耳嚢 巻之八 大森村奇民の事
大森村奇民の事
大森に茶漬やを渡世にせし者の子に市左衞門と云有(いふあり)。往來の遊客賤人に給仕して茶漬を商ふ事を恥(はぢ)て、右茶漬屋の株は人に讓り、聊(いささか)の田畑を調ひ百姓の業(わざ)して貧敷(まづしく)暮しける。茶事(ちやじ)を好み或は歌など讀(よみ)て、誠に泥中の小金(くがね)ともいふべきこゝろ有。人共名を聞(きき)て尋ねけるに、表の茶漬屋に賴みて、高貴の人又は心ある人の尋給はゞしらせくれべし、左(さ)もなき者尋候はゞ留守とこたへよと、かたくいましめ置(おき)ける。或人尋問(たづねとひ)ければ、彼(かの)茶漬やの脇にて差(さし)この半てんを着(ちやく)し藁を打居(うちゐ)たりしが、手ぬぐひを取(とり)、こなたへ入(いら)せ給へと案内せしが、草葺の家ながらいかにもきれいにて、爐には釜もたぎりしが、表の茶漬やより食事は取寄せ會席となし、是(これ)のみ御馳走なりとて、大き成(なる)かれいを煮て給(きふ)し、牡丹餅を菓子として薄茶を奉りしゆゑ、彼人々甚だ感心して厚く禮謝して歸りしが、炭をば彼つゞれ半てんのまゝにて斷をのべて取計(とりはから)ひ、さて後座(ござ)と云べき時は木綿の袷(あはせ)を着替(きがへ)けると也。内田近江守隱居泰山は此道に數寄(すき)なれば、是を聞て尋(たづね)しに、右の通りにてもてなしければ、泰山もことなく感じて厚(あつく)禮謝して、歌一首詠(よみ)て短册を與へける由。これは去る寅年の事にて、文化四年卯年泰山身まかりしを聞て詠(よめ)るよし、かれが認(したため)しを人の見せけるゆゑ、しるし置(おく)。
春の日のくるゝを見せぬ花のもとにけふは旅寢の宿やからなん、
とあばらやに御入りの時詠じ給ひしが、はや今年は御筆の跡のみ
殘り侍りぬ。恐ながら御追善をいとなみ申て
春の日はくるれば明るたのみあれど君が旅寢のさめぬはかなさ
田夫樗月拜
□やぶちゃん注
○前項連関:根岸が好きらしい、しばしば掲載される隠棲の数寄の奇人譚の一つ。この市左衛門樗月(ちょげつ)なる人物は不詳乍ら、如何にも羨ましき風流人ではある。こういう心静かに住みなす隠者が大都会の江戸市中にも沢山いた。そういう人々を醸成することを許す、醸成し得る、醸成出来るところの雰囲気、世界、哲学的精神的な時空間が、まだこの江戸後期にはあったということがさらに羨ましい(私は江戸の市井にあって、只管、博物学の随筆でもものしていられたら、どんなにか愉しいだろうと時々妄想することがある)。最後の追善歌も私には素直な和歌と映り、好感が持てる。
・「大森村」東京都大田区大森。東京湾に臨み、古くから農業と漁業(特に海苔)の盛んな地域で、品川宿と川崎宿を結ぶ東海道の街道沿いの村落として賑わった(ウィキの「大森」に拠る)。
・「泥中の小金」底本では「小金」の右に『(黄金)』と補注するので、敢えて「くがね」と読んでおいた。
・「差この半てん」刺子の袢纏。綿布を重ね合わせて一針抜きに細かく刺し縫いにした半纏(半天とも書く。羽織に似ているが、わきに襠(まち)を作らない丈の短い上着。胸紐を附けず、襟を折り返さないで着る。仕事着や防寒着とした他、火消しの法被(はっぴ)などに用いられた。
・「會席」会席料理であるがここは現在の意味としては懐石料理に近い。ウィキの「会席料理」によれば、『会席料理は宴席に供される料理である。本膳料理が廃れた現在、日本料理に於いては、儀式などで出される最も正統な料理形式である。会席とはもともと連歌や俳諧の席のことであり、呼称の似た「懐石料理」と混同されがちだが、ルーツは同じであるものの、近世以降は明確に区別されている。懐石料理は茶を楽しむためのものだが、会席料理は酒を楽しむためのものである。江戸時代には会席が料理茶屋(りょうりぢゃや)で行われるようになり、酒席向きの料理が工夫されるようになった』とある。但し、狭義の「懐石」の原義から見れば、茶漬け屋からの仕出しで、しかも大きな鰈の煮付けとでんとした牡丹餅とあるからには、これ、「懐石料理」というより、やはり正しく「会席料理」というべきか。そのまま後座のそれに早変わりするという、私のような酒好きにはなかなか粋な趣向である。
・「菓子」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『茶子(ちやのこ)』であるが、これも茶菓子の意。
・「後座」茶の湯で、茶事が一通り済んだ後に別室で客に酒肴を出してもてなすこと。
・「内田近江守隱居泰山」底本の鈴木氏注に、『正良。享保十五年生。下総国小見川で一万石。主殿頭、天明二年致仕、泰山と号す。伊勢守はその子正純』とある。同人のウィキには、内田正良(享保一五(一七三〇)年~文化四(一八〇七)年)は下総小見川藩第三代藩主で小見川藩内田家第六代。官位は従五位下・主殿頭(とのものかみ)・近江守。『内田氏の分家である内田正記の次男として生まれる。はじめ同じ分家の内田正伝の養子となっていたが』、宝暦三(一七五三)年に『本家の藩主・内田正美が早世したため、その養子となって跡を継いだ』。同年十二月に叙任、宝暦八(一七五八)年、大坂加番となり、天明二(一七八二)年に長男正純に家督を譲って隠居、文化四年十月十二日に享年七十八で逝去した、とある。「卷之八」の執筆推定下限は文化五(一八〇八)年夏であり、本文に「去る寅年の事」とあるから、ここに記された泰山の訪問は遡る二年前の文化三年丙寅(ひのえとら)の出来事であったことが分かり、しかも泰山追善の和歌吟詠は文化四年十月十二日以降で、しかも和歌前書に「はや今年は」とあって、和歌がまた「春の日は」とあることから(調べてみると文化五年の立春は一月に入ってすぐ)、このエピソード全体は記載半年程前の非常にホットな内容であったことも判明するのである。因みに岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、この「去る寅年の事」の部分が『去々寅年の事』となっていて、本話の執筆が極めて正確に文化五年のことであったことも逆算出来るのである。
・「春の日のくるゝを見せぬ花のもとにけふは旅寢の宿やからなん、とあばらやに御入りの時詠じ給ひしが、はや今年は御筆の跡のみ殘り侍りぬ。恐ながら御追善をいとなみ申て」和歌は訳すに及ぶまい。しかしこれは和歌だけを取り出して黙って並べたならば、相聞に見紛う。和歌嫌いの私でも、すこぶる附きで好きである。
春の日の暮るるを見せぬ花の下に今日は旅寝の宿や借らなむ
――と我らが茅屋にお入り遊ばされた折り、忝くも御詠じ遊ばされた――しかし早や、今年は、殿の御筆の跡のみの残って――殿は白玉楼中の人となられました。畏れ乍ら、御追善を営み申し上げて一首――
春の日は暮るれば明くる頼みあれど君が旅寝の醒めぬ儚さ
田夫樗月拝
■やぶちゃん現代語訳
大森村の数寄(すき)の奇人の事
大森に茶漬け屋を渡世致いて御座った者の子(こぉ)に市左衛門と申す者があった。
往来を行き交(こ)う旅人や民草に給仕など致いて御座ったれど、ある時、かくも賤しき茶漬けなぞを商うことを恥じ、その茶漬け屋の権利は人に譲って、僅かばかりの狭き田畑を、かの茶漬け屋の裏方へ購(あがな)って、そこに己れの食い扶持ばかり、百姓の業(わざ)をなしては貧しく暮して御座ったと申す。
されどこの市左衛門、殊の外、茶事(ちゃじ)を好み、或いはまた、独学乍らも和歌なども詠みて、まことに――泥中の黄金(くがね)――とも申すべき数寄の心の持ち主で御座った。
その名を噂に聴きつけ、多くの人どもが彼を尋ねて参ったれど、市左衛門は表の茶漬け屋に、
「――高貴の御仁――或いは心あらん人の、これ、尋ね給はば、お知らせ下され。――また――そのようにも見えざる――噂好みのただの物見の御方の――これ、尋ねて御座ったならば――屹度――留守と――お応えあれかし。よろしいかな。」
と、堅く言い添えて頼みおいたとも申す。
さて、とある数寄の御仁らが、この市左衛門を訪ねてみたところが、市左衛門は、かの茶漬け屋の脇の空き地にて、刺子の袢纏を着、藁を打ちおったれど、この御仁らの風体を見るや、即座に被って御座った手拭いをとり、
「――さても、こちらへ――入らせ給へ――」
と案内(あない)致いた。
そこは茶漬け屋の直近に建ったる草葺きの家乍ら、如何にも小綺麗に住みなし、爐には既にして茶の釜も滾(たぎ)って御座った。
市左衛門、表の茶漬け屋に声を掛け、そこより食事を取り寄せて会席の饗応となし、
「――いや、もう、こればかりが馳走で御座る――」
と、これ、大きなる鰈(かれい)を煮たを一座に給(きゅう)し、また、大きなる牡丹餅(ぼたもち)をば茶菓子となし、薄茶をたてて、各人に奉ったによって、かの数寄の客人らもはなはだ感心致いて、厚く礼謝して帰ったと申す。
なお、その茶席にては、炭をば、
「――かくも粗末なる綴れ袢纏のままにて失礼仕りまする――」
と接いで、いとも静かに茶事取り計らい、さて、後座(ござ)ともなれば、質素乍らも清き木綿の袷(あわせ)に着替えなして饗応致いたとも申す。
さても、かの内田近江守正良殿――泰山と号され、その折りには既に隠居なさっておられたが――は茶の湯の道、これ、數寄(すき)の御仁であられたが、この市左衛門がことをお聞き遊ばされ、わざわざ自らお訪ねになられたと申す。
すると、噂に違わず、まさにその通りのもてなしをし申し上げたによって、泰山殿も殊の外、感銘なされ、手厚き礼謝をなした上、和歌一首をお詠み遊ばされ、短冊をお与えになられたと申す。
この泰山殿御訪問の儀は、さる二年前の寅年のことで御座って、昨文化四年卯年の十月、泰山殿が身罷られたが、市左衛門、これを承って、悼亡の一首を詠み奉ったと申す。
市左衛門自身が認(したため)たものを、人の見せて呉れたによって、以下に記しおくことと致す。
春の日のくるるを見せぬ花のもとにけふは旅寝の宿やからなん、
とあばらやに御入りの時詠じ給ひしが、はや今年は御筆の跡のみ
残り侍りぬ。恐ながら御追善をいとなみ申して
春の日はくるれば明くるたのみあれど君が旅寝のさめぬはかなさ
田夫樗月拝
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