北條九代記 卷第六 武藏守泰時執権 付 二位禪尼三浦義村を諫めらる〈北条泰時の第三代執権就任及び伊賀氏の変Ⅰ 北条泰時の帰鎌と北条政子の英断と大江広元の懇請、鎌倉の不穏と謀略の真相〉
○武藏守泰時執権 付 二位禪尼三浦義村を諫めらる
京都に飛脚を遣されしかば、相摸守時房、武藏守泰時、取物(とるもの)も取(とり)敢えず六波羅を立ちて、同二十六日の晩景(ばんけい)に下著あり。二位禪尼、對面あり。將軍家の御事、御後見に於いては陸奥守に相替らず、時房、泰時、取行(とりおこな)はるべき由、仰出さる。觸穢(しよくゑ)の砌、楚忽(そこつ)の構(かまへ)、憚(はゞかり)あるの旨、御返事を申されたり。前〔の〕大膳大夫入道覺阿、申しけるには「世の安危(あんき)、人の疑ふべき時なり。兩人執権の議定あらば、靜謐すべし。早くその沙汰御受け申し給へ」とあり。去ぬる十三日より、今日に及びて、世上の巷説(かうぜつ)、區々(まちまち)なり。武藏守泰時は弟等(おとゝら)に打滅(うちほろぼ)さるべき運命にて、京都を出でて下向せらる。淺ましきことを見んと風聞あり。元久二年より以來(このかた)、義時の執権たること二十年に及べり。然るに義時の後室は伊賀守朝光が娘なり。此後室の爲、武藏守泰時は繼子(まゝこ)にて、當腹(たうふく)に政村を生みたりければ、後室は泰時を惡(にく)まれ、我が生みたる四郎政村を世に立てばやと常々に思はれたり。後室の弟(おとゝ)伊賀式部丞光宗に心を合せ、三浦駿河〔の〕前司義村を語(かたら)ひ、若君賴經公を押退(おししりぞ)け、泰時を打殺し、義村が婿宰相中將藤原實雅(さねまさの)卿を關東の將軍とし、政村を執権になし、我が弟光宗に武家の成敗を致させばやとぞ思企(おもひくはだ)てらる。是に依て、四郎政村の館の邊(あたり)、物忩(ぶつそう)なり。されども泰時は少も驚騷ぎ給はず。二位禪尼、聞付(きゝつ)けて使を以て政村が館の騷動をぞ靜められける。相摸守時房の一男、掃部助(かもんのすけ)時盛、武藏守泰時の一男武蔵〔の〕太郎時氏を京都に上洛せしめらる。「世の中、靜ならず、畿内近國の人の心、計(はかり)難き折節なり。早く洛中を守護すべし」とて差上(さしのぼ)せられたり。鎌倉中、何とは知らず、近國の武士馳集(はせあつま)り、大名小名の家々に群參す。
[やぶちゃん注:〈北条泰時の第三代執権就任及び伊賀氏の変Ⅰ 北条泰時の帰鎌と北条政子の英断と大江広元の懇請、鎌倉の不穏と謀略の真相〉「吾妻鏡」巻二十六の貞応三(一二二四)年六月二十六日・二十八日・二十九日、七月十七日・十八日等に基づく。以下、分割して示す。
「京都に飛脚を遣されしかば」義時逝去の報知の飛脚。
「相摸守時房、武藏守泰時、取物も取敢えず六波羅を立ちて」時房は八つ年下であった泰時(当時は既に四十一歳)の叔父に当たり、ともに承久の乱では大将軍として上洛、戦後新たに都に設置された六波羅探題(当時は実際には単に「六波羅」と呼ばれており、「探題」と名づけられたのは鎌倉末期である)の南方として就任、同じく北方に泰時が就いて、以降二人ともに京にあって朝廷の監視や戦後処理、未だ不穏な要素を孕んでいた畿内近国及び京以西の武士団の監察に従事していた。
「晩景」夕方。晩方。「ばんげい」「ばんげ」とも読む。
「陸奥守に相替らず」「陸奥守」は北条義時。第二代執権義時が成したのと全く変わらぬように。
「時房、泰時、取行はるべき」これでは二人が取り敢えず同等の地位で執権相当職を成せと命じているような誤解を与える(実質的には政子の物謂いにはそうしたニュアンスが言外にあったとは思われるが)が、これは「吾妻鏡」を少し誤読したか、若しくは筆者の好きな仁人泰時を持ち上げる意識が起動したものと思われる。後に見るように「吾妻鏡」では政子の命は、『相州。武州爲軍營御後見。可執行武家事之旨。有彼仰云々』(相州、武州軍營の御後見(ごこうけん)として、武家の事を執り行ふべきの旨、彼の仰せ有りと云々)で、相州時房が執権職の武州泰時の軍師役となって、幕政を執り行うようにとの、かの有り難き仰せが下された、である。
「觸穢の砌、楚忽の構、憚あるの旨、御返事を申されたり」直接話法で「觸穢の砌、楚忽の構、憚ある」か、と返事をしたのは泰時ということになるのであるが、どうもこれも筆者の「吾妻鏡」の誤読の可能性が疑われる。後に見るように、この部分は政子と泰時の対面シーン及び続く大江広元(本文の「前大膳大夫入道覺阿」)の助言シーンという、異なった場面の形容表現を無理矢理、カップリングしているからである。頭の「觸穢の砌」は政子が喪中であるはずの推参した泰時と直に会った場面、『武州始被參二位殿御方。觸穢無御憚云々。』(武州、始めて二位殿の御方へ參らる。觸穢(しよくゑ)、御憚り無しと云々。)とあるのを用いたもので、ここは父義時の死の穢れを一切躊躇することなく大倉幕府に上がって政子以下に対面したという、泰時の良い意味でのプラグマティクな性格上の果敢さを語っている「吾妻鏡」筆録者による感想部分である。ところがそれに完全に並列で配された「楚忽の構、憚あるの旨」というのは、実は前の政子の、時房を幕政後見人(具体的には連署)として執権となられよ、と泰時が命を受けたのに対して、泰時としては急な重役就任の命にやや躊躇(というのが相応しくないとすれば謙遜)があって、広元にその不安をあからさまに相談したシーン(前に見たように「云々」が前にあるので、「吾妻鏡」の表現法ではこれは場面の転換を意味するのだが、私は実際には政子・広元・泰時同座で前のシーンと連続していたと思っている)である以下、『而先々爲楚忽歟之由。被仰合前大膳大夫入道覺阿。』(而るに、「先々楚忽たるか」の由、
前の大膳大夫入道覺阿に仰せ合はさる。)に出る泰時の生(ナマ)の台詞なのである。しかもこれは恐らく――「執権就任とは、これ、向後のことを考えますると、憚りながらあまりに拙速なる御判断では御座いますまいか?」という極めて慎重冷静な泰時の疑義の表明なのである。増淵勝一氏も現代語訳(教育社新書版)ではお困りになったものと思われるが、『父義時の逝去に際会しまして、軽はずみな謀略の生じますことを恐れつつしんでおります』と驚嘆する名訳を施されておられる。確かにうまい訳ではあるがしかし、これでは残念ながら、政子の命―泰時の疑義―広元の慫慂の助言という「吾妻鏡」の切迫した人登場人物らのダイナミズムが全く伝わってこない。私はこうは採れない。寧ろやはり泰時は――「死穢に触れておりまする今、また御聖断の畏れ乍ら、拙速なればこそ、これは即座に受け入るること憚りあることかと存じまする。」――と一度、辞退しかけたと採るべきである。大方の御批判を俟つ。
「世の安危、人の疑ふべき時なり。兩人執権の議定あらば、靜謐すべし。早くその沙汰御受け申し給へ」「吾妻鏡」原文は『覺阿申云。延及今日。猶可謂遲引。世之安危。人之可疑時也。可治定事者。早可有其沙汰云々。』(覺阿、申して云はく、「延びて今日に及ぶ、猶ほ遲引と謂ひつべし。世の安危、人の疑ふべき時なり。治定(ぢぢやう)すべき事は、早く其の沙汰有るべしと云々。)で、明らかに前の泰時の台詞の「楚忽」(「吾妻鏡」)を受けているのであって、「拙速どころか遅過ぎるくらいだ!」と反論しているのである。――「この世、安寧ならんか危ならんかと、まさに只今、世の人々があれこれと疑心暗鬼致いておる時節で御座る! 御両人が幕政を統轄するという議定がなされましたならば、世は如何にも静謐に鎮まりまする! 早う、二位の禅尼の御命令をお受け申し上げ遊ばされよ!」と焦燥とともに慫慂しているのである。
「去ぬる十三日」義時の逝去の時日。
「武藏守泰時は弟等に打滅さるべき運命にて、京都を出でて下向せらる。淺ましきことを見んと風聞あり」これも「吾妻鏡」の誤読ではなく、筆者による泰時の仁心を強調するための表現操作が行われていると私は見る。「吾妻鏡」では、『武州者爲討亡弟等。出京都令下向之由。』(武州は弟等を討ち亡ぼさんが爲に、京都を出でて下向せしむるの由。)、と、噂の主客のベクトルが完全に真逆であるからである。
「元久二年」西暦一二〇五年。「吾妻鏡」ではこの年の閏七月二十日の条に父時政を伊豆に追放すると同時に代わって義時が執権(政所別当)の地位に就いた旨の記載がある。但し、ウィキの「北条義時」の注の七によれば、「吾妻鏡」『は義時がこの時に政所別当・執権に就任したとしているが、岡田清一は』承元三(一二〇九)年十二月以前の『政所文書に政所別当(執権)である義時の署判が』一通も見られないことを指摘、この執権就任記事は「吾妻鏡」の編者の脚色とし、実際の就任は承元三(一二〇九)年であったとしている、とある。
「義時の執権たること二十年に及べり」厳密には元久二(一二〇五)年からこの貞応三(一二二四)年までは十九年。
「伊賀守朝光が娘」北条義時の後妻(継室)であった伊賀の方(生没年未詳)。以下、ウィキの「伊賀の方」によれば、伊賀朝光(いがともみつ ?~建保三(一二一五)年:藤原秀郷流の関東の豪族で伊賀氏の祖。蔵人所に代々使えた官人の出身で朝光が伊賀守に任じられて以降に伊賀氏を称した。建久元(一一九〇)年十一月の源頼朝の上洛に供奉している。正治年間に左衛門少尉、承元四(一二一〇)年三月に伊賀守に任じられた。娘婿(後妻)である北条義時が幕府第二代執権となったことから、朝光の子らは義時の外戚として活躍、建保三(一二一五)年九月十四日に朝光が死去して翌十五日に山城前司行政の家の後ろの山に埋葬された際には義時も参列している。長男光季は既に見た通り、承久の乱で京方の襲撃を受けて自害している。ここはウィキの「伊賀朝光」に拠る)の娘。兄弟に光季・光宗。子に北条政村の他、実泰・時尚・一条実雅室などがいる。義時が前妻の姫の前(比企氏の出で、建仁三(一二〇三)年九月の比企能員の変では夫義時が率いた軍勢によって実家が滅ぼされた。ウィキの「姫の前」によれば、「吾妻鏡」はその後の姫の前の消息を載せないが、「明月記」の嘉禄二(一二二六)年十一月五日の条によると、和歌所寄人で従四位下左近少将であった源具親(ともちか)の、その子である公卿源輔通(すけみち)は北条朝時の同母弟で、幕府から任官の推挙があったと記しており、輔通は元久元(一二〇四)年生まれであることから、姫の前は比企の乱の直後に義時と離別して上洛、源具親に再嫁して輔通を生んだものと見られるとある)と離別したのちに継室となったと見られ、元久二(一二〇五)年六月に政村を出産、
承元二(一二〇八)年には実泰を出産、この貞応三(一二二四)年七月に夫義時の急死後、兄光宗とともに実子である政村を幕府執権に、娘婿の一条実雅を将軍に擁立しようと図ったが、北条政子が政村の異母兄泰時を義時の後継者と決したことにより失敗、伊賀の方と光宗・実雅は流罪となった(伊賀氏の変)。子の政村は事件に連座せず、のちに第七代執権となっている(彼は得宗家ではないので本「北條九代記」の「九代」には含まれないので注意されたい)。本文にも出るように八月二十九日に伊賀の方は政子の命によって伊豆北条へ配流となって幽閉された。四ヶ月後の十二月二十四日、危篤となった知らせが鎌倉に届いており、その後死去したものと推測される、とあり、『なお、藤原定家の『明月記』によると、義時の死に関して、実雅の兄で承久の乱の京方首謀者の一人として逃亡していた尊長が、義時の死の』三年の後に『捕らえられて六波羅探題で尋問を受けた際に、苦痛に耐えかねて「義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫んで、武士たちを驚かせている』とある。まさしく妖しい烈女と言えよう。
「政村」北条政村(元久二(一二〇五)年~文永一〇(一二七三)年)。当時は満十九歳。以下、ウィキの「北条政村」により記載する(一部、補正した部分がある)。義時五男で泰時の異母弟。母は継室伊賀の方。政村流北条氏の祖で、幼少の得宗家北条時宗(泰時の曾孫)の代理として第七代執権に就任、辞任後も連署を務めて蒙古襲来の対処に当たり、一門の宿老として嫡流の得宗家を支えた。第十二代執権北条煕時は曾孫に当たり、第十三代執権北条基時も血縁的には曾孫である。元久二(一二〇五)年六月二十二日、畠山重忠の乱で重忠親子が討伐された日に誕生、義時には既に四人の男子(泰時・朝時・重時・有時)がいたが、当時二十三歳の長男泰時は側室の所生、十三歳の次男朝時の母は正室姫の前であったが離別しており、政村は当代の正室伊賀の方所生では長男であった。建保元(一二一三)年十二月二十八日、七歳で第三代将軍源実朝の御所で元服、四郎政村と号した。『元服の際烏帽子親を務めたのは三浦義村だった(このとき祖父時政と烏帽子親の義村の一字をもらい、政村と名乗る)。この年は和田義盛が滅亡した和田合戦が起こった年であり、義盛と同じ一族である義村との紐帯を深め、懐柔しようとする義時の配慮が背景にあった。『吾妻鏡』は政村元服に関して「相州(義時)鍾愛の若公」と記している』。『義時葬儀の際の兄弟の序列では、政村と同母弟実泰はすぐ上の兄で側室所生の有時の上位に位置し、異母兄朝時・重時の後に記されている。現正室の子として扱われると同時に、嫡男ではなくあくまでも庶子の一人として扱われている』ことが分かる。『しかし母伊賀の方が政村を執権にする陰謀を企てたという伊賀氏の変が起こり、伊賀の方は伯母政子の命によって伊豆国へ流罪となるが、政村は兄泰時の計らいで累は及ば』ず、『その後も北条一門として執権となった兄泰時を支え』た(因みに三歳年下の『同母弟実泰は伊賀氏事件の影響か、精神のバランスを崩して病となり』、天福二(一二三四)年に二十七歳の若さで出家している)。延応元(一二三九)年、三十四歳で評定衆となり、翌年には筆頭となった。宝治元(一二四七)年、四十三の時、二十一歳の『執権北条時頼と、政村の烏帽子親だった三浦義村の嫡男三浦泰村一族の対立による宝治合戦が起こり、三浦一族が滅ぼされるが、その時の政村の動向は不明』である。建長元(一二四九)年十二月に引付頭人、建長八(一二五六)年三月には兄重時が出家して引退してしまったために兄に代わって五十二歳で連署となっている(執権経験者が連署を務めた例は他になく、極めて異例であって政村が得宗家から絶大なる信頼を受けていたことの証左である)。文応元(一二六〇)年十月十五日、『娘の一人が錯乱状態となり、身体を捩じらせ、舌を出して蛇のような狂態を見せた。これは比企の乱で殺され、蛇の怨霊となった讃岐局に取り憑かれたためであるとされる。怨霊に苦しむ娘の治癒を模索した政村は隆弁に相談』、十一月二十七日には『写経に供養、加持祈祷を行ってようやく収まったという。息女の回復後ほどなくして政村は比企氏の邸宅跡地に蛇苦止堂を建立し、現在は妙本寺となっている。このエピソードは『吾妻鏡』に採録されている話で、政村の家族想いな人柄を反映させたものだと評されている』。第七代執権当時、『時宗は連署となり、北条実時・安達泰盛らを寄合衆のメンバーとし、彼らや政村の補佐を受けながら、幕政中枢の人物として人事や宗尊親王の京都更迭などの決定に関わった。名越兄弟(兄・朝時の遺児である北条時章、北条教時)と時宗の異母兄北条時輔が粛清された二月騒動でも、政村は時宗と共に主導する立場にあった。二月騒動に先んじて、宗尊親王更迭の際、奮起した教時が軍勢を率いて示威行動を行った際、政村は教時を説得して制止させている』。文永五(一二六八)年一月に蒙古国書が到来すると、『元寇という難局を前に権力の一元化を図るため』に、同年三月に執権職を十七歳の時宗に移譲、既に六十三歳であった政村は『再び連署として補佐、侍所別当も務め』た。『和歌・典礼に精通した教養人であり、京都の公家衆からも敬愛され、吉田経長は日記『吉続記』で政村を「東方の遺老」と称し、訃報に哀惜の意を表明した。『大日本史』が伝えるところによると、亀山天皇の使者が弔慰のため下向したという。連署は兄重時の息子北条義政が引き継いだ』、とある。ある意味で非常に賢明かつ誠実に得宗独占の時代の中を生き抜いた人物と言えよう。
「伊賀式部丞光宗」伊賀光宗(いがみつむね 治承二(一一七八)年~康元二(一二五七)年)は幕府御家人。伊賀朝光の次男。姉妹である伊賀の方が義時の後室となり、自身も政所執事を務めるなど、有力御家人として重用されたが、伊賀の変で信濃国に流された。この時既に四十六歳であったが、その後、政子の死後に罪を許されて所領を回復、寛元二(一二四四)年には評定衆に就任して幕閣への完全な返り咲きを果たした。参照したウィキの「伊賀光宗」の注によれば、『伊賀氏謀反の風聞については北条泰時が否定しており、『吾妻鏡』でも伊賀氏が謀反を企てたとは一度も明言しておらず、政子に伊賀氏が処分された事のみが記されている。伊賀氏の変は、影響力の低下を恐れる政子が義時の後妻の実家である伊賀氏を強引に潰すために創り上げた事件とする見方もある(参考文献:永井晋『鎌倉幕府の転換点 「吾妻鏡」を読みなおす』日本放送出版協会)』とあり、恐らく泰時もそうした真相を知っていたが故に、彼の所領を安堵したものであろう。
「三浦駿河前司義村を語ひ」「政村」の注で示した通り、政村の烏帽子親であったことが謀略への加担の理由の一つではある。
「藤原實雅」公卿一条実雅(さねまさ建久七(一一九六)年~安貞二(一二二八)年)。一条能保の子で従三位・参議。姉婿であった西園寺公経の猶子。先に出た通り、建保七(一二一九)年の実朝の右大臣就任の鶴岡八幡宮参詣に随従、その暗殺を目の当たりにした。『その後、姉の孫にあたる九条頼経が次の将軍に決まったためにそのまま鎌倉に滞在してその補佐を行うこととな』り、貞応元(一二二一)年には『参議に任じられ、執権北条義時の娘を妻に迎えた』が、この伊賀氏の変で、『実雅を頼経に代わる新将軍に立てようとしていたことが発覚、妻と離別させられた上で越前国に流刑となった』。四年後、『配流先で変死を遂げたとされる』(注に「尊卑分脈」では「河死」とあるとあり、河川で溺死したものか? 孰れにせよ、怪しい変死ではある)。頭に「義村が婿」とあるのは誤り。
「二位禪尼、聞付けて使を以て政村が館の騷動をぞ靜められける」この記事、出所不明。「吾妻鏡」にはない。不審。
「相摸守時房の一男、掃部助時盛、武藏守泰時の一男武蔵太郎時氏を京都に上洛せしめらる」以下にあるように、時房・泰時の代わりの六波羅探題南北両方の統轄職として派遣されたことを指す。
「大名小名」鎌倉時代には既にあった呼称で、「大名」は大きな所領を有し、多くの家の子・郎党を従えた有力武士や御家人を指し、「小名」は平安中期以降に小さな名田(荘園や国衙領の構成単位を成す田地で、開墾・購入・押領などによって取得した田地に取得者の名を冠して呼んだ)を持つものの、名の知られていない中弱小の武家や武士集団を指す。
以下、「吾妻鏡」貞応三(一二二四)年六月二十六日から二十九日までを総て連続して示す。ここでは簡単な私の割注を《 》で書き下し文に入れた。
〇原文
廿六日壬辰。天晴。二七日御佛事被修之。大進僧都觀基爲唱導云々。今日未尅。武州(泰時)自京都下著。先宿于由比邊給。明日可被移正家云々。去十三日飛脚。同十六日入洛之間。十七日丑尅出京云々。又相州〔時房。十九日出京〕幷陸奥守義氏等同下著云々。
廿七日癸巳。天晴。依爲吉日。武州被移鎌倉亭。〔小町西北〕日者所被加修理也。關左近大夫將監實忠。尾藤左近將監景綱兩人宅。在此郭内也。
廿八日甲午。武州始被參二位殿御方。觸穢無御憚云々。相州。武州爲軍營御後見。可執行武家事之旨。有彼仰云々。而先々爲楚忽歟之由。被仰合前大膳大夫入道覺阿。覺阿申云。延及今日。猶可謂遲引。世之安危。人之可疑時也。可治定事者。早可有其沙汰云々。前奥州禪室卒去之後。世上巷説縱横也。武州者爲討亡弟等。出京都令下向之由。依有兼日風聞。四郎政村之邊物忩。伊賀式部丞光宗兄弟。以謂政村主外家。内々憤執權事。奥州後室〔伊賀守朝光女〕亦擧聟宰相中將實雅卿。立關東將軍。以子息政村。用御後見。可任武家成敗於光宗兄弟之由。潜思企。已成和談。有一同之輩等。于時人々所志相分云々。武州御方人々粗伺聞之。雖告申。武州稱爲不實歟之由。敢不驚騷給。剩要人之外不可參入之旨。被加制止之間。平三郎左衞門尉。尾藤左近將監。關左近大夫將監。安東左衞門尉。萬年右馬允。南條七郎等計經廻。太寂莫云々。
廿九日乙未。寅刻。掃部助時盛。〔相州一男〕武藏太郎時氏〔武州一男〕等上洛。〔去廿七日出門〕兩人共就世上巷説。雖稱可在鎌倉之由。相州。武州被相談云。世不靜之時者。京畿人意。尤以可疑。早可警衛洛中者。仍各首途。相州。當時於事不被背武州命云々。」今日。無六月秡。依觸穢也。天下諒闇之時不被行之由。及御沙汰云々。
廿九日乙未。寅刻。掃部助時盛〔相州一男〕、武藏太郎時氏〔武州一男〕等上洛〔去廿七日出門〕。兩人共就世上巷説。雖稱可在鎌倉之由。相州。武州被相談云。世不靜之時者。京畿人意。尤以可疑。早可警衞洛中者。仍各首途。相州。當時於事不被背武州命云々。今日。無六月祓。依觸穢也。天下諒闇之時不被行之由。及御沙汰云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿六日壬辰。天、晴る。二七日の御佛事、之れを修せらる。大進僧都觀基、唱導たりと云々。
今日、未の尅《午後二時頃。》、武州、京都より下著す。先づ由比の邊に宿し給ふ。明日、正家(しやうか)に移らるべしと云々。
去ぬる十三日の飛脚、同じく十六日に入洛するの間、
十七日、丑の尅《午前二時頃。》、出京すと云々。
又、相州〔時房。十九日に出京す。〕幷びに陸奥守義氏《足利義氏。》等、同じく下著すと云々。
廿七日癸巳。天、晴る。吉日たるに依つて、武州、鎌倉亭〔小町の西北。〕に移らる。日者(ひごろ)、修理を加へらるる所なり。關左近大夫將監實忠・尾藤左近將監景綱兩人の宅、此の郭内に在るなり。
廿八日甲午。武州、始めて二位殿の御方へ參らる。觸穢(しよくゑ)の御憚り無しと云々。
相州、武州軍營の御後見として、武家の事を執り行ふべきの旨、彼(か)の仰せ有りと云々。
而るに、
「先々(さきざき)、楚忽たるか。」
の由、 前の大膳大夫入道覺阿に仰せ合はさる。覺阿、申して云はく、
「延びて今日に及ぶ、猶ほ遲引と謂ひつべし。世の安危、人之疑うべき時なり。治定(ぢぢやう)すべき事は、早く其の沙汰あるべし。」
と云々。
前の奥州禪室《義時》卒去の後、世上の巷説、縱横なり《流言飛語の甚だしきをいう。》。
「武州は弟等を討ち亡ぼさんが爲(ため)に、京都を出でて下向せしむるの由、兼日の《以前からの。》風聞有るに依つて、四郎政村の邊、物忩(ぶつそう)《物騒に同じ。》。伊賀式部丞光宗兄弟、政村主(ぬし)の外家《外戚。》と謂ふを以つて、内々執權の事を憤り、奥州後室〔伊賀守朝光が女(むすめ)。〕亦、聟の宰相中將實雅卿を擧(こ)して、關東將軍に立て、子息政村を以つて、御後見を用ゐ、武家の成敗(せいばい)を光宗兄弟に任(まか)すべきの由、潜かに思ひ企つ。已に和談を成し、一同するの輩等(やからら)有り。時に人々の志すところ、相ひ分かると云々《最後の部分は謀叛方の内実が一枚板ではなかったこと、それぞれの思惑に激しい温度差があったことを語っている。》。
武州の御方の人々、粗(ほ)ぼ之を伺ひ聞きて、告げ申すと雖も、武州、
「不實たるか。」《「それは事実ではあるまいよ。」》
の由を稱し、敢へて驚き騷ぎ給はず。剩(あまつさ)へ、要人の外、參入すべからざるの旨、制止を加へらるるの間、平三郎左衞門尉《平盛綱。》・尾藤左近將監《尾藤景綱。》・關左近大夫將監《関実忠。》・安東左衞門尉《安東光成。》・萬年右馬允《不詳。》・南條七郎《南条時員(ときかず)。》等、計(ばか)り經廻(けいくわい)し《だけを側におかれたばかりで》、太(はなは)だ寂莫(じやくまく)《すこぶるひっそりとして寂しい限りであることを謂うが、ここは謀叛勃発の危機管理から見て異例なことに警護が手薄であることを指していよう。》と云々。
廿九日乙未。寅の刻《午前四時頃。》、掃部助時盛〔相州一男。〕、武藏太郎時氏〔武州一男。〕等、上洛す〔去る廿七日、出門す。〕。兩人共に世上の巷説に就きて、鎌倉に在るべきの由稱すと雖も、相州・武州、相ひ談じられて云はく、
「世、靜かならざる時は、京畿(けいき)の人意、尤も以つて疑ふべし。早く、洛中を警衞すべし。」
てへれば、仍つて各々首途(かどで)す。相州、當時、事に於いて武州の命に背かずと云々。
今日、六月祓(みなづきはらへ)無し。觸穢に依りてなり。天下諒闇(りやうあん)《狭義には天皇がその父母の死に対して喪に服する期間をいう。》の時は行はれざるの由、御沙汰に及ぶと云々。]