今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 89 小萩ちれますほの小貝小盃
本日二〇一四年九月二十九日(当年の陰暦では九月六日)
元禄二年八月 十六日
はグレゴリオ暦では
一六八九年九月二十九日
【その一】この日は、前夜とうって変わって天気晴朗(伊勢長島の天候ではあるが、当時そこにいた曾良の日記にも快晴とある)となり、例の敦賀の廻船問屋天屋五郎右衛門の接待で、敦賀湾北西岸にある種(いろ)の浜に舟を走らせ、一日(いちじつ)、遊んだ(この事実は以下に出すように「奥の細道」に出る)。
いろの濱に誘引(いざなは)れて
小萩ちれますほの小貝小盃(さかづき)
[やぶちゃん注:「薦獅子集」(こもじししゅう・巴水編・元禄六年自序)。「俳諧四幅対」には、『色濱泛舟(色の濱に舟を泛(うか)ぶ)』と前書する。
「ますほの小貝」貝類収集家の間では斧足綱マルスダレガイ目チドリマスオガイ科チドリマスオガイ Donacilla picta に同定されている。殻長は約一・一センチメートル、殻高七ミリ、殻幅四ミリメートル。殻は小さく卵型三角形で殻は大きさに対して比較的厚く硬い。前背縁は後背縁より長く,殻頂は後方に寄り、個体によっては殻頂部周辺がかなり明るい桃色を帯びている。腹縁はゆるやかに彎曲する。殻頂下内面には大きな弾体受けを有し、それを挟んで強い歯がある。外套線は弯入する。潮下帯の砂地に棲息する。いろの浜に打ち上がっているか? 我々収集家を侮ってはいけない。Shellsfukui 氏のブログ「福井の打上げ貝」の「チドリマスオガイ」をご覧あれ。太平洋側は相模湾、日本海側は福井が北限であるから、芭蕉は「奥の細道」の旅では、ここで初めてこの貝を目にした。グーグル画像検索「Donacilla
picta」。
詠まれたのは本文に出るいろの浜近在の本隆寺(現在の敦賀市色浜(いろがはま)にある法華宗の寺院)での茶席と後座の酒食の宴であるが、句のイメージは小貝散る浜の野点(のだて)のそれである(本隆寺は現在の海岸線である色浜海水浴場からは凡そ九十メートル近く離れている)。一句のもとは西行の「山家集」に載る当地で詠んだとされる(但し、西行が越前に来たという事実は知られていない)知られた、
潮染むるますほの小貝拾ふとて色の濱とは言ふにはあるらん
で、本歌は続く二句の本歌でもある。なお、本歌のロケーションを事実に即して浜から離れた本隆寺に馬鹿正直に設定すると、句のイメージが著しく委縮するので注意されたい。有意に海から離れた寺の庭に散った萩の花に小貝が混じるはずがないことをいちいち注意しなくてはならないような評釈、がっちがちの国土地理院みたような評釈(ここまでで大分お世話になっているので誰とは敢えて言わない)は、真正の俳句の鑑賞とは言えないと私は思っている。
この句、当初(土芳自筆「赤冊子草稿」・宝永五~六(一七〇八~〇九)年稿等)から後に出す「奥の細道」に載る「浪の間や小貝にまじる萩の塵」という句の初案かとされているが(山本健吉氏の「芭蕉全句」には同行していた等栽が寺に残した句文にこの句が認められてあるとある。これは以下に見るように「奥の細道」に載る事実である)、山本氏も述べておられる通り、私も別案と採る。山本氏は『小萩・小貝・小盃と可憐なものを並べ立てて、「こ」の頭韻とi音の脚韻とを重ねて、すこぶるリズミカルである。その句のリズムに乗るかのように「小萩ちれ」と、小萩へ言いかけるような発想をもっている。小貝はまた、小盃をも連想させる。小貝は浜、小萩は庭、小盃は床の上ながら、離れ離れ三つの景物が作者の脳裏で一つになり、種の浜の秋景色を描き出す』と優れた評釈をなされておられる。私は軽みの句ながら、このいろの浜で作られた本句を含む以下四句は「奥の細道」の最後の旅のぼろぼろの駝鳥みたような句の中にあって、流れ着いた小貝、散った小萩のごとき、可憐な佳句であると思う。
本句のみ、「奥の細道」には採られていない。可哀そうなので、ここで最後に「奥の細道」のいろの浜の段を引いて、本句を賞したい。
*
十六日空晴たれはますほの小貝ひろ
はんと種の濱に舟を走ス海上七
里あり天屋何某と云もの破籠さゝ
へなとこまやかにしたゝめさせ僕あ
また舟にとりのせて追風時の間に
吹付ぬ濱はわつかなる蜑の小家
にて侘しき法華寺有爰にちや
をのみ酒をあたゝめて夕暮のさひしさ
感に堪たり
さひしさやすまに勝たる濱の秋
波の間や小貝にましる萩の塵
其日の日記等栽に筆をとらせて
寺に殘ス
*
「走ス」従来、「はす」と読みならわしている。
「海上七里あり」「海上」は「かいしやう(かいしょう)」と読む。二七・四九キロメートル。実際は海上三里(約一一・七八キロメートル)という、と伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「奥の細道」「敦賀」の段の注にはある。地図上でシュミレーションしてみると、十キロメートル強ある。同注に『現在は敦賀原発建設時に工事用の陸路が建設されている』とある。現代のいろの浜の彼方には、チェレンコフの業火の蒼白い色が見えるのである。
「天屋何某」「てんやなにがし」と読む。既に示した敦賀の廻船問屋主人天屋五郎右衛門。
「破籠」「わりご」と読む。薄い檜の白木を曲げ物に作った弁当箱。
「小竹筒」「ささえ」と読む。竹筒を利用した携帯用の酒入れ。
「僕」「しもべ」と読む。
「追風時の間に吹き付きぬ」「源氏物語」の「須磨」へ辿りつく場面、『道すがら、面影につと添ひて、胸もふたがりながら、
御舟に乘りたまひぬ。日長きころなれば、追風さへ添ひて、まだ申の時ばかりに、かの浦に着きたまひぬ。かりそめの道にても、かかる旅をならひたまはぬ心地に、心細さもをかしさもめづらかなり』をインスパイアして、後の「寂しさや」の句への匂いつけとする。
「わづかなる」一叢(ひとむら)の貧しげな。
「侘しき」「わづかなる海士の小家」の対句であるからと言って「もの寂しい」とか「貧素な」などと訳している見かけるが、デリカシーを欠く。「もの寂びた」ぐらいにして欲しいものだ。
「法華寺」「ほつけでら」と読んで、法華宗(ここでは日蓮宗を指している)の寺院という一般名詞。既に説明した本隆寺。]
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