今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 92 寂しさや須磨にかちたる濱の秋
本日二〇一四年九月二十九日(当年の陰暦では九月六日)
元禄二年八月 十六日
はグレゴリオ暦では
一六八九年九月二十九日
【その四】同じく、いろの浜本隆寺での句。「奥の細道」の同段に第一に収録された。この句順は実に計算されていて素晴らしい。
寂しさや須磨にかちたる濱の秋
越前いろの濱にて
寂しさや須磨にかちたるうらの秋
[やぶちゃん注:第一句目は「奥の細道」の、第二句目は「初蟬」(風国編・元禄九年刊)の句形。
言わずもがな、「源氏物語」「須磨」の、
須磨には、いとど心盡くしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平中納言の、「關吹き越ゆる」と言ひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり。
御前にいと人少なにて、うち休みわたれるに、一人目を覺まして、枕をそばだてて四方の嵐を聞きたまふに、波ただここもとに立ちくる心地して、涙落つともおぼえぬに、枕浮くばかりになりにけり。琴をすこしかき鳴らしたまへるが、我ながらいとすごう聞こゆれば、彈きさしたまひて、
戀ひわびて泣く音にまがふ浦波は
思ふ方より風や吹くらむ
と歌ひたまへるに、人びとおどろきて、めでたうおぼゆるに、忍ばれで、あいなう起きゐつつ、鼻を忍びやかにかみわたす。
のシークエンスを受けはする。しかし彼の「寂しさ」は光などよりも、もっと多層的で神経症的である。ここにあるのは芭蕉という、彼自身にとっても不可解な孤独者の悲哀と寂寥を孕んだ「寂しさ」である。これは正常なる人間の、魂の平穏をかろうじて保っているところの極北の精神――孤高の蕊(ずい)そのものである、と私は思うのである。そこを読み解けない者は――遂に――芭蕉を捉え損なうであろう――]
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