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2014/09/23

今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 77 永平寺

本日二〇一四年九月二十三日(当年の陰暦では八月三十日)

   元禄二年八月  十日

はグレゴリオ暦では

  一六八九年九月二十三日

この前の松岡(「奥の細道」は「丸岡」と誤記)辺りでの北枝との別れを私は取り敢えず個人的な欲求から八月九日としたが、この後の福井の等栽宅到着は、諸資料から八月十二日辺りと推定されている(敦賀の月見の予定から)。「奥の細道」ではその間に芭蕉は永平寺を訪れていることになっている。以下、「奥の細道」の永平寺の段。まず、通行の校訂本文を示す。

 

 五十町山に入りて、永平寺を禮(らい)す。道元禪師の御寺(みでら)也。邦畿(はうき)千里を避けて、かかる山陰に跡を殘したまふも、貴(たふと)きゆゑ有りとかや。

 

[やぶちゃん注:以下、自筆本を示す。

   *

        平

五十丁山に入て永寺を礼す道元

禅師の御寺也邦機千里を避て

かゝる山陰に跡を殘し玉ふも貴き

故有とかや

   *

■やぶちゃんの呟き

「五十丁(町)」約五・五キロメートル。これは現在のえちぜん鉄道勝山・永平寺線の永平寺口附近から寺までの距離に相当する。これは広大な永平寺の境内地からの距離という。後注「奥細道菅菰抄(すがごもしょう)」(蓑笠庵梨一著・安永七(二七七八)年刊)参照のこと。

「邦機(畿)千里」本邦の王城の地である京を中心とした四方千里。「詩経」にある、『邦畿千里、惟民所止』(邦畿千里、惟(こ)れ民の止(とど)まる所)の俗塵の域の謂いである。

 「奥細道菅菰抄」に、

 

永平寺ハ、越前國、志比村ニ立。(福井ヨリ三里。丸岡ヨリ四里)吉祥山ト號ス。後深草院建長五年ノ草創。北条時賴ノ修願ニテ、曹洞禪宗ノ本山ナリ。コヽニ五十町山ニ入トハ、此寺領ノ入口ヨリ、山中ノ寺マデノ行程ヲ云。(山へ登ル事ニハアラズ)道元禪師、姓ハ源氏、京師ノ人、宋ニ入テ天童如淨禪師ニ謁シ、曹洞宗ヲ傳フト云。邦機千里とは、機ハ畿ノ字ノ誤ニテ、邦畿ハ帝都ノ稱。詩ニ、邦畿千里、維民所ㇾ止、ト云是ナリ。貴きゆへありとは、相傳ふ、はじめ寺地を京師にて給らんと有しを、禪師の云、寺堂を繁華の地に營ては、末世に至り、僧徒或は塵俗に堕するものあらん歟、と固く辭して、終に越前に建立すと云。此事なり。

 

とある。

 さて。

 永平寺の位置及びそこを芭蕉が一人で往復したというのは、事実としては、独り旅の苦手な芭蕉にして、寧ろ考え難いとも言える気はする。

 立枝との別れは実はこの永平寺訪問の後であったと考えた方が自然な気もするし(私が立枝なら必ずそれを望む)、独り旅を芭蕉が例によって虚構したというのも如何にもありそうなことではある。因みに、松岡を起点とすると、永平寺までは約十四・五キロメートル、そこから直に福井に向かうとやはり同程度の距離があって、足すと三十キロメートルほどになる。

 しかも「奥の細道」にはご覧の通り、短い詞を述べるだけで句はなく、諸資料にも現存する中に永平寺で作句したと思われる句は不思議にも存在しない。

 実は、本当に芭蕉は永平寺に行ったのだろうかと疑いたくなる気持ちを、私はどうしても抑えられないでいる。

 いや……そう考えれば考えるほど、この独り行く芭蕉の後ろ影が……否応なく謎めいて見えてくるからでもある。……]

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