耳嚢 巻之九 入定の僧も有事
入定の僧も有事
寛政十一年の頃、八王子千人頭(せんにんがしら)萩原賴母(たのも)組同心組頭なりける栗原次郎左衞門、墓所俄(にはか)に窪むに付(つき)、怪しみて掘候處、八疊敷程廣掘(ひろくほり)候穴室あり。其内に人座し候やう成(なる)形見へしゆゑ立寄(たちより)見ければ、無程(ほどなく)崩れて塵灰のごとく、其脇に鐘一つ殘り其外調度あるやうなれど、悉く腐(くさ)れて其形わかるは右の鉦のみなり。右鉦などには年號などもありつらんを、後の祟(たたり)をおそれいみて其儘に埋(うづ)め、其所に印などたてし由。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。本話は文章に異同はあるが、「耳嚢 巻之八 入定の僧を掘出せし事」と同話である。
入定の僧を掘出せし事
寛政十一年の頃の八王子千人頭萩原賴母組千人同心某が、墓所の地面くへ候て餘程の穴ありける故、驚て内へ人を入れ見しに、巾六七尺其餘も四角に掘りたる所ありて、燈にて見れば鳧鐘一つありて、一人の僧形、其邊に結迦扶座の體なり。いかなる者よと、大勢松明など入て立寄見しに、形は粉然と碎けて、たゞ伏せ鐘のみ殘りしゆゑ、僧を請じ伏鐘も其所に埋て跡を祭りしと。これ右萩原が親族、前の是雲語りぬ。
しかも、これはそこにも掲げた岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の巻之十に所収する「入定の僧の事」とははほぼ完全に相同である。一応、再掲しておく。
入定の僧の事
寛政十年の八王子萩原賴母組同心組頭なりける栗原次郎右衞門、墓所俄に窪むに付、怪しみて掘ける處、八疊敷程廣く穴室有り。其内に人坐候樣成形見えし故立寄見ければ、無程崩れて塵灰の如し。其脇に鉦一つ殘り其外調度あるやうなれど、委く腐れて其形わかるは右の鉦のみなり。右鉦などには年号などもありつらんを、其の祟りを恐れて其まゝに埋み、其處に印など建候よし。
「委く」には、底本では校注の長谷川強氏によって「悉」の訂正注が右にある。
注はリンク先に譲る。
■やぶちゃん現代語訳
入定の僧も実在するという事
寛政十一年の頃、八王子千人頭(せんにんがしら)であられた萩原賴母(たのも)組の同心組頭であった栗原次郎左衛門方の墓所が俄かに陥没した。
そこで、覗いてみると、何やらん、空洞のようなものが見えたによって、怪しく思って試みに少し掘ってみて御座ったところ、凡そ八畳敷ほどもあろうかという、広く掘ってある穴状の部屋があった。
その内部に、何か、こう、人が座って御座るような感じの、これ――人形(ひとがた)――が見えたによって、恐る恐る、その近くまで立ち寄って見てみようとした――
――ところが、それと同時に、ほどのぅ、その人形(ひとがた)、これ、一切の残骸も残さず、完膚無きまでに崩れ落ち、ただ塵灰(じんかい)の山の如くに成り果てて御座ったと申す。
その、塵埃(じんあい)の積もった脇には、叩き鉦が、これ、一つ、残っておるだけにて、その他には、何か調度らしきもののあるようには見えたが、これらは悉く、腐(くた)れて、その形から識別出来得るものは、たた、その鉦のみであった、と申す。
このたった一つの入定(にゅうじょう)僧と思しい者が誰かを知り得る物証と言い得る鉦には、何やらん、年号なんども彫り込まれてあったようで御座ったれど、後の祟りを恐れ忌(い)んで、そのままに再び埋め戻してしまい、そこには後代の栗原家子孫にのみ分かるような、さり気なき印なんどを建ておいた由にて御座る。
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