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2014/09/14

耳嚢 巻之八 小笠原鎌太郎屋敷蟇の怪の事

 小笠原鎌太郎屋敷蟇の怪の事

 

 内藤宿に小笠原鎌太郎といへる小身の御旗本あり。かの家の流し元にて、小豆洗(あづきあらひ)といへる怪あり。時として小豆をあらふ如き音しきりなれば、立出て見るに、さらに其物なし。常になれば強(しひ)てあやしむ事なし。年を經(ふ)る蟇の業(わざ)なりと聞(きき)しと、人の語りしが、其傍(かたはら)に有(あり)し人、外にも其事ありと親しく聞しが、是ひきの怪なりといひき。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。私には、怪異が最早、日常と化して、怪異自体が怪異として認知されなくなるという現象、古えに神であったに違いないそれが、妖怪に零落し、さらに煩瑣な近代的日常に吸収・埋没させられ、さらに急速な文明進捗の中で、妖怪総体が抹消されるという経緯のとば口に悄然と小豆洗いが立ち竦んでいるように思えてならないのである。

・「内藤新宿」江戸中期に設けられた宿場の一つ。現在の新宿区新宿一丁目・二丁目・三丁目一帯。甲州街道に存在した宿場の内では江戸日本橋から数えて最初の宿場で、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の起点でもあった。参照したウィキの「内藤新宿」によれば、慶長九(一六〇四)年に『江戸幕府により日本橋が五街道の起点として定められ、各街道で』一里(約三・九三キロメートル)ごとに『一里塚を設けたほか、街道沿いに宿場が整備された。甲州街道最初の宿場は』、慶長七(一六〇二)年に『設けられていた高井戸宿』であったがここは、日本橋から約四里(十六キロメートル弱)と『遠く離れ、徒歩を主な手段とする当時の交通には不便であった』。『東海道の品川宿・中山道の板橋宿・日光街道(奥州街道)の千住宿は、いずれも日本橋から』約二里(七・八キロメートル)の『距離にあり、五街道の内で甲州街道のみが江戸近郊に宿場を持たなかった。このため、日本橋―高井戸宿間での公用通行に対して人馬の提供を行う必要があった日本橋伝馬町と高井戸宿は、負担が大きかったとされる。幕府成立』から凡そ百年が経過、江戸の急速な発展に相俟って『甲州街道の通行量も増加を続けていた』ことから、元禄一〇(一六九七)年、幕府に対して、『浅草阿部川町(現在の台東区元浅草三、四丁目の一部)の名主であった高松喜兵衛など』五名の『浅草商人が、甲州街道の日本橋 - 高井戸宿間に新しい宿場を開設したいと願い出る。請願を受けた幕府では、代官・細井九左衛門や勘定奉行・荻原重秀などが審査にあたっ』たが、翌年六月、幕府は五千六百両の上納を条件に宿場の開設を許可、日本橋から二里弱の距離で、『青梅街道との分岐点付近に宿場が設けられることとなった。宿場予定地には信濃国高遠藩・内藤家中屋敷の一部や旗本の屋敷などが存在したが、これらの土地を幕府に返上させて宿場用地とした』。『高松喜兵衛らは新たに』五名の『商人を加えて宿場の整備に乗り出し』、彼等十人は特に『「元〆拾人衆」「内藤新宿御伝馬町年寄」などと呼ばれた。元〆拾人衆の手で街道の拡幅や周辺の整地が行なわれ、』元禄一二(一六九九)年に遂に『内藤新宿が開設された。宿場名である内藤新宿は、以前よりこの付近にあった「内藤宿」に由来する』。『なお、浅草商人が莫大な金額を上納してまで宿場開設を願い出た理由としては、この地を新たな繁華街・行楽地として開発し、商売によって利益を上げる計画だったとする説が有力である』とある。ところが賑わいを誇りながらその後、たった二十年足らずの享保三(一七一八)年十月、内藤新宿は幕府の命によって突如、廃止されてしまう。『幕府が表向きに廃止の理由として上げたのは、「甲州街道は旅人が少なく、新しい宿でもあるため」不要、というものだった。しかし、この時期は』第八代将軍『吉宗による享保の改革の最中であっ』て、同じ十月には「江戸十里以内では旅籠屋一軒につき、飯盛女は二人まで」という『法令が出されていることもあり、宿場としてより岡場所として賑わっていた内藤新宿は、その改革に伴う風紀取締りの一環として廃止されたと考えられている』。その後、再会運動が起こり、明和九(一七七二)年四月、実に、五十数年ぶりに内藤新宿は再開され、『「明和の立ち返り駅」と呼ばれた。『これまで却下され続けた再開が認められた背景には、品川宿・板橋宿・千住宿の財政悪化があった。各街道で公用の通行量が増加し、宿場の義務である人馬の提供が大きな負担となっていたのである。幕府は宿場の窮乏に対し、風紀面での規制緩和と、宿場を補佐する助郷村の増加で対応することになる(後者は伝馬騒動[やぶちゃん注:明和元(一七六四)年閏十二月下旬から翌年一月にかけて起こったの翌年の日光東照宮百五十回忌の過重負担などに基づく助郷村の不満による一揆。]を引き起こして失敗に終わる)』。幕府は明和元(一七六四)年に、それまでの先の「旅籠屋一軒附飯盛女二人迄」という『規制を緩め、宿場全体で上限を決める形式に変更』。品川宿は五百人、板橋宿・千住宿は百五十人までと改訂されて、結果として各宿場の『飯盛女の大幅な増員が認められた。これにより、各宿場の財政は好転し、同時に内藤新宿再開の障害も消滅した。また、この時、第十代将軍『徳川家治の治世に移り、消費拡大政策を推進する田沼意次が幕府内で実権を握りつつあったことも、再開に至る背景にあるとする説もある』とある。この宿場再開によって町は賑わいを取り戻し、文化五(一八〇八)年には旅籠屋五十軒・引手茶屋八十軒との記録が残る(本「卷之八」の執筆推定下限は文化五年の夏である)。『江戸四宿の中でも品川宿に次ぐ賑わいを見せ、その繁栄は明治維新まで続いた。現在では内藤新宿という地名は残っていないが、新宿の名はこの内藤新宿に由来するものである』と記す。

・「小笠原鎌太郎」底本の鈴木氏注に『貞三(サダカズ)。五百石。天明二年遺跡を継ぐ。二十八歳』とあるから、生年は天明二(一七八二)年から遡って宝暦五(一七五五)年となる。因みに根岸の生年は元文二(一七三七)年で、宝暦八(一七五八)年には一五〇俵取りの下級旗本根岸家当主衛規の末期養子となって根岸家の家督を継いでいる(当時二十二歳)。

・「小豆洗」知られた妖怪で小豆とぎとも呼ぶ。以下、ウィキの「小豆洗い」に依って記載する。呼称は『山梨県笛吹市境川、藤垈の滝付近、新潟県は糸魚川、秋田県、群馬県、京都府、東京都、愛媛県など、出没地域は全国多数。日本全国で知られる妖怪だけあって別称も多岐にわたり、広島県世羅郡、山口県美祢郡(現・美祢市)、宇部市、愛媛県広見町(現・鬼北町)などでは小豆とぎ、岩手県雫石村(現・雫石町)では小豆アゲ、長野県長野市川中島では小豆ごしゃごしゃ、山梨県北巨魔郡では小豆そぎ、鳥取県因幡地方では小豆こし、岡山県都窪郡や阿哲郡(現・新見市)では小豆さらさら、香川県坂出地方では小豆ヤロなどと呼ばれ』、『長野県松本市では、木を切り倒す音や赤ん坊の泣き声をたてた』、『群馬県邑楽郡邑楽町や島根県では、人をさらうものと』いわれた。『『白河風土記』巻四によれば、鶴生(つりう・福島県西白河郡西郷村大字)の奥地の高助という所の山中では、炭窯に宿泊する者は時として鬼魅(きみ)の怪を聞くことがあり、その怪を小豆磨(あずきとぎ)と呼ぶ。炭焼き小屋に近づいて夜中に小豆を磨ぐ音を出し、其の声をサクサクという。外に出て見てもそこには何者も無いと伝えられている』。『茨城県や佐渡島でいう小豆洗いは、背が低く目の大きい法師姿で、笑いながら小豆を洗っているという。これは縁起の良い妖怪といわれ、娘を持つ女性が小豆へ持って谷川へ出かけてこれを目にすると、娘は早く縁づくという』。『大分県では、川のほとりで「小豆洗おか、人取って喰おか」と歌いながら小豆を洗う。その音に気をとられてしまうと、知らないうちに川べりに誘導され落とされてしまうとも』され、『音が聞こえるだけで、姿を見た者はいないともいわれる』。『この妖怪の由来が物語として伝わっていることも少なくない。江戸時代の奇談集『絵本百物語』にある「小豆あらい」によれば、越後国の高田(現・新潟県上越市)の法華宗の寺にいた日顕(にちげん)という小僧は、体に障害を持っていたものの、物の数を数えるのが得意で、小豆の数を一合でも一升でも間違いなく言い当てた。寺の和尚は小僧を可愛がり、いずれ住職を継がせようと考えていたが、それを妬んだ円海(えんかい)という悪僧がこの小僧を井戸に投げ込んで殺した。以来、小僧の霊が夜な夜な雨戸に小豆を投げつけ、夕暮れ時には近くの川で小豆を洗って数を数えるようになった。円海は後に死罪となり、その後は日顕の死んだ井戸で日顕と円海の霊が言い争う声が聞こえるようになったという』。『東京都檜原村では小豆あらいど(あずきあらいど)といって、ある女が小豆に小石が混ざっていたと姑に叱られたことから川に身を投げて以来、その川から小豆をとぐ音が聞こえるようになったという』。以下、「正体」の項(注記記号と改行を除去した)。『小豆洗いの正体を小動物とする地方もあり、新潟県刈羽郡小国町(現・長岡市)では山道でイタチが尻尾で小豆の音を立てているものが正体だといい、新潟県十日町市でもワイサコキイタチという悪戯イタチの仕業とされる。長野県上水内郡小川村でも小豆洗いはイタチの鳴き声とされる。大分県東国東郡国東町(現・国東市)でもイタチが口を鳴らす音が正体とされ、福島県大沼郡金山町でも同様にイタチといわれる。岡山県赤磐郡(現・岡山市)では小豆洗い狐(あずきあらいぎつね)といって、川辺でキツネが小豆の音をたてるという。長野県伊那市や山梨県上野原市でもキツネが正体といわれる。京都府北桑田郡美山町(現・南丹市)ではシクマ狸という化けダヌキの仕業とされるほか、風で竹の葉が擦りあう音が正体ともいう。香川県観音寺市でもタヌキが小豆を磨いているといわれ、香川県丸亀市では豆狸の仕業といわれる。広島県ではカワウソが正体といわれる。津村淙庵による江戸時代の随筆『譚海』ではムジナが正体とされる。秋田県では大きなガマガエルが体を揺する音といわれる。福島県ではヒキガエルの背と背をすり合わせることで疣が擦れ合った音が小豆洗いだともいい、根岸鎮衛の随筆『耳嚢』でもガマガエルが正体とされている。新潟県では、糸魚川近辺の海岸は小砂利浜であり、夏にここに海水浴に来る人間が砂浜を歩く「ザクザク」という音が小豆を研ぐ音に酷似していたため、これが伝承の元となったともいう。山形県西置賜郡白鷹町でも、小川の水が小豆の音に聞こえるものといわれる。また江戸時代には小豆洗虫(あずきあらいむし)という昆虫の存在が知られていた。妖怪研究家・多田克己によれば、これは現代でいうチャタテムシのこととされる。昆虫学者・梅谷献二の著書『虫の民俗誌』によれば、チャタテムシが紙の澱粉質を食べるために障子にとまったとき、翅を動かす音が障子と共鳴する音が小豆を洗う音に似ているとされる。また、かつてスカシチャタテムシの音を耳にした人が「怖い老婆が小豆を洗っている」「隠れ座頭が子供をさらいに来た」などといって子供を脅していたともいう。新潟県松代町では、コチャタテムシが障子に置時計の音を立てるものが小豆洗いだという。長野県下諏訪などではこうした妖怪の噂に乗じ、男性が仲間の者を小豆洗いに仕立て上げ、女性と連れ立って歩いているときに付近の川原で小豆洗いの音を立てさせ、怖がった女性が男性に抱きつくことを楽しんだという話もある』とある。長々と引用したのは、蟇蛙の化けた妖怪とする説を検証するためと、最後の実際のチャタテムシ(昆虫綱咀顎目(Psocodea)の内で寄生性のシラミ・ハジラミ以外の微小昆虫の総称チャタテムシ(茶立虫))の立てる音というのが、殊の外、私にはすこぶる腑に落ちるからである。現在の家を新築した年、寝室の畳にヒラタチャタテ( Liposcelis bostrychophila と推定)が大発生、寝ていると畳の上をフツフツと飛び歩く音がしたが、直後に同年(一九九〇年)出版の多田克己氏「幻想世界の住人たち」を読み、これが「小豆洗い」の音であったか! と妙に感動したのが忘れられないからである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 小笠原鎌太郎殿御屋敷の蟇蛙の怪の事

 

 内藤新宿に小笠原鎌太郎と申さるる小身の御旗本が居らるる。

 かの御仁の屋敷の厨外の流し元にては、「小豆洗い」と呼ぶ怪がある由。

 時にその辺りにて、小豆を洗っておるような音が、これ、頻りに致すによって、下人が立ち出でてこれを見てみても、はて、誰も、何も、御座らぬ。

 これ、実はかなり日頃、頻繁に起こることなれば、屋敷内の者は皆、これを最早、怪しまずなっておるとも申す。

「……この『小豆洗い』と申すは……ご存知か?……実はこれ――年を経たる蟇(ひき)の仕業――と我らは聴いて御座る。……」

ととある人の語って御座ったが、その話の輪にあった別な御仁はそれを受けて、

「……いや! その通りじゃ。……我ら、他にも似たような怪異を聴き及んで御座るが、それもやはり、これ――蟇蛙(ひきがえる)の成す怪なり――とのことで御座った。……」

と申された。

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