今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 86 國々の八景更に氣比の月
本日二〇一四年九月二十七日(当年の陰暦では九月四日)
元禄二年八月 十四日
はグレゴリオ暦では
一六八九年九月二十七日
【その五】この日、芭蕉は敦賀に到着、待宵の月を気比神宮に見た。
氣比(けひ)の海
國々の八景更に氣比の月
國々や八景さらに氣比の月
[やぶちゃん注:第一句目は「荊口句帳」の、第二句目は「芭蕉翁句解参考」の句形。
――既にこの頃には諸国に八景の名数が作られてあったが、ここ越前の国でも私はそうした私の中の名勝歌枕を八景と成して数えつつ、この敦賀まで辿りついた。その「気比秋月」をここに八景の一として、待宵の名月を眺めている――という謂いであろう。駄句である。しかも待宵の月を名月として八景に数えてしまえば、翌くる十五夜の名月は臍を曲げて出ぬに決まっている。事実を文飾のために枉げて何ら恥じない芭蕉にして、そうした当たり前の言霊の様態を信じなかったというのは如何にも奇異だ。特にこの一連の如何にもな月の駄句の羅列はどうか? 月読命(つくよみのみこと)も鼻白んでしまうと私なら思う。
以下、「奥の細道」敦賀の段。本句はないが、次の「月淸し」が出る(次の当句の評釈で再掲する)。
*
其夜月殊晴たりあすの夜もかく
あるへきにやといへは越路のならひ
明夜の陰晴はかり難しとあるしに
酒すゝめられてけいの明神に夜參ス
仲哀天皇の御廟也社頭神さひて
松の木間に月のもり入たるおまへの
白砂霜を敷るかことし徃昔
遊行二世の上人大願發起の事
ありてみつから葦を刈土石を荷
泥渟をかはかせて參詣徃來の煩
なし古例今にたえす神前に
眞砂を荷ひ玉ふこれを遊行砂持
と申侍ると亭主のかたりける
月淸し遊行のもてる砂の上
*
■異同
(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)
〇明夜の陰晴はかり難し → ●猶明夜の陰晴はかりがたし
〇葦 → ●草
〇遊行砂持 → ●遊行の砂持
■やぶちゃんの呟き
「其夜」八月十四日。待宵。
「けいの明神」現在の福井県敦賀市曙町にある北陸道総鎮守とされた氣比神宮。参照したウィキの「氣比神宮」によれば、記紀では早い時期に神宮についての記事が見えるが、特に第十四代仲哀天皇・神功皇后・第十五代応神天皇との関連が深く、『古代史において重要な役割を担う。また、中世には越前国の一宮に位置づけられており、福井県から遠くは新潟県まで及ぶ諸所に多くの社領を有していた』とある。
「夜參」「やさん」と読む。
「神さひて」「かんさびて」と読む。古びて如何にも神々しく見えて。
「徃昔」「そのかみ」と読む。
「遊行二世の上人」時宗開祖の一遍(遊行上人)の高弟で二世遊行上人となった他阿弥陀仏上人(他阿上人)。
「大願」新潮古典集成の富山奏氏の注に、当神宮の近くの『池沼に住む龍が明神を悩ませたのを、上人が埋立てて神慮を安んじたとの古事』を指すとある。
「荷」「になひ」と訓じている。
「泥渟」「でいてい」で、泥水の溜まった泥濘(ぬかるみ)・泥沼の謂い。
「煩」「わづらひ」と訓じている。
「古例」時宗では遊行上人を継ぐ歴代の者は、この気比神宮の神前に敦賀の浜砂を荷い来、敷きつめることを仕来りとし、それを「遊行の砂持」と称した。]
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