今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 65 金沢 塚も動け我が泣く聲は秋の風
本日二〇一四年九月 五日(陰暦では二〇一四年八月十二日)
元禄二年七月二十二日
はグレゴリオ暦では
一六八九年九月 五日
である。芭蕉は「奥の細道」の旅に出でて以来、金沢でまだ見ぬ愛弟子小杉一笑に逢うことを一番の楽しみとしていた。
ところが既に示した「曾良随行日記」の金沢着の十五日の末に『一笑、去十二月六日死去ノ由』と記す通り、やはり書簡で教えを乞うばかりであった師芭蕉と直に逢うことを心待ちにしていた一笑は、既に半年以上も前、病いのためにとっくに幽冥境を異にしていたのであった。享年三十六歳。芭蕉は彼の死を知らずに「奥の細道」の旅に出、松島・象潟に感じ入った後の彼は、只管、難渋の越路を一笑に逢うことを心の拠りどころとして金沢を目指していたとも言えるのであった。
小杉一笑(承応二(一六五三)年~元禄元(一六八八)年)は茶葉商人で元禄期の加賀を代表する俳人。通称、茶屋清七(新七とも)。「俳諧時勢粧」(いまようすがた・松江重頼(維舟)編・寛文一二(一六七二)年成立)・「山下水」(梅盛編・寛文一二(一六七二)年刊)・「大井川集」(重頼編・延宝二(一六七四)年)・「俳枕」(高野幽山編・山口素堂序・延宝八(一六八〇)年刊)・「名取河」(重頼編・延宝八(一六八〇)刊)・「孤松」(ひとりまつ・江左尚白編・貞亨四(一六八七)年刊)・「阿羅野」(山本荷兮編・元禄二(一六八九)年刊の芭蕉俳諧七部集の一。但し、一笑死後の刊行)などに続々と句が採られた。特に近江大津で刊行された「孤松」には実に百九十三句も入集、上方でもその名が広く知られるようになったが、そうした中でも芭蕉が最も注目した若手俳人であった。貞門から談林を経、この二年前の貞亨四年頃には蕉門に入門している。追善集は兄丿松編の「西の雲」で芭蕉の本句を始めとして諸家の追悼句及び一笑の作百四句を収める(ここまでは諸資料を参照したが、最も詳細と判断した石川県金沢市東山にある「茶房 一笑」の「小杉一笑」のデータを一応のベースとさせて戴き、諸データを追加してある)。
金沢到着から七日目のこの七月二十二日、小杉家菩提寺の金沢市野町(のまち)にある浄土真宗大谷派願念寺に於いて兄の小杉丿松(べっしょう)によって一笑追善供養が催され、本句はその席で詠まれた。
塚も動け我(わが)泣(なく)聲は秋の風
[やぶちゃん注:「奥の細道」。真蹟詠草に、
とし比(ごろ)我を待ちける人のみまかりけるつかにまうでゝ
つかもうごけ我泣聲は秋の風
と前書したものが残る。「曾良俳諧書留」には、
一笑追善
塚もうごけ我泣聲は秋の風 同
玉よそふ暮のかざしや竹露 曾良
と載る(「竹露」は無論「たけのつゆ」)。なお、後者の曾良の句は曾良の真蹟があり、
一笑居士のつかに詣侍りけるに、いと
やさしき竹の墓のしるしになびきそひ
たるも哀まさりぬ
玉よそふ暮のかざしや竹露 曾良
と前書、「西の雲」では、
翁供して詣でけるに、やさしき竹の墓
のしるしとてなびき添たるもあはれま
さりぬ
玉よそふ暮のかざしや竹露 曾良
とあってこれらの前書によって句意が判然とする。ネット上に「雪まろげ」には、
一笑追善
玉よばふ墓のかざしや竹の露 曾良
という有意な異形句が載るという複数情報にあるが、少なくとも私が管見した同書には前書のみで句がない。一応、記しおくこととする。
一笑の句を示さないわけにはいかない。まず、伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「小杉一笑」から引いておく(恣意的に正字化した)。最後の辞世以外は「阿羅野」に採られた句である。リンク先のリンクで句意も解る。
元日は明すましたるかすみ哉 一笑
さし柳たゞ直なるもおもしろし 一笑
すがれすがれ柳は風にとりつかむ 一笑
蚊の瘦て鎧のうへにとまりけり 一笑
いそがしや野分の空の夜這星 一笑
火とぼして幾日になりぬ冬椿 一笑
辭世
心から雪うつくしや西の雲 一笑
次に安東次男氏が「古典を読む おくのほそ道」に引用するもの。
雨ぬるゝ壁に喰ひつく燕かな 一笑
みをつくし小鮎身をうつ夕日かな 一笑
さびしさに壁の草摘五月哉 一笑
いつとなくおとがひだるき火燵哉 一笑
ふらぬ日や見たい程見る雪の山 一笑
この安東氏の引用する句はどれもまことに掬すべき佳句である。
以下、「奥の細道」金沢の段を示す。
*
卯の花山くりからかか谷をこえて金
澤は七月中の五日也爰に大坂より
かよふ商人何處と云ものありそれか
旅宿をともにす
一笑と云ものは此道にすける名の
ほのほの聞へて世に知人も侍しに去年
の冬早世したりとて其兄追善
を催スに
塚もうこけ我泣聲は秋の風
ある草庵にいさなはれて
秋すゝし手毎にむけや瓜天茄
途中唫
あかあかと日は難面もあきの風
[やぶちゃん字注:「天茄」は厳密にはナス目ヒルガオ科ハリアサガオ(針朝顔)Calonyction muricatum の漢名であるが、ここは「なすび」(ナス目ナス科ナス Solanum melongena )と訓じている。]
*
■やぶちゃんの呟き
「卯の花山」本来は卯の花の咲いている山の意で、固有名詞ではないが、後世、越中の歌枕となった。旧源氏山。旧富山県西砺波郡砺中(とちゅう)町(現在は小矢部市)の砺波山(となみやま)。標高二六三メートル。倶利伽羅峠直近にある。芭蕉の偏愛する木曽義仲の倶利伽羅合戦に於ける陣所であった。
「何處」(?~享保一六(一七三一)年)「かしよ(かしょ)」と読む。伊勢出身の大阪の薬種問屋主人。この時、事実、偶然の同宿をして蕉門に入った。「芭蕉DB」の「何処」によれば、『以後、芭蕉が上方にある時はしばしば訪れていたもようである。『猿蓑』などに入集されている』とある。
他の二句はこの前に既に掲げてある。そこでの私の注も参照されたい。
最後に(以下の文中のリンク先は孰れも私の電子テクストである)。
私は、この句を芭蕉の辞世「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」以上の、芭蕉畢生の絶唱として記憶している。
人間芭蕉痛恨の一句は、これ以外にはない。
因みに、芭蕉の死後二年後の元禄九年春に義仲寺の墓前を訪れた丈草の句に、
陽炎(かげろふ)や塚より外に住むばかり
という名吟があるが(同句の私の通釈は「宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(5)」の私の注を参照)、この芭蕉の一笑を失った激しい慟哭と比べてしまった時、私は芥川龍之介の「枯野抄」の、「法師じみた」「老實な禪客の丈艸」の姿を想起して、鼻白んでしまうのを常としている――]
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