今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 74 那谷寺 石山の石より白し秋の風
本日二〇一四年九月 十八日(陰暦では二〇一四年八月二十五日)
元禄二年八月 五日
はグレゴリオ暦では
一六八九年九月 十八日
【その三】既に述べた通り、この日、曾良と別れ、立花北枝とともに山中温泉を発った芭蕉は現在の石川県小松市那谷町にある自生山那谷寺(じせいざんなたでら)を訪れ、再び先に泊した小松へ向かった。本名句はその那谷寺での句。
石山の石より白し秋の風
[やぶちゃん注:「奥の細道」。
那谷寺は寺伝によれば養老元(七一七)年に泰澄法師が越前国江沼郡に千手観音を安置したのが始まりとされる。その後寛和二(九八六)年に花山法皇が行幸の折り、岩窟で輝く観音三十三身の姿を感じて、観音霊場三十三カ所は総てこの山に凝縮されるとして、西国三十三観音の一番「那智」と三十三番「谷汲」の山号から一字ずつを取って「自主山厳屋寺」から「那谷寺」へと改名した。南北朝時代に戦乱に巻き込まれ荒廃したが、近世になって加賀藩藩主前田利常が再建、この時の大工は気多大社拝殿を建てたのと同じ山上善右衛門であった。前田利常は、江沼郡の大半を支藩の大聖寺藩に分置したが、この那谷寺がある那谷村付近は自身の隠居領としたため、その死後も加賀藩領となった(後に領地交換で大聖寺藩領となっている。以上はウィキの「那谷寺」に拠った。私は行ったことがないが、なかなかに美しい「那谷寺」公式サイトも必見である)。
本句は、その境内にある太古の海底噴火の跡と伝えられる流紋岩を主とする凝灰岩から成る奇岩霊石がそそり立つ「遊仙境」の岩肌に臨んだ嘱目吟である。陰陽五行説によれば白秋で秋は白であるが、ここは白く晒された奇景を秋の白い風が山の緑の色彩をも奪って精神のハレーションを起こさせる。この画像の飛びは、まさについ今しがたあった、同行二人の曾良を手ずからの露(涙)を以って指で押しのごってしまった、芭蕉自身の精神の空白を伝えて余りある。
この名吟を最後として以後の「奥の細道」には最後まで遂に、少なくとも人口に膾炙するような佳句は生まれなかった。ただ、その分、芭蕉は旅を純粋に旅として、彼の人生の中での数少ない侘しい魂の独り旅を味わったのだった、とは言えよう。
以下、「奥の細道」那谷寺の段を出すが、前に述べた通り、山中温泉の段とひっくり返してある。煩を厭わず先に出したものと同じく山中までを再掲する。
*
山中の温泉に行ほと白根か嶽
跡に見なしてあゆむ左の山際に
觀音堂有花山の法皇三十三所
大慈
の順礼とけさせ給ひて後大悲の
像を安置し給ひて那谷と名付給ふと也
那智谷組の二字をわかち侍しとそ
奇-石さまさまに古-松植ならへて
萱ふきの小堂岩の上に造り
かけて殊勝の土地也
石山の石より白し秋の風
温泉に浴す其功有明に次と云
山中や菊はたおらぬ湯の匂
あるしとするものは久米之助とて
いまた小童也かれか父俳諧を好て
洛の貞室若輩のむかし爰に
來りし比風雅に辱られて洛
に歸て貞德の門人となつて世に
しらる功名の後此一村判詞の料を請す
と云今更むかしものかたりとは成ぬ
*
■異同
(異同は〇が本文、●が現在人口に膾炙する一般的な本文)
〇那智谷組の二字 → ●那智・谷汲の二字
○好(このみ)て → ●好み
○むかしものかたり → ●昔語(むかしがたり)とはなりぬ
■やぶちゃんの呟き(那谷寺の段のみ。山中の段はつぶやき済)
「白根が嶽」加賀白山。現在の石川県白山市と岐阜県大野郡白川村に跨る標高二七〇二メートルの山。富士山・立山とともに日本三名山(日本三霊山)の一つ。北陸地方では標高が高く、一年中、山頂が雪に覆われているところから、遠くから見てもその白さから一目で判別出来ることからかく呼ばれた。
「花山の法皇、三十三所の順礼」第六十五代花山天皇は愛する后が死んだ悲しみから落髪して法皇となって西国巡礼の旅に出、そして長徳元(九九五)年六月一日にこの那谷に来たという伝承がある(諸データは史実とするものが多いが、私は全く信じていない)。
「大慈大悲の像」同寺の本尊である千手観音菩薩像。那谷寺本殿にある。
「那智・谷組の二字」「谷汲」が正しい。「那智」本邦の観音信仰巡礼でも最も古ものの一つとされる西国三十三所の最初、第一番札所である紀伊の那智山青岸渡寺の「那」と、最後の第三十三番札所で現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲(たにぐみ)にある谷汲山(たにぐみさん)華厳寺の「谷」をのそれぞれの一字を取って、の意。
「殊勝」神々しく霊験あらたかなさま。]
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