耳嚢 巻之八 硯中龍の事
硯中龍の事
世に繪かけるも、硯の内より龍の出るをかける多し。或人かたりしは、屋代弘賢、松平羽州の隱居不昧(ふまい)の館へ至りし時、咄しの序(ついで)右龍の事出たりしが、右は漢土の事や又は日本の事にや、其古事(こじ)覺へ候ものなしといひし。不昧の云(いへ)るは、我はしらず、しかし右の繪に千蔭(ちかげ)が讚の歌詠(よみ)し事あれば、千蔭はしる事あらんとの事ゆゑ、千蔭が歌にて、
かくなれば硯の海をすみかにて雲井をわたるたつぞあやしき
といへる事を以て(硯の海の歌を)尋しに、千蔭こたへけるは、我等もしる事侍らず、右硯より龍の上る繪に讚せよと、人のせちにせめける故詠(よめ)ると。尤(もつとも)戰國大阪方中村豐前守が子孫のあめる由、奇異雜談集(きいざうだんしふ)と云(いふ)書に、硯の海に龍の蟄(ちつ)して出たる事見しと語りし由。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。
・「屋代弘賢」(やしろひろかた 宝暦八(一七五八)年~天保一二(一八四一)年)は国学者。江戸生まれの幕臣。既注であるが再掲しておくと、国学を塙保己一に、儒学を山本北山(ほくざん)に学び、柴野栗山(りつざん)の「国鑑(くにかがみ)」や塙の「群書類従」の編集を輔けた。天明二(一七八二年)年に幕府の表右筆として出仕、天明六年には本丸附書役、寛政五(一七九三)年、奥右筆所詰支配勘定格となった。文化元(一八〇四)年には勘定格として御目見以上に昇進した。翌文化二年にはロシアに対する幕府の返書を清書している。幕府右筆として「寛政重修諸家譜」「古今要覧稿」などの編集に従事している。蔵書家で、上野不忍池池畔に不忍文庫をたてた。享年八十四歳(以上は講談社「日本人名大辞典」及びウィキの「屋代弘賢」に拠った)。
・「松平羽州の隱居不昧」出雲松江藩第七代藩主で代表的茶人の一人として知られた松平出羽守治郷(はるさと 寛延四(一七五一)年~文政元(一八一八)年)。不昧は号。ウィキの「松平治郷」によると、明和四(一七六七)年に父の隠居により十六歳で家督を継ぎ、当時の第十代将軍徳川家治からの偏諱と祖父宣維の初名「直郷」の一字とにより治郷を名乗った。『この頃、松江藩は財政が破綻しており、周囲では「雲州様(松江藩の藩主)は恐らく滅亡するだろう」と囁かれるほどであった。そのため治郷は、家老の朝日茂保と共に藩政改革に乗り出し、積極的な農業政策の他に治水工事を行い、木綿や朝鮮人参、楮、櫨などの商品価値の高い特産品を栽培することで財政再建を試みた。しかしその反面で厳しい政策が行なわれ、それまでの借金を全て棒引き、藩札の使用禁止、厳しい倹約令、村役人などの特権行使の停止、年貢の徴収を四公六民から七公三民にするなどとした。これらの倹約、引き締め政策を踏まえ』、安永七(一七七八)年には防砂林事業を完成させ、天明五(一七八五)年には佐陀川の治水事業も完了、『これらの政策で藩の財政改革は成功した。これにより空、になっていた藩の金蔵に多くの金が蓄えられたと言われる』。『ただし、財政が再建されて潤った後、茶人としての才能に優れていた治郷は』、千五百両もする天下の大名物「油屋肩衝(あぶらやかたつき)」(漢作唐物の肩衝の茶入れ〈「肩衝」は肩の部分が角ばっている形をいう〉で、名は堺の町人油屋常言(じょうごん)とその子常祐(じょうゆう)が所持したところからこの名がある。現在、畠山記念館蔵。ここは個人サイト「茶の湯の楽しみ」の茶道用語集を参照した)を初め、三百両から二千両もする茶器を『多く購入するなど散財した。このため、藩の財政は再び一気に悪化した』。これについては、実はこうした改革自体は主に家老朝日茂保の主導による功績であって、治郷は政治に口出ししなかったことに起因すると記す。文化三年三月に『家督を長男の斉恒に譲って隠居』して不昧と号し、茶道不昧派の祖となった(この最後の部分は底本の鈴木氏注によって補った)。「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であるから、この話柄は凡そその二年の閉区間のホットな話ということになる。
・「千蔭」国学者で歌人・書家としても知られた加藤千蔭(享保二〇(一七三五)年~文化五(一八〇八)年九月二日)。本姓を橘氏とすることから橘千蔭とも称する。参照したウィキの「加藤千蔭」によれば、歌人で江戸町奉行の与力であった父加藤枝直(えなお)の後を継いで、『吟味役となったが、寛政の改革にあたり』、天明八(一七八八)年に『町奉行与力を辞し、学芸に専念した』。『若くして諸芸を学んだが、特に国学を賀茂真淵に学び、退隠後、師真淵の業を受け継ぎ、同じく真淵の弟子であった本居宣長の協力を得て『万葉集略解』を著した』。『和歌については、千蔭の歌風は『古今和歌集』前後の時期の和歌を理想とする高調典雅なもので、村田春海と並び称され、歌道の発展に大きく貢献し、万葉学の重鎮として慕われた』。『また書にも秀で、松花堂昭乗にならい和様書家として一家をなし、仮名書の法帖を数多く出版した。しばしば、江戸琳派の絵師酒井抱一の作品に賛を寄せて』おり、『絵は、はじめ建部綾足に漢画を学んだが、その後大和絵風の絵画に転じた』とある。前注で述べた通り、「卷之八」の執筆推定下限は文化五年夏であるから、彼の逝去前後に本章は書かれた可能性が高いということになる。
・「かくなれば硯の海をすみかにて雲井をわたるたつぞあやしき」「かく」は「斯く」に、墨で「書く」・絵を「描く」・讃を「書く」を掛け、「すみか」には「棲処」の「すみ」と「墨」を掛け、「雲井」は下の「たつ」で「雲井起つ」(雲が湧き上がる)を導くとともに「龍(たつ)」を掛けて引き出している。狂歌の類いである。
・「(硯の海の歌を)」底本には右に『(專經閣本)』によって補った旨の傍注があるが、これは寧ろ、ない方がよい。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も『といへる事を以(もつて)尋しに』である。現代語訳では排除した。
■やぶちゃん現代語訳
硯の中の龍の事
世に絵を描いたものの中に、硯の内より龍が出ずるを描けるものが、これ、多くある。
ある人の語ったことには、
――屋代弘賢(こうけん)殿が松平出羽守治郷(はるさと)殿の隠居であられた不昧(ふまい)の館(やかた)へ参った折り、話の序でに、この硯中(けんちゅう)の龍のことに及んだと申す。
弘賢殿が、
「これは中国のことで御座いますか、はたまた、本邦でのことで御座いますか、これ、確かなその故事については、拙者、見し覚え、これ、御座いませぬが……」
と申し上げたところが、不昧公は、
「……みどもは、よう、知らぬ。……しかし、そうした昇り龍を描いた絵に橘千蔭(たちばなのちかげ)が讃して詠んだ和歌を記したるもの、これ、見たことがあるによって、千蔭ならば、何か知っておるかも知れん。」
との仰せで御座った由。
その後、弘賢殿が調べてみると、千蔭の歌に、
かくなれば硯の海をすみかにて雲井をわたるたつぞあやしき
と申す和歌があったによって、後日、直接、千蔭を訪ね、硯の昇り龍の謂われを訊いたところが、千蔭が答えたことには、
「……実は……我らもその故事につきては、これ、よぅ存じませぬ。……かくも硯より龍の昇れる絵があって、それに讃を書けと、さる御仁から執拗に求め責められましたによって……これ、仕方のぅ、詠みましたる戯れ歌にて御座いまして……。」
と、如何にも申し訳なさそうに弁解致いたと申す。
もっとも、戦国の世の大阪方の中村豊前守とか申す者の子孫が編んだとか申す、「奇異雑談集(きいっぞうだんしゅう)という書に、小さなる硯の海に龍が蟄居致いておったものが出でて昇天致いたをつぶさに見たと語られてある、とのことで御座る。――
□参考「奇異雑談集」より
[やぶちゃん注:底本は岩波文庫一九八九年刊高田衛編・校注「江戸怪談集 上」を用いたが、恣意的に正字化し、読みは歴史的仮名遣に直し、私の判断で増やした。「竜」は字形が嫌いなので「龍」とした。〔 〕は割注)。後に簡単な語注を附したが、その幾つかは同底本にある高田氏のものを参考にしてある。]
硯われて龍の子出で天上せし事
武藏の國の人語りていはく、武藏に金河(かねがは)の宿と云ふ大所(おほどころ)あり。國の兵亂に滅却して、今は亡びしなり。昔、金河全盛のとき、禪宗の寺あり〔寺號忘却〕。僧廿人ばかり、沙渇(しやかつ)あり。寺の靈寶に硯一面あり。水常に湧き出でて、よきほどにしてあり。奇特なる硯といふて、昔より祕藏の靈寶なり。
ある年の夏のころ、方丈廣く開け通し、書院の押板に、かの硯を置き、前の障子を開けて、長老、侍者、沙彌(しやみ)、喝食(かつしき)等、數人座敷にゐて涼むに、午(うま)の時ばかりに、人も近づかざるに、かの硯割るる音して、二つに割れて、一、二分(ぶ)離れ退くなり。みな人立つて見れば、硯の中ほど豎(たて)にわれて蟲出でたり。栗蟲(くりむし)の如くにして、二分ばかりなるが板の上にあり、水もこぼれて板の上にあり。沙彌喝食この蟲を殺さんとす。長老制して、「殺すべからず」といふて、扇の上へはねのせて、庭の蓮池に投げ入るるなり。沙喝等庭におりて、池にのぞみみれば、かのむし水中にて屈伸(かがみのびつ)すれば、見る見る大になる。五寸になり一尺になり、すでに三、四尺になりて、勢ひ恐しきゆへに、みな逃れさつて一座敷に居れば、晴れたる空、にはかに曇り、黑雲(くろくも)くだりて、蓮池の水騷ぐゆへに、長老、僧衆みな逃げされば、電雷庭におちて、鳴動し、黑雲寺中におほふ。
他郷には寺燒くると見て、人みな走りきたれば、寺衆門外に有りて、肝を消し迷惑して、雲雷落ちたるゆゑを語る。數刻あつて、雲中に龍の頭見え隱れ、雲天にのぼれば、龍の手足見え、あるひは尾の先、時々見えて昇りゆく。遙かにあがりて見えず。寺中雲晴れたるゆへに、人みな寺にかへり、方丈の庭をみれば、石木も池水もみだれはて、荒田を耕すがごとし。淤泥(どろ)、垣につき、座に入る。方々にちり正體もなくなりて、客殿の垣も破るるなり。
漸々(やうやう)とり靜まつて、かの硯を見れば、そのままあり、以後は水出でず。割れ目そのまま置きて、蟲の出でたる跡を人に見するなり。
古老の人のいはく、「およそ龍子は海に千年、山に千年、里に千年、三千年すぎて、龍となりて天に上ると云ひ傳へたり。知(しん)ぬ海底の石に、龍子自然に生まれて、千年すぎて、その石山に在ること。千年の後又里にある事、千年の内に、此の石を硯にきる時、龍子その中興にあたる。奇異不思議なり。たとへば六條の道場歡喜光寺の靈寶、箸木の名號のごとく也」。
□やぶちゃん注
●「金河」神奈川。現在の横浜市内。
●「大所」元来は勢力をもった人や大家を指すが、ここは繁華な町の謂いであろう。
●「沙渇」沙弥(しゃみ)と喝食(かっしき:禅寺の稚児のこと)。
●「奇特なる」不思議な。
●「押板」書院の床の間。
●「午の時」正午頃。
●「一、二分」三~六ミリメートル。
●「栗蟲」栗に産卵し、内部から蚕食する鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ゾウムシ上科ミツギリゾウムシ科クリシギゾウムシ Curculio sikkimensis 。
●「淤泥(どろ)」二字で「どろ」と読んでいる。音は「オデイ」で溝や池に溜まった汚泥のこと。
●「中興」底本注に、『ここでは、中心、の意』とある。
●「歡喜光寺」底本注に、『一遍上人の従弟聖戒上人開祖の時宗道場。六条河原にあり紫苔山河原院歓喜光寺といった』とある(聖戒は「しょうかい」と読む)。移転して京都市山科区に現存する。
●「箸木の名號」不詳。箸の材となる檜か檜葉(ひば=翌檜(あすなろ))の樹に「南無阿彌陀佛」の文字が自然、浮き出たものか? 識者の御教授を乞う。
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