎(景虎)危急の時、私から色々嘆願したにも関わらず、あなたはお聞き入れになりませんでした。今更命が惜しいと、何の面目があって小田原に帰れましょうか。」と最期に語り、北条家に顔向けできないと恥じ入って自害したと記して』、
歸る雁賴む疎隔の言の葉を持ちて相模の國府(こふ)に落とせよ
『(南に帰っていく雁よ、長い疎遠の詫び言を小田原に運んでくれないか)という、もう』一首も残している。『法名は北条氏供養で桂林院殿本渓宗光。
武田氏からは「法泉寺位牌」で陽林院殿華庵妙温大姉、「景徳院位牌」に北条院殿模安妙相大禅定尼と贈られている』。『山梨県身延町の南松院には恵林寺住職快川紹喜の遺墨である蘭渓字説(県指定文化財、現在は山梨県立博物館に寄託)が残されている。これは「甲州城上淑女君」の侍局に対し法諱雅号を与えその由来を記したものであるが、この淑女君は北条夫人を指していると考えられており、「家語に曰く、善人と居るは芝蘭の室に入るがごとし、久しくしてその香を聞かざるも、自然これと化す。善人あに異人ならんや、淑女君是なり」と淑徳を称えている』とあり、この若くして散った才媛への蛇笏の哀憐の情の意味がよく分かってくる。
「鬱金」「うこん」は鮮やかな黄色のこと。何の花であろう。キンポウゲか。]
キャベツ採る娘が帶の手の臙脂色
[やぶちゃん注:「臙脂色」で「えんじ」と読ませていよう。黒みを帯びた赤色で、日焼けした肌の形容で、健康的なエロスを感じさせる佳句である。]
蒟蒻(こんにやく)の咲く藥園のきつね雨
枝蛙風にもなきて茱萸の花
[やぶちゃん注:「茱萸」老婆心乍ら、「ぐみ」と読む。]
水喧嘩墨雲月をながしけり
蛞蝓の流眄(ながしめ)してはあるきけり
[やぶちゃん注:「流眄」音は「リュウベン」で流し目のこと。「眄」自体が、流し目で見る・脇き見をするの意。]
綠金の蟲芍薬のただなかに
[やぶちゃん注:「綠金の蟲」鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目
Elateriformia下目タマムシ上科タマムシ科 Buprestidae
のタマムシ(玉虫)の類であろう。]
桑の實に顏染む女童にくからず
[やぶちゃん注:「女童」は「めらは(めらわ)」と読んでいよう。「め(女)わらわ(童)」の音変化で、中世以降に見られる読みである。]
芋の花月夜を咲きて無盡講
[やぶちゃん注:「無盡講」頼母子講(たのもしこう)に同じい。金銭の融通を目的とする民間互助組織で、一定の期日に構成員が掛け金を出し合い、籤や入札で決めた当選者に一定の金額を給付、全構成員に行き渡ったところで解散する。鎌倉時代に始まり、江戸時代に流行した。]
嶽腹を雲うつりゐる淸水かな
焼肉(やきにく)にうすみどりなるパセリかな
吹き降りに瀨をながれ去る女郎蜘蛛
蟬鳴いて夜を氾濫の水殖(ふ)えぬ
つばめ野には下りず咲き伸す立葵
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「伸す」は「のす」と読み、伸びるの意。]
しげくして雲たちこむる梅雨の音
ふりつぎて花卉にいと澄む梅雨湛ふ
梅雨霽れの風氣短かに罌粟泣きぬ
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「罌粟」は「けし」。]
さつこんは愛兄(いろえ)と呼びて更衣
[やぶちゃん注:「愛兄(いろえ)」は「日本書紀」に既に出る上代語で母を同じくする兄、又は兄を親しんで呼ぶ語。「いろ」は接頭語で親族関係を表わす名詞に冠して同母の・肉親の、の意を添える。]
旭影來し茄子馬にまた夕影す
月光のしたゝりかゝる鵜籠かな
[やぶちゃん注:この踊り字は実に効果的である。]
篝火に雨はしる鵜の出そろへり
泊(は)つる夜は鵜舟のみよし影澄みぬ
[やぶちゃん注:「みよし」「水押し」「舳」「船首」と漢字表記する。「みおし」の音変化で
狭義には船首にある波を切る部材、転じて舳先・船首の意となった。]
鵜篝のおとろへて曳くけむりかな
[やぶちゃん注:言わずもがな乍ら、芭蕉の名吟「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」のインスパイア。]
畫廊出て夾竹桃に磁榻濡る
[やぶちゃん注:「磁榻」は「じたふ(じとう)」と読み、野外に置かれた焼き物(磁器製)の座具かベンチのことであろう。]
椶櫚さいて夕雲星をはるかにす
[やぶちゃん注:「椶櫚」棕櫚に同じ。]
横濱高臺の舍弟が新居を訪ねて
明け易き波間に船の假泊かな
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